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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944
七 李白と道教
長安を去った李白の行先は、李陽冰によれば、陳留の探訪大使李彦允(リゲンイン)に従って、北海の高天師を斉州(斉南)の紫極宮に訪ね、 道籙(ドウロク)を授からんことを乞うたといふのである。北海(青州)の高天師とは、李白はすでに長安で知合になってをり、 「高尊師・如貴道道士ノ道籙ヲ伝ヘ畢リテ北海ニ帰ルヲ餞(はなむけ)シ奉ル」といふ詩がある。道籙を伝授されるとは、道教信者の経るべき過程であって、 道教の受戒に当るものであらう。のちに災厄よけにいくらでも売られた符とは異ると思はれる(窪徳忠「道教と中国社会」)。その大体は「隋書」経籍誌に記されてゐる、即ち道教に入り、 道を受けんとする者は、まづ五千文籙を受け、次に三洞籙を授かり、次に洞玄籙を受けるのである。籙とは白絹に書し、天の諸官属の名を記してゐる。 またその間に色々の呪文が記してある。その文章は詭怪である。これを受けんとする者は、先づ潔斎し、ついで金環一個と種々の礼幣とをもって師に見(まみ)える。 師はこの礼幣を受けとり、それから籙を授け、金環を二分し、各々その一半をもって師弟の約束のしるしとする。弟子は籙を受ければ、これを封緘して腰につけるのである。
ここに至るまでに、李白と道教との関係は実に深い。彼の詩が仙骨を帯びてゐると称せられるのも当然であるが、これがまた儒教的な杜甫の詩と好対照をなし、そのため後の批評者、 特に宋代の詩人学者から、李白の詩を杜甫の詩の下に置かうとする傾向が起ったのである。ただに藝術上のみならず、彼の生活に多大の影響を及ぼしてゐるこの道教と李白との関係を、 ここで一応ふりかへってみる必要は十分にあると思ふ。
前述の如く、彼は少年時代、いまだ四川省にゐた頃、処士東巌子といふ者と岷山(ビンザン)に隠棲してゐたことがある。東巌子の素姓は不明だが、 彼等の生活が十二分に道教的な色彩を帯びたものであったことは否めない。ついで恐らく安陸にゐた頃には、しばしば隋州(湖北省)の胡紫陽の許に赴いた。 胡紫陽の事蹟は李白の作と伝へられる「漢東紫陽先生碑銘」といふ文があって、これに詳しく見えてゐる。即ち、
「胡紫陽は代々道士の家に生れ、九歳で出家し、十二歳から穀類を食ふことをやめ(これが修行の第一段階である)、二十歳にして衡山(五嶽の一、南嶽、湖南省衡陽の北)に遊んだ。 (この後は欠文があって判りにくいが、その後、召されて威儀及び天下採経使といふ道教の官に任ぜられ、隋州に飡霞楼を置いたなどのことが見えてゐる。)彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)、 晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)、その弟子唐の王遠知(昇元先生)、その弟子潘師正(体元先生)、その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、 李含光より伝はった。弟子は三千余人あったが、天宝の初、その高弟元丹邱はこれに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、 病と称して往かぬといふ高潔の士であった。その後、いくばくもなくして玄宗に召されると、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。 その去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったが、葉県(河南省)まで来て、王喬(また王子喬、王子晋といひ周の王子で仙人だったと)の祠に宿ったとき、しづかに仙化した。 この年十月二十三日、隋州の新松山に葬った。時に年六十二歳であった。」
といひ、自己が紫陽と親交あり、その説の十中の九を得たことをいってゐる。李白にはまた「隋州ノ紫陽先生ノ壁ニ題ス」といふ詩があって、この交を証してゐる。 しかし胡紫陽よりも、その弟子元丹邱との関係は、さらに注意すべきものであって、それとの関係を敍する詩だけでも、「西嶽雲台ノ丹邱子ヲ送ル歌」「元丹邱ノ歌」、 「潁陽ニテ元丹邱ノ准陽ニ之クニ別ル」、「詩ヲ以テ書ニ代ヘ元丹邱ニ答フ」、「岑ニ尋ネラレ元丹邱ニ就イテ酒ニ対シテ相待チ詩ヲ以テ招カルルニ酬ユ」、 「高鳳ノ石門山中ニ元丹邱ヲ酬ヌ」、「元丹邱ガ坐ノ巫山屏風ヲ観ル」「元丹邱ノ山居ニ題ス」、「元丹邱ノ潁陽ノ山居ニ題ス並ビニ序」、「嵩山ノ逸人元丹邱ノ山居ニ題ス并ビニ序」等、 実に十数首に上ってゐる。その他にも彼の名の表はれる詩も五篇あるので、元丹邱を李白の第一の友と称して差し支へないと思ふ。これらの詩の中、第一のものは最も力作である。
西嶽雲臺歌送丹邱子 西嶽の雲台の歌、丹邱子を送る
西嶽崢エ何壯哉 西嶽崢エ(ソウコウ※1)として何んぞ壮なるや ※1けはしき様。
黄河如絲天際來 黄河は糸のごとく天際より来る。
黄河萬里觸山動 黄河 万里 山に触れて動き
盤渦轂轉秦地雷 盤渦(ハンカ※2) 轂転(コクテン※3)して秦地雷(いかづちな)る。 ※2渦まいてまはる。※3車のこしきのやうに廻る。
榮光休氣紛五彩 栄光休気※4五彩紛る ※4尭の七十年に河洛を祭ったら栄光が黄河から出、休気が四方に立ちこめたと。休は美。
千年一清聖人在 干年一たび清(す)んで聖人あり。
巨靈咆哮擘兩山 巨霊 咆哮(ホウコウ)して両山を擘(つんざ)き ※5黄河の神。
洪波噴箭射東海 洪波 箭(や)を噴(ふ)いて東海を射る。
三峰却立如欲摧 三峯 却立(キャクリツ)して擢けんとするが如し ※6華山の蓮花、落雁、朝陽の三峰。
翠崖丹谷高掌開 翠崖 丹谷 高掌開く。 ※7華山の東北には仙人掌といふ峰がある。
白帝金精運元氣 白帝の金精 元気を運(めぐ)らし ※8白帝金天氏が華山の神。
石作蓮花雲作臺 石は蓮花をなし雲は台をなす。
雲臺閣道連窈冥 雲台の閣道は窈冥(ヨウメイ※9)に連り ※9暗処。
中有不死丹邱生 中に不死の丹邱生あり。
明星玉女備灑掃 明星玉女※10 灑掃(サイソウ)に備はり※11 ※10華山にゐる神女。※11掃除のためにをり。
麻姑搔背指爪輕 麻姑(マコ※12) 背を掻いて指爪(:シソウ)軽し。 ※12神人、その爪は鳥のごとしと。
我皇手把天地戸 わが皇手に拙る天地の戸 ※13いま玄宗皇帝は西王母のごとく天地の戸を自由にしてをられるが。
丹邱談天與天語 丹邱 天を談じ天と語る。 ※14天にたぐへるべき皇帝と。
九重出入生光輝 九重※15 出入して光輝を生じ ※15宮中の門は天と同じく九重。
東來蓬萊復西歸 東のかた蓬萊を求めまた西に帰る。
玉漿儻惠故人飲 玉漿※16もし故人※17に恵んで飲ましむれば ※16明星玉女の持つ仙薬。※17李白。
騎二茅龍上天飛 二茅龍(ボウリュウ)に騎(の)り天に上って飛ばん。 ※18華山にある呼子先のごとく、茅がやで作った狗が化した龍にのって。
この詩では両嶽、即ち五嶽の一なる華山の景亀と、ここに住した元丹邱が玄宗に招かれて山を上下したこととがしるされてゐるが、丹邱はまた嵩山、 即ち五嶽の中嶽にもゐたことがあり、ここにゐる彼を歌ったのが「元丹邱ノ歌」である。この詩の方が短いが丹邱の姿をよく表してゐるといへやう。
元丹邱 愛神仙 元丹邱 神仙を愛す。
朝飲潁川之清流 朝には頴川(エイセン)の清流を飲み※1嵩山から発する河。
暮還嵩岑之紫煙 暮には嵩岑(スウシン)の紫煙に還る。
三十六峰常周旋 三十六峰 常に周旋す ※2嵩山には三十六峰がある。※3廻りあるく。
長周旋,躡星虹 長く周旋し 星虹を躡(ふ)む
身騎飛龍耳生風 身は飛龍に騎(の)りて耳に風を生ず。
横河跨海與天通 河に横はり海に跨(またが)って天と通ず
我知爾遊心無窮 われは知るなんぢの遊心窮まりなきを。
道教の体系には、中国固有の山嶽崇拝の思想が含まれてをり、天に最も近く、従って神仙の棲家でもあると考へられた五嶽(嵩山、泰山、華山、衡山、恆山) をはじめとする諸方の霊山には、この時代には必ず道観が建てられ、道士がゐた。李白の周遊もだから必ずしも轗軻不遇(:カンカフグウ)のためばかりでもなく、 これらの聖地への巡礼も含まれてゐたやうである。
紫陽の弟子では、丹邱以外に元演といふのがゐて、丹邱の兄弟か一族であらうと思はれるが、 李白がこれとも交ったことは「冬夜隋州ノ紫陽先生ノ飡霞楼ニ於イテ烟子元演ノ仙城山ニ隠ルルヲ送ルノ序」といふ文によって知られる。 これによれば元丹邱は霞子と呼ばれてゐたのである。
これらの道士以外に、山東での交友たる竹渓の六逸の五人も、竹林の七賢に擬したからには、同じく老荘の流を汲む同好の友であったに相違ない。 かくて李白のかかる方面での交友関係が、つひに呉筠、玉真公主等を通じて宮廷への推薦となったことは、既述の通りである。
道教は老荘の学説と、斉(セイ)を中心とした神仙説と、後漢の末に漢中の張魯等によって形成された天師道との三種の要素が混合して成立した宗致である。 老荘の教は周知の如く、孔子孟子の儒教に対する反動思想として起ったものであり、これが仁義によって修身斉家冶国平天下を計るのに反対し、虚静、 即ち人為的な工作を避け天地の常道に則(のっと)った生活によって、理想社会の出現を期待する。儒教が積極的なのに対し、これはあくまで消極的である。 而して彼等が漠然とその実在を考へた理想国は、斉を中心とした神仙説により具体的な形を具へる。即ち斉の東方の海上に存在する三神山(瀛州、方壷、蓬莱)ならびに西方極遠の地に存在する西王母の国、 これらが現在する理想国である。ここには神仙が居住し、耕さず力(つと)めず、気を吸ひ、霞を食(くら)ひ、仙薬を服し、金丹を煉(ね)って、身を養ってゐる。もとより不老長生である、 闘争もなければ犯法者もない。かかる神仙との交通によって、同じく神仙と化し延寿を計り得るのであって、これ以外には施すべき手段はなく、これ以外の地上の営みはすべて徒為(むだ)であるとなすに至る。 しかもこの神仙との交通の方法を、実際に獲得したと称する者が漢の武帝の頃から出て来だしたが、後漢末になると、鉅鹿(キョロク)の張角、巴郡の張修等、 ただに自ら神仙の法を修得するのみではなくして、その霊力を以て人民に施さんとするに至った。これはあたかも原始キリスト教に於けるメシヤの意識の勃興に比せらるべきであらう。 かくてこのころになると、道教の宗教としての形体はほぼ具はるに至ったのである。これらのメシヤたちが、地上の主権者たる政府より危険視されたのは当然であって、 ここに後漢末の大乱が惹起された。漢はこのため亡んだが、これらの者もまた勦滅(:ソウメツ)された中に、張魯だけは魏の曹操と妥協したから、この派だけはこれより各地に拡がるを得た。 その後、その教が儒教の経のあるものをも巧みに自己の内にとり入れ、仏教の儀軌をも援用して現在に至ってゐることは周知の事実である。
この道教の勢力は各方面に多大の影響を及ぼした。もとより道教たるものが、前述の如く多くの要素から成立してゐるのであるから、その影響の仕方も様々であって、 ある場合には老荘の説に基く純思想として、ある場合には天師道の流をひく繁瑣なる儀軌による愚民のたぶらかしとなるなど形相は異にしてゐるが、李白の場合にはこれらすべてが、 彼の詩と生活とに根強い影響を与へてゐることは否めない。
彼の詩酒の生活は、決して西洋の詩人たち、例へばボードレールやヴェルレーヌなどの頽廃の生活と同一視すべきではない。後者には必ず悔恨がつきまとひ、 悲痛感が伴ふのに対し李白の詩酒には少しも暗い翳りがないのは、全くその根柢にかかる思想的基盤があったからである。ボードレールらが酒によって神と離れたと感じるとき、 李白は酒によって神に近づき得たと信じてゐたのである。
かかる傾向はもとより李白に始まったのではなくして、既に晋初の竹林の七賢たちに見られてゐる。彼等ならびにその流を継ぐものの生活態度は次の如くであった。
「学者は荘子老子を祖となして、孔子孟子の撰たる六経(リクケイ)を黜(しりぞ)け、談者は虚談をのみ語って法度を賎しみ、身を行ふ者は自由放蕩を通とし、節義信義を偏狭とし、 官吏は俸禄をただ取りするのを貴しとして、その義務を尽す者を軽蔑し、文書に盲目判を押すものを高尚だとし、勤勉謹直の士を笑ふ。三公の中に無為の者があれば、これをほめ、 虚談をするのを上等の議論といふ。政治の仕方をいひ、正邪を糾(ただ)す者はみなこれを俗吏といひ、なんら為すところなく、他人まかせにして公務に心を苦しめない者は、 皆その名が海内に重んぜられた(干宝「晋紀総論」)」。
この風潮が西晋をして五胡の侵入に対抗し得ず、国の北半を放棄せしめた原因であることは周知の事実だが、東晋になってもこの風はなかなか止まなかった。 かやうに老荘の虚無思想は、時に人をして国家の盛衰をも顧みなくさせるに至るのだが、反面にかの醜き政権争奪のみを事とし、眼中私利あって同じく国家なき輩とは、 いづれを勝れりともし難いのである。ともかく儒術を以て治道を励まさんとすれば、一面に本旨を忘れた瑣末な政治が現はれることは事実である。かかる事態への匡正策として、 放逸なる士人が出現するのは止むを得ぬことといはねばなるまい。
開元時代は姚崇(ヨウシュウ)宋m(ソウケイ)等の名宰相の輔佐の下に、六典は完備し、国家も私人もともに富み、治績大いに揚がった時代であるが、 あたかも太宗の貞観時代に次いだ則天武后の執政の世と同じく、天宝時代となると、反動的にかかる虚無思想が瀰漫(ビマン)しはじめたのである。この思想に最も甚しく影響を受けたのが、 玄宗皇帝であったことは周知の如くであるが、それは底流として早く開元時代にも存した。李白はかかる時代の子として、その生活、その詩に放逸をほしいままにしたのである。 「襄陽歌」の如きは、この間の消息を最も明らかにしてゐるが、その他にもかかる意味での作は多く見出され、同時に李白の詩の傑作の少からぬ部分を占めてゐる。
荘周夢胡蝶 荘周胡蝶を夢み
胡蝶爲荘周 胡蝶は荘周となる。
一體更變易 一体たがひに変易(ヘンエキ)し
萬事良悠悠 万事まことに悠悠たり。 ※1はてしない様。
乃知蓬萊水 すなはち如る蓬莱の水の
復作清淺流 また清浅の流をなすを。
青門種瓜人 青門に瓜を種うるの人は ※2長安城の東南の覇城門の一名を青城門といふ。
昔日東陵侯 昔日(セキジツ)の東陵侯たり。 ※3邵平、秦が亡んだあとは平民となった。
富貴故如此 富貴はもとかくのごとし
營營何所求 営々なんの求むるところぞ。 ※4あくせくと利を求める様。
「古風」の第九首である。
はじめに荘子の「斉物論」を引き、ついで秦の東陵侯邵平をとらへ来り、富貴栄華に齷齪(アクセク)たる俗人を嗤(わら)ひ去って余すところがない。
同じく「古風」第三首は
秦皇掃六合 秦皇 六合(リクゴウ※1)を掃(はら)うて ※1東西南北上下の六方、天地。
虎視何雄哉 虎視なんぞ雄なるや。
揮劍決浮雲 剣を揮って浮雲を決(き)れば
諸侯盡西來 諸侯ことごとく西に来る。 ※2秦に降参して西に来た。
明斷自天啓 明断※3 天より啓き ※3始皇帝の英明なる果断は。
大略駕群才 大略 群才に駕す。
收兵鑄金人 兵を收めて※4金人を鋳(い) ※4兵器をとりあつめて。
函谷正東開 函谷まさに東に開く。 ※5いままで秦の国を守ってゐた函谷関も東にあけっぱなしになった。
銘功會稽嶺 功を銘(しる)す会稽の嶺。 ※6始皇帝の三十七年、会稽の嶺に碑を立てて功を録した。
騁望琅琊臺 望を騁(は)す瑯琊(ロウヤ)の台 ※7同じく二十八年瑯琊山に上った。
刑徒七十萬 刑徒七十万
起土驪山隈 土を起す驪山(リザン)の隈。 ※8同じく三十五年阿房宮を造った。
尚採不死藥 なほ不死の薬を採り ※9同じく二十八年徐市らを三神山に遣はした。
茫然使心哀 茫然として心を哀(かなし)ましむ。 ※10徐市が薬をもつて帰らないので。
連弩射海魚 連弩 海魚を射 ※11海中の悪魚を射た。
長鯨正崔嵬 長鯨まさに崔嵬(サイカイ)。 ※12高くして大。
額鼻象五岳 額鼻※13は五嶽に象(かたど)り ※13長鯨の。
揚波噴雲雷 波を揚げて雲雷を噴(は)き
鬐鬣蔽青天 鬐鬣(キリョウ※14) 青天を蔽ふ ※14鯨のひれとひげ。
何由睹蓬萊 なにによりてか蓬莱を睹ん。
徐市載秦女 徐市(ジョフツ) 秦女を載(の)せ
樓船幾時廻 楼船※15 幾時か廻(かへ)る。 ※15二階づくりの大船。
但見三泉下 ただ見る三泉の下(もと) ※16始皇帝の陵を掘るとき地下水に三度まであたったといふ。
金棺葬寒灰 金棺の寒灰を葬るを。
といふ詩も、仙を願ふものに反対してゐるのではなく、また玄宗を諷刺したのでもなく、ただ神仙の道を求める資格が、豪奢を好み権術を事とした始皇帝には、 なかったことを云はんとしてゐるのみと思はれる。たとへ徐市には始皇帝を欺く意があったとしても、三神山の存在しないことを李白がいふ筈もなく、 神仙の道を求めることをそしるはずもないからである。
天津三月時 天津※1三月の時 ※1洛陽の天津橋。
千門桃與李 千門 桃と李(すもも)と。
朝為斷腸花 朝(あした)には断腸の花となり
暮逐東流水 暮には東流の水を逐(お)ふ。
前水復后水 前水また後水
古今相續流 古今あひ続いて流る。
新人非舊人 新人は旧人にあらざれども
年年橋上游 年年 橋上に遊ぶ。
雞鳴海色動 雞鳴いて海色動き ※2暁の色。
謁帝羅公侯 帝に謁すと公侯羅(つらな)る。
月落西上陽 月は西上陽※3に落ち ※3洛陽にある離官。
餘輝半城樓 余輝 城楼に半ばなり。
衣冠照雲日 衣冠 雲日を照し
朝下散皇州 朝より下って皇州※4に散ず。 ※4帝都。
鞍馬如飛龍 鞍馬 飛龍のごとく
黄金絡馬頭 黄金 馬頭を絡(めぐ)る。
行人皆辟易 行人みな辟易 ※5退散するほどで。
志氣嵩丘 志気 嵩丘(スウキュウ)に横はる。 ※6その元気ときたら嵩山まで横ざまに亘るほどだ。
入門上高堂 門に入って高堂に上れば
列鼎錯珍羞 鼎を列して珍羞を錯(まじ)ふ。 ※7珍らしい美昧。
香風引趙舞 香風 趙舞を引き
清管隨齊謳 清管 斉謳(セイオウ※8)に随ふ。 ※8斉のうた。
七十紫鴛鴦 七十の紫鴛鴦
雙雙戲庭幽 双双 庭の幽なるに戯(たはむ)る。
行樂爭晝夜 行楽 昼夜を争ひ
自言度千秋 みづから言ふ千秋を度(わた)ると。
功成身不退 功成りて身退かざれば
自古多愆尤 古より愆尤(ケンユウ※9)多し。 ※9とがめ。
黄犬空嘆息 黄犬むなしく歎息し ※10秦の宰相李斯の故事。
克成釁讐 緑珠 釁讐(キンシュウ)をなす。 ※11石崇は愛妾緑珠のおかげで殺された。
何如鴟夷子 なんぞしかんや鴟夷子(シイシ)※12が ※12越の相、范蠡。
散髪櫂扁舟 髪を散らして扁舟に櫂(トウ:かじ)せるには。
同じく「古風」の第十八である。はじめと終りとに栄華の無常なるをいひ、中ごろではそのはかない栄華に得々たる権力者たちを心憎いまでに描写して効果を深めてゐる。 しかしこの無常感は、仏教のそれには非ずして、老荘の説に基くものである。咸陽の市に黄犬を牽いた得意の時を過ぎて、 刑場に就く李斯と対照されてゐる鴟夷子は越王勾践の相だった范蠡(ハンレイ)であるが、李斯を以て当時の李林甫、楊国忠に擬したすれば、呉を亡したのち髪を散らし、 姓名を変じて斉に赴いた無欲の范蠡は李白の理想とする姿でなければならぬ。
現世の栄華が既に恃むべからざる上は、人間の理想はここにはあらずして、神仙との交際、乃至神仙と化すことである。 李白はくりかへしくりかへしこれを憧憬してゐる。「古風」の第五なる
太白何蒼蒼 太白※1なんぞ蒼蒼たる ※1長安の西二百里にある山。
星辰上森列 星辰上に森列※2す。 ※2おごそかにならぶ。
去天三百里 天を去る三百里。
邈爾與世絶 邈爾(バクジ※3)として世に絶ゆ。 ※3はるかな様。
中有鵠ッ翁 中に緑髪の翁あり
披雲臥松雪 雲を披(き)て松雲に臥す。
不笑亦不語 笑はずまた語らず
冥棲在巖穴 冥棲して巌穴にあり。 ※4冥想にふけりながら。
我來逢眞人 われ来って真人※5に逢ひ ※5この仙人。
長跪問寶訣 長跪して宝訣(ホウケツ※6)を問ふ。 ※6仙家の秘訣。
粲然啓玉齒 粲然(サンゼン※7)として玉歯を啓(ひら)き ※7にっこりとして。
授以錬藥説 授くるに錬薬(レンヤク※8)の説をもってす。 ※8不死の薬を煉る。
銘骨傳其語 骨に銘じてその語を伝ふれば
竦身已電滅 身を辣(すく)めてすでに電(いなづま)と減(き)ゆ。
仰望不可及 仰望すれども及ぶべからず
蒼然五情熱 蒼然※9として五情※10熱す。 ※9にはかに。※10喜怒哀楽怨。
吾將營丹砂 われまさに丹砂を営み
永與世人別 永く世人と別れんとす。
といふ詩はもとより李白の空想に出でたものであるが、真人に逢はうとの憧憬の強さは、この詩をしてかへって現実味を有するに至らしめてゐる。 また「古風」の第七も同じ趣のものである。
客有鶴上仙 客に鶴上の仙あり
飛飛凌太清 飛び飛んで太清(タイセイ※1)を凌ぐ。 ※1天の異名。
揚言碧雲裏 揚言す碧雲の裏(うち)
自道安期名 みづから道(い)ふ安期の名。
兩兩白玉童 両両※2 白玉の童 ※2左右にはふたりならんで。
雙吹紫鸞笙 双(なら)び吹く紫鸞(シラン※3)の笙(ショウ)。 ※3仙鳥の鸞のかたちをした。
去影忽不見 去影たちまち見えず
囘風送天聲 回風 天声を送る。 ※4去った方向からかへり吹いて来る風がかの天人の音楽を送って来る。
擧手遠望之 手を挙げて遠くこれを望めば
飄然若流星 飄然※5として流星のごとし。 ※5ひらりと飛びゆく様。
愿餐金光草 願はくは金光草(キンコウソウ※6)を餐(くら)ひ ※6東岳夫人のゐるところに生える仙草。
壽與天齊傾 寿 天とひとしく傾かん。
安期生は蓬莱にゐる仙人である。二人の仙童を随へ、丹鶴に乗じて飛ぶ姿は、さながら実見したごとく、躍如として描き出されてゐる。
しかし李白は遂に仙人を見ることが出来なかった。「古有所思行」にはいふ
我思仙人 われ仙人を思ふ
乃在碧海之東隅 すなはち碧海の東隅にあり。
海寒多天風 海寒くして天風多く
白波連山倒蓬壺 白波 山を連ねて蓬壷を倒す。 ※1蓬莱山も倒すほどに寄せて来る。
長鯨噴湧不可渉 長鯨 噴湧(フンユウ※2)渉(わた)るべからず ※2汐をふき水がわき上り。
撫心茫茫涙如珠 心(むね)を撫し茫茫※3として涙 珠のごとし。 ※3疲れうんだ様。
西來青鳥東飛去 西来の清鳥 東に飛んで去る
願寄一書謝麻姑 願はくは一書を寄ねて麻姑(マコ)※4に謝(つ)げん。 ※4女仙。
この詩では、つひに神仙のところへは、到達できたいのではないかといふ絶望しかけた詩人の姿が見られる。さらに一層哀切の響を帯びてゐるのは、 李白が老来鏡に対して作った「鏡ヲ覧テ懐ヲ書ス」といふ詩である。
得道無古今 道を得れば古今なしと ※1荘子から引く。
失道還衰老 道を失ひてまた衰老す。
自笑鏡中人 みづから笑ふ鏡中の人
白髮如霜草 白髪は霜草のごとし。
捫心空歎息 心(むね)を捫(な)でてむなしく歎息し
問影何枯槁 影に問ふ なんぞ枯槁(ココウ)せると。 ※2枯れ枯れになってゐる。
桃李竟何言 桃李つひに何をか言はん ※3桃李不言下自成蹊(史記李広伝) 。
終成南山皓 つひに南山の皓とならん。 ※4商山に隠れた漢初の四老
求めた道は遂に得られず、従って不老長生もかなはずして、鏡中の影に白髪の霜草のごときを悲しむ詩人に対してはいふべき語を知らない。
道教はいはば、李白にとっては一種の悪夢であったかもしれない。しかし彼はこれによって、轗軻不遇の生活にも一道の光明を見出し得た。また外見の華やかさにくらべて、 底に深い暗流をひそめた長安の政界の現状を目睹した時も絶望を感じることを免れた。東洋的な専制君主国に於いては、国運にとって致命的なばかりでなく、 いやしくも臣民としての義務感を有するものにとっては、耐へ得られないはずの君主の頽廃も、かくて彼を絶望の極致にまで、追ひつめることはなかったのである。この点で、 彼は少くとも狂気したヘルデルリーンや二―チェよりも幸幅であったといはねばならないし、道教に対してもかかる点では感謝しなければならない。
恐らくこの時代に最も不幸だったのは、玄宗皇帝自身だったらう。帝は李白よりも聡明だったが、その身分こそ責任のすべてを負はさるべき皇帝だったのである。 彼はこの責任を果すべく、前半生には苦しい努力を払った。さうして安らかな治世に安心し、残った後半生を享楽するために求めたのが、楊貴妃と道教とであった。 哀れこの双方に期待を裏切られたのち、帝はなほ数年を生きながらへるのである。
李白の幸福が他人よりなほ勝ってゐる点はいま一つある。それは酒である。酒は前述の如く、彼にとっては道教的生活への入門であったが、同時にこの生活に徹底し得ず、 つひにここに最後の幸幅を求め得なかった彼への救ひともなったのである。
君不見黄河之水天上來 君見ずや黄河の水 天上より来り
奔流到海不復廻 奔流し海に到ってまた廻(かへ)らざるを。
君不見高堂明鏡悲白髮 君見ずや高堂の明鏡 白髪を悲しむを
朝如青絲暮成雪 朝(あした)には青糸のごときも暮には雪をなす。
人生得意須盡歡 人生意を得ればすべからく歓を尽くすべし
莫使金樽空對月 金樽をしてむなしく月に対(むか)はしむるなかれ。
天生我材必有用 天のわが材※1を生ずる必ず用あればなり ※1才能。
千金散盡還復來 千金も散じ尽せばまたまた来る。
烹羊宰牛且爲樂 羊を烹(に)、牛を宰(に)てしばらく楽みをなせ
會須一飲三百杯 かならずすべからく一飲三百杯なるべし。
岑夫子丹丘生 岑夫子(シンプウシ) 丹邱生
進酒君莫停 酒を進む君停(とど)むるなかれ。
與君歌一曲 君のため一曲を歌はん
請君爲我側耳聽 請ふ君わがために耳を側(そばだ)てて聴け。
鐘鼓饌玉不足貴 鐘鼓 饌玉(センギョク※2)は貴ぶに足らず ※2玉餞に同じくりっぱな料理。
但願長醉不願醒 ただ長酔を願うて醒むるを願はず。
古來聖賢皆寂寞 古来 聖賢みな寂寞
惟有飲者留其名 ただ飲者のその名を留むるあるのみ。
陳王昔時宴平樂 陳王※3 昔時 平楽※4に宴す ※3魏の陳思王曹植、曹操の子で詩人としても名高い。※4道観の名。
斗酒十千恣歡謔 斗酒十千※5 歓謔※6を悉(ほしいまま)にす。 ※5一万。※6よろこびとたのしみ。
主人何為言少錢 主人なんすれぞ銭少しといふ
徑須沽取對君酌 ただちにすべからく沽(か)ひ取りて君に対して酌むべし。
五花馬 千金裘 五花の馬※7 千金の裘。 ※7五つの花がたの模様のある名馬。
呼兒將出換美酒 児を呼びもち出でて美酒に換(か)へ
與爾同銷萬古愁 なんぢとともに銷(け)さん万古※8の愁。 ※8永久。
この「将進酒」と題する長篇は、元丹邱と岑夫子とに対して憂鬱をいふ詩である。岑夫子は岑参ともいふが明らかでない。元丹邱は前述の如く、李白の第一の親友で、 道士である。私の考へでは、ここで李白は自己に対し不老長生をもたらさず、万古の愁ひをも消さず、いたづらに功名の念のみを消失せしめた「救ひなき」道教に対し、 酒の方を勝れりとし、しぶる両人にむりに酒をすすめてゐるとみることができると思ふ。
同じく酒を頌へる詩に次のものがある。
月下獨酌 其ニ
天若不愛酒 天もし酒を愛せずんば
酒星不在天 酒星※1は天にあらざらん。 ※1野尻抱影「星の美と神秘」によれば獅子座のフィー、クシ、オメガの三星の漢称と。
地若不愛酒 地もし酒を愛せずんば
地應無酒泉 地にまさに酒泉※2なかるべし。 ※2いま甘粛省の県名。
天地既愛酒 天地もすでに酒を愛す
愛酒不愧天 酒を愛して天に塊ぢず。
已聞清比聖 すでに聞く清※3は聖に比(たぐ)ふと ※3清酒。
復道濁如賢 またいふ濁※4は賢のごとしと。 ※4濁酒。
賢聖既已飲 賢聖もすでにすでに飲む
何必求神仙 なんぞ必ずしも神仙を求めん。
三杯通大道 三杯 大道に通じ
一斗合自然 一斗 自然に合す。
但得酒中趣 ただ酒中の趣を得たり
勿為醒者傳 醒者のために伝ふるなかれ。 ※5酒をのまない者にはいってもむだだからいはないでおけ。
これは道教者にいはすれば、恐らく冒涜の語であらう。飲酒において道教の教へる自然と合致するといふのはまだしも、酒があれば神仙を求めずともいいといってゐるのだからである。
実際、李白から酒を除くことは、彼を否定し去るにひとしい。その酔態も「襄陽歌」に表はれた、白昼、市人に指さされつつ憚らない狂態、 沈香享や寧王邸における貴人をもおそれぬ豪放のほかに、
山中與幽人對酌 山中 幽人と対酌す
兩人對酌山花開 両人 対酌すれば山花 開く
一杯一杯復一杯 一杯一杯また一杯。
我醉欲眠卿且去 われ酔うて眠らんと欲す 卿(おんみ)しばらく去れ
明朝有意抱琴來 明朝 意あらば琴を抱いて来れ。
の絶唱に表はれた静かな酒興
把酒問月 酒を把って月に問ふ
青天有月來幾時 青天 月ありてよりこのかた幾時ぞ
我今停杯一問之 われいま杯を停(とど)めて一たびこれを問ふ。
人攀明月不可得 人の明月を攀(よ)づる得べからず
月行卻與人相隨 月行かへって人とあひ随ふ。
皎如飛鏡臨丹闕 皎(キョウ)として、飛鏡の丹闕に臨むがごとく ※1仙宮。
拷喧ナ盡清輝發 緑煙 滅し尽して清輝 発す。 ※2青い夜のもや。
但見宵從海上來 ただ見る宵に海上より来るを
寧知曉向雲間沒 いづくんぞ知らん暁に雲間に向って没するを
白兔擣藥秋復春 白兎 薬を搗く秋また春
嫦娥孤棲與誰鄰 嫦娥(ジョウガ※3) 孤棲して誰とか隣する。 ※3月中の精。
今人不見古時月 今人は見ず古時の月
今月曾經照古人 今月かつて経たり古人を照すを。
古人今人若流水 古人今人 流水のごとし
共看明月皆如此 ともに明月を看るみなかくのごとし
唯願當歌對酒時 ただ願ふ歌に当り酒に対する時
月光長照金樽裏 月光の長く金樽の裏を照さんことを。
の詩や「月下獨酌 其四」の
花間一壺酒 花間 一壷(イッコ)の酒
獨酌無相親 独酌あひ親しむなし。
舉杯邀明月 杯を挙げて明月を邀(むか)へ
對影成三人 影に対して三人を成す。
月既不解飲 月すでに飲を解せず
影徒隨我身 影いたづらにわが身に随ふ。
暫伴月將影 しばらく月と形とを伴うて
行樂需及春 行楽すべからく春に及ぶべし。
我歌月徘徊 われ歌へば月 徘徊(ハイカイ)し
我舞影零亂 われ舞へば影 零乱※1す。 ※1地におちて乱れるか。
醒時同交歡 醒時ともに交歓し
醉後各分散 酔後おのおの分散す。
永結無情遊 永く無情の遊を結び
相期邈雲漢 あひ期して雲漢※2 邈(はるか)なり。 ※2大空
に見られる、月と対し、これと全く同化しての興趣など、とりどりに面白く、この詩人を愛することを深からしめる。かかる趣は、すでに六朝の詩人陶淵明に発し、 初唐の詩人王績、王勃などにも見られるが、その作の多いのと、詩と詩人の生活とが、渾然と融和してゐる点では、李白に比すべくもない。
しかしながら、老荘に傾倒し、神仙を渇仰し、詩酒のみを事としたものとしてのみ、李白を考へることはやはり一面観たるを失はないであらう。彼にも矛盾があり、 内面的煩悶があった。現世の栄華を無と知りつつも、なほこれを全く無視することは出来なかった。神仙を渇仰して、遂にこれを得なかった悲しみは酒によってまぎらはすことを得たが、 現世の生活、ことに唐の国運は彼の心を痛ましめた。この場合の彼は決してメシヤたるに非ず、治国平天下の才なき一個人として、凡庸通俗の一国民としての傷心であった。 かかる点で愛国者としての行動に至らぬ点があった、といって責める従来の儒教的批評家たちは、李白の時代と苦悶を知らない者といはねばならない。