(2006.11.07up / 2009.08.05 /2013.06.27/2014.07.11update) Back

四季派の外縁を散歩する   第十回

四季コギトの第二世代 その3 山川弘至記念館訪問記

 平成18年10月29日、郡上市は高鷲町に竣工した郷土詩人山川弘至の記念館新館のお披露目見学会に参加させて頂いた。 それまで資料保管の用をしてゐた木造の庵では管理上、難もあることから敷地内に恒久的なコンクリート造りの展示館が新築せられたのである。 当日は詩人の未亡人で歌誌「桃」主宰の山川京子氏、それから山川家当主にして館長に就任した、詩人の弟君の山川清至(きよし)氏が挨拶をされ、 集まった「桃」同人および地域の関係者ら約40人とともに、あたらしく館内に飾られた展示物を参観、祝福の行事を見守った。秋晴れの日曜日の午後のひとときを、 奥美濃のひときは奥まった谷合の集落にあって、わたしは秋色にうづもれた立派な詩碑を見上げ、 豪雪に耐へる旧家の床の間で副島滄海や保田與重郎の掛軸を眺めながらお茶を頂いた。さう、敷地も建設資金もつまりは遺族負担に係る全くの私設記念館であることを思へば、 これは昨年の六十回忌に行った鍬入れに始まる、謂はば戦没詩人の鎮魂祭を締めくくるものと呼ぶべきであった。

山川弘至記念館

 五メートル四方の小さな平屋の建物であるが、新たに落成した記念館に窓は無く、まさしく詩人の思ひ出を封印するための蔵であって、墓標を持たぬ詩人にとって、 背戸山に建つ詩碑とともに今後これが奥津城と呼ばれることになるだらう。堅牢な扉の向ふに用意された、ひとりの詩人を祀るためだけに存在する空間。詩人の遺影、 ならびに学問上の師であった折口信夫と文藝上兄事した保田與重郎の奏した「誄(しのびごと)」の巻物を正面に収め、生前没後に寄せられた厚情の筆跡群が、 所狭しと左右に並ぶ様子は圧巻、さながらここを「日本浪曼派の館」※と呼んで差し支へぬやうな、詩人鎮魂の祠に変ぜしめてゐるのである。 切妻の壁にはめ込まれた棟方志功の意匠に誇張や偽りはない。

 遺品、原稿、著書・同人雑誌など詩人の形見の品々はもとより、初めての訪問者なら、礼状や書評の差出人の名前に目を奪はれるだらうか。 何が書いてあるのか内容を見たかったが多くの見学者の中にあって果たせなかった。尤も、展示品中最初に私の興味を領したのは、 芳賀檀から贈られたといふネクタイが大切に保管せられてゐたことであった。自著の序文依頼について記した手簡によれば、折口信夫、保田與重郎、中河與一の次に親しく近づきを得て交はった、 四番目の人物が芳賀檀であったらしい。芳賀氏は立原道造亡き後も、人柄の美しい詩人にはエールを送り続けてゐたやうだが、山川弘至に面会した誰彼もが、 彼が戦死したことを抜きにしてその好印象の極めて忘れ難いものであった様子を記してゐる。それら回想の文章たちは、もし戦争さへなかったら、 純正抒情詩人として花開いたに違ひない彼の可能性を、強くわたしに刻む理由となってゐるものであったが、この「詩人のネクタイ」もその証左の一として、 昨年拝見して記憶に残ってゐたものだった。

 国学者詩人山川弘至は大正5年(1916)9月10日、長良川の上流、山深いここ奥美濃郡上市の旧家の長男として生れ、家族と自然の慈愛のもと、詩人の天分を十二分に発酵させて育った。 そして地域の選手として上京後は、国学院大学で折口信夫に師事し、国学の研鑽を積みながら、かたがた林富士馬ら同世代の仲間達と文芸同人誌を興し、自らの詩と学問を時節柄、 国難を救ふ道として闡明すべく活躍した急先鋒の少壮文学者であった。また自身も一兵卒として、新婚生活5日をもって召集されたが、終戦のわずか4日前、激烈な爆撃のために台湾の戦地に斃れたのである。 28歳の若さであった。わたしは詩人の詩篇としては、むしろ学問に道を定める前の、可能性にみちた若い日の習作や、或ひは学問の余暇の慰めに作った、故郷を追慕する遺稿の数々を愛するけれど※、 戦場から間断なく新妻の京子氏に宛てて綴られた、まこと志に燃え無念を滲ませた手紙の数々といふのは類ひ無き純愛を伝へ、また読むものをして粛然とせしめざるを得ぬ、詩人の絶筆、 遺言のひとくさりであって、今に引き較べて思想を云々するでなく、精神の高みを印した日本人の覚悟のほどを、後世の我々は歴史認識の片隅にとどめ置くべきものと思ってゐる。

 さて、その絶筆を収めた『山川弘至書簡集』に始まり、『山川の音(遺稿歌集)』『こだま(遺稿詩集)』『山川弘至遺文集』と、 近年相次いで詩人の著作集が山川京子氏主宰の「桃の会」から刊行されてゐる。仄聞するところ、国学の主著『国風の守護』が、これは出版社からまもなく復刻されることになったらしい。 今後、郷土詩人の先達として山川弘至の再評価が行はれることを希ふばかりなのであるが、実のところ心配もなきとしない。それは資料の大半を占める戦争末期の印刷物が、 あと半世紀もすれば酸性紙のためボロボロになってしまふに違ひないといふこと。そして先程略歴を記したやうに、戦争中の著作物をもって生涯を終へたことが、今だに公的評価を難しくしてゐる点。 彼のやうな純粋で烈しい思ひを蔵した詩人には、むしろ生半可に地域で有名になるより、全国の志ある文学愛好者の孤立点に呼びかける広報こそ相応しいのではないか、 とつい私は考へてしまふのである。あたかも生前の彼が地元詩壇に一切関知せずデビューし、いきなり全国区の日本浪漫派の詩人として開花したやうに。 ネット上の宣伝のお手伝ひなら私にもできるだらう。現在進行中といふデータベース化も、目録を作成するに留まらず、是非デジタル画像を採取して将来の「記念館ホームページ」構想の複線となるものであって欲しい。 このさきの動向を注視したいと思ってゐる。

 ともあれ日本の精神史を語る上でひとつの極北を指し示して消えた流れ星が、かうして山深い田舎に大切に保管され、ここまで足を運ぶ労をいとはぬ旅人に限ってひっそりと公開されることとなったのである。 奥美濃の山々に端を発する源流に抱かれた、なんと詩人の名に似つかはしい聖地であることか。一路、秋風の吹き渡る山河を下りながら、冥加に余る詩人の冥福を祈ったことであった。(2006.11.07)

 同館の見学は事前に予約のこと。問合せ等パンフレット記載の各連絡先まで、かならず電話にて確認せられたい。

山川清至  0575-72-5188 〒501-5304 岐阜県郡上市高鷲町切立明谷
山川充夫  0575-24-1917
山川京子  03-3398-6585

※正確にいへば雑誌としての「日本浪曼派」は彼のデビュー時すでに廃刊してをり、「文藝文化」もしくは「文藝世紀」の時代であった訳だが、 当時すでに「日本浪曼派」は若い文学者の自負に係るエコールとして、その呼称が定着してゐた。

※今回『大東亜詩文集』に収められた詩篇の選が京子未亡人によることを伺って、あらためて納得したことである。私の好きな「たより」「秋となれば」といった詩篇は今回選ばれなかったが、 それらは夢見る日々のごく若い恋愛詩であったから。

記念館正面

記念館正面

記念館 記念館

記念館 左右の壁面

遺品 礼状

左:遺品の数々   右:礼状の数々(萩原朔太郎最晩年のもの他)

色紙 礼状

色紙:「生き生きてさびしさあまる世のうへぞ さき立つひとをかぞへ居にけり 比呂志」

原稿 短歌

左:原稿  右:保田與重郎による「はつき廿日山川弘至子を祭る歌一首並ニ短歌」

同人雑誌 同人雑誌

関係した同人雑誌「帰郷者」「故園」「文藝世紀」「台湾文藝」「まほろば」 下:創作ノート

創作ノート 創作ノート

ネクタイ  色紙

左:芳賀檀から贈られたネクタイ 右:「飛だの国、大白川に赴くとて美濃の高鷲といふ里をよぎりしに、なき友のことども思ひ出でて」
おくやまの み山せ場と(深山狭戸)に家ゐ(家居)せば聞けばかなしも見ればかしこし 與重郎」

合唱

記念植樹に続き、最後に野田安平氏作曲の「ふるさとの」が合唱された。

山川弘至命の和歌による
ふるさとの

うらうらとこぶし花咲くふるさとのかの背戸山に遊ぶすべもがも
ほととぎす鳴く声きけばふるさとのこぶし花咲く背戸山おもほゆ
遠山は青くくれゆく遠山にむかひてあれば心たのしも
鳥の音に谷のひびきにふるさとの山はおもほゆ人らおもほゆ

昭和十九年六月七日福知山市中部軍教育隊から出された
京子夫人あて葉書に短歌十五首あり。
うち四首を選びて。(出典・『山川弘至書簡集』93p

山川弘至詩碑


(2009.08.05 update)

追伸 その1

記念館

2009年7月26日の日曜日、郡上市にある山川弘至記念館増築竣工のお披露目にお招き与りました。悪天候にも拘らず歌誌「桃」同人の皆さんが多数参集され、 主宰の山川京子氏の晴れ女の神通力の効あって、歌碑参拝と展示見学の間だけは篠突く雨も上がるといふ奇跡に恵まれました。

 この記念館が、吾子ゆかりの品々を大切に保管せられた萱堂の慈愛と、歌誌「桃」を興し、やまと歌の道統を亡き夫の志とともに半世紀かたくなに墨守された京子氏の純愛と、 それらを俟って初めて実現を見た「祈念館」とよぶべき性質の資料館であることを、再び強く味はった訪問となりました。 それは一人の若い戦没知識人を顕彰しながら、決してひとりのものではない、稀有な愛情に貫かれた兵隊遺族の心情が、 戦後変はり果ててしまった日本人の国家観の喉元に突き付け続けてゐる「匕首」であるのには違ひなく、志なかばに斃れた詩人国学者の矜恃と、無念とを、同時に、守り、 鎮めんとする館設立の趣旨といふのは、これを文学館と呼ぶより、確かに靖国神社と変はらぬもののやうにも思はれるのであります。明るい木のぬくもりの感じられる新展示室で、 歩兵操典の字句を書き綴った手帳に涙する見学者の婦人の隣にあって、殊更さう思はれたことです。

 今後は、さきに開館した「蔵」を別館、今回草庵を拡張した展示室を「本館」と呼ぶことになるさうです。このたびの増築によって、 詩人の旧蔵書900冊が京子氏が寄贈した400冊と一緒に保管されることとなり、 その文業の拠りどころとなった師友の人々とともに俯瞰できる展示にしたいとは、事務方一切を引き受けてをられる野田安平氏の抱負でした。 この深い山林の中にひっそりと佇む文学館が、地方行政による「ハコモノ」とは全く違ふ形で日本の精神史の断絶面を保存するタイムカプセルのやうに存続してゆくだらうことに安堵し、 山霧に包まれた奥美濃の深緑を堪能した一日となりました。

【展示の様子】

新本館

新本館中央展示台

遺影  遺影

遺品  遺品

遺品の数々

遺影  遺品

遺品  遺品

修養録と題されたノート

結婚写真  戦地からのたより

結婚写真 と 戦地からのたより

天の夕顔  英雄と詩人

旧蔵書より 中河与一『天の夕顔』と保田與重郎『英雄と詩人』

山川京子氏  内部

新本館内部 (中央は山川京子氏)

新本館  内部


追伸 その2   2013.06.23 訪問記

除幕式

 岐阜県郡上市旧高鷲村の山中にある国学者詩人山川弘至の実家の裏山には、戦歿した詩人を追慕顕彰する目的で昭和33年、故郷の自然を詠んだ、 身の丈に余る巨大な歌碑が建立されてゐる。

 「うらうらとこぶし花咲くふるさとの かの背戸山に遊ぶすべもがも」

 その隣に、このたび新しく少し小ぶりの山川京子氏の歌碑が建ち、除幕式が行はれた。 短歌結社「桃の会」の世話役であり靖国神社の権禰宜でもある野田安平氏が祭司となり挙行された式典には、御遺族をはじめ桃の会や地元関係ほか30余名の列席者があったが、 末席に私も加はり見守らせて頂いた。碑の前で、詩人の弟君である清至氏が義姉の成婚70年をふり返へり、敗戦間際の僅かなひとときを共にされた純愛と、そののち今日にまで至る貞節、 そして亡兄の顕彰活動の尽力に対して、感無量の涙を浮かべられた挨拶が印象的だった。 また「斯様な記念物は自分の死後に」「せめて長良川の小さな自然石で」といふ本人の希望は叶へられなかったさうだが、強い意向であらう、両つを並べず、 まるで夫君を永久(とは)に見守らんとする如き位置に据ゑ置かれた京子氏のお気持を忖度した。いしぶみに刻まれたのは、今年92歳になる未亡人が万感の思ひをこめた絶唱である。

 「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 岐阜県奥美濃の産である抒情詩人にして国学者であった山川弘至とその妻、歌人として生きた山川京子は、一者が一者を世の無理解から護り顕彰することで、 現代から隔絶した鎮魂が神格化してゆき、逆に今度は一者が一者の祈祷を後光で見守らんとする、もはや不即不離の愛の一身(神)体といふべき、 靖国神社の存在意義を示した象徴的存在であり、祭主である京子氏は、同時に国ぶりの歌道(相聞)を今に伝へる最高齢の体現者であるといってよいのだらう。 私にとっても杉山平一先生が逝去され、戦前の遺風を身に帯びて文学史を生きてこられた風雅の先達といふのは、たうとう山川京子氏お一人となってしまった。 主宰歌誌「桃」が終刊した後に、余滴のごとく続いてゐる「桃の會だより」には、それがいつでも絶筆となって構はぬ覚悟を映した詠草が掲げられ、 和歌の良し悪しに疎い私も、毎号巻頭歌だけは瞠目しながら拝見してゐるのである。

歌碑

 式次第には山川弘至の詩が一篇添へられ、野田氏によって奉告の意をこめ同時に読み納められた。6月の緑陰の深い式典会場には、詩篇そのままに谷川が流れ、 ハルゼミがせつなげに鳴きはじめ、まさに京子氏が詩人を讃へた「高鷲の自然の化身・権化」を周りに感じながらの梅雨晴れの一刻であった。 かつては山々も杉の木が無節操に植林されることはなく、今よりさらに美しい姿を留めてゐたことを京子氏が一言されたのも心に残ってゐる。

むかしの谷間

山川弘至

むかしのままに
青い空が山と山とのあはひにひらき
谷川はそよそよとせせらいで
屋根に石をおいたちいさな家のうへ
雲はおともなくゆききした
夏 青葉しげつて夏蝉が
あの峡のみちに鳴いてゐた
あのころの山 あのころの川
そして時はしづかに流れてゆき
雲はいくたびか いくたびか
屋根に石おいたちいさな家々のうへを
おともなくかげをおとしてすぎ
私のうまれた家のうすぐらい
あの大きな古い旧家の玄関に
柱時計は年ごとにすすけふるぼけて

歌碑 歌碑

とめどなく時をきざんで行つた
あの山峡の谷間のみちよ
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの家々はちらばり
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの伝説はねむりつつ
ふるきものはやがてほろび
ふるきひとはやがて死に
あの山峡の谷間のみちよ
今眼とづればはろばろと
むかし幼くて聞いた神楽ばやしの笛太鼓
あの音が今もきこえてくる
あのころの山かげの谷間のみち
ゆきつかれ かの山ほととぎす
鳴く音 きいた少年の日よ
そしてあのみちばたで洟たらして
ものおじげに私をみつめたかの童女らよ
今はもう年ごろの村むすめになったらう
そして私はもう青年より壮年に入らうとし
時はしづかに流れ
あの石おいた谷間の家々のうへを
雲は音もなくすぎてゆき
夏となれば又せつなげに
夏蝉が鳴くことだらう

詩集『ふるくに』(昭和十八年)所載  1 2 3

 部外者が訪れることも稀なこの谷間には、石碑とは別に、御二人の記念品をおさめた記念館も建てられてゐるが、「タイムカプセル」の未来がどうなるのか、 日本文学そして靖国神社や国体の行末とともに、それは私にもわからない。しかし五百年、千年の後にも、開発とは無縁のこの奥深い美濃の山中に、 一対の歌碑だけは変はらず立ち続けてゐるだらうことは、自然に信ぜられる気がした。けだし前の大戦にしろ遠い過去とはいへまだ100年も経ってゐない。はるけき時の流れについて、 なにやら却って無常の思ひにふけりながら山路の高速道路を帰ってきた。只今の京子様には何卒おすこやかに、健康と御活躍を願ふばかりだが、式典後、 記念館に展示された新婚写真をしげしげと見入る参列者に向かって、「そんなにみつめなさんな」と笑顔で叱るお姿に意を強くしたことである。(2013.6.26掲示板)

新婚写真

山川清至氏と  展示

詩人の弟、山川清至氏とならんで

書棚  写真

記念館の書棚より。

色紙

「われ京子 人さはに満つ天地に 恋ふらくはひとり 山川弘至」

 記念品として参列者に配られた、二人の名前を詠みこめた色紙(歌集『新月』所載)。反省そしてあてられました(笑)。

おまけ

おまけ!


山川京子女史御葬儀弔電にお供へしました三首を録します。

ふるさとの古きさくらの枝に咲く言葉のごとき人は今なく

ふるさとの花は未だしまちこがるその山川にかへりしひとはも

山川のよどみなければうたかたの消ゆる思ひもつきることなく

(2014.03.21)


荻窪山川邸

(2014.04.13) 荻窪山川邸にて。


 いつも頂いてゐる『桃の会だより』ですが、前号に続いて17号も主宰者 山川京子女史を偲び奉る特集となりました。葬儀後初の歌会での詠草と回想は、 それぞれ皆さんの哀悼・思慕・尊崇の想ひに満ち、時に曠世の女傑でもあった京子氏その人となりを伝へる消息にも触れ得て、嬉しく拝読しました。
亡くなる前夜、姪御の赤木圭子氏の呼びかけに対し、応へるでもなく毅然と発せられた「大丈夫よ」といふ最期になった言葉のこと。ほかにも「どして百歳に限るの、 百歳以上は生かしてくれないの?」「私に事へるのでなく学ぶのよ。」「甘えるじゃないの。」などなど、煥発される気丈な立ち居振る舞ひの一々が、 細やかなことも決して疎かにされなかった几帳面と配慮とを一度でも経験して相対した人ならば、まことになつかしく髣髴されるに違ひありません。
そして昨年、郡上高鷲に建てられた歌碑のこと。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

「とこしへの願ひ」とは何か。会員からの質問には「そのうちわかるわよ」なんて嘯かれた由。その真意を結社の各自銘々が心にひきとり、 これからも歌の道をあゆんでゆかれることになるのでありませう。和歌はたしかに亡き夫であった詩人山川弘至と京子氏との「心の通ひ路」でありました。 しかし私は野田安平氏の「とこしへの願ひについて」といふ一文にありました、「ねがひ」とは自身の没後にも夫君を追慕し続けるといふやうな、京子氏個人の願ひといふより、 何かを指し示してゐるものではないか、その標識として自身の歌碑を建立せよといふ周囲からの懇請をしぶしぶ承知されたのだ、といふ卓見に同意します。

『日本創生叙事詩』は、原稿を確認してもなぜか「桃」の章※が脱落してゐます。以前、先生にお尋ねしましたが、「桃の会」発足時、 そのことに結びつける意識はなかったとのことです。しかし結果として、先生は、父君の原著の脱漏を六十年にわたって埋め続けられたことになります。そして未完の長歌の最後に、 美しく反歌を添へて一巻を完成なされた。そのやうに思へてなりません。12p (※古事記でイザナキが黄泉軍から逃れる条り)

 日本浪曼派の衣鉢を継ぐ短歌結社といふと、右翼か何かの集まりのやうに思はれる向きもあるかもしれません。しかし山川弘至記念館資料の整理に尽力、 今後の運営についても影響されると思はれます野田氏は、靖国神社の権禰宜でありますがキリスト教の薫陶を家庭で受けた謹飭の人であり、姪御の赤木氏は英語の先生、 また京子氏自身も戦前日本で迫害にさらされた大本教の司祭になられたのでした。「文学(文士)とは行儀の悪いものである」といふ世に行はれてゐる観念、 その対極に立つやうな桃の会の「歌の道」そして大和魂の精神は、ますらをぶりを掲げた山川弘至を愛しむ山川京子のたおやめぶりを本義とするかぎり、 俗念の赴くまま自己表現することを誡めながらも、決して表現の自由や平和の大切さを蔑ろにするものでない。むしろその反対だと、それだけは堅く言へるのではないでせうか。(2014.07.11)


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