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日夏耿之介の世界

『日夏耿之介の世界』

2015.02.22 国書刊行会 井村君江著

本文334p 22cm上製カバー 5800円(税別) ISBN:978-4336058799


  一般には近寄りがたい狷介孤高の学匠詩人として有名な日夏耿之介(1890-1971)。その最後の弟子であったといふ著者は、本書を終へるにあたって、 詩人を囲む親睦会「黄眠会」の先輩たちは、博学を誇る先師を尊敬する余り正面きって分析するのを恐れ、誰もまとまった日夏論や日夏研究を書かうとはしなかった(305p)と、 生き残った最年少の特権を以て指摘してをられます。紅一点の研究者となったことで晩年の詩人から特段の嬖愛を賜ったこと。その分先輩からは嫉妬半分、 三文安く見られてゐた嫌ひもある永年の溜飲を、今ここに至ってやうやく下げられた、といふ感じです。

 といふのも、これまで詩人に関する極め付きの副読書だった1972年刊行の単行本『詩人日夏耿之介』(黄眠会編 新樹社)において、 当の黄眠会からは唯一大上段に構へた論文「象徴詩発展史における日夏耿之介の位置」を巻頭に掲げた“受業”関川左木夫氏から、若き日の著者が「君は客観的なものを纏めるんだね。論文は早いよ、先生ぐらいに知識がないと先生は扱えないよ」と釘を刺されトラウマを抱へるに及んだ一件が打ち明けられてゐたからです。そんなことはない、 処女詩集『転身の頌』における「黄金のエロス」時代の重要性をすでに関川氏より早く発表し指摘してをられるぢゃないかと、 初出一覧を眺めながら親子ほども年の離れた弟子同士の複雑な関係を思ったことでした。

転身の頌

 関川氏は当の論文中でも、象徴詩人たる要件のひとつとして“官能上の手段が必要”と特筆しておきながら、それが詩人の青年期のタブーに直結する具体的内容については、 未亡人に対する気遣ひからか露はにはし得なかった。けだし井村先生に対しても牽制したのでありませう。 しかしそんな消息を書き得る立場こそが女弟子であった著者の強みであったに違ひありません。よってこのたびの新刊には、それ以降に書かれた文章や増補された年譜が収められ、 青年時代の放蕩と最初の結婚生活が詩作に与へた影響や、“転身”後の、学者として舵を切り始めた詩人を支へることになる添子夫人に宛てた若き日の交情の一端など、 これまで知られなかった学匠詩人の強面の内側が、女性ならではの観点から分かる限り報告され収められてをります。

 私などは、ケルト文学の権威となられた著者が縦横に逍遥してみせる比較文学的知識、どころか英米文学の読書遍歴さへもたない門外であってみれば、 そも日夏耿之介に対しても、近代詩の奥の院に鎮座する詩人として、或ひは東洋古来の隠逸趣味を解する文人ディレッタントとして別格視し、私淑してきた一人の偏屈なファンにすぎません。 なのでこの浩瀚な研究書においても考察論文からは距離を置き、気楽なスタンスで下世話なところばかりのつまみ食ひに徹しました。それもまた一読者の楽しみ方には違ひなく、 さきに挙げた既刊の副読書『詩人日夏耿之介』や、雑誌『本の手帳』特集号(1968昭森社)が出た当時には気遣ひもあり憚られてゐた回想の類ひが、書き下ろしも含め存分にまとめられてゐる本書について、 もう少し紹介を試みることにいたします。

 先ず『転身の頌』の“転身”の動機として「父の死」と共に挙げられた「前妻との永訣」ですが、 「亡くなった時は、ボイボイ泣いてたんだよ」といふ谷崎精二の貴重な回想(14p)が冒頭に紹介されてゐて吃驚します。 当時をつぶさに知る最初期の弟子筋(北村初雄、平井功、岩佐東一郎といった詩人たち)と、学究を中心とする詩伯逝去後の復興黄眠会の人々との間には、前者の夭折や破門も手伝っての断絶があり、 日夏耿之介が詩人として第一線で活躍してゐた大正時代の面貌といふのは、もはや歴史のかなたに杳として知られなくなった事跡も多い訳であります。姓名つひに判明しないものの、 花柳界出身であることからおそらく「神楽坂の下宿」時代には同棲をし、そして喘息のために転地した鎌倉が、両親の反対を押し切って結婚した新居の地ともなり、 奇しくも『月に吠える』編集のため近所に越してきた萩原朔太郎との蜜月親交時期とも重なったといふ、この「最初の妻」について存在理由がはっきり言及されてゐます。

 大正5年、病歿により突然断たれた彼女との不幸な結婚生活は二年に及んだとのことですが、これが鎌倉から大森山王“馬込文士村”への転居理由となったのみならず、 「黄金のエロス」時代と呼ばれた詩境との訣別・転身を詩人に促した文学的な消息については、 本書の主論文「日夏耿之介の詩の世界」「『轉身の頌』について」「『轉身の頌』序の意味するもの」に拠って確かめられるとよいでせう。 放蕩時代は明治41年18歳から大正4年25歳までとのことなので、当時の詩人が「眞のL’Amourはこの時限り消滅した」と呼んだ母性愛的女性が即ち「7歳年上の名古屋出身の芸妓」であった彼女であったとすれば、 実に7,8年に亘る交際であったことが知られます。と同時に、大正6年1月に草された詩集序の初案中の“心性史”のなかで、既に亡くなってゐたとはいへ、 彼女について哀惜の一言もみられないことには、やはり奇異の感を持たずにはゐられません。

 古今多くのロマン派詩人たちが詩的出発時に抱へたトラウマと同様、たとい日本近代詩史上最たる高踏派と呼ばれた日夏耿之介にあっても、 若き日を翻弄した女性の存在といふのは詩人の実存に関はる一種の危機として、彼に詩作を本格的に発動させた一番のモチベーションであったには違ひないと思はれます。 ですが、やがてロマン派特有の破滅から回避することを“転身”によって図り、成し果せた彼にあってみれば、自らを詩史に燦然と刻印せしめた処女詩集の背景に横たはる実在の女性といふのは、 疾風怒濤の青春と同義であり、やがて新たに知り合った添夫人との結婚生活が始まれば、恰も何もなかったかの如く抹撒されるべき「黒歴史」に変ずる訳であり、 やがて胸の内ふかく封印される筋合のものへと変化していったのでありませう。封印の呪文こそがその後の詩作に祈念され、やがて詩が書かれなくなってしまったのも、 書く必然性が無くなってしまったからなのだと、私は自分なりに思ってゐます。

朔太郎と

 さうした文脈で現れる、詩人をまことの意味で人生の危機から救ひ上げたと呼んでもいい新夫人(中島添)が、 生涯筐底に秘してゐたといふ手紙の一部が紹介されてゐます。1991年の新聞に発表されたものですが、私には初耳に属することでありいたく胸を突かれましたので茲に転載します。 大田区馬込に当時あった文土村に滞在中の35歳の詩人から、飯田にあった添子夫人に宛てた一通より。

「雨の日は、あなたの手紙を日付け順によむのです。すると自然に涙がにじんで来ます。……二人はもう立派なをとなだから自由に結婚する権利がある。 だから誰が何と云っても必ず岩をも通す堅い信念で二人は結婚迄努力するのだよ。決して途中でへこんではなりませんよ。蘇枝子!あなたには此わたしがついてゐる。 二人は死んでも決して決して決してはなれはしない。だから二人で共力して事に当たれば必ず岩をもとほす事が出来るのだ。いいかい。堅くわたしを信じてわたしにつかまってゆくのですよ。」(238p)

 詩人はこの伴侶に全幅の信頼を置いて一生を安んじたといひます。斯様な感動的な手紙が遺されてあるなら、いっそ夫人自身から聞書きがされることはなかったのか、 その生ひ立ちや詩人との出会ひ、“えら癇癪”の主人と添ひ遂げた彼女の人となりなども、女性ならでは視点から、 (できれば結婚写真などと併せて)報告・紹介されてしかるべきではなかったかと、望蜀の念を逞しうしたことでありました。

 詩人に係るタブーといへばもうひとつ。盟友だった堀口大学との絶縁の理由が、日夏耿之介の一番弟子だった平井功(最上純之介)による疾妬に関係するものであったこと。 外遊遍歴の眩しい堀口大学に対して放たれた「針小棒大の讒言」が釁端をひらいたとする衝撃的な城左門の回想が公表されてゐます(261,266p)。 近来「随筆集」や「訳詩集」が公刊される運びとなり愛書家の間で俄かに注目を集めてゐる平井功ですが、今さらながらの思ひもかけぬ報告ではあり、 一体どれだけの関係者が(さうして当事者両造においても)認識してゐたのかよくわかりかねるゴシップであります。

 あるひはこれまで読み逃し、失念してゐたこと、愛読者にとっては既知に類することにも、あらためて驚きながら読ませて頂きました。 何しろ井村先生の努力の結晶である著作年譜を頼りに、全集の随筆巻に未収録となった雑文を尋ねて図書館に通ったり、辞書を引き引き漢語・僻語をメモ帳に纏めたり、 また東京から帰省する際、中央線周りで飯田に立ち寄り現存する旧居を訊ねたりと、 特に私淑の激しかったのは田中克己先生と出会ふ以前の、私が20代前半期のことだったのですから。

昭和32年に詩人を襲った脳梗塞による右半身不随も、その後筆が執れたのは左利きだったからといふことが書かれてゐます(245p)が、忘れてゐました。 といふことは左利きが幸ひして、左脳がやられたにも拘らず言語野もある程度温存されたといふことでありませう。デスマスクの存在も初耳(251p)。 最晩年には無邪気にチャンネルを回して楽しんでゐたといふ詩人には似つかはしくないテレビにまつはるエピソードが記憶にあったのですが、 それが実は弟子の一人火野葦平からのプレゼントであったといふことなども、今回書き下ろされた「詩碑と記念館について」のなかに紹介されてゐて驚いてをりました。

かうして英文学に蒙い門外漢がつまみ読みしてゆくだけでも実に愉しい一冊でありました。漢語に自在な訓を宛て、その錯綜美のうちに心象の韜晦を刻む詩人、 日夏耿之介。その詩篇の視覚的効果といふのは、しかし難しく選ばれた「漢語」そのものよりも、それに当てられた自在な「訓」こそが印刷上の視覚的効果なのであって、 心のなかで読む際にはやはり漢語はそのまま音読した方がしっくりすることも多いと感じてゐることなど、この際は私の愛する日夏耿之介観として告白しておきませう。 それは文章にまま散見するところの、かの「江戸情緒好み」が何か信州人らしい進取の気性と都会志向があざとく感ぜられて田舎者のままの私にとって苦手に感じられることと関係してゐるかもしれません。 これが自分の読解キャパシティなんだと諦めるほかありませんが、斯様な天真爛漫の頌(笑)もまた一愛読者のスタンスとして許されてよいのではないかと、 今では肚を括って学匠詩人の本領たる英米幻想文学の造詣まで靦然と読み飛ばしてゐるやうな始末であります。

 ことほど左様に平成も四半世紀を経、満を持して、といふかむしろ遅きに失したとも言ってもよいかもしれないこのたびの日夏耿之介に関する集成研究書についても、 また同様のことが言へるのではないでせうか。つまりは日夏文学理解に必須とされる漢学的素養が失はれた輓近読書界において、 今また著者の井村先生をして快心たらしめる読後感を果たして何人の研究者・愛読者が持ち得ることができるのか。 さきに著者は詩人没後20年にして全集復刻を記念して上記の添子夫人宛書簡を明らかにした際、同時に、

「これを皮切りに今後の個人的資料のいっそうの収集と公開を望み、それに拠ってこれまで晦渋とされ親しむ機会の少なかった日夏耿之介の詩行に血を通わせ、 あらたな光を当て新しい解釈を生むこと(239p)」

を期待されました。その後ふたたびの20年、やうやく飯田市の美術博物館から「来翰集」や「コレクション目録」が公開・刊行されファンの耳目を集めましたが、 まだまだの感は拭へません。怪奇幻想文学は世の読書子には人気の高いジャンルであり、漢詩も徐々にではありますが愛好者も増へてゐる模様です。このたび収録された新出の写真資料、 その謦咳に接し得なかった詩人の温容にふれながら、これを機会に再びの個人的資料の「いっそうの収集と公開」の進むことを、願ってやみません。


【参考資料】 詩集の序文(初出形)

「賢者の石」 ―藝術及世界に就ての考察― 〔「水甕」4卷1號 大正6年1月〕

詩集轉身の頌序

信仰は、己れの心に眞實に肯定できるものを受入れることで、
不信仰は肯定できるものをも斥けることだ。
                    ラルフ・ワルド・エマスン

 一
 凡そ、詩篇は、所縁の人に封して實在がその眞の呼吸の一鎖りを吹き込めたもののある機會の表現である。選ばれた少數にとつて、詩は儘ならぬ、選ばれぬ多數への示唆である、 媒介者なき自働記録(オオト・ライテイング)である。彼等は、屡詩興の天橋に依つてのみ神の御國に歡遊する。蠕蟲の幺微體から宇宙諸相の大に臻る悉皆の觸目の存在當體は、 詩人の對境として本體から賦與せられた『窄き門』である。逸興の受難週は、されば、此者の個體を神人融會の『賢人石』に押し匿す。聖なるアトモスフイヤの流動は、 ささやかに選ばれた人の全部を捉へて入神(トランス)の中有境に投げ込ませる大いなる虚空の手である。

 二
 貧しい自分にも、夜しばしば病苦に目覺めて一二時間の靜思を餘儀なくせられるとき、言ふべからざる快活なたましひが、全身の血汐を喜ばしい底力のある然し淑やかな奔躍に驅り、 肉はかすかに顫動して、ものとしもないときめきにわななく事がある。この時、自分は用意してある枕頭の紙に書きつける。この大喜悦は宗門の徒により法悦と呼ばれ、 詩人に上つて感激と名付けられるもので、素材の本質が一脈の流通をなしてゐる上は、單なる庶物の描冩がそこにあらうと、心の一連鎖のみが聯珠されようと、 面に現はれたものには何のかかはりはない。われら小さきものの經驗をひくはさかしらだ。藝術史上、多くの逸話は愕くべきこのBeatic Visionに就て語つてゐる。

 三
 美の狂歡(エクスタシー)によるJohn Keatsの解脱は、天然の讃美によるRichard Jefferiesの離脱(リダクション)やEmily Bronteの祈禱による忘我と何の異りもない。 Gabriele Charles Dante Rossettiが詩集『性命の家』House of Life,Sonnet XVIIに於ける麗人の美貌に力服されるのは、この肉塊の下に匿れてゐる神祕を纖巧に認識したからである。 われらはWilliam Blakeの驚くべき恍惚が、物象ある幻覺を、彼の書房に自由に出入させた敍述を誦み、W.B.Yeatsの魂が時々遠き彼方迄遊離した記述を讀んだ。思ふに、 本體によつて命ぜられた人間のフレクシブルな靈魂は、かくして詩人稟賦の詩技の鍵によつて永遠の邦の關の扉を嚴かに押し開くのである。

 四
 次に、詩技の事は稟性の恩賜であつて、われら後天の精進は、ほんのその末梢を矯め直し、育くむばかりに過ぎない。凡そ藝術は悉くその神祕性により凡俗のものと離隔されてゐるが、 たまたま繪畫の專念なる努力によりその諦味と技藝との可なりな熟達を遂げた例を聽くけれども、多くそれは何らかの障擬により匿され、 假睡してゐたその人の本然性が精進の徳により瞭確に闡明せられたのであらう。最も善良な藝術は必ずしも衆俗凡ての諦味を待つことは出來ない。心性鈍(うとまし)く、 眞純の氣稟に貧しい多くの民人は安座して尊い藝術品を易く嗜む事は許されない。詩技の才能は、天才により頂點に到る。此藝苑の王者を脆拜する路を知らぬ現代各國民は詛はれた賎人である。

 五
 其處に、詩興の天馬に鞭打つて天界に攀ぢ登る詩人と、思索の綱を手繰つて本體の聖體盒に參する哲人とがある。(優れた宗門の偉材は、この兩つを身に兼ねるもあれば、 その一つに因つて法悦の祕奧を透見するものもある。)これらの人々は、偏寵の神子である故に、神の意志により人間靈性の最大級の奔躍が彼等により試される。 この使命は自然の意欲である、その出産は「炎の出現」である。彼らの足趾は一々神の業蹟である。經驗の種々相と、眼前に展開された現象界のはでやかさに眩惑されて、 人は神の物の中心の心を讀むことを知らぬ。民衆は凡て獸性の斷崖に彳み正義に罵詈の言葉を吐く眞理の仇敵である。今代民衆は悉く人間の生活をしてをらぬ。

 六
 近代の民主傾向は天才を賎民の酒料(さけしろ)のために勞役に服させ、意識せざる惡の典型のために彼岸の友をもねらふ銃を負はせられる。謬り進められた文化、不消化の教養、 惡の勝利は世界戰爭の口火を點けた。自分はこの戰ひが惡疾の年重つた末に迸り出た膿血である事を信ずる。若しこの戰ひがある結果を導くとしたら、 それは少くとも十九世紀から今代に及ぶ文化の觸手が恆に惡傾向に向つてのみ攝iさせられて來たと云ふ事を民衆をして眞に自覺させる迄にある。近代の民主は正しい民による民主でない。 彼等は根柢からさめなければならぬ。築き直さなければならぬ。正しき文化の樣式は、人間の生活は、天才の腦裡にのみあつて覺認(リヤライズ)される。 民衆は天才の前に脆座禮拜しなければならぬ。そして彼の幻覺の裡から萬能の審士の正しき喇叭を奏させなければならぬ。かく勵むことは民人の正しき權利である事を忘れてはならぬ。

 七
 曚昧な民衆に懇切な愛を示す宗致家、冷かに恆星の遊歩を算して類推の眞理を宣べる哲人、「想像」の世界に入山して温かにI stood among them, but not of them.と微笑する詩人。  これら天才を神のみ國に働かしめるのは神の意志である。彼らを人界に働かしめるのは民人の責務である。天才は神と人との溝渠に横はる棧橋である。 今代の民主々義はこの棧橋に向つて火を放たんとするものだ。

 八
 むかし、波斯毛道衣派(スーフイズム)の哲人がたまたまの法悦に陷つた時、「われは神なり」と稱し、天界の祕を悉く徒弟らに傳へた。この事は數囘反覆された。 ある師を思ふことの厚い徒弟が、ある日の恍惚から目ざめた師に之れを告げた。師は面色をかへて驚惜し、その徒弟の親切を謝し、 さて『今度かかる事があつたらこの短刀で自分を殺して呉れ』と一振の短刀を徒弟に手渡しした。翌日、師は例によつて恍惚に陥り、天國の祕を言ひはじめると、その徒弟は、 矢庭にとびかかつて師の咽喉をさした。短刀は、この時はね返つて、その徒弟の咽喉ふかく突きささつて徒弟は其場に死んで了つた。
 此神話は無限の示唆をわれらに興へる。法悦は神の意志である。絶封である。選ばれた人自らにしてもそれを如何ともする事が出來ない。かかる天才は神から下つたか、人から上つたか。

 九
 詩人は、『悟性に超絶して神の眞理の心的理解に信念を置く」凡ての通性により、悉く神祕の詩人である。それでなければならぬ。それでない何ものがあるか。

 十
 詩は本體の呼吸、神の言葉である。『誠の詩は詩でなくて詩人そのものである』がわれらは、詩の光りを内なる世界より紙上に捕獲する欲望に捉はれる。このとき言葉の問題が來る。
 言葉は媒介者にすぎない。然し言葉を愛寵する事を知らぬ詩人はない。言葉はそれにかかづらふことのない度合で、磨かなければならぬ。記憶の金鑛から掘り出された言葉は、 麿くに從つて燦然たる光りを放つ。このとき、言葉が詩興の坪にうまく嵌まる。言葉を絶封に驅使するには、その言葉を傳統の綱から切り放たねばならぬ。言葉に個性を與へねばならぬ。 生命をそそがなければならぬ。

 十一
 象形文字の精神は、多く視覺の作用から大腦に傳達される。その音調以外のあるものは、必ず視覺の媒合を待たなければならぬ。かかる文字は、音調と形態との錯綜美により完全に使命を果す。 象形文字の效果がこの『黄金平衡』(ゴールドウン・アベレージ)を逸出すると單に放れ放れのミングル、マングルした騒音をきくのみで、その言靈は奈邊かへ遁げ去つて了ふ。 本邦の言語は、今代が過渡期である故に、複雜な思想を傳達するに不完全な文法上の法則に縛られてをり、その上に其文法の約束が全く非音樂均な結果しか齎さない。 一語一語が伊太利亞語の如く母音で終り複雜の點もあるが、複雜した情、緊張の情は、それを冩し取ること全く絶望である。内に遍滿の感激が貯へられても、 われらはそれを一杯に外なる紙上に落し出すことが出來ぬ焦燥の憤激を絶えず經驗する。

 十二
 加之、文語と日常語との錯綜も、ややこしい問題の一だ。文語が過去のものであり、日常語が未來のものである以上、古の未完成のものの短を矯め、 長を助けて完美を望む責務を感じるのであるが、ある種の感激の一連鎖を捕捉する場合に、性急な自分は、だらだらと冗漫な、 まはりくどい日常語を飛び越えて一意に文.語の簡勁を使用する事を常とした。
 然し論議以上に、われらは此國の言葉を喋言して育くまれて來た所からも、又、今の日常語を熱心に愛育してゆく熱望がある。(自分としては、今しばらく文語と日常語とは、 その時の感激の種別に應じて交差して使用するつもりである。)所詮、文語の固牢な因習から讀者自ら努力して離晩するとき、この象形文字を使用する簡勁の古語は、 全く新しい氣息を帶びて出現する。自分は、この詩集の永遠性をこの點にも置くのである。

 十三
 少しく自分の心性史に入る。
 自分は、敬虔な古神道の研究家を祖父として來た。質僕と篤實とを厭生的な極端なる物質排斥により裏書きした家風に育くまれた。
 幼き日は朝拜を四方に行ひ、食後を「神」に感謝の一分間に割く、郷里に於て唯一の舊格を墨守する古風な舊家であつた。 其家の長子として生れた自分は道義的一種の空氣―典雅と温情とロマンチツクに豐裕な―の中に自分を住み慣らした。自分の心性と體質とは自らその空氣に共鳴してゐた。從つてわが家は、 自分にとつて例へやうない至樂の世界であつた。
 山のやうに積まれた書物の中に坐つて、あらゆる物語を讀み獵つた。稚淳な柔かい頭にも、『素足の愛』の美酒は、縹渺たる幻影の高フ原を擴げた。 (自分のずつと幼い感覺上記憶に、雪の降る日の午下り、祖母に抱かれて炬燵にあたつて繪艸紙など開いて古き世の昔語りにきき耽けつたときの祖母の暖かい柔い四肢の感觸がある。 凝つと目を瞑じると母に抱かれてはばかりをしてゐる時も、その乳房をあさつてゐる時も悉く單なる感觸の朧ろげな記憶として殘つてゐるやうな氣がする。しばしば感覺は虚僞であるが、 記憶は誤りであるが。)自分は雪どけの音を軒端にきき乍ら、四月の日がほかほかと射す南縁に寢轉んで、『春遊び』や『紀元節』にうつつなく空想の夢を追つた。 わが家に住むほどの人々は皆善良な、自分に優しい人達で、折々自分に珍らしいもの、好きなものを持つて來てくれ、面白い話を聽かせてくれ、「人懷い温和しい子だ」と云つて自分を賞めた。
 此家に住んで自ら築き上げた道義の世界は、全く矛盾のない純一な白金の世界で、かかる暢明な世界に心樂しくのんびりと穩やかに逍遙するのが生活であつた。 此生活觀を屡裏切る「學校」は作文と歴史と理科の時間がなくば行く處ではなかつた。算術の時間や體操の時間には「浮世」が初めて恐しい勢で自分を虐待するものの樣に思はれた。 自分は大概の運動は厭やであつたが、東西に別れて本陣を奪ひ合ふ遊戲は大好きで、一人、簇る敵にとび込んで戰ふ遊戲が如何に自分のHeroic Spritを滿足させたであらう。 自分は音樂が好きで―今でも音樂は抗しがたい誘惑で、かの強い音色が胸に染み入ると自分は化石のやうに硬くなつて泪が出る―自分は、庭に彳み、屋根に上り、野山に行つて聲の限り歌つた。 その歌は多樣な讀書で培はれた夢の情緒を刺戟して眼りない幻影世界につれてゆき、木や川や山や野は現象から浮び上つてロマンチクの七彩にきらきら輝いた。 夜は、昔染みたランプの光の下で聲をいため、銀笛を吹いた。八十八日目の明るい月が青白い雲のひまから照り輝いた晩、狂氣のやうに喜んで街上を躍り廻つた事は自分に永遠の甘い追憶として取つておかれてある。 かかる美しい月夜が世にも實に存在したのであらうか。自分のロマンチクの酵母は寫眞機械であつた。空氣銃であつた。築庭術であつた。誠は少年の血汐であつた。

 十四
 放肆な追憶の氾濫を中止して略敍する。
 此夢の日の靜けさを破つたものは祖母の死であつた。祖母の唯一の生命は自分であつた。祖母は賑やかな活動的な婦人であつたが祖父は之れに反し、巖格な學者風の、 郷里に於ける稀れなVirtuosoの一人であり、又Archaeologistとしても呼ばれた。自分の家の古雅な家風は此祖父の人格の表現であつた。 自分は祖母のペツトであつたが祖父の敬虔な世界觀と古藝術の興味は自分の骨身に染みこんだ。反つて祖母から得たものは僅少であつた。 ロマンチクと云ふにはやや古雅な自分の情致は祖母の死によつて斷滅した。母は羸弱の自分を激まして、新しい空氣を盛んに注入した。自分は一寸たじろいだ。 學校と家庭との干格、自分と家風との相抗は堪へられなくなり、又一方自分の望みの對象として映じた束京への思慕はたうとう十五歳の春から東京の中學に入らしめた。

 十五
 更に略敍を要する。地方舊家に王子の如く生きた自分、正直な、人なつこい、世間を知らぬ自分は燃える血に驅られて目を瞑ぢて此界に闖入した。憤激があつた。失望があつた。 孤獨があつた。喪心があつた。そして青春の曉の鐘鳴り初める十八歳の時からMaternal loveがあつた。(その後色々のSceneの前に立つたが眞のL’Amourはこの時限り消滅した。) 躍り狂ふ官能と樂欲の世界に心ゆく迄涵つた時、結論が冷かに且嚴かに來た。自分は激しい腦疾に冒され、學業は廢され、長い病院通ひが始まつた。最後の結論が父の死となつて出現した。
 僭越にも、d’Annunzianとして自ら任じ、日夜、手許から一時もその作物を放さなかつた十九歳より二十四歳に及ぶ間は、思想に狂ひわめいてゐたので、 感覺的喜悦ば只概念的に自分を魅惑してゐたにすぎなかつた。普通世間の官能的對象に一通り身を浴びても、快樂としては殘らずに、痛みとして殘つた。 その現場に彳んでも自分の肯定する歡樂の論理と實際とが餘りに相抗の激しいものであるに苦笑しながらも、 腦疾に苦んで一時讀書を遠退いた所から執心の何者をも得る路がなくなつたため苦笑しながら艷樂の杯を手にあげた。自分の享樂は徹頭徹尾概念崎に終始した。

 十六
 少しもどつて説き直して見る。
 自分は、古風な月光の惝怳に發足して、太陽のかがやかしい光線の羞明に鬱悒し、いまや、『永劫の轉身の中に生き』てゐる意識を持つ。 自分は紀季の神と獸との久しい惡鬪に疲憊した。それらの數年間を自分の心性史の暗黒時代として永遠に記念するために、また、いま向全くかかる思索上羞明から離脱しえぬ事を明かにするために、 寧ろ「羞明」の二字により本詩集を代表せしめ樣としたが、現在の出來るだげの精進が“Perpetual metamorphoses”(※永久的変容)の油によつて動いてゐる心状を自ら讃美する淋しい嬉しい意欲を明瞭せんために今の題を用ゐる事とした。
 古風な月は自分にとつて内なるものが未だ醒めなかつた稚淳時代の追憶のかたみである。外生の重積に壓せられて歔欷しながら悲鳴しながらも尚自分は最も靜かな萬有の固形表情の内在美に憧れた。 一種偏失の情調ではあるが、この古風な月光惝怳者はロマンチックとしては餘りに古典的な―古雅、温藉、寂靜、冷艷の樣式美―歪んだ、曲つた、くすぶつた強情我慢の心持であつた。 自分はこの章に入れた詩篇の僅少な事を遺憾に思ふが、自分にはじめて詩作の喜び、その有頂天の狂態を經驗せしめた最初のものとして、 又その心持の遍き表示として特に卷頭に飾つたのである。
 古風な月光は病弱の身を照らす。ああかかる間に何の飛躍があつたらう。幼き心は今、目ざめんとする赤子の目のやうに、明るみに目をしよぼしよぼさせて、 ぢつと心の中に波うつ聲をきいてゐる。外界の襲撃にあへば貝類のやうに忙しくふたをしてしまふが、開かないでは止まないあるものにせかれて又おづおづと目を瞬(またた)かんとする。 そしてかすかにさし込む月光の夜の世界に躍り狂ふ自分の心の化怪の姿に自づと魅惑せられて次第に明白の昧爽を待つてゐた。

 十七
 羞明は來た。内と外との衝突、神と獸との永い血鬪が開始せられた。本集は殆ど此章によつて壟斷せられてゐるが、實に今尚予はその餘波の海鳴りを屢きく。
 自分は病床を蹴つてはね起きた。自分の目の前には五彩燦爛の假象世界が永遠のやうな力でをどつた。自分は赤裸々でその眞中にとび込んだ。 呻吟と悲鳴との赤い絲は絶望と嗟嘆の青い絲をかがつた。大疑は刀を光らして自分の信樂の咽喉に死を擬した。事實、自分はしばしば斷崖に彳んだ。劍をとつて彷徨した。 八年間の腦疾と四年前よりの永久の持病とが身體を極度迄衰弱させた。自分はみんな疑つてしまつた。疑惑に次ぐ自嘲、自嘲に次ぐ自己禮拜、狂疾が身を捉へなかつた事を不可思議に思ふ。
 自分が一日絶望的な氣持で自己狂歡に耽溺しつつあつた席上から招かれて侍したのは病める父の病床であつた。爾後三年間父は狂者として廢人として、 わが母とわれら兄弟との思念なる看護によつて生き存らへた。

 十八
 髮は延び、肉は瘠せて眼瞳のぎろんと光つた自分は、深夜、病院の長廊下を便器を手にして父の病床に近づいた。發作的狂暴が患者を憤らせた時は、父は近くのものをとつて投げ、 二階から甃石目がけて幾度かとび下りんとした、多數の看護婦をはねとばしはねとばし其處らを狂ひ廻る父に自分は半分泣き顏でとりついて寢臺の上へ父の體を自分の重みでおさへつけた。 それでやつとをさまつた。涙が胸の中に流れた。一つの怕ろしい記憶は、連日連夜の看護に疲憊しつくして、一夜の閑暇を得、病院近い親戚の二階に不安な夢を結んだ一時間の後、 喧ましい警鍾が本能的に自分を目ざめさせ床の上に飛び起きさせた。枕頭に彳んでゐた伯父は沈着な剛腹ないつもの態度を少しあわてて、『心配するな、病院から離れてゐる』と云つた。 然し自分には、その瞬間怕ろしい情景が眼の中にをどつた。十人の看護婦と院長とが押へようとしても押へ切れない狂暴の刹那にも、父は自分がゆけばよくおとなしくなつた。 おとなしくならない時は、自分は心に泣き乍ら怨めし相に父の顏を見上げた。その父の顏は瘠せて肉が落ち、眼は爛々と狂ほしく光つてゐた。その父が火事と知つて騷ぎ出したらどうだらう。 自分の想像は一瞬の間に血みどろな怕ろしいいきさつを目に泛べた。自分は衣を引つかけて目を瞑ぢて階子段を駈け落ちた。大通りにかけ出して火事に明るい病院さしてかけ付けた。 火元は病院から二町と離れてゐない處であつた。門前に、彳んでゐた看護婦らのむれから婦長は自分を認めると手で制しながらかけて來て、自分の腕をとり、 『大丈夫で御座います。御よつて(※寝て)いらつしやいます』と云つた。

 十九
 自分は一昨年の秋、父を失つた。一人の祖父と一人の母と五人の弟と一人の妹とが自分とともに取り殘された。
 自分はむかしの自分を振りかへりながら本然的な勢に押されて、その素僕と直行と温情との堅い世界に進行していつた。羞明の傷趾は尚時として痛むけれど、 自恣と自嘲とのDesperate characterからは放たれて行つた。間もなく生の險崖に彳んだたましひを、今迄反抗の心持から匿れてゐた「涙」が泛び出て救ひ上げた。 突忽なこの自恣と忍苦との複雜な心行を見分けがたいものの誹謗を自分は苦笑と熱罵で斥け去つた。そして暫く放置しておいた荒れはじめた思念の庭を熟心に整へ清めはじめた。
 市民として舊慣多き小都市に生息する事の出來ない―それには自分の苦痛と同時に家族の苦痛もある。かかる時一を救ふことは兩方を救ふことだ。 ―自分は比較的外部の束縛を受けない東京近郊に永住の企てをとげた。頻々起る持病の苦しみに今はこの海岸に身をよせてゐる。自分には自分の思想に理解を持つ同情を持つ母がある。 素朴な弟妹がある。自分は靜かに病氣を養ひ、勇んで祈禱と讀書と思索と直視との生活をひたすら踏んでゆかなければならぬ。

 二十
 『誰れでも生涯には、顏から火の出るやうな失敗の五つや六つはあるものだ』
 と世故なれた慊疑家Michel de Montaigneは云つた。餘りに正直すぎた自分は、すべての過去を恥かしい慙悔に埋める。
 今、靜かに思ひ養ふ閑寂が自分を微笑して訪れた。自分は持病で年の半ばは毎夜二時間程の呼吸困難と苦鬪しなげればならぬ。これは自分が當然受けなければならぬ結論だ。 然し長く怠つた心の清育を何としよう。

 二十一
 古風な月から日の羞明に赴いた自分は、今や轉身の星の光りを浴びて信仰のハンブルな心持に生きかつ祈り、思ひつづける。第一に自分は自分を征服しなければならぬ。 『爾は日に十たびを自らに克たざるべからず。そは身に宜しき疲憊なり。靈魂のための罌粟なり」と犁牛の哲人は云つた。又自分はあらゆるものに索迷の觸手を向けてゐる。 就中今次の大戰の精神は悉く厭やだ。この謬り肥え太つた文化の釀した酸敗。
 文化は減亡か人類は永遠か。


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