(2007.02.13up / 2007.02.19update)
Back
たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944
十三 晩年 (付:あとがき)
李白が巫山で憧憬した揚子江下流の秋浦方面での静かな生活は、武昌での滞在と交友とで中中実現しなかったが、年号が上元と改まり、 李白も還暦の齢を越えた上元二年には、彼の姿はやっとこの方面に現れた。この時、山東にゐた子の伯禽をこの辺へ呼んだことは確かであるが、 九江で別れた妻のことは遂に詩にも文にも見えない。
後にその死所となった当塗が家居の地であったが、秋浦(貴池)、宣城、南陵等の安徽省内の諸地はもとより、金陵、揚州方面にも往来したことは間違ひない。
中でも宣城は李白の最も崇拝した詩人謝朓(シャチョウ)が刺史の任にあったところだから、度々ここヘ赴き、その詩に現はれる敬亭山、 その別荘のあった東田に足をとどめ、詩心をともにした。ただし李白がこの方面に来たのがはじめてでないことは、既に述べた如く明らかであるから、 李白の詩に多い宣城での作は、いづれがこの時期の作か定めがたい。
例へば「宣城ニテ杜鵑花ヲ見ル」は、この花を見て杜鵑(ほととぎす)の啼声を憶ひ、この鳥の多い蜀を懐ふ。蜀の思ひ出は少年時代のことであらうし、 その作もこの時のこととは定めがたいが、この頃またここでこの花を見て、思ひを新たにしたことは疑ひない。
蜀国曾聞子規鳥 蜀国かつて聞く子規鳥
宣城還見杜鵑花 宣城また見る杜鵑花(トケンカ)。
一叫一囘膓一断 一叫(キョウ) 一回 腸一断
三春三月憶三巴 三春 三月 三巴を憶ふ。
この詩が春の作であるのに対し、宣城での秋の吟としては、
觀胡人吹玉笛 胡人の笛を吹くを観る
胡人吹玉笛 胡人 玉笛を吹く
一半是秦聲 一半はこれ秦声。 ※1胡歌でなく秦(陜西)の曲である。
十月呉山曉 十月 呉山の暁
梅花落敬亭 梅花 敬亭に落つ。 ※2人が吹いたのは落梅花の曲だった。
愁聞出塞曲 愁へて出塞の曲を聞けば
涙滿逐臣纓 涙は満つ逐臣の纓(エイ)。 ※3冠のひも。
卻望長安道 かへって望む長安の道
空懷戀主情 むなしく懐(おも)ふ主を恋ふの情。
この詩は長安を逐はれてから、天宝十三載に宣城に来た時の作だらうと思ふが、このたびも敬亭山に上って、同じく玄宗のことを思って涙纓をうるほしただらうか。 李白はまだ知らなかったかもしれぬが、玄宗は上元元年に、睿宗との不和の中に長安で崩じてゐるのである。人変り、世移り、おのが齢のみいたづらに重ったのを念ふ悲しみは、 昔と変らぬ山川を見るとき、いよいよ深かったことと思ふ。
これと異り、秋浦での作の中、少くとも「秋浦歌」十七首はこの頃の作に違ひない。十七首を通じて表はされてゐる孤寂感は、特に老をうたふ詩に深く、 「李白老いたり」の感を強からしめるからである。その一はいふ、
秋浦長似秋 秋浦長(とこ)しへに秋に似たり
蕭條使人愁 蕭條(ショウジョウ) 人をして愁へしむ。 ※1さびしき様。
客愁不可度 客愁 度すべからず ※2たびのうれひ。※3済度する。
行上東大樓 行いて上る東大楼。
正西望長安 正西に長安を望み
下見江水流 下に江水の流るるを見る。
寄言向江水 言を寄せて江水に向ふ
汝意憶儂不 汝が意(こころ)われを憶ふやいなや。
遙傳一掬涙 はるかに一掬の涙を伝ふ ※4たなごころ一杯。
爲我達揚州 わがために揚州に達せよと。
得意の場たりし長安、青年時代思ひ出の多い揚州のいづれもが詩中に見えてゐるが、揚州に向って流れる長江への伝言は、 江水におとす一掬の涙を伝へよとのみである。その四は、
兩鬢入秋浦 両鬢(リョウビン) 秋浦に入れば
一朝颯已衰 一朝颯(サツ)としてすでに衰ふ。 ※1衰へた緑。
猿聲催白髪 猿声 白髪を催し
長短盡成絲 長短ことごとく糸を成す。
秋浦の地名からおのが人生の秋を連想して実感を交へずにはゐられなかったのである。中でもその十五は有名な、
白髪三千丈 白髪三千丈
縁愁似箇長 愁ひによってかくのごとく長し
不知明鏡裏 知らず明鏡の裏
何處得秋霜 いづこよりか秋霜を得たる。
の詩である。最初の「白髪三千丈」といふ句が誇大にすぎると考へる者もあらうが、鏡にうつるわが白髪を見た失意の李白自身は、 かう詠ふより外なかったといふであらう。
家を構へた当塗の風景は「姑熟十詠」に表はれてゐる。姑熟(コジュク)は当塗の古名である。ここを流れる姑熟渓、東にある丹陽湖を題としての作が、 この中にあるが、後に李白の墓所となった青山の謝朓の家の址をたづねての「謝公宅」が特に佳い。
青山日將暝 青山 日まさに暝(く)れんとす
寂寞謝公宅 寂寞(セキバク)たり謝公の宅。
竹裏無人聲 竹裏 人声なく
池中虚月白 池中 虚月白し。 ※1池に映った月
荒庭衰草徧 荒庭には衰草徧(あまね)く
廢井蒼苔積 廃井には蒼苔積(つも)る。
惟有清風[間] ただ清風の閑かなるあり
時時起泉石 時時 泉石に起る。
当塗の北には黄山があり、山上の陵歊台(リョウケイダイ)は宋の武帝の離宮の址、桓公井は城東にあって桓温の遺蹟である。みな十詠の中に入るが、 「陵歊台」はとりわけ佳作である。
曠望登古臺 曠望に古台に登れば ※1とほく眺めようと。
臺高極人目 台高くして人目を極む。
疊嶂列遠空 畳嶂(ジョウショウ) 遠空に列り ※2重った峰。
雜花間平陸 雑花 平陸に間(まじ)はる。 ※3いろいろの花。※4平地。
[間]雲入窓牖 閑雲 窓牖(サイソウ)に入り ※5まど。
野翠生松竹 野翠 松竹に生ず。
欲覽碑上文 碑上の文を覧(み)んと欲するも
苔侵豈堪讀 苔侵してあに読むに堪へん。
晩年のしづかな心境がよく表はれてゐて、かっての日の作とは別人の看がある。剣を学び、揚州に三十余万金を投じた放蕩無頼の青少年時代、 天子の召に応じながら酒気を帯びて入内し一気呵成に詩を草した壮年時代と異り、老年の李白は閑寂である。
当塗の北には望夫山がある。松浦佐用姫の伝説と同じく、旅に出て帰らぬ夫を待ち望んで石になった女の伝説をもつ山である。閨怨を歌ふことを好んだ李白は、 ここでも感興を起したのではあるが、同じ趣を歌ひながらも、昔の作とくらべると静かである。
望夫山
顒望臨碧空 顒望(キョウボウ) 碧空に臨み ※1仰いで見て。
怨情感離別 怨情 離別を感ず。
江草不知愁 江草 愁ひを知らず
巖花但爭發 巌花 ただ争って発(ひら)く。
雲山萬重隔 雲山 万重隔たり
音信千里絶 音信 千里絶ゆ。
春去秋復來 春去り秋また来る
相思幾時歇 相思幾時か歇(や)まん。
李白がかくも老いながら、死と死後とを歌はないのは、中国人の通性による。詩や文に限らず、会話でも一切不吉なことを表現するのを好まないのだから、これは当然なのだが、 ひるがへって考へると不老不死、化仙、長寿などの観念が、人間の死なねばならないといふことを前提として生れ出たものである。してみれば、 李白の晩年の作に見られる白髪の詩も悲しいものといはねばなるまい。
李白の死は、粛宗が崩じ、その子代宗が即位した宝応元年の十一月、当塗でのことであった。
李陽冰によると、危篤になった時、草稿一万巻を枕辺にゐた彼にわたし、序を作って刊行するやうに頼んだといふ。李華の墓誌によると、臨終の辞を作ったといふ。 しかし万巻の草稿はいま千篇足らずとなり、臨終の辞も伝はらない(「臨路歌」といふ題で残ってゐるのがそれだとの説もある)。
李白の死に関しては、彼にふさはしい伝説が古くからある。それは周知の如く、李白が江上で酔ひ、釆石磯に至って、水にうつる月影をとらへようとして、水中に陥り、 溺れたのだといふのである。「旧唐書」には飲酒過度のためとある。いづれも存しておく方が似つかはしいであらう。
ただ哀れなのはその子孫のことである。李白が死した時、その屍は当塗の東南の青山に葬られたが、その墓誌は詩人李華によって記された。これを見ると、
「子有リ、伯禽トイフ。天然長ジテ能ク持シ、幼クシテ能ク弁ジ、公ノ徳ヲ数梯ス。必ズマサニソノ名ヲ大ニセン」
といってゐる。しかし范伝正の墓碑銘序文によると、彼はその父范倫が李白と潯陽で夜宴をしてともに詩を作った縁もあり、李白の詩をも愛してゐたから、 この地方の観察使に任ぜられて赴任すると、直ちにその墓を訪ねた。さうして墓辺の樹木の樵採を禁じ、墓碑を清掃する一方李白の子孫を探したが、三四年たって、 やっと孫女二人のゐることが判明した。一人は陳雲といふ者の妻、一人は劉歓の妻であるが、ともに夫はただの農民である。郡の役所に召して会ったところが、 衣服も飾らずかたちも朴野である。ただ振舞のみは閑雅で、応対もはきはきしてゐた。聞けば、父の伯禽は、李白の死後三十年の貞元八年に、官吏にもならないで死んだ。 兄が一人ゐたが、旅に出てから十二年、今では行方不明である。父兄ともにゐないので困窮し、やむを得ずして農夫に嫁いだ。さやうなわけで役所からの調査があった時にも、 父祖の恥になると思って隠してゐたが、このごろ皆から強ひられるので、恥を忍んで参った、といひ、いひ終って泣くのを見、范伝正自身も泫然とした。聞けば、 李白は謝朓にゆかりのある青山に葬ってほしいといったが、それも思ふ通りにゆかず龍山の東麓に葬った。墳の高さ三尺、次第に盛土が崩れて来る、といふ。 范伝正はこれをあはれんで、下僚の当塗の県令で、これも詩の好きな諸葛縦に命じて、新墓を青山の南に造った。これが元和十二年の正月二十三日で、 旧墳を西に去ること六支里であったといふ。
これによると、李華の碑文に最初から青山に葬ったやうにあるのと矛盾するが、范伝正の父は李華とも親しかったといひ、嘘をいふ必要があったとも思はれないので、 いづれを是とも定められない。
范伝正はまたこの二人の孫女を、士族に改嫁させようとしたが、いづれも夫婦の道は天命であり天分だといってこれを肯んじないので、 ただその税と傜役とを免じるにとどめたといってゐる。李白の死後五十五年目のことである。
これよりまた二十数年後の会昌三年に、范伝正と同じことをしたのが裴敬である。彼もこの二孫女に会ってゐるが、既に墓を拝しないこと五六年といってをり、 税役もまた復せられてゐたとみえ、裴敬が再び時の当塗県令の李都傑にいって、これを免除せしめてゐる。この少し前、唐の文宗皇帝自らが、唐の三つのすぐれたものとして、 李白の詩歌と裴敬の曾叔祖なる裴旻の剣舞と張旭の草書とをあげてゐるのである。李白の名はいよいよ高く、かやうに多少の縁故でわざわざ墓を訪ねて来る者さへあるのに、 五六年もの長い間、墓の掃除もしない孫女とは、不肖の子孫といはねばなるまい。しかし詩酒の人にとっては、かへってこの方が似つかはしいといへないこともない。
中国は革命の国である。王朝を易(か)へること数十、革命に当っては、君主の子孫をも留めないのが普通である。詩人李白の子孫と称するものが現在ゐないのは当然であるが、 考へてみると詩人が子孫をのこさないのは、あながち中国のみとは限らない。李白の没後千年、いまもなほその詩を愛する者の絶えないことを知ったら、 彼も以て瞑するに足るといふことだらう。
初版(日本評論社1944.4.21)あとがき
この本を書くやうにとの話を受けたのは昭和十六年の五月、書きはじめたのが十一月も終りに近い頃だったか。米英の圧迫に国民すべてが憤激してゐる時だったので、 筆をとりながらも考へることが多かった。その中に宣戦の御詔勅の煥発で、私の心は一層戦争の方へ傾いてしまったが、年も明けて十七年の正月には私自身が思ひがけずも南方に従軍を命ぜられ、 書きかけた原稿はそのままにして、日本刀を持ち軍装をして出発した。ただ予想と異り、私の任地はすでに戦闘の終了してゐた昭南とスマトラで、持参の刀には用なく、 任務は筆を執ることのみ、従って本を読む暇もあった。殊に昭南とスマトラのメダンはともに華僑勢力の中心地で、彼等との応対には、支那学の必要も感ずることが多かった。 そんなわけで昭南のサウスブリッヂ路で書肆に入って、李太白全集を偶然見つけて購ったりするなどのこともあった。
幸ひに帰還した後、出発前のままに残されてゐた原稿を読みかへして、その不十分なのには憤ろほしく思ったが、従軍中に痛感した支那民族の理解の一助にもなるならばと、 書き改め得る限りは改めてこれを梓に上す。最後ながら参考書や忠言で助けてくれた小山正孝、小高根太郎、竹内好の三友、ならびに日本評論社の赤羽尚志氏に対する感謝を述べさしていただく。
昭和十八年十月
田中克己
再版(元々社1954.7.10)あとがき
この本は昭和十六年の五月に、日本評論社の社員だった赤羽尚志君が訪ねて来て、「東洋思想叢書」の一冊として李太白を書くやうにといったので出来た。同君は詩、 小説、歴史、評論と、何でも来いの器用な人で、前から名を知ってゐたが、私が引受けたのは、杜甫なら書く人はあるが、李白は他に書く人がない、といふ同君の言にうまうまと引っかかったのである。 ひと通り調べて筆をとりだすとすぐ大東亜戦争の勃発、またすぐに私は報道班員として徴用され、シンガポールやスマトラへ行ったので、いよいよ仕事がおくれ、本になったのは、 内地に空襲がそろそろ始まる昭和十九年の四月であった。
出来上ったあと評判が良く、恩師和田清先生にはおほめにあづかるとともに、誤った箇所も指摘していただいた。売切れたとかで再版の交渉を受け、承諾してすぐ召集を受け、 華北で私が二等兵となってゐる間に、内地は出版どころではなくなった。終戦後、幸ひ復員帰国して出版社を訪ねたが、戦争中の約束などもうどこへやら、再版などとは、 といふ顔をされた。尤も世の中も中国への関心はすっかりなくなり、アメリカ一辺倒だったのである。
しかし私としては好きな本の一つだし、このごろ人からもほしがられるので、齋藤晌、淺野晃の二先輩のお言葉に甘へ、最少限度の訂正をして出してもらふこととした。 初版のとき参考書や忠言で助けてくれた小山正孝、小高根太郎、竹内好の三友とも住地を別にしてめったに逢へない。この機会に重ねてお礼をいっておく。 なほ清書の一部は小野和子君が手伝ってくれた。これもありがたいと思ふ。
【参考】 『蘇東坡』(研文出版1983.3.1)あとがき
山本敬太郎氏は古くからわたしの知己である。戦争の末期、『東洋思想叢書』というのを日本評論杜で計画し、編集の一人には戦後、共産党と名乗りをあげ、 党の幹部の一人であった筆名赤木健介氏がいて、この人が昭和十六年、陋居を訪れ、叢書の計画を説明して、わたしには李太白をというのであった。 同氏の「杜甫なら書く人は山ほどあるが、李白はありません」という言葉にわたしはうまうまと乗せられたのである。
当時わたしは三十歳はすぎたが、まだ働き盛りで、岩波文庫の漆山又四郎選『李太白詩集』と久保天随『李太白詩集』上・中・下(続国訳漢文大成本)、森槐南『李詩講義』(文会堂刊)しかなく、 これらは李白を愛せしめる書とは思えなかったので、宿題にしている内に文士徴用、わたしも詩人のはしくれということで、マラヤ軍に徴用されたが、皇軍の本領を見聞きして吃驚、 そのことを述べようと帰還すると、情報部長談話で「このごろ外地から帰り無用の“実状”と称する談話をする者があるが云々」とラジオで報が入った。その前日、 陸海軍の参謀(私服)二人のいるところで、わたしはマラヤ・スマトラの軍政について実況を話したばかりで、わたしは軍は軍部以外の意見を聞く耳をもたないと直感した。 従って中国を知らすために全力をそそごうと李白研究には熱が入り、昭和十八年、島々の全滅つづく中を、大陸はまだと筆を執り、年末には完成、翌年四月には店頭に並べた。 忽ち売切れとなった様子であるが、うれしかったのは、差入れを許された獄中の共産党の某氏が「この本は面白い」と愛読したことと、 たまたま店頭を訪れたわたしに「あの叢書では武田泰淳さんの『司馬遷』とあなたの『李太白』とが双壁ですね」と評された山本書店主山本敬太郎さんのかざりけないおことばとで、 わたしはここに知己がいたかと喜んだ。
長々とかいたが、同叢書の竹内好の『魯迅』は出征を覚悟しての早書きで未完のものだし、その他の老大家の御著作は、わたしは不遜にもこの非常時に何を考えての御仕事か、 と首をかしげさす態の物が多かった。武田泰淳君とは竹内を通じての知りあいであったから、さもありなんと思った。
その山本さんから「蘇東坡を書け」とのお話があったのは、三年前の夏休み直前だったか。わたしはこの保守反動と悪名高い詩人を、どうしてわたしにお書かしになるかと一応不審には思ったが、 『祖国』という京都刊の地方雑誌に蘇東坡の伝記を三回にわたってかき(昭和二十八年〜二十九年)、ついで大阪の女子短大の学報に「海南島の蘇東坡こというつづきを載せ(昭和二十九年)、 岩波書店の中国詩人選集の『蘇東坡』の挿みこみペーパーに「蘇東坡の妹」について書いたなどの前歴を思い出し、この際この詩人との関係に結着をつける決心をし、参考書を集め出した。 一応、手に入る限りは集めたが、林語堂の評伝が一等面白かった。他の本はまあまあ。気になったのはやはり保守反動、王安石の富国強兵への新政策に反対し、国論を二つに分け、 党争の結果が彼の死後すぐに徽宗・欽宗の二帝の東北への流謫という中国史上でも比類を見ぬ悲劇を来たした(明の崇禎帝の北京の煤山での自殺はやはり悲劇であるが、 二帝の流謫と最後は時間的に長いだけ悲痛である。小説『宣和遺事』は従って読者をして読むにたえざらしめる)。
とまれ王安石(東坡の文学と政治二方面での好敵手)の評判は宮崎市定先生をはじめ史学者で高く買う人が多いが、東坡に関しては、詩人としてはともかく、 その主義主張は保守反動と感じる向ぎが多いかと思う。新・旧両党の党争は主義よりも党争そのものと化し、遼・金などへの対外策は全く軽視されたきらいはあるが、 孔子・老子も兵法・法制・軍事行動など現実の面では全く無力だった点わたしは同感である。恕していただければというのが、華北派遣至武兵団元陸軍一等兵のわたしの願いである。 そう腹がきまるまで、この伝記はなかなかに書きづらかった。そのため足かけ三年にわたった期間、黙って待って下さった研文出版の御一同にも感謝して筆を擱く。
(研文出版の許可を得て載録させて頂きました。ありがたうございました。)
付記
テキスト化に当っては再版を定本としたほか、原詩以外は漢字を新しく、また漢音ルビと促音便についても現代かな遣ひにあらためた。(中嶋康博)