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梁川星巌記念館(大垣市曽根町1-772)

華渓寺遠望
華溪寺(詩人が少時、眷属の住職に育てられた寺)遠望。境内に記念館があります。

星巌旧居跡
お寺から幾許もないところに梨花村草舎。道の突き当りが 華溪寺です。

華溪寺
お寺の入り口。戦国時代の城 址(曽根城) とも。

梁川星巌記念館
入場無料、要連絡。

梁川星巌記念館館内
遺品、翰墨、処女詩集など超一級のお宝が“実家”に無造作に飾ってあることに感激。

芳野懐古
今来古往 事茫々、石馬声無く 抔土(ほうど)荒る、春は桜花に入って満山白し、 南朝の天子 御魂香(かんば)し
人口に膾炙した“芳野懐古”の掛軸ほか、若年の放蕩を懺悔した起請文なども展示。

「ヒャッヒャッヒャッ。」


おまけ( 近隣の岐阜経済大学内にあるビオトープ(ハ リヨパーク)。 ハリヨは 少年時代の詩人が親しんだ華溪寺裏の池にもゐます。)
 

2007年9月、大垣市主催の 梁川星巌150年回記念特別展に行ってきました。(左:チラシ・ポスター/右:図録)

ポスターに写ってゐる銅像は星巌記念館裏の 公園にあります。


 
華溪寺境内の詩碑。




幕府末造。内外多虞。國歩艱難。 當是時。以布衣老羸身。周旋名公卿鉅之間。為勤王志士。執牛耳者。是為星巌梁川先生。惟皇政復古之業。雖云因天子稜威。能輔翼而成就之者。志士之力也。先 生實居其首。不亦偉乎。先生諱孟緯。字公図。称新十郎。濃州安八郡曽根村。稲津長高子。以寛政元年六月十八日。生于明星山下。因号星巌。少従華渓寺太随和 尚学。性敏慧。十二歳。失怙恃。衰毀若成人。年十九。属家干弟。刊氏梁川。游江戸師事山本北山。與大窪詩佛菊池五山等交。留滞数年。業大進。夙以詩著。年 三十二。娶張氏。名景婉。實支族長好女。世所称紅蘭女史也。亦解詩。乃相携。歴遊京畿山陽鎮西。訪諸名流。抵長崎。與清客唱和有西征詩著。名益喧於世。文 政十年春。入京。寓鴨川西。與頼山陽最相親善。人言詩則推先生。言文則推山陽。天保三年冬。復抵江戸。創玉池吟杜。以詩教授。列藩士大夫。皆賓禮。遠近問 詩者。殆千余人。一時俊士。多出其門。詩集陸続上梓。先生詩才得之天分。風流蘊藉。根乎道義。帰温柔敦厚之旨。世仰以為詩壇泰斗。時邊彊漸多事。先生屡賦 詩以警世人。佐久間象山。晨夕過従。慷慨共談時事。弘化二年夏。有所感。俄西帰。明年冬。重入京卜居鴨涯。焚香読書。潜研経義。傍及釈老。著春雷余響。自 警編。香厳集書。其学主劉念台。兼取陽明王子。而最尚名節。人益敬重焉。既而邊警頻至。幕府失措。先生憂之。或出入搢紳。或締交志士。以明大義済時艱自 任。著籲天集。以述其志。辞旨沈欝。悲壮忠憤之氣。溢于楮表。安政五年。幕府與美國訂約。海内騒然。先生憂憤益切。與梅田雲濱頼鴨涯等。糾合同志。欲乗時 恢復皇政。進説青蓮院親王及三条内府等。於是朝延下勅水戸藩。釐革幕政。幕府大懼。遣閣老間部詮勝于京師。逮捕志士。先生與詮勝有旧。欲迎焉而陳時弊。遽 罹病以歿。實九月二日也。享年七十。葬于南禅寺天授庵。後数日。幕府縛勤王諸士。謂先生為首魁。収紅蘭。下獄訊鞠而紅蘭不屈。意見釈。明治十二年三月二十 九日歿。壽七十六。二十四年四月。朝延褒先生忠節。贈正四位。尋合祀靖國神社。大正十三年二月。贈紅蘭従五位。可謂恩栄異数矣。頃者。安八郡教育会。胥謀 欲建碑于其郷。請文余。余生與先生同州。夙淑焉。嘗立其伝。不可以不文辞。乃叙其梗概。繋以銘。曰。

星山之麓。斐水之濱。秀霊所鍾。生斯偉人。奚樹豊碑。永伝丕績。後人仰膽。忠尽報國。

昭和十二年龍集丁丑春三月

後学従六位 伊藤 信 撰

      井川銕吉 書

      根来市蔵 刻

 

幕府の末造、内外の虞れ多く、国歩艱難なり。是時に当り布衣(平民)老羸の身を以て、名を公・卿・ 鉅の間に周旋し勤王の志士となり、牛耳をとる者は是れ星巌梁川先生と為す。惟ふ皇政復古の業は、天子の稜威に因ると雖もよく輔翼して之を成就する者は志士 の力なり。先生は実に其の首に居る、また偉ならずや。先生、諱は孟緯、字は公図、新十郎と称す。濃州安八郡曽根村は稲津長高の子、寛政元年六月十八日を以 て明星山下に生る。因りて星巌と号す。若くして華渓寺の太随和尚に従いて学ぶ。性敏慧にして、十二才にして怙恃を失へば衰毀成人の如し。年十九にして家干(家督)を弟に属し氏を梁川と改む。江 戸に游び山本北山に師事し、大窪詩仏、菊池五山等と交わる。留滞数年にして業大いに進み、つとに詩を以て著はる。年三十二にして張氏を娶る。名は景腕、実 は支族長好の娘也。世に称ふる処の紅蘭女史なり。また詩を解す、即ち相携へて、京畿山陽鎮西に歴遊し諸名流を訪ひ長崎に到る。清客と唱和し『西征詩』の著 あり。名は益々世にかまびすし。文政十年春、京に入り鴨川の西に寓す。頼山陽と最も相ひ親善す。人、詩と言へば則ち先生をおし、文と言へば則ち山陽を推 す。天保三年冬、また江戸に到り玉池吟杜をはじめ、詩を以て教授す。列藩の士大夫みな賓礼し、遠近より詩を問ふ者ほとんど千余人。一時の俊士多く其門に出 ず。詩集陸続として上梓す。先生の詩才これを天分に得、風流蘊藉にして道義にもとずき温柔敦厚の旨に帰す。世は仰ぐに詩壇の泰斗となす。時に辺彊漸く多 事、先生しばしば詩を賦し以て世人を警す。佐久間象山、晨夕過従す。慷慨ともに時事を談ず。弘化二年の夏、感ずる所ありて俄かに西に帰す。明年冬、重ねて 京に入り鴨涯にト居す。香をたき書を読み、経義に潜研し傍ら釈老に及び、『春雷余響』及び『自警編』『香巌集』の書をあらわす。其学は劉念台を主とし、兼 ねて陽明王子を取る。而して最も名節をたっとぶ。人ますます敬重せり。既にして辺警頻りに至り、幕府、措を失す。先生これを憂ふ。或は搢紳に出入し或は志 士と締交し大義を明らかにし、時艱を済ますを以て自から任ず。『籲天集』を著はし以て其の志を述ぶ。辞旨沈欝、悲壮忠憤の気、楮表に溢る。安政五年、幕府 美国(ア メリカ)と 訂約し、海内騒然たり。先生憂憤ますます切なり、梅田雲浜、頼鴨涯等と同志を糾合し、時に乗じて皇政を恢復せんと欲す。進んで青蓮院親王及び三条内府等を 説き、ここに於て朝延は勅を水戸藩に下し幕政を釐革す。幕府大いにおそれ閣老間部詮勝を京師に遺はし、志士を逮捕す。先生、詮勝と旧()有り。迎へて時弊を陳べんと欲 するも遽かに病に罹り以って歿す。実に九月二日なり。享年七十、南禅寺天授庵に葬る。のち数日にして幕府勤王の諸士を縛し、先生を首魁と謂ひ紅蘭を収して 獄に下し訊鞠す。而して紅蘭屈せず、つひに釈せらる。明治十二年三月二十九日歿す、寿七十六なり。二十四年四月、朝延先生の忠節を褒し、正四位を贈る。尋 いで靖国神杜に合祀す。大正十三年二月紅蘭に従五位を贈る。恩栄異数と云ふ可し。頃者、安八郡教育会、あい謀りて碑を其の郷に建てんと欲す。文を余に請 ふ。余生、先生と同州にしてつとに淑(私淑)す。かつて其伝をたて不文を以て辞とす可からず、乃ち其の梗概を叙し、繋するに銘を以て す。日く、

星山の麓斐水の浜、秀霊あつまる所この偉人を生む、奚(ここ)に豊碑を樹て、永へに丕績(ひせき:大きな業績)を伝ふ、後人仰膽し、忠尽報国 す。



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