(2000.10.12 up / 2014.01.14update / 2016.11.17画像追加)

新刊『森の詩人』 野澤一のこと

 昨夏、拙サイトを機縁に知遇を辱くした坂脇秀治様から、詩人野澤一(のざわはじめ:1904-1945)の作品を紹介・解説した御編著『森の詩人』新刊の御寄贈に与りました。 出版をお慶びするとともに、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 戦後日本の自由を味はふことなく、41歳で結核に斃れた山梨県出身の自然詩人。自然のなかで自然を歌ったといふ意味だけでなく、大学を中退して六年間を地元「四尾連(しびれ)湖」畔の掘建て小屋に籠もり、村人・友人から命名されるまま「木葉童子(こっぱどうじ)」と自らも称した彼自身が、私淑したH.D.ソローに倣って酔狂な自炊生活に勤しんだ自然児詩人でありました。その作品はもちろんのことですが、むしろさうした天衣無縫のひととなりが面白く、このたびの新刊巻末40ページにわたる坂脇様による解説、そして詩友だった故・一瀬稔翁が前の再刊本で披露された回想に、語られるべき風貌や逸話は詳しいので、ぜひ読んで頂きたいのですが、昭和初期の口語自由詩が花開いた時期、実践生活からもぎとった自分の言葉で、すでに時代を突き抜けた詩を書いてゐた彼は、その脱俗の様が徹底してゐる点で特筆に値する詩人でした。恒産を案ずることなく政治体制からも超絶してゐたといふ点では、四季派同様、お坊ちゃんの現実逃避・体制承認との批判も耳をかすめさうですが、私はさうは考へません。戦争詩の類ひにも一切手は染めてゐないやうです。

 もとより物欲なく、肉食を嫌ひ、詩人は一日2升の水(!)を飲み、蟻やねづみやこほろぎの子供を炉辺の友として、散歩と詩作(思索)にあけくれることを日課としたといひます。歌や祈りが朗々たる声で庵前の湖に捧げられ、感極まれば地に額づいて土壌や灰を食らったりするといふ、かなり奇特な変人の趣きです。「その姿は求道者のようにも、野生児のようにも、仙人のようにも、あるいは世捨て人のようにも映る」と坂脇様が記してをられますが、作られる詩も作文も「なつかしい」といふ言葉の用法のほか、稚気を含んだ助詞の使ひ方など、舌足らずな独特の言ひ回しが清貧を貫いた詩人的人格と相俟り、なんとも不思議な雰囲気を醸し出してゐます。

森の詩人

 灰

灰を食べましたるかな
灰よ
食べてもお腹をこはしはしないかな
粉の如きものなれども
心に泌みてなつかしいものなれば
われ 灰を食べましたるかな

しびれのいほりにありて
ウパニイの火をたく時
この世の切なる思ひに
灰を舌に乗せ
やがて 寒々と呑み下しますのなり
このいのちの淋しさをまぎらはすこの灰は
よくあたたかきわが胃の中を
下り行くなり

しづかに古(いにしへ)の休息(いこひ)を求め
山椒の木を薪となして
炉辺に坐れば
われに糧のありやなしや
なつかし この世の限り
この灰は
よくあたたかきわが胃をめぐり めぐりて
くだりゆくなり

 ちっぽけな自分を「壷中の天地」ならぬ「湖中の天地」に放下して、得られた感興を赴くままに、詩といはず散文といはず、生命讃歌に昇華させるべく腐心した様子の彼ですが、しかし同時に野狐禅を嘯く自身の姿については客観視もできてをり、だからこそ風変りな謫居生活も、村人から安心を以て迎へられ、否、親しみさへ込めて遇せられたのでありませう。やがて彼は正直にも「嫁さんが欲しくなったから」と庵をたたんで山を下りるのですが、妻帯して子供も儲け、東京で父の家業を手伝ひ、何不自由のない市民生活者として上辺を振舞ひながら、その実、森のなかで過ごした青春の六年間を懐古し、鬱々と思慕する日々を送るやうになるのです。けだし彼の命を縮める遠因ともなったやうな気がします。

 前掲の「灰」ほか、彼の理想化された湖畔の独居生活の様子は、山から下りてから刊行した詩集『木葉童子詩経』(昭和8年自家版2段組242p)に明らかに、 惜しみなく公開されてゐます(このたびの新刊ではうち32編を抄出)。たしかに電気もガスも無ければ、御馳走も食卓を飾ることがなかった耐乏生活には違ひないですが、 森に囲まれた周囲1キロの湖と四方の山々を、借景として独り占めできた生活といふのは、ある意味こんなに贅沢な生活はないかもしれない。彼は詩集を献じた有名詩人たちのなかで、 唯このひとと見定めた高村光太郎に対し、詩的独白を書き連ねた長文の手紙をほとんど毎日、250通近くも送り続けるといふ、まことに意表をつく挙に出るのですが、 子供が三人もある社会人となっても、都会暮らしに馴染めず、ロマン派詩人たる多血質の性分を病根のごとく抱へて生きざるを得なかった人だったやうです。 といって光太郎の弟子になりたいとかいふのではなく、敢へてそのやうな仕儀を断つため手紙では「先生」ではなく「さん」付で呼びかけて、高名な詩人を自分の唯一の同志・知己と勝手に恃んだ上で、詩的な心情を吐露し続け、手紙として送りつけ続けた。そんなところに彼なりの矜恃と甘えとの独擅場が窺はれるのではないでせうか。残念なことに、殆ど一方的だったといふそれら往信の束と、光太郎からの貴重な来信は、ともに戦災により焼失し、今日控へ書きによってその一端が窺ひ知られるに過ぎません。ですが、詩人の本領を遺憾なく伝へる内容は圧倒的な迫力に満ち、詩集以後、同人誌に発表された詩篇・散文とともに全容が紹介されることが今後の課題であります。

 「自由」や「地球」や「人民」や、所謂コスモポリタリズム思想のもとで詩語を操った人道主義や民衆詩派に与することを潔しとせず、敢へて身の丈に合った小環境に閉ぢ籠り、自然との直接交感を、身近な命たちを拝むことによって只管に希った詩人、野澤一。この世に生きて資本主義物質文明から逃げ果せることができないことは重々承知しつつ、なほ寒寺の寺男となって老僧との対話を夢想し、彼なりに宗教的命題に対して自問自答を構へるなど、晩年の思索には西洋のソローよりも、良寛さらに宮澤賢治といった仏教的、禅的な境地に心惹かれてゆくやうになるのですが、抹香臭いところは微塵もなく、坂脇様が指摘するやうに、生涯を通じて野生の林檎の如き野趣を本懐とする、 やはり規格外の爽快さを愛すべき自然詩人であったやうに思はれてなりません。

 野澤一については、かつてサイト内で拙い紹介を草してをり、それを御覧になった坂脇様、そして坂脇様を通じて詩人の御子息である俊之様との知遇を賜ることになったのでした。 読み返せば顔あからむばかりの文章ですが、現代の飽食社会・電力浪費社会に一石を投ずるやうな此度の新刊が、忘れられんとする詩人の供養となりますことを切に願ひ、恥の上塗りを承知でふたたび詩人の紹介を書き連ねます。

手紙の下書き

 山の晩餐

きうりとこうこうの晩餐のすみたれば
わたくしは
いざ こよひもゆうべの如く
壁を這ふこほろぎの子供と遊ばんとする

こほろぎよ
よく飽きずこの壁を好みて来りつる
秋の夜長なり
我は童子 いま
腹くちくなりて書を採るももの憂し

こほろぎの子供よ
汝(なれ)もうりの余りを食ひたりな
嬉しいぞや
さらば目を見合せ
ことばもなうこころからなる遊びをせん

しびれの山に湖(うみ)は静まり
草中(くさなか)に虫の音もしげし
大いなる影はわたくし
小さなる影は汝
共に心やはらかく落ち流れたり

さらば世を忘れ
しばし窓を開きて
こほろぎの子供よ
へだてなく
恙なき身をいたはりて
共にしばしの時を遊ばん


(2000.10.12 up)

『木葉童子詩経』のこと

 甲州の一瀬稔翁より、「木葉童子詩経」(野沢一著、文治堂書店昭和51年刊)をお贈り頂いた。御礼の言葉が思ふ様にみつからない。 手紙に書き添へた探書への執心を思ひ返し恥ずかしさが込み上げて来たが、それよりも「あの本」を熟読できる悦びに、嬉しくて仕方がないのだからもうどうにもならぬ。 翁は御子息の所蔵本を譲って下さったのである。
詩人一瀬稔については、ここでこれをお読み下さってゐるひとには改めて申すまでもないことながら、サイトに初めて書いたエッセイ「四季派の外縁を散歩する」を御覧頂きたい。翁とは山梨県立文学館に て催された田中冬二展のパンフレットを機縁に、私からお手紙を差し上げ、 半ばは押しかけるやうにして謦咳に接する機会にも恵まれることともなったのだが、最初の訪問時に頂いたエッセイ集『忘れ得ぬ人びと』のなかで、 所縁の有名作家を差し置いて愛惜哀切の筆致で触れられてゐたのが、終戦間際に四十一歳で病没した野澤一といふ無名の少壮詩人に割かれた冒頭の数章であった。 そんな名前は聞いたこともなかったが、一文が伝へる、紛れもなく詩人としか云ひやうのない、異様に純粋無垢な詩人の印象は深く私のうちに刻まれて、 気がつけば「童子」と自称するこの野澤一と呼ぶ風変りな詩人のことが気になって仕方がなくなってゐた。名古屋における井口蕉花や九州における矢山哲治など、どこの地域の文学圏にも、その土地を動かぬまま強烈な個性をマグネシウムの如く発火させ、後進の網膜に消しがたい傷痕を遺して夢の如く去ってしまふ、 さういふ語り継がれるべくして存在する前史を彩る不遇な一種の伝説的な詩人といふものがあるやうにも思ふのだけれど、さしずめ山梨で語り継がれてゐるのはこのひとのことなのだらうな、といふ確信を翁の文章から感じ取った。
 昭和九年に自家版として彼の詩集は出されてゐるらしい。同名の『木葉童子詩経』(四六版上製242p)の名で、一瀬翁が昭和五十一年に編輯されたこの再刊本には、 詩集抄録のほか高村光太郎宛書簡の写しの一部が採録され、翁の解説とともに伝説の詩人の面目を初見の読者に印象付ける決定版の作品集となってゐる。ここにかいつまんで概要をお伝へする。

木葉童子詩経

野澤一 詩集

昭和51年 文治堂書店発行

上製函入 19.5cm×14cm 本文266ページ 定価3000円  刊行数不明

木葉童子詩経

書影   奥付

 版元の文治堂書店は、高村光太郎研究家である北川太一氏が『高村光太郎資料』を刊行されたところで、この出版に関しても北川氏と版元店主の熱意が働いてゐたことを翁はあとがきでも記してをられる。 詩人が光太郎へ毎日のやうに書き送った200通余の書簡のうち、本人が写しをとって置いたものの一部が遺族の許に残り、それが熱烈な光太郎研究家の目にとまり、 かねて遺稿集を企画してをられた翁の思惑と一致し、幸運が重なり合ってこの一書は日の目を見ることとなった。装丁もまた、函型、クロスの手触り、厚みや価格まで一瀬翁の「故園小景詩鈔」とお揃ひの趣きで好もしい。


(後日談)

 この春に詩集の御礼かたがた甲府市内の詩人宅へ御挨拶に赴いた折、翁は一冊の雑誌をおもむろに開いて見せて下さった。アウトドア雑誌のその名も「OutDoor」。 その中に「日本のH.D.ソロー」として野沢一が見開きで紹介されてゐるではないか。さらに文中に紹介されてゐる四尾連湖畔の水明荘といふのは、詩人を偲ぶためその日の宿として予約をとっておいた宿であった。紹介記事には水明荘主人所有の『木葉童子詩経』初版原本が写真で紹介されてをり、 その日は早くに投宿して山中の詩碑を詣で、御主人の望月さんからは快く貴重なその初版本を見せて頂くことができた。野沢一を偲びに泊まりに来る客など珍しかったのに違ひない。 聞くところではその日の昼にも偶然、当時のことに詳しい今津満さんといふ、これも雑誌に紹介のあった生き証人が何年振りかで訪ねてこられたとのことである。 詩人の霊が呼び寄せたのだらうか。不思議な機縁を感じながら、初版詩集に収められた再刊本の未収録詩篇を夜半過ぎまでノートパソコンに打ち込んでゐたが、 全文の書き写しは無理であり、翌朝そのことを告げると御主人は奇特な宿泊者にまるごとのコピーを許して下さった。片道30分の山道を麓の市川大門町のコンビニまで蜻蛉返りで引き返して来た、 その成果は製本に出して大切に愛蔵してゐる。四尾連湖の美しい自然のスナップと共に御紹介致します。

 美しい四尾連湖の湖畔。

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『木葉童子詩経』 初版本(昭和9年 四六版上製 自費出版 242p 奥付)と色刷挿画

製本 「まことにきれいに製本できましたのなり。」

一部本文紹介(再刊本未収録部分)

 詩集中、特筆すべきは、当時の木葉童子が親友と恃んでゐたもう一人の夭折詩人、高田日出男(号:子風)との魂の交信記録が収められてゐることであらう。 詩人の妹と結ばれ義弟となった彼は、詩人のことを「木の葉童子:このはどうじ」と最初に命名したひとである。集中には詩人の作品と共に彼が呼応して書いた詩篇が収められてゐる。 すこしく読んだだけで二者の風格を感じて頂けるのではないかと思ひ、幸ひにも水明荘宿泊当夜、必死に打ち込んでゐたテキストがあるので(笑)公開することとした。 さしもの高村光太郎もたじろいだ天然の詩才、両者相譲らぬさまを見てほしい。


 子風に 野澤一 作

私の友の一人が
あかつきの川の音のする
古寺の本堂の裏に住んでゐた
木造が並んでゐる
わたくしがそのいつも友達の
坐る机と食卓の前に
腰を下ろすと
その友人は
思はず木造の首をひつこぬいて
何とも云へぬうれしそうの顔付をして
わたくしを見ながら笑つてゐる
「いい話をしよう」とて
すすけたやうの小さい紙片をめくつて
その第一枚を話し出した
「ここにとても安心した老女ありき
安心した、安心した!」と
くりかへしてゐる
それからは、いくらめくつても
駄目であつたが
とうとうその最後の紙片は
どうとも云へぬ美しい緑の二本の枝となつて
木の葉もたわわにゆれてゐた
友達は
その緑の枝葉を手にもつて
一年生の讀本のやうによみ上げた
けれどもそれは漢語なので
わたくしにはよくわからなかつた
そこで友達は
その意味はこうだと
川と山の音に耳をすまして私に云つた
「後ろに岩がないと水は流れない」
そこで私はこの言葉をかきとめて
目をさました
二十八才の九月十六日の朝である


 領主に贈る春の歌(ソナタ) 高田子風 作

  序曲

ゆくりなくも春を思へば──あの草に寢ころぶ春をおもへば──水も風もうつくしくたまらなく心をたづねて來ます。
蠅は羽をさすり蝶は草の葉で靜かにおとづれを待って居ます
川は野草にかくれ 山際もかすんでしまへば 白雲は遠い古から浮かび 日がくれてはやがて消えて行きます 晝は働きませう 夜はねむりませう。
 あかつきには東から小鳥が今日の歌を唱って來ます。春はかけめぐるおもひをつつんで いつもかうして微笑んでゐます


 第一章 白い空の歌 高田子風 作

澤水の石かたぶけば
泉ほとばしりぬ
石かたぶけば
雪も流れぬ
ひと いつしかに春とぞなりにける


  戀のあそび 高田子風作

見候へ
うぐひすもあかるく
障子には日ざし滿ち滿ちて候を

うすきみどりの光こそ
み手にはふさはしふ候へ
われのみに
膝よせて
聲うつくしふ
いざ語り候へ

語らへば言葉も知らに
木の葉の笑まひ
いつかはなれ難く候を
語らへば
永き日も果敢なう
草の芽もかげりて
夜はみじかう候ものを
やわ肌ふかぶかと
ぬば玉の黒髮を敷きて
果しらぬ國の末まで
いのち分ち難う
一つになりて
露の如くに
まろび落ちて候ひぬ

見候へ
うぐひすもあかるく
障子には日ざし滿ち滿ち候を


 好日 高田子風作

男ある日
菜の花を手に持ちて
都に出ましたよ
男なんにも持つものなく
あるはただ菜の花ばかり
ちまたの人袖ひき合ふて
あれは何人なるやといへば
誰もかも知らずと言ふ
霞たなびく夕暮まで
男ふらりふらりとまかりありきぬ
さればとて をかしきものをと
人たまたまにたづぬれば
男 名にも答へで菜の花を一つ拔きて與へ
さつさと行き過ぎましたよ
人 問へば菜の花をやり
人 問へば菜の花をやり
老も若きも皆菜の花を手に持ちて
男のうしろにまかりありきぬ
さる程に 春も晩く
菜の花も うすうなる頃は
さしもの都大路
百萬のともがらは
皆手に一本の菜の花をもちて
役所にかよひ 工場にかよひ 會社に通ひぬ
男 かくして五十年の年月
なんにも持たず菜の花をさげて
春となればふらりふらりと
都大路をまかりありきて
問ふ人に皆菜の花を與へましたよ
されば いづかたも
菜の花を知らぬものなく
男の姿 忘れ難くぞなりにける

されど男或日
海に入りてとほくとほく沈みしまま
つひに歸らずなりにけり
のこせし文をひらけば
ただ菜の花一本はらとこぼれましたよ
かの男 うせにしのちは春となれども
都大路に菜の花を持つこと
たへて見えなくなりました


 子風より領主への手紙  僅かに一通を採る 高田子風 作

春となれば心動く
雨にも
戸にも、ゆるやかなるひびきあり。
壁を這ふ煙草のけむりに、曉の音をききて
耳傾けたるかな。
風生 昨夜酒を飮み、八時にねて、三時に起きた
夜中 風呂に這入って水を三杯のむだ。
山茶花と、なまづの賛をよむ。
山湖のにほひ、ひたすらに迫る。
電車通らざる小径をなつかしむ。

さて街に足を止まらしむるは人の心なり。
人、憂に滿てり、
白粉をぬりて、眼 憂に滿てり。
不變を求め得ざるもの
電車に乘らざるを得ぬもの、
ものを探らざるを得ぬもの、
蛙啼く春なれども
女を抱きて、
女は抱かれて、共に憂にみてり。
蛙啼く春なれども。
人 憂を求む──一つの掟なるべし。
憂は口べにをもて彩りたれば、かくて子々孫々に家と憂を殘す、
煙草のけむりに如かず、良寛和尚の涙よく不變と流行とを知れり。
風生の涙、未だ彼の大和尚の笑ひより冷たし、
道は遙なり。不變を求む。
不變に徹せざるもの、流行の憂を共に悲しむを得ず。
道を敷き、灯をともし、樹を植ゑ、世を擧げて貧しからざる時も不變を知らざれば、口べには憂の色あり。
空を飛び、火星に至るとも、いつか異なる事なし、
詩に憂鬱を語る。
晝に光を畫く。
像に力を彫る。
この悲しみと喜びは、幼兒の笑ひと、むづがりよりもいと力なきかな。
幼兒は不變と流行を知らず、まことに滿ちたり。
流行の甘き腕と、死の苦しみに深くして、蛙の聲いよいよのどかなるべく、
月のおもて圓かに、極まれば、人の憂、いよいよしげし。
渦中の清流、木の葉はよくこの間の消息を知れり。
をさなごの笑ひと、なきつらより生じて、をさなごの笑ひとなきつらに歸る。豪宕たるべし。
文辭多くして、風生の涙、大和尚の笑ひよりも冷たし、道は嚴なり、一語を解せざるもの、よく大千を得たるもの、此の二つ、ただ風生を導く。

世に文章の親方ありて、すぐれたる物事を畫く。
是を讀むで得をした事なし、只心騷ぐばかり、不變は座下にあるのみなり。
風生 交響樂よりも民謠を愛す。
流行の根底この中にありと言はん。
「第九シンホニー」と言ふ、濁れり。
風生近來スコットランドの民謠、オールラングザイン(螢の光)と、カミングスルーザライを愛唱中なり。
流行の憂と喜び、稍幼兒に近し。
之はながく人と共にある歌なり。
人にたづねて之を好むと云ふものは、一方に於けるわが友なり。
領主、湖のものとなり、不變に徹せよ。
よきものを生まうなどとは愚かなり。ほとばしる泉あれば、人皆之に口つけるべし。
深く世の憂と共にあれ。
文明をいとふは愚なり、文明は憤より發す、人の悲しききづなり、それ自身苦しみに外ならず。
風生も人に引かれ、きづなの憂を共にすと雖も常に不變を修めて、幼兒の涙と笑ひの強さに至らんとす。
山中に入るを止めらるる多くの人の心なり。
領主の心に待たるるも、流行のきづなとなる。風生しばらく不變を共にして街巷にあるべし。
不變、山水を須ひず。
亦、山水を須ふ、時にあるべし。
さるにても、早春、野と水の誕生に幼兒と手をつないで、小さな草芽を撫で度くはある。

領主へ

三月七日             子風


 領主より子風への手紙  同じく僅かに一通を採る 野澤一 作

夕ぐれたり
湖もなぎたり
裏山で切った松の青葉を燃す
爐邊にあり
春もなほ爐邊にあり
今日は春山にありて木を切りましたり
ほほじろをもききたり
松を切り小楢の枝を切りたり
午後のすすむにつれて
蛾眉山かすみて見ゆ
風生よ、湖の水もよくすくはる
我れ春山に笑ひ、風の湖に生ずるを
ながめて
山に住み
春山にあるのみなり
わらびの葉、春に出で
杉 春空に立つ
そはよろしき姿にして
これをみて
わが心の
細く足りあふるるなり
藁を食って事かかず
出づれば山菊の芽
わらびの数
この二つ
春を受けて今しびれに目覺む
春宵、爐に
あぐらして火をながめ火を食す
その思ひあたたかにして
盡きるなき春は
冬に湧き出で
せんかんとしてめぐる
いささかの事に
心よろこぶ春なれども
岩をうごかして
なほうれしきは
寒山湖心
冬にある春にして
冬夜の壁にかくれてたのし
ゆきつもる夜 戸はひそかにゆる
火の燃えて
その障子はふん雪の
さらさらと心に至るなり
いま春なるも
窓に、火に
ほかげにうごくかげありて
いとしづかにも過ぎし
冬を思ふかな

さて 風生よ
人の世の事は六かし
童子なにもわからず
高く行く雲をみる
美しきは雲なり
限りないものは象の目なり
犬、雪、されど
女と云へるもの
學問と云へるもの
歌心と云へるもの
むじなの巣にしかず
母に産まれるをさなごと云へるもの
とほき心と云へるもの
夕ぐれにしかざるなり
心とはまどひなるかな
風生の童子に
不變を求むと云へども
なほ小なり
わが心は終始まどひにすぎず
をさなごと云ひ
大千と云ふもしかり
このまどひとこしへに
やむことなし
いと小さやかなるものの中にも
大變を感じて我が心の
常に小なるかな
いとまづしき事にあひても
心いよいよ淺くして
うすき事春のこほりのごとく
わが心の常にさびしきなり
さりながらわづかにも
春湖は冬よりきたれば
心をも知らず
世をも知らず
をんなをも知らず
ひなまつりの歌をこそ
そよと知りて
ひそかにも よく
僧獨のいほに口づさむ
行くかな、行くかな
風生よ
不變より大なるものあり
火に近づきてよ
童子の心頭に去來する
おんみの歌は求むるところ
實に大にして あに
ただに大千に波しく一語をかいせざる
こころの英傑にすぎざらんや
我のおんみに牽かるる
巨大と微塵に至るまでしかり
なにものも童子の前に
おんみをさえぎるものなし
わがよろこびは
風生にあり
おんみ高かければ我いよいよ
ひくくして、いよいよよろこび
おんみ人とならば
もくねんと泣く
我か 我か なみだなし
我か 我か 我は
風生なり
かふるべからず
なみだありぬ

石をかぞへ得ば
おんみにおくらん
風あり 竹あり
今の如く爐邊にあぐらして
おんみによすれば
眞大の灰の中に
あたたかく
なつかしき
火の燃ゆるなり

さて思ひめぐらせば
世は花のごとくありと云へども
花にはあらず
なまづのひげ
月かたむくをみて笑ふは
おもしろきかな
光みつと云ふと云へども
なまづの腹には
ただ水あるのみ
世は男と女なり
文明にはあらず
山の間にはあらず
人間のただ春山に
春風を觸破し
唇上草触のところより
とほき時
ちまたには男多く
女多く
芸術と音樂ととのふるなり
草のごとくあれよ
自然とは男なり女なり
世は憂しと云ふ
まことに朝露のごとし
なつかしい言(ことば)なり
朝あり、夕べあり
風のごとく童子
湖にありて風となり
風を生み得ずとするも
大風のごとく
大變と不變の向ふで
ささやかに目をふせて
ひだまりのしびれの日にあるべし
かくあるべし
かくあるのみ
酒を飮み
酒をすてて
水をのみ
おんみの我が小屋を
おとなふ日を待ちて
青き竹にて
つくりしふいき竹にて
火をふくなり
心よりこのめるこの灰を
舌上にざらつかせるなり

ここにまことに
この燃ゆる火は
古より歩み來れるものにして
領主はよくこの山湖の榾の火を愛す
とうとうとして世は動くに
火の燃ゆる音の
おだやかにありて
山間にわびづまゐして草屋に風を待つ──
いまさて街巷と山水と同じきものと視るは
人間の大いなり
さりながら山はかくの如く
川はやっぱし自動車とは異なるなり
文明を嫌むにもあらず
流るるが如き人の中に
人なきを淋しむのみ
文明とか町とかは
嫌む程のものにもあらず
夕陽に昇りて
それを眺むれば
その文明と町のほこりの
わが心にじんじんねんねんとして
いかになつかしいかな

風生は坊主となりたくはなきや
坊主とならずとも
山水を須ひずとも
街巷なほ不變を修めて無に至り
秋を月に聽くを得ば可なりと云ふは
言葉のみ
人は一度のものなれば出來得る限りは
重んじたきものなり
まして童子の風生に待つが如きは
限りを知らざる石の重さなり
さらば風生時あらば脱ぐべし
恐らく蟻とても
春には巣より出づるものなれば
熊とても、その春のきざしに
ふきの芽、うどの芽を噛むものなれば
日陰にありて母熊の姿に徹し
日向にありて蟻を見つつ
時あらば
古き雲の下なる山に
永劫を學びほほけよとすすむる

領主は無腰に水刀あるにすぎず
風生は大いなり
その「春の歌」──
「菜の花の章」に到っては
古今の山茶花の葉っぱなり
いかに我が心にしみ渡るかな
おんみこそはわが饒舌とは異なるなり
いでや風生 いつかは大熊に風をあて
過ぎ行く日のかの二名(ふたな)の風とならんことを望む
望みと云ふその望みとは
即ちただこの文章
わがみぞ落ちの當りを涙の喜びもて
あふれたたく文章を一つ作りくれよ
領主かく風生に云ひ得る程の
ものにはあらざるも
こん夜はいろいろと云ってしまったなり
童子の草にまじりて
いま爐邊の火のかたはらに
心のじつにしづまるかな
慕ふなり
ここに大千よ
あらゆるがらくたのふたをすてて
われには
おんみ一人でたくさんなり
嬉しいのなり
笑ひたくなりたり
これだけ書いたら爐の火が消えはてたり
ひざ小僧つめたし
えんぴつを持つ指もいたし
立ち上がって
裏戸から小便をしたり
北斗のメラク エリオス
梢の葉越に見ゆ
この間の風生の手紙、よくおちついてゐたり
幼兒のくだりよろしくして
よきものをうまふなぞとは愚かなり
との言、とうとうとしてただ大きく
いかばかりうれしく頂戴したるかな
風とあれ、夕陽の強さとあれ
その時こそ、永劫も、水も、春も
幼兒もなし
  ──
いまゆくりなく
風生に抱かるるをんなを感ず
善い哉
領主の目の幼兒の如くよろこびに輝くなり
われ二十八
風生あって自然ありぬ
いつまでもたっしゃでゐて
この山の太郎を
可愛がってくれよ
いつまでもおんみのあのなつかしい目の
われを導け
いつか新宿の驛まで送ってきてくれた事あり
あの時の目 忘れず
うれしい哉
あの親(しん)たるや
ああ善眼、領主のにごれると異なりて
いましびれの小屋の
棚の上にすすけおはします
木食上人のおん目によう似たるかな
風生に父母なし
實に快なる哉
目あり、ただおんみの目あり
よきひとみ、よくかの木食上人を悦ばし給ふ
ああ、風生をわれ好むなり

情あり、三月十九日夜
この情にあびてかくは多く語るも
なほ意行かず、大いなるものあらば
大いなるものあらばとのみ
風生に惚れ慕ふ
ごうごうとして流れおち
やがて細り行く童子の
いかに持てるものを持てる風生に牽かるるかな
言語(ことば)に傳へ得ざる夏の空
秋のきいちごの實多くして
榾の火は寒く
かくてこの春の夜にひとり
風生への山椒の書面を一氣にしたためうれしむ

いましばらく筆を投じて
風生わが前にあるかと思ひおるかな
山中の夜、小屋も冷えて
火もほとほとと
そのおとなかにおんみのゐるかな
永劫にわれなし
この夜我れ無く、風無く
風生の豪宕としてわが心を撫づるあり
童子 火とありて水を呑む
きはまりなく、きはまるところをしらず
ただこむる心のままにこの風生への
領主をおくる
からだをだいじにしてくれ
これからめしなり、はらがへったり
こうこうを食ふなり
         爐邊に腰を下して
                領主
  三月十九日夜

子風へ


 野澤一 作

 子風を憶ふ

            領主・野澤一

 彼は書道の先生から子風と云ふ號を貰ってゐた。そして私への手紙には殆どこの號を用ひた。私がその昔、甲斐の國しびれの山にこもってしびれの湖と一緒に暮らしてゐたとき、 或る夏、偶然彼は杉浦義勝氏、林みきさんなどと一緒に山にやって來た。初めの日は事なしに暮れた。天幕を張って彼等はその周囲に集まって火をたいた。私も庵から出掛けて、 その話に加はった。彼はだまってゐたのでゐるかゐないか分からなかった。二日三日と経っても彼はづんぐりのやうな頭や顔をしてにこっとしてゐるばかりで、 ゐるかゐないかよく分からなかった。而し或る午後彼等と一緒に村へだか峠へだかの方へ行く時、子風はあみあげの靴に裸足をつっこんでゐた。私はこれを見て風にかまはぬ男だ、と、 思った。それは山の草の中を歩くには良い恰好だった。何事も氣取らぬところが良く見えた。又或る朝、私が湖の北側に立ってゐる小屋から天幕のある場所に出掛けて行くと、 彼は小さい土掘りのやうなものを持って、夏草と夏花が入り亂れて咲いてゐる草むらに立ってまごまごしてゐる。ゆっくり歩いてのんびりと空氣を吸って、土掘りを持ってのそっとしてゐる。

「何をしてゐる」と私が聞くと、「ううん──うんこをひる場所を掘らうと思って」と云った。

 私はその時分、しびれ湖の領主であったから、山に野に糞をひって暮らしてゐた。彼も野糞はいいと云った。 而し都から來たのでうんこをひる場所を掘ってしびれの山と湖に敬意を表しようと思ったのかもしれない。野の排泄と云へば、その十日間のしびれ湖滞在中、 子風さんは或る夕しびれの峠の西の松林で野糞をひってゐた。そしてわたしはその野糞をしてゐる子風と話した憶えがある。彼はしゃがんでゐた。 草の露は尻に觸り萩の花は彼の股をなぜてゐた。 そして夕空は高く大きくしびれの湖にのしかかり、夏の花は彼の身体を抱いた。

 峠から見下ろすとしびれの湖はじっとしてゐた。力のあるものは靜かださうだ。この湖も又靜かの中に靜かに匂をはいて力なぞと云ふものさへ越えてゐるところで靜まりかへってゐた。 子風の性質も靜かであった。彼はその頃一高を出て、大學の一年らしかった。何をしてゐるかと云ったら、農藝化學をやってゐると云ったのでいささか驚いた。ぼけの花のやうな彼が、 かりにも化學と名のつくものをやってゐるとは浮世である。何かの間違ひではないかと思った。後年彼は私の妹である彼の妻に文科をやればよかったと云ったさうだ。

 さてこの夏のしびれ湖のキャンプ生活は彼の生涯の中でも、或は大なる靜かな歡喜ではなかったかと思ってゐる。後年に於ける彼との文通はさておいて、 彼はこの小さな湖から清らかな暖いものを、もの靜かなふっくらとした、にこっとした、やや幽然とした性格の上に大きく流し込んだやうに見えた。そして後になって私が、 彼がしびれ湖へやって來ることを懇願するやうに云ってやった時、やっとおみこしを上げてやって來た日、それは丁度私の小屋が燒け失せた昭和五年一月一日の星の夜であった。 山には雪が散ってゐた森の夜であった。それで彼はしびれの山の麓の市川大門町と云ふ町まで來ながらやって來なかった。それ故、彼はこのしびれ湖には生涯に一度來たきりであった。

 ああ、あの時分、私は如何に子風を慕ひ又彼の味を噛みしめてしみじみと大雪靜夜、しびれ湖の草庵に彼の心の中のあのなつかしいものに手を触らしたか、 薪火を燃しつける古い火吹竹はもう駄目だ、と獨り言を云って、私はわざわざ彼が來たとき吹かせてやらうとして青い大きい竹で新しい火吹竹を作って、 彼にそれで靜夜冬寂のしびれ湖の火の音をきかせたく思った。彼と二人してこの幾里幾町にも人の子ひとりゐないしびれ湖の小屋で寢たく思った。 そして、その時分私は冬の午後をこめて、 落葉ばかりの山を駈けまはり、榾木を引きづって來て湖畔に積み上げ、彼が來たらそれを燃して話したく思った。私は今慨然として十年昔のあの冬日寒湖の自分の心を想ひ、 今は浮世にゐない彼を考へて、浮世に生きる歩みの遅々として進まないのを感ずる。

 彼は一度のしびれ湖行によって、「今はしびれの総てがなつかしく心の底を占めて了った」と書いてよこした。或る夕方、私達は萩の咲いてゐる峠道に立って梨を食べた。 それは水のしたたる旨い梨であった。みきちゃん、みきちゃんと云って、その時ただ一人の女人であった林みきさんも、後年この夕方の梨の旨さを草庵に知らせてきて、 「あんなうまい梨の味は今までも亦これからも味はふことは出來ないでせう」と云って來た。あの梨を子風も食った。風に乘って秋の中に實ったあの梨を彼も食った。 そしてそうっと云ふやうな音をさして風の中でしゃきりと噛んだ。うまい梨の味をかうしてしびれの湖は靜かに彼に與へた。 そしてしびれ湖はそのまま又だまって夕空の下で星の出てくるのをいつもの時刻を待って又別に驚きも靜けさの中に入っていった。

 あの夏に皆んなで或る午後村の農家の馬を借りて、それに乘って夏草の野や峠や山路を歩いたことがある。馬に初めて乘った私はあぶなっかしい恰好であった。 物理學者の杉浦さんの腰つきも大したものではなかった。何でもこの大學者さんは馬の尻の方からづるりと落ちたやうに想った。そして一同は大聲を上げて松の山を震はせた。 ところがそのとたん良い気持で笑った私が今度は前にのめって、馬の首の方から山腹に落ちて轉げた。これには私もくらっとして目がまはる様な氣がしてふた轉びばかり轉げた。 私は眞面目に困ってゐたが、周囲の彼等は快く笑ったらしい。學者の杉浦さんも、こんにゃくの様に馬の尻から落ちたことなんぞはとんと忘れてさめざめと暢々と顔の皺を伸ばして笑った。 (彼の顔は一寸龍に似てゐた。)ところがその歸りに今度は天幕生活ただ一人の女人であるみきちゃんが、村の田圃の草の中へいとも優美に投げだされたので、 これで笑った人も皆んな仲よし、笑はれてしびれ湖の大きな緋鯉も妙相の目を細めたわけとなったのである。ところがここに一人子風先生は泰然としてどっかと馬にまたがり村の野を歩くにも、 山路の松かさに觸っても、峠の美しい萩の花を踏んでも落ちなかった。どうも不思議だ、不思議だと云ふので後年の所謂高田日出男先生にその一大事因縁を事細かに聴取してみると、 彼は黙々とだまったやうな顔をして、いつものやうに、にこっとして、「何あに、僕は少し學校で馬を習ったので」と云った。これでさしものしびれの天地を震はした落馬の件、 子風さんのみ悠々として馬の背に春の如く乘って夏の松の山路を歩いても落ちなかった理由が分って、一同ほっとため息をついて安堵して感心したのであった。

 ああ、あの馬から落ちない子風は、遂に後年、○年○月○日午前十一時五十分○○から○○へ行く途中自動車と云ふ文明の機械から落とされて○十○年を以って生縁此處に盡き大命還了を告げ、 諸行無常、遂に寂滅爲樂の一大事を了してしまった。

 彼は私への手紙に云った。「風生は東洋の梨を愛す。月明秋高く風路に托してここに梨一個それ領主に贈るぞ」と書いた。梨とは東洋の「無し」を指してゐた。 彼はあくまでも東洋であった。そして暖くして暖く求むるところがなかった。手紙を書いても文章を書いても殘さうなぞとは夢さら思ってはゐなかった。 ただ風のやうなものを私のもとに書いては來たが、その風も人に知られず吹き過ぎることを望んでゐた。
「時を刻んで秒に至り、秒を重ねて劫に至るも時は安らかにただ逝くことをせん。木の葉を浮かべて水に印して物と呼ぶも水は流れて流れは遂に知らるることなし」とも書いた。 「牽くもののない世の中、夜店をしまったあとのやうに淋しい。ただ葦のやうに寒々と山を泳ぎたい」と書いた。私が山にゐて彼に「いざとなれば水を呑む」と書いてやったら、 「いいぞ領主、いざとなれば水を呑む。風生ぞっとしたぞ」と書いて送って來た。山の晩ごはんのことを書いて送ったら「晩餐!山の晩餐、この山の晩餐はいいなぁ」と記した。

 ああ、これらの手紙は皆んなあの火事で燒いてしまった。一通も殘ってゐない。杉浦氏、みきさんなぞの良い山のやうな、いい水のやうな、 私のしびれ湖への手紙も皆な一緒に燒けてしまった。私はあの火事の元旦の日、村の親友武平老の高砂やいを聽いてゐた。そして夜一時頃、星の中を歸って來たのだった。 森に入ると燈が見える。不思議の事があるものだ。出掛ける時には燈をつけてこなかったのにおかしいことがあるものだ。子風が來ると云ってゐたから燈を付けて本でも讀んでゐるのかな、 と思って近づいて行くと、それは小屋全部が見る影もなく焼け落ちて、その餘燼の火であった。そしてその時分彼は汽車に乘ってしびれ湖行を志ざしてゐたのだ。

 総ては夢。夢幻と消え去った。後年縁あって私の妹は彼に嫁ぎ、二人の子を生した。「二人の子をなして、淋しきかな家といふもの、美しきかな家といふもの、 つくばねの野に住居して山行く雲を眺むれども、淋しきかな妻子と云へるもの、美しきかなこの家といふもの」

 彼は常に眞面目であった。彼はいつも鬱然としてゐて、にこついてゐた。彼は柔らかく優しいものを好んだ。そして彼は實に微妙であった。 あのづんぐりのやうな頭と顔の内部には暖く靜にあきらめて大きく浮世を觀る心があった。「浮世を乘せん悠然たる大地」と書いてきた彼は、常に悠々と雲無心に岫を出るを愛した。 彼は良く愛慕とは何物であるかと云ふ恐ろしく深いその源泉を極めてゐた。彼の目は澄んで山の小径を歩くにふさはしく、渚に消ゆる雪をなつかしがり、 還り去る日の安穩にまでとどいてゐた。そして誇りと云ふものの尊さと誇りと云ふものがどんなにつまらないものであるかを身を以って識ってゐた。彼はいつか私に云った。 「結局子の世の中で一番心牽くものは、これは變だな、と云ふものだ──。」「障子を明ける喜を知る人はいい」とも云った。人間に一番近いものは皮膚だとも言った。 今考へて見ればこの言葉は絶大の意味があるらしい。釈迦。良寛。絶大也、安穩也と書いた。

 「春となれば心動く雨にも戸にも、ゆるやかなる響きあり」彼の心は雨にも戸にもなつかしく手と心とを觸らせながら、誰も恐らく彼がいかに深く、又いかに美しく微妙に、 その雨の粒の中の春の中へ下っていったか知らないであらう。
 そして又あの「ことっ」と搖れる春の戸の音を彼が如何に安らかな靜かな思で抱きしめたか、彼をおいて他に誰も知らないであらう。彼は子供のねだりの偉大を知ってゐた。 そしてそれをこの世の最上のものとした。そして本を書き、文を作り、繪を賣り、ものを彫むことの、はかなさを知ってゐた。豪然ただ春の日向ぼくりの縁がはに杉の匂ひをなぜた。 ああ御馬鹿、良寛と習字して書くところに彼の道があった。

 人は彼を見て、にじむものを感ずるはずである。彼は無理をしない人であった。そしてよく流れてゐるばかりであった。しびれ湖時代はいざしらず、 私達二人も人の父となり、兄弟となりながら、何やかと生活の忙しさにとりまぎれて話をすることも少なく、手紙のやりとりも殆どなかった。昔は私は一月に四十通位手紙を山から彼の住んでゐる武蔵國荏原中延の一一四一へ送ったものだ。彼の名は毎日書かれた。そしてそのつまらぬ私の手紙は毎日しびれ湖のふちを私のふところに入れられて村に下った。 つまらない手紙ではあったが秋になればしびれの秋風を封筒に入れた。冬になれば山鳥の足音と雪夜氷音の寒湖と榾火を送った。春にはわらび、わさびを送った。湖の水音をも送った。 杉の梢を行く春雲の幾屑も送ることができた。黒つぐみ、さわ鳴く五月の夕暮には山高み、藁火をたいて、あの自然の限りのない響きを紙に托して子風さんに送らうとした。 夏はひぐらし、かなかなとなく滿山の木の枝々を搖すって一匹の生きたひぐらしを彼のもとに送らうとした。

 私には一つも送れなかった。而し彼は一と月に四十通も來る手紙の中にたどたどしい木の葉の童子の假文字を見た。(木の葉の童子と云ふのは彼が私にくれた名であった。) そしてその四十通か六十通に初めて一通位書く彼の手紙に、彼の全部の心を託して私を喜ばしてくれた。「良き眠りは心を喜ばせ、良き信は骨をうるほす。」と云ふけれども、 私は村に下って農家の爐火の傍で彼の手紙を受取りおし戴いて、ふところに入れ夜の一時か二時頃、風や雪をついて庵にかへり、その手紙をどんなに嬉しく骨をうるほはされてしみじみと讀んだことか。 いつか山から下って甲府驛で郵便車を見たとき、私は胸がどきんとして故しれず頭を下げて「ああ、湖の汽車が子風のあのいい手紙をしびれの山に運んでくれるのか」と思ったことがある。

 彼の手紙は全部良かった。彼の生涯も又悲しみと苦しみといたましさの中に全部よかった。彼はもう今頃は泰然として古い火をたきながら、新しい水を呑んで、 「ああ浮世にある間もさう思ったが、ここでは又一しほ水は母の様に疑はない。」と云ってゐるであらう。彼は何時もの癖の目をややふせて、口びろを少しほころばして、にこっとして、 殘された最愛の妻子たちに靜かにすこやかに生きよ、と話しかけてゐるであらう。

 彼のことを書けば切りがない。思出も盡きない。なつかしさもつきない。涙もつきない。喜もつきない。彼は底なしの樽の様にいくらでも水を入れてしまふ。 だがもうこれ位にして後にしよう。だが惜しみてもあまりあるのは彼はまだとうてい彼にならなかったことである。子風は生きてゐたらだまってゐながら、 もっとづっと極めもつかない子風になって行ったであらうと云ふのである。それを思ふと、私の胸はいたむ。そのいたみは後年いつかは彼と話をしてみたいと思ふ私の望みを絶ってしまった。 彼は大きくなれたであらう。彼は美しくなれたであらう。彼は深い泉に暖かい石を磧けたであらう。彼は石を拾ふことをしない。彼は石を磧けることをする。彼は空しいものを求めない。 そしてすなほな、なつかしさを以って深く生きることを望み、仰々しいことを好まぬのである。

 さりながらもう彼は去った。深さも大きさも美しさも及ばない世界に暢々と杉の實を齧りながら、水のやうなもの、 火のやうなもの、 風のやうなものを食ってゐるであらう。その彼は浮世の私達の最大の想像をも越えてもっと長く、もっと親しくなつかしさの中にゐて、あのいつもするにこっとする目をして、 生きる人々の淋しさを慰めの心をもって抱きつつんでくれるのであらう。ああ子風、お前はもう死んで了った。以上。

                        領主
  子風へ       
         故高田日出男先生追悼録 『牽牛花』より 56P〜66P(けだし昭和十年台後半の文章か)


(2000.10.12 update 未完 補筆予定)


【参考文献】
「中部文学」総目次 「資料と研究」第十二輯 2007.3山梨県立文学館 140-156p より

「中部文学」 編集、発行所:中部文学社 山梨県市川大門町山内一史方
             編集委員:寺田重雄、石原文雄、山内一史

昭和15年4月 創刊号一瀬稔随 筆展墓64-66
昭和15年4月 創刊号一瀬稔 詩吊星・時計蟲75-77
昭和15年8月 第2輯一瀬稔 詩菜園の頌52-57
昭和15年11月第3輯一瀬 稔小品風鈴買 ひ90-93
昭和16年2月 第4輯杉原邦太郎 詩木々の梢に72-75
昭和16年2月 第4輯一瀬稔 詩寒晴・冬山・庭78-81
昭和16年5月 第5輯杉原邦太郎散 文山と文学55-57
昭和16年5月 第5輯一瀬稔 詩水車小屋・春の晩58
昭和16年5月 第6輯野澤一散 文寒寺の和尚(第2回)24-34
昭和16年10月第7輯堀内幸 枝詩蕎麦の花・真夏の原つ ぱ16-18
昭和16年10月第7輯船越 章短歌日常 記35
昭和16年10月第7輯杉原邦太 郎詩山の詩三 つ70-71
昭和16年10月第7輯曽根崎保太 郎詩村のアルヴァ ム72-73
昭和16年10月第7輯一瀬 稔詩霜 夜81
昭和16年10月第7輯一瀬 稔散文第一回中部文学賞発表 賞を受け て14
昭和17年3月 第8輯曽根崎保太郎 詩待機8-9
昭和17年3月 第8輯堀内幸枝 詩真昼の意思14-15
昭和17年3月 第8輯野澤一散 文寒寺の和尚24-34
昭和17年6月 第9輯野澤一散 文寒寺の和尚(続)60-68
昭和17年6月 第9輯一瀬稔 詩父ぶり56-57
昭和17年6月 第9輯堀内幸枝長 詩冬の物語り82-113
昭和17年10月第10輯曽根崎保太 郎詩無言の 蔓36-37
昭和17年10月第10輯一瀬 稔詩 昼64-65
昭和17年10月第10輯一瀬 稔散文私の文学館 いのちあるも の54
昭和17年10月第10輯野澤 一散文僧雲寺湖日 録66-71
昭和18年1月 第11輯野澤一散 文僧雲寺湖日録(下)84-91
昭和18年1月 第11輯一瀬稔 詩火買ふ44-45
昭和18年1月 第11輯一瀬稔随 筆交遊記64-67
昭和18年4月 第12輯一瀬稔六号 記厳寒に励む職場50-54
昭和18年4月 第12輯野澤一散 文僧湖日歴76-87
昭和18年8月 第13輯杉原邦太郎 詩北門の悲歌(山崎大佐追 悼)16-17
昭和18年8月 第13輯一瀬稔 詩皐月・円居26-29
昭和19年1月第14・15輯野澤 一散文夢行人事僧山日 歴32-41
昭和19年1月第14・15輯一瀬 稔随筆湖あかりの 町14-17
昭和19年6月第16輯野澤 一散文僧山日 歴22-27
昭和19年6月第16輯一瀬 稔詩明日の 糧10-11
昭和19年10月第17・18輯杉原邦 太郎詩甲斐山川 抄14-15
昭和21年6月第22輯山内一史・野澤一追悼 号一瀬稔 詩湖底の霊魚9-15
昭和21年6月第22輯山内一史・野澤一追悼 号一瀬稔 詩悼詩2編 柿熟るる夜・あああの時のやう に32-33
昭和21年6月第22輯山内一史・野澤一追悼 号野澤一散 文遺作 短文録72-79


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