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田中克己日記 1986


【昭和61年】

 この年の出来事

1月、『四季(9号)』220冊発行。(橋本保印刷:印刷代金13万8千円)
1月、丹波鴻一郎を石神井の自宅に訪問。
1月、高田瑞穂を成城の自宅に訪問。
2月、川久保悌郎を成田東の自宅に訪問。
2月、『四季』続ける気が失せ10号にて休刊と定む。
2月、福地邦樹の詩集序文を断り、かつ中止を勧めて懸隔を生ず。
3月、高田瑞穂を訪問。
3月、継母静江転倒し2カ月入院。
4月、叔父昌三逝去。
4月、『四季(10号)』220冊発行。(橋本保印刷:印刷代金13万4千円) 休刊の辞を載す。
6月、かつて泊った塩山温泉広友館に独りで一泊。
6月、長男史氏、総務庁人事局次長となる。長男一家との二世帯同居を考へる。
6月、入院中の植村清二を見舞ふ。
6月、手塚隆義を鎌倉の自宅に訪問。
6月、川久保悌郎来訪。
7月、市ヶ谷自衛隊会館にて同級生と西川英夫の勲三等を祝す。
8月、悠紀子夫人、三女一家と湯河原に一泊。
9月、川久保悌郎を訪問。
9月、中嶋康博初敲門。詩稿持参の来訪が始まる。
10月、植村清二を桜台の自宅に訪問。
10月、川久保悌郎来訪。
10月、高田瑞穂を訪問。
11月、再び『四季』を出す気になる。
11月、川久保悌郎来訪。訪問。
11月、高田瑞穂を訪問。
12月、大高OB関口八太郎逝去(16日)。
12月、戦友の同窓、村山高、村田幸三郎と学士会館にて会食。
12月、本天沼の自宅に松枝茂夫を訪問。

 1月 1日〜 2月 7日
25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き



1月1日
よべ3:00までねられず8:30起床。賀状245枚。12:00京夫婦2孫つれて来り18:00夕食さし、2児起きて去る。

1月2日
3:00放尿6:30起床。(※省略) 本荘健男死。70才と。9:30京夫妻来り、(※省略)
苑子に『四季』の手伝たのめば「ダメ」と。13:45『四季』同人へ送本(花井夫人をのぞく)。47冊なり。
賀状6枚、中に福地あり無言。夕方賀状11枚。

1月3日
賀状一部投函。ユ10:30母へゆく。新聞社へ『四季』送ることとす。(※省略) 高田瑞穂へ電話「まあまあ元気」の由。
静江母、河野で死ぬとこきき来る。花井夫人送本17:15まで手伝ふ。(※省略)
賀状21枚と松本健次郎の『漱石研究』と来る。

1月4日

1月5日(日) (※日付誤記か。)
7:30起床。野口武徳君4日舌癌の為死去52才と。
夫婦で礼拝にゆく。聖餐式あり長老皆出席。

1月6日
よべ不眠。5:45起床。賀状の返事かく。堀川氏「勲4等不可」と。(※ハガキか電話か、誰のことか不詳)

1月7日
9:40起床。午ごろ克次朗と孝行来る。餅食ひて禎子の所へゆくと也。(※省略) 山住dr.血圧103-

1月8日
7:00起床。9:00まで賀状かく。(※省略) 本多浩より「犀星研究」と。
村田幸三郎来り「隠居す」と。14:00堀多恵夫人来訪。16:20までをられ誌代1,500おかれる。
泰来てをり16:30寮と帰りゆく。少し物云ふ。(※省略)

1月9日
眠れず2度排尿6:20起床。(※省略) 末富翁より電話あり不眠をいひて碁将棋ことわる。
大来りbeerのむ。苑子来り酌す。(※省略) 栃尾君(※栃尾武)より(※『五雑俎』)原稿帰りjam呉る。。
大野沢君10冊送れと。静江母よし子に入学祝1万円くれし也。

1月10日
よべねられず。(※省略) 7:00臥床。賀状すみて投函す。14:00苑子来り、ともに出る。(※省略)

1月11日
眠剤もらひ10:00ね3:00尿に起き7:30起床。(※省略) 苑子来り、ユと買物にと出る。(※省略)
弓子夕方来り、入浴手伝ってくれる。

1月12日(日)
5:00さむ。夫婦とも礼拝休む。
11:00川久保に電話し『北アジア学報』みつけてくれとたのむ。「あれば電話する」と也。
荒木修隊長より賀状なかりしに気づく。
川久保に2度電話し『北アジア学報3』のありなしたしかむ。「も少し時間かせ」と也。

1月13日
7:00起き川久保に『北アジア学報3』のありやときけば「しらべる」と。
丹波鴻一郎に電話すれば「在宅、駅まで迎へにゆく」と。12:30出て、(※省略)石神井に着き(※省略)
4丁目の入りこみし家なり。同級生の話して岡部をぬかす。『四季』1冊置けば山住克己氏とは有縁と。
孫1人しかをらず、また駅まで送られ阿佐谷行のbusに乗りて帰宅(16:00)。
留守中、川久保より「無かりし」と電話の返事ありしとユ。

1月14日
終夜眠れず5:00入浴5:30起床。9:00山住dr.にゆき薬もらふ。(※省略)
ユここをあけて老人ホームに入らんといふ。13:00苑子来るる(※省略)
昼ねす。(3回のひるねにて8時間はねしと也) 高田瑞穂に電話かからず。(※省略)
散歩に出て幼稚園の処にてころび2人の助けにてゆけば船越映子をり家まで送りかへす。
ユと眼鏡屋にゆきあつらへば21日出来4万7千円と。ユ2万円を前金に置き古きを出し来る。ふしぎな女なり。
15:30山住dr.にゆき止血してもらふ。

1月15日
5:00まで眠れず。起床5:30。朝食後、一寸ひるねす。栃尾武君へ受取りのハガキかく。(※省略)
丸家より3周忌とて紅茶茶碗来る。(※省略)
克次朗来り昼食。せんべいみな食べユ帰り来れば漫画もちて帰りゆく。ズルくも哀れでもあり。

1月16日
5:00さる6:00ユを起す。7:00朝食すむ。高田瑞穂に電話し「1時間でゆく」といひ9:00前出て、(※省略)
高田邸へゆけば先生すでに外出の仕度してをり。たのんで仏前にゆき御花料5千円をそなへ、
共に出て駅で別れ、南阿佐谷に11:00着き、(※省略) 14:00来し船越苑子と話し、(※省略)
栃尾君より「原稿つきしや」と。いやになり平凡社のもち来しままなるは云へず。
野口君成城大学文芸学部葬23日と案内あり。

1月17日
よべ眠れて9:00起床。televi見てをり。苑子来ず。父(※船越章)よりも気の弱い娘なり。
田川市の藤井道雄といふ人、わが蘇東坡を買ってよみ「海南島の蘇東坡」見たしと。コピーすればよきも面倒になり「かんべんして下され」とハガキかく。
肥下夫人よりは「老いて旅行の元気なし」と。(※省略) 20:00すぎて福地君に電話すれば「送別の宴」と。(※省略)

1月18日
7:00覚め8:00朝食の前、福地君より電話、校正はしなかったらしく、印刷屋へ請求書催促してくれとたのむ。
(※省略) 都留より入金、丹羽みさ2千円で『四季』くれと。

1月19日(日)
6:00覚め7:00前ユを起す。(※省略)  都留へ『四季』販布の礼状かく。礼拝にゆかず夫婦ゴタゴタしてすむ。
角力に皇太子一家出る。美紀子干柿もちて来り、そわそわと帰りゆく。(※省略)

1月20日
7:00さめ8:00までに村山高氏のこと(※賀状見当たらず)能勢に連絡たのむ。(※省略)
京、禎子つれて来り、14:003人で出てゆきしあと苑子来り、ユ帰れば去る。
別置の袋の中に村山高氏の年賀ハガキあり。(※省略)

1月21日
7:30起床。「あす13:00参る」と高橋重臣君より電話。
20:00すぎ伊藤とくより電話「千草死んだ」とは知らざりし也。眼鏡屋代4万7千円払ふ。

1月22日
7:00起床。9:30ユ新宿の日栄証券へと出てゆく。11:30ユ帰宅。14:00高橋重臣君来り15:00神田へと出てゆく。

1月23日
7:00起床。昼食のあと13:30まで待ち末富邸へゆき将棋一番して負け、あとは徴用の話して17:00帰り、(※省略)
夜、宮崎幸三教授に電話して「あす14:00参る」といひ、福地君に誤植多かりしをいへば「のん気な印刷屋」と。

1月24日
終夜不眠。午になり出て探しまはれば迎へに来てくれ、つんぼとなりし教授と女医の夫人とに世話され、
斎藤晌教授を咎めしにおどろき、夫人に血圧はかられ160と。(※省略)

1月25日
昨夜20:30入床7:00ごろ覚める。終日在宅。村山高氏より「能勢よりきいて御心配下さった由だが12月初旬に風邪ひき今は元気、今年は金婚」と。

1月26日(日)
よべ23:00眠り6:30起床。12:00ユに散歩すすめられて北上、柏井歯科にゆき数男夫婦と思ひ出話す。
(※省略) 今沢幸君より『四季』に5千円来り受取かく。

1月27日
(※省略)  終日家居。

1月28日
6:30さめ7:00ユを起こし8:30高田に電話し「芥川論より夫人を失ひし悲しみかけ」といへば「応。原稿返せ」と也し。
山住dr.にゆけば血圧103-、眠剤もらひて帰れば10:30。

1月29日
ユ印刷屋に(※『四季』9号印刷代金)13万8千円払ひしあと福地君より払ひすぎといひ来る。(※省略)
森岡部長より文芸学部の会2月21日にする。出欠をと。この前にてこりて欠と返事せん。(※省略)
山住dr.一家留守。閣下逝去か。

1月30日
昨日水曜にて山住先生午后休みとわかる。

1月31日
ユ11:00までをり。吉祥寺のGroupの会へとゆく。
13:00苑子のぞき来り、ユ留守といへば帰ると。絶交申し渡す。
15:00ユ帰るまでに散髪、眼鏡屋へゆき、夜20:00床に入り眠れず。

2月1日
ユ起しくれ17:00と。山住先生の朝の薬ききし也。21:00鹿野忠雄氏のヤミ族の本みつかる。

2月2日(日)
7:00さめる。共に礼拝にゆき14:00川久保に話し12:00までをりし。

2月3日
よべ不眠、ユを叱り山住dr.にゆかす。閣下危篤と。(※省略) 河村先生より原稿と5千円来る。

2月4日
起きてユにいひ東豊書店に電話してゆき7,000円の本見しも、ヤミ族の本見せしも一向興味なし。
ラーメン小2つ(300)注文し、来しあと簡君食はざる間に植村先生に電話してゆく気となり、
11:30一口たべしラーメンそのままとして新宿まで歩き(※省略)
空腹となりしも金足らず松本家へ寄らんとせば(※善海)夫人外出の途。「先生にお越し?」といはれ、仕方なく
植村先生につけば、嫁女出られ「ただいまお午」と。
ついに「私にもお握り一つを」と願へば快諾されもって来る。茶、汁つきあり食べ了りしところへ先生現はれ3冊は自分用と。まはりに雑本山ほどあり15:00までお話伺ひ帰りの車代足らずといへば,000渡され「2回目だよ」と。
松本家、も一度見しも閉じをり。(※省略) 帰宅すれば花井夫人をり。(※省略)

2月5日
よべ2:00尿に起きまたねてさめれば8:00なり。(※省略)
山本書店に「『北アジア学報』ありや」ときけば「なし」と。手塚隆義氏に電話して「ありや」ときけば「あり」と。
「3号必要」といへば「送る」と。恐縮す。
小高根太郎に『四季』やめるといへば「君が好きで始めたのだからどうぞ」と。
これで植村、花井、小高根3君の同意を得、あとは坂口、藤野の2君と、大阪にて苦労しゐる福地、この間3万円くれし岩崎昭弥にあやまれば皆ゆるしてくれんと思ふ。(※省略)
午后電話局へゆき電話帳呉れといへば届けると。帰りて20分以内に数十冊(区別け)もち来りし也。

2月6日
よべ2:00までねむれず。(※省略) 8:00起床。 川久保に電話して瀬川宅なしといへば「さよか」なり。
村田より「操典(※『歩兵操典』)もって14:00来る」と。神田で買ふと也。あやし。(※省略)

2月7日
よべ22:00よりね、7:00さめ、9:30出て東豊書店へゆけば簡、相手にせずすぐ出て帰宅。
午すぎ手塚隆義氏より『北アジア学報3』来りし故、出て印刷屋にてcopyし、(※省略)ユ出し呉る。速達書留とせし由也。



 2月 8日〜12月31日
25.0cm×18.0cm 横掛ノートに横書き


2月8日
寒く雪降りし。我外出せず。(※省略)

2月9日(日)
よべも不眠8:00起床。朝食す。ユ吉祥寺へ縁談にゆき「13:00よりmodel見て画」と。(※省略)

2月10日
よべ20:00前ね5:00さめ6:00起床。(※省略)
12:30国友氏より電話「江頭よりは『自由にせよ』とありしも止めず」と。
「名誉同人とするといへば「1月号くれ。3月号には書く」となりし。

国友則房氏より「前号くれ。江頭より脱退は自由に」との便りあり。わけわからざりし。
「名誉同人にする(明治44年3月生)」といへば「それは辞退する」といふを「内規」といひてすます。
「江頭とは合はず。『山の樹』廃刊」とのこと也し。(※省略)

2月11日
2:00まで眠れず5:00、9:00と断続的に眠り、朝昼兼用の飯くひ福地君へハガキかく。(※省略)
ユ昼寝し疲れをり、あはれ。17:00夕食たのむ。19:00入浴了る。

2月12日
20:00床に入り8:00まで眠り、(※省略 都丸支店に)10:10店にゆけば2号3号返しくれ『ハイネ恋愛詩集(100)』も出してくれる。
(※省略) 手塚さんに礼状かき、(※省略) 植村先生より「佐藤春夫さんのこと」来しに感心し、
方哉君を「正哉」と記しあるをいへばそれは認められしも訓はマサヤと。ユにあす清書せしめん。
『四季』つづけると福地君にハガキ出す。熱川温泉の火事にてtelevi(※省略)

2月13日
よべ不眠8:30起床。(※省略) 山住dr.血圧103-。不眠いへば薬たまふ。
国友氏より速達にて金と9号1冊をもとめ10号の詩くれる。名誉同人なるに5千円くれしは前の案を固持しゐる也。
向ひの葬儀にて苑ちゃんとびまはりをる由。(※省略)

2月14日
よべ20:00ね、7:00起床。速達にて牛尾三千夫氏より原稿。(※省略)

2月15日
よべ睡眠感なきも6:00起床。ユ画へゆき、われ留守番す。

2月16日(日)
4:00さめ8:00起床。夫婦とも風邪にて礼拝休む。午后京一家来り、(※省略)

2月17日
よべ20:00臥床9:00起床。ユ『四季』最終号にと植村先生の原稿かき直し呉る。(※省略)
ユ、苑子に会へばあさって来訪と。『四季』10号にて休業と定む。

2月18日
よべ不眠。8:00起床。16:30入浴。

2月19日
19:00就寝。5:00まで眠り8:00起床。雪降りをり。午后苑子来り、しばらく居る。
福地邦樹君より、しばらくつづけるに賛成、詩集『都市小景』の序文かけと。『果樹園』にのりしと『四季』にのりし非詩集なり。困る。
平凡社より『天遊の詩人 李白』6版1,000部3月に出すと。

2月20日
5:00より9:00まで睡る。(※省略)  雪降る。福地君へハガキかかんとして果さず。
(※山住克己逝去)ユ、山住dr.へお花料1万円もちゆけば米寿祝もらひしにといはれしと。
20:00福地君より電話あり、詩集やめよといひ、『四季』休刊も承知せしむ。

2月21日
雪降りつづき寒し。講談社の辞典に「田中吉之助」とある由あやまり来る。
(※講談社→桜楓社『日本現代詩辞典』田中克己を田中冬二と混同)

2月22日
雪やむ。福地君怒って「原稿返せ」と。桑原博士に第一詩集見せ「思想なし」と返された由。

2月23日(日)
夫婦とも礼拝休む。無為。

2月24日
福地君へ原稿書留として送り返す(600)。ハガキも投函(時代を異にすとかく)。
今澤幸君よりも詩(?)来る。のせられずと返さん。
山住dr.へゆき血圧138と高し。(※省略) 克己閣下の御長寿なりしをいふ。
苑子女史来り家探しゐると。比島の大衆勝ちしらし。『東方学』来り、年間5千円と!

2月25日
晴。7:00起床。11:00花井夫人来り、ユの云ふ『四季』の会計card作り、
あとグチを16:30まできき、駅前まで同行して18:00近くユ帰り来る。
けふは『四季』の原稿来ず。福地の怒りは解けぬと判断す。

2月26日
7:00起床。石山直一氏より原稿と2千円来る。今澤幸君へ詩のせられずとかく。
マルコス一家Guamへゆきアキノ大統領となる。(※省略)

2月27日
眠くて困る上、下痢す。(※省略) 夕方、小高根太郎に電話すれば「今書きをり。速達する」と。
山住教授の文もらへば宜しとなる。

2月28日
7:00起床。昨日の不眠とり返す。花井夫人来りすぐ帰る。詩らしきものもち来る。

3月1日
7:00起床。午すぎ散髪にゆき2,600が3,000に値上りしをるに吃驚す。
財布に丁度あって安心す。高橋重臣君より詩来り、(※省略)

3月2日(日)
風邪にて下痢、礼拝休む。

3月3日
ユ銀座の展覧会にゆくとて夕食おきゆく。(※省略)

3月4日
よべ21:00臥床8:00起床。11:30目次と休刊の辞かき了へ、ユに〒へもちゆかす。福地君へ速達とせし也。

3月5日
山住dr.へゆき微熱といへば咽喉洗はる。「正己先生の文印刷となれば15部ほし」と也。
ユ銀座の展覧会の見張りにて帰宅。疲れをり。鳥羽貞子氏より『四季』8号1部ほしと。

3月6日
展覧会に花井その他来しと。20:00就寝。

3月7日
8:00起床。よべよくねる。9:00ユ柏井へゆき、ついで10:30弓子のところへ宏一郎の入学祝と弔費(※省略)ともちゆくと。

3月8日
7:00起床。苑ちゃん「風邪とて展覧会にゆけず」と。藤野一雄より同人費来る。返却せん。

3月9日(日)
7:00起床。
礼拝にゆく。老年の人の転会あり。竹森先生の声不明。すみて保土谷までbus、(※省略)
 哲夫健太郎つれて迎へに来る。(※省略) 禎子の小学校見て(※省略)帰宅。

3月10日
よべ眠れず。9:00小高根夫人の電話にて覚む。福地君より『四季』の再校承知、詩集は出す。『四季』の主宰はいやと。
(※名前略)生より成城の大学院生となりしと!卒論優ならざればダメとのことはいかがなりしや。
苑子来り、しばらくわが風邪のこときき流してゆく。
『四季』の執筆号3箱(※複刻版第二版3セット)近代文学館より来る。

3月11日
7:00起床。(※省略) 福地君に『四季(※復刻)』送るとかく。ユ柏井歯科にゆく。村田幸三郎に「また来よ」とわびる。
ユ絵返りしと戸田邸にゆく。帰りおそしと迎へにゆく。けふ〒なし。

3月12日
高田瑞穂に電話しソバ食ひに誘へば「きらひ」と。家人をらず夫人の位牌に礼し、下北沢まで同車して別れ、帰ればユ不在。
(※省略) 成城大学より卒業式の出欠問ひ来る。「欠」とかく。眠し。

3月14日
7:30起床。10:00ユ〒にゆく。16:00ユ選択屋の帰り山住dr.、眠剤もらひ来る。

3月14日
8:00起床。ハレー彗星に大接近と。東方学会に5,000円送る。胃腸悪く絶食す。午后体温38.9℃あり。
ユ山住dr.にゆき薬もらひ来る。

3月15日
7:00体温36℃。大より電話「母倒れ、外出する故ユ来てくれ」と、ユ母の看病にゆく。
帰り来り、母左手を怪我せしと。(※省略)

3月16日(日)
8:10起床。夫婦とも礼拝休み、大宅へゆけば寿賀子電話ありしと来てをり。(※省略)帰宅。
ユ飯先づ食ひ、また母宅へ恨めしげにゆく。時に19:30なり。(※省略)
21:55大「姉さん寿賀子さんと15分前に帰りし」と。酒飲みきげん也。

3月17日
よべよくね、8:00朝食。すすまず。12:00昼食し13:20ユ大宅へと出てゆく。
我は13:20出てtaxi拾ひ、大宅前にて母子とユ拾ひ清川病院へ14:00ゆき、
(※診断、骨折にて篠原病院紹介され入院。看護人まにあはず)、ユやむを得ず泊ることとしまた篠原外科へゆく。
(※省略) ユ19:30いやいや出てゆく。われ入浴。

3月18日
8:00ユ帰宅。われも起き朝食し、篠原病院入口にて大と同時となる。看護人見つかり60才の老女なり。(※省略)

3月19日
7:00さめ20分して起床。(※省略) 昨日秀夫氏撮影の写真送られし津村秀夫夫人よし子氏へ礼のハガきかく。(※省略)

3月20日
8:00起床。(5月関西へユとゆくこととする。)
10:20『四季』校正を印刷屋へ送りしあと、ユ福地の詩見つけし故、速達にて送らしむ。(※省略)

3月21日
春分の日。6:30起床。朝食し9:00出て新宿より京王特急にのれば(※省略)
上川墓地の田中家の墓にゆき、「めでにしものとやがてあはなん」歌ひ、事務所に地代2年分払ひ昼食す(ユ弁当もちをり)。
(※省略) ユ16:00風呂わかし母へ土産もちゆく。

3月22日
8:00起床。14:30大阪の橋本保印刷屋より電話「1ページ白となる」と。「9号の誤植訂正する故あけとけ」といふ。
(※省略) 西川満氏糖尿病とわかり甘い物たちし由。高田と同病なり。

3月23日(日)
雨と雪とにて礼拝休む。西川満氏に見舞のハガキかく。(※省略) 角力了る。保志負けしも優勝。9:40就寝。

3月24日
よべ一睡もできず3度尿に起き9:20起床。(※省略) 
11:00前『四季』10号の再校見る。(※省略) 福地君校正しをり、3校は我となり。(※省略)

3月25日
よべ20:00ねて7:00起床。(※省略) 雪やみをり。(※省略) ユ16:30帰宅。「俊子姉、姑の死にて広島へ帰る」と。
皇居、米大使館に爆弾発射されしも実害なかりしと。(※省略) マルコス米軍基地より民家へ移る。

3月26日
6:30覚む。(※省略) ユ篠原医院へゆけば母喜び「今月末隊員すれば清川病院に入る」と也。
苑子午后来り、われ風邪をいひ、うつさぬ様用心す。(※省略)
平凡社より『天遊の詩人 李白』7版1,500部4月に出す、累計23,500部とハガキ。(※省略)

3月27日
5:30さむ。7:00起床。晴なれど庭前の雪消えず。母の見舞いにゆく気なし。
大を18:00呼びbeerのませ咲耶と入院費用3等分を約束せしむ。

3月28日
21:30就寝8:00起床。
午后(※教へ子)観世暁夫より4月26日より水道橋で「楊貴妃」を演ずると案内あり。礼状かき出席できずといふ。
伊勢の治子よりハガキ2通。父と母これんの戒名示し、これんは喜代三郎の墓に納骨され戒名流光自芳信女と也。
16:00小林の2孫来り、(※省略)、(※進学)祝に寿司とり19:00まで遊んで帰りゆく。
保田夫人『風日』にIndia旅行の作をのす。全集の印税入りしか。(※省略)
伊勢の治子よりハガキ2通。父と母これんの戒名示し、これんは喜代三郎の墓に納骨され戒名流光自芳信女と也。

3月29日
6:00起床。7:00朝食後8:40出て高円寺の安理髪店にゆく。(※省略) 美紀子、ユに「あす静江母見舞いに来る」と。

3月30日 (日)
5:00さめ7:00起床。9:00出て復活祭に出、茶会に出ず。(※省略)帰宅すれば寿賀子夫人カステラもち来り。
母のこと転院し大宅へゆかざる様たのむ。悠紀子と同道し14:00出てゆく。(※省略)
『四季』の初校(表紙と植村先生の2page)おき忘れあり、明日橋本保印刷へ速達することとす。
16:00ごろ植村先生より電話あり「ボケた」といへば叱られ「10冊くれ」と也。
「国士館おやめになってもか」といへば「関係なし」と、とりつくしまもなし。

3月31日
6:30起床。9:00すぎユ『四季』3校出しにゆく。(※省略) 16:00山住dr.へゆく。我満洲引揚げのこと1冊読む。

4月1日
7:00起き8:00ユ、大に電話し、母の大宅へ帰るとの決意伝ふ。大「清川または前田病院へ入れ費用は1/3とする」と也。
(※省略) 苑子来り、ユと話し、我と出て我は都丸。
『コギト』を南川らに買はすといひ、『女が愛に生きる時(200)』買ひ、遠まはりして帰宅。(※省略)

4月2日
8:00起床。11:00ユ山住dr.へゆく。平凡社より『天遊の詩人 李白(6版)』の印税5月末払と。(※省略)
『コギト』10万2500円にて南川・今澤幸らに引き取れとかかんと思ふ。午后ユの午睡中に出て阿佐谷より高円寺都丸へゆき本買へずなりしといひ、帰り公園にて小林孝行と稲田健太郎・禎子の3孫に会ひ、前を歩く末富翁に「近々挨拶にゆく」といひて帰れば京をり。(※省略) 弓子母子先に帰宅し京母子も泊る。

4月3日
よべ23:00ねて6:30起床。喘息の健太郎起きをり。
8:00京と禎子起床。(※省略) 鳥海香代子GuamよりAirMail、「佳宴には出ず」とハガキ投函。
13:15京ら3人とユ、母の病院に寄りて三鷹へゆくと也。
『天遊の詩人 李白』6刷来る。3月20日発行也。(※省略) 
17:00山住dr.へゆけば血圧140-と高く「入浴直後」といへば納得さる。(※省略)
ハレー彗星8日が最も見易きも0:30ごろ南の見えるところにてと。やめることとす。(※省略)

4月4日
よべ21:00臥床。1:00覚め眠れず。(※省略)
南川に『コギト』既に買ひし故、今澤との連名の勧誘状とりけす。『李白』を代りに包む。雨模様なり。(※省略)
瀬見氏『コギト』売れず。我も売れずといひて帰り来る。

4月5日
8:30菊地眞一博士の電話で起床。藤沢桓夫の『大阪自叙伝』よみ貴君思ひ出したと也。「われも自叙伝かきをり」といふ。「三火会で会はん」と也。
東方学会に「不参加・台湾史」と返事す。(※省略)  金沢良雄より自叙伝『人生おちこち』。(※省略)
鎌田久子女史に留守にて残念と(※省略)ハガキかく。(※省略)

4月6日(日)
よべ不眠。6:30起床。
金沢より自叙伝『人生おちこち』来るも戦後得意をかき兵にならず家焼けざりしをいひ勲3等の当為をいふ。不快なれど受取かかん。(※省略)
静江婆、大に説得されて清川病院へゆくつもり也と(※省略)

4月7日
8:00覚む。(※省略) 金沢良雄へ礼状。要領良き男なり。けふ北口の桜切られ杉林のみ残りと手塚隆義氏の「文求堂の思ひ出」に返事とせん。
(※省略) 山住dr.にゆけば令嬢副手。不眠確実食欲不振を申立てれば胃の薬賜ふ。ユに云はせれば「先生慣れられし」と。
それより先、母の所へゆけば咲耶リューマチで痛がる。母殆ど耳聞こえずと也。(※省略)

4月8日
よべ21:00臥床5:00さめ排尿7:00起床。8:30手塚隆義氏へ文求堂と阿佐谷の桜といづれもなくなりしこと返事かく。(※省略)
16:30入浴、鏡に映す。(※歌★省略) (※省略) 夜になりて依子より『トリノの聖骸布』贈らる。(※省略)
Halley’s commetの尾見せるとのことなれど先づ臥床。21:00より8channelにて広告入りで見る。ユは眠りをり。(※省略)

4月9日
8:30起床。10:30依子へ礼状。ユ病院へゆく。(※省略) 宮崎幸三氏より「(※省略)北杜夫も松本の筈たしかめてくれ」と。たしかめずして返事せん。(※省略)

4月10日
5:30起床。(※省略) 藤野一雄君へ堀口大学(2,000)贈る。(※省略)
芸名岡田有希子てふ金の卵候補自殺とて昨日よりtelevi(18才)。
『日本歌人』来り、小高根二郎、前川の(※226事件)青年将校側なりしことを公証(※ママ考証)す。我もしかなりし也。

4月11日
5:00起床。(※省略) 20:00Halley’s commetの尾はじめて判然とteleviに見える。21:00も一度H.C.見て臥床。

4月12日
21:10臥床4:30排尿に起き9:00再びさめ朝食。(※省略)
われ『四季』の休刊につき歴史日記よみ返す。会費など金の出入りのたしかめのため也。

4月13日(日)
よべ21:00すぎ臥床6:00かっきり起床。風邪といふユのこして礼拝にゆく。聖餐式あり66,605唱す。後者は評判よく皆喜びて歌ふ。(※省略)
18:00ソ連の満洲・カラフト進駐をソ連側の写真にて見ささる(6チャンネル)。再映なり。(※省略)
鈴木announcerのquize見、満洲より帰りし瀕死の父を丹波哲郎とする「いのち」見て眠ることとす。(※省略)

4月14日
21:00ねて6:00前覚む。(※省略) 南川より電話「『四季』援助の法なきや」と。「厚意謝す。もはや廃刊」といふ。
大に電話すれば「清川病院院長と話しつき置いてもらふ」と。咲耶より電話ありユ出て実情を話す。時に21:00なり。(※省略)

4月15日
よべ22:00臥床すれど眠れず。0:30犬の泣く声と子供の声とし、排尿(※省略)8:30 起床。
9:30田中栄太郎の嫁富美子より電話「昌三叔父入院して昨夜死去、今晩通夜」と。現金封筒にお花料1万円入れ初枝叔母に手紙同封す。
山住dr.にゆく。こみをり。49日に『四季』まにあはざりしをあやまる。(※省略) 有斐閣より「金沢の著は献呈」と、念の入りしこと也。(※省略)

4月16日
よべ20:00臥床1:00覚め8:00起床。11:00嶌野彩子母子縁談まとまりしと報告に来るとてユ準備す。11:30花と菓子もち来り、 (※省略)
われには祝辞をといへば断ることとし、ユに猛反撃くらふ(母危篤といへどダメと。危篤は1,2か月後にてはをかしと也)。
(※省略) 15:20禎子をつれて京autoにて来る。(※省略)

4月17日
5:30覚む。(※省略) 鎌田久子女史より「時々思ひ出すことあり」とハガキ。(※省略) 山住dr.に16:30ゆけば血圧130-と高し。
(※省略) 文春文庫『サンダカン八番娼館』よみ徹夜する。

4月18日
8:00起床し。入浴。(※省略) 母、月末まで入院し5月より清川へ大の伝手にてゆくと。(※省略)

4月19日
よべ21:00臥床4:30さめ6:00起床。午后藤野一雄君より『堀口大学』受取った云々。(※省略) 今夜より電気毛布使用。

4月20日(日)
22:00就寝。2:00排尿、結局不眠6:30起床。ユ教会へゆく。『八旗満洲氏族通譜』のnote検す。16:30弓子来り、(※省略)

4月21日
8:30起床。9:30ユ柏井へゆく。苑子来り、不快なり。けふ『四季』10号220冊来り、ユ発送の準備す。(※省略) これにて第5次『四季』終りなり。

4月22日
2:00までねつかず。8:30起床。(※省略) 橋本印刷(※印刷代金)134,420円と。(※省略)風邪のユを励まして『四季』10号の包装をさす。
我はマコトヤに袋買ひにゆきしのみ。植村先生より受取った。三角は三隅と。地図帖見しといへば黙さる。これにて第5次『四季』終りとなる。

4月23日
昨夜一睡もせず。7:40起床。ユ『四季』の送付すます。苑子来り、台所片付く。末富氏より『ガダルカナル』の戦闘記貸し給はる。
福地君より21冊受取りしと。わが220冊といかがなるならん。(※省略)
植村先生より金送る。熊本県三隅が正しと。われ地図にて三角を固執す。つまらぬこと也。(※省略)

4月24日
よべ不眠。6:00起床。(※省略)西川満の『Andromeda』200号となる。いやな男なるも実行力はあり。会津男なり。山住dr.へ17:00ゆき眠剤かへてもらふ。

4月25日
よべ21:00床に入りすぐね、7:30うとうとと覚め伊東を思ふ。8:30朝食。
昭和24年の日記よむ。低給料と子供たち可哀想、わがegoismはげし。西川千円の返金いらざりしと。大野沢君より「4冊分送る」と。
産経『正論』の稲葉君「ハレー彗星にてもよし、400字4枚5月10までにかけ」と。高田瑞穂より5冊の受取来る。2:40まで深夜映画見る。

4月26日(日)
よべ不眠。6:30起床。午すぎ産経の『正論』4-5来る。浅野氏より休刊残念と。
国友則房氏より誤植2ヶ所、牛尾三千夫氏より「4月初めの刊行いかがなりしや」と。ユ画より帰り来り入浴。
17:30瀬見氏紀州の名産もち来る。植村先生より3,000円来る。

4月27日(※26日(日)の誤記か)
1:00さめ5:00さめて起床。ユ礼拝にゆく。(※省略)

4月28日
7:00前起床。ユ10:30〒へ『四季』10号の払ひにゆく、これにてすみなり。花井夫人来り、苑子も来る。林美佐より『四季』に5千円来り、
牛尾氏より「何時来るか」と催促、行きちがひに2冊ゆきし筈なり。『東洋学報』来り、1750払へと。

4月29日
天皇誕生日60年とてteleviうるさし。気の弱きグズなる天皇と思ふ。13:00稲田父母子5人で庭の木伐り呉る。孫たちに500円と300円やり17:30さりゆく。

4月30日
よべ不眠。福地邦樹より「27年ゐし四條畷(※高校)やめ大阪商大に専任講師となりし」と。16:30伊勢母女来る。
国友君より受取り。名誉同人とて同人費返却。河村純一氏より休刊残念。(※省略)

5月1日
8:30起床。山住dr.にゆき正己氏の「隅田川」よくかけゐしをいふ。高橋瑞穂(※高田瑞穂)より『四季』の静子哀悼評判よかりしと。
13:00末富邸へゆき将棋2番。

5月2日
2:00までねられず。(※省略)10:00藤田生より『四季』受取の電話。(※省略)

5月3日
ユ8:30反抗してknifeとりあげ我が力に負けて出てゆく。中野清見より「『四季』終刊受取った」。ユ、柏井へゆき午食の時帰り来る。 20:00就寝。

5月4日(日)
7:20起床。礼拝にゆく。聖餐式なり。すみて竹森先生の新著(670)買ふ。(※省略)

5月5日
よべ不眠。12:00高橋重臣柏餅もち来る。『四季』10号を8冊もちゆき佐伯へ寄りて筑波へ帰る。われ高円寺へゆき瀬見と話し帰り来る。

5月6日
よべよく眠る。6:00さめ14:00苑子来り、荻窪にゆくと逃げる。

5月7日
よべよく眠る。11:30大来り、(※義母静江)清川に転院すと。(※省略) われ高円寺へ往復し本買はず。(※省略)

5月8日
6:00覚む。11:00山住dr.にゆけば104-。(※省略)イギリス太子夫妻大阪着、京都御所にゆき泊ると。
堀多恵さんより『四季』休刊承知と。大野沢緑郎君より(※後記にて)認めてくれてありがたし云々。
橋本印刷より13万円余領収したと。

5月9日
よくねて6:30起床。静江母7日より清川病院に転院せし由。ユに田中順次郎の娘の婚姻祝を送らしむ(1万円)。われらは呼ばずと也。
昨日よりイギリス太子と妃とにて大騒ぎなり。(※省略)

5月10日
よべ不眠。6:00起床。14枚かき『サンケイ正論』の稲垣真澄君に訂正まかせる(「南の星」の題でcanopusかきし也)。(※省略)

5月11日(日)
6:00さむ。午、高田に電話し「学園の会にゆくや」ときけば「ゆかず」と。我もゆかずと返事す。
夕方、小林夫婦来り、昨日美紀子のもち来りし宏一郎の入学祝もちゆく。、

5月12日
0:00まで眠れず。6:00起床。無為。苑子来りし故、共に出る。(※省略) 大野沢緑郎君より廃刊残念と。
近江詩人会より出欠問ひくる。「欠」と返事かく。きのふけふとイギリス太子と妃のことにてさわがし。大騒ぎして無事なるを喜ぶ。

5月13日
7:30起床。平凡社より『天遊の詩人 李白』7版2,500部とし印税は7月末と。浪速学園より総会出欠問ひくる。「欠」と答ふ。

5月14日
6:30起床。午、『天遊の詩人 李白』7版1冊来る。午后より久しぶりに雨。

5月15日
6:30起床。午后高円寺へ散歩。(※省略) 朔太郎記念会に1万円寄付ときめる。筒井護郎正月以来入院と夫人電話に答ふ。

5月16日
2:00さめ5:00起床。苑子にユ会ひ、来りしも話さず。(※省略) NHKより「くはしき伝記かけ」と。京来りて午食して帰りゆく。
船戸君来り、ユと長々話す。カツラ忘れ禿げをり。

5月17日
2:00眠り7:00起床。(※省略) 昼食して高円寺へゆき1時間半して帰り来る。伊藤徳子よりわが著訳書3冊送り来る。
堀多恵女史追分より『山麓の四季』賜はる。平凡社より、『天遊の詩人 李白』7版1冊来る。(※重複記述)

5月18日(日)
よべ不眠。4:30起床。堀夫人に礼状かく。徳にも受取かき投函。
11:30鳥海生来り、見合承知と。清水嫗、栗田夫人とともに榛沢進寿君つれ来る。(※省略)2人を追出し、われ1時間半散歩して帰宅。疲れたり。

5月19日
よべ20:00ねて2:00覚めあと眠れず。10:00ユ柏井と俊子姉とに出てゆく。昨夜鳥海母より「交際する」と電話ありし由。河野夫人14:30来り、16:30去りゆく。

5月20日
よべ20:00ねて2:00まだ眠れず6:00覚む。7:30起床。
苑子に電話し「14:00ごろ来い」といへば「ハイ」と也。14:30苑子来り、(※父)章の『コギト』への原稿copyすとしばらくをり。

5月21日
20:00ねて5:20覚む。午飯後、傘もちて散歩に出、末富夫人、苑子などに会ひ、南の古本屋2軒見て買ふ気も出ず帰宅。
石山直一氏より『四季』に1万円送り来られ受取かく(預りしと)。

5月22日
よべ不眠。(※省略)16:00花井夫人来り、大阪の母のこと話す。(※省略) 西川の勲章祝を7.12自衛隊でやる。6,000円と。

5月23日
よべ1:00小便に起きすぐ寝て7:00起床。不眠とり返す。今沢幸より受取。南川正純より2千円来り、『四季』了りとなりしならん。
苑子13:30来り、章の遺稿については月曜午后来ると也。

5月24日
不眠5:00起床。午食後高円寺へ散髪にゆく。大高同窓会へ五十嵐先生の本(1万円)予約申込む。

5月25日(日)
よべ22:00眠り4:00起床。入浴す。
志村士郎なる短大教師に「一度来よ」とハガキかく。(※著書『近代詩を楽しむために』)田中冬二とまちがへて昭和57年没とふれをりあり。
Ein Märchenを引く。駅にゆきchocolate買ひ来る。9:30出て大手町まで地下鉄、(※プリンスホテル嶌野彩子嬢披露宴出席。省略)

5月26日
5:30起床。よべ鳥海母より「養子でなければダメ」と電話ありしとユ。(※省略) 苑子紅茶もちて来り「あす来る」といひて去る。
われ佐伯にて文庫本3冊(700円)買ひ来り当分これを読むこととす。静江母あす退院と也。(※省略)

5月27日
よべ21:00ねて3:30覚める。
静江母退院と也。苑子13:30来り『コギト』の章の文の題のみ写して去る。
鳥海香代子に電話すれば父出て「未だ帰らず。養子でなければダメ」と。「むつかし」といひて手を引くこととす。(※省略)

5月28日
4:;30起床。(※省略) 鍛冶初枝さんより『四季』休刊につき云々すぐ返事かく。午后京、禎子をつれ来る。物云はず可愛くなし。
けふ佐伯休み、新本は高くて買へず。

5月29日
20:00臥床4:00起床。苑子に2度遭ふ。(※省略) 文化会館にて本2冊借り来り、(※省略) 村田幸三郎に一度来いとハガキかく。
近代文学館より5万1千円余来りし也。山梨の温泉へユつれてゆかんと思ふ。福地君の詩集来る。第2詩集となり。(※省略)

5月30日
よべ20:30ねて1:00覚む。(※省略) 夜になり火曜塩山へ一泊と決心す。ユ体わるく態度も悪く困る。

5月31日
21:00ねて3:00覚む。塩山と湯河原と2泊3日とせんと思ふ。『正論7』来り、わが「南の星」のせあり。佐伯へゆき『シロコゴロフ』あるを見ゆ。
買ひて山住先生に贈らん。塩山1泊と考へ変る。(※省略)
牛尾三千夫氏より『四季』10号を10冊程欲しと3,500円入れあり。家には9冊しかあらず、その旨いひてあやまることとす。

6月1日(日)
よべ21:00就寝。4:00まで眠る。火曜一人で修善寺へ入浴と決める。(※省略 礼拝)5分前の着席。聖餐式に261といふを歌ひ(※省略)
古本屋3冊買ひて阿佐谷、すし買ってもらひ、佐伯にて『シロコゴロフ』90%にて買ひ、(※省略)
18:00瀬見伊三郎氏『コギト』返しに来て22:30までwhiskyのむ。

6月2日
よべ23:00就寝。5:00起床。ユをして牛尾三千夫氏に『四季』10号9冊(これで残部なし)送らす。
13:40苑子のぞいて「隠居の散歩の友となる」と。「明日はダメ」といへば「木曜に」と。勝手な女なり。(※省略)
村田幸三郎より虎ノ門に建設中のビルの電気につき常駐とハガキ。めでたし。

6月3日
21:00ねて2:30さめ入浴。6:00起床。ユすでに起きをり。13:00の準急松本行に乗ると家を出て、(※省略)
14:23塩山につき10分余歩いて広友館に入り、金一文もなきに気づく。19:00ユに電話すればあす10:00の新宿行にのせくれると也。
(※省略) 塩山、筒井護郎と来て思ひ出あれど全然わからず。店の女主人あす10:00の急行にのせて新宿までゆかすと也。

6月4日
21:00すぎねて3:00覚めて入浴。ぬるし。広友館に13,510円の借金のこして八王子まで10:07の中央線に乗り、
京王八王子より新宿着。家に電話して苑子とユに会ふ。二人西荻へ買物にゆく。(※省略)
宮崎幸三先生の質問の詩は元末の唐hとわかる。

6月5日
20:00ねて6:00さめる。寒し。尻痛く入浴す。ユ戸田画伯にゆき夕食の用意して帰り来る。刺身と湯豆腐くくはさんとす。

6月6日
22:00臥床2:00覚め5:00起床。(※省略)終日無為。
史、総理府の総務庁人事局次長となる。ユにいはせれば同年生のtopと。子らきらはん。
宮崎幸三氏に唐hと答へるハガキ。人名事典になく先生の読みとニヶ所違ひあり、唐hは元末の詩人なるもいづこより引きしや不明。(※省略)
志村士郎といふ短大教授「小川和佑に據りし」と桜楓社『日本現代詩辞典』のcopy呉る。
なるほど昭和57年9月5日に死にをり。『四季』には15号より同人と。透谷賞は31才の時貰ひしとあり。受洗は昭和37年となり。ハガキかく。

6月7日
家居。田中雅子夫人より(※省略)『四季』10号ほしとのことに花井夫人に送るやうたのむ。広友館より受領書来る。(※省略)

6月8日(日)
7:00起床。夫婦ともに礼拝休み。ユ12:30先生と荻窪へmodel描きにゆく。われ終日無為。

6月9日
苑子「あす」といひて断りに来る。終日無為。浪中の会報に末吉副委員長しをり。

6月10日
よべ21:00就寝。6:00に10分前起床。ユ柏井へゆき、苑子13:30来り『コギト』写しゐると。(※省略)

6月11日
よべ21:00就寝。2:30排尿に起きすぐ眠り6:30起床。苑子『コギト』返却。

6月12日
21:00就寝。11:00山住dr.にゆけば楊貴妃の像賜ふ。Vitamin貰はず、末富氏に遭ひ、来客といひ、碁将棋逃げ無為。
成城大学文芸学部長上原和氏より26日懇親会、先約ありと断る。

6月13日
21:00就寝。5:30起床。『南京大虐殺のまぼろし』よみ了る。(※省略)

6月14日
よべ22:00就寝。5:00覚む。10:00入浴。
浪中野球部の池田友次郎より「おぼえてゐるか、詩をくれ」と。昭和13年卒の教師なり。今澤幸君と同級なり。ハガキかく。

6月15日(日)
5:00さめ7:00起床。ユのみ礼拝にゆかし無為。15:00克次朗甘い物もち来る。将棋さし(※省略)去りし直後、弓子より電話あり。
中川幾郎の『竹内好の文学と思想』よむ。保田と同じくRomantistにして大阪の女は北京の短期間の恋人なりし也。

6月16日
午后高円寺へ散髪にゆく。池田友次郎君へハガキかく。今沢幸君と同級なり。夜吉岡克己氏に電話すれば「あす三火会にて会ふ」と也。

6月17日
よべ21:00ねて7:00覚める。ユ10:40出てゆき、われ11:00出て川久保に寄れば梅雨とて郵便受けそのまま也。
ゆっくり銀座にゆき(※三火会出席)庄野君より珍しといはる。
吉岡克己君来り、記帳し大球会支部長いへば「断る」と。それなら「止める」といへば「賛成」と。兼清と隣りて食はず飲まず14:00帰宅。(※省略)
夜きけば近代文学館より5万円余もらひ往きの切符買ひしのみにて4万何千円なくせしと。ユ眠がりをり。

6月18日
よべ不眠。山住dr.にゆけば血圧125-と我にては高し。(※省略) 苑子来をり『コギト』もちゆく。
われ岩崎昭弥に「だれに投票すべきや」問ふ手紙かき、村山高氏に「大球会東京支部なくせよ」と渡辺怘にいひ玉へとかきなどす。
NHKにアンケートかきて投函。(※省略) 福地君に「1号ありや」とかく。大阪中央図書館より1-3,6くれとのことなればなり。

6月19日
よべ20:30薬のみ5:00覚む。(※省略)『信徒の友』に西垣脩のことかきをり(1977年とあれば9年前なり)。10:00入浴。
和爾女史来り、鎌倉にて生活に困りをり、(※省略) 最後に手塚隆義氏を紹介すれば喜びて去る。
(わが家にて一泊の予定とて何ももたず、詩置きゆき見ればなってをらず、手塚さんに善処の電話すればあさって会ふとお返事ありしと21:00電話あり)。

6月20日
よべ22:00ねて2:00さめ4:00より炬燵。(※省略) 8:00手塚さんに再び電話せしむれば夫妻お留守にて家政婦「承知」と。
午前中、ユ行方不明にて不安にて花井夫人に「来てくれ」といへばユ帰宅。14:00「出る」と花井夫人来り、ゆっくり話ききユの絵見に戸田家へゆき、ユ19:00帰宅。食欲なく「癌か」と。夕食いやいや作り呉る。(※省略)

6月21日
よべ早くねて5:00さめ入浴。(※省略) 手塚隆義氏に電話すれば「(※和爾女史)大分困ってゐるやうですね」と、さほど気にされずありがたし。

6月22日(日)
4:00さめ4:30起床。5:00ユ起床。16:00すぎ史夫婦来り、史「帰ろ」といふを美紀子話を聞いてくれる。(※省略)

6月23日
不眠に近く早起き。午后苑子女史来る。和爾女史文学やめずと。(※省略)

6月24日
21:00就寝。4:00さめ5:30起床。(※省略)
入院中との植村先生心配して電話する内、嫁御出て下落合の聖母病院に糖尿病にて御入院、面会は午后2:00より4:00までと。(※省略)

6月25日
よべ22:00床に入り4:30起床。朝、山住dr.にゆき血圧120-75。
12:30午食すまし6250もらって下落合の聖母病院に御入院中の植村清二先生を見舞ふ。
先生大分お病みにて食欲なしと。桑田六郎博士に次ぐ長老と申上げる内、先生欠伸されしに気づき暇乞ひし、
傘忘れしに気づきとりにゆけば点滴中。直木三十五の弟君にて大先生と婦長に申して(※省略)、駈け足にて帰宅。躁なることわかる。
ユ、困りし時「かえろ」が史の口ぐせと教へてくれる。
村山高氏より「大球会東京支部解散を申し来りしも、渡辺能勢2君に伝へし。御自身は意見なし」と也。

6月26日
よべ20:30就寝。6:20起床。朝日さしをり。(※省略) 10:00ごろ花屋へゆき昨日買ひし花の名きけば「シランドシア」とのこと、まあまあなり。
文化会館に寄り図書閲覧cardに日付書換てもらふ。井上ひさしといふ人物の本、数冊あり。離婚騒ぎの人物なりしもよむ気もなし。ユ知りをり。
大衆作家(直木賞作家にして有名と)。(※省略) (史に入ってもらふにつき(※自宅改築)1,000万円かかると見る)

6月27日
21:00就寝。2:30排尿に起きる。あと眠れず4:00起床。6:45ユ起床。9:30薬局さん来ぬ内に山住dr.に愁訴す。(※省略)
12:20の電車にて鎌倉に13:18着き雑貨屋にて電話かければ(※手塚隆義)夫人迎へに来る。いろいろ話す(※省略)18:30帰宅。(※省略)

6月28日
2:00さめ4:30起床。(※省略) 手塚氏へのハガキ投函にゆき、(※省略)。
吉松(旧姓嶌野)夫人より新居の挨拶、式の寒かりしこと思ひ、もはや婚礼には出ずと決心す。老いしなり。
16:40集英社よりガラス器もらひ入浴すます。

6月29日(日)
よべ22:00近くにねて3:45覚む。吉松彩子(嶌野)夫妻に祝ひ状かく。(※省略) ユ7:30起床。9:10礼拝にゆく。我頻尿にてゆかず。(※省略)
ユ13:30産業会館の展覧会に戸田先生に会はんと出てゆく。元気なり。21:30ユ美紀子と話し吉野次官のこと云ふ。

6月30日
5:30起き排尿、雨降りをり。8:00前筒井護郎に電話すれば歩行練習しゐると。夫人声にて「田中先生」といふ。ユ9:00地代払ひに本多さんへゆく。
われ11:00山住dr.へ眠剤もらひにゆきAlt-Heidelberg歌ふ。患者たへず。14:10苑ちゃん久しぶりに来る。(※省略)
川久保君来り「清代参政考」抜刷呉れ、ユ下駄を贈る。われと同じく下駄を穿くを見ればなり。

7月1日
よべ23:00ねて5:30起床。ユ山住dr.に寄り7月分の払ひ。血圧高くないので安心し、静江母にゆき洗濯物乾し杖と眼鏡預かって帰宅。
(※省略) 内田譲吉氏奈良県立短大を定年退職と。わがその詩歌集に好評せしを感謝すと也。万葉の長歌に倣ひし詩集にて天理につとめしこと知りをり。
ユ、「ワニ女史は拝借上手」と也。

7月2日
よべ2:30までねられず、ユ6:00さめしと。われ5:00さめて7:00起く。ユ静江母へゆき(※省略) 京11:00来り、昼食くれmelon食ひ13:30帰りゆく。
平凡社不況の中『李白』の印税を太陽神戸に28万入れ呉れしと通知あり。(※省略)
国友則房氏より第6次『四季』やる参考となりしと我に責任とれと也。

7月3日
9:30起床。ユ静江母のところへゆき戸田画伯にゆく。(※省略) 丹羽美佐より10日頃初枝叔母上京、史に会ひたしと也。(※省略)
結局女の浅知恵にて経理士にゴマ化されぬやう史の名仮りたしと也。

7月4日
よべ3:00すぎね7:00起床。(※省略) 14:00田島定子より創価学会の投票依頼の長電話あり。
15:00花井夫人来り「親類づきあひしてゐる」といひ、『四季』での待遇いへば17:00ユと出てゆく。
ユ戸田画伯あす北海道行とて掴へるに苦労す。

7月5日
7:30起床。(※省略) ユ本多氏へゆく。(※省略) 150万円払ふと。わが予定の半分なり。(※省略)

7月6日(日)
よべ21:00ねて5:20覚む。柳井道弘君に『春秋』に朔太郎の思ひ出かくとかき礼拝。先生と話せず木村dr.より「おしどり夫婦どうしたか」と。
(※省略) 夜、丹羽美佐、大東幸子両女史に礼状かく。

7月7日
7:30さめ入浴。televiは選挙の開票なり。(※省略)
美紀子来り、史の上手な字みせる。逃げ帰らんとするところへユ帰り来り、昼飯くひ話しゐるところへ苑子来り、入れ違ひに帰りゆく。ユ人気あり。
われは山住dr.にゆき「いのち(日曜20:00)」母子にて見てゐるときき、(※省略)
血圧135と高く、秘密の26年間契約を云ひし也。全然われダメ。(※不詳)
苑子痴漢に下着ほしてとられしなど。(※省略) 自民党大勝、中曽根三選か。

7月8日
よべ2:00排尿に起きまたねて7:20起床。(※省略) ユ原田さん(民生委員)にゆく。(※省略) 14:00花井夫人来り、17:00出てゆく。(※省略)

7月9日
よべ22:00ねて5:00前起床。和田統夫夫妻へ中元の礼かく。
村山氏より「1.安達先輩の了解を得ること、2.旗は能勢氏に送ること、3.残金は渡辺氏の所へ送ること」とあり。
一日中televiを見をり。西川きよしの10万票の夫人の寄与明らかにしてやすしは応援せざりしとわかる。(※省略)

7月10日
よべ22:00臥床7:30起床。(※省略) 初枝叔母より電話あり赤坂のプリンスホテルにをると。(※省略)
花井夫人より「田中雅子夫人に10号送る。5、6、7は汝送れ」と電話あり。20:35初枝叔母より電話あり。(※省略)

7月11日
21:00臥床1:30排尿に起きまた眠り7:00起床。(※省略)
15:00初枝叔母より「南阿佐谷出口にをり」と電話、われ駈けゆけばはるかに手を挙げわかりしと。家まで伴ふ。
同伴は姪にして和歌山大学医学部3年と。初枝叔母にユ相手し田中家の悪口いふ。われ姪相手に歌うたへば「旨し」と也。
昌三家の後継はこの子にして徳のいひし久美子でなし。(※省略)

7月12日
よべ20:00臥床、さめることなく7:20まで眠る。(※省略) 10:30出て(※省略) 市ヶ谷自衛隊会館に西川(※西川英夫)の勲3等祝をす。
西川会費を出し兼清幹事仕方なく寄付とす。会者8人、金沢出るといひしも病気と。
14:00中村治光写真をとる(われ帰れソレントをイタリア語で歌ふ)。(※省略)
不二出版より『日本学芸新聞』の復刻につき無料にて(※掲載記事復刻)許可せよと。(※省略)

7月13日(日)
5:30さめ6:00起床。安達遂氏に大球会東京支部の解散の了解求む旨手紙かく。村山高氏にその旨ハガキ。礼拝に出る。(※省略)
17:00瀬見氏来り梅干くれwhiskyのみ18:20帰りゆく(ユ海丹贈る)。(※省略)

7月14日
22:00就寝。7:20覚む。(※省略) 生駒の能勢正元へ野球部旗を送る(240)。佐伯に寄り『木曾路(200)』(※省略)。国友氏へ誤植のわび状。
佐藤方哉(53才)京王心理学教授教へ子(27才)と再婚と。(※佐藤春夫長男) 南阿の人種差別と万葉の山の辺の道のことteleviで見る。

7月15日
22:00臥床8:00起床。10:30静江母よりユに電話。
『五十嵐達六郎 : 人と業績』にかくと返事。1万円払ひ8月10日締切4枚也。
阪田寛夫「五十嵐日記・解題」よみ返す。阪田氏は阿部稀男のpen-nameにて『コギト』に書かれしことを知らず。
ユ13:30母へとゆく。母今年中と再びいふ。『成城通信』来り、ミリアム・スキー女史退職、野口君は1月死に、尾上氏名誉教授となりしと。(※省略)

7月16日
よべ2:00まで眠れず排尿後7:00起床。ユ150万円作りに奔走。(※省略)本多さんへゆく。
午后、船越苑子来る。体重40キロと!15:00去る。(※省略)

7月17日
よべ21:00臥床5:00起床。(※省略) 曽野綾子『戒老録』よみ了る。恩田氏に礼状。安達遂氏より「解散了承」と。(※省略)
本多喜一氏と(※土地借用につき)契約書交換。

7月18日
よべ21:00臥床7:30さめ8:30起床。(※省略) 成城学園より名簿2冊。(※省略)

7月19日
よべ21:00臥床8:00起床。ユ10:00母のところへゆき12:00帰宅。母元気と也。大に遇ひ、母冬までもつと也。
能勢正元より「旗受取った。三浦貢氏左半身不随」と。(※省略)

7月20日(日)
7:30起床。髭剃ってもらひ礼拝にゆく。知合は原夫人と次嬢のみ。帰宅すれば稲田一家をり。(※省略) 健太郎と将棋2番。禎子もけふは可愛し。
北の富士北尾に負け(※省略) 北尾横綱となる。

7月21日
よべ22:00眠り8:00覚める。(※省略)大高同窓会より「シンチンゲル先生の歌曲集reprintして送る。7〜800円」と。2冊たのむ。
北尾のシコナ双羽黒と決定。

7月22日
よべ21:00就寝。6:40起床。(よべ和邇女史より「今夜泊めよ」と。ユ病臥と断りしと。) 『五十嵐日記(阪田寛夫)』再読。(※省略)
第三次中曽根内閣成立。

7月23日
よべ21:00眠り5:30さめて排尿また臥床して8:40起床。能勢正元君へハガキ。13:00苑子来り、(※省略) 讃美歌盛んに歌ふ。

7月24日
21:00臥床5:00覚む。曇。暑し。朔太郎のことかかねばならず。(※省略)
多田稔君よりRobert Schinzinger先生の教へたまひしドイツ語の歌集2冊来り、送料とも1,760円と。
西川満氏より台南文化協会より「文壇耆宿」の賞もらひしと(祝のハガキかく)。
昭和20年以来の日記を検す。生活困難をきはめるも逃げ道を求む。統夫夫妻mansionの管理人となり、(※省略)

7月25日
7:00さめ排尿9:00起床。 (※省略) 西川英夫にシンチンゲル先生歌謡集送りに駅前〒にゆく。
昭和20年来の日記を検す。生活困難をきはめるも逃げみちを求む。21:30入浴後就寝。

7月26日
7:00起床。涼し。(※省略) 10:00山住dr.にゆき一週間分の薬もらふ。(※省略) 日記よみ返し彦根すむ。


7月27日(日)
7:30起床。夫婦とも礼拝休む。涼し。(※省略)  日記よみ返し壮年元気なりしことわかる。

7月28日
5:30さめ7:00起床。「萩原朔太郎先生(200×9)」書き〒へゆく。(※省略)


7月29日
9:00起床。(※省略)梅雨あけて暑し。富士ハウス帝塚山学院教授の日記よむ。
夜、司馬遼太郎「昭和10年より三権の外に統帥権悪用ありし」といふを聞く。

7月30日
21:00ねて6:00覚む。初枝叔母にハガキかく。(※省略) 苑子来る。ユ4日、5日に伊豆へゆくといふ。

7月31日
0:00ねて3:00さめ又ねて7:30起床。(※省略) このごろ昔の日記よむ。若くて精力的なりし。

8月1日
20:00ねて5:00さむ。(※省略) 石井正吉君より杉山平一『夜学生』を入手、「コギト・四季」文庫造りたしと。

8月2日
よべ20:00ねて7:00起床。暑くて終日家居。柳井道弘君より「朔太郎」の受取。(※省略) 村山高氏より「東京支部解散ご苦労」と。

8月3日(日)
よべ21:00ねて5:20起床。9:00出て礼拝。笹淵博士隣席。日赤の神崎院長逝去といはる。(※省略)
大より電話「咲耶来をり、悠紀子出せ」と。すぐ来るといひ、母のこと話さず。(※省略)
興地先生の娘中村マリ子氏(※省略)来て桃賜ふ。興地先生40代でなくなられしと。(※省略)

8月4日
よべ23:00眠り6:00起床。雨降りをり。ユ簡単permaにゆく。12:00すぎ京一家来り、13:30出発。湯河原の奥へゆきしと17:00電話あり。
弓子「あすの食事もちゆく」と電話かけ来る。(※省略)

8月5日
よべ22:00眠り6:00起床。食ひのこしのパン食ひて11:00孝行のもち来し午飯くひ、所載の冷房してをれば16:00弓子また鰻飯もち来る。
保田、竹内ともに癌にて死にしなり。我は無名にして長生きしをり。今夜五十嵐教授のことかかんと決心す。(※省略)

8月6日
6:00さめ「五十嵐達六郎先生の思ひ出」書き了る(200×16)。長すぎると削られることは覚悟の上である。(※省略)
書楽にて岩波文庫の『萩原朔太郎詩集(550)』買ひ、
山住dr.に糖尿の医師紹介してもらへば、丸の内の朝日生命研究所の羽倉綾子dr.に紹介していただき、
帰りて美紀子に電話すれば「留守」と。「帰ればパパの病気の医師への紹介状とりに来よ」といへば「わかった」と也。
17:00京母子と哲夫と帰り来り、一碧湖にゆきしと。美紀子つひに来ず。(※省略)

8月7日
よべ22:00ねて6:30起床。史へ羽倉女史への紹介状郵送の表紙かく。(※省略) 堺の南川より電話「また来よ」と、「老いてゆけず」と断る。
石井正吉君より「『西康省』4,000円は4万円のまちがひではないか」と往復ハガキにて問ひ来る。石神井書店広告にて見しを答ふ。
月刊『上州路』社へ(※萩原朔太郎につき)書くことなしと断る。
夜、昭和39年(※日記)躁にて斎藤病院に一時入院、その後も眠剤もらひにゆくを記すを読む。

8月8日
よべ20:00就寝。6:00さめれば(※省略) ユ柏井へ歯の治療にゆく。(※省略) 能勢より吉岡弥之助氏の病状。(※省略)
午すぎ苑子来り、ユともに出てゆく。けふ暦では立秋と。

8月9日
20:00ね、1:00さめ4:00起床。鈴木敬子へ縁談の断りいふ。夕立あり。昼食のあとユ戸田画伯にゆく。京より電話「あす午前中来る」と。
沢森芙佐子(※美佐子)氏より中島の本の序文、野田さんへ再び催促せんかと。「妹鈴木夫人と2人にて野田先生に序文たのめ」とハガキかく。
長崎は原爆の41回忌と。

8月10日(日)
6:30さめ7:00起床。8:00ユ戸田画伯にゆく。ユ、京母子来るとて礼拝休み、われのみゆく。(※省略) 礼拝より帰れば健太郎と禎子と騒ぎをり。(※省略)

8月11日
6:30起床。8:30朝食9:30山住dr.。ユ戸田画伯にゆきしに小林宏一郎物もちて来り、(※省略)
大高同窓会事務所多田稔氏より「原稿受取。刊行ほぼ順調」と。

8月12日
20:00臥床2:00さめ6:40起床。
10:00西川より電話「シンチンゲル受取った島稔の追悼文集に書いた。早大名誉教授の暉峻(※暉峻康隆)と対話す」と也。
鈴木敬子より電話、縁談せわして欲しき様子、ユにいへば花井夫人にたのむと也。バカらし。(※省略)

8月13日
20:00臥床7:20起床。ユ柏井歯科へゆく。ユ12:20帰り来り、すぐ能勢より電話「吉岡氏亡くなられし」と。
東京にては大球会より1万円お花料として献ずるといへば「そうか」となりし。(※省略) 弓子来り、(※省略)

8月14日
20:00臥床6:50起床。石井正吉君より中元。ユけふより一週間休診の山住dr.へと17:30出てゆく。
前川佐美雄夫妻へ『日本歌人』の礼状かく。

8月15日
18:00臥床2:00排尿、またねて5:30起床。けふは41回目の終戦記念日なり。やや涼し。苑子昨夜9:00月下美人もち来りしと。朝見れば萎れをり。
中曽根首相靖国神社へ参拝せず。昨年と異なり中国の抗議受け入れし也。(※省略)

8月16日
20:00臥床3:00排尿に起き7:30起床。ユ午后戸田画伯、
われは日記よみつづけ瘋癲の時のみユ代筆、父の死の前後はなく、阿佐谷に住みしところまで来る。
けふ平凡社より社の経営困難いひ来る(百科事典にて失敗せし也)。

8月17日(日)
よべ21:00臥床5:00起床。夫婦で礼拝にゆく。(※省略)
14:00植村清二先生よりお電話、退院してをられ『諸葛孔明』6版になりしと。「貴君、曹植はいかに」と。われ出版社きめをらず。平凡社ダメといふ。
日記よみ返しneuroseのところ書かずユに代筆たのみし個所のみあり。斎藤茂太先生の不親切なりしことわかる。17:00入浴す。

8月18日
21:00臥床6:00前起床。(※省略) ユ13:00母のところへゆき16:00帰り来る。

8月19日
よべ2:30までねられず6:00起床。入浴す。久しぶりに雨降る。このごろ頻尿症なり。ユにいはせれば変体期の徴と也。

8月20日
20:00臥床5:00起きる。書斎の冷房すれば水落ちることユ発見、夏も終りか。末吉より残暑見舞、珍し。

8月21日
曇。暑くよべ不眠。老人健診にて山住dr.の様子伺へば旅行らし。televiは三浦と夫人の離婚を報ず。わけわからず。(※省略)
わけわからぬ印刷物多く来り、鳥羽貞子女史の令息教師となり、その詩radioで放送される由。
『東京四季』来り、小杉茂樹君が首なり?!17:00入浴。

8月22日
よべ20:00就寝。7:00まで眠る。20分待たされ山住dr.。(※省略) 吉松彩子夫人より披露宴の時のわれとりし写真と夫婦のと来り、
大高同窓会『五十嵐達六郎――人と業績』刊行委員会井上庄七氏より「作業進行中」と。
正野虎雄君より「大高同窓会東京支部総会9.19、18:00国際ビル8階日本クラブにて会費7,000」と。「出」と答へん。

8月23日
よべ不眠。6:40起床。ユ戸田先生ハコネ泊りにて帰り来る。(※省略) 第4回「R火忌」を10.4京都にて1万円と、「欠席」と返事す。
読売新聞より『文芸年鑑』の原稿往復にて、そのままにて良しと返事す。(※省略)

8月24日(日)
5:00さめ6:00起床。夫婦とも礼拝休む。16:00美紀子来り『産経正論』大蔵省の官員名簿のりをればもち帰る。(※省略)

8月25日
21:00就寝。6:00覚める。(※省略) 11:00山住dr.満員にて令嬢受付。血圧105-70あす老年検診お願ひす。
集英社より『白楽天』の改版と定価改訂につき通知。(※省略)

8月26日
21:00就寝。7:00起床。8:35より山住dr.で老人検診、「金曜来よ。いまのところ悪きところなし」と。(※省略)
16:00京、健太郎、禎子2子と禎子の友達幼稚園児つれ来り、夕食大いに食ひ大騒ぎして18:00帰りゆく。(※省略)

8月27日
6:00起床。無為なり。ユ柏井へ歯の治療にゆく。〒なし。

8月28日
4:00さめ5:00起床。(※省略) 涼しくなる。

8月29日
よべ21:00前床に入り2:00さめ、あと睡眠感なし。7:00朝食10:00山住dr.で老人検査2回目すみ、あと肝臓のみ未定と。(※省略)
11:30中山正子夫人よりMelon!受取のハガキかく。

8月30日
よべ熱く窓あけ23:00眠り5:00起床。7:00朝食。13:00昼食。『東方学』来り、若者たち若い者ばかり也。

8月31日(日)
75回目の誕生日なり。よべも熱帯夜。21:30臥床。尿に起きあと睡眠感なし。5:30起床。(※省略)
ユ礼拝にゆく。われ髭そりもらひしも欠席。よべ睡眠感なれば也。終日televi見、古き日記見、22:00、Miss International見て就床。

9月1日
1:30尿に起きあと眠れず。5:00起床。11:00山住dr.にゆけば患者をらず。肝臓の検査再診と血採らる。
14:00久しぶりに苑ちゃん(※船越苑子)来り「公休なりし」と。船越の系図見せれば眼鏡必要と(46才なりと。依子は1才年上なり)。
「また」とMelon食ひて立ちしあと久しぶりに夕立。けふは防災記念日なり。

9月2日
よべ21:00ねて7:00まで眠る。小雨降りをり。午后28℃と。
成城より『名簿』2,000と。大野沢君(※大野沢緑郎)より「北欧の詩作れず」と。
ユ、柏井より歯の治療了へ18:00帰宅。
台風接近にてむし暑く眠れず2:00より起床。扇風機に当りをり。

9月3日
台風来ると。暑くて不眠。5:30起床。ユも5:00起き老人健診とて絶食。われ7:30朝食すます。
台風既に東京を過ぎしと也。大野沢氏へハガキ投函にゆけば雨降りをり。ユ入れ代りに山住dr.に検診にゆく。

9月4日
21:00就寝2:30小便に起きまたねて6:20起床。涼しくなる。9:00より残暑。
11:00山住dr.。「検診の結果まあまあ」と。血圧106-70。
15:00公園までゆきしも暑く帰り来る。今年一番の暑さにて36℃と。
宏池会代表、鈴木より宮沢に移る。

9月5日
21:00就寝、熱帯夜なりしも眠り2:30尿に起き6:00起床。
9:15ユ、山住dr.へ健診結果ききにゆく。血液の検査またと。
午后磐長谷知孝より「転社」と。

9月6日
よべ不眠。5:00起床。ユも起き来り7:00朝食。
すすめられて出て高円寺へ散髪にゆく。(※省略)
古本屋あけをらざる故、涼しき道選んで帰宅。入浴して汗ぬぐふ。
(※省略)昨日我「来月より東京新聞」と捺印す。(※省略)
大高同窓会東京支部総会(9.19 18:00会費7千円)を「用あり」と幹事正野君に電話して断る。
(※省略)ユ、戸田画伯へと出てゆき(※省略)小雨となりて帰り来る。
ボケ老人の話televiでやりをり、甚だ有益なり。夕方涼し。

9月7日(日)
21:00就寝、6:00起床。7:30朝食。9:00すぎ二人にて礼拝、聖餐式あり。(※省略)
0:20帰宅。体の汗を水で拭く。

9月8日
20:40就寝、不眠。5:00起床。ユに来れと母より電話。(※省略)
12:10ユ帰り、あまりゆくを喜ばず14:00前出てゆく。
15:00「中村橋にをり」と花井夫人(※花井タヅ子)より電話、「ひまなれば来よ」といへばユの帰宅とほぼ同じ16:00来り、次女の恋愛中の由報告し悠然たり。
(※省略) 今日は31℃か秋の花咲きそめしらし。(※省略)

9月9日
6:00前起床。14:00苑子来り、久しぶりにゆっくりし、咽喉医林dr.にゆくといふに同行し、別れて魚屋の前に出しにおどろく。
怠けて何もせず。午飯のあとのむ薬のせいか頻尿に困る。

9月10日
よべ不眠、5:00起床。7:00朝食。ユ11:00前に出てゆく。12:30昼食、televi映画見て眠ることとす。時に15:25ユは眠りをり。
20:30Raflesiaの開花せしを写す。

9月11日
3:30排尿に起きあと眠れず。5:00前起床。また排尿。(※省略)
昼食のあと14:00ユ銀座へゆき、われ留守し、歯はづしたまま駅までゆき帰り来る。
ユ17:30帰宅までtelevi見をり。21:00無為の一日暮る。

9月12日
よべ21:00臥床、5:00排尿、6:00起床。8:00朝食。
ユ、2ケの握り飯おき横浜へと出てゆく。(※省略)
敬老費5千円を(菓子別と)民生委員原田女史もち来たまひ恐縮す。都民税多額に払ひをれば当然なるも、この町に老人多きに吃驚す。
静江母の分はユ、途にて印押しもらひ来しと也。(我、印なしとて貰へざりし也)。
眠剤なく、あすは山住dr.にゆかざるを得ず。

※このさき9月21日の日記の途中に、
「中嶋康博氏より中也とわが詩とを愛すと。旧かな旧字旧文の詩12篇送り来る。」
と書き入れて抹消してある。けだし後から書き込まれたものか。
(私からの最初の手紙について、下書きが残ってゐたので掲げます。)

 拝啓
 田中克己先生、はじめて御手紙を差し上げる無禮何卒お許し下さい。今迄どうしやうものか何度も何度も迷って居りましたが、先生の御宅をメモを頼りに捜し出して表札の名前を前にした時にやっぱりどうしてもこれは御手紙差し上げて、何と思はれても構はない、自分の尊敬する先生にただ存在を知ってもらひたく思ひペンをとる事に致しました。
 私は地方から出て來て今一人で詩を書いてゐる非常勤の公務員をやってゐる者です。上京して三年目、25歳になります。周りに詩を語る友人もなく、もとより戰後の現代詩の歩んだ方向については少々懐疑的でもあった爲に同人雜誌に參加する事もなく、やりきれない心情で毎日の生活や詩生活を送ってゆくうちに、いつしか先生の詩を愛誦するやうになってゐました。
 詩には人に及ぼす各種いろいろな作用があると思ふのですが、泣けて泣けてしかたがなかった詩といふのは自分の場合、先生の詩と中原中也の詩でした。(※「偶得」「Ein Märchen」と「渓流」)
 私には先生の詩がわかるなどと思ひ上った氣持は一つもございません。ただ一世代飛び越えて自分のおぢいちゃんの世代の冷たくくぢかれた青春の歌を、この物質萬能ゆゑに同じくひしがれてゐる自分の時代の境遇に照らし合はせて読んで慰安を圖っているにすぎません。
 日本になくなってしまった風景を旅する爲に、私は昔の寫眞や文章を讀みます。さうして旅行をしてゐて山深く分け入ったところでさへ捨象しなければ見るに堪へぬ現代の風景といふものに、私はあぢけない喪失感を感じてやみません。思ふにその昔、コギトの人々の所謂イロニーとはそんなものの感じ取り方ではなかったかと、勝手に解釈して泣いてゐます。
 私の今ゐる上野の下町風俗資料館といふ所は、いはばそんな日本の風景からはげ落ちていった死骸のやうなものばかりで成りたってゐる資料館です。館長がいつも云はれてゐる「はたしてこの資料館が繁昌する事が良い事かどうかわからぬ」といふ言葉は、携ってゐる私どもの仕事の性格を物語って悲しい気持も致します。
 自分の事ばかり書いてしまひました。實は失禮な話ですが、先日詩の辞典なるものを立ち讀みしてゐて先生の項の所に没年なぞ記してあったので本當にびっくりしてしまったのでした。さうしてハレー彗星のこと(※「偶得」)などもしきりに思ひ出して目の前が眞Kになったのでした(※『日本現代詩辞典』(1986年2月おうふう刊)に於ける田中冬二との混同)。
 ところが後日、古本屋の人に、そんなことはないはずだときかされて住所をもとに先生のお宅の前まで確かめに行って、さうして以下は前述のとほり覺悟を決めて拙詩を一瞥して頂きたくペンを執った次第であります。
 本當はお目にかかってなにがしかの御言葉をあふぎたくてしかたがないのですが、それもまだ失禮の事ゆゑ、今は先生の葉書の一行の御叱声なりと承りたく思ってをります。12編同封致しました。他のものも私がつくるものはみな息が続かないせゐか短いものばかりです。もし何の御言葉もないやうなものばかりでしたら来年には仕事をやめて東京を去るつもりでをります。それでも今はあこがれの詩人の目に自分の作品がふれたといふ事だけで満足のやうな氣がしてゐます。
 季節の變り目、ぜひお體だけはくれぐれも御大切にされますやうに心よりお祈りしてペンを置きます。
  一九八六年九月十日   中嶋康博 拝
田中克己先生 梧下



9月13日
よべ21:00眠り5:30起床。ユ起きをり。中島康博氏へ「一度電話してお越し」とハガキかく。
ユ、柏井光一に治療にゆき10:10帰宅、10:20の待合せに悠々と出てゆく。
11:30平林女史ユを訪ねて来り「上がって待て」といへどもきかず「桑原さんの安否」問ひて帰りゆく。
12:00下痢。12:30伊勢スミ江より電話、ユ、帰り来る。

9月14日(日)
よべ22:50までtelevi見、8:00起床。ユ9:20礼拝にと出てゆく。我は留守電也。
ユ12:30帰宅。けふは副牧師さんの説教なりしと。televi見てすごす。
植村先生(※植村清二)より「会ひたし」との電話あり「その中参る」旨お答えす。
静江母、余命幾干(※いくばく)とユ5,000円届けにゆきての話なり。

9月15日(老人の日)
2:30排尿、6:20起床。10:00敬老の菓子一箱もらふ。
『日本歌人』来り、宮崎智慧女史第3歌集出せしらし。
小高根二郎『前川佐美雄9』『日本歌人』発禁となるを布告す。
ユ15:00すぎ静江母へ菓子もちゆく。15:30小林孝行来り、ついで弓子夫婦来り、ユの母より帰るを待ち17:30三人にて帰りゆく。
中島氏より「木曜午后来る。も一度電話す」と也。

9月16日
よべ不眠、5:00起床。6:30朝食後、下痢。止痢剤のむ。9:00山住dr.血圧130-75と高く薬加へたまふ。
正己先生に遭ひ挨拶す。本多さんに待合室で挨拶。
重久武志生より昨日出しのハガキに「義兄の失敗に連座したが幸ひ助かった」とあり「ガンバレ」と返事かく。

9月17日
よべ20:30眠り4:00ちょっとさめ、7:30起きる。睡眠不足とり返せし也。
10:20ユ、わが髭剃り出てゆく。曇なり。ユ静江母に区の菓子もちゆき柏井へ歯の治療にゆき11:55帰来。
午食し、雨水止みとなりしを知る。15:00前散歩にゆき高円寺など歩き都丸書店。
1,000円の本むりして買ひ国鉄にて帰り来る(120円)。
時に16:00、ユ、宅の前にをり。

9月18日 (※13:00-17:00 第5次『四季(9号)』、『上州路』頂く。)
よべ21:00ね、3:00排尿に起き、8:20起床。
9:00に川久保(※川久保悌郎)に電話「夕方ゆく」といへば夫人「よろし」と也。ヌルハチの満文訳借らんと也。
朝日新聞南阿佐谷販売所に「10月より不要」との手紙かく。
12:30台東区立下町風俗資料館の中嶋康博君来り、我が詩集多くもちをり(『西康省』と『神聖な約束』とのみなし)。
「詩心あり、書き方しらず」とのわが教へすなほにきき、ユの戸田画伯より帰り来りしに去る。
時に16:30にて「16:00川久保へ行く」と電話かけしゆゑあはてて傘さしてゆき、「論文まだ」と「羽田(※羽田明)よりも便りなし」などいふ。「我もなり」といひ、
今西(※今西春秋)の『満文太祖実録(※滿和對譯滿洲實録)』きけば「返した」と也。売りしならん。けふは大分ひどい目にあひし也。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇東大の学食ではおかずを食べず漬物だけで飯を済ませ、浮いた金で食い詰めた友人(共産同盟の橋本君)におごってゐたといふ話。
〇『詩集西康省』は、斎藤茂吉に文面で褒められたことが何よりうれしかったといふ話。
〇太宰治を(伊藤佐喜雄と)訪問したら、献呈した『詩集西康省』が定価で売れたと喜ばれ、結局その日にその分おごってもらったという話。
〇『詩集西康省』の本文和紙が縦目で唯一残念という話。
〇村上菊一郎に連れられて日夏耿之介を訪ねた話。はじめ15分しか会はないとのことだったが先生の話が面白くて長居となり、いくつか短冊も書いてもらひ楽しかった由。献呈した『詩集西康省』の難しさうなものばかり拾って良いと云はれた由。ただしこの先生の許には敢へて深入りしなかったといふ話(古墨や硯の話に閉口した由)。
〇『詩集西康省』を褒めてくれた蓮田善明に献辞した『大陸遠望』に対し、「現地で戦ってゐる人の事が書かれてない」と叱られ、敬遠するやうになった話。
〇初見の萩原朔太郎にそっぽを向かれてガッカリしたものの恥ずかしがりの所為だと後で分かった話。
〇パノンの会ではしきりに漢詩の決まり事を訊ねて来られ、「大学での講義で皆いねむりをするので、一寸おどかしてやらうと思ってね」と、メモをとってゐた話。
〇また一緒に歩いてゐて「その先生といふのはやめてくれ」と云はれ困った話。
〇朔太郎の「父の墓を詣でて」を朗誦される。詩中の「父」をキリスト教における「父」としても理解してをられる由。
〇軍属でシンガポールに行った時、麻の背広を着てホテルのプールで泳いだりできた話。
〇出征中の留守を托した大垣国司氏の話。極度の臆病で気が変になり、欄干を薪にしたり、預けた手紙を紛失させ、あげくに精神病院でいじめ殺されてしまったこと。
〇出征中、上官に反抗的で「君を兵隊にとったのは日本の間違ひだった」と戦友に云はわれたこと。
〇神保光太郎や北川冬彦がボケてしまった話。
〇入歯を外して湯呑みに入れて話される。話が乗って来るとソファの上に胡坐をかかれ、自嘲の際には頭の頂きをペチンと叩いてみせる。



9月19日
よべ21:00ねて7:50起床。8:30朝食。10:00朝日新聞来月より断りにとゆき、帰りて軟便。
14:00苑子女史来る。ユと同道して帰りゆく。
15:50花井夫人よりユに電話あり。花嫁候補ありとのこと也しも、丁度も一人ことわりしあとにて宜しく、ユ「帰れば電話す」と申す。ユ、花井夫人に電話「探す」と也し。

9月20日
よべ不眠、5:30起床。ユ散歩に出る。11:30依子より電話「望、上京。泊めよ」と、「承知。ユに午すぎ電話せよ」といふ。
植村先生より退院祝に紅茶賜ふ。13:00ユ戸田画伯と雨中出てゆく。17:00ユ、ずいきもちて戸田画伯にゆく。
中嶋君より「弟子になりし」と礼状※。20:30植村先生に『諸葛孔明(中公文庫)』の礼申上げ、「筑摩文庫の復刻か」といへば「全然別なり」と叱らる。跋文は新潟女子の後藤均平君にして前のままなるがわが誤解の理由なり。

※これについても手紙の草稿が残ってゐたので掲げます。

 前略
 先日は初対面の身ながら、長々と四時間も居座り、後で省みて實に冷汗赧顔、奥様にも大變御迷惑をかけてしまって、自分の生涯の中で最も忘れ難い一日の余韻に今はただ顫へてをります。
 先生の事を私の詩の先生として改めて呼ぶことをどうかお許しください。今の自分には民俗史学はおろか日本語の勉強さへも、やうやく和歌の一からやり始めようといふ段階で、到底先生の古今廣袤にわたるお話の相手として體をなさない不足者ではありますが、先生の詩心に必死にかぢりついてゆく覺悟だけは信じてください。
 先生が自ら口吟まれた朔太郎の詩(※「わが草木とならん日に」)、そして神軍の扉に書いていただいた歌一首(※ https://shiki-cogito.net/tanaka/shingun/shingun-0002.JPG)の心に、私は言葉が 見つかりませんでした。先生の笑顔が今も忘れられません。
 先生が保田與重郎さんのやうな方法ではなく、まともに戰争の痛手を深く被られたことの眞實の意味を、私は絶対に忘れることができません。戰前抒情詩人の功罪等と言う問題の立て方そのものが、意味をなさない問題の立て方なのではないだらうかといふ今までの予感が、先生と會ってお話を伺ふうちに、公に向かって宣言しないところでしっかりと堅まってゆくのを感じました。さうして浮き足だつ自分にさらに勉強すべき事を思ひました。
 先生に幾つかの詩をほめていただいた時は本當に夢かと思ひました。今、東京生活も三年を俟ってやうやく雲が霽れて星座が目の前に現はれたやうな、そんな心持がしてゐます。どうかこれからもいけないところや伸ばさないければならないところなど御教示をしていただけますやう心からお願ひ申し上げます。訪問のお禮の手紙ですのにお願ひをして終ってしまひました。近くまた愚作を持って參ります(あるいはあらかじめ郵送したほうがよろしいでしょうか)。學校時代のお話、詩人のお話もっと聞きたく存じます。
 それでは御禮かたがたお詫びを申し上げるべく取り急ぎ手紙で失礼をいたします。お体をお大切に。不備

追而
齒の悪い事も知らずにせんべいなど買ってきたりして申し譯ありませんでした。奥様にもよろしく御鳳声下さりますよう。羊羹おいしくいただきました。



9月21日(日)
よべ20:00臥床、6:00覚む。昨日の不眠とり返せし也。7:50手塚さん(※手塚隆義)より電話「諏訪神社にて待つ」と。北口天祖神社にゆけば無人、(※省略)
一旦帰宅して様子見ることとす。手塚氏より消息なく、ユ9:05に礼拝にゆく。
ユ12:40すし買ひ来り「諏訪神社は高田馬場、手塚氏女婿事務次官吉井氏の公舎」と。また「植村先生のお返しは時価5千円」と。
15:00散歩に出る。17:20中野まで歩き国鉄にて(120円)帰宅すれば、
京たち来ると電話あり。18:20来り、用意の雞、我もらひ母子3人食ひjuiceのみて帰りゆく。(禎子、本1冊もち帰る)。20:10帰宅。 健太郎より電話あり。われ入浴し「いのち」(※NHK大河ドラマ)見了り21:10就寝。

9月22日
よべ22:00眠り5:30起床。7:30望より電話、(※省略)
ユ、〒にゆきわが手塚氏の詫び状出しにゆく。午食まへまた眠る。
午食後14:10中野まで国鉄(120円)、北口の本屋見る。娘番しをり積みありし本、大部並びしも何もなし。
帰りまた国鉄にて15:00前帰宅。18:00山住dr.へゆけば血圧109-75、10日分の眠剤もらふ。
19:30望、同級生副島君つれ来り、夕食し入湯し同室にて就寝す。あす8:00すぎ新宿にてもう一人と会ふと也。

9月23日
21:00臥床、5:00起床。8:40、2児朝食して出てゆく。(※省略)
史夫婦「史10月4日Swissへ一週間ゆく」とて挨拶に15:00来り、15:15去りゆく。19:40夕食すまし入浴、20:30睡眠。

9月24日
8:00まで睡眠感なし。ユ居らずと思へば起き来る。来客なく前橋より『朔太郎論』来りしのみ。
14:30出て荻窪へ散歩。足疲れて帰宅。19:00夕食す。ユ、縁談にて苦労す。秋らしくなりし。

9月25日
よべ21:30就寝、一度放尿に起きしもまた眠り7:30起床。(※省略)
14:10出て1時間高円寺を廻り帰宅。『成城教育』2冊もらふ。よむにたへず。けふ植村先生へ礼状。

9月26日
よべ不眠、7:30起床。晴をり。
12:00下町風俗資料館の中島君より電話「けふ明いてゐるか」、ダメといへば「来週月曜」にと。「その日電話せよ」といふ。
13:30昼食。14:20入浴。14:30苑子嬢来る。

9月27日
22:00臥床、8:00起床。9:00朝食し、ユ10:00昼食用のすし2本買ひ来り、10:30吉祥寺へと出てゆく。(※省略) ユ 17:30帰宅。

9月28日(日)
よべ22:00就寝、7:30までねて睡眠不足とり返す8:00朝食、10:00ユ、戸田画伯へゆく。
河本律子へ「単身赴任の妻としてガンバレ」と。梁瀬和男氏へ「朔太郎の友人として」礼状かく。
午后、小林宏一郎自転車にて「父、北海道出張した」と土産の菓子もち来る。小遣ひに500円やれば「いらず」と。叱りてもちゆかす。
下痢にて(※省略) 20:00前NHKにて新城常三博士(九州大学教授と)の交通史の講義(特に伊勢詣り)あり。

9月29日
21:00就寝、6:00さめ8:00起床。朝食すまし新城博士にハガキ。小雨降りをり。
12:00前、山住dr.こみをり12:00診察。「胃腸悪し」と申上げ薬3日分賜ふ。
ユ、帰りをり「母、眠りてさめず仏壇に菓子置き来し」と。
12:30中島君より電話「来てよきか」と。ユをして「病中、来週にでも」と断らしむ。
17:00すぎユ、2回目母へとゆく。18:00魚屋来り600円払ふ。
ユ、18:30帰宅。静江母「眠るのみ」と。

9月30日
晴。6:00さめ7:00起床。8:00朝食。9:40ユ、母と柏井へ出てゆく。
手塚先生より「この間電話したことなし。上京もせず『史記』よむのみ。吉居時哉は大蔵省より国土省へ移りし云々」
大高同窓会より「正野君病気入院」とて(※省略)講師は25回文乙にて題目面白くなし。欠席とす。(※省略)
ユ帰りし直後豊田夫人習志野より来訪。17:00まへ帰りゆく。

10月1日
よべ22:00臥床、7:30起床。12:30手塚さんに手紙。正野君に見舞のハガキ投函。
小雨にて植村先生訪問をとり止む。高田瑞穂に11:00電話すれば女孫「外出」と。
今日より朝日止め東京新聞となる。『成城文芸』1号ぬけて贈らる。
20:00すぎ湯わかし、高田に電話すれば出て来て「元気」と。「講談社より本出す」由。入浴し21:00就寝。

10月2日
よべ不眠、7:00起床。9:40ユ吉祥寺へ出てゆく。われ下痢。苑子来り(14:00)話しゆく。
和田統夫のadressしらす。16:00石井正吉君より「土曜午后来る」と。
(来週月曜午后中島君来ると也。植村先生へゆく日あととなる。)
花井夫人、ユの買物に出しあと電話「(悠紀子夫人の)画もらひに来る」と。
「よし」といふ。16:00なり8:00すぎ画もちて帰りゆく。

10月3日
よべ21:00床に入りしも眠れず。2:00、5:00排尿、8:30起床。
原因は運動不足なり。10:30高円寺へ散髪にゆき11:20帰宅。
植村先生へ午后ゆくこととす。13:00家を出、植村邸に着けば先生応答され入室。
カステラを令孫にと呈す。先生ごきげん悪く、関帝信仰など応答したまはず、孔明廟のことも早々にすまされ、
柳田図書につき我を叱られ珍書見せらる。国男の署名ある寄贈本なり。
LoebとHeineGeldern の “Sumatra”の民族研究所の訳は略訳なることを示され、叱られつづけにて17:00までをり。
駅につけば日暮れんとし阿佐谷では19:00に近し。
21:00入浴し悪夢の如き一日を了ることとす。(※省略)

10月4日
よべ23:00ごろより眠り5:00さめ7:00起床。ユ起きをり。8:00朝食。
8:50山住dr.にゆき老人検査の間まち、不眠症の薬とVitamin剤と10日分もらふ。
集英社に『白楽天』一部買上げと送料とを印税より引き植村先生に送ることをたのみ、
八木敏雄氏に礼、東方学会の秋季京都伏見での総会欠席をハガキ3枚にかく。
石井君来り(14:00-17:30)、「四季・コギト派」集めると。東電に入り京と同い年(※38才)と。20:30入床。

10月5日(日)
22:00臥床、6:30起床。朝食とり髭剃ってもらひ礼拝にゆく。長老概ね来り聖餐式あり。
すみて(※省略)2人して阿佐谷に帰り、南のすし屋にて鮪のすし2本買って帰宅。
入浴して尾骶骨痛めしことわかる。ユ、専ら縁談に奔走す。
夜Seolのアジア大会開会式、ついで女医の話見て眠ることとす。
中島君より「あす午后」と電話あり。

10月6日 (※13:30-17:30)
21:30臥床、7:50起床。9:00すぎユ、山住dr.と荻窪へ出てゆく。尻痛し。
山住dr.によれば老化現象と。大高同窓会へ欠「会費3,000払へ」と。
(※13:30)中島康博君来り、詩見せ18:40田端へ帰りゆく。※

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇南方で中島健蔵に睨まれた話。将校たちを周りにおいて「最後はインド洋でドイツと決戦する」などと云ってゐた由。
〇中河与一に対する印象を戦後に大きく変えた話。
〇保田與重郎の話。二度目の出征の途次、保田兄弟と出会った時のことや帰国後、奈良で世話をしてもらった住居での苦労ほか(神社に養子に出た弟さんと仲が良かった由)。
〇キリスト教入信を知った三好達治が「それでは詩も書けまい」と云って詩人の集まりで斜め前に座ってゐたのに一言も声をかけてくれなかった話。


10月7日
21:30臥床、6:30起床。尻痛く湯沸かす。12:30昼食後1時間散歩。
高円寺までゆき雨模様なるに帰宅。(※省略)
夜、新城博士より「ハガキ見た。伊勢参り削られた」と。

10月8日
22:00臥床、2:00排尿に起き、またねて7:40起床。8:00朝食。
ユ10:00買物に出てゆく。東洋文庫の講座案内来り「火曜の18:00-20:00」と。出席できず。themaも面白きものなし。
新聞夕刊に福知山より出土の景初4年(正月のみ)銅鏡につき真贋説を記す。日本製なるらし。(※省略)

10月9日
21:00臥床、2:00起き8:00起床。下痢にて11:30山住dr.4日分の薬もらふ。
13:30苑子女史来り、14:00ユ(perma)と出てゆく。
15:30散歩に出しも尻痛く帰り来る。16:35肴屋魚もち来る(650円と)。
20:00夕食すまし20:25入浴。

10月10日(体育の日)
7:00起床。ユ9:30京の子らの運動会にゆくと也。10:30すし買ひにゆく(350×2)。12:00肴屋魚来り650円払ふ。(※省略)

10月11日
よべ20:30就床、2:00排尿、睡眠感なく8:00起床。朝食に昨日のすしの残り食ひてまた就寝、眠れず。
ユあす青梅へゆくとて準備にあけくれす。八戸の圓子哲雄氏より詩集もらふ。350部限定のNo.11と(1500円)。

10月12日(日)
よべ21:00ねて4:00さめる。7:00起床。pao食べさし8:00ユ青梅へ写生に出てゆく。
17:00帰り来り水彩画かきしと也。

10月13日
よべ21:00臥床。炬燵の線はづれをり、寒くて眠れず。7:00起床。米ソIcelandで会談、決裂せしと。
ユ10:00吉祥寺へと出てゆく。われ入浴。
圓子哲雄氏へ詩集の受取をユ投函。石井正吉君より夫婦にそれぞれ礼状。18:00夕食し、19:00入浴。

10月14日
Parisにおける大角力見て21:00就寝。1:00排尿に起きまたねて6:30起床。6:20震度2の地震ありしと也。
9:00ユ柏井へ歯の治療にゆく。14:30散歩に出15:30帰宅。
禎子の画と西武の朔太郎展の入場券、D’Avinciの最後の晩餐展の切符入れあるを京送り来る。

10月15日
よべ22:00臥床、ユ、先に寝る。6:45起床。8:00朝食。ユ、史にITTの申込みすべきや否やきけば「すべし」と也。
(※省略) 林より「N.T.T.の株買へ」と電話あり。(※省略) 太田夫人の知合の娘と江川青年の見合19日にすることになりし様子也。

10月16日
よべ22:00ごろ電話2回ありしもユ眠りて出ず。6:30起きる。
9:00出てゆけば映子に遭ひ「姉、早出せし」と急ぎてかけゆく。高円寺にて散髪し、(※省略)郵便局にてはNTTの株買ひに行列しゐるを見たり(ユも見たりと)。
17:00山住dr.にゆけば「時なし草」といふをききたまひ、『牧野植物図鑑』にもなく「両性の家」かとでたらめお答へす。『ラテン語辞典』を買はんと思ふ。

10月17日
よべ2:00排尿、そのあと眠り9:00起床。ユ出てゆく。われ10:00すぎ都丸へ出てゆく。(※省略)
都丸にては夫婦をりLatin語をといへば4万5千円の『Oxford Latin Dictionary』の新本出し来りし故、1万円置き借用書かいて持ち帰る。
重くて山住先生へゆくユに「昨夜問はれし原語聞き返せ」といへば「忘れねば」といひて出てゆく。
ユ帰り「待つ患者多き故Vitamin剤のみもらひLatin語きかざりし」と。
京、来るとて待つ。松枝茂夫氏より『中国名詩選 下』贈らる。京11:30来り13:30去る。ユ共に柏井歯科へと出てゆく。
17:30山住dr.へ。『ラテン語辞典』もち置いて来る。患者多くをり。(※省略)
入浴して出て来れば植村先生より電話、『白楽天』受取ったと也。
我は「ハアハア」とのみいひ、斎藤勇博士のこといへば(『杜甫』の著者として)先生怒られず電話切らる。結局「受取った。ありがたう」なりし也。

10月18日
2:00排尿にさめ7:30起床。松枝茂夫氏へ礼状投函。寒くなる。
ユ11:30山住dr.へゆき血圧高かりしと。『ラテン語辞典』返却してもらひ12:30阿佐谷へ見合にと出てゆく。
われ『私の中の日本軍 下』よみつづく。比島戦の実況報告なり。(船越家と絶縁せんと思ふ。)『白楽天』来り、紙多くはさみあり。
ユ15:00帰り来り、花嫁候補(※省略)赤坂Prince Hotelで見合と也。19:20夕食すむ。けふより寒し。
山本七平『私の中の日本軍 下』21:30よみ了り就床することとす。

10月19日(日)
3:00排尿に起きるまで眠れず7:00起床。ユのみ礼拝にゆく。われ『白楽天13版』の2ヶ所の誤植訂正し集英社日置智久氏に送る。
村田幸三郎へ「whiskyのみに来よ」とハガキかく。ユ銀座の画展にゆき「戸田先生以外はダメ」といふ。「同期の卒業生にて静物画ばかりなりし」故と。

10月20日 (※13:30-17:30 『白楽天』頂く。)
21:00ねて7:00起床。8:00朝食。ユ9:00にと柏井歯科へ急ぎゆく。11:00入浴。冬物下着に着かえる。ユ、戸田画伯。
下町風俗研(※ママ)の中島君より「13:00来て宜しきや」と。「宜し」と答ふ。13:00すぎ中島君来り18:00すぎまでをり『白楽天』もちゆく。
苑子女史1時間ほどをりしと。我は会はずにすむ。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇立原道造の話。病院には二度見舞ひ、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の写真を持っていった。女性の姿は二回ともなかった。
〇萩原朔太郎が天国か地獄かどちらに行ったか聞いてみたら、神がかった巫女(保田與重郎から言ひ寄られたといふ歌人)が苦しみ出したといふ話。
〇動物にあまり興味がなく(むしろ植物)動物園には行かない。自身の撫で肩の風貌は中華系で、終戦後帰国するまでの間、中国服に着かへて誰からも怪しまれなかった話。私は日本人で通る顔で、名前の印象が硬い由。いつも躁の時に訪ねてきて運が良いね、鬱の時は「死んだほうがまし」の心境で誰にも会はれぬ由。

※また訪問後に出した稚拙な礼状の下書きがあるので掲げます。
前略
 本日は先生に見せずもがなの旧作などお見せしてしまって、大変失礼だったと反省しております。先生の目に今日はいつになく厳しいものが感じられた時間があったのも、もしやそのせいではなかったかと後悔しています。本当に納得のいくものでなければ発表するものではないと言う事、教えていただきました。
 先生にお話ししたように、今の自分には憧れと不満とが、各々水と油のように分離してしまって、それが極端に古風を愛したり、翻ってはドロドロと感情を垂れ流しにしたりしていて、ポエジーの分裂さえ起こすこともままあるのです。憧ればかりで固められた詩は偽物と呼ばれることを怖がり、不満ばかりで書き立てられたものは汚らしい姿を負ひ目のように嫌がっています。先生に指摘されたように、私にはまだ何の苦労もなく、したがって憧れと不満の両者を貫き通すはずの「悲しみ」みたいなものに不足があるのかもしれません。今となってはそれが一つの「諦め」です。憧れを抑え、不満を矯めて、がんじがらめの詩を作ることが自分の詩の情けない理想です。その中で氣弱く笑うことだけが現代の抒情詩に許された表情なのぢゃないかとさえ考えることもあるほどです。
 先生が私のことを弟子ではなく友人であると厳しく区別されたこと、今は意味は分かりませんが、頂いた白楽天の詩集とともにかみしめたいと思います。ただ先生の「萩原先生」同様、これからも「先生」と呼ばせていただく事はお許しください。先生は「躁」になったり「鬱」になったりするとの事ですが、私は一人の時はいつも「不安」です。自分のことをそのように客観的に見つめようとすると「躁」「鬱」といった極性で現れずに「本物」と「偽物」という形でグラグラ揺すぶってくるからです。季節の変わり目とかではなしに、不意にやってきて、自分を不安のどん底に叩き込んでめちゃくちゃにしてゆきます。こんな時は先生が嫌いだとおっしゃったラスコーリニコフやあるいはカラマーゾフのイワンの事なんかも解ったりします。トルストイはまだ読んではいないので、私の世界観などまだまだ身勝手なところが多いのです。
 とにかく文学の事だけを考えて、この冬は籠り過ごそうと考えております。
 それではまた次ができてもできなくてもお伺い致したいと思います。先生も風邪などお引きにならないよう、くれぐれもお体だけはご自愛下さりますよう、末筆ながら申し上げてペンを置きます。



10月21日
よべ21:00臥床、眠れず3:00排尿に起き7:40起床。運動不足のせい也。10:15ユ、荻窪へゆく。11:30より入浴。
ユ12:00帰宅。「静江母へ寄れば眠りゐし」と。福地君(※福地邦樹)より「中也すまし静雄を講ずれば受講者半減」と。
成城大学文芸学部より「学園棗栗七十周年記念の『成城文芸』に30枚書くや否や十月末日までに返答せよ」と。
涼しくなりけふは富士山まっ白となりし由。あすは雨のち曇と。

10月22日
20:00就寝。5:00覚める。7:30起床。雨模様。昨夕、豊島博士の講義televiでききし故、夫人(高松、坂根と同期6回生)にハガキ。
雨中出勤の末富茂樹氏に遭ひて挨拶す。『成城文芸』に1月20日までに400×30「中国近世文学の助数詞」かくこととす。
(※省略)藤枝の女詩人、原利代子氏、ハレー彗星のこと歌ひ中国へも行ってゐるに感心す。安西均君の跋にわが「ハレー彗星(偶得)」愛読のことしるしてゐる。重ねて礼状かく。

10月23日
6:00まへ起床。7:00朝食。9:00すぎハガキ投函にゆき山住dr.。あまり待たず診察、血圧106〜と低し。1週間分の睡眠剤もらひ帰る。
ユ出てゆきしあと西川(※英夫)に来し長野敏一より電話「講師してをり」と。「ゆっくり来て俺とこにも泊れ」といへば「さうする」と。
林郁『満洲、その幻の国ゆえに』よみ了る。引揚者の受け入れの困難を記す。
成城大学民研より「柳田文庫特別展」と「千葉徳爾氏の特別講演」の案内来る。やる気なし。
中島君に『白楽天』返せとハガキかく※。17:00川久保に電話すれば「あす本返し かたがた来る」と。

※この手紙への返事の下書きがあるので掲げます。頂いたハガキと共に26日(日)朝、礼拝で留守中に自宅ポストへ投函した。
拝復
二十五日(土)夜、お通知(※『白楽天』を返却せよとの手紙。本と一緒に返却したので残ってゐない。)受け取りました。先生とのお話の感動冷めやらぬうちに急ぎ書きしてしまった手紙 が、先生のお気に障ったのではないかと大変心配しております。
『白楽天』は「賀雨詩」のところまで読んでいて、今度お伺いするときには読み終えてお伺いする予定でしたけれども、直ちにお返しに上ります。 新たに書店で買うことに致します。あの手紙を読んで「そんな弱気な事でどうするか」と叱咤されている先生の面などを浮んで大変苦しみました。 もしかしたら御本をお返しした後で、出入り禁止を言い渡されるかもしれないことを思い、そしてそんな時には多分自分はきっと何も言うことができないだろうと思いますから、この手紙を書くことに致しました。
 先生の『白楽天』が私にとって役に立たないと先生がおっしゃったのは本当に寂しかった。先生の温かい目で見守られているうちに私は何か大切なものを踏み外してしまったと思いました。それから手紙で人に自分の思う筋を伝えることがいかに難しいものであるかと言うことも考えました。
 この手紙がそうして第二の誤解を生むことを恐れています。自分の全部を投げ出して最初に先生にお便りを差し上げたら、それは先生に通じたのでした。ところが今度の投げ出し方には弱気なところと、それを認めてもらおうとする甘えがありました。謙虚に反省しております。詩を書くときにそういうものが一番の敵なのでした。今の自分には甘えよりも良い詩を先生に見てもらうことが第一番だったのでした。
 もしお伺いした折に先生ご立腹であっても、これを読んで「また来なさい」と言っていただけるように、良い詩を書くよう心を入れ替えて頑張ってゆきます。不一


10月24日
よべ眠れず2:001服のみ7:30起床。朝食後9:30ユ、戸田画伯へゆく。11:00丸木夫人より電話「田中秀子ガンの見舞にゆきゐし」と。
(※省略)(3:30川久保に電話すれば「1時間してゆく」と。)来て今西春秋の話すれど通ぜず、甘酒喜んで食べてゆく。
人参の学名知らず、満洲語の勉強すすめれば「もうおそし」と。日くれ早くあすも寒からん。
集英社より『白楽天』の稿料を太陽神戸銀行に「けふ入れし」と。筒井護郎よに「その後いかに」と見舞のハガキかく。21:00就床。

10月25日
5:00覚め7:30起床。9:00瀬見伊三郎氏(※都丸書店)に電話「借金10:00もちゆく」といふ。(※省略)
10:20瀬見の店にゆき『ラテン語-英語辞典』の払ひすまし、4冊買ひ、(※省略)
電話でたのみし佐伯さん来り、3山の本を8,000円で引取り呉る。(※省略)
神田信夫教授に電話すれば夫人出て「文庫よりまだ帰らず」と。「田中克己より電話あり北京の便りの礼」といへば「承知」と。
(川久保にきけば「岡田英弘と旨くゆかず」と。) (※省略)
20:00羽田君に近況話さんときめ電話すれば「東洋史談話会には出ず。日を改めて会はん。その機に川久保に通知す」となり。
川久保に電話すれば令嬢出て「父はいま仙台、帰ればその旨いふ」と也。
国学の四大人をユ、春満、篤胤、真淵、宣長とほぼ覚えてをり。20:40就寝。

10月26日(日)
よべ22:00床につきしも眠れず2:00排尿、7:30起床。上平生つれて帰るか共に飯にくひにゆかんと考へし也。
9:00礼拝の用意す。ユ、秋津へゆく。「バザーなり」と。10:00礼拝に出る。副牧師さん説教。畑谷博子隣にあり。
すみて三鷹にゆき160円にて畑谷家にゆく。主人をり名刺もらふ。夫人つれて帰宅17:30までユを交へて話しゆく。帝塚山の短大3回生なり。

10月27日
22:00就寝。4:30覚める。8:00前、筒井に電話すれば出て来て「まだ入院中、大和の地面は売りし」と。「東京へ一度来い」といへば「ウン」と。
畑谷(上平)女史に(※省略)電話すればをり「昨日はありがたう」といひ、ハガキで「教会へ誘ってすまなかった」とかく。
15:30ユ、静江母のところへゆく「可哀想ゆゑ」と。
佐伯へゆくつもりでボロ本屋に入り岩波文庫『平家物語2冊(1,000)』と『南京大虐殺のまぼろし(300)』買ひ来る。
丹波鴻一郎に電話すれば不在。不必要な一言し幹事役になれぬことを痛感す。(※省略)
(山住dr.にnude週刊誌置きあり、我かと疑はれしと。克己閣下に滝川先生の本貸せしを夫人dr.にこぼしをられしが原因とユの話)。

10月28日 (※18:30-21:10 天重御馳走になる。)
よべ22:00床に入り5:00さむ。寒し。村田幸三郎に電話し「酒飲みに来い」といふ(村山高氏に会ひしも元気と)。
丹波鴻一郎に電話すれば「土曜にしてくれ」と。これも働きをり(同族会社)
村田幸三郎に電話し「酒のみに来い」といふ(村山高氏に会ひしも元気と)。田中初枝に電話すれば「史に礼したし」と。「不要。一度上京せよ」といふ。
後嗣の嬢は妹の子で異姓(杉浦でなし)との由に「一度ハガキくれ」といふ。
小高根太郎、川久保に電話せしも応答なし。中島君に「今夜来い」といへば喜んで「来る」と也。
12:00田中久夫氏に電話し「一度来たまへ」といへば「来月にでも来る。小金井に来て一年」と。
12:00の放送で文化功労章に山本達郎氏選ばれしと。高田瑞穂に電話し「会ひたいが成城きらひ」といへば「やや元気になったが淋しい」と也。
丹波鴻一郎にクラス会のこといへば「土曜でなければダメ」と。川久保に電話せしに応答なし(午后夫人留守にて2階にゐしと也)。
午すぎユに2万円もらひ、佐伯(※駅前古本屋)にゆき『和独辞典』、『漢字を食べる本』、『朝鮮の通過儀礼』、『明末農民反乱の研究』、『龍図耳録2冊』にて1.7万払ひて帰り来る。
ユ、昼食後、銀行に金出しにゆき母に足袋(西友、西武の野球勝ちし故割引と)買ひにと出てゆく。
(川久保にやっと電話通ずれば「羽田に通知せし」と也)。
途中、山住正己氏に遭へば「(※第5次)『四季』やめとなり残念」と。われ「君が代」と「日の丸」復活残念といひて別る。
昨日山住dr.より「猥褻雑誌もちこみしならずや」とユいはれしあとにて、うれしさ2倍なり。
15:30畑谷(上平)博子に電話すれば出ず。共働きか。築島謙三博士なつかしく電話すれば外出中と。子息「よろしく」と伝言たのむ。
村田幸三郎より「この間、中隊の会をし村山さんにも会った云々」。
17:15築島博士より電話「声若し」と。「入歯はづしをり、その内会はん、ただし喫茶店はいや」と答ふ。野口君と和田君とのことはわれ話しをりしらし。
小泉八雲の曽孫のこといへば「父を知りをり、母は成城出」と。
恰も悠紀子茶を買ひに出てをり(母のところへゆけば「冷蔵庫昨日掃除せし」ときれいにしてをりと。われやさしき声なりし由)。
中島君19:30来り、21:20ユに促されて帰りゆく。富山大学出にして数学好きと。頭良くアルバム見て井伏・海音寺を見分く。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇『白楽天』は君には難しすぎるとのことで文庫版の詩集を貸して頂く。
『アポリネール詩集』、『佐藤春夫詩集』、『月下の一群』、『三好達治詩集』、『堀口大学詩集』、『高橋新吉詩集』、『新編シラー詩集』



10月29日
よべ22:00前ねて2:00にさめ5:00起床。外池昇に電話すれば「3月2日14:00来る」と。小泉にかからず。
7:30築島博士にかけしも応答なし。8:00電話すれば「別居せし」と。「連絡してくれや」といへず「出来ず」と。
高田瑞穂に電話し「11:00ゆく」と云へば「来い」と。11:00高田にゆけばいよいよ老衰の気配強く、
「名誉教授室」を作らせんとが成城学園の希望にて、栗山、池田(※栗山理一、池田勉)らの老衰につかず。
帰宅すれば正野君より「退院した」と電話。次の三火会は福永英衛門の話にて、それ迄には瘉ると也。
ユ17:00すぎ帰り来り、17人集まりみな不幸と。矢野峰人先生の次男好弘氏より『歌曲集2』来り、天野忠、大野新らの詩に曲つけむちゃくちゃなり。
先生の『黙禱』回顧なる文のりをり。先生の詩の曲は好弘氏にしてこれはよろしきらし。
高田君の「老衰につき注意せよ」と嫁に電話すれば途中で切らる。ユにきけば「(※省略)遺産相続権あり嫁は無関係」と。

10月30日
よべ21:00ねて2:00排尿に起き、7:00起床。
7:30畑谷(上平)に電話し、共働きにて成蹊大に勤めると。非常識わびれば「ハガキかいた。仏教のことは奥さんにきいたでせう。結婚後15年」と。
咲耶に電話すれば「肝臓わるし。亡くなりし岑夫の金にてやっと食べをり、幸夫には命じて訪はす」となり。
9:00すぎ中島保博君(※ママ)に電話し「『白楽天』は他にやった。貸した文庫本(※鴎外訳『即興詩人』と『月下の一群』)よめ」といへば「ハイ」と。
10:00山住dr.へゆき「変な本(※エロ本など)もって来ず」といへば「すみません」と。「躁」といへば睡眠剤変へたまふ。
瀬見伊三郎君に電話し、高田の病状話し「[換]金もしくは市場出しを佐伯とともにやってくれるや」といへば、瀬見「応」と。「今夜来い」といへば「来る」と。
矢野好弘氏(峰人博士次男にハガキかく。昨日か電話せしも「鬱病」とてあやまりし也)。
11:00浅野晃氏に電話すれば「R火忌に中谷孝雄と出し」と。中河与一、中島健蔵のこといへば「同感」と。「書け」といへば「書く、その中ゆく、奥さんによろしく」と。
伊藤徳子に「上京せずや。やむを得ねばわが家にて世話す」とハガキかく。
花井タヅ子に電話すれば「次の幹事は和田さん」と。「それなら出ぬ」といひ、ユの画の礼いへば「今、応接にかけあり。主人は何もいはねど幸せな人の絵といひし人あり」と。
苑子13:30来り、『女性対男性』やり、わが病気いへば14:30ユと荻窪へと出てゆく。
堀川博士に電話し、福永英ヱ門のこといへば「知らず」と。高田瑞穂の病状いひ「成城でよくおいてくれた」といひてすむ。
北町一郎に電話すれば「娘方にをり」と「電話(※省略)」と教へ「夜かけよ」と也。
中島康博に電話すれば(※2度目の電話)『月下の一群』よみをりと。これにも躁鬱症教へ「ジャム好きになればわが党」といふ。※
ユ、金貨のくじ01当りしとて1枚京にゆづらんとして電話せしも留守らしかりし。
瀬見夫人に「今夜酒のみに来い」といへば「8:00の片付けのあとでなければダメ」と。
7:00夕食して待ちをれば20:05分来り、サントリーウィスキーのみ0:30までゐし。梅干を土産にもち来る。
 (※以下軍隊時代の回想。途中より躁による文節無き記述に変る)
わが「軍隊生活で銃一発も打たざりし」を云へば「戦斗で中国兵を殺せし」と。
わが一等兵で29.50銭もらひ、ソ連越境中立条約破りしとの報に、林伍長と酒のみ一週ガヤガヤのあと、
老中隊長(荒木修少尉)保定の軍病院より帰るまで、
中尉は妻子を東北の開拓団に置き来り、「妻子がもし凌辱されをればどうする」との答へに
「日本軍もやったのだから仕方ない」と答へます。
「抵抗しなくても日本軍もやったのですから許します」と答へ、彼の法華経の太鼓打たずなりし也。
「おれも許す」が彼の答で、荒木修中隊長帰りしあとは元気なく、鹿児島出身の副官の後任となりし也。
われ憂鬱にて望都県にて平漢線の警備に当りゐし時、脱走を計画せしに、
小林は城壁よりて馬車にのり、我は前夜30分の睡眠と情報室の仕事に八路軍に脱走を計画しゐしに、10月10日は双十節の日。
Spyの少年「八路軍数万」来襲との情報もち来り、数百人と翻し、折しも着きし大同炭鉱の引上げ列車にタバコやれば、
「酒は何とかなりませんか」との礼に「なでればつけ上る」と。それは私の手に余るといひ、
20:00始まりし攻撃に西尾ら情報室も応戦し、敵の本拠の関帝廟の焼くるを見しあと列車にゆき、
「異状ありませんか」と連呼せしに応答なく、失望せしも20日除隊とて、荒木隊へゆき中隊長に申告し、
粗飯くはされ全田の大中隊の弟の入墨あると「軍隊へ来ても就職[運]動せしか」となぐられしこと忘れて、
新しき下着と新しき靴はき、他の加給品は駅前の巡警に売り、他は北京の岡田家へゆき3女と話す。
先づ入浴して下衣洗ひ、軍隊のシラミおとせしあと、次女国分節子の勤労先の課長への電話さし、
天津の数男に電話すれば、「尚子(ヒサコ)分娩におしめなし」と。
われ闇切符の売場で売人より闇切符かへplat homeへゆけば巡警にこれは何だといはれ、
「おしめ」の中国語わからずあけて見せしゆゑ「我是日本人」といへば「宜し」となり。
天津東站につけば国府軍の副委員長来信とのことに途一杯に学生をり。
われ裏を通って日本租界に入り、東海林歯科医院につけば■井盛君、東海林氏の東北にゆきし留守に開業しをる。
数男はその助けをし、朝は豆腐を食ひに誘ひ、タバコ代もくれるとなりしは、
あとにて西川、山内四郎に会ひ、西川北京在住の同窓生の名あげてくれ、
北京に帰り節子を西洋市場につれてゆき、我は岩波文庫の与謝野晶子集買ふ。節子の何買ひしは知らず。
秋の北京の好々を満喫せしも、故宮博物館に入れば「大和殿」に中国派遣日本軍の代表の署名せし机を置き、あとは八旗兵の軍服飾りあるのみ。
これにて中和殿保和殿の見学やめて、文殿閣へゆき(その前、外城で華服と靴とを買ひ、長靴は新華街1号の岡田家の内外に売りをれば、情報室長の斎藤中隊の連れし4人の将校来り「我が主張に従ふ」と。我断れば岡田少佐に「貴方は何期の先輩なりや」と問ひしも答へたまはず連中帰りゆく・・・

10月31日
よべ全く不眠。瀬見君の0時半まで酔ひてからみしせい也。山住dr.に不眠いへば食後の薬賜ふ。(※省略)
7:00朝食とり、むりに出てタバコ屋にてハガキ5枚買ひて金くずし、代々木(160円)、東豊へゆく。
(※省略)姪をり日本語旨くなりをり。(出るまへ苑子より「縁切る」といはれし也)。他人の方[が]楽なり。
ゆっくり見てゐる内、簡君来り、11:00とて、とりしラーメン食ひ(1/4)、『近代東北区域研究資料目録(5,000)』買ひ、
ハガキ5枚をタバコ屋で買ふ。また『日本農民反乱の研究(5,000)』も買ひて代々木へゆきし也。
簡さん方、豪氏病気にてむりに会はせしと。それにしても無音は変なりし。(内原訓練所長は加藤完治とユ思ひ出す。)
また来るといひ、高円寺下車。都丸の瀬見君に会へば眠りし顔しをり。
『一視同仁の果て(500)』、『トレック展(500)』買ひてより、阿佐谷に帰り、苑子と縁切る。
瀬見君来り『天皇・現人神(1,800)』にて1万円札出せば釣銭なく5,500の借用書置きwhisky呑まずユの買ひ来しすし1本を食ひ帰りゆく(紀州の梅、土産にくれし)。
畑谷博子より手紙もらひし故、我はすし旨かったと礼かく。但し教会を知りをりし故信者かと思へば仏教信者と!わがうたをいかがききけん。
中島康博、朝は公用以外は話せぬので失礼したと。われ別に気にしをらず、ただ勤め先へゆく気なしといふ。※
太田夫人よりユキ子に電話、「22:00ごろ帰る」といへば、太田の嫁の親の知合の30才の男(東電・東大出・江川氏の息子の知合)の男の嫁世話せよ、太田夫人の嫁の親の知合と。
ユ、江川●人は原田民生委員の知合にてユすでに母にはピーコックにし会ひをりし也。(※筆迹荒く不詳)21:00薬のんでねることとす。

※10月30日、詩人(躁)より職場に2度電話かかり、その後認めた手紙の下書きがあるので掲げます。
拝啓
 先日はお食事にお呼び頂きありがとうございました。また今日は突然にお電話も頂いて恐縮しています。なにぶん役所の電話ゆえ私用の話も許されず、せっかくのお電話も簡単になってしまったことを重ね重ねお詫び申し上げます。
 もとより私自身も電話で長話をするのが心苦しいたちなので、何かの時は連絡下されば先生の所へ参ります。どうか無用の心配はなさらないで下さい。今かかっている風邪を早く治してしまって、詩を一篇でも整えてしまったら、電話でご都合を確かめの上、お伺いしたいと考えております。
 先生の若き日の写真には本当に感動してしまいました。今度お伺いした折にもぜひもう一度見せていただけたらと思っております。お借りした本(※文庫版の『即興詩人(鴎外訳)』『月下の一群』)も熱も引いている時に読んでいます。先生の方の体調が万全なのに、こちらがこんな体たらくで本当に申し訳なく思っております。御礼方々、近況報告まで。病中の乱筆お許し下さいませ。


11月1日
20:30臥床、7:55に起床(山住dr.の最後の手ききし也)。朝食後8:40山住dr.にゆき新薬の礼いひ躁症といへば「ユよこせ」と。
(ゆくみちゴミすてばに来し女つかまへて「自分のすてばにせよ」といへば「今日だけはおみのがしを」と也)。(※省略)
東豊書店にゆきラーメンは食はず十冊を買ふといへば「運び屋にたのみ、その費用は汝にかけず」と。
阿佐谷駅につき駅の便所にステッキ置き忘れ、ユに電話して「今帰る。すし買はうか」といへば「いらず」と。
タバコ屋に年賀ハガキ300枚の予約をし(※省略)帰宅すればユ「駅へゆき山住dr.にもゆく」と悠々たり。
美紀子に電話して「史の糖尿病に注意してくれ」といへば「承知」と相手にせず。山野井秀子に電話して「来ずや」といへば「来る」とさからはず。
ユ帰り三鷹の駅まで遺失物の電話して「なし」と!丸の形見なくせし也。根まがり竹のstik
14:00末富家へゆき謡本2冊もちゆき合唱す。16:00までをり「Ballモナカ」2ケもらひて帰宅。
高田瑞穂に電話かかり「雨中散歩が一番」といひ「『成城文芸』70周年号にも原稿すでに出して感謝されし」と。幸せな男なり。
18:35瀬見氏に電話し「5,500預りゐるや」と問へば「預りゐる」と。「11月4日は」ときけば「小企業故休まず」と。
「我向きの本を用意せよ」といへば「応」と。(山野井は「その内来る」と)。
和歌山の眞理(みち)の友教会で教祖の死を悲しみ未亡人以下灯油をかぶって死にしと。(※省略)21:00新しい眠剤のんで眠ることとす。

11月2日(日)
よべ眠剤のみ23:15起きてユに風呂に入りて就床。2時より不眠に気づく。5:00起床。gas-stove使用するもわからずユに5:00つけてもらふ。
6:00televiつければユ、「利己主義」といひて小さくす。初枝叔母と兼清隆二君に挨拶状かき礼拝にゆくと決心す。
続けて能勢正元に「(2本の大高野球部旗を)寮歌祭に使へ」と指図す。みな失礼なれど理窟はあり。
無着成恭より「恵存」の署名ありし本を佐伯にともって出る。8:00犬飼孝の『万葉(マンニョウ)講座』に「秋の七草」を歌ふ「あさがほ」は何に比定せしか、怪しげなりし。
「牽牛子」とは[槿]なりと我は断ずるなり。9:00阿佐谷発の地下鉄にてゆき、
(※教会では)3列目に坐り原夫人に丸重俊の礼をいふ。知らぬうたみなうたへ快し。
東豊より本包み来り、開くれば『A Chinese English Dictionary(10,000)』以下27冊、総計29,980円買ひし。



11月3日(文化の日)
昨夜21:00床に入り6:30起床。山住dr.の往診を乞へばすぐ来られ「あす8:00来い」と。
7:00文化の日として勲4等まで多くを報ず。土光敏夫以下1,000名以上、中に福永英衛門(英二)あり。NHKを見れば「原爆記念」の催しなり。
15:00前、外池昇来り「大塚山が雄略陵」とのわが説に賛成。「宮内庁うるさし」と。神武・・・孝霊までは無根、開化より北九州にをり。
記紀ともにMärchenをのす。武内宿禰の500才説はこの説話の所為にて大和に来てのち大陸より渡来の文化を残す。猪飽、犬養は部名にてよろしきも秦(大秦)、今来などが南都北嶺に来るや、その政治力によりnara、京、大仏、唐招提寺などを造る。
佐々木青葉村先生より習ひし鑑真(カンジン)をいまはガンジン、万葉集もマンヨウシュウと変りし也。
ユ昨日往診のお礼にと20:20山住邸へゆく。
君が代国歌、朝顔は牽牛子とせず。菊は白より色づきしが多く、タンポポは全く西洋タンポポとなり、レンゲ田は施薬と代り、この10年の変り多し。
18:30竹森先生に「風邪にてあす参れず」といはしむ。中島君にも「あすはダメ」といふ。

11月4日
21:00就寝、5:00起床。教会へゆかんといへばユ止める。金曜にでもせん。
5:40入浴。東豊書店へ29,800円ひにゆく。(ユ、「我の病気で神田信夫君不信」と。)
急に『四季』やることとし田端の中島君にゆくこととす。(※第5次『四季』終刊号)
花井夫人にも「11月末まで」といふハガキかき(中島君来週来る故、同じこといふこととす)。
ユと共に高円寺、ステッキ(3,500)買ひ、都丸支店へゆき、買へるだけと思ひて買ひしも、
沢田瑞穂『宋明清小説新考(4,500)』、『イスラエルの国と人(800)』、『現代敬語辞典』など買ひて、
『中国古典小説用語』と買ひしに、重くて簡主人(※瀬見氏の誤記?)にいへば持ち来ると。

11月5日
文化史の女にてはなく東大生にて「成城大は「片仏(※堅物)・偏窟きらひ」」と太田夫人の3人の推薦に入らず。(※不詳)
われ早起きして転会式すみしあと東豊書店にゆき「2冊+6冊」注文し、もち来り、(※以下不詳)
竹森先生に「あす午后お訪ねしてよきや」と承れば「まあよし」と。小清水夫人と駅で別れて帰宅。
午后来る筈の瀬見君まてば来り、9,000払ひてすみ、鮪の海苔巻と菓子出し、もち来し本は20冊。
沢田瑞穂『宋明清小説(4,000)』、『聖書1955年改訳(1,800)』、『天皇の陰謀()』、『王代敬語辞典』、『イスラエルの国と人』、『岩波新書5冊』、『クセジュ2冊』合計13冊(※省略)総計9,000-5,500なりし。われ怒らず。知らず。
whiskyのませ、小lunch出して16:30帰りゆく。デタラメ置きしも大して腹立たず。明日・・・・と決定。われ眠くteleviきかず。
けふユ、stick(3,500)高円寺の道傍にて買ってもらひ都合よし。(※省略)

11月6日
よべ21:00眠り7:30さむ。『四季』休刊せしも同人負担として再びやることと決心。

11月7日
8:30起床。入浴。苑子14:00来り、ともに佐伯にゆき■依(800日)買ふ。まことやにゆき、正野君に印刷たのむ(5,000)。
酒屋にwhiskyたのむ。
20:00までかかり『四季』再創刊。井伏さん、野田又夫、南川正純、福地(※福地邦樹)、藤沢桓夫、槮(※井上槮)、森亮、藤野一雄、坂口允男、小高根太郎、石山直一、大野沢緑郎、大東夫婦(※大東勝之助・幸子夫妻)、松枝茂夫、岩崎昭弥、岩橋節子、河村純一、花井たづ子、西村一雄(浪中卒)、都留純也21人に速達かく。
21:30瀬見に電話通じ「あす午前中来る」と。いやいやなり。高田は始め入浴。ついで「もうねた」と也。速達料5,000円。

11月8日 (※14:00-19:00)
※この日14:00-19:00に訪問するも、記事なし。
※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇休刊中の『四季』の11号を出す由、並びに新同人として迎えて下さる旨をきく。4回文の同人費を払ふと編集を手伝ふやうにと3千円の日当(?)を返して下さる。
〇軍歌や昔の歌謡曲を覚えろ、教へ子の養子はどうか、などと云はれる。
〇『コギト』を売却するらしく「君に売ってもよいがいくら出す」と問はれて言葉なく「だめだ、だめだ」と云はれてしまふ。


11月9日(日)
8:30さめる。下着全部びしょぬれでとりかへる。入浴。
第5次『四季』同人に手紙かきしを速達とす。11:00なり。瀬見君来り8,000にて引取りゆく。14:00也。

11月10日
8:30起床。飯食べずに山住dr.。血圧96-65、「お疲れでせう」と也。(※幼時の)寝小便のこといへば「dr.も「5年までやりし」と同調。(※省略)
21:30川久保に電話し「東北のessayかけ」と云へば「いや」と。神田信夫君に北京よりの感想ききしも「台湾と異なることなし」と。「東北の詩かけ」といへば大いに笑ふ。『清朝の十王』かくといへば笑ふのみ。

11月11日
夜2時間よりねず、5:30起床。8:30山住dr.。
9:30ゆみ子みや子哲夫来り、病院へつれゆかんとすれば杏林大学病院に電話すれば(ユが)「ボケはだめ」と断らる。
弓子の買ひ来しにて午食とす。
(10:00佐伯さん来り雑本10冊を4,800にて売り「ソヴィエト大辞典は市に出す」と。)
15:00、2女を返し、瀬見君来り、前々日買ひし本を酒のませて返し(8,000)、
川久保来、「(※松本)善海追悼」の原稿返す(わがことのみかきをり)。18:00ねこむ。

11月12日
7:00さめ久しぶりに飯くひ薬ものまずものまず8:30山住dr.。傷見てもらひ塗薬かゆみ止めもらひて帰宅。飯後の薬Vitamin剤のむ。
10:20西川より電話「金沢(※金沢良雄)虎の門病院入院危篤」と。ユをして川久保に電話せしめしに出ず。羽田のことを云ひて金沢のこと忘る。
(※省略)大野沢氏より葉書、原稿送ると。西川英夫氏の90年記念文集(※『Tokyo Tatemono 90』)来る。
16:00花井たづ氏に電話すれば原稿を持って17:30来る。10,000受取る。
20:00山田先生に電話して『成城文芸』に「金瓶梅に現れた助数詞」を書いてよいかきけば「よろしい」との返事なり。
21:00以後入浴してねむる。(橋本印刷に見積りをきかせてと葉書)。東豊に借金の金高を15,390円ときく。

11月13日
よべ22:00就寝。5:00ユに起さる。瀬見伊三郎は電話かからず。川久保は「羽田の連絡にて一日在宅」と。
9:00川久保にゆき思ひ出はなし丹波と4人のクラス会を承知せしむ。高円寺の都丸書店に『皇陵』返しにゆき1,000余の本買ひ、
帰れば弓子午飯もって来てをり洗濯し、蒲団屋に古ブトン2枚を新しくととのへ(1万円ユわたす)苑子ちゃん来り、共に出て彼女は銀座にゆき我は正野邸訪ねしも見当らず、帰宅すれば福地君より2万円と拙い詩。大野沢氏より旅行前とて「詩送りし」と。
20:00すぎ村山高氏に電話すれば「12月上京の時交渉する」と。(丸重俊の電話番号、弓子の尽力にてわかり「元気」の由)。

11月14日 (※11:00-14:00 『コギト』1借用。)
よべ22:00就寝。4:30さめる。ユと共同して電話すれば丸重俊出て「元気」と。煦美子に「結婚決まった」とうそついたことを云ひ、
能勢正元に「野球部歌」うたへば感心さる。「村山さんによろしく」といひしも村山さんは「12月来る」と昨日連絡ありし也。
末富さんに本2冊貸す。「今日は(※碁将棋)都合わるし」と也。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇食が細く、寿司屋で三貫ほどしか食べずにゐたのを、プライドを傷つけられたと勘違いした板前にどやされた話。
〇先生と三女京さんの子息と3人で印刷屋まで散歩す。



11月15日 (※18:30-20:00 『コギト』2-3、『戦後吟』、『天井の花』借用。パンをお土産に頂く。)
けふも4:30起床。ユを苦しめ、船越苑子来ると思ひちがひし。松枝先生にお伺ひし月末までに詩の訳たのみ(※『四季』同人費)2万円の中1万円を返却。
先生に送られてbusにて14:30帰宅。30分昼寝し、
石井正吉君迎へて本見せ、夕食を供し(17:00)、18:00いれちがひに来し中島君に本あまた見せ歌謡集1冊貸し、週2度の協力を約せしむ。(ユ、万年筆買ひ来る。4,000円と)。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇本日も道頓堀行進曲など歌ひながら、かつてバットでいろいろ壊しながら街を歩いた高校時代の事を話される。
〇モダニズム時代には、江間章子に「もし女房が死んだら僕の所へ来るか」などと冗談が云へるほど親しかった由。
また別の女詩人と小田原の三好達治を訪ねたら「そんなことで詩が書けるか」と焼きもちを焼かれた由。


11月16日(日)
5:00起床。大島三原山噴火と。礼拝休み、ユの出しあと上平(畑谷)夫人を呼ばんと思ふ。ユ、大反対なり。ヤキモチか。
弓子来り「苑子はダメ」と。ユ、家に残り、我、病ひとて「彼女来ればパーマにゆく」と。(※省略)
畑谷夫人に電話すれば「夫君いまだ帰らざるも「連絡ありし」」と。「ガンバレ」といへば「ガンバレル」と。
20:00田中初枝叔母より電話、「相続はあとまはし、税はそのあとで」と。「われ18日に下阪」と電話することとす。

11月17日
21:30臥床、2:00排尿、5:30入浴、7:00起床。山住dr.に旅行いへばさしとめらる。不満にてタズさん訪ひ贈物し、
夫婦して瀕死の母を訪ふことのムダをいひ、手をつないで江古田駅、80+160円で阿佐谷着。苑子まちをり「明日は2人、朝来る」と。(※省略)

11月18日
よべ20:00ね、5:00さむ。餡マン頭食ふ。(※省略)三火会とて散髪にゆくこととす。
広島通の死にしことなどしるせし今中会の名簿来り、苑子我が愛撫に困りをり。16:20村田幸三郎の夢見し由。
田中久夫氏来り『四季』同人になり呉れ、17:30川久保君、東洋文庫の閲覧票もち来る。羽田には電話する由。
18:30橋本印刷より「見積りつかず」と。20:00前、木下雅夫に電話すれば「12月に嫁つれて来る」と。
20:01田中初枝叔母に電話すれば、数億円もない遺産にて「大江勉は自動車も世話してくれる故」と。(※不詳)

11月19日
2:00さめ3:30入浴すませ、また眠りて6:00さむ。8:20高木(本間)尚子に電話しクラス会幹事を命ず。苑子にかからず。
賀状「ア」すむ。史に関しユと争ふ(10:00)。植村先生「再入院」と。今沢幸君より同人費来る。ともに返事かく。20:30眠る。

11月20日
6:00すぎさめ9時間眠る。8:00朝食すましユに断って苑子にゆく。不在。寒がり佐伯に寄り雑本3,800買ふ。
「11:00ごろロシア百科事典市に出すためとりに来る」と。「11:00すぎ佐伯氏来り「5万円で市に出してみる」と。「むりなければいくらでもよし」といへば安心して一服して帰りゆく。われ2度目の入浴。昼食了へて0:00なり。
4,800円で買ひ来し本よむもたのし。〒は石井正吉君より先日の晩餐の礼状。(※省略) 朔太郎かきし『浪曼』来る。

11月21日
よべ(※省略★) 12:00眠り5:00さむ。8:00朝食後、ユ、花井タヅ子に電話すれば博士出て「女房下阪」と。
苑子「喜んで会ひに来る」と。めでたし。10:00朝飯に起きれば弓子来てをり、弓子本を運び11:40となる。克次朗に船越家を嗣がさんと思ふ。
(※省略)  弓子、克次朗を船越家にやれぬと怒り15:00帰りゆく。(※省略)
ユ、寒中買物に出てゆく。われ入浴すまし「助数詞」の原稿考へる。ユ、血圧156を越し疲労す。

11月22日
よべ21:00眠り5:50覚む。克次朗をして船越家を興さしめんとし、ユ、反対す。7:00起床。入浴中、船越清君と映子との見合を思ひつく。 音痴なり。
8:00田中初枝叔母に「上京せよ、宿はわが家に」といへば「来春」と頑固なり。
夜、大高同窓会よりエンジ色の帽来る。川久保より「羽田来るも来月初か」と。丹波27日は困るとの電話もききたり。
昼食後、決心して成蹊大学へゆけば畑谷女史不在。残念とかき帰宅すれば電話かかり失礼ともいはず。無縁なり。
吉祥寺まで歩き『台北(350)』、『男どき女どき』(懐中)もち帰る。遠藤商店の番頭ニコリともせず。(※省略)

11月23日(日)
よべ21:30ね、5:15さむ。7:00電話すれば初枝叔母にかかり「忌明け正月上京、わが家に来り泊る」と。朗らかな声なり。
畑谷女史に憤慨状出す。ユ10:00印刷所へ「はっきり見積れ」との速達出しにゆく。われは入浴。畑谷つかまらず。重久「16:00来る」と。
13:00出て成蹊大へ畑谷に会ひにゆきしに帰宅と。歩きて吉祥寺教会の前とほり(※省略)帰宅。
ユに断りて川久保にゆき引導わたす。丹波よりも連絡あり、学士会館で会食と。(※省略) 250円の雑本買ひて帰宅。
重久生まちをり、ともに歌うたひ、天丼食はせて19:00帰りゆく。代々木の予備校で重用されをりと。(※省略)
「いのち」でハル(※大河ドラマ:泉ピン子)死ぬを見る。終日伊豆大島大噴火にて島民みな去り、桜島も噴火。

11月24日
よべ21:00就寝。5:00覚む。朝食後9:00ユ畑谷博子女史に電話すれば「13:30来る」と。12:30午飯了る。うまし。
四畳半に通すことと定む。畑谷女史13:50来り、洋菓子6ケもち17:30までをり「2週間後再来」と。こちらはご免なり。
名古屋のきしめんと昆布とを与ふ。

11月25日 (※14:00-18:30 『コギト』4-7借用、夕食御馳走になる。)
よべ21:00就寝。6:00起床。睡眠十分なり。
8:00前、南川正純に電話し(※『四季』)会員10人以上と自分の同人参加を認めしむ。強引なれど仕方なし。
野田又夫氏に速達し「春季号に名文を」と。佐伯にゆけば「『コギト』6万円に売れし」と。「午ごろ来て精算する」と佐伯譏嫌よし。
ユ山住dr.にゆき「薬かへる」とききしと。21:00佐伯さん来り『コギト』揃6万円で売れしと、手数料5,000円引き雑本500円で引取りゆく。
ユ、高田瑞穂君に速達出し「文の書き直しをわれす」と決定す。
16:30山住dr.、眠剤かへたまひ、すでにユに渡せし。正己氏の『四季』にかかぬことは承知と。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇夫人、しきりに「詩を書いても詩人になんかなったらだめですよ」とおっしゃりながら夕飯の支度す。西島大さんから電話あり『コギト』原本はそちらに預けられることになった模様。
〇伊東静雄の妹君に閉口した話。
〇新宿を萩原朔太郎と歩くと、車恐怖症なので頃合ひを見計らひ「今!」と、手を引っ張って横断しなくてはならなかった話。
〇増田晃と薬師寺衛の話。
〇「西康省」は卒論を指導教官に褒められた嬉しさに一夜で成った由。
〇坂口充男さんが送って来た詩に、その場で書き直しの通知をさらさら書かれて驚く。


11月26日
寒くて炬燵に入る。5:00起床。「助数詞」かくつもりなりしも出来ず。よべの睡眠不足と寒さにて弱る。山住dr.の薬かへたまひしらし。
televi見つづけしのみにて大阪の印刷屋より電話あり「12万円位で紙わるくす」と。同情的なり。
一度入浴し、あと炬燵に入りをり。ユ、母にゆき大(※西島大)来るをまちしも来ず。21:30就床。

11月27日
4:30起床、排尿。苑子に会ひたしといひて叱らる。6:00朝食、8:00高田瑞穂に「会ひたし(同人費とりに)」といへば時間14:00ときまる。
ついでユ、花井夫人に電話すれば夫君をり小声で役に立たず。大に「午前中、または18:00以降に来よ」といへば「今日は忙し」と。
西川満氏に『アンドロメダ』受領の旨ハガキかく。11:00入浴。
12:00近く丸木(高松)直子来り、14:00ゆくこととなりし高田瑞穂に「2時間遅れる」といひ、ユとボヤクをきき(松本一彦の思ひ出はなす)
15:00出て高田家にゆけば次嬢待ち受けてくれる。夫人の写真拝みてすみ、1年分の『四季』の会費1万円もらひ、共に出てcafé店。
われは紅茶といへば彼も紅茶に砂糖多く入れ奢ってくれる。出て高円寺より歩きて帰宅。ユ、血圧高く山住dr.に警報受けしと。
松田信隆、みす子に近ごろ反抗すると(88才なり)長き電話あり。

11月28日
4:30さめる。「コチフカバニオイオコセヨウメノハナ」ニ「太政大臣ケンツクシノカミ」。
6:00ユ起き7:00朝食用意す。高田瑞穂へ礼状と受取(『四季』第11号−14号)のハガキかく。(※省略)
船越苑子・西島大とは連絡なし。広島の桧谷博敏・充代夫婦、瀬見伊三郎氏夫婦に悼み状書き12月発とせんとす。
けふ河村純一同人より同人費と歌来る。(※省略) 終日茫然。花井夫人来り「桜の木」置きゆく。
南村より詩の如きもの来り、同人費払ふ。夜、21:00就寝。(川久保より「羽田来られず」と電話ありし)。

11月29日
よべ21:00就寝。3:30排尿に起き7:30起床。『四季』の編輯をする(今沢幸の難文もわかり易くする)。
14:30高橋重臣君、熱海より電話、同人費未納、下手な詩送り来し也。克次朗の電話は今日来る由ではなしと弓子。

11月30日(日)
6:00起床。ユ、苑子のことにて嫉妬し、無音。

12月1日
晴。佐伯にゆきero本3冊1,200×3買ふ。苑子けふも来ずと。

12月2日
よべ20:30就寝。7:30さめ朝食後、初枝叔母に5,000の受取と「正月来訪、宿する」とかく。
ユくどくて、瀬見伊三郎氏の来訪(19:00)に21:15まで相手す。
(津田塾大学に電話すればMlle.Skey、Trontoに帰りHighSchoolの先生となりしと)。

12月3日
よべ21:00就床。3:00排尿また眠り7:30起床。9:30昨日電話ありし松枝茂夫氏に電話すれば話し中。
15:00前、家を出、松枝氏宅へ参れば夫人色々ともてなされ恐縮、茂夫先生『四季』巻頭の詩かき直して賜はり阿佐谷行のbus停まで送りたまひ恐縮。
(※省略) 21:30臥床。

12月4日
よべ21:00就床。7:30起床。歳暮の礼状かき、40-23の詩人(喜志邦三門下と)(※不詳)へ受取かき、
瀬見氏へ『四季』第1号届けにゆき金もたざれば真っ直ぐ帰宅。20:00眠くなり床敷いてもらふ。

12月5日
よべ21:00就寝。5:30覚め6:10起床。築島謙三氏へ謝りのハガキかく。林叔父の回忌、丹羽美佐の買ひし塩せんべい林夫婦より送り来る。
終日炬燵にをり。ユ、荻窪へ出てゆく。(※喪中挨拶 省略) 『東京四季』来り、巻頭に近く杉山平一君の詩集評と作とをのせをり。不審。
成城学園より「開園七十年に寄附を」と。いくらか堀川氏にでも聞かんとす。岡茂雄氏『閑居漫筆』よみ了る。ユ、戸田画伯にゆく。

12月6日
よべ21:30就寝。4:30起床、7:00朝食、13:00ユ、午食せしめ田中家の法事に出てゆく。俊子姉が喪主でありし。孫京都大学へ推薦決定と。めでたし。
15:00克次朗シュークリーム持って来る。
中島君より「あす来てよきや」と電話、来週月曜と返事す。我の原稿いまだかかざれば也。我は終日televi見てをり。

12月7日(日)
よべ20:30就寝。7:00排尿に起き7:30朝食。ユ、荻窪にゆき12:00帰宅。15:00入浴。丹羽美佐購入、送りしは林俊郎・桂子とハガキ。

12月8日 終日無為。

12月9日
よべ21:00就寝。8:00起き、ユ、西武dept.に京と逢ひ歳暮すると也。林俊郎へハガキ投入たのむ9:30。
ユ13:00帰宅。昼食供し16:00静江母へと出てゆく。われ終日家居。(※喪中挨拶 省略)
藤沢の鈴木猛氏より『四季』続刊の由、承知。一部買ひたく手続き教へよ」とハガキ。

12月10日
6:00さめ6:30前、前川(※前川佐美雄)夫妻へ年賀状かく。寿々子嬢未婚にて挿絵かきをり。『日本歌人』に宮崎智恵氏3冊目の歌集出版と見ゆ。

12月11日
よべ21:00就寝。6:00すぎ起き、ユ、柿むきくる。9:00出て高円寺へ散歩にゆき10:00帰宅。ユ銀行へ出てゆく。
Skey先生と富山すず子とCanadaよりX’mas card。片桐昭三郎逝去と、夫人より。17:30入浴。18:00夕食。
全国方言辞典よむ。あすCanadaへ返答せん。森亮氏より1万円とどき同人ほぼすむ。
(14:00ごろ福地君より電話「『四季』原稿あつまらずや」と。「然り」といへば「1月15日締切とすべし」と)。

12月12日
よべ21:00就寝。6:30起床。Canada TrontoなるMlle.M.Skeyに返答かく。
11:00帰宅すれば「財布拾ひをり」との電話ありしとに、再び出て拾ひ主見つけ礼もいはず財布とりかへし240の切手はりて〒にまたゆきて投函。
午后16:00同じくCanada の Tomiyama夫妻にまた航空便投函をユにたのむ。

12月13日 21:00ねて7:00さめる。

12月14日(日)
終日無為。中島君「あす14:00来る」と。礼拝夫婦とも休む。

12月15日 (※14:00-17:00 『コギト』8-11借用)
ユ12:00みす子さんに会ひに出てゆく。俊子姉の会なりしこと後にてわかる。
14:20中島君来り、ユの帰るまでをり、下井草の古本屋にゆくと出てゆく。
村山高氏より「24日13:00学士会館で会ひたし。返事くれ」と。
福地君より「厳父84才で亡くなられ喪中」と。初枝伯母よりも「喪中」と。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇鬱なのか元気なく、『四季』は〆切を延ばして原稿を待つと。歌も歌はず。
〇大高では成績順に出来る者が後ろに座ることになってゐて、ドイツ語が苦手で前に座ってゐた保田さんに度々忠言した由、ただし野球部マネージャーになってからは自分も前に座るようになったと。
〇(この日古本屋で嫌な目に遭ふ。)



12月16日
22:00臥床、2:00放尿に起き7:10また放尿に起き起床。村山高氏へ「24日午后1時学士会館で待つ」と返事。
終日炬燵にをり。『文芸年鑑』締切12月10日とあるもけふ返事す。
就寝後、西川より電話。「関口八太郎君逝去、葬儀は明日1時新宿大宗寺にて」と。

12月17日
7:00起床。関口へ御花料5,000包む。12:00までにモーニング着て新宿2丁目の大宗寺につけば無人。30分まちて庫裡にきけば18:00からと。
帰って西川に電話すれば、けふはお通夜にて18:00から。あすは葬儀にて13:00よりと。
ユの買物に出しあと美紀子お歳暮もち来る。ユ帰宅。美紀子も去る。淳一京大と名大受けると。雅子のことは云はず。
19:00村田より電話「村山さんに電話し24日学士会館でと云はれし」と。

12月18日
よべよくね、11:30より喪服来て大宗寺へゆけば1人の副官のみ。14:00まで待ち西川来しゆゑついてゆき坐る。西川昨日の18:00にも来しと。
一般焼香始まれば西川先に出る。われも焼香し、帰り、畠山ののり子らしきに挨拶受け、父上と同年同月同日生れと見当ちがひいふ。
15:30帰宅。何もせず。大島また噴火と騒がし。

12月19日
よべ不眠。9:30起きて朝食。ユ、ブツブツ云ふ。14:00昼食、ユ買物にゆき16:30帰宅。18:40夕食すむ。
21:00福地君に父上86才の逝去を悼む旨ハガキかく。

12月20日
22:00ね、6:00さむ。年賀状かく。半分足らずかきて駅前〒へゆけばしまりをり。本局へゆきて出す。
11:00前、木下より「あす11:00来る」と。丹波篠山の中西薫生より黒豆贈らる。
森亮氏より『口語訳ルバイヤット』賜はる。杉山平一氏より4,000来る。(※『四季』購読費)

12月21日(日)
よべ不眠、礼拝に休む。ユ13:40帰り来る。17:30木下登志子をつれて雅夫来り、青学へ教習にゆき見染めしと也。
すしとり19:00二人帰りゆく。(登志子は全日空の案内嬢と)。

12月22日
よべ22:00ね、7:00さむ。年賀状かき本局へ投函にゆく。ユ買物にゆき山住dr.に薬もらひ来る。辛島夫妻Cambridgeより賀状来る。高橋睦美N.Y.よりX’mas-card来る。

12月23日  (※14:00-17:00 『コギト』返却)
6:00さめ、8:00起床。賀状出しに本局にゆきしのみ。

※この日の中嶋康博のメモが残ってゐたので少し掲げます。
〇自伝を書くことをあきらめたとおっしゃる。
〇東大でアジ演説を見てゐて拘留された時の話。横流しされるビラを誰から受け取ったか書けと云はれ、クラス全員の名前を書いたら「お前のクラスは全員アカか」と呆れられた由。本棚に資本論があるのを、高校時代には『戦旗』を読んでゐた筈の保田與重郎が一瞥。「ふーん」というような顔をされたといふ話。
〇保田與重郎の女性スキャンダルの件。
〇中島栄次郎の家に上がり込んでは将棋を指し、妹さんがとってくれる天丼を食べるのが楽しかった由。
〇終戦後の中国在留中の話。行き倒れの母子に人だかりが出来(警察が来るのを待ってゐた)、誰も手を出さぬゆゑ子供に銭を握らせて日本人とバレ、逃げ出したこと。
眼鏡の修理に入った店で「これが日本人にみえるかなあ」と店員全員に感心してみつめられたこと。
また引き上げの際には、必ずやこのまま東南アジアに強制労働させられると覚悟し、佐世保で無事解放されると、もらったお金でスルメを十枚ほども買ひ込んで帰宅したこと。
〇テレビをよくご覧になる由、たけし事件を御存知で(もちろん毒舌は嫌ひ)、研ナオコが不細工で可哀想だから好きと。
〇『詩集西康省』の中詩篇を桑原武夫が仏訳して共産主義詩人にみせたところ「公孫樹に寄す」を褒め、「パリにはイチョウの木が一本しかない」 といふ手紙を送って来てくれた由。
〇辻野久憲から第一書房の後任を打診されたが学生の身分であり断った。『セルパン』への寄稿が人生初の稿料だった由。


12月24日
22:00ね、2:00排尿に起き、ねられず。7:00すぎ起床。辛島夫妻と高橋睦美夫人にAie Mail出しに〒へゆく。賀状すむ。
11:00昼食、12:00学士会館へゆき13:00村山高氏来り、村田来ずと思ひ昼食(村山氏)、われ喫茶。14:20すみ待合室へゆけば村田幸三郎来る。
14:00と思ひしと。14:45われcoffeeの払ひして別れて帰宅。中山正子よりMelon呉れしと。

12月25日
8:30起床。中山正子にメロン貰ひしとて礼状かく。ユ、静江母の見舞にゆけば、金光の弟の見舞に河野の次男をして付添にゆかすつもりと也。
森山夫人より歳暮の送り状来る。

12月26日
7:30起床。豊田泰子に歳暮にちくわ賜はる。14:00高円寺に散髪にゆき、15:15帰宅。末富氏と問答す。
16:00松本善海未亡人より電話「植村先生への往復にお寄り下されたく物贈った」と也。羽田夫妻ドイツの学会に出席と。
稲荷の荷田春満(羽倉啓吉)神社は死亡か。東方学会に名なし。

12月27日
22:00臥床、8:00起床。荒木修氏への賀状不明とて返送さる。紅葉の『両人女房』よみ了る。退屈しのぎ也。

12月28日(日)
7:00起床。髭そってもらはず朝食し9:00すぎ出て(小雪とて傘もちゆき)礼拝にゆく。
竹森先生に挨拶され副牧師さんの説教。すみて帰宅。ユ、戸田画伯に呼ばれて出てゆく。(※省略)

12月29日 6:00起床。終日炬燵にをり。ユ、母のところへゆく。

12月30日
よべ2:00までねられず7:00起床。寒し。食後下痢。10:10入浴。午后、苑子女史来らず、ユ、我をおどかす。不快。

12月31日
6:00起床。ユ、午后買物にゆき将棋盤(900)見つけしとのことに買ひにゆかす(柿を3ケみつけ来る)。
(松浦康彦東京本社へ転勤と)。2:30就寝。


付記:プライバシーに配慮して一部省略して記してゐます。原文pdfは現在非公開です。


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