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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944
八 失意の十年
長安を去った天宝三載(李白四十四歳)から、安禄山の乱の起る天宝十四載(李白五十五歳)までの李白の足跡は、例によって明らかでない。前述の如く李陽冰によれば、 長安よりまづ斉州(済南)へ行ったのであるから、そこから直ちに兗州のわが家へ赴いたと見なければならないが、その後、 彼はまた羈旅の人としてその足跡が到るところで発見される。
曽鞏(ソウキョウ)は李白の足跡を考へて、
「北ハ趙・燕・魏・晋ニ抵(いた)リ、西ハ岐・邠(ヒン)ヲ渉(わた)リ、商ヲ歴テ洛陽ニ至ル。梁ニ游ブコト最モ久シ。フタタビ斉・魯ニユキ、南ハ淮・泗ニ游ビ、 再ビ呉ニ入リ、転ジテ金陵ニ徙(:うつ)リ、秋浦・尋陽ニ止マル」
といってゐる(「李太白文集序」)。華中、華北の殆どすべてに亘る彼のこの旅を、時間的に正確に調べ上げることは不可能なことなので、年譜の作者もこれは断念してゐる。
しかし漂泊十年の大半は汴州(ベンシュウ)(開封)で費されたらしい。曽鞏のいふ梁とはここのことで、戦国時代の魏の都大梁がここだからである。 李白みづからも「情ヲ書シテ蔡舎人雄ニ贈ル」で、
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遭逢聖明主 聖明の主に遭逢して
敢進興亡言 あへて興亡の言を進めんや。 ※1亡国の言論。
白璧竟何辜 白璧つひに何の辜(つみ)ぞ
青蠅遂成冤 青蝿(セイヨウ)つひに冤(えん)をなす。 ※2蝿のやうにあくせくと小利を追求する小人。
一朝去京國 一朝 京国(ケイコク)を去り
十載客梁園 十載 梁園に客(カク)たり。
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といってゐる。しかしここでの作はさう多くない。ただ「梁園吟」といふ雄篇があって、長安を去って後の感懐と、この地の生活とを尽してゐる。
我浮黄河去京關 われ黄河に浮んで京関を去り ※1長安。
挂席欲進波連山 席※2を挂(あ)げて進まんと欲すれば波 山に連る。 ※2むしろの帆。
天長水闊厭遠渉 天は長く水は闊(ひろ)くして遠渉を厭ふ
訪古始及平臺間 古を訪って始めて及ぶ平台の間。 ※3梁の孝王の離宮のあったところ。
平臺為客憂思多 平台に客となりて憂思多く
對酒遂作梁園歌 酒に対してつひに作(な)す梁園の歌。
卻憶蓬池阮公詠 かへって憶ふ池の阮公(ゲンコウ)の詠 ※4晋の阮籍の「詠懐」に徘徊蓬池上、還顧望大梁、淥水揚洪波…といふのがある。
因吟淥水揚洪波 よって吟ず淥水(ロクスイ)洪波を揚ぐと。
洪波浩蕩迷舊國 洪波※5 浩蕩※6 旧国に迷ひ ※5清らかな水。※6広く大きく。
路遠西歸安可得 路遠くして西帰いづくんぞ得べけん。
人生達命豈暇愁 人生 命に達すればあに愁ふるに暇(いとま)あらん ※7天命を達観すれば。
且飲美酒登高樓 しばらく美酒を飲んで高楼に登る。
平頭奴子搖大扇 平頭※8の奴子 大扇を揺(うご)かし ※8髪を結ってない。
五月不熱疑清秋 五月も熱からず清秋かと疑ふ。
玉盤楊梅為君設 玉盤に楊梅きみがために設け
呉鹽如花皎白雪 呉塩は花のごとく白雪よりも皎(しろ)し。
持鹽把酒但飲之 塩を持し酒を把(と)ってただこれを飲め
莫學夷齊事高潔 夷斉(イセイ)を学んで高潔を事とするなかれ。 ※9伯夷、叔斉。
昔人豪貴信陵君 昔人豪貴なり信陵君 ※10魏の公子無忌、信陵君に封ぜられ食客三千人。
今人耕種信陵墳 今人耕種す信陵の墳。
荒城虚照碧山月 荒城にむなしく照れり碧山の月
古木盡入蒼梧雲 古木ことごとく入る蒼梧の雲。 ※11古木には蒼梧の方から来た雲がかかってゐる。
粱王宮闕今安在 梁王の宮闕いまいづくにかある ※12梁の孝王。
枚馬先歸不相待 枚馬(バイバ※13)まづ帰って※14あひ待たず。 ※13梁王の食客であった枚乗、司馬相如の二文人。※14死ぬ。
舞影歌聲散穀r 舞影 歌声 緑池に散じ
空餘汴水東流海 むなしく汴水(ベンスイ)を余し東のかた海に流る。
沈吟此事涙滿衣 このことを沈吟して涙 衣に満つ
黄金買醉未能歸 黄金もて酔を買うていまだ帰るあたはず。
連呼五白行六博 五白を連呼して六博を行ひ ※15双六の賭の勝。
分曹賭酒酣馳輝 曹を分ち※16酒を賭すれば馳輝※17たけなはなり ※16二組に分れて。※17太陽の光。
歌且謠 意方遠 歌ひかつ謡(うた)ひ意まさに遠し。
東山高臥時起來 東山※18に高臥し時に起ち来り ※18晋の謝安石のごとく。
欲濟蒼生未應晩 蒼生※19を救はんとするもいまだまさに晩(おそ)かるべからず。 ※19人民。
ここより西南の鳴皐山(メイコウザン)にゆく岑参(シンシン)を送ったのも、開封でのことであった。岑参は李白より十四歳年下で、開元三年の生れである。 太宗の時の宰相なる岑文本を曽祖父とし、睿宗(エイソウ)の時の宰相岑羲(シンギ)も一族といふ名門の出であるが、岑羲が玄宗に誅せられてからは、家勢ふるはず、 苦学精励して経史に通じた。開元二十二年に長安に至り、天宝四載、三十一歳のときはじめて進士に及第した。この間やはり詩人の王昌齢と親交があり、 李白との交友も長安ではじまったことと思はれる。天宝九載の三十六歳の時、将軍高仙芝に随って安西(新彊省庫車)にゆき、三年間そこに留まって種々その地の風物を詠じ、 天宝十一載長安に帰ったが、十三載また従軍して北庭(新彊省ジムサ付近)に赴いた。今度は将軍封常清の幕僚としてであった。従って、李白に送られ、開封から鳴皐山に登ったのは、 天宝四載から八載までか、十一載、十二載のどちらかと思はれるが、この「鳴皐歌岑徴君ヲ送ル」及び「岑徴君ノ鳴皐山ニ帰ルヲ送ル」の二詩とも岑参を徴君と呼び、 これが天子に呼ばれても仕へない隠士のことであるからには、進士に及第して官に任じてゐない前の期間のことに相違ない。それはともかく、王昌齢、李白、高適等とともに、 塞外の戦争を歌ふことに巧みで、私見によれば唐代従軍詩人の第一人者であった岑参が、李白との年齢の相違にも拘らず、親交のあったことには注意を要する。
李白の開封での生活は次第に窮迫して来たやうである。彼の「雪ニ対シテ従兄虞城ノ宰ニ献ズ」といふ詩がこれを証する。
昨夜梁園裏 昨夜梁園の裏(うち)
弟寒兄不知 弟寒けれども兄は知らざらん。
庭前看玉樹 庭前に玉樹を見 ※1雪で白玉製かと思はせる木。
腸斷憶連枝 腸は断えて連枝※2を憶ふ。 ※2兄弟。
虞城は今の河南省の東境で、山東省の単父(ゼンポ)の隣県なのであるから、苦しさを訴へてゐるのは開封でのことではなかったかもしれないが、相手は真の従兄ではなく、 李白が同族よばはりして、李氏なら必ず用ひるにせ従兄の、天宝四載からここの県令であった李錫(リセキ)である。このとき救ってもらった礼か、 李白には「虞城県令李公去思頌碑」といふ頌徳文もあって、このころの文人の生活も、中々なみ大抵でなかったことを思はせる。県令といふのは県知事には相違なく、 いまの日本の知事さんたちと同じくゐばったものかもしれないが、昨日までの大官相手がたかだか県令相手とまでなり下ったのである。しかも李白は貧を衒(てら)ふ趣味がなく、 かかる場合にも大言壮語するたちであるから、この態度では窮迫のしかたもさこそと思はれる。
開封に次いで比較的永くゐたやうに思はれるのが、いまのべた単父である。ここは兗州から西南二百支里で、 家族の住居とも近かったからたびたび往来したと考へられる上に、この時、県の主簿の任にあった李凝、その弟らしい李沈(リシン)の二人との交際によって、 事実しばらく滞在してゐたやうである。
この李沈が長安にゆくのを、単父の東楼で送別して作った詩は佳作である。
單父東樓秋夜送族弟沈之秦 単父の東楼に秋夜族弟 沈の秦にゆくを送る
爾從咸陽來 なんぢ咸陽※1より来り ※1長安。
問我何勞苦 われに間ふ何ぞ労苦すと。
沐猴而冠不足言 沐猴(モッコウ)にして冠するは言ふに足らず ※2史記に見える楚人沐猴而冠よりつまらない者が高官となること。
身騎土牛滯東魯 身は土牛に騎して東魯に滞(とど)まる。 ※3猿である上に土の牛にのってゐるからのろのろとして。
沈弟欲行凝弟留 沈弟は行かんとし凝弟は留まる
孤飛一雁秦雲秋 孤飛の一雁 秦雲の秋。
坐來黄葉落四五 坐来 黄葉 落つること四五
北斗已挂西城樓 北斗すでに挂(かか)る西城の楼。
絲桐感人弦亦絶 糸桐※4 人を感ぜしめ絃また絶ゆ ※4琴。
滿堂送客皆惜別 満堂の送客みな別を惜む。
卷簾見月清興來 簾(すだれ)を巻き月を見て清興 来る
疑是山陰夜中雪 擬ふらくはこれ山陰の夜中の雪かと。 ※5晋の王徽之が見てたちりまち友人戴逵を懐った山陰の夜の夜中の雲かと、月光を見ておもふ。
明日斗酒別 明日 斗酒の別
惆悵清路塵 惆悵(チュウチョウ※6)たり清路の塵。 ※6かなしくうらめし。
遙望長安日 遥に長安の日を望めども
不見長安人 長安の人を見ず。
長安宮闕九天上 長安の宮闕は九天の上
此地曾經為近臣 この地かつて経(へ)て近臣となる。
一朝復一朝 一朝また一朝
髪白心不改 髪白けれども心改まらず。
屈平憔悴滯江潭 屈平※7は憔悴(ショウスイ)して江潭に滞(とど)まり ※7洞庭湖畔に追放された屈原。
亭伯流離放遼海 亭伯※8は流離して遼海に放たる。 ※8後漢の崔駰、字は亭伯、楽浪郡の官に左遷された。
折翮翻飛隨轉蓬 翮(カク※9)を折り翻飛(ホンピ)して転蓬※10に随ひ ※9羽のもと、羽のくき。※10風に吹かれて飛ぶよもぎ。
聞弦虚墜下霜空 弦を聞き虚墜して霜空を下る。 ※11つる音をきいてあたりもしないのに落ちて来る。
聖朝久棄青云士 聖朝久しく棄つ青雲の士 ※12学徳高き賢人。
他日誰憐張長公 他日誰か憐まん張長公。 ※13漢の張摯、字は長公、官吏となったが、世間と合はないとてやめられたのち終身仕へなかった。
この詩の長安宮闕以下の句をも、久保天随博士は李沈のこととして解釈しておゐでだが(続国訳漢文大成「李太白詩集中」652頁)、私は李沈のゆく長安のことから、 想ひは一転して李白自身の感懐と境遇とを述べたものととる。「この地かって経て近臣となる」とは、李白自身のことにちがひないし、屈平(屈原)、亭伯(崔駰)、 張摯とみな李白みづからをこれにたぐへてゐるのである。
李白が金陵に赴いたのは、単父もしくは兗州からであり、この後、江南に流浪してつひに北には還らないのだが、 それは「単父ノ陶少府ノ半月台ニ登ル」といふ詩に
秋山入遠海 秋山遠海に入り
桑柘羅平蕪 桑柘(ソウシャ※1)平蕪※2に羅(つら)なる。 ※1桑とやまぐは。※2平らかな雑草の茂った地。
水色淥且明 水色 淥(ロク)かつ明 ※3清らか。
令人思鏡湖 人をして鏡湖を思はしむ。 ※4浙江省の紹興にある湖。
終當過江去 つひにまさに江を過ぎて去るべきも
愛此暫踟躕 ここを愛してしばらく踟躕(チチュウ)す。 ※5ためらふ。
いふ箇所があるので知られる。また「曹南ノ群官ニ留別シテ江南ニ之ク」といふ詩があり、曹南、すなはち単父の西なるいまの曹県を通って江南に赴いてゐることを証する。
開封・単父の滞在の外、華北のいたるところに行はれた李白の旅行の中で、最も注目すべきは、彼が幽州、即ち今の北京に赴いてゐることである。
幽州には当時、契丹(キッタン)や奚(ケイ)などのこの方面の精悍な異民族の侵入を防ぐために、范陽節度(ハンヨウセツド)使といふ軍司令官が置かれてゐたが、 天宝三載以来この官にあったのは、のちに乱を起す安禄山である。李白のこの幽州への旅行は、安禄山との間に何らかの交渉をもつために行はれたやうである。この時、 安禄山はいまだその鋒さきをあらはさないが、長安から見離された李白としては、これに優に対抗し得る勢力をもつ者に頼る気持を起したとしても、ふしぎなことはない。
ただし李白は幽州では安禄山に失望し、また彼がのちに謀叛したので、これとの交渉は秘してゐる。この李白の安禄山への悪感情を表はしてゐると見られるのが「幽州ノ胡ノ馬客ノ歌」である。
幽州胡馬客 幽州の胡の馬客(カク) ※1北方蛮族出身の馬にのった流寓の人。
濠瘡ユ皮冠 緑眼 虎皮の冠。
笑拂兩只箭 笑って両隻(リョウセキ※2)の箭を払へば ※2二本。
萬人不可干 万人も干(ふせ)ぐべからず。
彎弓若轉月 弓を彎(ひ)くこと月を転ずるごとく
白雁落雲端 白雁 雲端より落つ。
雙雙掉鞭行 双双※3 鞭を掉(ふ)って行 ※3二人ならんでか。
遊獵向樓蘭 遊猟して楼蘭に向ふ。 ※4漢代、いまの新疆省のロプ・ノール付近にあった国。
出門不顧後 門を出づれば後を顧みず
報國死何難 国に報ずる死なんぞ難からん。
天驕五單于 天驕※5五単于(ゼンウ※6) ※5匈奴の単于はみづからを天の驕児と称した。※6漢の宣帝のとき匈奴は五単于ならび立った。
狼戻好兇殘 狼戻(:ロウレイ)にして兇残を好む。 ※7狼の如く心ねぢけ道理にもとる。
牛馬散北海 牛馬は北海に散じ
割鮮若虎餐 鮮を割(さ)くこと虎の餐(くら)ふがごとし。 ※8鳥獣の新しく殺したもの。
雖居燕支山 燕支山に居るといへども
不道朔雪寒 朔雪の寒きを道(い)はず。 ※9北方の雪。
婦女馬上笑 婦女も馬上に笑ひ
顏如赭玉盤 顔は赭(あか)き玉盤のごとし。
翻入射鳥獸 翻飛(ホンピ※10)して鳥獣を射 ※10とび上って。
花月醉雕鞍 花月には雕鞍(チョウアン)に酔ふ。
旄頭四光芒 旄頭(:ボウトウ) 四(よも)に光芒あり ※11胡の星と考へられる昴(すばる)の星。
爭戰若蜂攢 争戦する蜂の攢(あつま)るがごとし
白刄灑赤血 白刃 赤血を灑(そそ)ぎ
流沙為之丹 流沙 これがために丹(あか)し。
名將古誰是 名将 いにしへ誰か是(これ)なる
疲兵良可嘆 疲兵まことに嘆ずべし。
何時天狼滅 いづれの時か天狼※12 滅し ※12盗賊を表はし、侵略を象るといふ大犬座シリウスの漢名。
父子得闊タ 父子 闊タを得ん。 ※13しづかにして安らか。
この遊猟に長(た)けてゐながら、国のための戦争にはつとめようとせず、天下の疲弊を餌として、おのが勢力の拡大を計ってゐる幽州の胡の馬客が、 安禄山の姿をありありと表し出してゐることはいふまでもない。ここで緑眼といってゐるので、安禄山のイラン系統の血が証拠だてられる。李白が炯眼にこれを看破したのは実に幸運なことであった。 然らずんば、彼ものちに安禄山に従って謀叛した多くの漢人たちと同一視されたであらう。しかし幽州へゆくまでの彼がこれを知ってゐたか、どうかは疑問である。
ただしこれだけでは、李白が例の如く、空想によって安禄山をそしる詩を作ったとも思はれようが、李白には「魏郡ニテ蘇明府因ニ別レテ北游ス」といふ詩があり、 唐の魏州、即ち今の河北省の大名県で蘇因なゐ官に別れて、さらに北遊したといふのであるから、これが幽州への旅であったことは明らかである。 また「乱離ヲ経タルノ後天恩モテ夜郎ニ流サレ旧遊ヲ憶ヒテ懐ヲ書シテ江夏ノ章韋太守良宰ニ送ル」といふ長詩には、章良宰と自己との従来の交友を回顧してゐるが、 まづ李白が剣も文も以て君王に用ひられるに足らずして、長安を去ったことを敍し、この時、韋良宰が彼を驃騎亭(長安にあったのであらう)で送別したことをいひ、次いで、
十月到幽州 十月幽州に到れば
戈鋋若羅星 戈鋋(カエン※1) 星を羅(つら)ぬるがごとし。 ※1ほこや小ぼこ、武器。
君王棄北海 君王 北海を棄て ※2北海のある蒙古の地方。
掃地借長鯨 地を掃うて長鯨に借す。 ※3玄宗が安禄山をして二節度使を兼ねしめたこと。
呼吸走百川 呼吸 百川を走らせ
燕然可摧傾 燕然(エンゼン)も摧傾(サイケイ)すべし。 ※4匈奴にある山。※5くだけかたむく。
心知不得語 心知れども語るを得ず
卻欲棲蓬瀛 かへって蓬瀛(ホウエイ)に棲まんと欲す。 ※6蓬莱・瀛州の仙島。
彎弧懼天狼 弧を彎(ひ)けども天狼を懼(おそ)れ ※7大犬座シリウスの漢名、凶残の星と。
挾矢不敢張 矢を挾(さしはさ)んであへて張らず。
攬涕黄金臺 涕(なみだ)を攬(ぬぐ)ふ黄金台 ※8燕の昭王が天下の士を呼ぶため築いた台。
呼天哭昭王 天を呼んで昭王※9を哭す。 ※9駿馬の骨を買った。
無人貴駿骨 人の駿骨を貴(たふと)ぶなく ※10良馬。
克ィ空騰驤 緑耳むなしく騰驤。 ※11とび上る。
樂毅儻再生 楽毅※12ももし再生すれば ※12燕の昭王に仕へて斉を破った。
于今亦奔亡 今においてはまた奔亡せん。
蹉跎不得意 蹉跎して意を得ず ※13つまづく。
驅馬還貴郷 馬を駆りて貴郷に還る。 ※14今の大名県、魏州に同じ。
逢君聽弦歌 君に逢うて絃歌を聴き
肅穆坐華堂 粛穆(シュクボク※15)として華堂※16に坐す。 ※15うやうやしく。※16役所の公堂。
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といって、安禄山を長鯨にたとへ、その跋扈の状を見て、これが将来は君国に害をなすことを知りながら、意気地なく何ともできないで帰って来て、貴郷県に至り、 韋良宰の款待を受けたと述べてゐる。貴郷は魏州と同じく今の河北省の大名県である。故に李白が幽州へ赴いたのは事実であって、 この旅はいつもの煙霞癖とは異った性質を帯びたものであったことが知られるのである。
かくして東北軍閥に失望した彼には、西北軍閥の哥舒翰あたりに運動することも考へられたであらう。 「徳ヲ述ベ兼テ情ヲ陳ジ哥舒大夫ニ上ル」といふ詩(この詩の今の形は断篇らしくはっきりしないが)はそのために作られたものかと思はれる。しかしこれも事実には効を奏せず、 ただ華北の各地を転々として、かたがた鬱を慰め、かたがた、地方官の食客の座に連って衣食を得てゐたといふのが、長安退去後ほぼ十年間の李白の生活であったやうである。希望と失望、 ここに長安に上るまでの遍歴と、長安退去後の漂泊との差異を見出さうとするのは誤りではあるまい。
李白自身も他人の見る目の相違に気付いてゐて、前に引いた「従弟南平ノ太守之遥ニ送ル」といふ詩のつづきでは
一朝謝病遊江海 一朝病を謝(つ)げて江海に遊べば
疇昔相知幾人在 疇昔の相知 幾人か在る。
前門長揖後門關 前門には長揖(チョウユウ)して後門は関(とざ)す
今日結交明日改 今日 交りを結んで明日は改まる。
といってゐる。この十年の李白の生活の苦しさを見るべきである。
しかしながらこの頃になっても交りを改めなかった者がないわけではない。元丹邱がそれであるし、杜甫もその一人であった。高適の如きも李白が開封や単父にゐたころ、 親しくした一人であると思はれる。杜甫の「昔遊」に「昔者(むかし)高・李ト晩ニ単父ノ台ニ登ル」といひ、「懐ヲ遣ル」に「憶フ高・李ノ輩ト交ヲ論ジテ酒壚ニ入シヲ。 両公藻思壮ンニ我ヲ得テ色敷膄、気ハ酣ニシテ吹台ニ登ル」といってゐるのが、これを証する。吹台は開封の東南にあり、また乞活台ともいはれた由である。
高適は李白とは同年輩で、その意を得ざることも久しく、梁・宋の間に旅人となってゐたが、宋州の刺史張九皐(キュウコウ)の推薦で、漸く有道科の試験に通ったが、 時あたかも李林甫の執政に当り、封丘県(開封)の尉といふ地方の小官に任ぜられたのみであったので、失望して河西(甘粛省涼州)に赴き、節度使哥舒翰の幕僚となった。 これが天宝十一載のころと推測されるから、李白や杜甫と開封や単父に遊んだのは、封邱の尉たりし前後であらう。高適は盛唐の詩人としては、李杜には及ばずとも、王維、 岑参と匹敵する一流詩人であるが、晩成の質と見え、その詩に意を用ひたのは五十歳以後であり、一篇の成るごとに人々は争うてこれを伝誦したといふ。彼の五十歳は天宝八載だから、 その詩作の開始を李白や杜甫との交友と結びつけて考へるのは失当であるまい。とまれ、盛唐の詩人の中、王維をのぞく他の者とは、李白は親交があり、 しかも互ひに詩情を異にして競うて唐詩の精華を誇ってゐるのは注目に値する事実であらう。
前に述べたやうに、李白は長安を去ってから殆ど十年にして、開封、山東方面を去り、江南に赴いた。その年代は天宝十一二載ごろかと想像される。江南でまづ赴いたのは、
この後も度々往来した宣城(安徽省)であった。「梁園自リ敬亭山ニ至リ会公ヲ見テ陵陽ノ山水ヲ談ジ兼ネテ同游ヲ期シ因ッテ此ノ贈有リ」といふ詩の題がこれを示してゐゐ。梁園は開封、
敬亭山は宣城にあるのだからである。
しかし宣城にはちょっと留まっただけで、広陵(揚州)へ行き、っいで金陵(南京)に赴いた。魏の文にいふ。
「自分ははじめの名を万といひ、次に炎といった。いまだ万といってゐたころ、江東に赴いて李白を訪ね、天台山まで行ったが会へず、広陵まで帰って来て会った。 その眸(ひとみ)はきらきら輝き、大なること餓ゑた虎のやうだったが、また時に礼装をつければ、その品格は寛雅だった」
と李白の風貌を敍してゐる、魏はこれから李白の弟子になるので、この言は信頼してよい。この時、李白から親しく聞いたのであらう、次にはあの李白が青少年のころ、 数人を斬ったこと、友の葬を行った任侠の行為、韓朝宗と会った時の話、及び李白の四回の結婚と子女のことを記し、次に金陵での生活をのべて、
「時には昭陽(湖南省)と金陵との妓(うたひめ)を携へて、そのなすところは古の謝安に類してゐる。そこで世人は彼のことを李東山と呼んでゐる(東山は今の浙江省上虞県にあり、 謝安が妓女を携へて遊宴した宅址がある)。駿馬美妾を伴ってゐて、至るところの県令はみな郊外に出迎へ引いて宴をする。酒数斗を飲んではじめて酔ふ。 その頃になると侍童の丹砂といふのが青海波を舞ふ。満堂それを見ても楽しまなければ、李白が酒のきりもりをするので楽しくなる。」
といひ、李白と自らとの関係をのべては、
「自分は平素、自慢するたちで、狂人といふものさへあったが、李白とは会ふとふしぎに気があって、自分に詩を贈ってくれ、 またいふには『君はこの後かならず天下に大名を著すだらう。その時おれと明月奴とを忘れてくれるな』と。文をみな出して、自分に命じて詩集を作らせた。自分はいま進士に及第した。 李白の言に符合してゐるではないか。別れた翌年には天下に大盗が起った。」
といってゐる。李白が魏に贈った作といふのは「王屋山人魏万ノ王屋ニ還ルヲ送ル」といふ詩であらう。魏の進士及第は上元の初めのことだったといふ。 この文で見ると李白は揚州には長男の明月奴を伴ってゐたことになる。この魏との一見にして旧知の如き関係は、必ずしもうそでないやうで、 この詩には洛陽から黄河を隔てて北の王屋山にゐた彼が、李白を訪ねて汴(ベン)河を下り、杭州会稽まで来たが会へず、南の剡渓(エンケイ)や天台山、永嘉に赴いた後、 引返して揚子江を渡り、五月李白のもとに来て旅の目的と途中の話をして喜ばしたことを記してゐる。この詩が実に六十韻に亘り、李詩中では最長であることも、 魏と相許したことを証してゐる。
魏はこれに対し「金陵ニテ翰林謫仙子ニ酬ユ」といふ詩を作って唱和してゐるが、これによれば両人は揚州で会った後、ともに南京に遊んだのである、 ともかく李白の詩に多く見られる南京の風物を詠じた詩は、概ねこの頃のものであらう。魏が伝へる、侍童と美妓とを伴ふ、江北とはうって変った金陵の生活が真とすれば、 江南は風光のみならず種々の点で彼を恵んだものと思はれる。
前述の如く、金陵を中心とする作は多数に上るが、彼は若年の頃、ここに来てゐるから、すべてが必ずこの時期のものだとはいへない。 しかしここではその中の見るべきものを二三録してみよう。
登金陵鳳凰臺 金陵の鳳凰台に登る
鳳凰臺上鳳凰遊 鳳凰台上 鳳凰遊びしに
鳳去臺空江自流 鳳去り台むなしうして江おのづから流る。
呉宮花草埋幽徑 呉宮の花草 幽径を埋め
晉代衣冠成古丘 晋代の衣冠古丘をなす。
三山半落青天外 三山 なかば落つ青天の外
二水中分白鷺洲 二水 中分す白鷺洲。
總為浮雲能蔽日 すべて浮雲のよく日を蔽ふがために
長安不見使人愁 長安は見えず人をして愁へしむ。
鳳凰台は南京城の西南隅にあり、劉宋の元嘉十八年に鳳凰がここヘ来たといふのでその名がある。三山は南京の西南にあり、揚子江に臨んでゐる。 この詩は崔(サイコウ)の「黄鶴楼」の調と意とをそのままにとってゐるといふので、種々問題とされてゐる。しかし南京の歴史と長江の渺茫感と、 西北の方を望んで長安を思出す李白の感情とが、渾然と融合してゐることは認めねばならない。
南京は呉の孫権が都して以来、六代の都であり、隋唐以来は都ではなくなったが、交化燦然たりし南朝の面影を今だに残してをり、史蹟も多いので、 李白たらずとも懐古的にならざるを得ない地である。彼の詩では、
金陵第三
六代興亡國 六代興亡の国 ※1呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六朝。
三杯為爾歌 三杯なんぢがために歌ふ。
苑方秦地少 苑(その)は秦地※2にくらべて少く ※2長安。
山似洛陽多 山は洛陽に似て多し。
古殿呉花草 古殿 呉の花草
深宮晉綺羅 深宮 晋の綺羅※3。 ※3晋の貴族のつけたあやぎぬとうすぎぬ。
併隨人事滅 あはせて人事に随って減し
東逝與滄波 東逝 滄波※4とともにす。 ※4揚子江の波立てて流れる水。
がこの趣を歌って佳作である。
勞勞亭
天下傷心處 天下の傷心の処
勞勞送客亭 労労 客を送るの亭。
春風知別苦 春風も別れの苦しみを知り
不遣柳條青 柳条をして青からしめず。
労々亭は城南の秣(マツ)陵関の辺にあって、旅人の別をなす場所だった。この詩は僅々二十字の短詩で、奇警な辞句もないが、惜別の意は自らに表はれてゐる。
それから前に掲げた「東魯ノ二稚子ニ寄ス」といふ詩は、呉地にあっての作と見えてゐるから、この頃、金陵付近での作と見るべきであらう。同じくこの頃の作で、 やはり李白の骨肉の情をのべたものに「楊燕ノ東魯ニ之クヲ送ル」といふ詩がある。
關西楊伯起 関西※1の楊伯起※2※1函谷関の西をいふ。※2後漢の人楊震、字は伯起、儒学を以て関西の孔子といはれた。
漢日舊稱賢 漢日もと賢と称す。
四代三公族 四代三公の族 ※3楊震、その子乗、孫の賜、曾孫の彪と四代。※4後漢では太尉、司徒、司空。
清風播人天 清風 人天※5に播(し)く。 ※5人間界と天上界。
夫子華陰居 夫子※6も華陰※7に居り ※6先生、長者の尊称、あなた。※7楊震の生地。
開門對玉蓮 門を開いて玉蓮※8に対す。 ※8華山の蓮花峰。
何事歴衡霍 なにごとぞ衡・霍(カク)を歴(へ) ※9衡山は湖南省にあり、五岳の南岳。霍山は安徽省。
雲帆今始還 雲帆いま始めて還る。
君坐稍解顏 君 坐してやや顔を解き ※10笑ふ。
爲君歌此篇 わがためにこの篇を歌へ。
我固侯門士 われはもとより侯門の士 ※11諸侯の家に出入する士か。
謬登聖主筵 謬(あやま)って聖主の筵に登る。
一辭金華殿 一たび金華殿を辞し。 ※12唐では金鑾殿。
蹭蹬長江邊 蹭蹬(ソウトウ※13)たり長江の辺。 ※13疲れた様。
二子魯門東 二子 魯門の東
別來已經年 別れてこのかたすでに年を経たり。
因君此中去 君がこの中より去るによりて
不覺涙如泉 覚えず涙 泉のごとし。
前半は楊燕のことを敍したのであるが、彼が山東を通るといふので、その地にある二子(頗黎、平陽)のことを思出し、「覚えず涙泉のごとし」の句を吐くに至っては、 李白も子を思ふの情は世の常の父に劣らなかったことが知られる。
金陵でのもう一つの挿話が「旧唐書」にのせられてゐる。
「李白が宮廷からしりぞげられ江湖に放浪し、終日飲酒してゐる頃、侍御史崔宗之も左遷されて金陵にゐたが、ともに飲酒し唱和した。ある時、月夜に舟に乗り、 釆石磯(当塗と南京との中間)から金陵に至ったが、この時、李白は宮廷で用ひた錦の袍(うはぎ)を着、舟の中では大ゐばりであたりを見廻して大笑ひし、かたはらに人なきがごとしであった。」
と。崔宗之はかの飲中の八仙の一人である。長安の故友を迎へた喜びに、そのころ用ひた礼服を着用したのであらうか。失意の時にあってもなほ闊達な李白の面目躍如たる挿話である。
李白は金陵から再び宣城に赴いた。その間、南陵を経過したと見えてこの地の県丞常某に関係した詩が三篇ある。「五松山ニ於イテ南陵ノ常賛府ニ贈ル」、 「懐ヲ書シテ南陵常賛府ニ贈ル」、「南陵ノ常賛府ト五松山ニ遊ブ」がそれである。五松山は南陵銅井の西五里、古精舎ありとの註がある。この三詩の中、 第二の「懐ヲ書ス」の詩は李白のこの頃の心境を伺ふ上に重要である。曰く、
歳星入漢年 歳星漢に入るの年 ※1木星の漢名。東方朔はこの化身と。
方朔見明主 方朔 明主に見(まみ)ゆ。 ※2漢の武帝に仕へた東方朔。
調笑當時人 調笑す当時の人 ※3嘲笑。
中天謝雲雨 中天 雲雨に謝(さ)る。
一去麒麟閣 一たび麟麟閣を去り ※4武帝が建てた閣、ここでは武帝の宮廷。
遂將朝市乖 つひに朝市と乖(そむ)く。 ※5朝廷や市井。
故交不過門 故交も門を過ぎず
秋草日上階 秋草 日に階に上る。
當時何特達 当時なんぞ特達 ※6特別に衆からぬき出る。
獨與我心諧 ひとりわが心と諧(かな)ふ。
置酒凌歊臺 酒を置く凌歊台(リョウコウダイ) ※7当塗県城の北の黄山の上に宋の武帝が建てた台。
歡娯未曾歇 歓娯いまだかつて歇(や)まず。
歌動白紵山 歌は動かす白紵(ハクチョ)山 ※8当塗県の東、桓温がここに遊んで白苧歌を作った。
舞廻天門月 舞は廻(めぐ)る天門の月。 ※9当塗県の博望山は西梁山と向ひあって揚子江をはさみ天門と称せらる。
問我心中事 わか心中の事を問ふ
爲君前致辭 君がために前(すす)んで辞を致す。
君看我才能 君看よや我が才能
何似魯仲尼 魯の仲尼(チュウジ)といづれぞ。 ※10孔子。
大聖猶不遇 大聖なほ不遇
小儒安足悲 小儒いづくんぞ悲しむに足らん。
雲南五月中 雲南 五月の中
頻喪渡瀘師 頻りに渡濾の師を喪ふ。 ※11濾水を渡って攻め入った軍隊。
毒草殺漢馬 毒草 漢馬を殺し
張兵奪秦旗 張兵 秦旗を奪ふ。 ※12伏兵。※13唐軍の軍旗。
至今西二河 今に至るも西二河 ※14西洱河が正し、洱海のことと。
流血擁僵屍 流血 僵屍(キョウシ)を擁す。 ※15たほれた死骸。
將無七擒略 将に七擒の略なく ※16諸葛孔明が孟獲を七たび擒へ七たび縦ったごとき計略。
魯女惜園葵 魯女 園葵を惜む。 ※17魯の漆室の女が君老い太子幼にして国の危いのを心配したといふ故事。
咸陽天下樞 咸陽は天下の枢※19たるに ※18長安。※19中心。
累歳人不足 累歳 人足らず。 ※20来る年も来る年も。
雖有數斗玉 数斗の玉ありといへども
不如一盤粟 一盤の粟(ゾク)にしかず。 ※21穀物。
ョ得契宰衡 頼(さいはひ)に宰衡※22と契(まじは)るを得 ※22宰相。
持鈞慰風俗 鈞(キン)を持(ヂ)して※23風俗を慰めん。 ※23天下の政権をとる。
自顧無所用 みづから顧みるに用ふるところなく
辭家方來歸 家に辞してまさに来り帰る。
霜驚壯士髮 霜は驚かす壮士の髪
涙滿逐臣衣 涙は満つ逐臣(チクシン)の衣。
以此不安席 ここをもって席に安んぜず
蹉跎身世違 蹉跎(サタ)して世と違(たが)ふによる。
終當滅衛謗 つひにまさに衛の謗(そし)りを滅し
不受魯人譏 魯人の譏(そし)りを受けざるべし。 ※24孔子が衛に行つて南子にまみえ、そのため魯の生れなる子路にそしられたこと。
この詩を見ると、崩壊に瀕した長安朝廷の状勢を李白が良く知ってをり、これに切歯してゐる愛国の情が明らかに知られる。宋代の詩人はとかく李白に愛国の情の発露がないとして、 杜甫の下位に置きたがる傾きがあるが、李白に愛国詩がないといふのはこの一篇をもってしても李詩を知らざる者の言といへよう。
いま翻って李白が去った後の長安政界の有様を一瞥して見よう。
李白の去った翌年、天宝四載、楊太真は貴妃の位に封ぜられた。これまでは娘子(ジョウシ)と呼ばれてゐたのが、正しく妃の位に具はったのである。 これより玄宗は益々遊宴を事として政治を顧みず、僥倖をこひねがふものは、帝の好むところに就いて、その傾向を助長せしめた。
宮中の道教の尊信も盆々激しくなった。天宝七載、老子が華清宮の朝元閤に現はれた。そこで帝はこれを改めて降聖閣と名づけた。翌八載、 太白山人李渾なるものは太白山の金星洞に霊符ありといひ、帝が求めさせると果してこれを得た。李白が見んことを求めて得られなかった老上道君や奇蹟が現実になったのである。 しかしこれが詐術であったとしたらどうであらう。かかる詐術を行ふ者や、またこれにたぶらかされる宮廷の存在は認めたくないが、もし果してさうだったとしたら、どうであらう。
廷臣の軋轢(アツレキ)は益々激しい。李白の如く無力であり、身を斥(しりぞ)けること容易な者と異った人間同士に於いては、これが更に大なる悲劇を惹起するのは当然である。 それは天宝五載の正月の韋堅と皇甫惟明の左遷から始まった。韋堅は皇太子、即ち後の粛宗の妃の兄である。かかる貴戚さへ左遷されるのである。それに先立つとはいへ、 微官で門閥をもたない李白如きが、忽ちにして逐はれたのは当然の事なのであった。しかも韋堅等は七月には死を賜ひ、同時に李白と仲好かった前の左相李適之も左遷されて自殺した。 かかる大獄はその後も頻々として起った。それを一々記すことは煩はしいが、六載正月、任地で死を賜はった北海の太守李邕(リヨウ)のことだけは一言して置かなければなるまい。
李邕は盛唐の詩人としても注目すべき一人であるが、杜甫や李白と交際のあった点が特に注意を要する。彼は揚州の人であり、高宗の顕慶中に仕官してより硬骨の名を悉(ほしいま)まにし、 そのため度々左遷され、多く地方官に任じた。義を重んじ、士を愛したため、その入京するや、士人は街路に聚って眺め、すずなりになったといふ。 開元の終りに北海(山東省益都)の太守となったが、この時杜甫を招いてこれと詩を語ったことは、杜甫の「八哀詩」その他に見えてゐる。
ここに至って李林甫の憎しみを受け、受賄の罪に問はれて殺されたのである。彼はもともと細行を顧みぬたちで至る所で賄賂を受け、遊猟をこととし、 またその詩文によって得た金も数万に上ったといはれるから、自ら招いた運命ともいへるが、李林甫や歴代の宰相に憎まれたのは主として、その士人に於ける人望に対する嫉妬であったといへば、 当時の政界の状態を如り得よう(「旧唐書」190中「唐書」202)。李白もこの李邕と浅からぬ関係があり、その冤を痛惜したことは、彼に「李邕ニ上ル」の詩があり、 また「江夏ノ修静寺ニ題ス」といふ詩は後に江夏(武昌)の李邕の旧居に至っての作であって、
我家北海宅 我が家の北海の宅 ※1わが李氏の。
作寺南江濱 寺となる南江の浜(ほとり)。
空庭無玉樹 室庭 玉樹なく
高殿坐幽人 高殿 幽人を坐せしむ。 ※2世を避けてゐる人。
書帯留青草 書帯※3 青草を留め ※3草の名と。
琴堂冪素塵 琴堂 素塵に冪(おほ)はる。
平生種桃李 平生(ヘイゼイ) 桃李を種ゑしが
寂滅不成春 寂滅して春をなさず。 ※4弟子たちを沢山とりたてたが誰ひとり出世したものはない。
といって、悲痛慷慨の気が溢れてゐることによって知られる。
かく廷臣の争は天宝年代に至って激しくなり、この争に常に勝利を占めたのは李林甫であったが、やがて彼が天宝十一載に死するや、 楊貴妃の族兄揚国忠がこれに代って益々私党を樹て政権を壟断(ロウダン)したのである。さうしてこの二人がいづれも無学文盲の小人であり、 眼中国家なく君王なかったことは周知の事実である。
濫刑が既に党争に因るとならば、ここに濫賞が行はれるのも当然である。賞は功なき者に与へられ、官には無能者が任ぜられた。これを史実に見れば、天宝五載、 李林甫、陳希烈の二宰相の像を長安の太清宮(老子廟)の老子の像の傍に置いた如きがそれである。李林甫の姦佞の小人なることは前述の如くであるが、陳希烈も安禄山の軍が長安に入るや、 これに降参して宰相に任ぜられた無恥の徒である。これをもって老子の侍人とするが如きはいかに玄宗に明のなかったかを思はしめる。また七載には宦官の高力士に驃騎大将軍の官を与へ、 九載には安禄山を東平郡王に封じてゐる。いづれも未曾有の待遇であるが、中でも蛮族の出身であり、戦功もない武将を皇族待遇としたが如きは濫賞極まるといはねばならない。 官爵が濫りに与へられたばかりでなく、天宝年間には臣下への賜物が大規模に行はれた。楊貴妃の一族や安禄山への恩賜の厚大であったことは周知の如くである。 他にも八載の正月に京官すべてに絹を賜ひ、春の遊に備へしめ、二月には百官を左蔵庫に引いて銭幣を縦観せしめ絹を賜って帰らせ、十一載八月にはまたこれを行ひ、 十三載には躍龍殿門に出御し、群臣を宴して絹を賜ひ、歓を尽くし罷めたが如きいづれもその例とし得る。
然らば当時の経済状態はどうかといふに、国家財政は玄宗の豪奢と外征とによって、既に赤字状態だったやうである。朝廷はこれを補はんがため種々対策をなしたが、 それはいづれも官が民の利を奪ふ種類のものであった。しかもこの間、天災漸く多く、天宝十載の春には、陜郡(河南省陜県)の運送船が火を失して米船二百余隻を焼き、 秋には広陵(揚州)に大風があり船数干艘を覆した。その直後には長安の武庫が火を失し、武器四十七万を焼失した。十二載には長安に永雨があり、 米価が騰貴したので朝廷の米十万石を出して窮民を救はねばならなかったが、十三載秋また六十余日に亘って永雨があり、長安の家々は頽れ、 物慣が騰貴したので太倉の米一百万石を出して貧民を救ふといふ有様であった。元来、長安を中心とする陝西地方はこの頃に至り殆んど江南地方の物資に頼る形勢となってゐた。 隋の時に開かれた大運河と、天宝の初に韋堅や韓朝宗の開いた滻水(サンスイ)、渭水(イスイ)の運河によって、水運の便が急速に開けたことがこれを助長したのは事実であるが、 江南肥沃なりといへどもその物資に頼らねばならぬほど華北の産業が衰へ、加ふるに長安の人口の稠密によって、かかる物資の不均衛状態が発生したのである。 一朝事あって運河の水運が停止したならば、長安の支ふる能はざることは、かくて当然の帰結となったのである。前述の運送船の火災も相当な打撃であったらうが、 安禄山が河北に起って汴(ベン)、洛を陥るるや、官兵が食なくして敗れたのは、このことからも予想し得ることであった。
かく多くの問題を孕む天宝の末年に玄宗はまた雲南や吐蕃(チベット)方面に大兵を送って、唐朝の瓦壊を促進した。吐蕃の石堡城の攻防には唐は開元の末年より天宝八載に至る長年月を要し、 哥敍翰の善戦によってやうやくこれを確保し得たが、雲南方面では大失敗を演じた。雲南は当時唐の領土ではなく、今のタイ人の同族が建てた南詔国があり、 その都は大理に近く大和城と呼ばれてゐた。唐にははやくより恭順の意を表し、質子(チシ)を長安に遣してゐたのが、天宝八載頃より唐の辺吏の挑発によって吐蕃と連合して命を聴かなくなった。 十載、剣南節度使の鮮于(センウ)仲通は六万の兵を率ゐてこれを伐ち、濾水(ロスイ)を渡って攻めたが西洱(セイジ)河に大敗し、死者大半であった。 朝廷はこれに懲りず十三載には再び大軍を興し、李宓(リフク)を将として攻めさせたが、またまた西洱河に大敗した。この間の兵糧運搬のため、兵丁の徴発多く、 主戦論の筆頭たる楊国忠は怨みの的(まと)になったのである。この当時の感情は白楽天の長詩「新豊折臂翁」や杜甫の「兵車行」によく表はれてゐる。
しかし以上に私が縷々数千言を費して説明した当時の唐朝の状勢は、前述の「懐ヲ書ス」の詩に一層よく表はれてゐるのである。李白の詩はいたづらに浪曼的であって、 写実的な趣を能くしないといふものもあるが、これによって彼は能くしないのではなくして、し得るが、それを好まなかったのだといふことが知られる。 野にある人間が時政を批評するは所謂処士横議であって、大言壮語のみならばともかく、皮相的な事実を捉へて論ずればデマゴーグとなることが多い。李白はそれを彼の主義として好まなかったし、 当時の唐朝の勢カも少くとも見かけではいまだかかることを許し、もしくは必要とするほど衰へてゐなかったのである。「懐ヲ書ス」が彼としては未曾有の激越な詩でありながら、 杜甫や白楽天の作と比べると、おのづから異るのはかかる事情に基くと思ふ。
なほまた題材から推してこの頃の作に相違ないものに有名な
哭晁卿衡 晁卿衡を哭す
日本晁卿辭帝都 日本の晁卿(チョウケイ) 帝都を辞し
征帆一片遶蓬壺 征帆一片蓬壷を遶(めぐ)る。 ※1蓬莱に同じ。
明月不歸沈碧海 明月 帰らず碧海に沈み
白雲愁色滿蒼梧 白雲 愁色 蒼梧※2に満つ。 ※2東北海中の郁洲のこと、もと蒼梧から飛んで来たと。
の詩がある。これは周知の如く阿倍仲麻呂の遭難を聞いて作られた哀悼の詩である。仲麻呂は文武天皇の御代の二年の生れといふから、李白より長ずること三歳、 元正天皇の養老元年(唐の開元五年)の遣唐船に留学生として乗込んだ。この船には同じく留学生として吉備真備がをり後に問題を起した留学僧玄ム(ゲンボウ)も同船してゐた。 李白と交があったのはその左補闕の官だった頃で、 李白が長安にゐた僅か三年間のことであったが「あまのはらふりさけ見れば」の歌を詠んだ仲麻呂とこの詩人との交友が期間の短さにも拘らず深かったことはこの詩が証明してゐる。 仲麻呂が帰朝するため遣唐大使藤原清河の船に乗船したのは天宝十二載、国を出てから三十六年目のことであった。長安を出発するに際しては王維が送別の詩「秘書晁監ノ日本国ヘ還ルヲ送ル」を贈った。 乗船の地は江南の蘇州、船は恒例の如く四船より成り、第一船には大使、第二船には副大使大伴古麻呂、第三船には吉備真備が乗ってゐた。この四つの船の中、 第一船のみが奄美大島の近くより漂泊して遠く安南の驩州(カンシュウ)(今の越南のハノイの南)に着いたのである。この遭難のことが唐に知られたのは日本からの報知によってであり、 もとより越南に生存してゐるとは知る由もない日本、唐いづれでも清河、仲麻呂の溺死が確定的に考へられたのである。衡は朝衡に同じく仲麻呂が当時唐で与へられてゐた衛尉卿の雅称である。 蒼梧は東海の仙島の称である。仲麻呂が幸ひに命を全うし得た清河とともに長安を目指して北上した時は、天宝十三載の半ば過ぎ、安禄山の乱の直前で、李白は江南にあり、 これより再びと相見ることはなかったと思ふべきである。李白がこの詩を作った地も仲麻呂が船出した蘇州もしくはその近辺であったらう(杉本直治郎博士「阿倍仲麻呂伝研究」)。
天宝十三載の冬もしくは翌年の春、李白は南陵より再び宣城に赴いた。彼はここで長史の李昭やその長官の太守趙悦や録事参軍呉鎭の庇護の下に、 悠々自適の生活に入らうとしてゐたのであるが、この時、李白の憂へてゐた唐の崩壊は、内よりには非ずして、外の安禄山の謀叛によって始まったのである。