(2000.8.10up/2003.1023update)

日夏耿之介旧宅  詩人の家を訪ねて その1

p1 飯田市美術博物館内 「日夏耿之介記念館

日夏耿之介の散文が読みにくいのは殊更深い思想が込められてゐるからではない。上面の読み難さを一端のり越えてしまへば、あれほど故知らぬ「なつかしさ」を喚起させる読み物も無いことがわかるのだが、 私たちの身の周りに斯様にも偏屈で癇癪持ちの趣味人、つまり平たく言ふと「ドロンパの親父さん」みたいな爺さんを探し出すことはもはや難しくなってしまった。 野球の球が飛んできて怒鳴り散らすやうな爺さんばかりではない。庭先に盆栽の並んだ日本家屋や、野球するにはちぃとばかり狭い感じの広場、 日本の住宅街の風景からこの30年ほどの間に様変はりしてしまったものは多い。
  10年ほど前、日夏耿之介の詩や随筆を好んで読み齧ってゐた私は、東京からの帰省の折に全集の年譜だけを頼りに当時の旧宅を尋ねたことがある。 探し出した家はその周囲だけがタイムスリップした如く、掃き清められた土の道や苔生す庭の碑石、なつかしい汲取便所の煙突さへそのままに、ここに生活してゐた、 確かな詩人の面影を伝へる草堂の佇まひに感激したのだった。当時既に未亡人が入院中で家は閉ざされてゐたが、枝折戸をくぐり、例の癖のきつい筆墨で「日夏耿之介」と表札が玄関に掛かってゐるのを目の当たりにして、 このまま門を敲いたら今にも“ドロンパの親父さん”候の狷介詩人が現れてきさうな、そんな雰囲気に飲まれて眩暈を覚え、暫し呆然とさせられたものである。 送られてくる寄贈詩集を読みもせず窓から抛り捨て、「ああ、“新かな”が流れてゆく」と宣ったとかいふ伝説の真偽も、崖端に立つ住居からはるかに望む、 飯田盆地をたゆたふ松川の流れを瞰下すれば、それが作り話であると渙釈したのだった。

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p4 p8 10年前に訪れた当時の日夏邸

 さらに10年の年月は流れた。この度、旧居が復元・公開されてゐると聞いて「日夏耿之介記念館」の見学に赴いた訳である。飯田の市街地は車の往来が激しくなって、 昔訪れた頃と建物が変はらない筈なのに、町並み全体は何だか妙に小さくなって感じられた。むかし、はるばる各駅列車に乗ってやってきた貧乏旅行の当時と、仕事の出張帰りにお手軽に社用車で立ち寄った今回とは状況が余りにも違ふ。 そして六月の太陽が頭上で燃え熾る盆地ならではの暑さも手伝って、そのやうに感じさせたのかも知れない。
 記念館では「黄眠草堂」の扁額ほか、あの家にあったらう数々の遺品を実際に見ることができた。汗のにじむ日盛りの中、数少ない(と思はれる)来館者の一人一人に対し、 開鍵して案内してくれた県立美術館の受付嬢の顏付きには、「面倒くさいなぁ、何を好き好んでこんなもの見に。」といふ表情が何とはなしに感じられたのだが、 和・漢・洋を博渉した学匠詩人の審美眼に適ったコレクションが今は美術館のもとで管理され、その業績に関心も無い(普通は無いよね)市民によって、 幾分敬遠気味にせよ崇められてゐるといふこと。それは間取りまで復元された展示室のなかにひっそりと安置されてゐる文物、書籍、文房、什器を眺めてゆくうちに、 自分のなかでむしろ諦めにた安心を与へるものに変っていったのだった。

  ただいつまでもそんな感慨に耽って佇んでゐるといふことも許されない感じだったので、私はとにかく気になっていた10年前に訪れた旧宅のことについて尋ねてみた。

「あの神社の近くにあった旧宅は取り壞されてしまったのですか」

 すると現存はするものの、現在は市役所の職員の住居となってゐるとのこと。文学者の旧宅など、何のためらひもなく取り壊してきたのがこの国のならひ(精々のところが明治村への移築である)であるから、 これには喜んで少々口が滑ってしまった。

「さうですか。旧宅の復元までして来館者が少ないなら、いっそ旧宅をそのまま展示場にした方がよかったのにね」

  と冗談を言ったのだが、「とんでもない」と真顔で否定されてしまった。(ぢゃ、来館者が来るたび私が美術館からあんな遠いところまで鍵を持って案内しなきゃならないって言ふの?ごめんだわ!) ま、そんなところだらう。
 記念館を後にすると私は、当時のうろ覚えの記憶を頼りにその旧宅をめざした。さうして歩きながら、眩む暑さのなかに次第に当時の記憶が思ひ出されてくるのを覚えた。 それは不思議な感覚だった。さうさうあの神社の横丁を曲がったところだ。あった、あった確かにそれはあったのだ。・・・がしかし・・・。
  風流を絵に描いたやうな、掃除の行き届いた庭付きの平屋の建物は、アスファルトの路地の片隅に蕪雜な雑草の茂みに埋もれて、ただの薄汚いあばら家に変身していた。 たしかここから盆地に開けるすばらしい眺望が広がってゐたのだったが、今は丈高い薮が立ちはだかって当時を偲ぶ由も無い。個人の邸宅なので余りじろじろ覗き込むといふ訳にも行かなかったし、 どだいが郷土の大先達を誇りに思ふ文学愛好家の市役所の一職員が、当時そのままの姿に住みなして大切に管理してくれてゐるといふ期待は望蜀であったのだ。先達て、 これも出張のついでであったが、三国の三好達治寓居は跡形もなく、室生犀星の馬込の家も、その一室を文学館の館内に再現されてゐるのを見てきたばかりだった。そのことを思へば、 とにかくも日本の文人旧宅が西欧でのやうに当時のままその場所に残ってゐることだけでも充分幸運なことなのかもしれない。

p6 旧日夏邸 今日の旧日夏邸


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