「詩集街の犬」についてのメモ
伴野 憲 第一詩集「街の犬」はその書影からも判るように著者自装のなかなかの豪華版である。
巻末に、「これが全部名古屋での仕事であるがため、不馴れがもたらす仕事の手際にいかんの点ある恨のいたりである。」とあるは、自身の謙遜であるか、
当地の出版事情を偽りなく吐露した感想であったか知らない。
詩集は中間部に、前掲の野々部逸二の文章で紹介した大正十五年伊良子岬への小旅行のときのことを歌った「伊良子崎十三唱」をはさみ、 前半に巻頭作品に見られるやうな古色の雰囲気をロマンチックに歌ったもの、後半に身近な野犬を題材に採ったヒューマンな味わひのものをとりあつめて一巻となしてゐる。 著者当時の風懐は詩集表題に挙げたことでも判るやうに後者のヒューマンな立場を鮮明にしたものの方にあったやうである。しかしながら見たところそれは成功してゐるとは言ひ難いのではなからうか。 なにより盟友である中山伸が、些か不謹慎であるけれども当の詩集の跋文においてその遺憾の念を著者に書き送ってゐることがそれを物語ってゐる。私も中山氏の意見に全く賛成である。 前半に集められた、修辞でもって独特の雰囲気を演出してゐるものの方が完成度がずっと高いし、もっと云ふなら中山氏がその跋文の中で引用紹介してみせた「煙」といふ、 詩集に収められる以前の初期の「曼珠沙華」に収められたらしい作品の方に、素直な彼の感性の純粋な迸りを見る思ひがする。
煙
黙りこくつてどんどんと
かれ枝を焚火の中へ投げこんだ、
よく拭はれた空だ、
人里はなれひとり私が住む
澄むだ空気の丘の上に、
黙りこくつてする焚火。
太陽は潤つた大地を蒸し
陽炎があがる、
焚火はぱしんぱしんと
小気味よい音をたてて、
たちあがる白い煙は
うへの方で消える、
それでも元気よく昇る煙。
「ぱしんぱしん」といふ描写など彼独自の表現には違ひない。快い清澄な秋空を見あぐる思ひがする。
注 (「曼珠沙華」は短歌の革新を標榜して中山伸と二人ではじめた雑誌。次第に詩への傾倒を見せるに従ひ、ついに「独立詩文学」に改題された)。
思ふところあって新境地に一歩踏み出さうとしたところに、所謂この詩集の作者にとっての新機軸の意義があったとも思はれるのだが、思惑は思惑として、やはり中山伸氏の云ふとほり、
彼の最初期に書かれた作品群を持って詩人の出発としてもらいたかったと私も残念に思った。
裏返せば大正民衆詩派が撒布した浅薄なヒューマニズムの影響といふものが当時どんなにゆきわたって青年達を魅了したのか、その証左であるとも云へなくはない。
親友である中山伸はそれはそれとして文中、あたたかく彼の再出発を見守りまた期待する気遣ひも忘れない。著者もまた、そんな彼の跋文を巻末に掲げて感謝を告げる態度において、
私は拘りのない素晴らしい友情の在処を感ぜずにはゐられなかった。合せて中山伸の「北の窓」における今度は伴野憲の手になる跋文を読んでもらへると良く分かるだらう。
伊良子岬のことを歌った一連のものについてはさきにその様子を記した野々部逸二のエッセイを掲げたが未読の方は是非読んで頂きたい。
集中には「夢のようなマリオネツテエ」など、醸された雰囲気が面白いと思ったものもある。作られた当時に意図されたものは、 今ではその意味を変質させて一種イナガキタルホの描くが如き「大正ロマン」を髣髴させる。一体にまた、彼の言葉遣ひについて一言云へば、私は端正な行儀良さ、 一種の「品」を感じるのだが、これは後年、市井の雑駁な題材を歌った時にも終始一寸したユーモアを付け添へて彼が失はなかったところの倫理性に所以してゐるものと思はれる。(99.12.18)