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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944
六 大都長安
李白が山東に立ち寄ってから赴いたとしても、また南陵で妻子と別れて、蕪湖(ブコ)付近で長江を渡って陸路をとったとしても、路は洛陽あたりで一つとなる。 洛陽から新安、澠池(メンチ)、陝州(センシュウ)などと宿りを重ねると、霊宝県の西南で古への函谷関の故址を過ぎる。ここから潼関は程遠くない。潼関を過ぎれば、咸秦の地、 すなはち陝西の盆地である。
華陰県に来ると右手は長安に通ずる渭水、左手には五嶽の一なる華山が見える。ここより少し西すれば驪山(リザン)が見えて来る。いまの臨潼県、即ち唐代の新豊県の東手では、 鴻門坡を過ぎる。有高い項羽と劉邦の鴻門の会の行はれた地である。秦の始皇帝の陵もこの辺りにある。やがて県城の地に至れば、左手に温泉宮の甍が、 金紅青さまざまの色を尽して松の間から見える。李白はこれらを一々指示されて、詩嚢の益々肥えるのを覚えたであらう。 臨潼を出て瀦灞水(ハスイ)、滻水(サンスイ)にかかる二橋を渡れば長安である、しかしそれよりも先に、巨大な城壁とその上に聳える北の皇城の諸建築と、 南の大慈恩寺の塔と薦福寺(センプクジ)の塔とが、鮮やかに眼に映じたことであらう。
かくて李白の車は長安城の東の正門たる春明門から城内に入る。さうして彼が呉筠とともにまづ行李を解いたのは、 恐らく右街の輔興坊にあった玉真観の近くであったらうと思はれる。玉真観の主人なる玉真公主は睿宗(エイソウ)の第十女で、玄宗の妹である。太極元年以来、出家して道士となり、 ここに道観を建てて住ってゐたのであるが、李白がこの皇女と親しかったことは「玉真仙人ノ詞」といふ詩があり、 その別館にもゐたことは「王真公主ノ別館ニテ雨ニ苦シミ衛尉張卿ニ贈ル」といふ二首の詩があることで知られる。また魏によれば、彼の噂が玄宗の耳に入り、 翰林に召し出されることを得たのは、持盈(ジエイ)法師のおかげだといふが、持盈とは天宝三載に玄宗から玉真公主に賜った号であるから、この点からも公主と李白との密接な関係がうかがはれる。
李白と玉真公主との関係をひらいたのは、恐らく司馬承禎であらう。承禎、字は子微、開元中、道を以て帝に召された。その時、王屋山(山西省陽城県)にゐたが、 玉真公は帝の命によってここへ使したことがある。この承禎(貞一先生)と李白とが江陵(荊州)で会ったことは、その「大鵬賦」の序に見えてゐるのである。
ただし周知の如く、秘書監賀知章が彼の「蜀道難」に感嘆して、これを謫仙人と呼び、玄宗に推薦したといふのも、否定する必要はあるまい。 要するに玉真公主や呉筠等の道教関係の側と、賀知章との推薦が並び行はれて、李白は翰林に入ることを得たと考へればよいと思ふ。
玉真観のある輔興坊は皇城の安福門外にあり、西は開遠門に連る大路に面してゐる。往来に至便な所である。玉真観の東隣には、同じく帝の妹で、玉真公主の姉なる金仙公主のゐる金仙観があり、 その南の頒政坊には龍興寺、建法尼寺、証空尼寺、昭成観等の仏寺道観が連り、北の修徳坊には玄奘三蔵が西域から帰った後にゐた興福寺がある。西隣の祥成坊も仏寺尼寺ばかりである。 李白は宿所をここにして、絶えず長安の市の内外を見物かたがた出歩いてゐたことであらう。
李白と賀知章との交際は如何にして始まったのだらうか。賀知章、字(あざな)は季真、会稽の永興(いま荊山県西)の人である。李白が召されたのは会稽からである。 かかる点が二人の関係を暗示してゐるのかもしれない。また賀知章の伝記(「旧唐書」190中、「唐書」196)によれば、賀知章は晩年には狂態甚しく、みづから四明狂客、 または秘書外監と号し、常に里巷に遊んだといふから、二人の邂逅を平康坊あたりの歌郷の巷に於いてであったと想像すれば面白いが、実際は、長安の紫極宮(老子廟)に於いてであったと、 李白自身が述べてゐる(「酒ニ対シテ賀監ヲ憶フ」の序)。また苑伝正によれば、賀知章がはじめて見た李白の詩は「蜀道難」ではなくして、かの
姑蘇臺上烏棲時 姑蘇台※1上 烏棲(いこ)ふ時 ※1呉王夫差の築いた台。
呉王宮裏醉西施 呉王の宮裏 西施※2を酔はしむ。 ※2越王が献じた美人。
呉歌楚舞歡未畢 呉歌 楚舞 歓いまだ畢らざるに
青山欲銜半邊日 青山銜(ふく)まんとす半辺の日。 ※3太陽の半ば。
銀箭金壺漏水多 銀箭 金壷 漏水多し ※4銅で造り銀の刻を示すしかけをもつ水時計から水が漏り多く、時刻がうつった。
起看秋月墜江波 起って看る 秋月の江波に墜(お)つるを
東方漸高奈樂何 東方やうやく高く楽しみをいかん。
といふ「烏棲曲」であるといひ、一説ではまた
烏夜啼
黄雲城邊烏欲棲 黄雲に城辺に鳥棲(いこ)はんと欲し ※1夕方に立つ雲、一説に地名。
歸飛啞啞枝上啼 帰り飛んで唖唖(アア)と枝上に啼く。
機中織錦秦川女 機中※2 錦を織る秦川の女※3 ※2はたおりの道具。※3晋の竇滔の妻蘇氏、夫が秦州の刺史から流沙に徙されたとき、錦に詩を織って贈ったと。
碧紗如烟隔窓語 碧紗(ヘキシャ※4) 烟のごとく窓を隔てて語る。 ※4窓かけの水いろの薄絹。
停梭悵然憶遠人 梭(ひ)を停(とど)めて悵然※6と遠人を憶ふ ※5はたのひ、横糸を通すくだ。※6なげく様。
獨宿孤房涙如雨 ひとり室房に宿して涙 雨のごとし。
といふ夫を遠くへやった妻の悲しみを歌ふ、李白の最も得意とした題材のものであったといふ。
かくて攀づるすべもない月中の桂のごとく思はれた宮廷の門も、李白のために開かれた。彼がこのことを熱望してゐたことは、失官の後の煩悶からも容易に察せられる。
謫仙人といはれたが、必ずしもさうではなかったのである。
李白が翰林に入って、玄宗の寵遇を受けた有様を、李陽冰は次の如く伝へてゐる。
「天宝の初め、玄宗皇帝は詔を下して李白を召して、金馬門に入らしめ、ここで畏くも輦(こし)を下りて徒歩で迎へられること、かの商山の四皓を漢の高祖が迎へた如くし、
七宝の牀を以て食を賜ひ、み手づから羹(あつもの)をととのへて食べさされ、宣ふには
『卿(おんみ)は布衣(フイ:平民)なるに、その名が朕に知れたといふのは、もとより道義を蓄(たくは)へたのでなければ、どうしてここに及ばう』と。
金鑾殿に置き、翰林官の中に入れしめ、問ふに国政を以てしたまひ、ひそかに詔を草せしめたまうた。」
金鑾殿(キンランデン)は漢代の名称で、唐代の右銀台門であらう。金鑾殿はこの門を入ったところにある御殿である。
玄宗が賢士を優遇したことは「開元天宝遺事」にも多く見えてゐるから、李白に対して、かくの如き待遇があったといふのも、あながち誇張と見るべきではなからう。
元来、翰林院といふのは、玄宗が即位すると、張説(チョウエツ)、陸堅、張九齢、徐安貞、張洎(チョウキ)等を宮中に召し入れて翰林待詔といひ、政務をとる傍らに置いて、
詔勅の草稿作成や検討に当らしめたのにはじまる。帝が大明宮にゐる間は金鑾殿にゐるが、興慶宮に行幸すれば、その金明門内にゐる。西内に行幸すれば顕福門内に当直し、
東都洛陽や驪山の華清宮(温泉宮)に行幸の時もお傍を離れることがない。内宴では宰相の下、一品の上に席を占めるのである。李白がこの地位に就いた時の得意は想ひみるべきである。
彼自身も後にこの頃の有様を追懐して、かう歌ってゐる。
…………………………
漢家天子馳駟馬 漢家の天子※1 駟馬(シバ※2)を馳せ ※1玄宗のことをたとふ。※2四頭立ての馬車。
赤軍蜀道迎相如 赤軍もて蜀道に相如(ショウジョ※3)を迎ふ。 ※3蜀出身の詩人司馬相如。李白のこと。
天門九重謁聖人 天門 九重(キュウチョウ※4) 聖人※5に謁し ※4天子の門は九。※5聖天子。
龍顏一解四海春 龍顔※6一たび解くれば四海 春なり。 ※6天子の顔。
彤庭左右呼萬歳 彤庭(トウテイ※7)に左右 万歳を呼ばひ ※7朱漆で飾った天子の庭。
拜賀明主收沈淪 拝賀す 明主の沈淪(チンリン※8)を收むるを。 ※8しづみおちぶれた賢人。
翰林秉筆囘英眄 翰林 筆を秉(と)って英眄(エイベン※9)を回(めぐ)らし ※9かしこさうな目つきでながめまはし。
麟閣崢エ誰可見 麟閣 崢エ(ソウコウ)たり誰か見るべき。 ※10誰も見られない立派な麒麟閣にも出入をゆるされた。
承恩初入銀臺門 恩を承(う)けて初めて入る銀台門
著書獨在金鑾殿 書を著してひとり金鑾殿にあり。
龍鉤雕鐙白玉鞍 寵鉤(チョウコウ) 雕鐙(チョウトウ) 白玉の鞍 ※11賜った名馬には玉を刻んだあぶみや白玉の鞍をおかせ。
象牀綺席黄金盤 象牀(ゾウショウ) 綺席 黄金の盤。 ※12象牙のこしかけ、絹の敷物、黄金の皿で食事する。
當時笑我微賤者 当時わが微賤なるを笑ひし者
却來請謁爲交歡 かへって来って謁を請うて交歓をなす。
…………………………
(従弟南平ノ太守之遥ニ贈ル 其一)
実際、当時の李白の評判は大したもので、その「大鵬ノ賦」を作るや、長安の家々はみな一木を購ったといふ(魏)。
かくて彼は帝に扈従して華清宮にも赴いた。それは天宝元年か、二年か、いづれとも明らかにしないがい例年の十月の巡幸の時であったに相違ない。 この時の作に「侍従シ温泉宮ニ遊宿シテ作ル」、「温泉ニ侍従シ帰リテ故人ニ逢フ」、「駕温泉宮ヲ去ルノ後楊山人ニ贈ル」等がある。これらの詩はいづれも平凡であるが、 興味があるのは、二つめの詩では故友を帝に推薦しようといひながら、三首目では、その中に功業を立てた後、ともに山に入らうといってゐることである。 敏感な詩人には、早くも宮廷生活と自己の性格との矛盾が感じられながら、まだ全くはこれに失望してゐないのである。
李白はまた宜春苑への春の行幸に扈従し、詔に応じて詩を作ってゐる。宜春苑は興慶宮の内苑であらう。与へられた詩の題は「龍池柳色初青、聴新鴬百囀」といふのであった。 龍池はまた興慶池、九龍池などとも云はれる。この詩は古風であるが、雄勁で帝王の春をたたへて余すところがない。
侍從宜春苑奉詔 宜春苑に侍従し、詔を奉じて、
賦龍池柳色初青 龍池の柳色はじめて青く、
聽新鶯百囀歌 新鴬の百囀を聴くの歌を賦す
東風已財i洲草 東風すでに緑にす瀛洲※1の草 ※1東海の仙境に比すべき宮苑。
紫殿紅樓覺春好 紫殿 紅楼 春の好きを覚ゆ。
池南柳色半青青 池南の柳色なかば青青
縈烟裊娜拂綺城 烟を縈(めぐ)らせ裊娜(ジョウダ※2)として綺城※3を払ふ。 ※2しなやかな様。※3美しい長安城。
垂絲百尺挂雕楹 垂糸※4百尺雕楹(チョウエイ※5)に挂(かか)り ※4糸のやうにしだれた枝。※5彫刻を施した宮殿。
上有好鳥相和鳴 上に好鳥のあひ和して鳴くあり
間關早得春風情 間関※6はやくも得たり春風の情。 ※6鳥の相和して鳴くさま。
春風巻入碧雲去 春風 巻いて碧雲に入って去り
千門萬戸皆春聲 千門 万戸みな春声。
是時君王在鎬京 この時 君王は鎬京(コウケイ※7)にゐませば ※7長安の古称。
五雲垂暉耀紫清 五雲※8も暉(ひかり)を垂れて紫清※9に耀(かがや)く。 ※8太平を表はす五色の雲。※9空のまんなか。
仗出金宮隨日轉 仗(ジョウ※10)は金宮を出でて日に随って転じ ※10天子の儀仗、儀式に用ひる武器。
天囘玉輦繞花行 天は玉輦(レン)を回(めぐら)して花を繞って行く。 ※11天子は立派な車をあちこちとやって。
始向蓬萊看舞鶴 はじめ蓬萊※12に向って舞鶴を看(み) ※12東内の蓬莱殿に蓬莱池がある。
還過茝石聽新鶯 また茝石(シジャク※13)を過ぎて新鴬を聴く。 ※13漢の未央宮内の宮殿。
新鶯飛繞上林苑 新鴬は飛びて上林苑※14を繞り ※14漢の武帝の苑、ここでは宜春苑をいふ。
願入簫韶雜鳳笙 簫韶(ショウショウ※15)に入って鳳笙に雑(まじは)らんと願ふ。 ※15舜の楽
玄宗皇帝の全盛の有様を美しい語句をつらねてたたへてゐるので、皇帝をはじめ百官は感嘆して誦したことであらう。
公務のひまをぬすんでは方々に遊んだことは、長安以外をうたふ詩で知られる。長安城の南の郊外の杜陵を詠じたものでは「夕霽ル杜陵ニテ楼ニ登リテ韋繇ニ寄ス」といふ詩もいいが、 次の絶句が李白の絶句の例にもれず傑出してゐる。
杜陵絶句
南登杜陵上 南 杜陵の上に登り
北望五陵間 北のかた五陵の間を望む。
秋水明落日 秋水 落日 明らかに
流光滅遠山 流光 遠山に滅す。
杜陵は丘の名だが、五陵は漢の諸帝の陵である。それがただの風景の詩に堕しないで、感興を深からしめる。
長安の南につらなる終南山については、長安城の南門から望見しての「終南山ヲ望ミ紫閣隠者ニ寄ス」といふ詩のほかに、実際のぼっての
下終南山過斛斯山人宿置酒 終南山を下り斛斯(コクシ)山人の宿を過(よぎ)りて置酒す
暮從碧山下 暮に碧山より下れば
山月隨人歸 山月も人に随うて帰る。
卻顧所來徑 かへって来るところの径(こみち)を顧みれば
蒼蒼翠微 蒼蒼として翠微に横(よこた)はる。 ※1山のみどりのもやの中へ横に通じてゐる。
相攜及田家 あひ携へて田家に及べば
童稚開荊扉 童稚 荊扉(ケイヒ※2)を開く。 ※2いばらでこさへた粗末なとびら。
穀|入幽徑 緑竹 幽径に入り
青蘿拂行衣 青蘿 行衣を払ふ。 ※3青いつたが旅人の衣についてゐる塵を払ふやうにさはる。
歡言得所憩 歓言に憩(いこ)ふところを得 ※4主人のよろこびのことばに。
美酒聊共揮 美酒いささかともに揮(ふる)ふ※5。 ※5のみほすことか。
長歌吟松風 長歌 松風に吟じ
曲盡河星稀 曲尽くれば河星まれなり。 ※6銀河の星。
我醉君復樂 われ酔うて君また楽しみ
陶然共忘機 陶然※7としてともに機を忘る。 ※7心地よく酔ふ様。※8機は機事、世間のたくらみ。
といふ詩がある。この詩は陶淵明の詩そつくりである。
李白はまた長安の東の灞陵に人を送別してゐる。ここは長安の人が東に行く人を送るために必ず行った場所である。
灞陵行送別 灞陵行 別を送る
送君灞陵亭 君を送る灞陵亭
灞水流浩浩 灞水 流れて浩浩(コウコウ)たり。 ※1水の豊かなさま。
上有無花之古樹 上には無花の古樹あり
下有傷心之春草 下には傷心の春草あり。
我向秦人問路岐 われ秦人に向って路岐※2を問へば ※2路の分れ。
云是王粲南登之古道 いふこれ王粲の南登の古道と。 ※3後漢末の詩人、董卓の乱で荊州にのがれて七哀詩を作り「南ノカタ灞陵ノ岸ニ登リ、首ヲ回ラシテ長安ヲ望ム」と歌った。
古道連綿走西京 古道 連綿※4として西京※5に走り ※4長く連ってゐるさま。※5長安。
紫闕落日浮雲生 紫闕※6 落日に浮雲生ず。 ※6帝宮の門。
正當今夕斷腸處 正に当る今タ断腸の処
驪歌愁絶不忍聽 驪歌(リカ※7) 愁絶※8 聴くに忍びず。 ※7別れの歌。※8うれへてぎれぎれで。
この時、送別されたのは誰か知らないが、やがて李白自身もこの詩の通りに、断腸の思ひで長安城のかたをふりかへりながらここを過ぎてゆくのである。
長安に於ける李白といへば、誰しも考へるのは、あの有名な沈香亭(ジンコウテイ)(興慶宮内の龍池の東にあった)に於ける作詩である。 このことは宋代の「太平広記」に最も詳しく見えてゐる。
「開元中に、宮中では初めて牡丹(ボタン)を賞でるやうになり、紅、紫、薄紅、純白と四株できた。玄宗はこれを興慶池の東の沈香亭の前に移植した。あたかもその満開のときのことであった。 玄宗は照夜白の馬にのり、楊貴妃は歩輦(てごし)にのせられて、これを見に行かれた。このとき詔して梨園の歌姫の中から、すぐれたものを選び、十六部の楽を得た。 李亀年といふ歌で有名だったものが、手に檀板をもち、楽人を指揮して、進み出て歌はうとした。この時、玄宗はのたまうた。
『名花を賞で、妃に向ふのに、どうして古い楽や詩が用ひられやう』と。
最後に李亀年に命じて、金花箋をもって翰林供奉(グブ)李白に詔し、その場で清平調の辞三首を作らしめられた。李白は欣然として勅旨を承り、 宿酔(ふつかよひ)のまだ醒めないのに苦しみながらも、筆をとって作り上げた。その辞にはいふ、
雲想衣裳花想容 雲には衣裳を想ひ花には容(かたち)を想ふ ※1春の雲を見ればそのひとの衣装を連想し牡丹の花を見てはそのひとの姿を連想する。
春風拂檻露華濃 春風 檻(おばしま)を払って露華濃(こまや)かなり。
若非群玉山頭見 もし群玉の山頭※2に見るにあらずんば ※2西王母のゐるところ。
會向瑤臺月下逢 かならず瑤台※3の月下に向って逢はん。 ※3西王母の宮。
一枝濃艷露凝香 一枝の濃艶 露 香を凝らす
雲雨巫山枉斷腸 雲雨 巫山 枉(ま)げて断腸。 ※4この濃艶壮丹に比すべき妃に比べると楚王が巫山の神女に断腸の想ひをなしたのもむりとさへ思へる。
借問漢宮誰得似 借問す 漢宮 誰か似るを得たる
可憐飛燕倚新粧 可憐の飛燕 新粧に倚る。 ※5化粧したてを誇りにしてゐる。
名花傾國兩相歡 名花 傾国 両(ふたつ)ながらあひ歓ぶ
常得君王帶笑看 長く君王の笑を帯びて看るを得たり。
解釋春風無限恨 春風無限の恨を解釈※6して ※6消す。
沈香亭北倚欄干 沈香亭北 欄干(ランカン)に倚る。
李亀年はこの詩を玄宗にたてまつった。帝は梨園の弟子に命じて、楽器の調子をあはせ、李亀年に命じて、歌はしめた。歌はれるあひだ楊貴妃は玻璃七宝の盃を手にし、 西涼州の葡萄酒を酌みながら、詩の意味をさとって莞爾として喜んだ。玄宗はそこで玉笛の調子をととのへて自ら吹き、曲調のかはらうとするたびに、その声をゆるくして妃に媚びた。 楊貴妃は飲みやめて、繍(ぬひとり)をした領巾(ひれ)をはづし、再拝して帝に謝した。帝が李白を見ることは他の学士と異った。」
「太平広記」は小説の書であるが、この記事はほとんど当時の有様を正確に伝へてゐるのであらう。牡丹にくらべられ、仙女に比(たぐ)へられる濃艶な美人と、 玉笛を吹く帝と、太平の世をありありと偲ばしめる挿話であるが、この場面を歌ひ得て、賞讃を博した詩人の喜びは最大であったらう。しかしこの太平は後わづか十年にして消えうせたのであり、 李白自身はまたこの詩によって宮廷から逐はれることになったのだといふ。
それはともかく、宿酔なほ醒めずして、しかもたちどころにかういふ詩を三首も成すとは、天才李白の面目を伝へてあますところがない。しかしかかることは唯一回ではなかった。 李白の詩の中、楽府(ガフ)の多くは、かやうな宮廷用に作られたのではないかと思はせるが、「宮中行楽詞」八首も「清平調詞」と同じく即席の作といふ。このことも小説「本事詩」に見えてゐる。
「玄宗はかって宮中で行楽するとき、高力士にのたまうた。
『この良き時節と美しい景とに対し、音楽や遊びのみを娯(たのし)みにできようか。もしすぐれた才能の詩人に詠じさせたら、後世に自慢できやう』と。
遂に李白を召された。このとき李白は帝の兄の寧王に迎へられて酒を飲まされ、もう酔っぱらってゐて、召されて宮中に来り、拝舞はしたものの頽然(タイゼン)たる様であった。
帝は彼が声律を軽んずることを知ってゐたので、わざと宮中行楽をその上手でない、五言律詩十首に作らされた。李白は頓首していった。
『寧王、臣に酒を賜ひ、もう既に酔ってをります。もし陛下、臣に畏るることなくしていただけますなら、臣の伎倆を十分発揮さしていただきませう』と。
帝はこれを許し、二人の宦官をしてこれを扶けさせ、墨をすり、筆をうるほさせて、これに与へ、また、二人の宦官をして朱の罫紙を面前にひろげてもたせた。
李白は筆をとり上げると、思ひついたままを筆をとめないで書き、立ちどころに十篇が成ったが、これは筆を加へた箇所もなく、しかも筆跡は強く、詩の出来は韻律といひ対偶といひ、
完全でないものはなかった。」
と。この十首の中、二首がなくなったと見えるが、今のこってゐる八首はみな即席の作とは受けとりかねる見事なものである。
その一はいふ。
小小生金屋 小小 金屋に生れ ※1黄金づくりのやうな立派な家。
盈盈在紫微 盈盈(エイエイ※2) 紫微※3にあり。 ※2しなやかに美しくなって。※3天子の宮殿。
山花插寶髻 山花 宝髻(ホウケイ)に挿(さしはさ)み ※4みごとな髷には山の花をかざし。
石竹繡羅衣 石竹羅衣に繍(ぬひとり)す。 ※5薄絹の衣にはなでしこの模様を刺繍してゐる。
毎出深宮里 つねに深宮の裏より出で
常隨歩輦歸 常に歩輦(ホレン※6)に随って帰る。 ※6人の曳く車、天子皇后の乗物。
只愁歌舞散 ただ愁ふ 歌舞散じなば
化作彩雲飛 化して彩雲となって飛ばんかと。 ※7この女官があまり美しいので五色の雲に化しはしないかと思ふ。
と。官中の美人をさながら写生したかのやうである。その二はいふ。
柳色黄金嫩 柳色は黄金にして嫩(わか)く
梨花白雪香 梨花は白雪にして香し。
玉樓巣翡翠 玉楼には翡翠※1を巣(すく)はせ。 ※1鳥の名かはせみ、これにたぐへられる美しい女官。
珠殿鎖鴛鴦 珠殿には鴛鴦(エンオウ※2)を鎖(とざ)す。 ※2をしどりにたぐへられる美人。
選妓隨雕輦 妓を選んで雕輦(チョウレン※3)に随はしめ ※3彫刻美しい天子の乗物。
徴歌出洞房 歌を徴して洞房※4より出(いだ)す。 ※4女官のへや。
宮中誰第一 宮中たれか第一ぞ
飛燕在昭陽 飛燕は昭陽にあり。 ※5飛燕の妹の合徳のゐたのが昭陽舎。
いづれも宮中の妃妾の美しさを、さながらの如く描き出してゐるが、ここでも第二に漢の成帝の寵した趙飛燕の名が見えてゐるのは注意すべきである。 とまれ李白の天才はこれらのことによって余すところなく示されたが、君主の前に酔を帯びて出ることの失態であることはいふまでもない。 彼が永く宮廷詩人の地位を占め得ないであらうことは、これらの記事によって予知し得る。
李白のかかる態度は他の貴顕に対しても現はれたに相違ない。「開元天宝遺事」は伝へていふ
「寧王に寵愛の歌姫があった。容貌が美しいうへに歌が巧みであった。王が宴会をする毎に、他の歌手はみな前に出したが、この女だけは見せたことがないので、
客たちはみないくら飲んでも酔ふには至らなかった。詩人李白は酔に乗じていった。
『私は久しい前から王には寵姫がおありで、その方は歌が上手だと聞いてをります。いま酒にも肴にも飽いてみなさま方は宴に倦んでをります。殿下は、
どうしてこの方を皆にお見せになるのに臆病なのですか』
と。王は笑って臣下どもに命じた。
『七宝の台をこさへて、かの者を屏風のうしろに呼んで、歌をうたはせろ』と。
李白は起立して『お顔を見ることは許されなくても、お声をきかしていただければ幸せです』と礼をいった。」
と。寧王は前述の如く玄宗の兄である。この言が王を怒らしたとは記してないが、かやうな権貴を恐れぬ振舞は、彼にとって実に危険なことであったと云はねばなるい。
彼は長安の貴族の子弟とは実際に争った。
唐の高祖が長安に都してから、もう百二三十年たってゐる。王侯将相の子孫も既に多く、みな長安の市中や北郊の五陵に豪壮な邸宅を構へ、 市中を闊歩して人もなげな振舞も多い。隋唐以来、寒士が門閥によらずして、官途につく途も開かれたとはいへ、それは極く少数のことで、これらの少年こそは他日の政権の掌握者たるべき者である。 彼等の驕慢の様は、李白自身もしばしば歌ってゐる。たとへば「少年行」のごときがそれである。
五陵年少金市東 五陵の年少 金市の東 ※1洛陽には三市あり、金市は西にあった。ここでは長安の市をいふ。
銀鞍白馬度春風 銀鞍 白馬 春風に度(わた)る。
落花踏盡遊何處 落花踏み尽していづくにか遊ぶ
笑入胡姫酒肆中 笑って入る 胡姫※2の酒肆の中。 ※2イラン種の白皙緑眼の酌婦(石田幹之助「長安の春」)
ところで李白は彼等との間に一場の悶着を起して、わづかに陸調といふものの処置によって事無きを得たことがある。 すなはち「旧ヲ敍シテ江陽ノ宰ノ陸調ニ贈ル」といふ詩に
………………………………
我昔鬪雞徒 我はむかし闘雞の徒たり ※1「東城老父伝」に宮中に鶏房があり闘鶏を飼ひそのため官に任ぜられる者があったと。
連延五陵豪 五陵の豪を連延※2す。 ※2つぎつぎと呼びよせるの意か。
邀遮相組織 邀遮(ヨウシャ※3)してあひ組織※4し ※3道で待ち伏せする。※4喧嘩をしくむ。
呵嚇來煎熬 呵嚇(カカク※5)し来って煎熬(センゴウ※6)。 ※5叱ったりおどしたり。※6勢するどく迫り来る。
君開萬叢人 君は万叢の人を開き
鞍馬皆辟易 鞍馬みな辟易す。 ※7騎乗の少年たちがみな退散した。
告急清憲臺 急を清憲台※8に告げ ※8御史台。
脱余北門厄 余を北門の厄より脱す。
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といふ箇所があって、さすがの李白も、五陵の少年たちにとりかこまれて危く見えたのを、陸調が退散させ、また御史台の方へも告げてくれたといってゐるのである。 悶着の場所は長安の北門であったといふが、双方とも胡姫の酒に酔った上でのことであったかもしれない。五陵の悪小にいはせれば、李白とはそも何人ぞ、隴西の李氏、 皇室の同族といふのは自称であって、父の代に西域から来た素姓もしれない者ではないか。詩は巧みだといふが、その行ひは放蕩無頼、闘雞の徒と異るところがない。 わづかに玉真公主や賀知章らの推薦によって、宮廷に入り得た新参の田舎漢ではないか、といふところであらう。従ってかかる事件によって貴族達の反感を惹き起したとすれば、 その地位は実に危険であって、彼の恃みとするところは、わづかに帝寵とおのが才とのみである。
しかも彼の推薦者たちは、このころ皆その地位を退いた。即ち玉真公主は天宝三載の十一月に、上言して公主の号をやめ、封戸を返上せんことを乞うた。 玄宗はこれを止めたが、公主が聴かなかったので、遂にこれを許したといふ(「唐書」巻83、「旧唐書」巻8)。このことは、どういふ意味だかは記されてゐないが、たぶん玄宗もしくは、 この翌年に貴妃と呼ばれることになる楊太真との不和が原因ではなかったかとも想像される。もしさうだとすれば、これは突然のことではなく、 少くともこの年の初ごろから既に萌してゐたことであらう。
また賀知章は、天宝二年の末に、夢遊(また恍惚ともいふ)病に罹り、官を辞して道士となり、故郷の会稽に帰らんと乞うた。玄宗はそこでこれを許し、三載正月五日、皇太子、 左相、右相以下百官をして、これを長楽坡に送別せしめ、みづから御製の詩を賜ひ、百官にも送別の詩を作らせた。この時、李白も詔に応じて送別の詩を作ってゐるから、 同じく通化門の東五支里なる長楽坡に賀知章を送ったのである。その詩は格別の作ではないが、賀知章が李白と同じく道教に帰依すること深きは見るに足る。 彼はまた自発的にも送別の詩を作ってゐる。「賀賓客ノ越ニ帰ルヲ送ル」といふ七言絶句がそれである。
賀知章は彼の恩人であって、同時に友人であった。それが去ることは、感惰の上からの寂しさ以外に、彼の地位をますます危くしなかったとはいへない。 また剡渓から彼とともに入京し、かつ推薦者の一人だったと伝へられる呉筠も、都にゐて翰林には留まってゐたが、志を得ないで鬱々としてゐた。はじめ呉が入京するや、 帝はこれを大同殿に召見し、道法と神仙修錬のことを聞いたが、まもなく内には仏教を奉ずる高力士の排斥があり、外の李林甫、楊国忠とも良からず、 遂には度々去らんことを乞ふに至ったのである(「唐書」196、「旧唐書」192)。
この中にあって、李白は毎日、酒に溺れ、また前述の如く長安の貴族の子弟とも争ひを起してゐたのである。人は多く、彼のこの放埓を侫人に排斥され、初めの志を遂げ得なかっためと説いてゐるが、 いづれが原因であり、いづれが結果とも定め難い。とまれ東西古今の例に多く見る如く、純粋な詩人の性格は宮廷をとりまく俗人輩に快く思はれる筈がないのである。 彼の飲酒の場は王侯貴顕の宴席であるとともに、また市井の酒楼であった。中でも前述の春明門外の胡姫の侍る酒肆は、彼の詩中に多く見えてゐる。
彼の酒癖は長安の市中に喧伝(ケンデン)され、時人はこれを酒豪の一人に数へた。即ち杜甫の詩の「飲中八仙歌」に歌はれた所以である。
知章騎馬似乘船 知章の馬に騎(の)るは船に乗るに似たり
眼花落井水底眠 眼花(めくるめき)井に落ちなば水底に眠らん。
汝陽三斗始朝天 汝陽は三斗にして始めて天に朝す
道逢麴車口流涎 道に麹車(キクシャ)に逢へば口 涎(よだれ)を流す
恨不移封向酒泉 封(ホウ)を移されて酒泉に向はざるを恨む。
左相日興費萬錢 左相が日興は万銭を費す
飲如長鯨吸百川 飲むこと長鯨の百川を吸ふがごとし
銜杯樂聖稱避賢 杯を銜(ふく)み聖を楽しみ賢を避くと称す。
宗之瀟洒美少年 宗之は瀟洒(ショウシャ)たる美少年
舉觴白眼望青天 觴(さかづき)を挙げ白眼もて青天を望む
皎如玉樹臨風前 皎(コウ)として玉樹の風前に臨むがごとし。
蘇晉長齋繍佛前 蘇晋 長斎す繍仏の前
醉中往往愛逃禪 酔中 往往にして逃禅を愛す。
李白一斗詩百篇 李白は一斗詩百篇
長安市上酒家眠 長安市上 酒家に眠る
天子呼來不上船 天子呼び来れども船に上らず
自稱臣是酒中仙 みづから称す臣はこれ酒中の仙。
張旭三杯草聖傳 張旭 三杯 草聖伝ふ
脱帽露頂王公前 帽を脱し頂を露(あらは)す王公の前
揮毫落紙如雲煙 毫(ふで)を揮ひ紙に落せば雲煙のごとし。
焦遂五斗方卓然 焦遂は五斗にしてまさに卓然たり
高談雄辯驚四筵 高談 雄弁 四筵を驚かす。
賀知章のことはすでに記した。汝陽王は名を璡といひ、李白に酒を飲ませた寧王の子であるから、帝とは叔父甥の間柄である。 皇族の尊きを以て磊落(ライラク)かくの如きだったから、賀知章と善く、李白にも親顧を賜うたことは思ふべきである。
左相は李適之(セキシ)。同じく皇族の出であるが、賓客を喜び、酒を飲むこと一斗余に至っても乱れず、夜は宴を開いて楽しんだが、書の政務は留滞しなかったといはれる。 天宝元年、牛仙客に代って左相となったが、右相李林甫と協(あ)はず、五載に至って罷め、ついで自殺した。その党はみなこの前後に李林甫の讒言によって罪せられた(「唐書」巻131)。
宗之は斉国公崔宗之。父の崔日用の後を嗣いで公爵となった。その瀟洒たる貴公子の姿はこの詩によく著はれてゐる。文学を好み、 李白のみならず杜甫とも親交があった(「唐書」巻121)。
張旭は草書の名人。後に文宗の時、その書と李白の歌詩と裴旻(ハイビン)の剣舞とが、唐代の三絶と称せられた。大酔するごとに叫声をあげて走り廻り、ある時には頭髪を墨に浸して書き、 醒めての後は知らなかったといふ(「唐書」巻202)。
蘇晋は河内郡公蘇垧(キョウ)の子で、太子左庶子の官に終ったが、また気骨ある士であった(「唐書」巻128)。この詩によって仏教の信者であったことが知られる。 李白との交友は詳らかでなく、既に開元二十二年に死んだとも伝へられてゐる。
焦遂のみは伝を明らかにしないが、李白と同じく布衣の士であり、崑山に優游したと伝へられ、酒五斗を飲み尽しても自若たる有様であったといはれる(森槐南「唐詩選評釈」巻二)。
かく八仙を数へ来れば、みな狂逸の士で、酒仙といふよりは酒狂に近いものもあり、李白がこの中に数へられたのは、彼にとって決して幸せなことではなかった。
この時、玄宗は開元の治二十九年の後をうけて、漸く政に倦み、国政をすべて右相李林甫にゆだねて顧みなかった。李林甫は皇族出身であるが、姦侫の小人であり、残忍酷薄、 卑劣な手段を尽して反対派の排斥に余念なく、その間たくみに私利を計ってゐた。玄宗はかかることとは知らず、楊貴妃の色に溺れ、日々酒宴にふけり、 いたづらに夜の短きを嘆ずるのみであった。楊貴妃のごときはただの女子で、眼中にまた国家のあらう筈がない。加ふるにその一族の楊国忠等は妃の寵愛にたよって立身し、 李林甫と結んで政界の壟断を策する。これに対する反対派の首領が、李白と善き李適之である。かかる暗鬱なる空気の瀰漫した宮廷にあっては、李白たらずとも地位の安全を保ち難いのである。
さらにまた宮中に大勢力を有するものとして、宦官の高力士があり、外には安禄山、哥敍翰等の軍閥の勢力も次第に張り、内外の状勢は予測を許さない。詩人李白にして、 これに対処する地位に置かれても、おそらくなんら策の施すべきものがなかったであらう。彼の有するは、ただ忠直の性質のみである。太平を謳歌する詩人的才能のみである。 たとへ彼が他より排斥を受けなかったとしても、その悲劇的結末は早晩来ったに相違ない。
しかも彼の詩人的性格は既に各方面との摩擦を惹き起してゐる。もとよリ俗の俗たる李林甫を中心とする官僚群、陰険なる宦官高力士たちの側に罪があることはいふまでもないが、 詩人たることそれ自身が、何時の時代、いかなる国に於いても悲劇を将来することは、東西古今の例を引くまでもあるまい。かくて必然的な運命として、彼は長安を逐(お)はれるのである。
しかしながら、直接その原因となったのは、魏によれば、張[土自](チョウキ)の讒言である。張[土自]は開元十八年に死んだ宰相張説(チョウエツ)の子である、 中書舎人に任じられ、玄宗の女(むすめ)寧親公主を妻として賜った。玄宗の寵は極めて渥く、のち天宝十三載に、宰相陳希烈の辞職するや、 帝はこれを後任にしようとしたほどである。李白がこれに憎まれた理由は不明であるが、張[土自]はかかる帝籠にもかかはらず、後に安禄山が叛くや、兄張均、宰相陳希烈らとともに、 これに仕へて宰相となった男である。たとへその間に多小の理由があったとしても、現在の君主たり義父たる人に叛いて、賊に従ふほどの陋劣な男である、李白と合はず、 これを讒したとしてもふしぎではない。
しかし「太真外伝」等の小説、「旧唐書」、「唐書」等が、李白の去った原因を高力士の讒言としてゐることは、周知の事実である。このことを最も詳しく説いてゐる「太真外伝」によるならば、
「高力土はかって玄宗の前で酔へる李白にその靴をぬがさされたことで恥ぢ恨んでゐたが、ある日、楊貴妃がかの時の詞(清平調詞)を吟じてゐるのを聞いた。
そこでここぞと思っていふには、 『私は妃子(おきさき)が李白を怨むこと骨髄に入るほどと存じてをりましたのに、どうして御厚意のかくのごときですか』と。
楊貴妃は驚いてそのわけを問うた。高力士はいった。
『妃子を飛燕とお呼びしてゐるのは、はなはだしく賎しんでゐることでございます』と。
貴妃はなるほどと感心して、この後玄宗が三たび彼を官に任じようとしたが、宮中から妨害して中止させた。」
といふ。李白が高力士をして靴をぬがしめたことが事実であるかどうか不明だが、「唐書」、「新唐書」ともにこの説を採用してゐる。そのことの有無はさておき、 高力士は宦官ながら才智すぐれ、玄宗とはその皇太子時代から関係ふかく、右監門衛将軍・知内侍省事として、四方の上奏文は帝が宮中にゐるときは、すべて彼の手を経て進められる。 仕官を願ふもののこれを見んと願ふことは、あたかも天人に対するかの如くである。李林甫、韋堅、楊国忠、安禄山、安思順、高仙芝等、文武の大官にしてこれと厚く結ばぬ者はない。 皇太子すらこれに兄事し、他の親王公主はみなこれを翁と呼び、貴族たちは尊んで爹(タ)と呼ぶ。帝さへも或時には名を呼はずして、将軍と呼ぶほどの権勢を有してゐたものである。 これに憎まれては、もはや宮廷の生活をなし得ないことは当然であらう。しかも力士の姦智なるたくみに飛燕の語をとらへて、寵妃の心を動かしたのである。
漢の成帝の寵した飛燕皇后のことは、事実はともかくとして、この頃の人士には、六朝時代の作なる小説「飛燕外伝」を通じてよく知られてゐたのである。
この小説に見える飛燕皇后は、宮中に入る前にすでに鳥を射る者と通じ、立后後も多くの者と姦通してゐる。これを以て貴妃に比したのは、李白にとって慎重を欠いたといはねばなるまい。
彼の詩の特徴の一は、巧みに故事をとらへ来って、現在の事柄と連関せしめる方法である。そのため現実は浪曼化され、ますます美化される。
そのために写実から遠ざかるの嫌ひはあるが、詩とは、本来さうしたものであるべきなのである。しかも李白の小事に拘はらざる性格は、故事をも枉げて引く場合が少くない。
だからかかる場合は、引用された点に於いてのみ、故事を見るのが至当なのであって、歴史上の人物の全経歴を以て見るべきではないのである。従ってこの場合も、
歌を善くし舞を善くし、君王の寵愛はくらべるものもなく、肌膚こまやかに、姿態楚々たる美人といふ点で、これを楊貴妃に比すべくとらへ来ったと見るべきだったのである。
しかし適確なるよりも、むしろ曖昧模糊たるところに美を表出せんとする詩の性格が、ここに俗人の無惨なる剔抉(テッケツ)に遭って、この悲劇を齎したのである。
かくて官僚と宮廷との双方から攻撃を受けた詩人は、長安を去るよりほかなかった。
同王昌齡送族弟襄歸桂陽 王昌齢と同じく族弟襄が桂陽に帰るを送る
秦地見碧草 秦地 碧草を見
楚謠對清樽 楚謡 清樽に対す。 ※1襄の赴く桂陽(湖南省)は昔の楚の地。
把酒爾何思 酒を把(と)ってなんぢ何をか思ふ
鷓鴣啼南園 鷓鴣(シャコ※2) 南園に啼く。 ※2南方に多い鳥。
予欲羅浮隱 予は羅浮※3に隠れんと欲すれども ※3蓬莱山中の一峰。
猶懷明主恩 なほ明主の恩を懐(おも)ふ。
躊躇紫宮戀 紫宮※4の恋に躊躇し ※4紫微に同じく天子の宮。
孤負滄洲言 ひとり滄洲の言に負く ※5神仙のすむ滄浪洲へ行くといふ言を実行出来ないでゐる。
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なる詩の示すやうに、玄宗の恩を思ひ、宮廷こひしくは思ひながらも、彼は帝に暇を乞うた。
玄宗はさすがにその才を惜んで慰撫し、辞意のとどめ難きを知るや金を賜って放ったといふ。君臣の間柄に不純なもののまじらなかったことが、李白にとってせめてもの慰めであったらう。 長安に入った時は四十二歳、ここを去る時四十四歳で、足掛け三年の都会の生活は、彼に多くの詩と友とを齎したが、同時に唐の宮廷の如何ともしがたい腐敗沈殿と、 前途に殆ど希望を失った自己とを見出さしめたのであった。彼が長安を去る時も、長楽坡や灞陵に別を惜んだものはあったらうが、大都のどよみのすべてが、 彼にとっては詩人を嘲笑する声のやうに感じられたことであらう。