(1999.12.18up / 2022.07.09update) Back
四季派の外縁を散歩する 第三回
名古屋の詩人達 その1 友情――陽だまりの記憶
「・・・春山がようやくレスプリ・ヌーボーのオルガナイザーに変身するのは、一九二八年創刊の「詩と詩論」誌上に於いてである。 ただモダニズム前夜祭ともいうべき「青騎士」時代に、交遊圏に濃厚に漂っていた無償の至福感は、以後二度と彼を訪れることはなかった。」(和田博文著「春山行夫の交遊圏」 1995「彷書月刊」“特集・名古屋のモダニズム”より)
大正末年に活躍した井口蕉花(いぐちしょうか1896〜1923)といふ詩人は、インターネットが普及する前までは、詩史上の伝説として、稀覯本を扱ふ古書店の間で語り継がれる存在でした。春山行夫との濃密な友情の消息が、彼の全詩集『春山行夫詩集』(1990年刊)を始め、これもまた伝説的存在だった同人雑誌「青騎士」が2012年に復刻されるに至り明らかとなり、遺稿集として刊行された、彼の唯一の作品集『井口蕉花詩集』(昭和4年刊行)も1999年、本サイトにおいて公開され、自由に閲覧ができるやうになりました。
春山行夫や井口蕉花の当時の作品から感じられるのは、青春の幻想をない交ぜにした、口語象徴詩の一種の到達点のやうなもの、といっていいでしょうか。彼の夭折に衝撃を受けた春山行夫は、親友を喪った悲しみと共に自らの内部で完結してしまった何ものかを振りきるやうに上京します。ある意味では求めて立てた訣別の志であったかもしれません。
春山行夫、井口蕉花、高木斐瑳雄、佐藤一英、斎藤光次郎を中心に運営された同人雑誌「青騎士」は、さうして大正十二年、井口蕉花の追悼号を出し、二年余りの短くも濃密な名古屋における口語象徴詩の歴史(モダニズム前夜祭)の幕を閉じてしまひます。
とはいへ、同人間に象徴詩の研鑽をもって旗印に掲げる等といった、党派綱領はありませんでした。つまり彼ら地元詩人達の集まり「名古屋詩人連盟」に漂ってゐたのは、上掲の和田氏の文章にある通り“無償の至福感”ともいふべき友情、年頃と志を同じくした若者達の連帯感にほかなりませんでした。
ですから「青騎士」達が解散し、春山行夫をはじめ、梶浦正之、佐藤一英、と精力的な野心を持った名古屋詩人の中心人物が次々に上京して行くなか、家業に縛られ後に残されることとなった詩人達にとって、雑誌の廃刊は自分たちが創めた地元名古屋の詩史を最初に劃る出来事として受けとめられ、友人を羨望しつつ一人前の社会人としての自分を自覚せざるを得ない契機ともなったのでした。(彼等の多くが早くから名古屋商業学校(CA)等において英文学に親炙してゐた事実も特筆されていいでしょう。)
その詩の目指すところのものも、属目する自然から無心に抒情を探る者、鬱屈を社会的な問題意識と重ねあはせる者、また上京した春山の動向を注視するまだ若い後輩群と広がりを持ちながらも、地方詩壇の連帯を温存させようといふ一点においては「取り残された者たちの結束」のやうなものが働いたのかもしれません。)
「青騎士」の残党、高木斐瑳雄(たかぎひさお)と常連寄稿者であった野々部逸二(ののべいつじ)は早速、本来の自分達の詩風と肌が合ふやうな、落ち着いた抒情を大切にしようとするグループ、すでに「青騎士」とは別途「曼珠沙華」を興し強い絆関係にあった短歌出身の中山伸(なかやましん)と伴野憲(ばんのけん)の二者と意気投合します。
それは「青騎士」のなかにあって、春山・井口達の絢爛過剰の象徴詩風と一線を画していた高木・野々部にあって自然の成り行きであったに違ひなく、いくつのか同人誌を経た後、大正十五年、彼ら四人が最終的に旗揚げ創刊したのが、名古屋詩史上に二つ目の円頂を示すに至った同人雑誌「新生」、ならびに彼らが新たに党派を超えて呼びかけて作った中部地区の詩人組織「東海詩人協会」だったのでありました。
高木、野々部、中山、伴野、四人それぞれが、孤高の高みではなく信ずるところの篤さと素朴さといった抒情を作品上に実証してみせたこと。譬ふれば、孤独な「雨に濡れて歌ふ野鳩」を心の中に一羽づつ飼ってゐたやうな彼らです。都会ずれのない無私の友情を惜しみなく披瀝する姿を想ふたび、私は何ものにも患わされることなく発芽した「詩の成立する現場」、彼らにとっては陽だまりの黄金時代に違ひないものを垣間見るやうな気がいたします。
ここに野々部逸二が残した一文を紹介したいと思います。当時の彼らの無邪気な姿を髣髴させる、「陽だまり」を記録した好編です。
「伊良湖崎紀行」野々部逸二(「新生」第3巻2号・1926年2月所載)
私はあらためて、彼らが編集した「東海詩集」の1〜3集の現物に、日本ではじめて刊行された、地方詩人の地方詩人による地方詩人のためのアンソロジーを持つまでに至った、彼等の自覚と自負の強さが、尊い形象に凝ってゐるのを見ます。
当時中央では、すでに時代を代弁する活力を失った民衆派詩人の先輩達が、詩壇の公器的な機関誌「日本詩人」の掲載権益を事実上牛耳ってゐたのですが、すでに大連、神戸、京都、金沢ほか各地においては次世代の詩人たちが、中央に対して来るべき時代を見据えて底流し、その地下水脈を合流させながらやがて同人誌乱立、疾風怒濤の時代に入りつつありました。
名古屋はなかでも一等最初に旗頭を挙げた地域でした。「青騎士」が孕んでゐたのはレスプリヌーボーそのものではありませんでしたが、次世代思潮を予見させる混沌のやうなものが、春山行夫等が抜けて一旦整理されたのちに、「日本詩人」の推薦詩人であり唯一人名古屋に居残った高木斐瑳雄の、温和で忍耐強い、誠実な人柄が自然に皆から押し出される恰好となったやうに思はれます。
名古屋の詩壇は当年の事情に明るくない私から見たところでも、天才井口蕉花が夭折、春山行夫が失意のうちに出奔、純朴な抒情詩人であった上述の四人が高木斐瑳雄を中心に、昭和上半期の間、純情を旗頭にしてよくこれを押し通し、大正末年詩壇における実績の余勢をかって守り抜いたといふ印象を与へます。
しかし戦争の跫音が近づくなか、「陽だまり」は昭和4年、野々部逸二の夭折(享年29才)とともにあっけなくその終局を迎へてしまひます。野々部への黙祷を遺稿詩集『夜の落葉』(昭和6年)といふ形にして捧げた後、残された三人は沈黙とまでは云はずとも、中央の新世代詩人の活躍の陰にあって自身を謂はば冬眠状態に追ひやってしまった感がいなめません。
時あたかも「四季」「コギト」といった、彼らよりも一世代後のグループによる、知性を賭けた昭和抒情詩最後の大輪を華々しく咲かせる時期に当たってゐました。
やうやく戦争が終結し、文化の名に恥じない集まりを再び地方に興さうと、中部地区在住詩人の大同団結を発議した彼らをめぐって、周りの状況はしかしすっかり様子の異なったものになってしまってゐたのでした。陽だまりの記憶を胸に冬眠に入り、その抒情を変ずることなく、むしろ戦争にはそれなりに協力する姿をみせながら、戦後の荒々しい春を迎へてしまった彼ら。
新しく台頭する戦後現代詩詩人サイドからの伝統的抒情批判の矢面に立ち、あるひは疎開先から転がり込んできた丸山薫といふ抒情詩の表舞台で活躍してきた中央の一流詩人を遇する役目となって、他意もなく彼らが面食らひ、どぎまぎしたとしても不思議ではありません。
直後に訪れた高木斐瑳雄の突然の死(昭和28年、享年54才。兄事した佐藤惣之助の最期を思はせるものでした)が、結局三人の思ひ描いたときじくの青春と友情を花咲かせる地域サロンを、世代と党派を超えて再開させるといふ計画ごと永遠に葬り去ってしまひました。中山伸(1903〜1991)は、己の作品に孤独な彫拓をかけることにより時代を超えた抒情の孤塁を護り、伴野憲(1902〜1992)は、呉服商であった家業の発展に向けた新しい人生の円熟期を受容する。二人はさうして戦後の永い余生をふたたび孤寂な詩を愛した昔ながらの友情に立ち帰っていったのだと、私はそのやうにもひとつのシナリオを組みたてて考へてみたことです。
実際のところはそんな簡単なものではなかったかもしれません。登場人物を単純に四人に限定してしまったり、また戦争中は銘々が、高木斐瑳雄は文学報国会の幹部として精力的に国家のために働いた実態を看過したり、そして中山、伴野の両氏については戦後に興した同人誌「サロン・ド・ポエート」における後進指導の意義に触れぬまま、所謂彼等の陽だまりの出発点についてのみに焦点を当てた論及といふのは、関係者のみならず泉下の四人からも真先に訂正を要求されることも判ってはゐます。
さはさりながら…試みにこんなシナリオを描きつつ、私は自分の育った地元の詩壇揺籃期に、このやうな世にも稀なる、詩を友情の証として信じつづけることができた純正の詩人たちが存在したといふこと。現在とは完全に截断されたそれら黄金時代の回想を、ひとつの伝説として新しく書き留めておきたいと思ひました。わが欲求の正しさを、彼等の作品そのものより射し染める自足した後光の気配において信じたのでした。
★ ★
(付記)
拙文における各詩人についての理解は、杉浦盛雄氏の浩瀚な労作『名古屋地方詩史』1968年、久野治氏『中部日本の詩人たち』(中日出版社 2002、続2004、続々2010年)、および長年にわたって名古屋地方詩史の研究の研鑽を積んでこられた木下信三氏からの御教示に与るところが大きく、あらためて深謝申し上げます。
資料 名古屋の詩人達 著作権の働くテキスト画像の転載を禁じます。御理解下さい。
『青い嵐』大正11年【全文画像とテキスト】
『昧爽の花』大正13年【全文画像とテキスト】
『天道祭』昭和4年【国立国会図書館所蔵】【全文テキスト】
『寒ざらし』昭和34年【全文画像とテキスト】
拾遺詩編(詩誌「日本詩人」「友情」所載分+α)【全文テキスト】
『夜の落葉(遺稿詩集)』昭和6年【全文テキスト】
『北の窓』大正15年【国立国会図書館所蔵】【全文テキスト】 (尚、詩人にあっては他に詩集 『座標』昭和48年があります)
Memorandum : 詩集『北の窓』について
『街の犬』昭和2年【国立国会図書館所蔵】【全文テキスト】 (尚、詩人にあっては他に詩集 『屋根を越えて行く風船』昭和49年、『クルス燃ゆ』昭和50年があります)
詩誌『友情』 / 編輯 高木斐瑳雄
十一月版(No.1,昭和6年11月)【全文画像】
一月版(No.2, 昭和7年1月)【全文画像】
四月版(No.3, 昭和7年4月【全文画像】
六月版(No.4, 昭和7年6月)【全文画像】
いぐち しょうか【井口蕉花】(1896〜1924)
『井口蕉花詩集(遺稿詩集)』昭和4年【全文画像】【全文テキスト】
はるやま いくお【春山行夫】(1902〜1994)
『月の出る町』大正13年【国立国会図書館所蔵】【序跋テキスト】
『植物の断面』昭和4年【国立国会図書館所蔵】
『シルク・ミルク』昭和7年
『花花』昭和10年【国立国会図書館所蔵】
おちあい しげる【落合茂】(1903〜1965)
『風の中の家』昭和5年【国立国会図書館所蔵】【目次テキスト】
やすい りゅう【安井龍】(1904〜19)
『風のない樹木』大正14年【国立国会図書館所蔵】【目次テキスト】 2003.1.14update
すぎもと としひこ【杉本駿彦】(1906〜19)
『暦と地圖』昭和5年【全文画像】
『記號と秩序』昭和7年【全文画像】
『EUROPE』昭和9年【全文画像】
さかの そうし【坂野草史】(1909〜1949)
『プルシア頌』昭和10年【全文画像】
詩誌『青髯』【全文画像】 昭和8年3月/ 編輯発行者 坂野春浪 白星社発行 (資料提供:加藤 仁 様)
さとう いちえい【佐藤一英】(1899〜1979)
『晴天』大正11年【全文画像】
『故園の莱』大正12年【全文画像】
『古典詩集(全詩集)』昭和3年【国立国会図書館所蔵】
『大和し美し』昭和8年【全文画像】
『遠い海風(それまでの全詩集)』昭和4年【国立国会図書館所蔵】【目次テキスト】
かめやまいわお【亀山 巌】(1907〜1989)
詩誌『ウルトラ』【全文画像】 昭和4年2月/ 編輯発行者 亀山 巌 ウルトラ編輯所発行 (資料提供:加藤 仁 様)
謎の多かった戦争中の東海詩人協会の活動から
「戦艦献納はがき」第1〜3輯 昭和18年【全文画像】
詩誌『新生』 / 編輯 高木斐瑳雄 新生詩人會発行 東文堂書店発売 (資料提供:加藤 仁 様)
五月号 Vol.4(5),No.28 昭和2年5月【全文画像】
九月号 Vol.4(8),No.31 昭和2年9月【全文画像】
三月号 Vol.5(3),No.37 昭和3年3月【全文画像】
詩誌『獨立詩文學』 / 編輯 中山伸二 純正詩人協會発行 静観堂書店発売
五月号 Vol.4(5),No.33 大正11年.5.1発行【全文画像】
詩誌『青騎士』 / 青騎士編輯所発行
創刊号 大正11年9月(コピー)【全文画像】
3号 大正11年11月【全文画像】
6号 大正12年3月【全文画像】
12号 大正12年10月【全文画像】
13号 大正13年3月【全文画像】
14号、16号 大正13年4月、6月
ながらく幻の文献といはれた詩誌『青騎士』については、文中にも記しましたがすでに全冊の復刻が完了してをります(※ ゆまに書房『コレクション・都市モダニズム詩誌 第2期』第23巻「名古屋のモダニズム」 2012年10月刊行)。
ここにはそれ以前、齋藤亮様の御協力を得て公開させて頂いた画像を引き続きupさせて頂いてゐます。
また著作権を継承される御遺族におかれましては、詩人の顕彰を目的にしたテキストの公開にあたりまして、何卒ご諒察とご諒解を賜りましたら幸甚です。不都合が生じましたらその際に削除させていただきます。資料の提供を賜りました皆様へ、この場を借りましてお礼を申し上げます。ありがたうございました。
【リンク】: 『名古屋近代文学史研究』総目次 1-176 (名古屋近代文学史研究会(休止中))
大正時代の名古屋白壁風景(文化のみち二葉館の屏風絵より)。煙突は春山行夫らが育った陶器工場か。