2023.12.16up / 2023.12.19update Back

田中克己日記 1987


【昭和62年】

 この年の出来事

1月、大高OB金沢良雄逝去(6日)。
1月、成城大学元同僚で『四季』同人の高田瑞穂逝去(10日)。
1月、紀要論文「清初の十王」完成せず発表断念。
1月、,2月、川久保悌郎来訪。
2月、『四季』終刊と決す。
2月、肥下恒夫の戦前旧宅を探し回り果たさず。
2月、夫人に離婚や老人ホームでの別居を申し立てたりする。
2月、『四季』同人河村純一逝去(25日)。
2月、近江詩人会へ脱退を申し出る。
3月、『四季(11号 終刊号)』200冊発行。(橋本保印刷:印刷代金12万9千円)
3月、東京女子医大にて診察。パーキンソン病の兆候を認む。
3月、川久保悌郎を成田東の自宅に訪問。4月、来訪。
4月、『四季』終刊に伴ひ、会員中嶋康博らの『季(関西四季の会)』への入会斡旋を杉山平一に依頼。
5月、川久保悌郎を訪問。
5月、三火会に出席。
5月、『四季』同人植村清二逝去(27日)。
6月、足を負傷。躁はなはだしく夫人日記を代筆す。
6月、北区旧宅を探し回り果たさず、井の頭線吉祥寺駅にて保護される。
6月、川久保悌郎を訪問、来訪。諄々と諭さる。
7月、彦根より藤野一雄来訪。
8月、山住医院長男死去。しばらく塩入医院より投薬を受く。
9月、南川正純来訪。
10月、高橋重臣来訪。
11月、川久保悌郎来訪。その後入院、一時面会謝絶となる。
11月、夫人と塩山温泉広友館に一泊。
11月、東洋文庫にて東洋談話会に出席。
12月、[川久保悌郎を見舞]。
12月、継母静江入院。

中嶋康博【詩人田中克己回想】
 1月 1日〜 8月29日【75冊目】
25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き


1月1日
6:00起床。天気予報晴と。7:00ユ、氷買ひにゆく。『コギト(※原本)』2人でもちて大宅にゆく。重し。
静江母、元気にて食ひ物もわが家よりあり。11:00出て帰り来る。
行く前すでに賀状200枚以上来てをり。あす返事かかん。

1月2日
7:30起床。年賀状の返事5−6枚かきしのみ。
13:00孝行来り、13:30克次朗来り、15:30稲田哲夫、健太郎、禎子2児つれ来り「京ケガして来られず」と。
小林夫婦来り、史夫婦2児つれ来る。我、honey wineのみ、小林、稲田とも少しのむ。
19:00史一家出、ついで小林、稲田と帰りゆく。われ入浴してをり挨拶す。

1月3日
よべ不眠、6:00起床。賀状の返事かき10:00投函。またかけば20通ばかり来り、
大藤名誉教授より「ツングース語はロシア語か」と。呆れて物もいへず、やむを得ずかく。
ただし満洲族はGoldi以外みな山東訛の華語話せしと我思ふ(康熙以後)。

1月4日(日)
7:00さむ。小林高四郎氏、死と新聞に見ゆ。ユ、風邪とてわれ1人礼拝にゆく。
清水さんなど見えず。2:30昼食。賀状の返事かき疲る。

1月5日
よべ不眠、6:30起床。11:00ユ、戸田画伯へ新年の挨拶にゆきしもやめて帰り来る。
われ賀状の返事で疲る。

1月6日
6:30起床。10:00すぎ山住dr.、血圧110-75。眠剤かへてもらふ。
ユ、戸田画伯へゆく。15:00、ハガキ買ひかたがた山住dr.にゆけば先生風邪と。
栗山博士(※栗山理一)より年賀葉書3通来る!
19:30中野清見夫人に岩手の病院の電話番号きけば「しらべる」と返事あり、
つひにかからず。(※金沢良雄逝去。新聞訃報欄貼付)

1月7日
よべ不眠、6:30起床。朝食後、川久保に電話すれば金沢良雄の死を知らず、
お通夜にさそへば鎌倉の叔母の式後、誘ひに来ると。(※省略)
金沢の家探しに出、45分探しあぐねて帰宅。

1月8日(※14:00-16:30 『コギト』12-15借用。)
7:30起床。川久保、昨夜金沢家へゆけば一族のみのお通夜なりしと。
岩崎昭弥より「同人費送った。詩は書けず」と。
中島君14:00来り、ユ、母のところへ弓子とゆく。中島君『コギト(※復刻)』もちて16:30去り、
ユ17:00帰宅。けふ賀状数枚来る。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇大阪におけるコギトの会で、誰一人詩の話をする者がなく伊東静雄が怒ってゐた話。
「コギトの詩人なかなかよろしい」と年賀状の残りに書いて来て、訪ねて行って玄関先で話をした。中に招じてもらへなかったがその後、妹さんが勤め先の中学に意味もなく訪ねて来るので困った由。
この辺りから折合ひが悪くなったものらしい。
〇『四季』を11号で終刊にする旨。淺野晃氏は全詩集を出してしまひ、
他に書いて欲しい人は音沙汰なく、『四季』はどうなったのか問合せに嫌になってしまった由。
〇夫人が本日届いた年賀状を持って来られ「栗山さんから4枚目が」と笑ってをられた。



1月9日
よべ不眠、6:00まへ起床。8:30朝食、ユ、志木市の友の葬式にと出てゆく。

1月10日
8:30起床。13:00瀬見氏来り14:00まで雑談。ユ、戸田画伯にゆく。立原の弟より賀状。返事かく。
(※高田瑞穂逝去。76才。新聞訃報欄貼付)

1月11日(日)
よべ不眠、礼拝にゆかず。ユ12:35帰り来る。
15:00丸重俊来り、ユと問答し酒喜びてもちゆく。18:00ユ、夕食の支度す。

1月12日
0:00ね、7:30起床。9:30ユ、山住dr.にゆき、我あとにゆき不眠いへば、あまり心配したまはず。
藤野一雄より詩来る。下手なり。
(美紀子、明大前までhyreで夫婦を運んでくれると電話あり)。
20:00ユをして美紀子の迎へをことわらしむ。

1月13日(※『コギト』返却、『四季』原稿の詩、3篇削って提出。)
よべ2度尿に起き7:30起床。11:00出て高田瑞穂の葬式にゆく。
焼香となり出て築島博士(※築島謙三)の焼香まちtaxiにて新宿。昼食おごられcaféおごり、われは紅茶(1,000)。
2:25南阿佐谷にかへれば中島君来り、詩を直してゆく。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇丁度高田さんの葬儀から帰ってこられたところ。
〇継母に告口をされ酔った父親によく殴られた。おかげで食事を楽しむ習慣がつかず食も細くなったのではないかと。


1月14日
7:00まで不眠、宮崎幸三氏より「図書集成」見たと礼状。

1月15日
7:00起床。(よべ22:30ねる)。成人の日とて〒も休む。

1月16日
よべねられず。7:00起床。(※省略) 羽衣の山口トミ嫗より87才!
17:00川久保、東洋文庫の帰途寄り明日金沢の本葬にゆくと。高田瑞穂の死は知らざりし。

1月17日
よべ20:00まへねて7:00さむ。中国の胡総書記止む、72才と。
われも『四季』やめん。高松夫人より電話「田中秀子死した」と大阪より。
3:30ユ画にゆく。木原信輔(※高田瑞穂ペンネーム)『冬眠帖』見る。下手なり(昭和45年発行)。
苦心して湯わかし入浴す。ユ帰り来り角力見れば北の富士2敗。
(※省略) ユ、「福地君にあつとぎたのめ」と。

1月18日(日)
よべ不眠、4:00起床。6:30より7:00前まで一寸眠る。朝食よしてユ礼拝にゆく。
10:30京より「15:00-15:30来る」と電話、17:00京母子3人来り夕食す。18:20退去。
福地(※邦樹)君に『四季』発行者にならずやとハガキかき投函す。

1月19日
7:00さむ。30分眠りし也。8:00まへにさめ朝食。10:00駅前〒にゆき大高同窓会費(3,000)払ふ。
(※省略)午食後、13:00高田瑞穂追悼の辞かく。13:30『四季』編輯了る。
ユ13:40〒へ書留出しにゆく。

1月20日
20:00就寝、4:00と6:00放尿に起く。
11:00「保田與重郎につき4-5枚かけ」と新論社より電話、応諾す。
ユ14:30戸田氏の代講と出てゆく。大野沢君より不明の処はフィンランドとデンマークの地名人名と。
水道止まる。18:00水道出る。19:00入浴。けふ大寒と。

1月21日
よべ不眠(ユに言はせれば眠りしと)。8:30起床。11:30便秘にて苦しむ。
成城大学より10万円寄附の受取り来る。けふは寒し。
「清初の十王」かくことと決心。19:15入浴。

1月22日
よべ不眠8:30起床。睡眠感なきに非ずやと思ふ。午食後、散歩。(※省略)角力面白し。

1月23日
よべ眠れず、けさ2-3時間眠りしとユの話。8:00起床。弓子来る。(※省略)
サンケイ新聞正論係稲垣眞澄氏より2月10日までに「保田のこと400×4」かけと。
野田英二郎氏インド大使、69才と。

1月24日
よべもねつき悪く、朝方眠りしとユの話。8:00覚む。山住dr.にVitamin剤もらひにゆけばユ、すでにもち去りしと。
午后ユ、戸田画伯の代理となり水彩の指導にゆく。
(山住教授より岩波新書『日本教育小史』もらふ)

1月25日(日)
8:30さめ(よべ眠れず朝かに眠る)、ユ礼拝にゆく。
15:00南川より電話、『四季』のこといへば「つづけよ」と。

1月26日(※14:00-17:00。)
よべ20:00臥床、9:00まで眠る1:30山住dr.。
12:00中島君「けふ来て宜しきや」と。「用なけれど来てよし」といへば「14:00来る」と。
中島君14:30来り、ユ母へとゆく。17:00近く中島君去る。
ユ帰来、きけば我「11号にて止め」といひしと。入れちがひに福地君よりの手紙来り
、「止め」を掲げよと。12号はやることとす。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇この度の『四季』に大木実さんに声を掛けなかったことを今更に後悔の様子。
また堀多恵さんを通じて方々の不満も聞いてをり、自身の了見の狭さゆゑであると反省の由。



1月27日
よべ不眠、8:00起床。14:00すぎ咲耶来り、息子のこといひて「15:00新宿にて会ふ人あり」と出てゆく。
成城学園より「31日が締切」との手紙来る。「清初の十王」とせん。

1月28日
8:30起床。エーズさはぎ(※AIDS騒ぎ)。朝食すみ「清初の十王」かく。
『五十嵐達六郎――人と業績』着きよむ。村山高さんも書きをり、野田又夫博士会談す。

1月29日
よべ22:00就寝、7:20起床。衛藤瀋吉長老、亜細亜大学学長となりしと新聞に見ゆ。

1月30日
よべ睡眠感なく8:00起床。朝食すます。ユ外出。(※省略)
われ「清初の十王」の本文かき了へ注かくこととす。本文は200字×10。
桑原博士の如く注をくはしくせんとす。14:00出て高円寺へ散髪にゆく。
すいてゐて気持よし。石山直一氏より詩来る。
夜、註できず、発表あきらめる。22:00就寝。

1月31日 2:00前起床。10:00ユ、出てゆく。11:15関口家より香典返しの茶。

2月1日(日)
夫婦にて久しぶりに礼拝出席。わが作りし605歌はれてたのし。
中野清見いかがなりしや、岩手青森ともに自民色強ければ退けられ病気となりしと思ふも夫人より何の便りもなく見送ることとす。
石山直一氏へはあす信送ることとす。(※『四季』)12号いかがにや。

2月2日
2月3日
河野夫人3階に住む3回生つれて15:00来る。肺癌にて高松宮逝去。82才と。

2月4日
比島でAquino大統領国民投票で圧倒的多数とる。

2月5日
丸宅へゆけば夫人迎へてくれ中野清見の話。『四季』けふも来ず。
夜、televiにて井伏鱒二見る。88才飄々たり。中島健蔵の仲間かと思ひしも春夫先生の弟子なりしなり。
(中村地平を思ふ。北町一郎はつまらぬ男と知る。)

2月6日 エイズの女性患者1人神戸で発見され大騒ぎとなる。

2月7日
中野清見、現在岩手県立中央病院入院中と。西川に報ず。
福地に電話すれば「(『四季』11号)初校まだ出ず。再校送る故、廃刊かきそへよ」と。賛成し、費用は我負担と決定。

2月8日(日)
午后小林の孝行と克次朗来り日暮れまでをり。保田の伝記かけず。

2月9日
『四季』終刊ときめる。
昔の日記よみ返し都留・麝島の結婚の仲人となりしこと思ひ出す。
父の友、植田安世子逝去と。televiにて貝塚茂樹博士逝去と。
夜、野田又夫博士のエッセーひるがへし「コギト」派のことかき皆死に我のみ残りしと思ふ。

2月10日
よべ不眠、保田のこと一部始終思ひ出せし也。10:00電話かかり「書けぬか」と、ユに「かけず」と答へしむ。(※省略)
(※日記にて)われ御岳の麓へ蘇東坡かきにゆきし年のこと見る。18:00京母子来り、泊ると也。

2月11日
『四季』11号の校正来り、わが後記長すぎ書き直して福地君に再校たのむとわが原稿短くし39pageとする。値段も300円200冊、福地君に20冊とす。

2月12日
『日本浪曼派』予告に中島栄次郎かつがれしも保田の「政治上処置」にて一度もかかざりしこと太宰治と同じ。

2月13日
昨日は日本の憲法記念日にて騒がしく、中国は旧暦の元日にてこれも騒がし。吉凶所を変へたり。

2月14日
津村夫人より『北信濃の歌』来あり、ユ柏井へ歯にてゆく間に読み了る。鈴木亨(先生!)解説と、
年譜も鈴木の筆にて『西康省』、『南の星』の刊年記す。

2月15日(日)
夫婦とも礼拝休む。

2月16日
日記よみ返す。11:00出て散歩、大和町の肥下旧宅を探せしもわからず、仙蔵院探せば宝蔵院に突き当たりbus道路に出。
佐伯へ寄りしに本売る男あり、店主我に気づかざる故逃げ出して帰宅。
『東洋学報』68-1.2来をり、これにて学会を退会せん。
日記よみ返し昭和28年5月28日わざわざ堀夫人より電報で(※堀辰雄逝去)通知受けお花料1,000円出せしと(29日)。
堀夫人と津村夫人とに手紙かくこととす。
(西川満、女につれられて散歩するに会ふ。足不自由にて80才と。「汝も不自由」とわがステッキ指す)。

2月17日
西川(※西川英夫)に電話すれば「中野清見近日退院」と。堀夫人と津村夫人とに便りかけず。

2月18日
よべも不眠。ユに離婚申し出づ。一寸眠りて譏嫌よくなる。(※省略) 日記よみ返し、中々苦労させし田中一家に苦笑す。

2月19日
午すぎて日記よみ返し色々のこと隠しゐるに気づく。高円寺に老人ホームあり別居せんと20:00云ひ出し、ユ承知す。
福地君に電話すれば「あすあたり再校出て28日には配れん」と。みな楽観的なり。

2月20日
中島君より電話、ユをして「(※まだ)『四季』出来ず、来ざれ」といはす。
終日昔の日記よむ。恋愛初期(※『夜光雲』第7巻)焼きしとてなし。

2月21日 日記よむ。午睡17:00さめ5:00と誤解す。(※省略)

2月22日(日)
礼拝にゆかずといひユ9:00でてゆく。10:10電話かかりしも出ず。日記よむ。12:17呼鈴、出ず。

2月23日
山住dr.。3.2文芸学部の会と、ゆかずと定む。(けふも『四季』来ず)。

2月24日
ユ出てゆく、母入院一日にて10,690円と。ユキ子反抗的なり。花井夫人より電話、大阪の母上逝去と。

2月25日
9:50藤野君より電話河村dr.(※河村純一)逝去と。ユに香料1万円と弔電とをたのむ。
14:40出て野方より中野まで歩きしも大和町の肥下宅見当らず。
16:00帰り来れば同じく風邪にて河北病院へゆきしとふ川久保、ユと立ちをり、話さず入室す。
用なく(病気とのことなりし)、『けんぶん6(※研文出版広告)』来り、
わが『蘇東坡』、『中国の自然と民俗』ともに売れ残りあり。不快。鼻汁出る。

2月26日
夜、津留の送別会ことわり、近江詩人会へ(名誉)同人脱退をハガキかく。(※藤野一雄氏宛)

2月27日
夜、橋本保印刷へ電話、話中なりし故、
福地に電話すれば20冊みな知人にやりし(伊東夫人を含む)。われの精算説に同意せず。

2月28日
ユ13:00すぎ母の処へゆく。西島寿賀子来をり、弟分教会長死せしと。

3月1日(日)
礼拝休む。20:00ユをして橋本保氏に電話すれば不在。福地邦樹君も同じ。「あす中島君来る」と電話あり。

3月2日(※13:30-18:30 夕食御馳走になる。)
8:10起床。ユ、9:40出て都留に選別1万円送り、山住dr.へVitamin貰ひにゆく。
石山直一氏の詩2月28日来り、そのあと廃刊ときめる(但し印刷所に11号原稿せしは11日なりし也)。
13:00中島君来り『四季』11号の送り先の袋を16:30までかきつづけ、飯みな食ひて来週月曜来る予定といひて去る。
19:30大阪毎日より電話「帝塚山時代のこといへ」と。「いふことなし」と答へてすむ。21:30灌湯了る。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇南方派遣の際の話。神保光太郎と中島健蔵とに関する話(※北川冬彦『悪夢』に詳述)。



3月3日
高田一族満中陰すませしとのことに1万円を4子に送ることとす。

3月4日
ユ11:00塩入医院へ先生診察の日ききにゆく。神経性不眠症の療法きかんと也。
橋本保印刷の夫人「あす早く主人いつ出来るや返事す」と。

3月5日 よべ不眠。無為。

3月6日
よべ不眠。山住dr.に再度たのみ親友の女dr.を紹介すと也しも遂に書届かず。
18:00福地君より本日『四季』11号出来と電話あり。

3月7日
昨夜はよく眠る。山住dr.より親友(女子医大神経科田村敦子教授)への紹介状昨日賜りしと。『四季』200冊来る。

3月8日(日)
(※日付に間違ひあり訂正。礼拝等の記事見当たらず。)



3月9日(※13:30-17:00 『四季』4冊、『悲歌』借用、『四季』11号出来上がり。)
よべ21:00眠り9:00さめ10:00朝食。
13:00花井夫人の代りに中島君来り、封筒みなかき呉る(同人、高田一族をのぞく)。
中に高田一族はじめ、同人あての手紙を全部中島君入れくれ、会員として(※誌面の)半ばその詩を以てす(11号)。
10号家になく花井夫人に電話せしむれば子らのため3冊あり何とかせんと(吾家に一部もなし)。
斎藤医院に4回入院。うち一日は小金井、塩入医院に入院(49年1ケ月)、
その後山住dr.にかかる(不眠症)。(※日付に間違ひあり訂正。)

3月10日
よく眠り、12:00までひるねす。
東京女子医大へユとともにゆき田村女医よりパーキンソン病の疑ひありといはる。松本善海の病なり。

3月11日
13:00川久保にゆく。元気にて夫人もお茶菓子出してくれる。13:30退出。

3月12日
京午後母に会ひに来ると。中島君11号の表書きかいてくれ(7,000ユ返せしと)
中島君13:00より、京母子つれて来り、15:00までゐる。
禎子退屈して帰りし也。16:00山住dr.にパーキンソン病云々の書渡す。

3月13日
よべ20:00就寝7:00覚める。眠し。ユに高田君の4子女に7,500を返金せしむ。(※省略)
ユ、〒へ『四季』またもちゆく。『老人のボケ』をよむ。我に症状あり。

3月14日
田村dr.の薬のまず9:00まで眠る。朝食後11:30ユ山住dr.に報告にゆく。(※省略)
午后小高根太郎氏に1万円返却。野田又夫、田中久夫にも状かき返金す。
前川門下橋本高之氏の『改版白一華』賜はる。

3月15日(日)
夫婦とも礼拝休む。14:00高円寺の散髪店へゆき10枚の券わたし手紙もらふ。(※不詳)

3月16日
弓子12:20来る。南川正純へ10冊送り7,000返送。
ユ、野田、小高根太郎、石山の3先輩に『四季』送り1万円もらひしを返しにゆく。

3月17日
女子医大12:00まで待たされ田村先生何もいはれず。薬もらへば山住dr.のと同じ。
20:00前植村先生より「『四季』なくなりて残念」と。

3月18日
『四季』廃刊につき福地、中山正子夫人などへハガキかきあやまる。

3月19日
杉山平一氏へ『四季』11号3冊送る。4,000もらひし也。ユ12:00前、上野の戸田みつぎ女史の会へと出発。
午后都留純也君より5千円来る。少しは旅費としてとってくれし也。ユ16:00帰宅。
孫どものこと便りなし。夕食の頃電話すれば正子は早稲田教育学部、淳一は名古屋と慶応のどちらかと。

3月20日
12:00京、禎子つれて来る。
14:30ユ京らと共に堀夫人に『四季』とどければ15:15高橋重臣君筑波より1万円届け来る。
高知の橋本福美氏、その父の高次氏の遺稿届けらる。早速礼状かく。

3月21日
11:00美紀子2女(KO大)つれ来る。午食、今井翠姉宅へとゆく。
杉山平一君、中島君の詩をわが作かと福地君に問ひし由。
高橋重臣君よりお見舞と5,000円賜ふ。今澤幸に10冊送る。

3月22日(日)
9:00すぎ出て礼拝。
津村信夫夫人昌子さんあて初枝さんの事かねて便りするつもりとなる。

3月23日 『四季』11号の代金若干。山住dr.へゆき女子医大の礼いふ。

3月24日
3月25日
京夫婦と禎子と来り、そのautoにて上川霊園にゆく。野田博士より「会はざること何年」と。

3月26日
3月27日 堀夫人より電話。

3月28日
橋本保印刷より『四季』11号の印刷代金12,9000と。14:00まへ高円寺へと出る。

3月29日(日)
礼拝に夫婦にてゆく。帰り来れば弓子来り、史夫婦と淳一来り、(※進学)祝10万円やる。(※省略)
史「帰る!」とまた云ひて帰りゆく。中島君、夜電話にて「あす来る」と。

3月30日(※14:00-19:00 『四季』のこり借用、佐藤春夫の文庫詩集賜ふ。夕食に天丼御馳走になる。)
7:00起床。橋本保印刷に12万9千円送る。送料660円。
午后、中島君来り『四季』もちゆき天丼食ひ「杉山平一氏へ連絡する」と。
老人ボケわれにも顕著なり。21:00入浴できず体拭く。石山直一氏より(※廃刊につき)問責状。

3月31日
石山直一氏へ「仕方なし」のハガキかく。(※書評)4月半が締め切といふ河村dr.の歌集『近江にて』一寸よむ。

4月1日
花井夫人来訪。『四季』の廃刊始終を語り長嬢就職祝にユ、物贈り15:30帰りゆく。(※省略)

4月2日 ユ、〒へゆく。『四季』の決算のためなり。

4月3日
昼食後出て高円寺、都丸夫人より雑書買ひて帰宅。大高より寄付依頼、次の三火会にゆき発議をきかん。

4月4日
河村博士の追悼文かいて藤野氏に送れと也。井伊家の藩医なりしか。
藤野氏『Poet’s School』送付やめると也。『ソウル実感録』よむのみ。

4月5日(日)
礼拝休む。終日無為。夜、杉山平一君に『四季』の残党を『季』に、とハガキかく。
福地邦樹も同とかく。本人たちはいかがにや。

4月6日
京2子つれ来り、静江母のところへつれゆく。
杉山平一氏に中島君ら『四季』会員を『季』に転会させよとたのむ。

4月7日
ユ11:00母のところへゆく。(※省略) ユ、松田みす子嫗に牛耳られて15:30帰宅。

4月8日
16:00川久保悌郎来訪。久しぶりにrestrantへゆき喫茶。
和田先生(※和田清)彼にも「一生を誤った」と2度いはれしと。
平凡社より『唐代詩集 上』12版4月末刊行と。

4月9日
富山の薬屋来り、ユ「忘れたかつぶれたかと思った」と。
13:30弓子、孝行つれて来る。坪井明・築島謙三2氏へハガキ。

4月10日
ユ10:30戸田画伯と銀座の地球堂ギャラリーへゆく。画の張り番なり。
我は日記よみ返す。受洗のところ廃棄してなし。(※思ひ違ひか。昭和37年12月23日に記述あり。)

4月11日
ユ絵の出品にて忙し。我は日記よみ返す。

4月12日(日)
久しぶりに礼拝。ユ戸田画伯の展覧会にて忙しげなり。
我これを促して都知事議員らの選挙にゆかせ、自らもゆく。

4月13日 10:00山住dr.、血圧125-65。

4月14日
8:00西川に電話し中野清見のこときく。
彦根の河村dr.の歌について書いてをれば高知の橋本明子氏より「父の本に『杜甫』『李白』あり小高根太郎氏と親交ありと思ふ云々」とハガキ。

4月15日
羽田へ今西のこと書きすます。橋本明子氏の父上の本見、橋本高之にて『不二』、『日本歌人』の同人たりしと。
河村純一dr.のことかけず。『四季』の歌は絶筆なりし。

4月16日
4月17日 佐伯で雑書1,000使ふ。
4月18日
高円寺散歩、阿佐谷に帰り『スピード時刻表(280)』買ひ来る。13:30ユ戸田画伯にゆく。
花井タヅ子夫人に電話。メガネのレンズ欠ける。

4月19日(日)
礼拝にゆく。眼鏡屋にゆけば「一週間まて1.3万円」と。

4月20日
4月21日
4月22日
何もする元気なくなり山住dr.。血圧115-85とわかる。坪井明に「退職めでたし」とハガキ。
佐伯のぞき吉行『女のかたち(150)』など気休めに買って来る。
4月23日 松本善海邸訪問。

4月24日
瀬見さん蜜柑子もちて来り、止めしかどきかず帰りゆく。

4月25日
築島博士に「5.5の会には出ず、時間と場所きめてゆっくり話さん」といへば「われは出席の返事せし」と。翌日にでもせん。

4月26日(日)
陰名方言にまたひっかかる。

4月27日(※14:00-18:00 『四季』返却。夕食御馳走になる。)
曇。寒し。6:00起床。12:30昼食。
待ちゐた中島君14:40来り、夕食たべあはてて帰りゆく。
その間、松本(※善海)未亡人紀久子氏より「待たせて…。仏前の供へ物ありがたし」とハガキ。
21:00入浴。22:00臥床。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇講義の様子をおさめたテープを聞く。
〇「君はわかってなくても、ハァ、ハァ言って聞くね」と生返事をたしなめられる。



4月28日 
ユを山住dr.にゆかしむ。

4月29日 
天皇誕生日。17:00電話かかり、咲耶の次男幸夫一家来る。

4月30日
16:00ユ山住dr.にゆく。我は無為。帝塚山学院東京支部会に「欠」、花井夫人に伝ふ。

5月1日 終日無為。
5月2日 曚朧として高円寺へゆき散髪、都丸の瀬見氏、新しき手伝を教育しをり。
5月3日(日)
5月4日
5月5日
午后瀬見へゆき『萩原朔太郎ノート女人考(2,200)』買ひ来る。
弓子、孝行と14:00来る。19:30ユの不服従を叱る。

5月6日
6:00さむ。7:00ユ起き来りまづき朝飯つくる。叱れどきかず。
午食11:30すませばユ、静江母より呼ばれしと出てゆく。これも不快なり。
山住dr.にゆく。
澄より電話「京、膵臓炎で入院、つきそふ」とのことにて依子とあす見舞ふこととす。
中嶋康博君より電話「杉山平一氏より同人名などいはず云々」。

5月7日
東豊書店へ払ひにゆく。『台湾土着民俗的社会与文化』、『曹廷杰(そう ていけつ)集』、『台湾礼俗語彙』、『de Beauclair』とにて金なくなる。

5月8日 ユ、堀夫人に電話すれば「ずっと追分」と也。

5月9日 礼拝にゆかんとしユに土曜ととがめらる。ユ、戸田先生へゆく。

5月10日(日) ユの教会へゆくを見送る。弓子母子、京、母の日とて物もち来る。

5月11日(※14:00-16:30 平凡社『唐代詩集 上(訳詩)』賜ふ。)
4:00起床。5:00下痢。9:30山住dr.にゆき診察投薬。
13:00高橋君(※高橋重臣)来り養老費呉る。そこへ中島君来り、わが録音きき16:30退去す。
19:00前入浴。夕食。雨、東京では降らず。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇高校時代の諢名は「骨:こつ」。後輩からは「コッチャン」と。
浪速中学教師となって「to be to be tomb(墓)」と板書して読ませ、
「ちがふ。とべとべトンボだ」と云って笑はせ、以来「とんぼ」といふ諢名がつき同窓会も「蜻蛉会」といふさう。


5月12日 12:40出て佐伯見しもなにもなし。

5月13日 佐伯見しも欲しき本なく帰り来る。
5月14日
5月15日
5月16日
三鷹の中村美智子氏より『四季』11号の代金として(※切手)40×15送り来る。中嶋君よりも1万円もらひしと、共に清算せん。
5月17日(日)
礼拝出席。3月5日井階房一永眠と。中村美智子氏受領のハガキかく。小林茂樹氏あて、これにて『四季』終りとするといふ。

5月18日
散歩に出て『日本語になった外国語(1,800)』買って来る。
講談社より「ツングース」を児童向けの雑誌にのせてよきや否と女史の言に「あの詩はむつかしすぎる」といひしもことわりきれず、仮名遣も変へるを承知す(大岡信の選)。
三火会出席。自己紹介となれば小人物たちて長々と話す。
これこそ元大蔵省の木野春夫なりし。もう三火会は出ずときむ。
杉山平一君より葉書で「中島を喜んで迎へる」とのことなりし。
科学書院へT台湾、U朝鮮、V中国満洲 (※五万分の一地図集成?)の3部を予約す。
中嶋康博君に先方(『季』)喜んで迎へる由かいて投函。
10:00川久保にゆき「清代初期の十王」について特講。1時間して帰り来る。

5月19日
午后1時の食後、高円寺へかけ足し瀬見夫婦をねぎらふと文庫本買ひ、帰宅。(※省略)
(※下町風俗資料館)中嶋君に電話すれば休みをりと。我方の電話番号いひて取次たのむ。

5月20日
4:50起床、木村三千子氏に電話したくなりユと喧嘩す(時間的に非常識と)。
藤野一雄君に7:00電話すれば起きてをり「我が言ききて今日丁度下阪する」と。
朝食後、羽田・羽倉の二京都人に電話せしも応答なし。藤枝の片桐禎子未亡人にくやみの電話。

5月21日
9:30山住dr.にゆく。帰りて重久生に「カラ手にて来れ、ジャズの面白いことわかった」といへば「大いに宜し」と也。
夜、隣の細野氏の老人けさ死に明日お通夜と。95才と。(末富邸で将棋さしゐる時、川久保来り、ユ呼び戻す)
『風日』来り、保田與重郎先生追悼号にてわが歌4首を目につかぬやう並べをり。

5月22日
『季』来をり杉山君top、次は小杉茂樹の詩にしてやや体をなしをり。
『コギト』をあけて自分のことも思ひ出したあと栢木喜一君にハガキかきたくなった。咲耶を介してわが歌よみゐしことを知りをればである。
『風日 保田與重郎先生追悼号』来をりしをよめば、保田死ぬまでに戦前戦中に匹敵する量の著書出し乍ら、私あてに送って来たのは2冊だけである。
石切へ養子に行って死んだ小坊は順三郎か。石切神社の養子となりし也。尻痛く、保田のことはこれでおしまひとす。

5月23日
4:00さめ5:00ユを起し朝食すませ方々に電話し、川久保を上げ、10:00東洋文庫へゆくと。
羽田「体を悪くし上京できず」と也し。川久保帰りに寄り匆々帰る。われ留守番、中嶋君に電話すれば不在。

5月24日(日)
3:20尿に起きる。昭南より送りゐし毎月50円は一度もユの手に入らざりしことを初めて確信す。かの主計伍長の手にせし也。
Impal作戦に辻参謀来り、牟田口師団長の意見に屈せしことわかる。
河村軍医に戦中吟を献ぜん。昭南市長たりし島根の大達閣下も死に、
その子代議士なること判明。とまれ河村軍医に歌作りて霊前に捧げんと思ふ。
田村通産相このごろteleviによく出、醜き面しをり。61才か。
昨日お通夜にユらのゆきし隣家の細野老の本葬けふすみし様子。
大木実は大正2年生にて東京電機学校卒と。大岡昇平は(※省略)、織田萬法博士は(※省略)、尾上紫舟は(※省略)、尾崎士郎は(※省略)、魚返善雄は(※省略)、小野十三郎は(※省略)、小田切秀雄は(※省略)、小栗虫太郎は(※省略)、小倉進平は(※省略)、神崎驥一は(※省略)、神崎清は(※省略)、神保光太郎は(※省略)、田中冬二は(※省略)、田中克己は明治44年生、天沼3-794に住み大阪人。東大東洋史、現職北アジア文化研究所研究員として詩人。『神軍』、『楊貴妃とクレオパトラ』、「日本を愛す(文芸2号にのす)」と既にのりをり。
杉山平一ものせ(大正3年生)、津村信夫同秀夫ならびをり。昭和18年版『現代出版文化人総覧』のボロボロなるも案外便利なると発見。
杉浦はのり、保田は見えず(※738pに 載る)。

5月25日(※15:00-19:20 散歩同伴、本7冊借用、夕食に鰻重御馳走になる。)
朝、山住dr.にゆき。(※省略)10:30本と土産もって(※省略 竹森牧師訪問)。
蒙文のBibleは神学大学に寄付するとの事にて13:00小清水さんにゆけば応接に通され篠原牧師お越しと。(※省略)
ユに電話すればすぐ帰れと。(※省略)堀さんによれば閉りをり。(※省略)
15:40帰れば中嶋君をり、杉山平一氏の下(※『季』)にて詩のせると也。夕食後帰り、本を通報して夕食。
すみて18:30ともに佐伯にゆき我は佐伯にて500円近く本買ひ、本(※7冊借り)返すと記帳して我と同行。
われ400円本買ひ別れて帰宅。(※省略) 
われ中島君に杉山平一氏のこといへば、まあもう知ったやう也。送りかたがた佐伯にて450使ひ140円もちて帰る。
中島君11号10冊買ひ、2,400中1,000もらひ190円となして駅で別る。(※一部重複 意味不詳。)

5月26日 
よべ20:00ね5:00さむ。6:00ユを起こし新婚の心得をユに話せば納得す。杉山平一君にハガキかくこととす。

5月27日
紅松に電話して「一度来い」といへば「金もなく困る」といふ。
八木書店に電話すれば「10時までに開けることなし」と断らる。ユ「それみたか」と得意なり。

5月28日
吉岡君「今からゆく」と電話ありユともども恐縮して迎へにゆく。(※1986年8月13日の吉岡克己逝去記事と齟齬、別人か。)
飯くはせ酒のみ「大球会の東半は意味なし」といへば「わかった」と帰りゆく。

5月29日
よべねられず4:00ユを起し話す中「いろいろのplansに危しといひ躁のことばかり」と。
仕方なくハガキだしにゆく。山住dr.診察。13:30末富氏来られ将棋2番。
川久保より植村先生の死せられを告げられ(※植村清二5月27日没)、
お通夜にと松本夫人(※松本善海未亡人紀久子)に云ひ、12:00松本邸へ川久保を案内し、
13:00お宅へゆけばお通夜できると決心、神田信夫氏に電話し「榎君に伝へてくれ」といへば「応」となり。

5月30日
2:00さめ、ユを呼べども答へず、返事せざりしにと悪妻となりし。(※新聞死亡欄記事写し)
私も同じく成城大学教授を解任され名誉教授に任じられたが、どういうことになるのか不明であったが、退職手当はまあ一応食ってゆけるに十分といふので先生のやうに国士舘大学などへはゆかない。先生は但しこの名だけの学園で最後までお勤めになったとしたら悲劇である。
私は即座に仕度をして家を出てお通夜に参加することとし、親友の川久保悌郎君(旧制成城高校につとめたあと新設の弘前大学にゆき30年か居座ってゐたが、名誉教授といふので勲三等の勲章をもってゐる。私の同級生であるから聞くと「退屈してゐる、どこか無いか」と吾党の士であるが退職手当はどうやら私より少なかった。それとも私の家より立派な家に住んでゐるので電話すると「昨日の朝日新聞で知った云々」とある。)  (※以下びっしりと2頁にわたり意味取り難く省略。この日か次の日に足を負傷した模様。)


5月31日(日) (※杉山平一先生、下町風俗資料館に来訪。)
礼拝すまし、竹森先生に「月曜訪問にて宜しきや」、「13:00に来てくれ」と。

6月1日
13:00かっきりにお訪ねすれば、(※省略) 蒙文聖書差上げれば礼云はる。
(※以下 悠紀子夫人代筆)
朝、足の手当を山住先生に受け、早くより竹森先生のところに行きたく、自動車にて吉祥寺までゆき、
早すぎたので遠藤商店にゆき本をあづけ、電話をゆきにかけて清水家にて時間をつぶし、
時間をみて荷物を遠藤商店にて受取りにゆき、なかなか手まどり30分遅れて竹森先生にゆき
30分してゆきと京自動車にて迎いにきて阿佐谷まで京に送られて帰り5時よりつかれてねこむ。


6月2日
(※悠紀子夫人代筆)
(※省略) 成城の国文学科の部長より電話で
3日4時に学校でお目にかかれるから返事をしてくれとのこと(高田先生の本のことなり)。


6月3日
8:00ユを起して朝食くふ。そのあとユ色々と我の非難をとばすも我はきかず。
宮崎県の高森文夫氏よりたよりあり。
第5次『四季』は11冊にて廃刊にいたし、今後詩壇より去るとの意と作さず、わび状かく。
(※以下 悠紀子夫人代筆)
朝、例の如く4時起き早くから山住先生に行きことわられて
家にて8時40分に行き足を直してもらう。ユを、ついてゆかんとおこる。
先生がもう一日家にて静養、風呂に入るなと申されるも入浴すまし、
ユをせかして先に高円寺にゆき、ユとの約束忘れて先に成城にゆく。

(※執筆者本人となり、大学で専門分野の講演の様子を記すも意味取り難く省略。)

(※以下悠紀子夫人代筆)
案内されて上原部長(※上原和:文芸学部長)の部屋に行けば部長とユと待ちかね4時の約束を30分遅れる。
上原先生は高田文庫(※高田瑞穂蔵書)の事はこれから会議にかけ、どちらか話がつけば電話を■■(※不詳)にかけて、
その後は田中を中に入れず高田家と直接話合いをとてもらうことをたのみ、
帰宅の途中高田家により、丁度戻ってきた次男の嫁さんとその話をして、佛前に参り礼をして自動車にて帰り(2,900)、
食事後(寿司を買いに走る)丸家の娘に用ありと電話すれば奥様出てて
金沢の次男結腸癌の為5月7日死亡と涙ながらきき、おどろきなぐさめ、
主人電話に出て話すうち中野さん(※中野清見)が死去すると(※誤って)きき、頭がこんらんしてめちゃくちゃなことを云ふ。9時半ねる。


6月4日
(※悠紀子夫人代筆)
例の如く朝早く起き足の手当を受け、もう少し風呂をがまんしてと云はれ、
民生の原田様に老人手当の事について書類を作りに10時すぎお伺いし、
帰ってみれば、主人は入歯残し下駄ばきのまま姿なし。家中かたづけ洗濯をして待つ。京、午後くると電話あり、京着く。
二人で主人の帰りを待つがやっと4時半頃、井の頭線吉祥寺駅の事務所より電話あり「老人を保護してあるから迎いに来い」とのこと。
京と二人で急ぎ行く。顔を見るとしきりに駅員に腹を立て話も出来ないので御礼の菓子を渡してつれて吉祥寺駅から家に帰る。
主人の云ふ事によれば「朝、阿佐谷駅に行き1000円をくずして」と云うと周遊券を買えと云われてその後池袋まで、

(※北区の旧宅をさがしに行った際の事か、以下記述なし。)

6月5日
早起して山住dr.。帰宅後、急に昨日の井の頭線のこと腹立てて飯も食はずに出んとせしに弓子来り、抗議にゆくといひ弓子に説得さる。
その日限りの1000円券とりかへしても紙屑となりしと。但しpocketにはなく2枚のみ使ひ8枚はムダとなる。小銭あればこんなことんかりし也。
ユ、区役所へゆき老人福祉の手続し14:30帰宅。弓子に帰ってもらひ我、家に留まる。山住dr.に3度電話し、頭がフラフラするといひ、
名刺に「50年同居せしも他人」といひ、(※省略) 眠る(20:30)。

6月6日
5:00さめユを5:35起し、急に今日までのことユにきいて唖然(ユに毒をのまされしと妄想、散々迷惑かけしも平気)。
山住dr.に謝りにゆかんとすればユ、早すぎると
(※以下 悠紀子夫人代筆)
止められ8じすぎゆき、及川さん(※看護婦?)に「30分まで待て」と云われ、ユは家にかぎをかけにゆき、
6人程客きて一番に足をみてもらい「もうほとんどよいが月曜までどこにもゆくな」とのことなり。
家に帰り高田先生の宅に急に行きたくなり、
(※夫人から)「あまりしつこくするな」と云はれ腹立てば、又ユ、三鷹に電話すると、
(※弓子氏夫君)善一郎氏が自動車にて成城までおくるから待てと云はれたが、まちきれず。
あぶないからと自動車(※taxi)にて三鷹にゆくつもりになり、
郵便局前まで歩き、急ぎ川久保氏の所え行きたくなり、行けば彼一人なり。
十分位話して高田家へゆくことをやめる様に云はれ、涼しい部屋で宏ちゃんと教科書の漢文などの話しをして、
5時半弓子と小林の運転で家まで帰り、みやげうなぎとごはんをたべ、川久保家に7時頃傘を取りにゆき、
奥様とユとは岡先生(※岡正雄)の死ぬまでのボケの事をひそひそ話し帰宅。
(岡氏は5年間のボケのすえ1年間は寝たきり老人とのこと。)


6月7日(日) 礼拝休む。(※省略)

6月8日
(※悠紀子夫人代筆)
(※西島)寿一に電話して「来い」と云えば11時40分に来る。寿司三人分持って食べ、
その間にも主人は高田先生に行くといきり立ち、とめればなぐりかかり寿一ちゃんとめに入る。
すぐ気が変り色々の話しをして4時半位帰る。風呂に入り、その後うとうとして一時ねるが、
起きるとわけのわからぬことを言っておこり出す(ゆめの中の事らしい)。
私が強くおこると急におとなしくなり夕食を(寿司と汁とさしみ)すまし9時頃ねる。
電話弓子と京、明日は女子医大にゆかぬこととする。

6月9日
(※悠紀子夫人代筆)
朝7時起き久しぶりに10時間ねられて気持よし。
9時すぎドクターにゆき、どこにも出ぬように念を押される。ふらふらして家の中でもあぶない。
時間を過ぎやすい様にとリード曲のテープ、ドクターから借りて家できくが熱心になれず。
午後、相変らずどこ、ここに行きたがり、とめるとおこり出すので(特にドクターの所へゆきたがる)、
戸田先生の家に二人で行き(玄関でなくしたステッキ見つかった)、お茶をいただくが、
歯を入れずに話すのでわかりにくく、先生に歯を入れるように云われ一寸がっかりして十分で帰る。
昨日も今日も外人に奥様が若いと云われると、頭をとかしてとかローションをつけるとか自分も若いと云われたがる。
やっと夜9時昨夜と同じ薬でねる。((※躁)やっと峠をこえたらしい)


6月10日
(※悠紀子夫人代筆)
朝9時前起きる。(11時間ねる) 雨の中をドクターに行き待合所でこしかけからすべり落ち、皆に助けてもらう。
帰りて10時半頃、若い男性が来て白井三郎氏の次男とわかる。
わがことよく知りをり。今宮高入学の世話せしも今まで来られざりしと。いま明治大卒。


よべ9:00に寐て5:00前まで熟睡。涼し。足もとよろける。
浅野晃をtopにし、保田典子夫人にもかかせた『春秋』来り、柳井道弘編集、保田派の雑誌贈られしを見る。
大判にてなぜ6号より贈られしか不明なり(※第5号朔太郎特輯号に書いたから)。
栢木喜一の「折口信夫と保田與重郎」を先づよめば『春秋』春夫先生の発行なりしを続けると也。
(編集柳井道弘、編集同人は浅野晃、伊藤桂一、駒田信二、中谷孝雄、林富士馬ら保田の派のみにて発行所は大津の柳井方。頒価2,500円なるを呉れし也。題字は春夫先生、口絵は棟方志功とあって保田主宰の如く、(※以下略)。

6月11日
よべ2:00までねられず。朝4:00起床、山住dr.にゆき本返し、呼ばれて診察。
ユはのちほどと。ハガキ出しにゆく。佐伯にて本3冊(350)買って帰宅。(※省略)

6月12日
早くねて4:00さめユを起し朝食。■教礼君より(※中隊長)荒木修の名を知らずと。(※省略)

6月13日
外出せず。無為。午后花井タヅ子来り、3時間近くをり帝塚山の名簿くれる。

6月14日(日)
4:00ユに声かけて起こし6:15茶をふるまはれる。グスグスいふも蕩然なり。

6月15日(※14:00-17:00 本15冊借用。)
4:00すぎ起き、ユを起し山住dr.にゆく。「ゆっくり休め」といはる。
午后、中島君来り、杉山平一に会ひ『季』の同人になることきめしと。
16:30までをり『果樹園』その他借りてゆく。民俗学研究所より本もらふ。
瀬見君に高田瑞穂の本のこと断られしと電話。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇高森文夫さんへ『四季』11号をお送りする手紙を出すこととなる(完売と)。



6月16日
晴。9:30山住dr.。105-75の血圧にて低血圧なり。森岡清美氏に「二冊の刊本お贈りいただき恐縮」と礼状かく。
高森文夫氏へ(※から?)『四季』廃刊にて御逝去かと思ひゐしとあやまり状。
(※悠紀子夫人代筆)
石井正吉君来宅。清酒くれる。自分の詩集(※田中克己『悲歌』)おいてゆく。中島君にあげてくれとのこと4時頃帰る。


6月17日 よべ早くねて5:00覚める。ユも起き新聞まだ来ず。

6月18日
(※悠紀子夫人代筆)
朝5時起きドクターに行き朝からねて1時半末富家にてしょうぎしてかつ。気持よし。3時間して帰る。夜8時ねる。


6月19日
(※悠紀子夫人代筆)
朝5時30分起き9時半頃柏井に行き入歯のゆるみをみてもらい、
当分そのまま(ノリをつけて)使うように云われて茶の間の尚子さんと天津の昔の事をかたり、11時半頃帰る。
午後つかれてひるねする。白井(息子)より手紙くる。その内又来宅するよし。

6月20日
(※悠紀子夫人代筆)
朝5時起きる。散歩して葉書5枚もとめたがどこかえなくす。ユ戸田先生にゆく。一日中ねむい。夜8時半ねる。


6月21日(日)
(※悠紀子夫人代筆)
朝5時すぎ起きる。9時すぎ高円寺の理髪店にゆくつもりで家を出て母の家にゆく。ユも用事で母の家に居りお茶を飲み、
二人で高円寺のガード下までゆき、理髪店までゆき、ユを家に戻す。
午後2時すぎ川久保家へ行けばじゅんじゅんとさとされる。家に帰ると弓子と小林が来て父の日の祝いをくれる(うちぎと菓子)。
夕食後ねむくて8時すぎねる。
日曜日なれど教会の事はすこしも気にならず、時計のバンドを2,000で新しくしてもらう。
(足の関節がこわばっているのが、ころぶ理由。立ちにくいのもそのせいか?)


6月22日
よべ21:00ねて6:00さめる。ユ多忙。我、午まへ母のところへゆく。大、二階へ逃げる。
高森文夫氏へハガキ。6月22日の日付にて宮崎県臼杵郡東郷町へ「(※来訪)待望せし」とかく。

6月23日
televi見て(8:00〜6時間)中野の古本屋にゆけば本みな並びをり。但し分類はしてをらず。21時まへ就床。

6月24日
午后高円寺へゆくも古本屋には寄らず。丸の次男逝去と。哀れなるかな。
夕方平凡社より『唐代詩集 上』送り来り、500部増版と。

6月25日
平凡社へ「承諾」と。川久保来り、東洋文庫へ行くと。
中島君来りし故、石井正吉氏へ(※から?)の詩集わたし、半眠半醒なり。
(※正確には6月30日14:00-15:00 本借用。石井正吉氏より詩人を介して『悲歌』賜ふ。)

6月26日 家居。事なし。
6月27日〜6月29日 無為。(※鬱症にて教会の事も記さず。)
7月1日〜7月2日 仝上。
7月3日〜7月6日  ※記事なし。

7月7日
朝5時半起きる。浜久雄氏より『西太后』賜はる。わが「訓役に立ちし」と。
彦根より藤野一雄君来り、「河村先生頓死」と。

7月8日
よべ不眠、7:00起床、ユ10:00山住dr.と柏井歯科へと出てゆき11:00帰宅。
末富夫人変となり山住dr.来診。河北病院に入院と。
夜、兼清より関野逝去と電話あり。

7月9日
京11:00来り、子供は登校と。14:00帰りゆく。われ鬱とれず。21:00ねて3:00さむ。薬のみ8:00起床。
(※7月9日投函の舟山逸子氏宛ハガキ。)

7月10日
7月11日
よべ不眠なれど、6:00起床、14:30ユ戸田画伯にゆく。われ日記よみ夕食もす。
7月12日(日) よべ21:00就寝7:00起床、ユ気分悪しと。礼拝休みみることにす。
7月13日
7月14日
7月15日
7月16日
7月17日
7月18日
7月19日(日)
21:00臥床、6:00起床、8:20朝食すませ上厠。終日家居。20:30眠ることとす。

7月20日
20:00ね、6:00起床、朝日の穴吹史士氏よりハガキ。(※省略) 杉山平一氏より著書。

7月21日
よべ22:00就寝、6:00起床、無為。山住dr.にゆけば血圧95-65と極めて低し。。

7月22日 7:00起床、(※省略) televi見るのみ。

7月23日
6:30起床、10:00山住dr.。血圧70-50。televi見る。山田俊雄教授より『詞林間話』送らる。

7月24日
6:30起床、ユょらず。7:00帰宅。散歩しゐしと。朝食まずけれど食ふ。

7月25日
4:00目をさまし7:00朝食し、8:00より湯船に点火する。8:50入浴。山田俊雄氏、高森文夫氏へ礼状かく。

7月26日(日) 三食何とかおくれて採る。ユも我も礼拝にゆかず。

7月27日(※15:00-17:45 杉山平一新刊『映像の論理・詩の論理』ほか借用。)
午ごろ中嶋君より電話「来てよしか?」、「よし」といひ待てば15:00来り、書斎で冷房つけ相手す。
(※閲覧)『四季』、『コギト』すみしと。杉山平一君の『季』同人になると。(※省略)

7月28日
よべ20:00臥床、6:30起床、11:00山住dr.へゆけば副手、我を体重計にのせ39キロと。先生脉とれば108-65と。
これにてガックリして帰宅。(※省略) 手塚隆義先生より「暑くて困る云々」。

7月29日 よべ20:00就床、7:00起床、無為。

7月30日
手塚隆義氏に返事かき投函にゆく。兼清より今中19期生の死者2人。金沢と広島通の2人と。

7月31日 8:30さめ、ユの忙しいのを放ち日記よみかへす。

8月1日 よべ20:00すぎねむり、5:00覚める。

8月2日(日)
よべ22:00近く眠り、一度排尿に起き7:30また起き、ユの礼拝にゆくを見送る。
13:00ユ帰宅。けふ聖餐ありしと。われ無為。
ユ帰り昼食してのち高円寺の散髪屋にゆき(1,150)、帰宅すれども何もできず。(※省略)
山田俊雄君より『詞林間話』贈らる。むつかしき本なり。

8月3日
よべ22:00床に入り(※省略)6:20起床。9:10西川より電話「中野清見八戸へ帰宅」と。
弓子、ユの留守の間に来り、鰻とjuiceと呉れ17:00帰りゆく。諏訪より(※転居住所・電話 省略)。

8月4日
6:00起床、『一視同仁』(※加藤邦彦著『一視同仁の果て:台湾人元軍属の境遇』)をよむ。
台湾のこと色々と思出あり。11:00川久保に電話すればすぐ出て来る。「その内ゆく」といひてすます。

8月5日
(※省略) 7:00起床、10:00山住dr.休みとて高円寺へゆき瀬見氏に会ひしも話さず。
『南島におけるキリスト教(2,000)』買ひて帰宅。(※省略)

8月6日
涼し。(※省略) 広島原爆記念と中曽根首相も演説ぶつをテレビで見る。
山田俊雄氏へ『詞林間話』の礼状かく。13:30末富氏来り「夫人脳病にて新宿に入院」と。(※省略)

8月7日
よべ21:00ねて5:00すぎ起床、(※省略) 岸元首相死にみな惜しがる。可笑。

8月8日
よべ21:00ねて6:00すぎ起きる。(※暑中見舞 省略) 川久保ちょっと寄りし。

8月9日(日)
5:30起床、8:00二人にて出、吉祥寺着。清水嫗訪れ「けさ欠席」ときき教会へ(※省略)
帰宅。(※省略) 20:00日記かき眠らんとす。

8月10日(※14:00-19:40 本返却、夕食に焼肉御馳走になる。『季』43号を呈す。)
よべよくね(21:00-6:00)、11:00山住dr.にゆけば患者多く、中に本多さん夫婦をり。血圧90-64と低し。
15:30中島君来り『季』に1万円出して優遇さると。祝にスキ焼くはす。

8月11日
7:00さめ気持よし。(※省略)村田幸三郎へまた連絡して「日本酒のみに来い」とハガキかく。(※省略)

8月12日
日影涼しければ散歩かたがた出しもすぐ帰宅。『一視同仁の果て』よみ台湾人の苦労しるす。
鈴木正義氏よりNHK報道局取材センター異動にて鎌倉へ転住連絡。(※省略)
よべよく眠り、午すぎ散歩に出る(34℃)。都丸支店にゆけば瀬見氏北海道へ、(※省略)帰宅。
立野保男君相変らず怪しげな手紙よこし、
辻芙美子「服部(※正己)の23回忌にゆきドイツよりオーストリアをへて2週間の旅行した」と。

8月13日
12:00末富氏より電話「13:30来よ」と。ゆけば令息の夫人来をり、将棋は引分け、碁は1番さして負ける。

8月14日
21:00臥床、5:30起床、立野保男は無視することとす。丸煦美子電話に出「金沢に遺骨と遺族とあり」と。(※省略)

8月15日 5:30起きる。われ日記をよむ。

8月16日(日)
6:00さめる。ユ礼拝休むと。われは日記をよむこととす。(※省略) 夜20:00床に入りしも暑く22:00Brahmusきき眠ることとす。

8月17日
よべよく眠り6:30起床、(※省略) 我は高円寺まで来て帰宅。19:00村田幸三郎より電話、ユ概ね相手す。飲酒のためなり。

8月18日
7:30起床、〒なし。無為に午后すまし18:30夕食。石井正吉君ひまな日問ふ電話。(※省略)

8月19日
【75冊目】7:00起床、(※省略) 末富氏来訪。将棋に2番勝ち碁は問題にならず。
【76冊目】苑子と会はんとすれば「新宿の病院に入りし御隠居の付添となり阿佐谷南には来ず」とユの話。
午前中、村田幸三郎より中隊の会(河南省河津警備)、村山さんも来て一泊と(場所かいてなし)。

8月20日
【75】7:00起床、無為。日記よむのみ。
【76】散歩に出て鼻緒に足くはれて痛く帰り来る。18:00河野夫人より「一度会したし」と。「我したくなし」と断る。

8月21日
【75】無為。
【76】ユ、反抗的にて困る。(※省略★) 朔太郎生誕百年の寄付者名簿にわが名あり。

8月22日【76】7:30起床、朝食すませれば10:00。ユ14:00より戸田画伯にゆく。

8月23日(日)
【75】
夫婦にて礼拝にゆく。竹森先生より「ごきげんいかが」と。「おかげさまにて元気」と答ふ。
ユと別れて切符買へば250円にて下りとわかり、阿佐谷の切符売り場にゆけば相手にせず。
改札にゆけば「ダメ」と。憤慨して帰宅。
15:00ごろ瀬見君来り19:00までネバル。気がつけばけふは日曜にて(※古本屋)休みなりし。
【76】
よべ21:00臥床6:30起床、8:00朝食すます。9:05教会に着き竹森先生弱りをられるに気付く。
式後竹森先生(いかが)に「元気です」と答へ、ユの買物につきあはず。
切符検すれば「下りである」こと知り阿佐谷駅の改札にその旨いへば「仕方なし」と。官僚的なのに腹立て挨拶せずして帰る。
瀬見伊三郎氏来りし故、酒と肴出し『ロシア語百科事典』のこといへば
佐伯より市に出しを瀬見氏買ひしと。時に19:00なり。ユ土産に多くを与ふ。

8月24日
【76】よべよく寝て8:00さめる。9:00前、山住dr.第一番にて血圧90-65。(※省略)
12:30石井正吉君来り、わが著殆どそろひしと。色紙かかすつもりもわが顔色見て16:30帰りゆく。
弓子来をりしが夕食にて17:30退去、19:00夕食すむ。19:30入浴。

8月25日
【76】よべ21:00ねて5:30さむ。9:30山住dr.へゆけば満室。10:35診察。96-65の血圧。
13:00大、咲耶をつれて来り、すぐ逃げる。われ墓の問題で怒りゐると咲耶に云ふ。(※省略)

8月26日
【76】よべ21:00就寝5:00起床。朝食中、ユと静江母につき話しあふ。
18:00山住医院に喪の紙あり、今夜は通夜、葬儀は明日と(※長男死去)。

8月27日
【76】よべ20:00就寝7:00起床。昼食のあとタカ子来り、わがおしゃべり聞き15:00までをり。(※省略)
ユ、山住家の葬儀にゆく。16:00諏訪望来る。

8月28日
【76】よべ21:00ねて7:00起床。9:20高円寺へ散髪にゆく。
瀬見君のぞきしも不在。帰宅すれば望、渋谷へゆくと出てゆく。
ユ14:00末富夫人の見舞にゆく。(ユ、山住家の葬儀にゆけばdr.顔を上げざりしと。)

8月29日
【75】北海道の古宮新喜・乃利子より残暑見舞。
 帝塚山短大2回生名簿 (※カッコ内は旧姓)
石川喜久子
森田宏子(奥村)
安田明子(岸)
田中雅子(北野)
和田節子(佐々木)
太田陽子(立川)
谷信子(寺本)
野崎その
星野綾子(吉川)
藤井陽子(吉原)
藤田■子(米沢)
和田節子(佐々木)
久賀谷絢子(酒井)
椿下清子(椿下?)
桝田紀子(疋田)
道下重子(平山)
南村和子(藤野)
清水和子(本多)
今市佐恵(安村)
花井たづ子(山中)


 8月19日〜 9月20日【76冊目】
25.0cm×18.0cm 縦掛ノートに縦書き


8月29日〜10月17日【77冊目】
25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き


8月29日
【76冊目】7:30さめ8:30朝食、高円寺へ散髪にゆく(1,150円)。
瀬見伊三郎不在。まっすぐ帰り来る。(※前日と混同か)
【77冊目】散髪に高円寺にゆく(1,150円)。瀬見不在。
諏訪望来り、友だち迎へにと出てゆき夕食には帰り来る。

8月30日(日)
【76】7:20起床、8:50名古屋より電話、依子上京「今日のところへ泊る」となり。
望の出てゆきしあと昼食すればユ、戸田画伯へと出てゆく。(※省略)
【77】5:30さむ。望、友だちを東京駅に迎へると出てゆく。中山正子よりMelon2ケ来る。
夕方、史一家、小林一家、咲耶母子と集り夕食くひて22:00帰りゆく。

8月31日
【76】わが75才の誕生日なり。ユ、戸田画伯へとゆく。われ日記の整理す。(※省略)
泰、眼鏡かけをり。午后、(※同姓同名)田中克己博士の未亡人綵子氏より、わが贈りし書翰全部送り返し来る。(※省略)
【77】中山正子わが誕生日おぼえてをり「Melon送った」と。田中克己博士の未亡人よりわがハガキ返送。珍しきこと也。

9月1日(※14:00-16:00 『田中克己詩集』『狐の詩情』にサインもとむ。)
【76】
6:30起床、9:00ユ山住先生より紹介にて前沢外科のならびの歯科にゆき10:00になりても帰らず。
ゆき見れば老医にして「来ず」と云々。柏井歯科に電話すれば光一「見てない」と。
15:00近く外へ出ればユ帰り来り置き書きしたと。
13:30中島保博君来り『季』にかきしと。わが著書にサインせしめ午飯代り食ひゆく。
【77】
中島君来り、わが本見せsignせしめ葛餅くれる。15:00去る(『季』の同人となりしと)。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇機嫌あまりよくない。軍隊時代「セミ」をやらされたり、夫人から来た「また多摩川を一緒に散歩しませう」の手紙を各班に行って読まされたりの嫌な思ひ出。


9月2日
【76】6:30さめる。花井タヅ子来り、14:30より16:00まで話しゆく。
【77】6:40さめる(よべ2時半までねられず)。中山正子生より誕生祝にMelon送りしと。
午后花井タヅ子来りユ、好きなことをいふ。

9月3日
【76】7:00起床、ひるねし4時起きる。
【77】6:00さめ朝食くひ7:30山住dr.へゆけば老人健診もやる(田中“さん”といはる。はじめてなり)。
昨日荒井平治郎より亀井昇死にしとたよりあり。

9月4日
【76】蓮田市丸木直子氏より8月31日電話したが留守なりしと。長谷友孝より残暑見舞、両氏に返事かき投函。
【77】山住一家中国より帰られしとて、われ長男の喪いひてすむ。高鳥らの作りし『浅野晃歌集』来る。

9月5日
【76】奈良の中山正子氏より誕生祝にメロン送りしと、ホノルルかららしく、ともかく礼かく。
【77】ひるねし16:00起き17:20入浴。

9月6日(日)
【76】礼拝休む。ユもゆかず。山住dr.の長男自殺らしく困る。(※省略)
【77】丸木直子に返事かく。夕方散歩すずしくなりし。

9月7日
【76】弓子来り、われ山住氏避け、ユとともに塩入先生にゆく。91才になりたまひしと。
3万円の薬代払ひ、次は11日に来よと。弓子とともに阿佐谷まで歩き、疲れて帰り来る。

9月8日
【76】8時さめまた眠り10時起き朝飯くへば旧姓吉田万里子アメリカよりたより呉る。
平凡社飯塚氏といふより5冊やるのこり買へと。「案内くれよ」といふ。(※『世界名著大事典』?)

9月9日(※ズームイン朝「朝のポエム」に「巨木」映りおどろく。)
【76】(※省略)  平凡社清瀬君といふより、また「5冊進呈、残り買へ」といひ来り、不快。

9月10日
【76】
6:15起床、荒井平治郎より「亀井昇死せし」こといひ来り、「丹波も弔問せし」と、夫人に不平たらたらなり。
荒井へカンベンしろとハガキかく。
『日本現代詩大系』(※河出書房新社)といふより来しと別に、平凡社より5分1割引する故、残り注文しろと。
中小出版社の不況見るにたへたり。これは黙殺す。
山住青年(女子医大にて病死)は一家で中国旅行と関係ありと。(※省略)
前田隆一氏より保田典子発行の『雲と野(※前田隆一歌集)』来る。
【77】
東京新聞に堀辰雄氏のことのりをり。菜穂子をかく。堀夫人いかにしをられるやら音沙汰なし。
中村真一郎を辰雄のまな弟子とかく。18:00夕食(※省略)。

9月11日
【76】塩入先生へゆき薬かへたまふ。(※省略) 美紀子より「あす墓地へゆかん」と。OKと答ふ。

9月12日
【76】美紀子に電話すればあさって9時に来るとて日を変更する。論文の校つかず、いらいらす。

9月13日(日)
【76】(※悠紀子夫人代筆)
朝起きられず教会やすむ。9時すぎ南川氏より電話、阿佐谷駅で正午会い、
三人で天丼たべ家まできて3時すぎ地下鉄まで送る。
写真をとってくれる。『健康』と云う雑誌にのせた文章をみせたがるが読みもせず、夜早くねむる。

【77】
8:30まで眠り、9:00南川正純より電話「正午ごろ阿佐谷駅にて会ふ」と也。
ユも清水夫人より電話「会ひたし」と也。南川生11:15駅に来り、ユも来る。
天ぷらくはせ(3,200)て我家へつれ来り、同級生の話す。14:00本2冊買って帰宅。20:30眠ると定む。(※省略)

9月14日
【76】(※悠紀子夫人代筆)
弓子、昼のおかずなど持ってきてくれたので(※省略)、
美紀子さんより電話で老人の日に八王子につれてゆくとのことだが19日の土曜になる。夜8時ねる。

【77】
晴。よべよく眠り5:00さめる。〒へ大高同窓会費2,000払ひにゆく。京大文学部東洋史学研究室に1,200払ふ。

9月15日
【76】(※悠紀子夫人代筆)
老人の日の菓子二個持ってきてくださる。2千円区より貰ふ。

【77】
老人の日と菓子もらふ。9:00高円寺へ散髪にゆく。あつし。
夜、シンチンゲル先生への贈金2倍にせんと思ふ。
老人の日とてteleviに百才の老翁嫗出て来る。

9月16日
【76】高円寺へ散歩、雨にて何も買ふものなし。
【77】よべ3:00覚めまた7:00まで眠りしもはっきりせず。

9月17日
【76】ユ、俊姉に会ひにゆき弓子来る。留守電させて末富氏へゆき将棋3番、碁(五目)一番勝つ。(※省略)
【77】
小泉痔科へゆく。老人にて待合室一杯11:45下剤もらひて帰り来る。
ユと弓子とあり(ステッキ忘る)。ユ塩入先生に交渉にゆく。経過見ると也。
山住dr.にゆき血液とらる。糖尿の気ありと。

9月18日
【76】(※悠紀子夫人代筆)
朝、昨夜の便通薬きいて4度も便所に通い痔がいたくてたまらないので9時に小泉外科に行くが、みてくれず薬だけくれて(※省略)、
塩入先生に行き薬、夜のを足してもらい1時半帰れば、2分ごとにトイレに通い小水が出そうでそうとたえまなく通ふ。(※省略)

【77】
さかんに小尿に入厠。ユ山住dr.へ礼にゆく。ステッキ返り来りし。

9月19日
【76】(※悠紀子夫人代筆)
朝、美紀子さんにことわり山住先生に行き、話せば小水をもってこいとのことで、(※省略)
塩入先生に電話すると若い先生がカルテをしらべて今後一切の薬を止めて様子をみて
それでも小水が出にくい時は月曜に病院に行くようとの返事な ので、食後食後の薬を止めると土曜の夕は小水も出やすくなる。

【77】
無為。21:00まで受験上京の望まちしも来らず臥床、望、夜行にて来し。

9月20日(日)
【76】(※悠紀子夫人代筆 ノート 終る。)
教会はやすむ。ねすぎた為、夕方にノンチャン来る。主人は夜の薬のんでねむれる。

【77】
9:00まへ起床、礼拝夫婦とも休む。午飯後中野へ散歩。国鉄にものらず。15:00望来り、大きくなりをり。
末吉より浪高の校長になれざりしとあやまり、亀井の死と荒井の入院のほか生存者いひ来りて哀れなり。

9月21日
9月22日
9月23日
9月24日
9月25日
9月26日
9月27日(日) ※記述なし。
9月28日
9月29日
9月30日
10月1日
10月2日


10月 3日〜12月31日【78冊目】
[25.0cm×18.0cm] 無掛『大高随筆』ノート(大阪高等学校同窓會発行)に横書き




10月3日【78冊目】
田中淳一17:00、bykにて来り小林孝行に英語教ふ。孝行は自転車にて16:00より来り熱心なり。
兼清に「19期生会シンドイ」と断る。

10月4日(日)
7:00起床、ユ見合にて、われ金なくて礼拝休む。

10月5日
秋なり。中山正子に前田隆一氏のところきかんとし学園南(※省略)なることわかる。
坪井明に「南都案内でもかけ」とかく。瀬見伊三郎氏来り、高群逸枝『女性史研究』外にて1.7万円おきゆく。
弓子来り『杉並散歩道』おきゆく。

10月6日
【78】
雨、寒し。依子より着物。ガンかもしれぬと思ふ。石井正吉氏へ「色紙早くとりに来よ」とハガキ。
竹内癌のこと自覚しゐしと也。(※省略)

10月7日
7:55起床、正野君に「三火会の案内不要」、帝塚山短大の総会に「不参」、
新井平治郎、石井正吉氏への色紙はことわりたし(悪筆)。
スワ望に「コネなければ画壇はダメ」とかく(雕刻やりたしと也)。
11:00山住dr.にゆき鬱と申上げしに血圧125と高く、途端に快適となる。
水曜午前中診察にて患者も少なく暗き顔し玉へり。
われ梓の(※急患の)こという。今だに(※単なる風邪と診断した)女医うらむといひし。

10月8日
5:00起床、高円寺へ散歩にゆき瀬見店(※都丸書店支店)にて『ドイツとドイツ人(200)』買ふ。
(※省略)南川生より「この間来た時の写真送る。靖国に詣りし」と。
南川正純、小高根太郎夫妻、奥井夫人へ賀状(※意味不詳)。ハガキ買ひにゆけば「年賀ハガキ予約せよ」と。
※末富家にて囲碁将棋。ユに伊勢すみ江夫人より長い電話あり。「夜かけよ」といふ。
中島君より「明日来る」と電話あり。

10月9日(※14:00-17:30 夕食に松茸御飯御馳走になる。)
6:00起床、杉野尤次郎へ「遊びに来い」と。(※省略) 痔おこりこの間の薬ぬる。
山口弘先生(弓子の小学校の担任)、長島長老夫妻、天野隆一画伯へ賀状(※意味不詳)。投函にゆき山住dr.。(※省略)

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇肥下さんの妹たちに初恋を思ったものの、
肥下さんから「田中は必ず夫婦喧嘩して俺とも仲が悪くなるから妹はやれん」と云はれた話。



10月10日
10月11日(日) 礼拝にゆく。禎子来り、泊る。
10月12日
10月13日
賀状かく。石川弘義君へ退職後もらった本の読後感礼状にとかく。
中野清見より電話、丸のこといへば困る(その内夫人に会ひに来ると)。

10月14日
下痢にて無為。雨降る中、ユ、母のところへ眼鏡もちゆく。
東洋談話会名簿来る。来月神田信夫君の満洲講義、東洋文庫であり。
高田瑞穂の本、成城買はず(「来年まはし」と也。ウソか本当か)。

10月15日
眠剤のまず臥床、3:00さめ眠剤のみ7:00起床、雨止みをり。午より台風来ると。
瀬見にゆき山住dr.にゆく。『太平洋民族誌(2,000)』、血圧105-75。
Skey嬢と喜多村夫妻とに賀状(※意味不詳)。※末富家訪問。(※省略)
中野清見より「九死に一生を得た」と丸夫人を見舞ふと云々。「止めよ、安静守れ」とかく。
岐阜の岩崎昭弥より電話「中国へ三度ゆく」と。公費なり。
「西安の始皇帝陵に参りわが代りに祈ってくれ」といへば「承知」と。

10月16日
10月17日【77】ノート
ユ同窓会へゆく。弓子来りシュークリームもち来り15:00孝行来り、将棋さす。
17:35史の長男淳一来り、山田教授の本を見せ母にとわたす。
18:40まで(※家庭教師)やり帰りゆく。(※省略)
東洋史談話会11月8日会費7,000円と。話すはIndia史の坊や、我「欠席」と返事す。

10月18日(日)
桑田六郎博士逝去93才と。ユ睡眠不足と。礼拝にわれのみゆく。(※省略) 
堀多恵さんに寒さの見舞「御帰京の時電話くれ」と。
末吉栄三にクラスの安否教へし礼かく。末富夫人より全快祝にtowel賜ふ。

10月19日
5:30起床、(※省略) 大野沢緑郎君へハガキ(※『四季』廃刊したが)『季』のあること報ず。(※省略)
瀬見君にゆけば「三越の古書展にゆきし」と。雑書一山預け『風月無尽(500)』買ひ来る。
南川正純より詩やめ鍼灸のことを『健康』にかくと。(※省略) 夜「延辺自治州」をteleviで見る。
ユけふ久しぶりに山住dr.にゆき「先生不愛想なりし」と。(※省略) 
われ台湾の話ききに三火会にゆくこととす、躁なること明白なり。

10月20日
13:00花井夫人来り「2回生の会、和田さんまかせ」と。
「我が家にて希望者のみ」といへば「幹事和田夫人」と。16:00帰りゆくにユ買物と同行す。

10月21日
7:30起床、10:00までtelevi。野田又夫博士に「中島の姪に説得せん」と手紙かきあり。(※省略)
吉岡先輩の逝去御遺族より。Album検すればわれmanagerの昭和7年にも練習を見に来て写真に写りをり。
益子夫人に弔み状かく。瀬見氏11:00すぎ来り、(※省略)13:30までネバり(夫人より電話あり)帰りゆく。
大野沢君より近況。小高根太郎氏より「自然科学研究」と。
浅野晃氏より「病気多し」と(桜井の保田忌にはゆかざりし様子)。(※省略)

10月22日
よべ不眠。ユの7:30起きるを待ち起床、(※省略) 
9:30出て高円寺、都丸本店あきしゆゑ『中央アジア俘虜記(300)』買ひ、(※省略)『日本語はどう変わるか(100)』買ひて帰宅。
※石井正吉氏来訪。「風邪」と称して匆々去る。(※省略)

10月23日
よべ早くねて(※省略)不眠とり返し山田俊雄氏に礼状。(※省略)佐伯にて『淀君(500)』を残金440はたいて買ふ。
14:00浜谷(珍客と)、高松、豊島ともう一人にて7人分の祝(※喜寿)もち来る。16:00みな帰る。祝はチョッキなりし。
学院名簿見て来しは6回丸木、豊島、土井と河野(他に祝に参加せしは押上、宇井)とわかる。

10月24日
よべ不眠。6:00起床、雨。(※省略)出て賀状70枚(11月5日売出し)買ひ、図書2冊借りて帰る。
小林孝行14:00来り、われひるねよりさめ共にtelevi見て淳一の来るを待てば美紀子の自動車にて17:30近く来る。
史、英仏などへ課長つれて旅行と。19:30美紀子の車でと帰りゆく。20:00眠剤のみ臥床。

10月25日(日)
よべ21:00ねて3:00さむ。(※省略)礼拝にゆき2列目、長老の出席少なくてすむ。
帰り連れもなく金子光晴の売りしらしき『江戸艶本を読む』買ひて切符買ひて階段で転び登張教授夫妻に遭ひ
心配され「名誉教授となりてこの始末」といひ阿佐谷の信者石渡夫人と同車、帰宅。
われ北へ散歩して杉浦正一郎の『奥の細道、曽良随行日記(100)』買ひ『禁じられた女性崇拝(600)』買ひて金なくなり帰宅。
川久保に電話(※省略)つひにかからず。ユ石渡夫人に電話しゐばる。

10月26日
5:00さめる。ユにゆふべの不満いひ、言ひ返さる。(※省略) 
高橋重臣君に「一度また寄ってくれ」とハガキかく。(※省略)
久しぶりに山住dr.にゆけば血圧126-、満員つづく。(※省略) 先生混んでやや元気なり。
午食後、東豊書店(簡木桂)に電話し「近々ゆく」といふ。
弓子来り、克次朗京都へ旅行の土産呉る。(※省略) 
堀多恵子夫人より「来年1月末に帰宅、その時には訪ふ」と。(※省略)

10月27日
3:00さめて起床、(※省略) 4,000もちて代々木まで電車。
10:05東豊書店にゆき『台湾風物(民国76年)』出してもらふ。巻頭に楊雲萍の名見ゆ。1,200払ふ。
ついで店中見てまはり『王漁洋』をかくため『漁洋山人感舊集』、『同精華録箋註』、『同精華録會心偶筆』にて借金して乗車。
12:00帰宅。(※省略) 阿佐谷にて買ひし『戦犯(380)』よみつづく。(ユあさってレントゲン検査受けるとなり)。(※省略)

10月28日
5:00起床、(※省略)佐伯休みにて向ひの図書室やりをり。帰ればユゐず。また図書館の本もちて返却にゆき老人関係の本2冊借用。(※省略)
文化の日用に桑原武夫氏(83才)文化勲章もらひ、草野心平(84才)も同。谷川徹三氏(93才)は文化功労賞もらふ。(※省略)
高橋重臣君より電話「31日夕方来り、熱海へ帰る」と。「帰るな」といひ「翌日聖餐」とユに注意さる。

10月29日
2:00起床、(※省略)9:00出て代々木、東豊へゆけば簡君ゐず夫人に払ひし、(※省略) 帰宅。13:30まちて山住dr.にゆく。(※省 略) 佐伯に寄り帰宅。

10月30日
4:00さめ昔の日記よむ(柏井母倒れ一家にて上京と。服部愛知大学へ転任)。5:00起床、(※省略) 
 ユ、レントゲン検査にて「胃に異状なくのどわるし」と帰り来る。
12:30午食くはされ出て高円寺の都丸支店へ本預けて散髪すまし、都丸支店にて2,000受取り1,400の本買ひて帰宅。(※省略)
19:30山野井生に電話して「来い」といへば「来る。夫の会社、草木の雑誌出す」と。「それ1冊もち来れ」といへば「ハイハイ」と。
ついで宮本瑞夫君に電話すれば「建物は11月末に出来るが小田原に預けある資料は3,4年後」と。
「手塚先生を主賓に呼べ。中川君は苦手」といへば「ハイハイ」と。これにて気をよくす。

10月31日
3:00覚め読書つづけ高橋重臣君の来訪を思案す。天理時代の世話日記に引き続き記すを読めばなり。
ユ9:00レントゲン検査きき「異状なし」とて喜ぶ。ついで山住dr.にゆけば「dr.笑はれし」とて我も喜ぶ。(※省略)
14:30小林孝行来る。17:40高橋重臣氏来り、来年3月定年退職と。
(孝行と淳一21:00まで勉強して去る)。高橋君も19:30去りゆく。

11月1日(日)
(※省略) 礼拝に2人でゆき長島長老の禿げしに驚く。(※省略)
佐伯にて『黄河行(700)』買ひtelevi見る。(※省略)

11月2日(※『季』44号を呈す。)
よべ21:00就寝。(※省略) 5:20起床。
14:00中島君『季』を持ち来る。おやつに出せし弓子持参のsandwichなど食ひ、17:00我にうながされて去る。
(川久保来り、茶わたす。あす京都へゆくと)。我、佐伯へ『加賀百万石』もちゆき700もらひ雑本2冊買ふ。(※省略)

11月3日
7:00起床、朝食くふ。新聞見れば森繁久彌勲一等もらひ、ユにいはすれば操行不良と。
ユをして美紀子に電話せしむれば「史、きのふ帰国」と。
午后出て佐伯へ本売る(7,200)。それにて1冊新本買ひ来り夕食後よみ了る。
けふ文化勲章5人の内、桑原武夫博士あり。草野心平とともなるが残念なり。あすお祝ひの手紙かかん。(※省略)

11月4日
4:00起床、桑原武夫博士へ祝賀の手紙かく内、履歴長くなる。(※省略) 
ユと八王子へ出て駅ビルの十合を見、16:00すぎの梓にのり、のりこしと急行券買ひ16:42塩山着。広友館に泊る。(※省略)

11月5日
5:00起床、6:00朝風呂に入り7:00朝食、8:00(※省略) 甲府までhyreにのせ呉る。(※省略)
美術館で下ろしてもらひミレー(61才で死)見しのみ。甲府駅までのbusにのり11:55発新宿行にのり、
ハンバーガー食ひ14:00新宿着。ユと別れ阿佐谷に帰り賀状70枚受取り帰宅。(※省略)

11月6日
(※省略) けふ東京寒し。9:30出て山住dr.、血圧115-75。
佐伯をはじめ古本屋新本屋まはりしも買ふ本なく帰宅。
(※省略) 竹下内閣出来しとteleviそればかり也。(※省略)

11月7日
(※省略) 0:00さめて日記よむ。(※省略) 我15:00高円寺へ直行(250×4)本買ふ。
17:00まへ孝行来り、17:00丁度淳一来り、18:40まで英語教ふ。(※省略)

11月8日(日)
3:00さめ、(※省略) 楊雲萍老に挨拶の航空便かく。(※省略) 
川久保に電話すれば夫人出て「京都行やめし」と。(※省略)

11月9日
5:30起床、12:00弓子来る。我は日記よむ。(※省略)

11月10日
0:00さめあと眠れず。(※省略) 日記よみ返す。

11月11日
5:00まへ起床、サンケイ年鑑に返答。(※省略)
清の代表詩人『王漁洋』(※の評伝執筆)やめ、成城文芸に「ヤミ族(※台湾先住民族)」かくこととす。
兼清より東京19期生の消息。我、西川ら「病人」多し。

11月12日
よべ1:00さめてねられず5:00起床、(※省略) 午後末富翁と碁将棋。碁は6目、常先(※定先)なり。〒なし。

11月13日
5:00まで眠る。(※省略) ユ柏井へ歯の治療にゆく。静江母より電話2回「やりたきものあり寄りくれ」、「いらぬ。連絡とれず」と答ふ。
論文できず不快なり。

11月14日
よべ0:00まで寝ずあとも睡眠せしや否や不明。11:00印刷屋へゆけば賀状出来をり2千円と。(※省略)
京、眼鏡かけし健太郎(小学5年也)と友とつれ来る。京15:00去りしあと2児も帰り(※省略)
孝行来り「300円貸せ」といひ古本屋へゆきしも「買ふものなし」と返金。17:00まへ淳一来る。弓子も来る。

11月15日(日)
よべ早くね5:00さめる。7:30朝食、9:20出て夫婦にて礼拝にゆく。(※省略)

11月16日
21:00眠り3:00前さめ4:00入浴。(※省略) 19日神田へゆくこととす。

11月17日
21:00ねて4:00さむ。風呂わかす。図書館に借りし本返しにゆけば火曜日休みと。(※省略)

11月18日
7:00起床、(※省略) 11:00高円寺へ散髪にゆく。本屋みな水曜休みなり。(※省略)
高橋渡氏より詩集、比留間一成、西垣脩、糸屋鎌吉らの仲間らし。

11月19日
6:00起床、ユも起きをり。穴吹史士氏へ「週刊朝日」にかかせよと賀状。高橋渡へ詩集贈与の礼の賀状かく。
12:00出て、(※花井タヅ子氏address電話わからず訪問できず。)帰宅。(※省略)
『季』に中島君挿画と詩かきたり。こたびはあまり感心せず。新学社より稿料少々。
疲れたり。われ老いぬ詩なく史なく友なくなりぬ。

11月20日
よべ21:00就寝3:00さめ老の辛さを知る。(※省略★) わが思ふひとはとほくに眠りつつそのつまとさへともねせざらむ。
(※省略) 鎌田久子女史より電話「『常民文化』に1月10日までに」と。山田君も承知となり。「ヤミ族のこと」かかん。

11月21日
5:15(※省略) 10:00前井上皮膚科。(※省略)

11月22日(日)
よべ不眠。(※省略)礼拝にゆけず。ユ礼拝にゆき13:00帰来。無為にして19:00入浴すまし臥床。

11月23日
よべよく眠り1:00起床、(※省略) あすは18:00-20:00東洋文庫にゆく心算なり。

11月24日
7:00起床、8:00朝食、10:00山住dr.。(※省略) 14:30東洋文庫へゆき30分まちて神田君(※神田信夫)の話をきく。
旧老城(※興京老城)を中心とする話なりしも文化大革命後の改築にて信じがたかりし也。
護君司会、吉田金一氏らと会ひて川久保のこときかれ弱る。 21:00帰宅。改めて夕食し眠る。

11月25日
6:30起床、7:30川久保夫人に電話すれば「生命に危険なきも大小便不時に出て面会まってくれ」と。(※省略)

11月26日
7:00さめ朝食す。ユ歯の治療にゆく。われ「ヤミ族」のこと一応心得たるも文にならず。(※省略)
瀬見氏(※予約した)『Bible』2冊もち来りたまふ。1冊3,420円と。(※省略)

11月27日
(※省略) 13:00高円寺へ。麺(700)食ひ雑本1冊買ひ、瀬見にゆけば『物類雑呼』あり700円と。買ひて帰宅。(※省略)
「ヤミ族の民俗学」の史料そろふ。

11月28日
よべ不眠。6:40起床、13:00高円寺の古本市にゆかんとすれば少雨にてとりやむ。
16:00孝行来り17:00淳一来りて教ふ。中野清見より苹果一箱来る。

11月29日(日)
よべ不眠。9:15起床、ユも礼拝休む。われ『Formosa under the Dutch』よみて終日くらす。
17:30入浴18:30夕食、そのあと間食もユ許さず。

11月30日(※14:00-17:00 書 いて頂いた色紙に捺印、『青い花』再版にもサイン頂く。)
21:00ねて3:00起床、けふよりは学術論文書かんとて思ひし日より月かはらんとす。
「ヤミ族」のインドネシア語族なること書かんとなり。戸田謙介氏の遺志なり。
ユ山住dr.にゆく。(※省略) 中島君17:00帰りゆく。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇大阪のコギトの会で、自分の番となった時「中野重治とハイネ」と題して本物の詩人であることを話したら、
会後桑原武夫から「自分は公務員だから同意することはできないのだ」と云はれた由。
また伊東静雄は徴用第三団で自身が選ばれるもののやうに覚悟してゐたと。



12月1日
よべ眠りがたかりしも0:00ねて7:00さむ。中野清見へ電話すれば出て「前回祝のリンゴ」、「丸夫人にも贈りし」と。(※省略)
(※省略) 孝行の英語今日17:30よりと、忘れゐしかユ電話す(来週より克次朗と)。(※省略)
淳一來ることおそく18:00来り19:00帰りゆく。

12月2日
7:00さめ、丸煦美子に電話かけ「今夜ゆく」といふ。(※省略) 東高円寺へゆき丸家探せしにわからず帰り来る。
煦美子も駅まで来りしらし、縁なかりしならん。(※省略)

12月3日
よべ眠りし。無為。(※省略)

12月4日
7:00さめる。川久保夫人にユ電話すれば「面会謝絶つづく」と。(※省略)
 「ヤミ族」かき始めしも旨くゆかず。(※省略)賀状かく。

12月5日
(※省略) 無為。(※省略)

12月6日(日)
7:00起床、初雪降りをり。9:00礼拝にゆく。(※省略)

12月7日
8:50起床、11:00ユ区役所にゆき弓子来る。新竹行の日記、躁にて(※自分で読んでも)わからず。
楊雲萍氏の夫人の世話になり服の寸法とってもらひし49年9月9日(堀一郎博士の死にて霍乱せしなり)。
弓子家中の手伝ひす。16:30弓子わがユへの不平きいて呆れて帰りゆく。

12月8日
よべ19:30就寝、1:00すぎ丸重俊事件起こせしと思ひて起床、ユ7:30起床、朝食くはす。(※省略)
花井夫人14:00来り、16:00までをりわが話相手にならず。淳一17:00来り、18:30去る(孝行相手なり)。

12月9日
8:45起床、16:30まで無為。18:30川久保へ(※見舞?)、16:00ゆきし「ユ今帰りし」と夫人より。(※省略)

12月10日
午後高円寺へゆきしのみ。(※省略)

12月11日
8:30起床、(※省略)

12月12日
(※省略)不眠。依子より小包来る。瀬見氏蜜柑もち来りしにユ、wineわ贈る。
ユ、塩入医院へゆき薬もらひ来る。「壮年会A1月17日」と。70周年寄付金10万円は少なすぎかりらし。

12月13日(日)
(※省略) 礼拝夫婦とも休む。

12月14日
山住dr.i薬もらひ、(※省略)

12月15日
12月16日
12月17日
19:00ねて一時さめ9:00起きる。ユ歯休みにてゆけず。われ末富さんに碁将棋ことわる。11:08、5.4の強震あり。

12月18日
終日炬燵にをり。(※省略)
12月19日
12月20日(日)
終日無為。17:30川久保夫人に電話すれば「一年入院、やや良き方へ向きし」と。
正午ユの教会から帰らぬまに史夫婦来る。

12月21日
よべ来しならんTrontのM.Skey女史とN.Y.の鈴木生よりXmascard。終日炬燵にをり。
13:30中島君岐阜へ正月帰るとて来 る。
弓子父母へ1万円づつ小遣に呉れ、丹波篠山の中西薫より黒豆呉る。仙台の恩田女史よりささかまぼこ。

12月22日
無為。賀状すむ。ユ歯痛にて不逞。弓子2人に1万円づつ呉る。(※重複記述)

12月23日
よべ不眠。9:30起床、。誰も来ず。仕事もせず。

12月24日
キリストの生まれし夜(Eve?)。8:30起床、17:30美紀子の来るをまち教会のXmas Eveにゆく。600歌はれしほか生誕の歌。
3人にて天ぷらうどん(そば)食ひ21:00阿佐谷にて別る。

12月25日
2:00 Miriam.Skey女史に手紙かく。

12月26日
淳一、克次朗を教ふ。ユ、静江母の入院につき出てゆく。京2児つれ来る。(※省略)

12月27日(日)
7:00起床、ユ「老いし」と起く。8:30克次朗来り、淳一来る。ユ、吉祥寺と母へと出てゆく。
われ入浴、11:00、2人出て「あすまた来る」と也。

12月28日
よべユ別床、20:00ね7:30起床、4月中旬の暖かさと。大高同窓会へ3,000送る。
花井夫人に鍛冶副手のこといへは「承知」と(※不詳)。ユは「来ず」と。20:00鍛冶さんに電話すれば「来られず」と。

12月29日
辛島静志教授、北京より賀状たまふ。

12月30日
健太郎来り、ユ吉祥寺まで送りゆく。川久保夫人と令嬢来り「(※正月)退院せず」と。

12月31日
終日televi見る。羽田に川久保のこと書かんと思ふ。


付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


Back