(2005.10.31up /2013.06.27update)
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山川弘至・山川京子歌碑 (郡上市高鷲町切立明谷)


2005.10.30 初訪問

歌碑    歌碑

墓標として実家の裏に建立された歌碑
(昭和33年6月撰文:山川京子)

「うらうらと こぶし花咲く ふるさとの かの背戸山に 遊ぶすべもがも」

塋域

先祖累代の塋域


2005.10.30 訪問 開館お披露目に参加。
2005.11.03 訪問 新館展示室(現別館)の地鎮祭に参加。
2006.10.29 訪問 新館展示室の見学会に参加
2009.07.26 訪問  増築竣功のお披露目に参加。

2009.07.26 訪問時
歌碑


2013.06.23 訪問

披露目

 岐阜県郡上市旧高鷲村の山中にある国学者詩人山川弘至の実家の裏山には、戦歿した詩人を追慕顕彰する目的で昭和33年、故郷の自然を詠んだ、身の丈に余 る巨大な歌碑が建立されてゐる。

 「うらうらとこぶし花咲くふるさとの かの背戸山に遊ぶすべもがも」

 その隣に、このたび新しく少し小ぶりの山川京子氏の歌碑が建ち、除幕式が行はれた。 短歌結社「桃の会」の世話役であり靖国神社の権禰宜でもある野田安平氏が祭司となり挙行された式典には、御遺族をはじめ桃の会や地元関係ほか30余名の列席者があったが、 末席に私も加はり見守らせて頂いた。碑の前で、詩人の弟君である清至氏が義姉の成婚70年をふり返へり、敗戦間際の僅かなひとときを共にされた純愛と、そののち今日にまで至る貞節、 そして亡兄の顕彰活動の尽力に対して、感無量の涙を浮かべられた挨拶が印象的だった。また「斯様な記念物は自分の死後に」 「せめて長良川の小さな自然石で」といふ本人の希望は叶へられなかったさうだが、強い意向であらう、両つを並べず、まるで夫君を永久(とは)に見守らんとする如き位置に据ゑ置かれた京子氏のお気持を忖度した。 いしぶみに刻まれたのは、今年92歳になる未亡人が万感の思ひをこめた絶唱である。

 「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 岐阜県奥美濃の産である抒情詩人にして国学者であった山川弘至とその妻、歌人として生きた山川京子は、一者が一者を世の無理解から護り顕彰することで、 現代から隔絶した鎮魂が神格化してゆき、逆に今度は一者が一者の祈祷を後光で見守らんとする、もはや不即不離の愛の一身(神)体といふべき、靖国神社の存在意義を示した象徴的存在であり、 祭主である京子氏は、同時に国ぶりの歌道(相聞)を今に伝へる最高齢の体現者であるといってよいのだらう。私にとっても杉山平一先生が逝去され、 戦前の遺風を身に帯びて文学史を生きてこられた風雅の先達といふのは、たうとう山川京子氏お一人となってしまった。主宰歌誌「桃」が終刊した後に、 余滴のごとく続いてゐる「桃の會だより」には、それがいつでも絶筆となって構はぬ覚悟を映した詠草が掲げられ、和歌の良し悪しに疎い私も、毎号巻頭歌だけは瞠目しながら拝見してゐるのである。

p2

 式次第には山川弘至の詩が一篇添へられ、野田氏によって奉告の意をこめ同時に読み納められた。6月の緑陰の深い式典会場には、詩篇そのままに谷川が流れ、 ハルゼミがせつなげに鳴きはじめ、まさに京子氏が詩人を讃へた「高鷲の自然の化身・権化」を周りに感じながらの梅雨晴れの一刻であった。かつては山々も杉の木が無節操に植林されることはなく、 今よりさらに美しい姿を留めてゐたことを京子氏が一言されたのも心に残ってゐる。

 むかしの谷間

               山川弘至

むかしのままに
青い空が山と山とのあはひにひらき
谷川はそよそよとせせらいで
屋根に石をおいたちいさな家のうへ
雲はおともなくゆききした
夏 青葉しげつて夏蝉が
あの峡のみちに鳴いてゐた
あのころの山 あのころの川
そして時はしづかに流れてゆき
雲はいくたびか いくたびか
屋根に石おいたちいさな家々のうへを
おともなくかげをおとしてすぎ
私のうまれた家のうすぐらい
あの大きな古い旧家の玄関に
柱時計は年ごとにすすけふるぼけて

p5 p3

とめどなく時をきざんで行つた
あの山峡の谷間のみちよ
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの家々はちらばり
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの伝説はねむりつつ
ふるきものはやがてほろび
ふるきひとはやがて死に
あの山峡の谷間のみちよ
今眼とづればはろばろと
むかし幼くて聞いた神楽ばやしの笛太鼓
あの音が今もきこえてくる
あのころの山かげの谷間のみち
ゆきつかれ かの山ほととぎす
鳴く音 きいた少年の日よ
そしてあのみちばたで洟たらして
ものおじげに私をみつめたかの童女らよ
今はもう年ごろの村むすめになったらう
そして私はもう青年より壮年に入らうとし
時はしづかに流れ
あの石おいた谷間の家々のうへを
雲は音もなくすぎてゆき
夏となれば又せつなげに
夏蝉が鳴くことだらう

                             詩集『ふるくに』(昭和十八年)所載   1 2 3

 部外者が訪れることも稀なこの谷間には、石碑とは別に、御二人の記念品をおさめた記念館も建てられてゐるが、「タイムカプセル」の未来がどうなるのか、 日本文学そして靖国神社や国体の行末とともに、それは私にもわからない。しかし五百年、千年の後にも、開発とは無縁のこの奥深い美濃の山中に、 一対の歌碑だけは変はらず立ち続けてゐるだらうことは、自然に信ぜられる気がした。けだし前の大戦にしろ遠い過去とはいへまだ100年も経ってゐない。はるけき時の流れについて、 なにやら却って無常の思ひにふけりながら山路の高速道路を帰ってきた。只今の京子様には何卒おすこやかに、健康と御活躍を願ふばかりだが、式典後、 記念館に展示された新婚写真をしげしげと見入る参列者に向かって、「そんなにみつめなさんな」と笑顔で叱るお姿に意を強くしたことである。(2013.6.26)

p4
詩人の弟、山川清至氏とならんで


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