(2007.02.13up)
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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944


十一 水軍

 はじめ玄宗が長安より四川へ蒙塵するや、途中、皇太子をして後に残らしめた。皇太子は途を別にして霊武方面に赴き、ここで群臣の推戴(スイタイ)を受けて皇帝の位に即き、 玄宗を上皇と崇(あが)めることとした。これが粛宗であるが、この挙が玄宗との諒解なくして行はれたことは、後に父子の間柄に一抹の陰翳を投げかける結果となった。 時に天宝十五載七月十二日であった。

 一方玄宗はかくと知る由もなく、この月十五日、普安郡(剣閣県)で皇太子を天下兵馬元帥に充てると同時に、他の三人の皇子はそれぞれ地方を分って、 その地方の兵馬を統帥して賊軍を伐たしめんと計った。その一人に選ばれたのが、粛宗の弟なる永王璘(リン)である。彼はこの時、 江陵府都督・統山南東路黔(ケン)中江南西路等節度大使に充てられ、少府監の竇(トウ)昭なる者を副(そ)へられた。永王は郭順儀の出であるが、早く母を失ひ、粛宗に養はれたもので、 長じて聡敏にして学を好んだが、容貌極めて揚らず、正視する能はなかったといはれる。王はこの命に応じ、江陵(荊州)に至り、士を募って数万を得、その中より郎官、御史等を任命した。 しかるに王は揚子江流域の、黄河流域とは比較にならず豊かで、租税が至る所に山積してゐるのを見て、 つひに異心を起して・薛鏐(セツリョウ)・李台卿・韋子春・劉巨鱗・蔡駉(サイケイ)等を謀主としたといふ(「唐書」巻82)。但しこの永王の異心なるものの存在は実は不明である。 そのことについては後述する。

 ともかく李白は永王の野心には関係なく、この頃に、安禄山討伐のための永王を将とする軍中に招きに応じて加はったのである。彼の仕事は幕僚の一人として、 討伐の檄文を書いたり、軍中の無聊を慰め、将士の士気を鼓舞するため詩を作るにあった。檄文の方は伝はってゐないが、 「永王東巡ノ歌」十一首は後の目的のために作られたものに相違ない。その第一首に曰く、

永王正月東出師 永王 正月 東に師を出だす
天子遙分龍虎旗 天子はるかに分(わか)つ龍虎の旗。 ※1将軍の旗。
樓船一舉風波靜 楼船一挙 風波静かに ※2戦艦。
江漢翻為雁騖池 江漢かへって雁騖(ガンボク)の池となる。 ※3揚子江と漢江と。※4かりとあひる。

 この詩では堂々たる王師の様が写し出されてゐて、永王の叛志などは決して見られない。

 かくて李白の乗船をも含めた数千の楼船は揚子江を威風堂々と東下した。航行中、船上では盛大な酒宴が催され、将士の意気は天に冲した。 この有様は李白の「水軍ノ宴ニ在リテ幕府ノ諸侍御ニ贈ル」及び「水軍ニ在リテ韋司馬ノ楼船ニ宴シ妓ヲ観ル」などの詩に明らかである。韋司馬とは永王の幕僚中の韋子春であらう。

 しかるに李白にとって不幸なことには、この堂々たる大軍は下江の時、概に叛軍の烙印を押されてゐたのである。即ち永王の東下を知った粛宗は行在より使を発して、 王に四川へ帰還すべしと命じた。永王はこの勅命を奉ぜずして下江の途に就いたのであったが、このことは早くも明らかにせられてゐたと見え、王の先鋒軍が至るに先だち、 呉郡の探訪使李希言は部将を遣してこれを丹陽に迎へ伐たしめたので、永王は止むなくこれを伐って降した。

 この事によって永王の叛逆のことは決定したのであるが、これを仔細に考へると、永王の異心の有無は問題で、当時の玄宗と粛宗間の感情の縺れもここに介在し、 単なる兄弟の嫉視と見るべきであり、むしろ粛宗の方が挑発者であったのではないかと思はれる節が多い。しかし万乗の至尊に抗するものが、天地の容れぬ叛逆者であることはいふまでもない。 ただこの二人が兄弟であったことは、詩人李白をして甚しく悲しませた。彼の詩「上留田行」、「箜篌(コウコウ)謡」には兄弟の不和を諷するの意があり、 これが粛宗と永王との間柄を歌ったものだとする説も敢へて無視し去れない。

   上留田行
行至上留田 行いて上留田に至れば
孤墳何崢エ 孤墳なんぞ崢エ(ソウコウ)たる。 ※1高くそびえてゐる様。
積此萬古恨 この万古の恨を積んで
春草不復生 春草また生ぜず。
悲風四邊來 悲風 四辺より来り
腸斷白楊聲 腸は断つ白楊の声。 ※2墓地に多く植ゑられるハコヤナギ。
借問誰家地 借間(シャモン)す誰が家の地ぞ
埋沒蒿里塋 埋没す蒿里(コウリ)の塋(エイ)。 ※3死人の里。※4墓。
古老向余言 古老われに向って言ふ
言是上留田 これはこれ上留田と。
蓬科馬鬣今已平 蓬科(ホウカ) 馬鬣(バリョウ) いますでに平かなり ※5墓の上の草。※6墓のもり土。
昔之弟死兄不葬 むかし弟死して兄葬(ほうむ)らず
他人于此舉銘旌 他人ここにおいて銘旌(メイセイ)を挙ぐ。 ※7葬儀を行ふ。銘旌は葬旗。
一鳥死 百鳥鳴 一鳥死して 百鳥鳴き
一獸走 百獸驚 一獣走って 百獣驚く。
桓山之禽別離苦 桓山(カンザン)の禽 別離苦なり ※8完山の鳥は四子を生み、その四海に離れるときには哀鳴して送ると。
欲去囘翔不能征 去らんと欲して回(かへ)り翔(と)び征(ゆ)くあたはず。
田氏倉卒骨肉分 田氏 倉卒 骨肉分れ ※9にはかに。
青天白日摧紫荊 青天白日に紫荊を摧(くだ)く。 ※10「続斉諧記」に見えた田真兄弟の分産説話。
交柯之木本同形 交柯の木はもと形を同じくするに ※11毎年東西の枝が代るがはる栄枯する木。
東枝顦顇西枝榮 東枝は顦顇(ショウスイ)して西枝は栄ゆ。 ※12やせ衰へる。
無心之物尚如此 無心の物すらなほかくのごとし
參商胡乃尋天兵 参商なんぞすなはち天兵を尋ぬる。 ※13参はオリオン座、商は心宿に同じく蝎座のアルファ、シグマ、タウ、この天の二部は同時には空に見えない。※14不和で天の軍兵をもって交戦する。
孤竹延陵 孤竹 延陵は ※15孤竹君の子伯夷叔斉。※16呉王の子李札、兄の譲りを受けず、延陵の季子と称せられた。
讓國揚名 国を譲って名を揚ぐ。
高風緬邈 高風 緬邈(メンバク)として ※7はるかに遠し。
頽波激清 頽波 激清。 ※18意味不明。
尺布之謠 尺布の謡も ※19漢の文帝と淮南王との不和をそしった民謡。
塞耳不能聽 耳を塞(ふさ)いで聴くあたはず。

 原因が何であらうとも、永王の軍は丹陽の戦の後は全く叛軍となってしまった。翌至徳二年二月、永王の軍は広陵(揚州)に迫った。しかしここでは官軍が既に守ってゐて、 その旗幟のひるがへるのを見ると、永王以下はじめておそれる色があり、部将の中で李広琛(チン)といふものが先に立って王に叛かうとの仲間を集め、兵を率ゐて逃亡した。

 この夜、江北の官軍は葦を束ねて燃した。その影が水上に映ると、篝火の数は倍に見えた。哨者がこれを王に報ずると、王は子女をつれて逃げたが、翌日、 真相がわかるとまた還って来て、官軍と新豊で戦った。しかしこの戦でも敗れたので、王は鄱陽に逃れ、ついで華南に逃れようとしたが、官軍の追跡にあって殺された。

 かやうに永王の謀叛は実に呆気(あっけ)なかったが、李白がこの王に随って朝敵安禄山を破る際に功を立て、国恩に報じようとの希望も、同じく呆気なく破れ去ったのであった。 前述の如く、李白は丹陽の戦のあと、永王の形勢が非なるを見てはじめて逃亡した。けだし彼が永王の軍に加はったのは、王の幕僚中の李台卿との関係によるらしいことは、 彼に「舎人弟台卿ノ江南ニ之クニ贈別ス」の詩があることで知られるが、この時もともに逃れたのであらう。この詩はその後、李白が夜郎に流され、台卿も江南に謫される時、 洞庭方面で会っての作である。

 この間の事情は、丹陽から逃れる途中、李白の作った「南奔懐ヲ書ス」といふ詩に見えてゐる。

遙夜何漫漫 遥夜なんぞ漫漫たる ※1永き夜。※2夜の長き様。
空歌白石爛 むなしく歌ふ白石の爛(ラン)たるを。 ※3ィ戚が斉の桓公の前で歌った。
ィ戚未匡齊 ィ戚(ネイセキ)いまだ斉を匡(ただ)さず
陳平終佐漢 陳平つひに漢を佐(たす)く。 ※4漢の高祖の功臣、はじめ項羽の臣だった。
攙槍掃河洛 攙槍(ザンソウ※5) 河洛※6を掃ひ ※5彗星、安禄山にたとふ。※6黄河と洛水。
直割鴻溝半 ただちに割(さ)く鴻溝の半。 ※7中国の半ばを占領した。
暦數方未遷 暦数まさにいまだ遷らざれど ※8帝王のかはる運。
雲雷屢多難 雲雷にしばしば多難たり。
天人秉旄鉞 天人 旄鉞(ボウエツ)を秉(と)り ※9皇子である永王。※10天子の将のもつはたほことまさかりをもって。
虎竹光藩翰 虎竹 藩翰に光る。 ※11銅虎符や竹使符などいくさのわりふ(二一)皇室の藩屏としての永王。
侍筆黄金臺 筆に侍す黄金台
傳觴青玉案 觴(さかづき)を伝ふ青玉案。 ※13机、食卓。
不因秋風起 秋風の起るによらずして ※14晋の張翰、秋風の起るを見て辞職した。
自有思歸嘆 おのづから思帰の嘆あり。
主將動讒疑 主将ややもすれば讒疑(ザンギ)し
王師忽離叛 王師たちまちに離叛す。
自來白沙上 白沙のほとりに来りしより ※15白沙洲、儀真県にあり。
鼓噪丹陽岸 鼓噪す丹陽の岸。 ※16戦鼓がさわがしく鳴りひびいた。
賓御如浮云 賓御(ヒンギョ)は浮雲のごとく ※17食客や馬丁など。
從風各消散 風に従ひておのおの消散す。
舟中指可掬 舟中に指 掬すべく
城上骸爭爨 城上には骸 争って爨(かし)ぐ。
草草出近關 草草 近関を出で ※18いそがしく、あはてて。
行行昧前算 行行 前算に昧(くら)し。 ※19行先のあてどもない。
南奔劇星火 南奔 星火よりも劇(はや)く
北寇無涯畔 北寇 涯畔(かぎり)なし。
顧乏七寶鞭 顧みるに乏し七宝の鞭の ※20 晋の明帝が道ばたにのこしていった七宝の鞭も自分はもたず。
留連道傍玩 留連して道傍に翫(もてあそ)びし。
太白夜食昴 太白 夜 昴(すばる)を食し
長虹日中貫 長虹 日中に貫(つらぬ)く。
秦趙興天兵 秦・趙 天兵を興し
茫茫九州亂 茫茫として九州乱る。 ※21中原全土。
感遇明主恩 明主の恩に遇ふに感じ
頗高祖逖言 すこぶる祖逖(ソテキ)の言を高しとす。 ※22晋の将軍。「中原ヲ清ムル能ハズンバ、マタ大江ヲワタランヤ」といふ。
過江誓流水 江を過(わた)りて流水に誓ひ
志在清中原 志は中原を清むるにあり。
拔劍擊前柱 剣を抜いて前柱を撃つ
悲歌難重論 悲歌して重ねて論じ難し。

 この詩によって、丹陽より諸幕僚がみな逃れ、その敗戦の状甚しかった様が知られ、勤王のために従軍した李白の途方にくれた様も知られる。 かくて李白は尋陽(九江)まで来ると遂に捕はれて獄に繋がれた。その獄中の作としては「尋陽ノ非所ニ在リテ内ニ寄ス」がある。 先に盧山に避難してゐた妻へ送る詩であることは勿論である。

聞難知慟哭 難を聞いて働哭を知る
行啼入府中 ゆくゆく啼いて府中に入りしならん。 ※1役所。
多君同蔡琰 多とす※2君が蔡琰(サイエン)と同じく ※2立派なことである。※3後漢の董祀の妻。
流涙請曹公 涙を流して曹公に請ひしを。 ※4曹操。
知登呉章嶺 知る呉章嶺に登り ※5盧山の近くの山。
昔與死無分 むかし死と分なきを。 ※6不明。
崎嶇行石道 崎嶇として石道を行き ※7けはしい様。
外折入青雲 外折して青雲に入る。
相見若愁嘆 あひ見てもし愁歎せば
哀聲那可聞 哀声なんぞ聞くべけん。

 非所は牢獄のことである。李白の妻が蔡琰と同じく、死罪を犯した夫のため、哀泣して上官たちのところへ運動してまはった様子が知られる。 李白の獄中の作としては、また「張秀才ノ高中丞ニ謁スルヲ送ル」といふ詩があり、その序で「自分はその時、尋陽の獄に繋がれて留侯伝(「史記」の張良の伝)を読んでゐた。 張孟熊といふ秀才が安禄山を亡ぼす策を立てて、広陵に行って高中丞に謁しようとした。自分はこの人を張良の風があると思ひ、この詩を作って送るのだ」といってゐる。 李白が獄中でも元気を失ってゐない様子が知られる。ところでこの秀才が謁しようとする高中丞とは詩人の高適である。李白と高適とは前述の如く相識であるが、 高適の方はこのとき永王討伐のため、御史大夫・揚州大都督府長史・准南節度使といふ大官として、安州(湖北省安陸)まで来ると、乱の平いだのを聞いたが、 そのまま任地の広陵(揚州)に到ってゐたのである。得意の友と失望の自己とをくらべて、李白の感慨は深かったことであらう。

 なほこの外にも「獄中ニテ崔相渙ニ上ル」、「尋陽ニ繋ガレテ崔相渙ニ上ル(三首)」、「崔相ニ上ルノ百憂草」と五首の詩があり、いづれも時の宰相崔渙(サイカン)にたてまつって、 自己の冤(むじつ)をいひ救助を求める詩である。

 崔渙は少年より徳行を以て聞え、経籍を博く読み、談論を善くしたが、天宝の末に楊国忠に憎まれて剣州(四川省)の刺史に任ぜられた。 李白とはその前に長安での知合ではないかと思はれる。玄宗が四川に逃れて来ると、これを途中に迎へ、忠義の言があったとて宰相に任ぜられたが、至徳元年十一月、 江南の士を任用するため江淮宣諭選補使に任ぜられ、この頃は九江の辺りにゐたのであらう。李白が旧交に頼って、叛軍についたのは知らないでしたことだと弁解して、 雪冤を依頼したのはむりからぬことだが、この時もう一人有力な同情者が現はれた。即ち御史中丞の宋若思である。彼はこの時、江蘇方面の兵三千を率ゐて河南に赴くとて、 尋陽にしばらく駐屯してゐたが、李白のことを聞くと、これを獄より出し、一方朝廷に李白の冤罪であることを奏上して、軍中の参謀とした。宋若思と李白との従来の開係は不明だが、 李白の詩人としての名声を惜んだか、その人となりに傾倒してこれを救ったのか、いづれにしても李白が至るところで人の敬愛を受ける、きはめて得な性質であったことは、 このことによっても知られる。

 李白が宋若思の慕僚としての詩文は「中丞宋公呉兵三千ヲ以テ河南軍ニ赴キ尋陽ニ次シ余之囚ヲ脱セシメ幕府ニ参謀タラシム因テ之ニ贈ル」、 「宋中丞ニ陪シ武昌ニテ夜飲ミ古ヲ懐フ」との二篇の詩と、「宋中丞ノ為ニス金陵ニ都スルヲ請フノ表」、「宋中丞ノ為ニス自薦表」、「宋中丞ノ為ニス九江ヲ祭ルノ文」等の文がある。 詩はあげるほどのものではないが、金陵(南京)に都を遷さうと宋若思が乞うた事実は、他の史料には見えず、あるひはこの地にたびたび遊んだ李白の献言かとも思はれて興味がある。 「自薦表」は宋若思が李白の、冤を解いたのち、さらにその任用を奏請する上表文なのであるが、これを李白自身に作らしめたので、その内には、

「臣伏シテ見ルニ、前ノ翰林供奉(グブ)ノ李白ハ、年五十有七ナリ。天宝ノ初、五府コモゴモ辟(め)セドモ聞達ヲ求メズ。マタ子真谷口ニヨリ、名、京師ヲ動カセリ。 上皇聞(きこ)シテコレヲ悦ビ召シテ禁掖ニ入ル。既ニシテ鴻業ヲ潤色シ、アルヒハ間々王言ヲ草ス。雍容揄揚、特ニ褒賞セラレシガ、賎臣ノ詐詭ノタメニ、ツヒニ山二放チ帰サレ、 閑居シテ製作シ、言、数万ニ盈(み)ツ。属逆胡ノ暴乱スルヤ、地ヲ盧山二避ケ、永王ノ東巡ニ遇ヒ、脅カサレテ行キシガ、中道ニシテ奔走シ、却(しりぞ)イテ彭沢ニ至リ、 ツブサニスデニ陳首セリ。前後ニ宣慰大使崔渙及ビ臣ノ推覆清雪ヲ経(へ)、ツイデ奏聞ヲ経(へ)タリ……」

 といひ、李白のこの頃の事情を知るに必要な史料である。

 李白はまた至徳二年八月、河南節度探訪等使・都督淮南諸軍事の任に就けられて、この方面に来た宰相張鎬にも詩を贈って依頼するところがあった。 いかに李白が自己の失策をとりかへさんがために汲々としてゐたかが知られる。しかし君王に対して忠義の志こそあれ、叛逆の意志のなかった者が、叛逆罪で処罰されるおそれが生じたのたら、 この誤解を解くためにはいかなる手段をも惜しまないのは当然てある。殊に張鎬にしろ、崔渙にしろ、いづれも書に通じ、気骨のあった宰相であるから、 李白を権勢に阿付すると責めるのは当らない。張鎬に贈った詩は二首、原註には「時に難を逃れ、病んで宿松山に在って作る」とある。宿松は九江の対岸である。これでみると、 この時は既に宋若思の陣中から去ってゐたやうである。

 かく李白が険阻な途を辿ってゐる間に、唐の国運は反対に好転してゐた。即ち長安を陥れた安禄山には、もはや四川乃至江南へ兵を派する意志も余カもなく、 相変らず洛陽を都として、長安には張通儒や安守忠を派して鎮せしめたのみであった。はじめ賊軍の長安に入るや、その兵は府庫、兵甲、文物、図書のみならず、 後苑中に飼養されてゐた犀・象・舞馬の類から、後宮の美人たちすべてを手に入れた。かっての日、玄宗・楊貴妃のために清平調を奏した梨園の弟子たちも、賊将のために楽を奏した。 諸官の捕へられて降った者はみな洛陽に赴かせて偽官に任じた。その中に李白を讒した張[土自](チョウキ)のあったことは既に述べたが、 有名な詩人兼画人の王維も偽官を授けられた一人であった。彼はしかし心中怏々として楽まず、ひそかに詩を詠じた。

「万戸傷心野烟ヲ生ジ、百官何ノ日カ更ニ朝セン。秋槐葉ハ落ツ空宮ノ裏、凝碧池頭管絃ヲ奏ス。」

 これは梨園の弟子らが賊のために奏楽するのを悲しみ憤った詩である。のちに両京回復の時、賊に降った百官はみな罰を受けたが、 王維がこの一篇のために忠義の志を認められて冤れたことは有名な挿話である。

 しかし賊の長安を占拠したのは永くなかった。はじめ彼等は入京するや人を多く屠った。皇族及び楊国忠の党派は一人のこさず殺した。 杜甫の「哀王孫」はこのために作られたが、かかる惨虐行為は人をしてすべて眉をひそめさせた。次には私人の財産を掠奪し、反抗すれば殺した。故にまもなく長安の郊外には、 官軍に付く者が出没しだしたが、賊軍は勇あって智なく、日々荒酒を事とするのみであった。

 この間に、霊武にあった粛宗を中心とする朝廷は、東のかた長安の回復のみを計ってゐた。特に朝廷をして心強からしめたのは、至徳二年の正月に、 安禄山がその子安慶緒に殺されたことである。子として父を弑するには、いくら賊軍にしても服しない者があるに相違ない。 父子軍と号した安禄山の軍の団結もここに至ってはゆるんだのが知られたわけである。粛宗の朝廷は、この機に乗じて一挙に長安の回復を計るべきだったが、これは中々はかどらなかった。 この頃になると、官軍の諸将中、恃みになるものは、かの李白と太原で会ったといふ郭子儀と李光弼(ヒツ)とだけである。両将は従来、今の山西省方面で策動して、 機を見ては河北省や河南省方面に出動して来る。これが相当の効果をあげてゐたが、長安を陥れるとなると、やはり正面作戦が必要である。粛宗は両将に行在(アンザイ)へ来ることを命じた。 郭と李が五万の兵を率ゐて来った時、朝廷では始めて根本が定まった。ただし郭子儀らの力だけでは、いまだ賊に勝つには足らなかったので、おそらく彼の献策によってと思はれるが、 このころいま一つの策が考ヘ出された。即ち回紇(カイコツ)への求援である。回紇とはトルコ種のウイグル族であって、突厥(テュルク)に代つて沙漠の北に勃興し、 東は興安嶺、西は天山に至る地域を占めてゐた。その酋長は突厥と同じく可汗(カカン)と称し、この頃は葛勒(カルルク)可汗の代であった。唐ではこの回紇に対し、 皇族を遣って和親と援軍とを求めたところ、承諾を得た。この際に種々条件が付いたことは勿論であるが、かく外氏族の力を借りて、 侵入者を伐つことを中国では古来「夷ヲ以テ夷ヲ制ス」といひ、策の上々なるものとしてゐる。果して回紇の援兵四千を加へた郭子儀らの軍が、長安に西方から迫り、 香積(コウシャク)寺の西北で戦ふや、賊の背後に奇襲を行った回紇兵の功によって、賊は大敗して洛陽に逃れ、玄宗、粛宗ともに行在所から還御した。時に至徳二年十月で、 長安は失陥後わづか一年余りでまた朝廷のものとなったのである。しかし還御のとき、長安の士民は泣いて駕を拝し「図らざりき、またわが君を見んとは」といったといふ。 実に耐へがたい一年余りだったのである。

 賊に降ってゐた百官もこの月洛陽がとりかへされると、また官軍に降った。朝廷ではこれらの処分を議して、情状の酌量によって罪を六等とし、それぞれ処分を終へた。 斬刑となった者は達奚c(タツケイジュン)ら十八人、もとの宰相陳希烈は特旨をもって自殺を命ぜられ、張説(チョウエツ)の子の張均、張[土自]の兄弟の中、弟はもう死んでゐたから、 兄のみ合浦郡(広東省)に流された。これがすむと、つづいて永王の事件の処分が議せられたやうである。李白は前述の如く、宋若思や崔渙らの尽力によって、 謀叛の罪ももう解けてゐたかと思ってゐたのが、実はさうでなかった。彼の運命は極めて危いものとなったのである。

十二 夜郎への流謫へ


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