(2007.02.13up)
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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944


十 茫々走胡兵

 天宝十四載十一月、唐の都なる長安には平盧、范陽、河東の三節度使を兼ね、東平郡王の爵を賜ってゐる東北の軍閥安禄山の謀叛の報が達した。

 安禄山はイラン系の父とトルコ系の母をもつ混血の蛮人で、営州(いま熱河省朝陽)の辺に住んでゐたが、范陽の節度使の張守珪にその叡智と勇敢とを愛されて養子となり、 開元の中頃よりは唐軍の副将となり、二十九年には范陽の節度使に任ぜられ、爾後しきりに官を加へられたものである。

 体躯肥大、見るからに愛矯があり、加ふるに巧言を以てしたから、高力士、李林甫とも善く玄宗の親任は極めて厚かった。楊貴妃に対しても注意を怠らず、 これに乞うて養子たらんことを求め許された。天宝六載以来、御史大夫の官を加へられ、長安の親仁坊に宅を賜ひ、ここに妻子を置いて他意なきを示し、任地にあっては私兵を養ひ、 商賈を各地に派して私富を積んでゐたが、漸く驕慢となり、異心を蓄へるに至った。特に彼は李林甫の後を嗣いで宰相となった楊国忠、及び西北方にあって同じく巨兵を擁してゐた哥舒翰と善からず、 これらとの軋轢が益々叛志を助長さして、この挙となったものである。彼の兼ね任じてゐる三節度使の兵はすべてで十二万、これに私兵を加へて総兵数二十万と号し、しかも永年、 これを私養した情誼はその軍をして父子軍と呼ばしめる程であり、量、質ともに侮り難い。加ふるに軍中には多くの漢人の幕僚がゐてこれに策を授ける。部将は概ね蛮人の出身で驍勇、 他に比を見ない。これに対する官軍は如何にといふに、開元以来の太平は兵制の弛緩となり、兵はあっても武器なく訓練なき、無力の少兵が各地に駐してゐるにすぎず、 特に長安の禁衛軍の如きは、数は多くとも将は華冑の子弟、卒はおほむね無頼の徒であって、歌舞に長じても戦ふすべを知らない。従って朝廷の恃むはただ哥舒翰、高仙芝、封常清、 李光弼、郭子儀等の西北軍閥のみであった。

 安禄山はこれらの西北軍の到着以前に、既に河北の諸地を破竹の勢で席捲した。その祖考の墓に謁して南に発したのは十一月九日であるが、 づ太原の尹なる楊光翽(カイ)を博陵郡(河北省定県)に捕へて殺し、鉅鹿(キョロク)郡(河北省順徳)を経て、霊昌郡(河南省滑県)を陥れて、黄河を渡ったのが、十二月二日であり、 この間、直線距離にして五百粁、その進軍の速度は驚異的であったといはねばならぬ。尋いで六日には陳留郡(河南省)を陥れ、八日、滎陽(ケイヨウ)を経て、洛陽に迫ったが、 この時はじめて東に派道された官軍の封常清の軍と遭遇し、十一日成皐(セイコウ)(氾水シスイ西北)の甖(オウ)子谷でこれを撃滅し、翌十二日には早くも広の東都洛陽を陥れたのである。

 洛陽を陥れた後は賊軍の進行は止った。これはその市の富裕に喜び、またここを擁して江南の物資供給の途を絶てば、長安の死命はゐながらにして制し得ると考へたからでもあらうが、 また賊軍の背後に不安が生じたことにもよる。

 はじめ安禄山が叛するや、その報は七日にして華清宮にあった皇帝に届いたが、諸臣の愕然として色を失ふ中に、楊国忠のみは得々として、賊軍の亡びんこと日睫の間に在りといひ、 玄宗も頷(うなづ)いたといふ。然るに河北の諸城の戦はずして賊手に陥るの報の聞ゆるや、玄宗は嘆じて「河北二十四郡、曽って一人の義士なきや」といった。 これに答ふる如く勇敢に義旗を翻したのは平原(山東省)の太守顔真卿であり、次いではその従兄常山(河北省正定)の太守顔杲(コウ)卿であった。 何れも賊軍とその根拠地との聯絡を断つに足る要地である。そのため賊軍は一部を割いて後方に備へざるを得なくなったのである。

 安禄山ははじめ叛する時、君側の姦楊国忠を除くといふことを旗幟としたが、洛陽に入るや、その叛志を明らかにし、天宝十五載正月元旦、帝位に即き、国を大燕と号し、 年号を聖武と定めた。これに対し、広の朝廷は哥舒翰をして二十一万六干の蛮漢軍を率ゐて洛陽を襲はしめ、李光弼、郭子儀をして山西方面より、李随等をして山東方面より、 各々賊軍の背後を扼せしめて、これを包囲殲滅せんとする策をたてた。然るに哥舒翰は大兵を擁したま潼関に留って進まず、朝廷から度々決戦を促されて、 この年六月八日関を出でて霊宝(河南省)の西原で賊軍と合戦するや、大敗して関内に入った。その翌九日、その部将火抜帰仁は哥舒翰を捕へて安禄山に降り、ここに長安の防禦線は潰滅した。

ここに於いて玄宗は十一日長安退去を議し、翌日四川への巡狩の途に上った。賊軍はこの後を追うて十七日長安に入り、残留した皇族、貴紳をはじめ一般人民の家を掠奪し、 至るところ殺戮を行った。これによって花の如き大都長安は忽ち胡兵の住家となったが、更に悲惨であつたのは、西狩の玄宗の一行であった。

 帝が長安を発した日は恰も一行の心中を象徴する如く細雨が降ってゐたが、その日まひるに至っても御鐉は供せられず、百姓のささげた麨(むぎこがし)によって餓をしのぐ有様であつた。 この日の宿りは望賢宮である。明けて翌十三日朝、馬嵬坡(バカイハ)に駐するや、諸軍は騒擾して進まない。龍武大将軍陳玄礼の奏上で、国を誤った宰相楊国忠を殺したが、諸軍はなほ不平の色を収めぬ。 陳玄礼はまた乞うて、乱本を除かんといふ。玄宗は止むなく高力士に帛を賜ひ、楊貴妃を縊(くび)らせた。時に妃は齢三十八歳、帝はただ涙にくれるのみであった。

 翌十四日、一行は馬嵬駅を発したが、百姓たちは路を遮って皇太子の留らんことを乞ひ、帝はまたこれを許さざるを得なかった。昨日は愛妃に、今日は愛子に、 生別死別の差こそあれ、帝の心中は察するに余りある。翌十五日より十七日までは扶風県に止り、十八日ここを発して、陳倉(陝西省宝鶏)、散関(同西南五十支里)、 河池郡(陳西省鳳県)、益昌県(四川省広元)、普安郡(四川省剣閣県)、巴西郡(四川省綿陽)を経て七月十日、蜀の成都に着く。この間、李白が嘗って歌った蜀道の難は、 さらでだに打ちしめり勝の一行を一しほ苦しめたことであらう。

 かかる大事件は江南にも逸早く伝った。李白のゐた宣城に伝ったのは遅くとも一ヶ月を出でなかったであらう。この時、李白は宣城より旧遊の地、剡溪に赴かんとし、 宣城の太守に詩を贈った。「乱ヲ経タルノ後将ニ地ヲ剡中ニ避ケントシ留メテ崔宣城ニ贈ル」といふ詩がそれである。

雙鵝飛洛陽 双鵝 洛陽に飛び  ※1晋の孝懐帝の時、二羽の鵝があらはれ国が乱れる前兆となった。
五馬渡江徼 五馬※2 江徼(コウキョウ※3)を渡る ※2晋の太安中の童謡に五馬游渡江云々、その後五王江南にのがれた。※3国境である揚子江。
何意上東門 なんぞ意(おも)はん上東門 ※4洛陽の門。
胡雛更長嘯 胡雛(コスウ※5)さらに長嘯せんとは。 ※5石勒。
中原走豺虎 中原 豺虎を走らせ
烈火焚宗廟 烈火 宗廟を焚く。
太白晝經天 太白 昼 天を経(わた)り ※6革命の兆、太白は金星。
頽陽掩餘照 頽陽 余照を掩(おほ)ふ。 ※7夕日。※8名残りの光さへもなくなった。
王城皆蕩覆 王城みな蕩覆し ※9ふるひうごきひっくりかへり。
世路成奔峭 世路 奔峭となる。 ※10さかしく。
四海望長安 四海 長安を望み
嚬眉寡西笑 眉を嚬(ひそ)めて西笑寡(すくな)し。 ※11もとは長安を楽しいところといって西の方をむいて笑ったが。
蒼生疑落葉 蒼生 落葉と疑ひ
白骨空相吊 白骨むなしくあひ弔ふ。
連兵似雪山 兵を連ねて雪山に似たり
破敵誰能料 敵を破ることたれかよく料(はか)らん。
我垂北溟翼 われ北溟の翼を垂れ ※12北海の鵬の図南のつばさ。
且學南山豹 しばらく南山の豹を学ぶ。 ※13霧雨の中に隠れて毛の紋を作ると。
崔子賢主人 崔子は賢主人
歡媒毎相召 歓媒つねにあひ召す。
胡牀紫玉笛 胡牀 紫玉の笛
卻坐青雲叫 かへって青雲に坐して叫ぶ。
楊花滿州城 楊花 州城に満ち
置酒同臨眺 酒を置いてともに臨眺す。
忽思剡溪去 ただちまち剡溪に去るを思ふ
水石遠清妙 水石 遠く清妙なり。
雪晝天地明 雲昼 天地明らかに
風開湖山貌 風は湖山の貌を開く。 悶為洛生詠 悶えて洛生の詠をなし ※14洛陽の書生の詠音重濁と。
醉發呉越調 酔うて呉越の調を発す。
赤霞動金光 赤霞 金光を動かし
日足森海嶠 日足 海嶠に森たり ※15海と山。
獨散萬古意 ひとり万古の意を散じ
閑垂一溪釣 閑(しづか)に一渓の釣を垂る。
猿近天上啼 猿は天上に近づいて啼き
人移月邊棹 人は月辺に移って棹(さをさ)す。
無以墨綬苦 墨綬(ボクジュ)の苦をもって ※16県令のしるし。
來求丹砂要 来りて丹砂の要を求むるなかれ。 ※17丹砂から不老長生の薬を作る要訣。
華發長折腰 華髪 長く腰を折らば ※18白髪。
將貽陶公誚 まさに陶公の誚(そしり)を貽(のこ)さんとす。 ※19陶淵明。

 この詩は「王城皆蕩覆」といってゐるから、長安陥落後のものと思はれるが、賊軍の猖獗は江南にも大恐慌を捲き起したのであらう。 この詩の前半は賊手に陥った人民の苦痛をいひ、官軍のなすすべを知らぬことをいってをり、後半では剡溪の様子を敍して、 陶淵明の如く辞職せよといって崔太守をもここへ誘ふ気配が見える。また「古風」の第十九の、

西上蓮花山 西 蓮花山に上れば ※1華山。
迢迢見明星 迢迢(チョウチョウ)として明星を見る。 ※2はるかに。※3明星天女。
素手把芙蓉 素手 芙蓉を把(と)り ※4蓮花。
虚歩躡太清 虚歩して太清※6を躡(ふ)む。 ※5空をふんで。※6大空。
霓裳曳廣帶 霓裳(ゲイショウ※7) 広帯を曳き ※7にじの衣裳。
飄拂昇天行 飄払 天に昇りて行く。 ※8風の吹くさま。
邀我登雲臺 われを邀(むか)へて雲台※9に登り ※9華山の東北の峰。
高揖衛叔卿 高く揖(ユウ)す衛叔卿。 ※10神仙の名。
恍恍與之去 恍恍としてこれとともに去り ※11うっとりして。
駕鴻淩紫冥 鴻に駕(の)りて紫冥※12を凌(しの)ぐ。 ※12青空。
俯視洛陽川 俯して洛陽川を視れば ※13洛陽地方。
茫茫走胡兵 茫茫として胡兵を走らす。 ※14広々としてく。
流血塗野草 流血 野草に塗(まみ)れ
豺狼盡冠纓 豺狼 ことごとく冠纓(カンエイ)。 ※15冠とそのひも、豺狼の如き奴原がみな官吏の服をつけてゐる。

といふ詩はこれに先だち、長安陥落前の、安禄山が洛陽で帝を称し、百官を任命した直後の作であらう。いづれも悲痛の気には満ちてゐるが、官職もなければ、 実カもなく、地方官の寄食者たる詩人に対しては、これらの詩に慷慨の気が薄いといって責めてやるのは苛酷なことのやうに思ふ。

李白がこの時、実際に剡溪まで行ったかどうかは不明である。たとへ赴いたとしても、そこに留まってゐた期間は極く短かかったに違ひない。 ともかく宣城から剡溪に赴くには杭州、紹興を過る。紹興は古への越の都である。有名な「越中覧古」の詩に溢れた亡国を嘆く趣は、製作をこの時とすれば一層深まる。

越王句踐破呉歸 越主勾践(コウセン) 呉を破って帰る
義士還家盡錦衣 義士 家に還ってことごとく錦衣す。
宮女如花滿春殿 宮女 花のごとく春殿に満ちしが
只今惟有鷓鴣飛 ただ今ただ鷓鴣(シャコ)の飛ぶあるのみ。

剡溪より李白は再び金陵に赴いた。「越中覧古」の姉妹作なる「蘇台覧古」は必ず同時の作である。

舊苑荒臺楊柳新 旧苑荒台 楊柳あらたなり
菱歌清唱不勝春 菱歌の清唱に春に勝(た)へず。
只今惟有西江月 ただ今ただあり西江の月
曾照呉王宮裏人 かって照す呉王宮裏の人。

何れも絶唱であるが、前者では前三句で昔を云ひ、後者では前三句で現状をいひ、いづれも緒句で反対の意味をいって、巧みな結束をなしてゐる点に興味がある。

金陵でも李白は永く留まらず、その地の諸官に別れを告げて江を遡った。行先は盧山である。「金陵ノ諸公ニ留別ス」、「金陵白下亭ニテ留別ス」、 「金陵ノ酒肆ニテ留別ス」の三首はこの時の作かとも思はれるが、或ひは李白が前に金陵を去って宣城に赴いた時が、盧山へ行くつもりであったかとも思はれるので、確かにはしがたい。

盧山は周知の如く江西省の九江の南に聳える名山で、北は揚子江に臨み、南は鄱陽(ハヨウ)湖に影を映し、奇峰多く、天下の絶景をなしてゐる。 太白がここに来ったのは必ずしもこれが最初ではないやうである。それゆゑ有名な、

望廬山瀑布其二  盧山の瀑布を望むその二
日照香爐生紫煙 日は香爐※1を照して紫煙を生じ ※1盧山の香爐峰。
遙看瀑布挂前川 はるかに看る瀑布の前川を挂(か)くるを。
飛流直下三千尺 飛流 直下三干尺
疑是銀河落九天 疑ふらくはこれ銀河の九天より落つるかと。

の絶句や「廬山ノ五老峰ヲ望ム」、「盧山ノ東林寺ノ夜懐」等の詩はこの時の作と断ずることは出来ない。

但し李白に「内ガ盧山ノ女道士ノ李騰空ヲ尋ヌルヲ送ル」(二首)といふ詩があって、彼の妻が盧山に住んでゐる李騰空といふ女道士を尋ねるのを送る詩であるが、 この李騰空といふのは、かの宰相李林甫の女で、盧山の屏風畳の北に住んでゐたのである。これを訪ねた妻といふのは、李白の四人の妻の中いづれかといふと、 この詩の中に「多トス君ガ相門ノ女ニシテ」といって、宰相の女であることをいってゐるから、許氏(圉師の孫女)か宗氏(楚客の女)のどれかに違ひないが、 久保博士(「続国訳漢文大成李太白詩集下」701頁)は許氏と解してゐられる。私見ではこの訪問はただの訪問ではなく道門に入らんがためであり、従ってはじめの 妻である許氏と見るよりも、宗氏のことであるとしたい。宗氏は前述の如く安禄山の前後には開封にゐて李白に便りをしてゐるのであるが、後には南昌のあたりにゐたやうであるから(後述)、 この時、盧山へ来たとしても不思議でなく、その入山も安禄山の乱からの避難として額かれるのである。

李白自身も妻をここに送った後に同じく李騰空を頼って避難して来たのである。それは「王判官ニ贈ル。時ニ余帰隠シテ盧山屏風畳ニ居ル」といふ詩によって知られる。 屏風畳は盧山の五老峰の下にあり、前述の如く李騰空の居住したところだからである。この詩も、李白の心中を窺ひ得て面白い。

昔別黄鶴樓 むかし黄鶴楼に別れ ※1武昌にあり。
蹉跎淮海秋 蹉跎(サタ※2)たり淮海(ワイカイ※3)の秋。 ※2志を得ぬ様。※3唐の揚州の古称。
倶飄零落葉 ともに零落の葉を飄(ひるがへ)
各散洞庭流 おのおの洞庭の流に散ず。
中年不相見 中年あひ見(まみ)えず
蹭蹬遊呉越 蹭蹬(ソウトウ) 呉越に遊ぶ。 ※4道に疲れた様。
何處我思君 何の処かわれ君を思ふ
天臺榊f月 天台 緑蘿(リョクラ)の月。 ※5天台山。
會稽風月好 会稽 風月好し
卻繞剡溪廻 かへって剡溪(エンケイ)を繞(めぐ)って廻(かへ)る。
雲山海上出 雲山 海上に出で
人物鏡中來 人物 鏡中に来る。 ※6人のすがたは鏡のやうな湖水にうって来る。
一度浙江北 一たび浙江を度(わた)りて北し ※7銭塘江。
十年醉楚臺 十年 楚台に酔ふ。 ※8昔の楚の地の諸台。
荊門倒屈宋 荊門に屈宋を倒し ※9荊州。※10荊州生れの屈原・宋玉などの詩人。
梁苑傾鄒枚 梁苑には鄒枚を傾く。 ※11梁の孝王の食客だった鄒陽、枚乗。
苦笑我夸誕 苦笑すわが誇誕(コタン)※12大言や虚言。
知音安在哉 知音(チイン)いづくにありや。 ※13知己。
大盜割鴻溝 大盗※14 鴻溝※15を割(さ)く ※14安禄山。※15項羽と劉邦とが鴻溝を界として天下を二分したごとく、地を分けた。
如風掃秋葉 風の秋葉を掃ふがごとし。
吾非濟代人 われは代を済(すく)ふの人にはあらず
且隱屏風疊 しばらく屏風畳に隠る。
中夜天中望 中夜 天中を望み
憶君思見君 君を憶うて君を見んことを思ふ。
明朝拂衣去 明朝 衣を払って去り
永與海鷗群 永く海鴎と群せん。

 この詩の中の「吾ハ代ヲ済フノ人ニ非ズ」といふ句に、李白が自身の無力を嘆く気持と、しかもこのままではゐたくないといふ気持とが見られる。一度機会にして来らんか、 彼とても己れの一身の安泰のみをこひねがひ、山中にゐて世人の苦難を無視してゐる境地に甘んずる者でないことが、この詩によって知られるのである。

 果して李白が盧山にゐる中にその機会は到来した。かくて彼の波瀾多き生涯は一層多彩となったのであるが、同時に彼はこのため汚名を蒙って遂に流罪の憂目にも遭ふのである。

十一 水軍へ


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