(2007.01.29up)
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たなかかつみ【田中克己】散文集『李太白』1944
五 徴に就くまで
山東は前述したやうに、四川の彰明とともに、李白の故郷の候補地となってゐる処である。しかしこの二説に合理的な解釈をつけようとすれは、四川が実際の故郷であるが、 李白の山東に住むことが永く、加ふるにこの地方には趙郡の李氏の一族が多くゐたので、杜甫も誤って彼を山東の人と認めたのだ、と、でもすれば宜しからう。 李白の滞留の永かったことは、彼がここで一婦人を娶って、一男を生んだことで知られる。彼は先に許圉師の孫女を娶ったが、恐らくこれとは離縁したのであらう、再び劉氏を娶り、 ここに於いて三たび娶ったのである(魏)。男児の名を頗黎(ハリ)といふ。頗黎は玻璃に等しく、ガラスのことで、このころには甚しく珍らしく宝石の扱ひを受けたものであり、 それが愛児の名に付けられた理由である。この子はのちには伯禽と呼ばれた。この地では実はもう一人、女児が生れ、伯禽の姉で、平陽と呼ばれたことは、 後に金陵での作といはれる「東魯ノ二稚子ニ寄ス」といふ詩によって知られる。仙人李白は骨肉を歌ふことが杜甫より稀であるから、 この詩はその意味でも珍重されねばなるまい。曰く
呉地桑葉香@呉地桑葉緑に
呉蠶已三眠 呉蚕すでに三眠す。
我家寄東魯 わが家東魯に寄す
誰種龜陰田 誰か種(う)うる亀陰の田。
春事已不及 春事すでに及ばざらん ※1春の農事はもう手おくれだらう。
江行復茫然 江行また茫然。 ※2揚子江辺の旅もはるかな道のりだ。
南風吹歸心 南風 帰心を吹き
飛墮酒樓前 飛びて墮(お)つ酒楼の前。
樓東一株桃 楼東 一株の桃
枝葉拂青煙 枝葉 青煙を払ふ。 ※3青い霞を払ふやうに立ってゐる
此樹我所種 この樹はわが種うるところ
別來向三年 別れてこのかた三年ならんとす。
桃今與樓齊 桃はいま楼と斉(ひと)しきに
我行尚未旋 わが行なほいまだ旋(かへ)らず。
嬌女字平陽 嬌女※4 字(あざな)は平陽 ※4かあいいむすめ。
折花倚桃邊 花を折りて桃辺に倚(よ)る。
折花不見我 花を折りて我を見ず
涙下如流泉 涙下ること流泉のごとし。
小兒名伯禽 小児名は伯禽
與姊亦齊肩 姐(あね)とまた肩を斉しくす。
雙行桃樹下 ならび行く桃樹の下
撫背復誰憐 背を撫してまた誰か憐まん。
念此失次第 ここを念ふて次第を失し ※5物事の順序がわからなくなり。
肝腸日憂煎 肝腸 日(ひび) 憂ひに煎らる。
裂素寫遠意 素(しろぎぬ)を裂いて遠意を写し ※6遠くにゐる者の気持。
因之汶陽川 よりて汶陽川※7にゆかしむ。 ※7汶水の北側の地方。
私の好みからいへば、李白の詩が全部なくなったとしても、この詩だけは留めておきたい。彼は無情な父である。家にゐても酒を飲むばかり。詩と仙とを語るばかり。 生業をも修めぬ無頼の父である。旅に出て、三年と妻子の顔を見ないでゐる無常な父である。それがこの詩を作る。してみると、 父としての愛情の表現には欠けたところがあるとはいいへ、いやそれだけによけい恩愛の情は強かったと見るべきである。この詩は詩として見るも、上々のものである。 呉の地の桑と蚕とから歌ひ出したのもいい。日毎に行ってゐた酒楼を思ひ出し、その前の桃の花の時候といふことから、忽ちに家を思ひ出すところもいい。 少女と少年とが桃の花の下で帰らぬ父を思うて慰めあふ、と一幅の絵のごとき状景を想像するのもいい。詩酒の仙人、閨怨と塞上とを歌ふに巧みだった詩人、として以外に、 父親であった李白をもこの詩で知らねばならない。
「旧唐書」が記してゐる徂徠山の竹渓の六逸のことを、この時期のこととして考へるのも、可能である。六逸とは前述の如く、 李白と孔巣父(ホ)・韓準・裴政・張叔明・陶沔(ベン)の六人である。徂徠山は泰安県の南にあり、北の泰山と相対する。この山にゐたことと、先の詩に亀陰の田といふ句が出て来て、 亀陰は亀山の北麓といふ意味であることから、李白の山東の住ひは任城(済寧)ではなく、新泰県方面に移ったこともあるのかと思はれる。
竹渓の六逸のうち、孔巣父以外の伝記は不明だが、みな酣歌縦酒、古の竹林の七賢に倣って放逸の士であったことは疑ひない。孔巣父に関しては、 「旧唐書」巻154に伝があり、
「冀州(キシュウ河北省)の人で、字(あざな)を弱翁といひ、早くより文章と歴史とを学び、韓準・李白らと徂徠山に隠れ、竹渓の六逸と称せられた。永王璘が挙兵したとき、 その賢を聞き、召したが、巣父は永王の必ず失敗することを知って、身を潜めて応じなかったので、これによって有名となった。」
といふ。永王の幕府にゐて孔巣父に参加をす上める手紙を書いたのは、必ず李白であらう。孔巣父はのち徳宗皇帝から御史大夫として魏博宣慰使に任ぜられ、 田悦といふ軍閥を宣撫したが、李懐光の兵に殺されたといふ。李白の友として、恥かしくない人物である。
李白には「韓準・裴政・孔巣父ノ山ニ還ルヲ送ル」といふ詩があり、この三人の徂徠山に帰るのを魯郡(兗州エンシュウ)の東門に送別した詩である。 ここで注意しなければならないのは、李白と杜甫との交友もこの頃から始まったことと思ふが、杜甫もこの六逸の一人なる孔巣父と交際があったことで、 「孔巣父ガ病ヲ謝シテ帰リ江東ニ遊ブヲ送リ、兼ネテ李白ノ詩ニ呈スルノ詩」があるので明らかである。この詩は李白が江蘇・浙江方面にゐた頃の作には違ひないが、 李白がそこにゐたのは天宝元年と十三載と二回あるので、いづれとも定め難い。ともあれ杜甫は開元二十六年、父の閑がこの兗州の司馬の官となったので、 この地に来て「兗州ノ城楼ニ登ル」などの詩を作ってゐる。この時はまだ二十七歳で三十八歳の李白とは年齢の差はあるが、詩人として、 またともに志を得ずして放浪の境涯にあるものとして、堅く結ばれたことと思ふ。
李白にも「魯郡ノ東ノ石門ニ杜二甫ヲ送ル」といふ送別の詩があり
酔別復幾日 酔別また幾日
登臨徧池臺 登臨 池台に徧し。
何言石門路 いづれの時か石門の路
重有金樽開 重ねて金樽の開くあらん。
秋波落泗水 秋波 泗水(シスイ)に落ち
海色明徂徠 海色 徂徠に明らかなり。
飛蓬各自遠 飛蓬おのおの自ら遠し
且盡手中盃 かつ尽せ手中の杯。
といって、杜甫の送別の酒宴に幾日も費やしたことが知られる。杜甫は洛陽の東なる鞏県(キョウケン)に生れ、兗州に来るまでに華中に旅行し、 長安での試験を受け、この後も「斉趙ノ間ニ放蕩ス」といふ(「壮遊」)。しかし、後に述べる開封での李白との交友は、この杜甫の放蕩の期間の最後の時期であって、 それより前に兗州での交友があったと考へて宜しからう。
兗州は、隋代に開かれた大運河による、当時の南北の往還の路からも隔ってゐず、立ちよるには極めて便利な地である。泰山に遊ぶもの、曲阜(キョクフ)の孔子廟に詣でるもの、 いづれもこの地を経由する。従って李白はこの地に寓する中に交友ますます多きを加へた。
前掲の杜甫を送る詩の外にも「魯郡ノ尭祠ニ呉五ノ瑯琊ニ之クヲ送ル」「魯郡ノ尭祠ニ竇明府薄華ノ西京ニ還ルヲ送ル」 「魯郡ノ北郭ノ曲腰ノ桑下ニ張子ノ嵩陽ニ還ルヲ送ル」「魯郡ノ尭祠ニ張十四ノ河北ニ遊ブヲ送ル」などは、いづれもこの地にあって友を送る詩である。 帝尭(ギヨウ)を祀った祠(ほこら)は、兗州の西二十五支里なる唐代の瑕邱県にあって、遠くへゆく旅人を、李白はわざわざここまで送りに出て、 祠前の酒楼茶亭で別れの杯をあげたのであらう。
これらの詩のうちも竇薄華(トウハッカ)を送る詩は、李白の詩の特徴をよく表はした雄篇であるとともに、彼の今後の動静を多少明らかにしてゐる。
朝策犁眉騧 朝に犁眉(リヒ)の騧(カ) ※1に策(むちう)てども ※1黒い眉をした黄色の駿馬。
舉鞭力不堪 鞭を挙ぐるに力堪へず。
強扶愁疾向何處 強ひて愁疾を扶(たす)けていづこにか向ふ
角巾微服堯祠南 角巾※2 微服 尭祠の南。 ※2隠者の被る角のある頭巾。
長楊掃地不見日 長楊 地を掃(はら)って日をば見ず。
石門噴作金沙潭 石門 噴いてなる金沙の潭(ふち)。
笑誇故人指絶境 笑って誇る故人の維境を指すを ※3親友の竇がいい景色だと指すのをにっこり笑って自慢してゐる。
山光水色青於藍 山光水色 藍よりも青し。
廟中往往來擊鼓 廟中 往往 来って鼓を撃つ
堯本無心爾何苦 尭はもと無心 なんぢ何ぞ苦しむ。
門前長跪雙石人 門前には長跪す双石人
有女如花日歌舞 女あり花のごとく日(ひび)に歌舞す。
銀鞍繡轂往復廻 銀鞍 繡轂(シュウコク) 往いてまた廻(かへ)り ※4貴人たちが銀鞍の馬や立派な車にのって来て。
簸林蹶石鳴風雷 林を簸(あふ)り石に蹶(けつまづ)いて風雷鳴らす。
遠姻空翠時明滅 遠姻 空翠※5 時に明滅し ※5遠い霧や空の青色。
白鷗歴亂長飛雪 白鴎(ハクオウ)歴乱※6 長く雪を飛ばす※7。 ※6みだれ飛んで。※7つらなり長く雪がとぶかと思はす。
紅泥亭子赤闌干 紅泥の亭子 赤闌干
碧流環轉青錦湍 碧流 環転す青錦湍(タン)。
深沈百丈洞海底 深沈百尺 洞海の底に ※8この淵のつらなってゐる百尺下の洞の海の底には
那知不有蛟龍蟠 なんぞ知らん蚊龍の蟠(わだかま)るあらざるを。
君不見克潭水流東海 君見ずや緑珠潭水※9 東海に流れ ※9晋の石崇の家には愛妾の名をとった緑珠潭といふのがあった。
克紅粉沈光彩 緑珠 紅粉 光彩を沈むるを。 ※10その緑珠のべに白粉をつけた美しい顔も水に沈むがごとく見えなくなった。
克樓下花滿園 緑珠楼下 花 園に満ちしが
今日曾無一枝在 今日かって一枝の在ることなし。
昨夜秋聲閶闔來 昨夜 秋声 閶闔(ショウコウ※11)より来り ※11天上の門、また西風。
洞庭木落騷人哀 洞庭 木落ちて騷人※12悲しむ。 ※12洞庭湖畔で離騒を作った屈原をはじめとして詩人のこと。
遂將三五少年輩 つひに三五少年輩をひきゐ
登高遠望形神開 高きに登りて遠望すれば形神※13開く。 ※13身も心も。
生前一笑輕九鼎 生前 一笑して九鼎※14を軽んぜしが ※14三代伝国の宝とされた神器。
魏武何悲銅雀臺 魏武なんぞ悲しむ銅雀台 ※15魏の武帝曹操は銅雀台を建てわが死後は愛妾たちをここに登らせ陵を望み見よと遺言した。
我歌白云倚窗牖 我は白雲を歌うて窗牖(まど)に倚る ※16李白に白雲歌があり、山に帰る友を送ってゐる。
爾聞其聲但揮手 なんぢその声を聞いてただ手を揮ふ。
長風吹月度海來 長風 月を吹いて海を度(わた)りて来る
遙勸僊人一杯酒 はるかに僊人※17に勧む一杯の酒。 ※17仙人に同じ。
酒中樂酣宵向分 酒中 楽(ガク)酣(たけなは)にして宵 分(なかば)に向ふ ※18夜半を過ぎる。
舉觴酹堯堯可聞 觴(さかづき)を挙げて尭に酹(ささ)ぐ 尭よ聞くべし。
何不令皐繇擁篲八極 なんぞ皐繇(コウヨウ※19)をして篲(スキ※20)を擁し八極※21に横たへ ※19皐陶に同じ、実は舜の臣と。※20竹ばうき、
ここでは彗星をその代りに用ゐると考へたらよからう。※21空の八方のはて。
直上青天掃浮雲 ただちに青天に上って浮雲を掃(はら)はしめざる。
高陽小飲眞瑣瑣 高陽の小飲※22 真に瑣瑣※23たり ※22山簡は高陽池で毎日酔ってゐたが。※23細少にして卑賎。
山公酩酊何如我 山公の酩酊もなんぞ我にしかん。
竹林七子去道賖 竹林の七子 道を去り賖(はるか)なり ※24魏の時の阮籍<げんせき>嵆康<けいこう>・山濤<さんとう>・向秀<しようしゆう>・劉伶<りゆうれい>・阮咸<げんかん>・王戎<おうじゅう>は竹林
の七賢と称せられた。
蘭亭雄筆安足誇 蘭亭の雄筆いづくんぞ誇るに足らん。 ※25晋の王羲之は蘭亭の序を書いた。
堯祠笑殺五湖水 尭祠に笑殺す五湖の水 ※26太湖のこと、「悲歌行」にも范子何曽愛五湖とあり
至今憔悴空荷花 今に至って憔悴しむなしく荷花(蓮)のみと
爾向西秦我東越 なんぢは西秦に向ひ我は東越
暫向瀛洲訪金闕 しばらく瀛洲※27に向って金闕※28を訪はん。 ※27東海にある三仙島の一。※28仙島にある黄金造の門をもった宮殿。
藍田太白若可期 藍田 太白※29 もし期すべくんば※30 ※29ともに長安方面にある山。※30汝のゆくこの方面で会ってよいと思ったら。
爲余掃灑石上月 余がために掃灑(ソウサイ)せよ石上の月。
この詩には「時に久しく病み初めて起きて作る」しといふ李白自身の註がついてゐる。この註どほり、詩の初めの方では馬の鞭をふりあげる力さへ失ってゐたことを述べ、 次いですべての名利をすてて仙境に入るため東越、すなはち浙江方面へ赴くといってゐるが、果して彼の姿はまもなく揚子江の流域に現はれる。
開元二十六年冬、潤州(江蘇省鎮江)の刺史齊澣(セイカン)は、揚州の南の瓜州から、揚子県(今の儀徴県の南)に至る二十五支里に亘る新河を開いた。 伊婁(イル)渠と称せられる運河がこれである(「旧唐書」巻八玄叫」巻玄宗本紀、「唐書」巻128齊澣伝)。この運河の開通からあまり隔らない、恐らく開元二十七八年に、 李白はここに来てゐることが、その「瓜州ノ新河ニ題シ族叔ノ舎人賁ニ餞スル」といふ李賁(リホン)の送別の詩で知られる。
開元の年号は二十九年で終りとなり、天宝と年号が改まるが、その元年には、李白は四十二歳である。この年、彼は遂に望みを達して上京する。 しかもこれが皇帝に召されてといふ最上の条件によってであるが、この時、彼は、既に南の浙江省にゐた。ここは即ち東越の地であるから、竇薄華に述べた通りである。 この方面へ来た確実な年はわからないが、浙江省でも会稽(紹興)から曹蛾江を遡ること百支里の嵊県内にある剡渓(エンケイ)にゐたことは、「旧唐書」の李白伝に
「天宝ノ初、会稽ニ客遊シ、道士呉筠(ゴキン)ト剡中ニ隠ル、筠、徴サレ闕ニ赴キ、之ヲ朝ニ薦ム。筠ト倶ニ翰林ニ待詔タリ」
とあることによって知られる。「唐書」では呉筠とともに召されたと伝へる。
呉筠ならびに剡渓に関する詩は見られないが、会稽で作ったと思はれる名高い「越中懐古」等、浙江省の各地を歌ったものは存する。 ただし李白は後にもまたこの方面に来てゐるから、国亡びて山河ありの情を歌った「越中懐古」はその時のものと見る方が面白からう。
「旧唐書」の記事は呉筠がまづ単独で京に上り、李白を推薦して、そこで李白が徴されたのだとも解されゐが、 おそらく「唐書」のいふやうに二人は同時に召されたのであらう。
召された李白は、当然、妻子と訣別して単独で上京するが、その時の心境を歌った詩に「南陵ニテ児童ニ別レテ京ニ入ル」といふのと、 「内ニ別レテ徴ニ赴ク」三首とがある。前者は次の通りである。
南陵別兒童入京 南陵にて児童に別れて京に入る
白酒新熟山中歸 白酒※1あらたに熟して山中に帰る ※1濁酒。
黄雞啄黍秋正肥 黄雞 黍(きび)を啄(ついば)んで秋まさに肥えたり。
呼童烹雞酌白酒 童を呼び雞を烹(に)て白酒を酌む
兒女嬉笑牽人衣 児女は嬉笑して人の衣を牽く。
高歌取醉欲自慰 高歌し酔を取ってみづから慰めんと欲す
起舞落日爭光輝 起舞すれば落日 光輝を争ふ。
遊説萬乘苦不早 万乗※2に遊説(ユウゼイ)する※3早からざるに苦しむ。 ※2兵車万乗を出す国の君、天子。※3諸侯をたづね歩いておのれの説をすすめる。
著鞭跨馬渉遠道 鞭を著(つ)け馬に跨(またが)りて遠道を渉(わた)る。
會稽愚婦輕買臣 会稽の愚婦 買臣を軽んず
余亦辭家西入秦 余もまた家を辞して西のかた秦に入る。
仰天大笑出門去 天を仰いで大笑して門を出でて去る
我輩豈是蓬蒿人 わが輩あにこれ蓬蒿の人※4ならんや。 ※4よもぎなどの雑草に埋もれてしまふ人。
この詩で見ると、李白が妻子に別れたのは南陵(安徽省)の家のやうである。この時、李白の家がここにあったといふのは事実だらうか。 「内ニ別レ徴ニ赴ク」を見ることとしよう。すなはちその三首の中、其一は
王命三徴去未還 王命三たび徴(め)し去らんとしていまだ還らず
明朝離別出呉關 明朝離別して呉関を出でんとす。
白玉高樓看不見 白玉の高楼は看るとも見えじ
相思須上望夫山 あひ思はばすべからく上るべし望夫山。
と妻との別れの情を詠じてゐるが、呉関といひ、望夫山(宣城にあり)といひ、これも別れの地を安徽省内のやうに思はせる。また其のニは
出門妻子強牽衣 門を出づれば妻子強ひて衣を牽き
問我西行幾日歸 我に問ふ、西行して幾日か帰ると。
歸時儻佩黄金印 帰る時もし黄金の印を佩びなば ※1丞相や将軍の印は黄金。
莫學蘇秦不下機 学ぶなかれ蘇秦の機より下りざるを。※2戦国の蘇秦がはじめ諸侯に遊説し失敗して帰って来たとき妻は織機より下りず嫂は炊かず父母はもの言はなかったと。
と、蘇秦を自己にくらべて意気軒昂たるごとくであるが、第三首では
翡翠爲樓金作梯 翡翠(ヒスイ)を楼となし金(こがね)を梯(かけはし)となせども
誰人獨宿倚門啼 誰人か独宿して門に倚(よ)りて啼く。
夜坐寒燈連曉月 夜坐には寒灯 暁月に連り
行行涙盡楚關西 行くゆく涙は尽く楚関の西。
といひ、別離の後、孤閨にある妻を歌ひ、同時に旅ゆく自分も日ごと涙を流すやうに歌ってゐる。しかしここでも楚関といって、 揚子江流域から長安へ赴くやうにいってゐる。
「南陵別兒童入京」の詩には、また一に古意に作るとの註があるから、地名なども変へたのかとも思はれるが、「別内赴徴」の方はどうであらう。 この後も妻子は山東にゐるのだが、一応これよりまへ宜城あたりに妻子を呼び、ここから李日が出発したあと、また山東へ帰ったのだとでも考へるより仕方あるまい。
李白のこの時の心持は、これらの詩の示すごとく、朱買臣もしくは蘇秦を気どってゐたやうである。朱買臣のことは有名だが、念のために記すと、漢代、会稽に生れ、
家が貧しいのに読書好きで、家業に励まない。薪を採って売るのが仕事だったが、薪を負ひながらも本を読んでゐた。妻がまた薪をになってついて来てゐたが、他人の嘲笑に気をかねて、
これをとめるといよいよ大声でよむ。たうとう妻から離縁を申し出ると「俺は五十になると富貴になる。今はもう四十余だ。
おまへの苦しみは久しいが、富貴になったら報いてやらう」といったので、妻はますます怒って離縁をむりにしてしまった。しかし朱買臣は数年後には長安に
行って富貴の身となった。のち会稽の太守に任ぜられたが、このとき武帝は「富貴にして故郷に帰らないのは繍を着て夜行くがごとしといふが、今そなたはどう
だ」といったといふ。この人のことは「今古奇観」などの小説にもなるほど有名だが、李白自身は妻の愚かなことよりも、朱買臣と同じく長安へゆけばたちまち
立身出世することの方に重きを置いたのだらう。しかし「別内赴徴」でも同じく悪妻をもった蘇秦に思ひついてゐるところから見て、李白も大酒壮語のたびに妻
に叱られてゐたのかもしれない。
とまれ、この二人を自己に引きあてることは、あまり縁起がよくないことを李白は知らなかったのだらうか。朱買臣はのちのち何度も官をやめさされ、 最後には武帝の命で殺された(「漢書」巻64上)し、蘇秦も六国の宰相を兼ねた得意の時は実に短かかったからである。
南陵で妻子と別れたとすると、李白の長安への道筋は全く不明だが、もしこれらの詩を一応すてて考へると、彼の旅程は、会稽から潤州(鎮江)に出でて、 揚子江をわたり、大運河を一路北上し、山東に寄って、ここで妻子と訣別したのではないかと思はれる。
事実、李白に「泰山ニ遊ブ」といふ六首の連作があり、これには「天宝元年四月、故(もと)の御道より太山に上る」といふ註が付されてゐる。もとの御道といふのは、 これにさきだつ開元十三年に、玄宗皇帝が泰山で封禅(ホウゼン)の儀を行ふために造られた道である。この註を信ずれば、ますます南陵での訣別が怪しまれる。
ともあれ天宝元年に、李白は前途の洋々たる希望と、一脈の不安と、別離の悲哀との混合した複雑な感情で、長安に向っての旅路についた。これらの諸感情のうち、 はじめのものが最も強かったであらうことは云ふまでもない。