「伊良湖崎紀行」 野々部逸二 (「新生」第3巻2号・1926年2月所載)
僕達が出かけた一月三日の朝は名古屋はひどい吹雪だった。同行四人、高木、中山、伴野、僕。
予定の午前七時十分の上り列電車には高木君一人乗り、あとは三人とも乗遅れた。一行は豊橋で合してそこで田原行の電車に乗り換へた。豊橋では雪は降らなかった。
雪の積もった痕も見られなかった。名古屋より余程温かい
。
「仲なかよく走るね」
「乗心地もいい。名古屋の市街電車より良いね」
「田舎電車だとてそうあやしんだものでないよ」
みんな素敵に元気だ。四人一緒に旅へ出るのも今度が初めてだ。電車が豊橋郊外の高師ケ原練兵場を抜ける頃から、僕達の眼前には、半島特有な丘陵の冬日に輝いた風景が、
次から次へパノラマのやうに展開する。僕達は地図を展げたり、窓外の景色を享楽したり、新鮮な幻想を趁ったり、雀のように饒舌ったりした。
やがて電車は盆地の真中の田舎町へついた。田原である。空が低い、周囲の山脈も低い、田原は扁べったい一枚の盆を伏せたやうだった。町を彼方此方あるく、
渡辺崋山の墓へ詣でる。苔蒸した碑前に新しい香華が匂ってゐた。それから高木君の発議でおでんを食べに入った。立喰ひである。
詩人四人ズラリ並んでの立喰ひである。
その恰好たるや蓋し見物なりしならん。読者諸君よ、乞ふ自由に想像せられんことを。おでんを平げるや、乗合ですぐ福江へ疾った。
今にも抛り出されさうなガクガクボロボロの危険極まる革の乗物だ。その乗物に揺られゆられ渥美湾の一小港福江へ着いたのは午後二時頃、
何処の町通りも新春らしく門松や黄ろい夏蜜柑が飾ってある。
一行四人もこの町へ入ってからは、さすがに旅人らしい印象をうけた。風が寒い、福江名物の鷹が町の上空をしづかに翔ってゐる。
俳人・杜国が隠世してゐたといふ保美村を訪れる。保実は福江の町の南方、青い竹薮と川と一月の蒼空と明るい陽光と、黄に熟れた夏蜜柑畑のなかにあった。
道傍には蓬や草の芽が青あをと萌え、枯草の中から早咲の蒲公英さへ顔を覗けてゐた。
村はずれに霊仙寺といふ寺があった。門前に「烏丸大納言御旧跡」と刻んだ石碑が建ってゐる。
由緒深い寺か。境内の本堂の前には見事な蘇鉄と橘の大樹が左右に並んでゐる。橘の樹にはきんかん位の黄果が技いっぱい実ってゐた。寺人のいふには三百年を経た老樹だといふ。
その晩は福江に泊った。
六時半に起き真ぐ仕度をする。昨夜三時間しか睡らなかったので可成眠い。堀切といふ村まで自動車に乗る。自動車は半島を横断して、この外海に近い村まで僕達を運んでくれた。
南国的な冬の太陽が僕達を送迎した。
黒ぐろと湿った畠や道が後ろに長く続いた。自動車を降り随分歩いた。海!さういって中山君が駈けだした。松原の中を走っていった。僕達が浜へでたときには彼は、
波打際に真黒くなって見えた。右の肩を怒らし、大平洋を眼下に睥睨し吃立してゐた。そこから浜づたひに歩いていった。岬までは半道もあったらう。
僕達は何度も吹飛ばされさうだった。岬へ辿りついたときは皆んなすっかり疲れてゐた。
岬の先瑞に立った。伊良湖ア頭である。切崖が聳えたち、太平洋の波涛が直接この岸辺を洗ってゐた。
涯しがない。豪壮な藍青の絨毯のやうに果しがない。
僕達は身体も心もすっかり太平洋の浪で洗った。太平洋がまともに僕達の心へ打ち寄せたのだ。それにしても、
そこらの木っ葉詩人達よ!せまい泥溝の中でがやがや蛙鳴蝉噪は止したがいい。この太平洋を見ては定めし胆をつぶすことだらう。高木君と中山君は断崖づたひに何処かへゆき、
伴野君と僕はその間風を除けて砂浜に寝ころぶ。暫くすると高木君は海燕の巣を発見し湖の花が咲いてゐたと言って喜び、中山君は奇体な形をした木をオーバの上に担いで帰って来た。
砂浜に沿って椿の密林がある。南国の海と椿。その椿も潮風に吹きつけられ、一様に幹が頃いてゐる豪奢な椿林だった。その椿林を抜けて漁村へ出る。素晴らしく椿が咲いてゐる。
見事な椿のアーチ。椿のアーチを潜りぬけ、道をたずねて磯丸の墓といふのに詣でた。磯丸といふのはこの日出村の孝行漁師で貧乏であったが和歌をよくしたと、
福江の町の青年から聞いてゐた。芭蕉の碑は訪ねそこねた。
正午頃、伊良湖崎に別れ、椿咲く漁村を出た。
高木君の手には中山君発見の熱帯植物・天南星の真紅の毒果が大切さうに手拭に包まれ、中山君の肩には例の浜で拾得した木切れ、
僕の右手には皆んなで折りとった数枝の(実はたくさんの)椿、件野君は感心に何も持ってゐない。中山君のランニングで一時の乗合に間に合ひ、
それから赤羽根を迂回して再び豊橋へ出た。名古屋へ帰ったのは十二時遅く。