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館柳湾 (たち りゅうわん 1762 宝暦12年 〜 1844 天保15年)
『柳湾漁唱』
(りゅうわん ぎょしょう)より 飛騨高山時代の詩
左より、第二集 第二集 初集(日野資愛の序を欠く。初刷本と思はれる)
初集(文政四年1821刊)より
題高山官舎 高山官舎に題す 高山陣屋前にあった。
高山官舎古城前 高山官舎、古城の前
板屋紛牆連野田 板屋、紛牆、野田に連る
遠郡寧愁常寂漠 遠郡、寧ぞ愁へん、常に寂漠たるを
明時到処即安便 明時(太平の世)、到る処、即ち安便
羹調錦綉山中蕈 羹には調すに、錦綉山中の蕈(松茸)
茗煮宗猷寺後泉 茗には煮るに、宗猷寺の後泉
況乃林巒奇賞足 況や乃ち林巒の奇賞に足るをや
淹留好此了塵縁 淹留好し、此に塵縁を了せん
錦山在郡東数里。多産松蕈、大者重数斤、香味非他山比。 錦山、郡東数里に在り。松蕈を多産す、大なる者は重さ数斤、香味は他山の比に非ず。
宗猷寺東山五寺之一。寺後連筧、引山泉、甘冽称郡中第一。 宗猷寺は(飛騨高山)東山五寺の一。寺後筧を連ね、山泉を引く。甘冽なること郡中第一と称す。
夏日即事
官齋涼意在心閑 官齋(役所の休憩室)の涼意、心の閑なるに在り
半日静居熱自刪 半日静居、熱自ら刪(除)かる
塵案払来無片牘 塵案(役所の机)、払ひ来って片牘(公文書の類)無く
一函黄老対青山 一函の黄老(老荘の書)、青山に対す。
晩帰
独下西山晩興濃 独り西山を下れば晩興の濃く
吟筇緩々弄秋容 吟筇(詩を作りながら杖をついて歩くこと)、緩々(ゆるゆる)秋容を弄す
日落前林渓路暗 日落ちて前林、渓路暗く
残暉遠在嶺頭松 残暉は遠し、嶺頭の松に在り
又廻文 また 廻文(逆から読んでも可※)
西林竹寺遠鐘微 西林の竹寺、遠鐘微かに
漠々秋煙孤鳥飛 漠々たる秋煙、孤鳥飛ぶ
淒颯晩風携袖満 淒颯たる晩風、袖に携(連)りて満ち
渓東歩月曳筇帰 渓東、月に歩みて筇を曳き帰る
※
帰筇曳月歩東渓 帰筇、月に曳きて、東渓を歩む
満袖携風晩颯淒 満袖、風に携へて晩、颯淒たり
飛鳥孤煙秋漠々 飛鳥、孤煙、秋漠々
微鐘遠寺竹林西 微鐘の遠寺、竹林の西
秋夜独坐
寂々夜方永 寂々として夜、方(まさ)に永く
粛々秋已淒 粛々として秋、已に淒(さむ)し
孤燈人不寐 孤燈、人、寐ねず
和雨聴莎雞 雨に和して莎雞(はたおり虫)を聴く
山村
松棚草舎両三椽 松棚(高山市松倉?)の草舎、両三椽(てん:たる木。3間ほどの小家の謂。)
斲木編闌護稗田 木を斲(けず)り闌(らん:かきね)を編みて稗田を護る
橡栗秋収無水旱 橡(栃の実)栗、秋収めて水旱(ひでり)なければ
山村長占小豊年 山村、長く占む、小豊年
晩上大隆寺 晩に大隆寺に上る
来尋上方寺 来り尋ぬ、上方(城より東北)の寺
寂寞古城陰 寂寞たり、古城の陰
山晩万松暗 山晩(く)れて、万松、暗く
僧帰一逕深 僧帰る、一逕、深し
妙香薫夜殿 妙香、夜殿を薫じ
寒磬徹秋林 寒磬、秋林に徹す
坐覚迷途遠 坐(そぞろ)に覚ゆ、迷途(煩悩)遠きを
龕燈照客心 龕燈、客心を照らす 現在境内に赤田臥牛の書を刻した石碑が建つ。
中山七里
在飛騨益田郡、従下呂至下原、渓路七里、名曰中山七里。多楓樹。
飛騨益田郡(ましたぐん)に在り。下呂従り下原に至る、渓路七里、名けて中山七里と曰ふ。楓樹多し。
楓林霜後競鮮明 楓林、霜後、鮮明を競ひ
曝錦中山七里程 錦を曝す、中山七里の程
誰道天機無織具 誰か道(い)ふ、天の機(意こころと機織りと掛ける)に織具なしと
長渓処々桟編筬 長渓処々、桟、筬(おさ)を編めり
渓路険絶処、用藤蔓編斲木作桟道、土人謂之筬橋。 渓路険絶の処、藤蔓を用ゐて斲木(たくぼく:削り出した木)を編みて桟道を作る、土人之を筬橋と謂ふ。
千貫桟 在高原山中。 高原山中に在り。
雲桟一棚懸絶岑 雲桟一棚、絶岑に懸る
垂堂有誡重千金 垂堂に誡め有り、重きこと千金 (君子危うきに近寄らず)
薄氷如紙尚能履 薄氷、紙の如くして、尚ほ能く履むも
万仞深淵不可臨 万仞の深淵は臨む(のぞく)べからず
籠渡
断岸途窮危巧成 断岸、途(みち)窮して危巧(籠渡のこと)成る
小籠瞑坐駕空行 小籠、瞑坐、空に駕して行く
死生只托一条索 死生、只だ托す、一条の索
可歎征夫性命軽 歎ずべし、征夫(旅人)の性命の軽きを
細江 飛騨国司姉小路中納言基綱郷故墟。 飛騨の国司、姉小路中納言基綱の郷の故墟なり。
離々禾黍満秋畦 離々たる禾黍(麦秋黍離をふまへる。)、秋畦に満ち
旧館迹荒路欲迷 旧館、迹(あと)荒れて路、迷はんと欲す
認得細江如帯水 認め得たり、細江、帯の如き水
一声時有菅禽啼 一声、時に菅禽(すがどり)の啼く有り
菅鳥見于万葉集細江歌、基綱詠細江亦取用之。土人云即野鳧別名。 菅鳥、万葉集の細江歌に見ゆ、基綱、細江を詠みて亦た之を取り用ゆ。土人云ふ即ち野鳧の別名なり。
桜洞
三木左京大夫自綱之故墟也。自綱祝髪号休庵。四世之祖則綱居竹原、至父直頼移于此城。休庵頼父祖之業、跋扈跳梁靡服一州、自冒姓姉小路、遂襲国司之任。
新築于松倉山移而居焉。松倉地寒、因再修此城為避寒之所、号曰冬城。後誘殺鍋山城主顕綱父子及広瀬宗城等、残虐無道、国民大怨。
天正中金森長近率衆入而攻之城尽陥焉。休庵僅以身免、狼狽無依、至京師而病死。
三木左京大夫自綱の故墟なり。自綱、祝髪(剃髪)して休庵と号す。
四世の祖、則綱は竹原に居し、父直頼に至りて此城に移る。休庵、父祖の業を頼み、跋扈跳梁、一州を靡服(帰順)させ、自ら姉小路を冒姓し、遂に国司の任を襲ふ。
松倉山に新築して移りて居す。松倉の地は寒なれば、因りて再び此の城を修して避寒の所と為し、号するに冬城と曰ふ。
後に鍋山城主顕綱父子、及び広瀬宗城等を誘殺す。残虐無道にして国民、大いに怨む。
天正中、金森長近、衆を率ゐて入りて之を攻め、城尽く陥つ。休庵、僅に身を以て免れ、狼狽依るなく、京師に至りて病死す。
禦冬城就倚層巒 冬を禦ぐ城就(な)りて、層巒に倚る
千歳長期磐石安 千歳の長(とこし)へに期す、磐石安からんことを
雖然桜洞身誇暖 然りといへども桜洞、身は暖きを誇るも
竟奈松倉盟已寒 竟に松倉の盟、已に寒きを奈(いか)んせん
高山竹枝
妝成晩出八家坊 妝ひ成りて晩に出づ、八家坊(八軒町)
初八良宵初月光 初八の良宵、初月光(かが)やく (陰暦八月初めの三日月)
鍛冶橋辺伴郎去 鍛冶橋辺、郎を伴ひて去り
国分寺裏賽医王 国分寺の裏、医王に賽す。 飛騨国分寺の山号は医王山
牙梳月様製来新 牙梳(象牙の櫛)月様、製来新たに
雲鬢当中出半輪 雲鬢の当中(まんなか)、半輪出づ
清光剛道東山好 清光、剛道(石畳)、(飛騨)東山好し
何似月梳巧照人 何ぞ似ん、月梳(三日月)の巧みに人を照すに
第二集(天保三年1831刊)より
高山郡齋独夜口号 高山郡齋(高山官舎)、独夜口号(くちずさむ)
板屋連邨舎 板屋(板壁の家)、邨舎に連り
粉牆接野畦 粉牆(白壁の垣)、野畦に接す
蕭条山県裡 蕭条たり、山県の裡(うち)
独坐感羇棲 独坐、羇棲(旅住まひ)を感ず
寒影秋燈澹 寒影、秋燈、澹(淡)く
長哦夜韻凄 長哦、夜韻、凄(さび)し
誰知此時意 誰か知らん、此の時の意(こころ)
喞々早蛩啼 喞々として早蛩(こおろぎ)啼けり
新秋暁意
枕簟新涼暁更清 枕簟(むしろの枕)の新涼、暁、更に清く
寺楼鐘動自秋声 寺楼、鐘動きて、自ら秋声
客心不待梧桐墜 客心は待たず、梧桐の墜つるを
早已西風吹夢驚 早や已に西風(秋風)、夢を吹き驚かす
秋晴示同僚 秋晴、同僚に示す
沽酒休愁費俸銭 酒を沽(買)はん、愁ふるを休めよ、俸銭を費すと
村歌巷唱楽豊年 村歌、巷に唱ひ、豊年を楽めり
稲花満県無風雨 稲花、県に満ちて風雨なく
過了二百十日天 (無事に)過了す、二百十日の天
栗菌 又名舞蕈 またマイタケと名づく
瓦銚磚罏木葉焚 瓦銚、磚罏(かまど)、木葉焚く
戛羹盈室有奇芬 羹を戛(たた)きて盈室(部屋中)、奇芬有り ※意味不詳
仙家恐可無斯法 仙家も、恐らくは斯の法なかるべし
帯雨朝烹一朶雲 雨を帯びて朝烹る、一朶の雲
秋晴即目
雨後秋林霽色開 雨後の秋林、霽色開き
邨煙処々見焼灰 邨煙、処々、灰を焼くを見る
旻天伝令催播麦 旻天(秋空)、伝令して、麦を播くを催(うなが)す
故使紅衣使者来 故(ことさら)に紅衣の使者を来らしむ
赤蜻蜓又名紅衣使者、農家以其出為下麦候。 赤蜻蜓、又「紅衣の使者」と名づく、農家、其の出づるを以て下麦の候と為す。
臥牛山人田中璣堂見過、時霖雨新晴東山吐月、分韻得山字
臥牛山人(赤田臥牛)、田中璣堂(田中大秀)過ぎらる、
時に霖雨、新たに晴れ東山月を吐く、分韻して山字を得たり。
佳賓乗晩霽 佳賓、晩霽に乗じ
杖策叩柴関 策(つえ)を杖ひいて柴関を叩けり
風伯来何好 風伯(風の擬人化)、来って、何ぞ好く
雨師去不頑 雨師(雨の擬人化)、去って、頑なならず
雲低渓口樹 雲は低(垂)る、渓口の樹
月出縣前山 月は出で、前山に懸る
晴景難多遇 晴景、多くは遇ひ難し
吟遊莫等閑 吟遊、等閑にすること莫れ
検田
黄葉林辺宿雨収 黄葉林辺、宿雨(長雨)収まる
農夫趨走向西疇 農夫趨走して西疇に向ふ
歩弓斗格検田吏 歩弓(測量具)、斗格(升を均す棒)、検田の吏
俗殺山邨[禾罷][禾亞]秋 俗殺す(俗っぽくされた)、山邨の[はあ:稲の雅称]の秋
冬日即事
西邨欲赴探梅約 西邨、探梅の約に赴かんと欲するも
逢着清晨入県僧 逢着す、清晨、県に入るの僧
報道覆盆渓口路 報道す、覆盆(の雪)、渓口の路
夜来新雪没行縢 夜来の新雪、行縢(むかばき・腰蓑)を没すと
久昌寺夜集得江字 久昌寺の夜集、江字を得たり
東山相逢処 東山、相ひ逢ふ処
古寺倚崆[山兇] 古寺、[こうごう:山の険しきさま]に倚る
雪屋高低映 雪屋、高低に映じ
寒鐘断続撞 寒鐘、断続して撞く
茶宜烹北苑 茶は北苑(銘柄か?)を烹るに宜しく
酒許吸西江 酒は西江(銘柄か?)を吸ふを許す 臥牛山人携家醸 臥牛山人、家醸を携ふ
将謂玄之黒 将に謂はんとす、玄は之れ黒 ※玄は空の謂か? 玄酒ならば水のことであるが意味不詳。
月光白満窓 月光は白く、窓に満つると
医士野口士錫宅咏盆梅 医士野口士錫の宅、盆梅を咏ず
探徧山間与水浜 探りて徧(あまね)し、山間と水浜と
残寒未見一枝新 残寒、未だ見ず、一枝の新きを
怪底東風入盆早 怪底す(不思議に思ふ)、東風、盆に入ること早きを
主人肘下有回春 主人の肘下に、春の回(めぐ)る有り
出門
忙中了事便無事 忙中、事を了すれば便ち事無く
塵裏偸閑即有閑 塵裏、閑を偸めば即ち閑有り
塵事閑忙何用説 塵事の閑忙、何ぞ説くを用ゐん
出門一笑対春山 出門して一笑、春山に対す
蠶婦詞
桑婦十分占歳功 桑婦十分、歳功を占ふ
熟蚕登簇玉玲瓏 熟蚕、簇(まぶし:蚕が繭を作るための枠)に登る、玉、玲瓏たり(熟蚕:終令幼虫の色)
今春幸甚好天気 今春、幸ひに甚だ天気好く
一箇更無嬾老翁 一箇の更に嬾老翁なし
嬾老翁病蚕不作繭者、即赤蛹也。見務本新書。 「嬾老翁」は病蚕、繭を作らざる者、即ち赤蛹なり。務本新書に見ゆ。
首夏作
薫風吹暖脱寒衣 薫風、暖を吹いて、寒衣を脱せしめ
躑躅花開蝶始飛 躑躅、花開いて、蝶始めて飛ぶ
正是山中好時侯 正に是れ山中の好時侯
遊人処々採薇帰 遊人処々、薇(ぜんまい)を採りて帰る
山行遇雨戯作長句 山行、雨に遇ひ戯れに長句を作す
十日陰霖愁懜々 十日、陰霖、愁ひ懜々(ぼうぼう:昏迷)
今朝喜見霽霞紅 今朝、喜び見る、霽霞の紅たるを
躍然忽発遊山興 躍然、忽ち発(おこ)す、遊山の興
呼僕一双弁謝公 僕を呼び、一双、謝公※を弁ぜしむ ※謝公の木履、すなはち登山靴
僕云梅天晴難信 僕の云ふ、梅天、晴は信じ難しと
況乃雨侯卜朝虹 況や乃ち雨侯、朝虹(雨の前兆)は卜せりと
主人掉頭不肯聴 主人、頭を掉(振)りて肯へて聴かず
晴好雨奇将無同 晴好雨奇、将に同じ無からんやと
遂齎麻蓑与蒻笠 遂に麻蓑と蒻笠(がまで編んだ笠)を齎(もたら)しめ
十里吟行小巒東 十里の吟行、小巒の東
仰望前嶺似招我 前嶺を仰ぎ望めば我を招くに似たらん
雨余層翠鬱巃[従] 雨余の層翠、鬱として巃[山従](ろうしょう:けわしい)
傍澗穿林尋樵径 澗に傍(沿)ひ、林を穿ちて樵径を尋ね
躡険陟危気倍雄 険を躡(踏)み、危を陟(登)り、気、倍(ますま)す雄なり
乍見山頭膚寸雲 乍ち見る、山頭、膚寸(膚寸而合:次第に集まるさま)の雲
須曳万嶺渾冥濛 須曳にして万嶺、渾て冥濛たり
面前咫尺路難弁 面前、咫尺も路、弁じ難く
但聞渓水鳴渢々 但だ聞く、渓水の鳴りて渢々(ふうふう:水勢)たるを
忽疑龍戦又虎嘯 忽ち疑ふ、龍戦ひ、また虎嘯くかと
林木震動雨従風 林木震動し、雨、風に従ふ
主人沉吟僕吐舌 主人は沈吟(もごもごと詩を吟じ)、僕、舌を吐く(「ざまァ見なせえ。」)
笠漏蓑透一瀧凍 笠漏れ、蓑透(とほ)りて、一に瀧凍(ろうとう:びっしょり)たり
凍身淋漓無乾処 凍身、淋漓として乾ける処なし
帰来更衣偃齋中 帰り来って衣を更へて齋中に偃(ふ:偃臥)す
作詩自戯又自戒 詩を作りて自ら戯し、また自戒す
専行己意聰非聰 専(ほしいまま)に己が意を行ふは、聰にして聰に非ず
善弁五音比師曠 善く五音(音色)を弁ずる[者こそ]師曠(天才楽師)に比す[、そんな下僕の]
直言不容何異聾 直言を容れざるは何ぞに聾に異らん
不従僕言我悔矣 僕の言に従はざる、我れ悔ゐたり
慎勿拒逆耳之忠 慎みて「逆耳の忠」(忠臣の諫言)を拒むことなかれ
大隆寺避暑得台字 大隆寺避暑、台字を得たり
人間苦炎熱 人間(じんかん)、炎熱に苦しみ
此地逐幽来 此の地、幽を逐ひて来たる
最勝臨池閣 最勝の臨池閣
最勝閣在山池中、安置弁財天女像。 「最勝閣」山池の中に在り、弁財天女像を安置す。
※篇額は柳湾の筆。
妙高絶頂台 妙高の絶頂台
寺別号妙高山般若台。 寺の別号は「妙高山般若台」。
林標時見雨 林標(梢こずえ)、時に雨を見
山外遠聞雷 山外、遠く雷を聞く
坐覚清涼発 坐(そぞ)ろに覚ゆ、清涼発して
法門甘露開 法門、甘露(のやうな教え、また雨滴)の開けるを
老松篇、寿臥牛山人六十 老松篇、臥牛山人(赤田臥牛)の六十を寿ぐ
君不見臥牛山頭千丈松 君見ずや、臥牛山頭、千丈の松
偃蓋如雲翠重々 偃蓋(葉の様子)、雲の如く、翠重々たり
蟠根聳幹懿而奇 蟠根、聳幹(根元枝ぶり)、懿(うるは)しく而して奇なり
鱗甲[石累]砢如老竜 鱗甲(木肌)、[石累]砢(らいら)として、老竜の如し
又不見静修館中老祭酒 また見ずや、「静修館」中の老祭酒
郡府命山人教誘子弟、其講習所曰静修館。 郡府、命じて山人に子弟を教誘せしめ、其の講習所を静修館と曰ふ。
森々同気為之友 森々として同じい気、之を友と為し
山下読書幾十年 山下、読書すること幾十年
腹中既蔵大小酉 腹中、既に蔵す、大小の酉(ゆう:蔵書の謂)
悠然不知老将至 悠然として、老の将に至らんとするを知らず
猶攬簡編不釈手 猶ほ簡編(書冊)を攬(と)りて手を釈(お)かず
清時自有賢明宰 清時(太平の世)、自ら賢明の宰(わが上司郡代)有りて
不許韜光臥林藪 許さず、光を韜(つつ)みて林藪に臥すことを
開館繙経授子弟 開館、経を繙いて子弟に授け
談説循々懇導誘 談説、循々として懇ろに導誘せしむ
子弟嚮風日駸々 子弟、風に嚮(向)ひて日に駸々(しんしん:速いさま)
能化軽薄為敦厚 能く軽薄を化して敦厚と為す
父老始知聞道晩 (この地区の)父老も始めて知る、道を聞くこと晩(おそ)きことを
一州仰之如山斗 (飛騨)一州、之を仰ぐこと、山斗(泰山北斗)の如し
今春正値杖郷年 今春、正に値ふ、杖郷の年(60歳)
山前張宴酒盈缶 (臥牛)山前、宴を張りて酒、缶(かめ)に盈つ
嘉賓満席歌鹿鳴 嘉賓満席、鹿鳴(もてなしの歌)歌ひ
中有夭矯蒼髯叟 中に夭矯(ようきょう:伸展屈曲して気勢あり)たる、蒼髯の叟(老松の精)あり
蹲々酔舞作龍吟 蹲々(そんそん:舞ふさま)として酔舞、龍吟を作す
舞罷称觴跪献寿 舞ひ罷めて、觴(さかづき)を称(あ)げ、跪いて寿を献ず
先生之徳与我茂 先生の徳、我とともに茂くあれ
先生之寿与我久 先生の寿、我とともに久しかれと
雨夜宿小阪駅 雨夜、小阪駅(飛騨小坂)に宿す
衝雨過山橋 雨を衝いて山橋を過ぎり
投宿小阪口 投宿す、小阪の口
蕭々駅舎中 蕭々たり、駅舎の中
愁坐与誰偶 愁ひ坐す、誰か与に偶(ぐう:相手)せん
寒燈抱孤影 寒燈、孤影を抱き
呻吟夜已久 呻吟、夜、已に久し
明朝渚邨渡
明朝、渚邨の渡し
舟楫得済否 舟楫、済(わた)り得るや否や
帰心耿不寐 帰心、耿(こう:あきらか)として寐ねず
渓声漲如吼 渓声、漲りて吼ゆるが如し
偶題
郷情日切宦情疎 郷情、日に切に、宦情、疎(うとま)し
野性難忘是故吾 野性、忘れ難し、是れ故(もと)の吾たるを
廿年抛却桑麻業 廿年、抛却す、桑麻(養蚕機織)の業
仍把蚕経課女雛 仍(な)ほ蚕経(養蚕指導書)を把りて、女雛(女の子)に課す 「桑麻の交(田園の気楽な交際)といったものではないよ。」の謂。
秋邨
[禾罷][禾亞]十分秋色添 [はあ:稲]十分に秋色添ふ
暮霞又是得晴占 暮霞また是れ、晴占を得たり
明日西疇将有事 明日西疇、将に事有らん
山頭新月也磨鎌 山頭の新月、また鎌を磨げり
憶錦山松蕈寄高山諸友 錦山の松蕈を憶ひて高山諸友に寄す
飛騨之州万山囲 飛騨の州、万山囲み
良材美産他所稀 良材、美産、他所に稀なり
最説錦山土赤埴 最も説(よろこ)ぶは錦山、土の赤埴なること
松蕈生赤土者香烈味美。 松蕈は赤土に生ずる者、香烈しく味美し。
茂松被巓鬱巍々 松、茂り巓を被ふ、鬱として巍々たり
霊秀気蒸秋生蕈 霊、秀いで気は蒸して、秋、蕈を生ず
正逢時雨降[氵妥][ 氵微] 正に逢ふ、時雨、[すいび:小雨]の降るに
雨余累々穿蘚出 雨余、累々として蘚(こけ)を穿ちて出で
大者如璧小如璣 大なる者は璧の如く、小なるは璣(たま)の如く
腰繋荊籃采且掇 腰、荊籃を繋いで、采り且つ掇(ひろ)ふ
濃香撲鼻更[香非]々 濃香、鼻を撲(う)ちて更に[ひひ:香るさま]たり
作羹未熟口流涎 羹に作れば未だ熟さざるに口、涎流れ
食罷自覚痩骨肥 食、罷めば自ら覚ゆ、痩骨の肥ゆるを
頑哉高山旧郡丞 頑なる哉、高山の旧郡丞
斯境別去計何非 斯の境、別れ去る、計、何ぞ非なる
憶着山中秋味好 憶着(おうちゃく:連綿)す、山中の秋味、好きを
臨風千里悔東帰 風に臨みて千里、東帰を悔ゆ
夢到高山郡齋作絶句覚而記末句乃足前三句寄臥牛山人
夢に高山郡齋に到り絶句を作る。覚めて末句を記し、乃ち前三句を足して臥牛山人に寄す
五年官迹隔天涯 五年の官迹、天涯を隔て
還夢高山県裏家 還りて夢む、高山県裏の家
吟賞不忘親自植 吟賞、忘れず、親しく自ら植えし
窓前一樹紫荊花 窓前の一樹、紫荊の花
臥牛山人書堂十月望日落成、因名夢鶴堂。書来覓詩。漫作一律寄之
臥牛山人の書堂、十月望日に落成す、因りて夢鶴堂と名く。書来りて詩を覓(もと)む。漫り一律を作して之に寄す
聞君新構読書堂 聞く君、新たに読書堂を構へると
堂就恰逢十月望 堂、就(な)って恰かも逢ふ、十月の望(もちづき)
応有渓鱗賀賓贈 応に渓鱗(川魚)、賀賓の贈、有るべくんば
好求家醸細君蔵 好し、家醸を求めば、細君蔵せん ※赤田臥牛の実家は酒造家。また「好逑」とも掛けてゐる
江山有友長盟会 江山、友有り、長(とこし)へなる盟会
風月之遊誰主張 風月の遊、誰か主張せん
個裏楽耶音欲問 個の裏に楽みや、音(たより)問はんと欲す
不知何日揖吟床 知らず、何れの日か吟床に揖(ゆう:挨拶)せん
『林園月令』
(りんえん げつれい)
館柳灣著『林園月令』 柳田國男
「良書供養」の催しの御蔭で、良書といふものを考へて見る機会を与へられた。供養といふからには活きて働いて居る本でなくともよいのであらう。 実際又近頃出たものの中から一つや二つの良書を名ざすことは容易なわざではない。 私が最初に供養したいと思ふのは、林園月令二編十六冊である。出版は天保辛卯(二年)、ちやうど私の父の生れた前の年に出たもので、それを又私の生れた前の年に、 但馬で亡くなつた組父の許から、遺品として私の家に届けられたといふ、珍らしく歴史のよく列つて居る本である。
東京へ出て来てからも始終覚えて居たが、二三度しか古本屋では目に触れたことが無い。さまで発行部数の少なかつたものとも思はれぬが、 初めから売りさうもない人ばかりの手に頒たれ、しかも本の形が愛玩に適して居た為に、中味を利用せぬ者までが手放す気にならず、迫々に旧家と共に消耗しつつあるのであらう。 斯ういふ本こそは供養しなければならぬと思ふ。
私の家でも父の存生の問は、此本の置き処は大よそきまつて居た。それからの四十年はずつと土蔵の中に在つた。今度この供養をするについて、田舎から取寄せて撫でつ摩りつして見ると、 久しい昔の記憶しか浮んで来ない。昔私たちが本と謂つて授けられたのは、どれも是も大きなぼてぼてとした、少しは黴びた表紙の陰鬱な色をしたもののみであつた。 さういふ中に在つてたつた一つ、林園月令だけは寸法が今いふ四六列の半分までも無い。それも字引や和漢名数などの小本とはちがつで、きちんと十六冊、茶がかつた白の木綿更紗の帙に入つて、 是だけは祖父の特別の好みらしく、帙の内側に一篇の詩を題してあり、又角製の長い「こはぜ」を以て留めてある。たまに手を掛けようとするときつと叱られた。 読めるやうになつたら見せてやる。早く大きくなつて読めるやうになれと、母までが傍から言ふのだから、よほど良いことが書いてあるのだらう、 と思はずには居られなかつたが実際は悪戯ばかりして居て、あまり私の手が汚れて居たからかも知れぬ。
とにかくに書物をなつかしむといふ習性は、林園月令によつて養はれたと言つてもよい。今でも綺麗な本を見ると、読まぬ前から先づ心服しようとする。 それを警戒する為に、美装の書を怖れるやうにさへなつた。それ程にも私は此書の外形に心酔したのである。近年思ひがけず、少年の日の文稿を態見して、退屈まぎれに読んで見ると、 さてもさてもかぶれて居る。ちやうど許されて此本をぼつぼつと見た頃と、漢文の稽古を始めたのが同時だつたのである。私の生れた家などは庭が僅か五六十坪で、 梅とか白桃とかゞ七八本も栽ゑてあつただけなのに、私の文章には四季の風物を詠嘆したやうな文句ばかりむやみに多く、それが夢梁録とか荊楚歳時記とかいふ類の記述と似て居るのは、 全くこの本を通しての模倣であつた。えらい大きな印象を与へられたものだと思ふ。
今から考へて見ると、林園月令は少しも子供などには用の無い、寧ろ現在の自分等の境涯に似つかはしい本であつた。祖父も晩年になつて、生野銀山の川のほとりに閑居し、 それから此本を愛玩して居たのであつた。それを記念であり手澤の痕が鮮かな為に、父が珍重して塵をもすゑまいとして居たのを、私が誤解をして盗むやうにして読み耽つたのであつた。 しかしその結果は今となつては不幸ではない。私が貧家の末成りに生れつゝも、一生余閑を求めて花の色烏の歌を愛し、四時の移り変りに敏感で有り得たのも、 言はゞ見ぬ世のおぢいさんのおかたみであつた。此頃郊外に少しの草原を囲つて、筴篷(がまつみ)や落霜紅(うめもどき)、もち、なんてん、むらさきしきぶ、かまづかなどの、 小さな実のなる小木を多く栽ゑ、幸ひ禁猟地になつてやや集まつて来る小鳥を滞在させ、早暁に窓を開いて其聲を聴いて居たりするやうになつたのも、源を問へばこの帙入の小本が、 分外に大きな感化を幼い頭に押付けて居たからとも考へられる。やつぱり子供には物めでの心、人が美しいといふものに感動する癖を、つけて置くのは悪く無いと思ふ。昨年の秋の或日、 孫の一人が庭へ附いて出て走りまはる。おいおいさうどこでも飛んであるかれては困るよ。この苔の上には夕日が当たつて美しいやうに、おぢいさんが丹精して居るのだからねといふと、 女の児なものだからすぐにそこへしやがんで、小さな手を伸ばしてその苔筵を撫でまはした。さうすれば此児も今に植物を愛するやうになるだらうと、私はふと昔の林園月令を想ひ起したことであつた。
一向に自分の事ばかりを述べて本の解題を怠つて居たが、是は越後新潟の学者舘柳灣の著作で、自家の園圃の月々の行事予定を漢文で書き、 その前後に支那人の文と詩との、是から聯想せられるものを数多く排列したものである。新潟とはあるが此人は江戸に出て、たしか目白の高台のあたりに住んで居た。 所謂月令は江戸西郊の風土に準拠したのであらうが、範を外国に採つて、しかも地味気候の異同を攷へようとしなかつたのは、やはりあの時代の書巻裡の文雅を脱して居ない。 その文献にも新渡の唐本をひけらかした嫌ひが少しはあるが、第二編に引用した顧鐵卿の清嘉録に至つて、その載する所の風俗、多く我邦と相似たるに心付いたと謂つて居る。 もしも此方法が今少しく推し進められたならば、今日の所謂比較民俗学も、存外に早く東洋に夜明けたかも知れぬのだが、編者が老を養ふ風流の文人であり、 文が漢語であり時代が又此の如く変化した為に、遺韻は遠く傳ふることを得なかつたのである。
此書の文字は至つて見ごとな細楷であつて、曾て森鴎外氏が傳を書いた伊澤蘭軒の参校となつて居るが、版下は或は御自身の筆であらう。一紙面七行十五字、字の大さは三号活字ほど、 是に丁寧な訓鮎が施してある。こんなにも気の利いた上品な書物を、以前も作り出すことが出来たのかといふことを感ずる為にも、一度は見て置いてよい本である。 それから進んでは斯ういふ書物を出してもよい時代が、つい一世紀前まではあつたといふこと、是が此頃ではもう発見にならうとしてゐる。
(1940.4『形成』5号、原題“良書供養”)