(2007.01.24up / 2007.03.07update)
Back

たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944


四 戦ひの詩

 李白が安陸を去った理由は明らかでない。既に二人の子までなした妻のゐる地を去るには、何らかの理由があったので、芭蕉の如く風雲に誘はれたのではなからうと思はれるが、 彼自身はこれについて、何ら語ってゐない。しかし彼がこの後、三度も娶ってゐることや、再びと安陸へ赴いた様子のないことから、許氏一家との不和が原因かとの想像が可能である。

 安陸を去った彼がまづ赴いたのは、北のかた并州(ヘイシュウ)(唐代北都とも称するの太原)である。ここに行った理由は、安陸時代に嘗って洛陽に遊び、天津橋南の酒楼で知合となり、 のち随州の道士胡紫陽の所にも共に遊んだことのある元某から、その父がこの時、北都尹(イン)(長官)として并州にあるとて、誘ひを受けて同行したもののやうである。 この交友と太原での饗応と、城西の祠にともに見物に行った時の趣とは、 元某が後に譙(ショウ)郡(安徽省毫県)の参軍となってから贈った「旧遊ヲ憶ヒ譙郡ノ元参軍ニ寄ス」といふ長詩に見えてゐる。

 太原は北のかた直ちに塞に接し、東突厥(テュルク)に対する作戦上の基地として、奚(ケイ)や契丹(キッタン)の侵入に備へる幽州(北京)と共に、 唐代の北方の重鎭をなしてゐた。南方の揚子江流域ののどかな眺めとは趣を全く異にした北方の風物、とりわけ塞に上って北望した時の荒涼たる胡地の様は、詩人の 胸を種々の感概で躍らせたに相違ない。また各地に転戦した将兵の手柄話も酒宴の間に聴かれたであらう。李白の長ずる所とした塞上の詩も、 ここでの感興をもととして生れたものがあらう。

 開元の末年は唐の国勢の概も振った時であった。内の太平はしばらく措く、外に向っての征伐は殆ど功を奏せぬはなかった。 この大唐の勢威は「旧唐書」の「玄宗本紀」が非常な名文を以て頌へてゐる。

「コノ時ヤ、烽燧(ホウスイ:のろし台)驚カズ、華戎軌ヲ同ジウシ、西蕃ノ君長ハ縄橋ヲ越エテ、 競ヒテ玉関ヲ款(たた)キ、北狄(ホクテキ)ノ酋渠ハ毳幕(セイバク)ヲ捐(す)テテ、争ヒテ雁塞(ガンサイ:地名)ニ趨(おもむ)ク。象郡・炎州ノ玩、雞林・鯷海(テイカイ)ノ珍、 象胥(ショウショ:通訳官)ニ結轍(ケッテツ)シ、典属ニ駢羅(ヘンラ:馬を並べ)セザルナク、丹墀(タンチ:天子の殿階)ノ下ニ膜拝(バクハイ)シ、立杖ノ前ニ夷歌ス。冠帯百蛮、 車書万里ト謂フベシ。」

 実際、朝鮮半島は高宗の代には全く服属し、新羅(しらぎ)王は北隣の渤海王とともに、王子を遣して朝貢し、その西隣のツングースと蒙古の雑種なる契(ケイ)、 契丹(キッタン)の二酋長はいづれも李姓と公主とを賜って帰順の意を示し、更に今の全蒙古地域に国を建て、唐と対抗する勢を示したトルコ族の突厥も、 ビルゲ可汗の即位後は和親策を採ったし、チベット人は先年、唐の将軍に青海のほとりで破られてから、唐を侮ることをしなくなった。また南の南詔、安南はともに恭順であり、 広東(カントン)の港では波斯や大食(アラブ)の商人が五色の鸚鵡や獅子を朝廷への献上物として貿易を願ひ出る。これがほぼ開元二十三年の唐の対外関係のあらましであった。 ただし西北の守備は一日も撤することは出来ないが、この方面を守る将兵の意気は盛んであった。李白もこの前線に近い太原に来て、これらの有様を見聞し、 豪壮雄大な詩想を得たであらう。唐代の戦ひの詩では自ら塞外に従軍した高適や岑参(シンシン)の作品がすぐれてをり、王昌齢も巧みであった。 しかし僅々数句の中に大規大模の場景を盛る手際に至っては、李白にかなふものがなかった。人口に膾炙した多くの傑作がかくて作り出された。それらの中いくつかをあげて見よう。

代馬不思越 代馬は越を思はず ※1山西方面産の馬は浙江方面をなつかしがらないし。
越禽不戀燕 越禽は燕を恋はず。 ※2浙江方面の鳥は河北方面をこひしがらない。
情性有所習 情性習ふ所あり
土風固其然 土風もとよりそれ然らむ。
昔別鴈門關 昔は鴈門の関に別れ ※3山西省代県の雁門山上の関。
今戍龍庭前 今は龍庭※4の前に戍(まも)る。 ※4匈奴の天地を祭る場所。
驚沙亂海日 驚沙(ケイサ)海日を乱し ※5騒ぎ立つ沙塵で北海の上の目も暗くなり。
飛雪迷胡天 飛雪胡天に迷ふ。
蟣虱生虎鶡 蟣虱(キシツ※6) 虎鶡(コカツ※7)に生じ ※6だにとしらみ。※7後漢の時、近衛兵は冠にやまどりの尾をつけ、服には鹿の絵が描いてあった、ここでは丘士の衣冠の意。
心魂逐旌旃 心魂 旌旃(セイセン)を逐(お)ふ。※8心は軍旗やさしもののあとばかりつけてゐる。
苦戰功不賞 苦戦すれども功 賞せられず
忠誠難可宣 忠誠宣(よろこ)ぶべきこと難し。
誰憐李飛將 誰か憐れむ李飛将  ※9漢の李広。
白首沒三邊 白首※10にして三辺※11に没するを。 ※10白髪頭。※11中国の北辺、幽州、并州、涼州。

代の馬は越へ行きたがらたいし
越の鳥は燕を恋しく思わない。
感情や性質には慣れがあり
土地の風習がもともとそうさせるのだ。
昔、雁門関(がんもんかん)で別れ
いまは龍庭の前で守っている。
まいあがる砂は北海の日光を散乱させ
ふぶきが胡の空にまいくるう。
だにや虱(しらみ)が服や冠にわき
兵土の心は軍旗をおっている
苦しいいくさをしても手柄はほめられず
忠義のまごころもあらわしにくい。
だれが飛将軍李広(りこう)を気の毒がろうか
白髪あたまで国境をかけめぐって死んだのに。

「古風」五十九首中の第六である。社甫の「前出塞」「後出塞」「兵車行」などと併せて、征伐のために人民の疲弊したことを諷した詩といはれる(続国訳漢文大系「李太白集上」 49頁の久保天随博士の説)が、私はさう取るのは当らないと思ふ。将士の労多くして報いられること少なきを憐れんでゐるが、自己及び唐の皇室の祖先と称する李広などを例に引いたため、 他の意味も加はって来てあながち反戦の詩とも見られない。

 同じ「古風」の第十四も戦争を題材としてゐる。

胡關饒風沙 胡関には風沙饒(おほ)く ※1北の蛮族の侵入を守る関。
蕭索竟終古 蕭索※2つひに終古※3。 ※2ものさびしい様。※3古より永久にかうである。
木落秋草黄 木落ちて秋草黄なれば
登高望戎虜 高きに登りて戎虜(:西方のえびす)を望む。
荒城空大漠 荒城むなしく大漠
邊邑無遺堵 辺邑には遺堵だになし。 ※4辺地の町の城は崩されて垣さへ残ってゐない。
白骨千霜 白骨千霜※5に横はり ※5千年。
嵯峨蔽榛莽 嵯峨(サガ※6)として榛莽(シンボウ※7)蔽(おほ)はる。 ※6高く積み重って。※7やぶ草むら。
借問誰陵虐 借間す誰か陵虐※8する ※8馬鹿にしていぢめる。
天驕毒威武 天驕※9威武を毒す※10。 ※9匈奴の単于は自らのことを天の驕子といった。※10たけく勇ましい力を悪用する。
赫怒我聖皇 我が聖皇を赫怒(カクド※11)せしめ ※11ばげしく怒る。
勞師事鼙鼓 帥(いくさ)を労して鼙鼓(ヘイコ※12)を事とす。 ※12軍用のつづみ。
陽和變殺氣 陽和※13 殺気に変じ ※13あたたかいなごやかな気。
發卒騷中土 卒を発して中土※14を騒がしむ。 ※14中国。
三十六萬人 三十六万人
哀哀涙如雨 哀哀として涙雨のごとし。
且悲就行役 かつ悲んで行役に就く
安得營農圃 いづくんぞ農圃を営むを得ん。
不見征戍兒 征戍の児を見ずんば
豈知關山苦 あに関山の苦を知らんや。
李牧今不在 李牧いま在らず
邊人飼豺虎 辺人豺虎(サイコ)を飼ふ。 ※15豺や虎を飼ってゐるのと同じく危険な思ひをしてゐる。

胡地の関門のあたりには風や沙が多くとんで来て
昔から今にいたるまでいつもさびしげだ。
木の葉が落ち秋草が黄ばんだので
高みにのぼってエビスどものいる方をながめた。
荒れはてた城あとと大沙漠があるばかりで
国のはしの村々には垣根さえのこっていない。
白骨が見えるが千年ものむかしからのもので
突き立ってやぶや雑草におおわれている。
誰がこのむごいわざをしたのかとたずねてみれぱ
天の驕児たる匈奴が武力を悪用したのだそう。
わが神聖なる皇帝もこれには大いに怒られ
軍隊をつかいせめつづみを用いることとなったのだ。
なごやかな陽気もかくて殺気に変じ
兵卒を徴発するので中国は大さわぎ。
三十六万人の大軍は
たいへんなかなしみようで雨のように涙をながした。
かなしみながらも征伐に出かけてしまう
かくてはどうして畑仕事ができようぞ。
この征伐に来た男たちを見なければ
どうして関所のあたりの苦しみがわかろうか。
しかも軍には李牧のような名将はもういない
このあたりの人間は猛獣を飼っているようなさまだ。

 この詩は三十六万人を発して築造したといふ秦の万里の長城の址を見ての感慨に加へて、戦国の趙の李牧のやうな名将のいまゐないことをそしってゐるのであって、 愛国の情は見られるがあながち反戦の詩とはいへまい。李白の詩でそれに当るものがあるとすれば「戦城南」であらう。

去年戰桑乾源 去年は桑乾(ソウケン※1)の源(みなもと)に戦ひ ※1山西省大同のところを流れる河。
今年戰葱河道。 今年は葱河(ソウカ※2)の道に戦ふ。 ※2葱嶺すなはもパミール高原から流れ出る川、黄河の上流と考へられてゐた。
洗兵條支海上波 兵を洗ふ條支(ジョウシ※3)の海上の波 ※3第二章生立ちの条に記した如くイラン方面か。
放馬天山雪中草。 馬を放つ天山の雪中の草。
萬里長征戰 万里長(ひさ)しく征戦し
三軍盡衰老。 三軍ことごとく衰老す。
匈奴以殺戮爲耕作 匈奴は殺戮をもって耕作となす
古來唯見白骨黄沙田。 古来ただ見る白骨黄沙の田。
秦家築城備胡處 秦家 城を築いて胡に備ふるの処
漢家還有烽火然。 漢家また烽火の燃ゆゐあり。
烽火然不息 烽火燃えて息(や)まず
征戰無已時。 征戦已(や)む時なし。
野戰格鬪死 野戦に格闘して死す
敗馬號鳴向天悲。 敗馬※4 号鳴して天に向って悲しむ。 ※4戦死者のつれてゐた廃馬。
烏鳶啄人腸 烏鳶 人腸を啄(ついば)み
啣飛上挂枯樹枝。 啣(ふく)み飛んで上り枯樹の枝に挂(か)く。
士卒塗草莽 士卒 草莽に塗(まみ)るるも ※5戦死して草原に肝脳膏血をぬりつける。
將軍空爾爲。 将軍むなしくしかなす。
乃知兵者是凶器 すなはち知る兵はこれ凶器
聖人不得已而用之。 聖人已(や)むを得ずしてこれを用ふるを。 ※6「六韜」や「老子」に見える語。

去年は桑乾(そうかん)河の源に戦い
今年は葱嶺(パミール)の道に戦う。
兵器を条支(シリア)の海上の波に洗い
馬を天山の雪中の草に放して来た。
万里に長く征戦し
三軍はことごとく衰え老いた。
匈奴は殺戮を耕作だとしていて
古(いにしえ)からただ白骨黄沙の田のみを見る。
秦朝が長城を築いて胡を避けたところでは
漢代にまた烽火(のろし)のたつことがあった。
烽火は燃えてやまず
征戦はやむときがない。
野戦に格闘して死に
廃馬は叫び鳴き天に向かって悲Lむ。
烏や鳶が人の腸をついばみ
くわえて飛び上り枯木の枝にぶらさげる。
将校も兵卒も野草に死体をまかすが
将軍は仕方なくそうしているのだ。
そこでわかる 兵は凶器であり
聖人はやむを得ずに用いるのだと。

 「戦城南」はもともと漢の楽曲で、君のため戦死するも意としない、との歌であったのをかういふ風に作り、最後には道教の中心思想をなす無為から考へれば「已むを得ずして用ふる兵」が、 はたしていまその本義にかなってゐるか、どうか反省せしめようとしてゐる点、なかなか意義があり、杜甫の「兵車行」などにも劣らない。

 しかし李白の戦ひを取材した詩にはこんなのは珍しい。「行行且ツ遊猟篇」、「胡ニ人無し」、「出自薊北門行」、「従軍行」、「白馬ヲ発ス」、「紫騮馬」、 「塞下曲」など沢山ある戦ひの詩は概ね勇壮で戦士を鼓舞し、督励し、賞讃する側にまはってゐて、この点、やはり戦争に反対する儒教の側からも非難されよう。 とりわけ問題になるのは杜甫との比較から来る非難である。杜甫は忠君愛国者であるが、「人民に関心をもち、一個の人民を愛する政府のあることを希望し、 この希望のかなへられんことを皇帝の身上に寄せた」(馮至「杜甫伝、57頁)として、その忠君をば中共の文学史家からも認められてゐる。これに反し、 李白は酒と女とのみに関心をもってゐたといはれるのであるが、私はこれらの戦争詩がやはり愛国者としての李白の姿を伝へてゐるのだと思ふ。戦争の惨苦、 とりわけ崩壊に瀕した唐の国内状勢に暗かったとの非難は、天宝十載ごろまでの盛唐の時代にうたふ詩人に責める方が無理である。 とまれ李白が感歎し後世に伝ヘようとした唐の将兵の勇敢をうたふ詩として、「胡ニ人無シ」一篇だけでも代表として挙げておかう。

嚴風吹霜海草凋 厳風※1霜を吹いて海草※2凋む ※1冬のきびしい風。※2北海の草。
筋幹精堅胡馬驕 筋幹精堅※3にして胡馬驕る。 ※3弓の各部が冬になると完全になり。
漢家戰士三十萬 漢家の戦士三十万
將軍兼領霍嫖姚 将軍兼ねて領す霍嫖姚(カクヒョウヨウ)。 ※4漢の名将、嫖姚校尉霍去病のごとき部下を将軍は多くつれてゐる。
流星白羽腰間插 流星白羽を腰間に挿み ※5流星のごとく早くとぶ白羽の矢。
劍花秋蓮光出匣 剣花秋蓮 光 匣(コウ)を出づ。 ※6蓮花のやうなにほひのある剣を箱からとり出して帯びてゐる。
天兵照雪下玉關 天兵※7雪を照して玉関※8を下れば ※7天子の兵。※8玉門関。
虜箭如沙射金甲 虜箭沙(いさご)のごとく金甲を射る。 
雲龍風虎盡交囘 雲寵風虎ことごとく交回し ※9雲龍陣、風虎陣などの陣形をかはるがはるとりかへ。
太白入月敵可摧 太白月に入って敵摧(くだ)くべし。 ※10金星と月が合すれば勝利の兆か。
敵可摧 旄頭滅 敵擢くべし 旄頭(ボウトウ)滅す ※11胡星の光がうせた。
履胡之腸渉胡血 胡の腸(はらわた)を履(ふ)み胡血を渉(わた)る。
懸胡青天上 胡を懸く青天の上
埋胡紫塞旁 胡を埋む紫塞の旁(かたはら)。 ※12秦漢のとりでは土の色が紫だったと。
胡無人 漢道昌 胡に人なく 漢道昌(さかん)なり
陛下之壽三千霜 陛下の寿三千霜。
但歌大風雲飛揚 ただ歌はん大風 雲飛揚す
安得猛士兮守四方 いづくんぞ猛士を用ひて四方を守らしめんと ※13漢の高祖の歌を引く。

きびしい冬の風が霜を吹き瀚海(ゴビ)にはえた草もしぼんだ
弓矢がりっぱに出来あがり胡馬は威勢が良い。
漢朝の戦士は三十万人で
大将軍は霍嫖姚など幾人もひきいている。
流星のように早くとぶ白い羽の矢を腰に挿し
剣の見事なこと秋の蓮のようなのがピカピカと匣(はこ)から出る。
中華の兵は雪に照らされて玉門関から出てゆくと
胡の矢は沙(いさご)のように黄金の甲(よろい)を射る。
雲龍風虎の陣形をみな交互に回転し
太白星が月に入って敵がほろぶ前兆だ。
敵が砕げる
旄頭(ぼうとう)が消える。
胡の腸をふみ胡の血中をあるき
胡の首を青天の上にさらし首とし
胡の死体を紫塞のかたえに埋める。
胡に人なく
漢の道は盛んである。
陛下の御寿命は三千年
ただ歌おう「大風おこって雲飛揚す
 いずくにか猛士を用いて四方を守らしめん」と。

 李白の詩中、王昭君のことを引いたものが多く、直接これを題材にした作も三首ある。即ち「王昭君」といふのが二首と「于闐(ウテン)花ヲ採ル」の詩がそれである。 これらの詩が出来たについては当時の対外関係が働いてゐる。唐人は必ずしも戦争ばかり好んだわけではないので、外交にも力を用ゐてゐる。 ただし中国と自ら称し信じてゐるからには平等な交際は考へられない。最も普通なのは豊かな産物や文化財を与へて懐柔するやり方で、わが遣唐使派遺などは大唐の文化に垂涎して行はれたのであるが、 北西の勇敢な蛮族にはこれだけでは駄目だと、皇帝のむすめ、即ち公主またはこれに准ずるものをその酋長に賜はり、これによって懐柔するといふ漢代以来のやり方が行はれた。 玄宗は即位の後、たびたびこれを行ってゐるが、李白がこの事実からこれらの詩を作ったとすれば、天宝四載に帝の外孫揚氏を宜芳公主として、奚(ケイ)の主李延寵に、 同じく独孤氏を静楽公主として、契丹の主李懐秀に嫁せしめたことが、これに当てはまる。当時、唐人の間ではかかる政策を屈辱として大なる反対があったらうことは想像に難くない。 李白も公主たちを隣れんでこれらの詩を作ったのかもしれない。しかし私はこれらの詩を必ずしもかかる政治的な意味で見ず、はじめて塞北の地を見た李白が、戦ひを想ふとともに、 かかる荒涼の地に赴いて美貌を空しくした悲劇の主人公王昭君を想ひ起したといふことも十分あり得ると思ふ。それゆゑこれをもここに録して置かう。

 王昭君二首  王昭君二首

漢家秦地月 漢家秦地の月 
流影送明妃 影※1を流して明妃※2を送る。 ※1月光。※2王昭君の昭が晋の文帝の名と同じとて、明君、明妃と呼ぶやうになった。
一上玉關道 一たび玉関※3の道に上れば ※3玉門関。
天涯去不歸 天涯に去って帰らず。
漢月還從東海出 漢月はまた東海より出づるも
明妃西嫁無來日 明妃は西に稼して来る日なし。
燕支長寒雪作花 燕支(エンシ※4)長く寒く雪は花となる ※4山の名、匈奴の王庭があった。ここから出るのでサフラン顔料を嚥脂といふと(江上波夫学士「ユウラシヤ古代北方文化」123-132頁)
蛾眉憔悴沒胡沙 蛾眉※5憔悴(ショウスイ)して湖沙に没す。 ※5蛾眉柳腰明眸皓歯は美人の資格。
生乏黄金枉圖畫 生きては黄金に乏しく枉(ま)げて図画せられ
死留青塚使人嗟 死しては青塚(セイチョウ※6)を留(とど)めて人をして瑳(なげ)かしむ。 ※6王昭君の沙漠内の塚は草色常に青かったので青塚といふと。
     ○
昭君拂玉鞍 昭君 玉鞍を払ひ
上馬啼紅頰 馬に上りて紅頬啼く。
今日漢宮人 今日は漢宮の人
明朝胡地妾 明朝は胡地の妾。

漢の秦地(しんち)の月は
光を流して昭君を送っている。
一たび玉門関の道についたら
天の涯まで行って帰って来ない。
漢の月はまた東海から出て来るが
昭君は西に嫁してもう帰って来る日がない。
燕支山(えんしざん)は冬長く寒く雪が花のよう
蛾眉(がび)はやつれて胡沙にうずもれた。
生きては黄金がとぼしく画にうそをかかれ
死んでは青塚(せいちょう)をのこして人をしてなげかせる。
     ○
王昭君はみごとな鞍をぬぐったあと
馬に乗るとそのくれないの頬には涙がつとう。
今日は漢の宮人だったが
明日は匈奴のめかけとなるのだ。

 この二首の中、後の方の絶句は李白の最傑作の一であり、また古来多くの王昭君を詠じた詩の中で最上のものである。周知の如く、王昭君の悲劇は詠史の好題目となり、 中国のみでなく、我国でも漢詩を作る者の必ず詠ずるところで、「和漢朗詠集」にも王昭君の條がわざわざ設けてある。それら多くの詩の中、僅々二十字のこの五絶ほど、 昭君の憐れな身の上と心境とを詠じ出したものはない。李白の天才は測り知られぬといって宜しからう(田中克己「王昭君の悲劇」楊貴妃とクレオパトラ161-170頁)。前の方の詩も、 後に掲げる「于闐花ヲ採ル」も、いづれも作品としては上々である。特に後者は王昭君に借りて、才ありて用ひられぬ己が身を嘆じたのであるから、別の趣も加はって面白い。

 于闐採花  于闐 花を採る

于闐採花人 于闐(ウテン) 花を採るの人
自言花相似 自らいふ花とあひ似たりと。
明妃一朝西入胡 明妃一たび西のかた胡に入れば
胡中美女多羞死 胡中の美女 多く羞ぢて死す。
乃知漢地多名姝 すなはち知る漢地の名姝(メイシュ※1)多く ※1美人。
胡中無花可方比 胡中に花の方比(たぐ)ふべきなきを。
丹青能令醜者妍 丹青※2よく醜者をして妍(かほよ)からしめ ※2赤と青のゑのぐ。
無鹽翻在深宮裡 無塩(ブエン※3)のかへって深宮の裡(うち)にあるを。 ※3齋の宣王の妃で、有名な不美人。
自古妒蛾眉 古より蛾眉を妬(ねた)み
胡沙埋皓齒 胡沙 皓歯を埋む。

于闐で花をつむ人は
自分で花そっくりの美人だといっている。
王昭君がある日 西のかた勾奴に嫁いると
勾奴の美人たちは恥じて死んでしまった。
そこでわかったことだが中国には美人が多く
勾奴の花の美人などくらべものにならないと。
絵の具が醜いものを美しくして
無塩などという醜女が宮中にいるのだ。
むかしから美人はねたまれ
沙漠にその身を埋めるのだ。

 于闐は今の新疆省のコータンにあった国名であるが、李白はこれらの地名を引く時には実に無造作に引いてゐるから、別に深く咎めるにも当るまいが、 王昭君の行った匈奴とはちがふ方面である。とまれ美人におのれをたとへた李白が得意の時は、後述する如く天宝の初の僅かな期間のみで、その前後おしなべて不遇であったから、 この感慨はいつのことと考へてもよい。

 李白の太原滞在のいま一つの収穫として伝へられるものに、郭子儀(カクシギ)との知己の交がある。郭子儀は後の汾陽郡王で、安禄山の乱後、 契丹出身の李光弼(ヒツ)とともに忠戦して、唐の天下を再興せしめた功臣であるが、この時は哥舒翰(カジョカン)の部下の一将校であり、一隅に小さくなってゐた。李白は彼を一見すると、 すぐに座の中央に連れて来て「この壮士は目の光が火のやうに人を照してゐる。十年とたたない中に大将軍となるだらう」といひ、またしばしば哥舒翰の叱責から庇ってやった。 この因縁から、後に李白が永王の謀叛に連坐して流刑となると、郭子儀が自分の賞とひきかへにその罪を贖(あがな)ったのであるといふ(裴敬「翰林学士李公墓碑文」)。 しかしこの話には少し誤りがある。郭子儀が哥舒翰の部下であったといふことは伝ってゐない上に、このころ哥舒翰は既に西方の軍を率ゐてゐたやうであるから、 李白が太原方両で哥舒翰の一座に入って飲んだことはあり得ない。ともかくこの話は、李白が太原で軍人たちと交際してゐたことを想はすものである。

 太原での作と考へられるものは、いま一つあって「太原ノ早秋」がそれである。

歳落衆芳歇 歳落ちて※1衆芳歇(や)み※2 ※1一年も半ばすぎて。※2もろもろの花がなくなり。
時當大火流 時は大火※3の流るるに当る。 ※3大火は心星ともいはれ秋七月から西に流れる。
霜威出塞早 霜威 塞を出でて早く
雲色渡河秋 雲色 河を渡りて秋なり。
夢繞邊城月 夢は繞(めぐ)る辺城の月
心飛故國樓 心は飛ぶ故国の楼。
思歸若汾水 帰るを思ふこと汾水のごとく ※4太原を流れる黄河の支流。
無日不悠悠 日として悠悠※5たらざるはなし。 ※5憂ふる様。

一年も半分すぎて花はみななくなり
時は大火の星の西に流れる月にあたる。
霜のきびしさはとりでを出ると早くも感じ
雲のいろも黄河を渡って来て秋のすがただ。
わたしのゆめには辺域の月がよく出て来て
心ではふるさとのたかどのへと飛んでゆく。
帰りたいと思うことは南に流れる汾水のようで
毎日毎日うれえて長く思うのだ。

 この詩の示すやうに、南に輝く大火(蝎座アンタレス)の星を望み、南に下る汾河を羨んでゐる詩人は、秋が深まるとともに北方に居たたまれずなったことだらう。 まもなく彼の姿は山東省で見出される。

五 徴に就くまでへ


Back