(2007.01.22up / 2007.03.07update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944


三 遍歴時代

 李白が四川に在ったのは、少年時代だけで、やがて諸方への遍歴の途に着いた。その理由、その道筋などに関しては、 これまでに引いた彼の「安州裴ノ長史ニ上ル書」が解答を与へてゐる。この書には偽作の疑があることは前にも述べたが、他にはこの詩人の遍歴時代、しかもただの放浪ではなくして、 ゲーテの小読「ヴィルヘルム・マイスタ」の主人公に於ける遍歴時代と同じく、詩人李白の大成を約束せしめる重大な期間であったと見られる時代についての史料がないのであるから、 ここでは止むを得ずこれに語らせることにしよう。初の方は前にも引いたが重複を構はず録すると、まづこの書を記す際の心境を述べ、ついで

「自分の家は金陵にあり、世々名族であったが、沮渠蒙遜の難に遭って、咸秦に遁れ、官吏となってここに住まった。自分は少年時代江漢で生長し、五歳にして六甲を誦し、 十歳にして百家を観、軒轅以来のことに頗る通じた。常に経書を手から放たず、文章を考へ作って倦まずに過して来たが、年を数へてみると今で三十年になる。士は生れると桑の弓、 蓬の矢で四方を射るが、そのことから考へると、大丈夫には必ず四方の志があるべきである。それゆゑ自分は剣を杖(つ)いて国を去り、肉親を離れて遠遊しはじめ、足跡は南は蒼梧、 東は溟海に及んだが、同郷人なる司馬相如が雲夢(ウンボウ)沢のことをほめて、楚には七沢があるといってゐるのを読み、これを見に来たのである」

 といって湖北省方面にやって来た理由をのべ、ついで

「許相公(安陵の人なる許圉(ギョ)師、高宗の時の宰相)の家に招かれ、孫女を妻(め)あはされたので、ここに留り、三星霜を過した。」

 といって、彼の伝記にとって重要な資料を提供し、筆を続けて、安陸に至るまでの遍歴時代の逸話を次のやうに色々と物語ってゐる。

「昔、東のかた揚州に遊んだ時には、一年とたたない中に三十余万金を散じた。この頃、落魄した公子がゐれば、みな救ってやったからである。これは自分が財を軽んじ施しを好む証拠である。 またかって四川時代の友人呉指南と、ともに楚に遊んだが、指南は洞庭湖のほとりで死んだ。自分はまるで肉親の死に会ったやうに、喪服をつけ慟哭し、 涙がかれて血が出るほど泣き悲しみ、指南の屍骸を湖畔に仮葬してから、金陵(南京)に行った。数年して帰ってみると、屍骸には筋肉がまだ残ってゐたから、これを洗ひ削り、 骸骨を負って鄂城(武昌)の東に葬ってやった。これが李白の存交重義のよい証拠である。」

 といって、四川時代の友に呉指南といふ者のあったこと、洞庭湖、南京、武昌と往来した事実を提供し

「また昔、逸人東巌子と岷山(ビンザン)に隠棲すること数年、城市に足をふみ入れず、奇禽数千を飼ひ、呼べばみな掌から餌をついばむやうになった。 広漢(綿州)の太守がこれを聞いて感心し、棲家(すみか)に来て会ひ、二人を有道科(唐の時の官吏選衡の一科)に推薦しようとしたが、二人とも断った。これが自分の道を好み、 尊貴に屈しない証拠である。」

 と、出郷以前の逸話をのべる。岷山は彰明県の北方に連る山である。また曰く

「また前の礼部尚書の蘇公(蘇頲)が益州(唐代四川省北部の称)の長史(州の次官)になられた時、自分は途中、名刺を通じて面会を求めたが、蘇公は自分を待遇するに布衣の礼を以てされ、 部下の官吏たちに云はれるには『この人は天才英麗、筆をとれば中途で滞ることなく、その詩文は風力は未完成だが、特殊の骨をそなへてゐる。これに学問を加へたら、 司馬相如に比肩し得るであらう』と。またこの安陸郡の前の都督馬公(名不明)は朝野の名士であったが、自分を一見すると礼を尽くして、奇才の名を許され、 長史の李京之にいはれるには『諸人の文はたとへれば、山に烟霞がなく、春に草樹のない如く物足りない点があるが、李白の文は清雄奔放で、名章俊語がつづいて起り、光明洞徹し、 句々人を動かす』と。これは自分と親交ある元丹邱が親しく聞いて来たことである(元丹邱との交際は後述する)。蘇、馬二公が愚人ならばともかく、賢人だとすれば、 自分もとりえがあると申さねばなるまい。」

 といふ。この書はその内に記してゐる如く、李白の三十歳の時のものだから、開元十八年までの彼の閲歴はあらましこれで尽きてゐると見て良い。安陸に来て、 許圉師の孫女を娶ってから三年が過ぎたといふからには、彼の安陸に来たのは開元十五年、二十七歳の時のことであったと見ねばなるまい。 益州の長史となった蘇頲に途中で謁したことが事実ならば、蘇頲が宰相を罷(や)められて礼部尚書に遷り、また俄かに益州大都督府の長史となったのは、 開元八年だ(「唐書」巻125)から、李白の、二十歳の時のことである。この中間の十年足らずが湖南・湖北方面から揚州・南京方面へかけての、遍歴に費されたわけである。 岷山での、隠遁生活は恐らくそれに先だつ数年間のことであらう。いづれにしても二十歳にして早くも、当時の大官であり、 有名な文人でもあった蘇頲から才能を認められた彼の得意は如何ほどであったらう。

 後年の奔放不羈の生活もまたこの青年時代から連続したものであった。常時の揚州の全盛は、後代の人ではあるが、于鄴(ウギョウ)の小説「揚州夢記」につくされてゐる。 さうしてこの小説の主人公で晩唐の詩人たる杜牧の作った

落魄江南載酒行 江湖に落晩し酒を載(も)ちて行く
楚腰繊細掌中輕 梵腰 繊細にして掌中に軽し。
十年一覺揚州夢 十年一たび覚(さ)む揚州の夢
贏得樓薄倖名 贏(か)ち得たり青楼薄倖の名。

 といふ詩は、読者に青春の儚(はか)さを切々と感ぜしめるが、李白の当年の放埓もこの類のものであったらう。李白自身に銀鞍白馬、得々としてゆく少年貴公子を歌った詩が多いのも、 後にひそかに当年の自らの姿をなつかしむ心から出たのであらう。

 たしかにこの時期の作と推定されるものは多くない。「安州ノ李長史ニ上ル書」には「春、救苦寺ニ遊ブ詩一首十韻」「楊都尉ニ上ル詩一首三十韻」 「石巌寺ノ詩一首八韻」を見せると記し、確かに安陸に至るまでの作だと思はれるが、三首とも今は伝ってゐない。 ちなみに救苦寺は常徳府(湖南省)の西四支里にある寺で李白は洞庭湖畔に遊んだ時に立寄ったのであらう。

 なほまた詩の題材によってこの時期の作に違ひないと思はれてゐるものに「古風」五十九首中の「蟾蜍(センジョ)、太清に薄(せま)る」の句を以てはじまる一篇がある。 この詩は玄宗皇帝が王皇后を廃したことを、諷してゐると思はれるから、そのことがあった開元十二年七月の直後の作とすれば、李自がわづか二十四歳だった時のものである。 詩としてあまり面白いものとは思はれないが、二十四歳にしてこの風格を具へてゐたとすれば、安州の前の都督馬公の言葉も決してほめすぎとは云へなからう。

 安陸の地は武漢三鎭の西北百余支里、雲夢沢の北に位し、北して信陽の三関を越えれば河南省で、洛陽への途に当る。李白が裴長史に、 雲夢沢を見に来て計らずもここに留ることになった、といってゐるのは或ひは事実であらう。滞留の理由は、ここで許圉師の家に婿となったからであった。

 許氏は安陸の名家で、圉師は高宗の顕慶四年に擢(ぬき)んでられて宰相となり、李義府、盧承慶および同族許敬宗と職を同じうした。帝の信任も篤かったと見えて、 龍朔元年九月には、皇后と共に李勣(セキ)の家とその家とに行幸があった。李勣は太宗時代の武将として李靖とともに誰知らぬ者もない大功臣である。以て許圉師の寵遇を知るに足りよう。 しかし早くもこの翌二年十一月には李義府の排斥によって宰相を罷められ、虔州(江西省贛州(コウシュウ))の刺史に左遷された。その後、相州(河南省彰徳)の刺史に遷り、 上元中には再び中央に還って戸部尚書に任ぜられた(「唐書」巻3及び「旧唐書」巻59)が、開元年間には存命の筈はなく、家はその子の代になってゐたに相違ない。 「唐書」の宰相世系表及び「旧唐書」に拠れば圉師には自牧、自遂、自正、自然の四子があった。李白の舅(しゅうと)となったのはこの中の誰かであらう。

 安陸時代の作と明らかに決定し得るのは、「安陸ノ白兆山ノ桃花巌ニテ劉侍御綰ニ寄スル詩」、「安州ノ応城ノ玉女湯ノ詩」、 「安州ノ般若寺ノ水閣ニ涼ヲ納レ薛員外乂ニ遇フテ喜ブノ詩」の三首である。李白の言によれば、彼のこの地に留まったのは十年に近かったから、 作の亡くなったものはこの数十倍に上ったのであらう。その他、湖北省の襄陽、荊州、武昌付近にも往来しただらうから、これらの地の詠物詩の或るものはこの期のものと見て宜しからう。

 安州の三首はそれぞれ相当の出来であるが、その中、劉綰(ワン)に寄せた詩のみを録しよう。

雲臥三十年 雲に臥すこと三十年
好閑復愛仙 閑を好みまた仙を愛す。
蓬壺雖冥絶 蓬壷※1 冥絶す※2といへども ※1蓬莱に同じ、仙境。※2はるかに離れてゐる。
鸞鳳心悠然 鸞鳳 心 悠然たり。 ※3霊鳥に乗らうとの志はかはりない。
歸來桃花岩 帰り来る桃花岩
得憩雲窗眠 雲窓に想(いこ)うて眠るを得たり。
對嶺人共語 嶺に対して人ともに語り ※4嶺ごしに人と語りあひ
飲潭猿相連 潭(ふち)に飲んで猿あひ連る。 ※5猿が手をつらねて渓の水を飲む。
時昇翠微上 時に翠微※6の上に昇れば ※6山の八合目
邈若羅浮巓 邈(バク) ※7として羅浮(ラフ) ※8の巓(いただき)のごとし。 ※7はるかな様。※8広東省増城県にある山の名、晋の葛洪が仙術を修めたところ。
兩岑抱東壑 両岑(リョウシン) 東壑(トウガク)を抱き
一嶂西天 一嶂 西天に横はる。
樹雜日易隱 樹 雑(まじは)りて日隠れやすく
崖傾月難圓 崖 傾きて月円(まど)かなりがたし。
芳草換野色 芳草 野色を換(か)へ ※9香のいい春の草が芽ぶいて野のありさまも改まり。
飛蘿搖春烟 飛蘿(ヒラ) 春烟を搖(うご)かす。 ※10根なしのつたが飛ぶので春のかすみもゆらぐ。
入遠構石室 遠きに入って石室を構へ
選幽開山田 幽を選んで山田を開く。
獨此林下意 ひとりこの林下の意
杳無區中縁 杳※11として区中の縁※12なし。 ※11深遠の様。※12俗界の塵縁。
永辭霜臺客 永く霜台の客を辞し ※13霜台は御史台。その役人たる侍御史劉綰の食客の意。
千載方來旋 千載※14まさに来り旋(かへ)らむ。 ※14容易に得難い好機会として。

白雲の中で三十年間も臥(ね)て
閑暇を好み神仙を愛するわたしだ。
蓬莱山は遠くはなれているが
鸞鳳(らんほう)のように心はゆったりしている。
いま桃花巌に帰って来て
雲の出入りする窓にやすらかに眠る。
このあたりでは人間は山と語りあい
湖で水を飲むときは猿どもは手をつなぎあう。
ときどき山の中腹の平地にのぼると
はるかに羅浮山の頂(いただき)にいるようだ。
東の谷を二つの峰が抱きかかえており
西の空にはついたてのような山が横たわっている。
雑木が茂って太陽も隠れやすく
崖が傾斜しているので丸い月は見えにくい。
香草がはえて野の景色がかわり
風に吹かれるサルオガセは春霞をゆるがす。
わたしは遠く山中に入って石室をかまえ
奥ぶかい土地をえらんで山田を閉拓した。
ただこの村中の生活を楽しむ心ばかりで
俗縁からははるかにはなれている。
侍御史どのの食客生活には永い別れを告げ
千年もたったらまたもどってごよう。

 白兆山は安陸の西二十支里にあり、その山下に桃花巌があり、今もここに李白読書堂がある由である。 春日煦々たる丘陵中の坐臥は李白にとっては貴顕との交際よりはるかに楽しかったらう。

 襄陽は安陸の西三百支里にある。漢江の右岸に臨み、三国の諸葛孔明の隠棲の地なる隆中山もその西にある。李白は襄陽を訪れた時、必ずこの山にも行ったであらう。 「襄陽曲」四首及び「襄陽歌」はここに成った。「襄陽歌」は各首、この地の旧蹟を述べ、高陽池、峴山(ケンザン)、堕涙の碑を点出してゐる。 「襄陽歌」は長篇だが、彼の傑作の一であり、詩酒を以て生涯とした彼の酒に対する観念をよく表はしてゐるから引いて見よう。

落日欲沒峴山西 落日 没せんとす峴山※1の西 ※1襄陽の東南九里にあり。
倒着接[上四+下離]花下迷 倒まに[セツリ] ※2を着けて花下に迷ふ。 ※2白帽、晋の山簡の故事を引く。
襄陽小兒齊拍手 襄陽の小児斉(ひと)しく手を拍(う)ち
攔街爭唱白銅鞮 街を攔(さへぎ)って争ひ唱ふ白銅鞮(ハクドウテイ)。※3曲の名。
旁人借問笑何事 傍人借問す※4 何事をか笑ふと ※4問うてみる。
笑殺山公醉似泥 笑殺す 山公※5酔うて泥のごときを。 ※5山簡。
鸕鶿杓 鸚鵡杯 鸕鶿(ロジ)の杓鸚鵡(オウム)の杯 ※6鵜の形をした酒をくむひしゃく。※7鸚鵡貝の盃。
百年三萬六千日 百年三万六千日
一日須傾三百杯 一日すべからく傾くべし三百杯。
遙看漢水鴨頭 遥かに看る漢水鴨頭(オウトウ)の緑 ※8鴨の首の毛のやうな緑色をしてゐる。
恰似葡萄初發醅 あたかも葡萄の初めて発醅(ハツバイ) ※9するに似たり。 ※9醗酵する。
此江若變作春酒 この江もし変じて春酒と作(な)らば
壘麴便築糟邱臺 壘麴(ルイキク※10)すなはち築かん糟邱台(ソウキュウダイ)。 ※10つみかさねた麹。※11殷の紂王が酒の粕で岡を築いたやうにうてなを築かう。
千金駿馬換小妾 千金の駿馬は小妾を換(か)へ ※12後魏の曹彰の故事。
笑坐雕鞍歌落梅 笑って雕鞍(チョウアン※13)に坐して落梅※14を歌はん。 ※13玉をちりばめた鞍。※14曲の名。
車旁側挂一壺酒 車旁(シャボウ)かたはらに挂(か)く一壷の酒
鳳笙龍管行相催 鳳笙龍管※15ゆくゆく相催す。 ※15笙と笛と。
咸陽市中嘆黄犬 咸陽の市中に黄犬を嘆ずるは ※16秦の宰相李斯は刑場に牽かれるとき、子にいった「吾なんぢとまた黄犬を牽いて上蔡の東門を出で狡兎を逐はんと欲するもあに得べけんや」と。
何如月下傾金罍 なんぞしかん月下に金罍(キンライ※17)を傾くるに。 ※17雲雷の形を画いた酒樽。
君不見晉朝羊公一片石 君見ずや、晋朝の羊公の一片の石 ※18晋の時の太守羊祜。死後その頌徳碑が峴山に立ち、みるものみな悲嘆したので堕涙碑といはれた。
龜頭剥落生莓苔 亀頭※19剥落して莓苔(バイタイ)を生ず。 ※19碑をのせた亀の頭。※20苺は苔に同じ
涙亦不能爲之墮 涙もまたこれがために堕つる能はず
心亦不能爲之哀 心もまたこれがために哀しむ能はず。
清風明月不用一錢買 清風明月※21一銭も買ふを用ひず ※21また朗月に作る。
玉山自倒非人推 玉山おのづから倒る、人の推すにあらず。 ※22嵆康の酔った様は、玉山のまさに崩れんとするやうだったと。
舒州杓力士鐺 舒州(ジョシュウ)の杓 力士の鐺(トウ※24) ※23舒州は今の安徽省潛山、酒器の産地。※24今の江西省南昌より産した力士の形を刻した酒器。
李白與爾同死生 李白なんぢと死生を同じくせん。
襄王雲雨今安在 襄王の雲雨いまいづぐにか在る ※25楚の襄王と恋愛した巫山の神女は朝には雲となり夕には雨となったと。恋愛もはかなしとの意。
江水東流猿夜聲 江水は東流し猿は夜声(な)く。

落日は峴山(けんざん)の西方に落ちようとしているが
わたしは白帽をさかさまにかぶって花の下で迷っている。
襄陽(じょうよう)の小児どもはそろって拍手し
街路を通せんぼして白銅提(はくどうてい)のうたをあらそって歌う。
そぱの人は聞いてみる「なにを笑っているのか」と
山簡(さんかん)どのが酔っぱらって泥そっくりなのを笑っているのだ。
鵜のかたちした酒くみ器、鸚鵡貝でつくったさかずき。
人の一生は百年で三万六千日だから
毎日三百杯を飲まねぱならないぞ。
はるかに見える漢江は鴨の首のように緑で
ちょうど葡萄がもろみ酒となったとそっくりだ。
この漢江がもし春の酒に変わってくれたら
わたしは麹(こうじ)をつみかさねて糟邱台(そうきゅうだい)を建てよう。
千両もする駿馬を妾とかえことして
笑ってその鞍上に坐って落梅花をうたおう。
馬車のよこには一壷の酒をぶらさげて
みちみちりっぱな笙や笛が酒を飲めよとうながす。
咸陽(かんよう)市中で「黄犬をもいちどひきたい」となげいたひとなどは
どうして月光の下で金の酒樽を傾けるのにかなおうか。
きみは知らないかあの晋の羊祜(ようこ)どのも一片の石碑となり
亀の形をした尖頭も劉げ落ち苔がいちめんにはえているのを。
涙もそのために落とすことができず
心もそのために悲しむことができない。
清風や明月は一銭も出すことがいらないし
その中で酔い倒れるのは他人に押されたのではない。
舒州(じょしゅう)の酒くみ器よ、力士のかなえよ、
わたしはおまえらと生死をともにしよう。
襄王(じょうおう)をたのしませた雲や雨はいまどこへいったか
長江は東に流れ猿は夜なかに悲しげに鳴いている。

 この詩をよむと、大伴旅人の「讃酒歌」十三首がただちに連想されるが、これは更に徹底してゐる。古の山簡の如く襄陽の街上を小児から歌ひはやされつつ蹌踉と歩み、 人生三万六千日、一日に三百杯を傾けて一千万杯を飲み尽さんと願ひ、漢江を望見してその色よりこれがすべて酒と変ずればと連想し、威勢天下を圧した秦の宰相李斯、 頌徳碑を建てられた晋の名吏羊祜(ヨウコ)のいづれたるをも願はず、酒器を指してなんぢと死生を共にせんといふあたり、誠に酒仙の名にそむかない。 ただ遺憾なのは私が全然の下戸で、この詩の真の趣は遂に解し得ないのではないかといふことである。

 李白と孟浩然とが知己になったのもこの頃であらう。孟浩然諱(いみな)は浩、この襄陽の人で、字(あざな)を以て知られてゐる。永く鹿門山に隠棲してゐたが、 四十にして長安に遊び、太学で詩を賦したところ、一座が感嘆して対抗しようとするものもない。張九齢、王維に崇敬せられ、一度宮廷に導かれて入ったら、 俄かに玄宗皇帝が出御になった。孟浩然は無位の身とてこれを避けようとして、牀下に匿れた。王維が事実を申上ると、帝は喜んで曰く

「朕その人の名を聞いて未だその人を見なかった」と。詔して牀下より出でしめ、その詩を誦せしめたが、「不才にして明主も棄つ」といふ句に至って、 玄宗は不快がり還らしめた。また韓朝宗と共に長安に赴くことを約束しながら、友人と酒を飲む方に気をとられて、遂に赴かなかったため、その怒を買ったこともある。 この人が李白と相許したであらうことは想像に難くない(「唐書」巻203)。

 孟浩然の死は開元二十八年であり、その時、年五十二であったといふから、この四十歳の出盧は、李白の二十八歳であった開元十六年のことである。 安陸にゐた李白が襄陽の鹿門山に彼を訪ねた時の作と思はれるものに「孟浩然ニ贈ル詩」があり、その後、彼がおそらく都に赴くために広陵(揚州)に向った時には、 武昌の黄鶴楼で宴を開いて送ってゐる。

  黄鶴樓送孟浩然之廣陵  黄鶴楼に孟浩然の広陵にゆくを送る
故人西辭黄鶴樓 故人西のかた黄鶴楼を辞し
烟花三月下揚州 烟花三月※1 揚州に下る ※1霞たち花ひらく三月
孤帆遠影碧空盡 孤帆の遠影 碧空に尽き
唯見長江天際流 唯だ見る 長江の天際に流るるを ※2天のはて

わが古い友だちの孟先生がここ西にある黄鶴楼に別れをつげ
かすみ立ち花ひらく三月に揚州にくだられた。
その乗られた一隻の舟のはるかな姿は青空に見えなくなり
ただ揚子江が天のはてまで流れるのが見えるばかりだ。

 この詩は李白の絶句の例にもれず、見事な作で、東に去る友の孤帆を見途る離愁がよく表はされてゐる。二人の交情が決して薄くなかったことも明らかである。

 孟浩然に怒った韓朝宗は、中宗玄宗の代に二度襄州の刺史となった韓思復の子である。思復は地方官として名声あり、 その死するや玄宗は親(みづか)ら碑に題して「有唐ノ忠孝ノ韓長山之墓」といひ、孟浩然等も碑を峴山に立てた。朝宗は初め右拾遺(諌官)となって、屡々諌言を呈し、 次いで荊州の長史となり、開元二十二年には襄州の刺史となった。李白は荊州の長史たりし彼に知られたのである。大体、朝宗は人を識るの明があり、後進を抜擢することが多かったから、 当時の士人は喜んでこれに帰したのである。その有様は李白の「韓荊州ニ与フル書」にも見えてゐて

「白聞クナラク、天下ノ談士、相聚(あつま)レバ言って曰ク『生キテハ万戸侯ヲ用ヒズ、タダ願ハクハ一タビ韓荊州ニ識ラレンコトヲ』ト」

 とある。李白もこの風潮に促されて、会ひたがったのである。ただし朝宗は大した人物ではなく、開元の終りに、訛言が起って、天下に乱が生ずるゆゑ、 官吏はみな世を避ける計をしなければならぬ、といふのを聞いてこれを信じ、終南山に隠れてゐたのを告発されて左遷されたこともある。李白も彼から特別な待遇は受けなかったであらう。

 いま一つ安陸時代の李白にとって重要なことは道士胡紫陽やその弟子元丹邱等との関係であるが、これは後に李白と道教との関係を述べる際にゆづることとする。

 安陸にゐる中に、李白は夫人許氏との間に一男一女を儲けた。男児を明月奴といひ、女児は嫁したが早死した。この明月奴は前述の伯禽とは別人で、異母兄に当ることはほぼ確実である。

 かくて安陸の十年は、彼をして詩人として成立せしめ、妻子を支へたが、不羈奔放なる詩人はここに生涯を託すべくもなかった。彼の遍歴はその三十五歳なる開元二十三年ころから再び始まった。

四 戦ひの詩


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