(2007.02.13up)
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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944


十二 夜郎への流謫

 李白の罪名は謀叛罪の連坐であって、罰は死刑に当る。李白及びその同情者は、脅かされて従ったのだと主張するが、朝廷ではさう取らない。それもむりはないので、 永王が粛宗の命に反して長江を下ったことは李白も知ってゐた筈である。それ以前に逃れてゐればともかく、永王の形勢が悪くなってから、はじめて逃亡したのである。 なほまた永王に召された時、多額の金を得てゐるのも、彼の嫌疑を深めた。これらのことを李白自身の弁明に聞かうとするならば前に一部を引いた江夏(武昌)の太守韋良宰に贈った詩のつづきを見ればいい。

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炎涼幾度改 炎涼幾度か改まり ※1幾年かたって。
九土中潰 九土 中より横潰(オウカイ)す。 ※2九州に同じ、中国の本土。
漢甲連胡兵 漢甲※3 胡兵に連り ※3官軍。
沙塵暗雲海 沙塵 雲海暗し。
草木搖殺氣 草木 殺気を揺(うご)がし
星辰無光彩 星辰 光彩なし。
白骨成丘山 白骨 丘山を成す
蒼生竟何罪 蒼生 つひに何の罪ぞ。
函關壯帝居 函関 帝居壮(さかん)に ※4長安の守りをなす函谷関。
國命懸哥舒 国命 哥舒に懸(かか)る。
長戟三十萬 長戟(チョウゲキ)三十万
開門納凶渠 門を開いて凶渠(キョウキョ)を納(い)る。 ※5わるもののかしら。
公卿奴犬羊 公卿 犬羊のごとく
忠讜醢與菹 忠讜(チュウトウ)も醢(カイ)と菹(ソ)となる。 ※6正しい議論をする者。※7しほからと塩漬の肉。
二聖出遊豫 二聖出でて遊予し ※8玄宗と粛宗。※9行幸に同じ。
兩京遂丘墟 両京つひに丘虚。
帝子許專征 帝子 専征を許され
秉旄控強楚 旄(ボウ)を秉(と)って強楚を控(ひか)ふ。 ※10昔の楚に当る江南の地方を治める。
節制非桓文 節制※11 桓文(カンブン)にあらず ※11軍のとりしまり方。※12斉の桓公、晋の文公は節制を以て称せられた。
軍師擁熊虎 軍師 熊虎を擁す。
人心失去就 人心 去就を失ひ
賊勢騰風雨 賊勢 風雨を騰(あ)ぐ。
惟君故房陵 ただ君 房陵を固め ※13いま湖北省房県。
誠節冠終古 誠節 終古に冠たり。 ※14古より永久に。
僕臥香爐頂 僕は香爐の頂に臥(ふ)し ※15盧山の峰。
餐霞漱瑤泉 霞を餐(くら)ひ瑤泉(ヨウセン)に漱(くちそそ)ぐ。 ※16玉のごとく美しい泉。
門開九江轉 門開けば九江転じ
枕下五湖連 枕下に五湖連る。
半夜水軍來 半夜 水軍来り
尋陽滿旌旃 尋陽 旌旃(セイセン)に満つ。
空名適自誤 空名たまたまおのづから誤られ
迫脅上樓船 迫脅せられて楼船に上る。
徒賜五百金 いたづらに五百金を賜りしが
棄之若浮煙 これを棄つること浮煙のごとし。
辭官不受賞 官を辞し賞を受けざりしに
翻謫夜郎天 かへって夜郎の天(そら)に謫(タク)せらる。

 しかしこの詩にはたぶん嘘があるだらう。いかにも五百金は李白にとっては浮煙のごとくだったらうが、永王の軍には脅迫されて入ったのではなく、 王師と思って参加したにちがひない。「永王東巡歌」十一首の堂々たる調は脅迫では出て来ない筈である。

 李白の運命は絶体絶命であったが、この時すくひ手が意外な方向から現はれた。即ち李白がかって太原で主将にいって罰から免れさせた一小校郭子儀が、 今は両京回復の第一の功臣として、中書令・関内河東副元帥となってをり、自分の官をもって李白の罪を贖(あがな)はうと申し出たのである(「唐書」)。 これは乾元元年七月の彼の入朝の時のこととも考へられるが、はっきりとはわからない。ともかくそのおかげで、李白ば罪一等を減ぜられて、夜郎に流罪のことときまった。

 李白のこの間の煩悶は察するにあまりある。彼は自己の行為に対し、後悔や良心の苛責は感じなかったにちがひないが、愛国的行為が犯罪と認められたこと、 しかもそれが彼の反対派や相変らず朝廷にはびこってゐる俗人どもの、三百代言的法律を以て定められつつあったことに対しては、満腔の不平を禁じ得なかった。 この感情は九江の獄中ですでに郎中魏某に投じた「万憤詞」によくあらはれてゐる。

海水渤潏 海水渤潏(ボツイツ)として ※1水の沸き上る様。
人罹鯨鯢 人は鯨鯢(ゲイゲイ)に罹(かか)る。 ※2くぢら、貪汚の小人。ここでは安禄山にたとふ。
蓊胡沙而四塞 胡沙を蓊(あつ)めて四塞し
始滔天於燕齊 始めて天に燕斉に滔(はびこ)る。 ※3天まではびこるほどの勢で河北山東方面にひろがった。
何六龍之浩蕩 なんぞ六龍の浩蕩として ※4日をのせた車をひくもの。※5志のほしいままの様。
遷白日於秦西 白日を秦西に遷せる。 ※6天子。※7蜀。
九土星分 九土 星分し ※8バラバラになり。
嗷嗷悽悽 嗷嗷(ゴウゴウ)悽悽(セイセイ)たり。 ※9さはがしくいそがしげ。
南冠君子 南冠の君子 ※10囚へられた詩人李白みづからをいふ。
呼天而啼 天を呼びて啼く。
戀高堂而掩泣 高堂を恋ひて泣(なみだ)を掩(おほ)ひ ※11朝廷。
類血地而成泥 涙 地に血となって泥となる。
獄戸春而不草 獄戸 春にして草もえず
獨幽怨而沉迷 ひとり幽怨して沈迷す。
兄九江兮弟三峽 兄は九江に弟は三峡に
悲羽化之難齊 羽化の斉(ひと)しうし難きを悲しむ。
穆陵關北愁愛子 穆(ボク)陵関北には愛子を愁へ ※12山東省にあった関。
豫章天南隔老妻 予章天南には老妻を隔つ。 ※13南昌。
一門骨肉散百草 一門の骨肉 百草に散じ
遇難不復相提攜 難に遇ふもまたあひ提携せず。 ※14たすけあふ。
樹榛拔桂 榛(シン)を樹ゑて桂を抜き ※15榛は雑木、桂は香木。
囚鸞寵雞 鸞(ラン)を囚へて雞を寵す。
舜昔授禹 舜(シュン)はむかし禹(ウ)に授け
伯成耕犁 伯成 耕犁(コウリ)す。 ※16舜の諸侯。
コ自此衰 徳これより衰ふ
吾將安棲 われまさにいづくにか棲まんとする
好我者恤我 われを好しとする者はわれを恤(あはれ)み
不好我者何忍臨危而相擠 われを好しとせざる者もなんぞ危きに臨んであひ擠(おと)すに忍びんや。
子胥鴟夷 子胥(シショ)は鴟夷(シイ)となり ※17呉王の功臣伍子胥は讒言で殺されたがその屍骸を盛った馬の革の大きな袋。
彭越醢醯 彭越(ホウエツ)は醢醯(カイケイ)となる。 ※18漢の高祖の功臣彭越は疑はれて殺されその肉は干肉とされて諸侯に分けられた。
自古豪烈 古より豪烈
胡為此繄 なんぞかくなる ああ
蒼蒼之天 蒼蒼の天は
高乎視低 高きより低きを覗る。
如其聽卑 もしその聴卑(ひく)ければ
脱我牢狴 われを牢狴(ロウヘイ)より脱せしめよ。 ※19牢獄。
儻辨美玉 もし美玉を弁ずれば
君收白珪 君 白珪を牧めよ。 ※20圭は瑞玉、李白みづからをたとへる。

 春になっても草も萌えない獄中で、彼はみづからを伍子胥や彭越など、功あって罪なくして殺された豪傑にたとへて、万腔の不平をもらしてゐる。 しかも念頭から去らないのは山東にゐる二人の子と、盧山にゐた妻とのことであった。

 ついでであるが、この詩中の「兄九江兮弟三峽」といふ句の意味がわからない。九江の獄に繋がれてゐた李白が兄とすれば、このとき三峡にゐた弟とは誰のことであらう。 李白の詩文では、父のこともあまり見えないし、母のことは一ケ所も見えない。兄弟のことも聞かないのである。ただし李白は半ばはこの頃の風習に随って、 半ばは多分みづからが唐の皇室と同じく隴西の李氏の出であることを強調するために、詩文のいたるところで、兄弟叔姪を以て呼んでゐるものが多い。しかし従兄、 従弟と呼ぶも絶対いとこではないし、本当の肉身はこれらの中には一人もゐないのである。ただここの弟だけはさうでないやうであるが、 この三峡にゐたといふ弟の名と履歴とは一向に不明である。

 さて牢からは出され、死刑もゆるされたが、流罪の地となった夜郎とはいかなる地であらうか。唐代の夜郎県は今の貴州省の桐梓県の東にあったといふ。 貴州省でも北境で四川省に接した地である。ただに辺僻な地であったばかりでなく、実に唐のこの頃の最南境で、南詔国との対陣の地である。南詔とはタイ族の建てた国で、 はじめは唐に朝貢したが、天宝七載からは唐に叛いて吐蕃(チベット)と同盟した。そこで唐は鮮于仲通と李宓(リフク)とを将として、二回に亘ってこの方面に遠征軍を出したが、 二度とも失敗に終った。唐人がこの遠征をいやがった有様は、後の作であるが白楽天の「新豊折臂ノ翁」といふ詩によくあらはれてゐる。李白みづからもこの方面に対しては、 世人と同じ感情をいだいてゐたことは、かって詩人の王昌齢が龍標(湖南省黔(ケン)陽)の尉に貶された時に贈った詩によって明らかである。曰く、

  聞王昌齡左遷龍標遙有此寄 王昌齢が龍標に左遷さると聞き遥にこの寄あり
楊花落盡子規啼 楊花落ち尽して子規(ほととぎす)啼く
聞道龍標過五溪 聞くならく龍標は五溪を過ぐと。 ※1蛮族の住地。
我寄愁心與明月 われ愁心を寄せて明月に与ふれば
隨風直到夜郎西 風に随ってただちに到らん夜郎の西。

 龍標が夜郎の西にあると考へたのは思ひちがびであるが、夜郎に近い地と想像しただけで、他人事でも傷心したのが、今はわが身の上のこととなったのである。 従って李白の道中ははかどらず、その心事もまた暗かったことは、道中の詩によって明らかである。

 九江出発の時に作られた詩として知られてゐるものには、先にその一部を引いた妻の弟なる宋mにあてた詩「夜郎ニ竄サレ烏江ニ於テ宗十六mニ留別ス」があり、 また九江の諸官吏の送別宴後の作たる「夜郎ニ流サレ永華寺ニテ潯陽ノ群官ニ寄ス」がある。舟はますます西し、江夏(武昌)に至った。

 ここではしばらく留まった見えて、詩が多く、またこの地の諸官との交誼も知られる。まづ江夏のてまへ八十五里の西塞駅では、裴隠といふ者に詩を寄せてゐる。 江夏の興徳寺の南閣には長史の李某と薛某とに招待されて遊んであり、江夏とは揚子江をへだてた沔(ベン)州(漢陽)にも行って、 ここにゐた旧知の尚書郎張謂(チョウキ)らと城南の湖に遊び、張の請に応じて、この湖に郎官湖の名を与へてゐる。これが秋八月のことであったのは註でしられる。ところでこれより先に、 宰相張鎬がこれまた左遷されて、荊州(江陵)に来てゐたのが、使者をして李白に衣服と詩とを贈ってくれたので、李白は大いに感激して、五月五日に答詩を作って贈ってゐる。 してみると彼は流罪になったとはいひながら、江夏だけにも悠々と二三個月は留り得たのである。

 この間に相愛らず赦免の運動はしてゐたのであらうが、その許しは出ない。どうしても西に行かねばならないと、覚悟をきめて出発する。ここから江陵、宜昌を経て、 巴東(秭帰シキ)からはいよいよ四川省の地に入る。省境をすぎると、ここには巫山(フザン)があり、江は名高い三峡の険所をなしてゐる。「三峡ヲ上ル」、 「巴東自リ舟行シ瞿唐峡ヲ経テ巫山ノ最高峰ニ登リ晩ニ還リテ壁ニ題ス」の二詩はおそらくこの時の作であらう。さすがの天才も涙枯れ想尽きたと見えて、この頃の作に紹介したいものも見えない。

 張鎬が左遷されたのは、至徳三載が改元された乾元元年の五月のことであった。前のことを従ってこの年の事件とすると、この年には二月と四月と十一月との三回の大赦があった。 しかし李白が少くとも初めの二回には、その選から漏れたことには疑がない。この大赦に漏れたことと、その時の心境とは「夜郎ニ流サレ酺ヲ聞ケドモ預ラズ」こといふ詩によって知られる。 翌乾元二年三月になっては、洛陽が郭子儀らの率ゐる官軍によってとりかへされた。これより先、永王の謀叛と殆ど時を同じうして、安禄山がその子安慶緒に殺されたが、 この不孝の子もそれより二年後に、部下の史思明に殺されたので、官軍は賊中の内訌で、やすやすと長安、洛陽をとりかへしたのである。

 李白が運命いよいよ決して、瘴癘の地なる夜郎に赴くべく、巫山まで来て放免のしらせを聞いて雀躍(こをどり)したのは、おそらくこの時のことであらう。 彼に「夜郎ニ流サレ半道ニテ恩ヲ承ケテ放還サレ兼ネテ剋復之美ヲ欣ビ懐ヲ書シテ息秀才ニ示ス」と題する詩があることからこれが知られる。

黄口爲人羅 黄口は人に羅(あみ)せられ ※1くちばしの黄色い小雀。
白龍乃魚服 白龍はすなはち魚服す。 ※2白龍も魚服すれば人に苦しめられる。
得罪豈怨天 罪を得るもあに天を怨まんや
以愚陷網目 愚をもって網目(モウモク)に陥る。
鯨鯢未剪滅 鯨鯢(ゲイゲイ)いまだ剪滅(センメツ)せず
豺狼屢翻覆 豺狼(サイロウ)しばしば翻覆(ハンプク)す。 ※3豺狼の如き賊徒はあっちへついたりこっちへついたりする。
悲作楚地囚 楚地の囚となるを悲しむ
何日秦庭哭 いづれの日か秦庭に哭(コク)せん。 ※4申包胥の如く国を救ふために働けようか。
遭逢二明主 二明主に遭逢すれども
前後兩遷逐 前後ふたたび遷逐(センチク)さる。
去國愁夜郎 国を去って夜郎に愁ひ
投身竄荒谷 身を投じて荒谷に竄(なが)さる。
半道雪屯蒙 半道にして屯蒙(トンモウ)を雪(はら)ひ ※5艱難を払ひのけ。
曠如鳥出籠 曠(コウ)として鳥の籠を出づるがごとし。 ※6障害物がなくなって明らかとなった様。
遙欣尅復美 はるかに尅復(コクフク)の美を欣(よろこ)び ※7国難に勝って平常に復する。
光武安可同 光武もいづくんぞ同じうすべけん。 ※8英明なる後漢の光武帝も。
天子巡劍閣 天子 剣閣を巡(めぐ)り
儲皇守扶風 儲皇(チョコウ) 扶風を守る。 ※9太子。※10鳳翔郡。
揚袂正北辰 袂(たもと)を揚げて北辰を正し ※11北辰は天子の位。
開襟攬群雄 襟を開いて群雄を攬(と)る。 ※12手にとりもつ。
胡兵出月窟 胡兵 月窟を出で ※13根拠地なる長安を出て香積寺で戦ひ。
雷破關之東 雷破す関の東。 ※14函谷関の東では陜県の西で大破した。
左掃因右拂 左掃よりて右払
旋收洛陽宮 かへって収む洛陽宮。
廻輿入咸京 輿(ヨ)を廻(めぐ)らして咸京に入り
席卷六合通 席巻して六合(リクゴウ)通ず。 ※5片はしから巻きおさめて。※16六方。
叱咤開帝業 叱咤して帝業を開き
手成天地功 てづから天地の功を成す。
大駕還長安 大駕 長安に還り ※17天子のりもの。
兩日忽再中 両日たちまちにふたたび中す。 ※18玄宗と粛宗。
一朝讓寶位 一朝 宝位を譲り
劍璽傳無窮 剣璽(ケンジ) 無窮に伝ふ。
媿無秋毫力 媿(は)づ秋毫(シュウゴウ)の力なきを ※19微小なるもの。
誰念矍鑠翁 誰か念(おも)はん矍鑠(カクシャク)の翁。 ※20老いて勇健なる様。
弋者何所簒 弋者(ヨクシャ)なんの簒(うば)ふところぞ ※21いぐるみで鳥をとる者。
高飛仰冥鴻 高飛して冥鴻(メイコウ)を仰ぐ。 ※13大空をとぶ鴻を理想とする。
棄劍學丹砂 剣を棄てて丹砂(タンシャ)を学ぶ ※23不老長生の薬を作る法。
臨爐雙玉童 爐に臨む双玉童。
寄言息夫子 言を寄す息夫子(ソクフウシ)
歳晩陟方蓬 歳晩方蓬に陟(のぼ)らん。 ※24方丈、蓬莱の二仙山。

 自分の才と忠心とを理解しないで、讒言によって長安から去らしめた玄宗と、永王の軍に従ったことで流刑に処した粛宗とに対する恨みはあるが、 遠流赦免と両京回復の二つの喜びを兼ねた彼の心中は、ほぼこの詩によってうかがはれる。

 時すでに春の終りである。彼はおそらく長江下流へ還ることを志したであらう。すでに往路で、放還の時があれば、 そこでの生活を望んでゐたことが次の詩によって知られるからである。

憶秋浦桃花舊游時竄夜郎  秋浦の桃花の旧遊を憶ふ。時に夜郎に竄(なが)さる
桃花春水生 桃花 春水生じ
白石今出沒 白石いま出没す。
搖蕩女蘿枝 女蘿の枝を揺蕩し ※1ひかげのかづら。※2ふりうごかし。
半挂青天月 なかば青天の月を挂(か)く。
不知舊行徑 知らず旧行径
初拳幾枝蕨 はじめて幾枝の蕨(わらび)を拳(ケン)する。 ※3拳のかたちをしたわらびが出たか。
三載夜郎還 三載夜郎より還らば
于茲煉金骨 ここにおいて金骨を錬(ね)らん。 ※4仙人に化する術を学ばう。

 秋浦は乱の直前に盧山に赴く途中とどまったところであるが、ここで仙道を修行したいとの思ひが結句で見られるからである。
 名高い「早ニ百帝城ヲ発ス」の詩もこの放免の時のものとすると、東帰の喜びを兼ねて一層趣が深くならう。

朝辭白帝彩雲間 朝(あした)に辞す白帝 彩雲の間
千里江陵一日還 千里の江陵 一日にして還る。
兩岸猿聲啼不住 両岸の猿声 啼いて住(とど)まらざるに
輕舟已過萬重山 軽舟すでに過ぐ万重の山。

 江を上るときの思ひにくらべて、下りの舟の速かったのは水流のせゐのみではなかったのである。

 江陵での滞在はなかったかもしれないが、李白の姿はまもなく江夏(武昌)に現はれる。流罪の途中でもここでは長く滞在したのであるが、 今度は憚るところなく交遊をなし得たであらう。かくては揚子江下流への帰還は延引することとなったのも、やむを得ないことであった。

 ここを歌った詩は数多く見られる。前にも引いたここの太守韋良宰に贈った詩では、ともに黄鶴楼に上つたことが知られるし、またそのために作つた、 「天長節使鄂州ノ刺史韋公ノ徳政ノ碑」の文によって、玄宗の生誕の日なる八月五日にここにゐたことも知られる。「江夏使君叔ノ席上史郎中ニ贈ル」、 「史郎中ト飲ンデ黄鶴楼上笛ヲ吹クヲ聴ク」の詩によって、黄鶴楼の近くで宴したことも、一度二度ではないことが知られる。後者は李白の絶句の例にもれずいい詩である。

一爲遷客去長沙 一たび辺客となって長沙に去り ※1流された人。
西望長安不見家 西 長安を望めども家を見ず。
黄鶴樓中吹玉笛 黄鶴楼中 玉笛を吹く
江城五月落梅花 江城※2 五月 落梅花※3。 ※2武昌。※3笛の曲の名。

 漢陽の太守の王某と交遊の繁かったことも、これに贈った詩が四首あることで知られる。即ち「王漢陽ニ贈ル」「漢陽自リ酒ニ病ンデ帰リ王明府ニ寄ス」、 「早春王漢陽ニ寄ス」、「漢陽ノ柳色ヲ望ミ王宰ニ寄ス」の四篇がそれであるが、後の二首は題名の示す如く、漢陽の春をうたってゐるので、李白はここで越年し、 巫山での希望とちがって、直に秋浦方面へはゆかなかったやうである。しかもここでも例の如く、毎日飲酒で日を送ったことは、最後の詩に「連日壷觴ニ酔フ」の句のあることでも知られるが、 殊に第二の詩の題では、酒のために健康をそこねたことがわかるのに、本文では、

去歳左遷夜郎道 去歳は左遷さる夜郎の道
琉璃硯水長枯槁 琉璃(ルリ)の硯水(ケンスイ)ながく枯槁(ココウ)す。 ※1水がなくなる。
今年敕放巫山陽 今年 敕して放たる巫山の陽(みなみ)
蛟龍筆翰生輝光 蛟龍の筆翰 輝光を生ず。 ※2筆。
聖主還聽子虚賦 聖主また聴く子虚の賦(フ) ※3司馬相如の作。
相如卻與論文章 相如かへってともに文章を論ず。 
願掃鸚鵡洲 願はくは鸚鵡(オウム)の洲を掃(はら)ひ ※4武昌にあり。
與君醉百場 君と百場酔はん。 ※5あまたたび。
嘯起白雲飛七澤 嘯(うそぶ)けば白雲を起して七沢に飛び ※6楚の国の大沢。
歌吟淥水動三湘 歌へば淥水(ロクスイ)に吟じて三湘を動かす ※7清らかな水。※8湘潭、湘郷、湘源。
莫惜連船沽美酒 惜むなかれ連船もて美酒を沽(か)ふを
千金一擲買春芳 千金一擲して春芳を買はん。 ※9酒の名か。

 といって、まだ飲むっもりたので、李白の面目は相変らずだなと思はせる。

  「武昌ノ宰韓公ノ去思頌碑」の文は同じく武昌での作で、韓公とはかの韓愈(退之)の父仲卿である。ただしその作は安禄山の乱後であることに間違ひないが、巫山へゆく途中か、 帰路のことかははっきりしない。

 この頃、洞庭湖にも遊んでゐることは、「荊州ノ賊平ギ洞庭ニ臨ンデ懐ヲ言ヒテ作ル」、「九日巴陵ニ登リテ置酒シ洞庭ノ水軍ヲ望ム」の二篇で知られる。 荊州(江陵)の賊とは、この年八月に乱を起し、南楚の覇王と称した康楚元の部下張嘉延のことで、九月に荊州を陥れたが、十一月には官軍に平定された。 洞庭に集められた水軍もこれを伐つためだったのである。巴陵は今の岳陽にある丘。洞庭の水、秋の雲、堂々たる水軍を眺めたのは、おそらく岳陽楼からであったらう。 水軍のことをいはなくても洞庭の秋を歌ってゐる李白の詩の多くは、この時の作と見て誤りなからう。それらの中で最も好いのは次の一首である。

   秋登巴陵望洞庭  秋巴陵に登り洞庭を望む
清晨登巴陵 清晨 巴陵に登り
周覽無不極 周覧 極まらざるなし。
明湖映天光 明湖 天光に映じ
徹底見秋色 徹底して秋色見(あらは)る。 ※1底まで。
秋色何蒼然 秋色なんぞ蒼然たる
際海倶澄鮮 海に際(いた)るまですべて澄鮮。
山青滅遠樹 山青くして遠樹滅し
水獄ウ寒煙 水緑にして寒煙なし。
來帆出江中 来帆は江中より出で
去鳥向日邊 去鳥 日辺に向ふ。
風清長沙浦 風は清し長沙の浦
山空雲夢田 山は空(むな)し雲夢(ウンボウ)の田。 ※2洞庭湖の南北の沢地。
瞻光惜頽發 光を瞻(み)て頽髪(タイハツ)を惜み ※3禿げてゆく髪。
閲水悲徂年 水を閲(み)て徂年を悲しむ。 ※4すぎゆく年。
北渚既蕩漾 北渚(ホクショ)すでに蕩漾(トウヨウ) ※5波がうごく。
東流自潺湲 東流おのづから潺湲(センカン) ※6水の流れる様。
郢人唱白雪 郢人(エイひと) 白雪を唱(うた)ひ ※7俗曲を巧みにうたふ者。※8歌の名。
越女歌采蓮 越女 採蓮を歌ふ。 ※9浙江方面の女。※10歌の名。
聽此更腸斷 これを聴いてさらに腸(はらわた)断え
馮漉ワ如泉 (きし)に馮(よ)りて涙 泉のごとし。

 李白も既に老いたのである。明るい日光を見てはおのが頭髪を思ひ、逝く水を見てはすぎ去った年を思ふと歌ふところには、五十九歳の彼の年齢が現実感を伴ってゐて、 読者をもそぞろに悲しませる。

十三 晩年へ


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