(2007.01.20up / 2007.03.07update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944


二 生立ち

 李白の素姓は明らかでない。

 かう云ひ切ってしまふことが、却って詩人李白に似つかはしいことのやうに思はれる。始めて李白に会った時、賀知章は「あなたは謫(タク)仙人だこと云ったといふ。 罪によって天上か下界へ追放された仙人にとっては、素姓の如きは問題でない筈である。それかあらぬか、李白の履歴は深い霧の中に閉されてゐて、真相を極めるのが非常に困難である。

 はじめに云ったやうに、彼の素姓は明らかでない。しかしこの断言に至るまでの経路を、一応なるべく簡単に記しておくことも必要かと思ふ。

 李白の伝記の中では、次のやうなものが比較的信用するに足るものである。

  「旧唐書(クトウジョ)」巻190下 文苑列伝李白伝
  「唐書」巻203 文藝列伝李白伝
  「草堂集序」(唐の李陽冰撰)
  「李翰林集序」(唐の魏(ギコウ)撰)
  「唐左拾遺翰林学士李公新墓碑並序」(唐の范伝正撰)

 その他に李華や劉全白の碑銘、宋の楽史の「李翰林別集序」なども参考に足るものである。しかし以上の諸史料を綜合した結果が、李白の素姓は明らかでないとの結論なのである。

  「旧唐書」の「李白伝」は僅か三百字余りで、その中に不確かな点があるといふのであらう、「唐書」は李陽冰や苑伝正の所記を採用して改め、 字数も六百字余りに増してゐる。簡単にして要を得てゐる点では、正史であるだけにこの二書が優ってゐるが、史料としては、李白の臨終の床にあって、 詩集のことを遺囑されたといふ李陽冰の所伝や、李白の二孫女を親しく訪ねて、その蔵してゐた李白の子、伯禽の自筆の十数行の所記を得たといふ苑伝正の文に直接当る方が捷径(ちかみち)である。 しかしそれに先立って、李白自身が自己の素姓に関して発言してゐないかどうかを、調べて見る必要がある。

 さてこの問題に関しての発言と認めるべきものが、李白集中に二個所だけある。一は彼が粛宗の時の宰相張鏑(チョウコウ)に贈った詩で

家本隴西人 家はもと隴西(ロウセイ)の人
先爲漢邊將 先は漢の辺将たり。
功略蓋天地 功略、天地を蓋(おほ)ひ
名飛青云上 名は青雲の上に飛ぶ。
苦戰竟不侯 苦戦、竟(つひ)に侯たらず
當年頗惆悵 当年頗(すこぶ)る惆悵(チュウチョウ)。

 といってゐる箇所である。自分の家は隴西の李氏で、先祖は漢の武将であり、大功があったが侯になれず、残念がった者である、といってゐるのである、これが誰しもの気づく如く、 漢の武帝の時の勇将李広を指してゐることは明らかである。李広の伝記は「漢書」巻、五四に詳しく見えてゐて、隴西の成紀(甘粛省天水県)の人で、秦の将軍李信の子孫であり、 若くより従軍して匈奴を伐ち、武帝の時、右北平郡の太守となるや、匈奴はこれを呼んで漢の飛将軍といひ避けて侵さぬこと数年であった。名高い石に矢を立てた話もこの頃のことだった。 しかし征戦四十余年、大小の戦七十余戦にして、従弟李蔡(リサイ)の如き凡庸の者も楽安侯になれたのに、彼は遂に封侯を得ず、元狩四年の匈奴大遠征に、大将軍衛青に従って塞を出で、 道を失って自殺した。彼の長男当戸の子が、蘇武と匈奴中で詩の贈答をしたので有名な李陵であって、その蘇武に与へた書に、「陵ノ先将軍ハ功略、天地ヲ蓋ヒ、義勇、 三軍ニ冠タリこといふ語が見えるから、李白がこの語を取って用ひたことも疑ひなく、かたがた李白自身が李広をその先祖と称したことが知られる。

 もう一つの箇所は、李白が三十歳の時、安州(湖北省安陸県)の長史といふ官の裴某に上(たてまつ)った書といふのがあり、その中で

「白ハモト金陵ニ家シ、世々右姓タリ。沮渠蒙遜ノ難ニ遭ヒテ奔リテ咸泰ニ流レ、官ニヨリテ寓家シ、少(わか)クシテ江漢ニ長ズ」

 といってゐる箇所である。金陵は周知の如く南京であるが、ここにゐて沮渠蒙遜(ショキョモウソン)の難に遭ったといふのが怪しいといって、この書を偽作とする者と、 金陵を金城の誤りとする者とがある。後者によるとすれば、金城は今の甘粛省の蘭州であるから、つじつまがあふ。さてここにゐて沮渠蒙遜の難に遭ったのは、どういふ人であらうか。

 沮渠蒙遜といふのは、東晋の時、甘粛省の甘州、涼州に拠って、北涼の国を建てた匈奴の酋長である。この時、西隣の粛州、沙州(敦煌方面)に西涼の国を建てたのが、 李広の十六世の孫と称する李ロ(リコウ)であった。相隣りする二国の慣ひとして、北涼と西涼とは常に睨み合ひの状態であり、李ロの在世の間は無事だったが、その死後、 子の李歆(リキン)が嗣ぐと、たちまち西涼は北涼に亡ぼされてしまった。

 沮渠蒙遜の難に遭ったとは、このことを指すに違ひなく、従って李白は李ロの一族と称してゐるのである。李陽冰や苑伝正は一層はっきりと、李白を李ロの九世の孫といってゐる。 前述の李白の文によれば、この西涼の亡ぼされた時、彼の先祖は咸秦、即ち秦の旧都咸陽を中心とする陝西方面に逃れ、ここに官たり家居してゐたが、李白自身は幼時は江漢、 即ち楊子江・漢江流域で育った、といふことになる。これを信じてしまへば、問題はなくなるが、この文の後半は李陽冰や苑伝正の所伝とも矛盾し、信じ難い点が多く、 この書の偽作であるとの説も根拠がないとはいへない。そこで最も信頼すべき筈である李白自身の所記を去って、李陽冰や苑伝正の所記を考へて見る必要が生ずる。

 前述の如く、この二人はともに李白を李ロの九世の孫とする点に異りはないが、その後のことになると、伝へる所に多少の相違がある。 先づ李陽冰によれば「李白の家は唐の皇室の一族で、世々名門であったが、中ごろ罪に非ずして條支(じょうし)に流され、姓と名とを変じ、五代の間は、士族の身分をも離れて庶民となった。 唐の神龍(中宗の年号)の初め、李白の父が蜀に逃れ帰ってまた李姓に戻り、そののち李白を生んだのであることいふ。

 苑伝正によると「隋末の戦乱に当り、隴西の李氏の一支が、砕葉(サイヨウ)に竄(なが)され、困苦窮乏して姓を変じたため、その同族たる李氏が唐朝を創立しても、 一族の籍には載せられなかった。神龍の初め、広漢(四川省)に帰り、客が李白を生んでのち、復姓したのである」といふ。

 この二説はちょっと見ると同じことを述べてゐるやうで、こまかに読んで見ると、互ひに矛盾する点が多く、しかも両方とも疑はしい点が多い。 一は李白の臨終の床にあったといふ者の所記であり、一は李白の嫡子の所記に基いたといはれるのに、これは一体どうしたことであらうか。

 まづ李陽冰の文を検討してみよう。

 唐の皇室の一族といふのは、唐の皇室は隴西の李氏の出で、高沮李淵は李ロの七世の孫といはれるから、前述の李白の言と矛盾しない。 しかし中ごろ罪に非ずして流されたといふ條支とは一体いかなる地であらうか。條支は漢代に既に中国人に知られてゐた地名であるが、故白鳥庫吉(しらとりくらきち)博士は、 これをアラビア語の「島」(ジェジレ)の訳字として、チグリス、エウフラテス二河の川中島たるメソポタミアのメセネ国にあてられた。 漢人はここを世界の極西なる西王母の国の隣と考へてゐたのである。唐人の考へてゐた條支は、これと少しく概念を異にし、恐らく波斯(イラン)のことであらうと思はれるが、 いづれにしても歴代中国王朝の勢力外にあり、中国人がここへ流されることはありやうがないし、商人、捕虜としての往来もまづまづ絶無と考へていい。もし李白の祖先が中国人でありながら、 当時この方面に住んでゐたとしたら、この浪曼的な詩人には大いにふさはしいことだが、これは残念ながら殆ど信じ難い。またもしその波斯移住を西涼の滅亡と関係づければ、 在留およそ三百年、中国に舞戻って来た彼の祖は殆どイラン人化してゐたことであらう。

以上のやうなわけで李陽冰の所伝は容易には信じ難いが、苑伝正の方はどうかといふと、これもやはり李白の祖先が隴西の李氏の一族であって、塞外に流されたものであるといひ、 その時代を隋末、その場所を砕葉といってゐる。隋末は天下麻のごとく乱れ、そのため安住の地を塞外に求めた漢人もなかったわけではなく、 殊に北方の突厥(テュルク)は隋の皇室と関係があったので、皇子楊政道をはじめ后妃皇族の避難したものもおり、唐になってもその下に付いてゐた遺民一万人と「旧唐書」には記されてゐる。 しかし彼等の住地は中国内地に近く、楊政道の居佳した定襄城も長城の近くにあったと思はれる。しかるに砕葉城はこれと異り、唐の太宗が貞観十四年に北庭大都護府を置いた今のトゥルファンより、 天山を越え、西のかた遥かのイシククリ湖(ノール)(唐代の熱海)に遠からぬチュー河(唐代の砕葉水)畔にあり、今のトクマクの近くである。ただし隋唐時代の西突厥の王庭はこの付近におり、 捕虜となり、もしくは投降した中国人がゐたことも想像されるので、李白の先祖をさういふ風に考へて見ることも、可能であり、李陽冰の所伝よりは遥かにこの方が合理的である。 しかし苑伝正の方が後に書かれたものである点から、この合理化をも一応疑ってかかる必要がないとはいへない。

そこで以上のことから結論して見ると、李白の素姓に関して、少なくとも唯一つ信じていいと思はれることは、彼の家が彼の生時を去ること遠からぬ神龍の初めに、 異民族の住地たる西方から移って来たといふことである。このことは李白自身は云ひたがらなかったやうだが、殆ど疑ひを容れない。しかし李白の民族は漢人か、トルコ人か、 イラン人かといふ問題は、今のところいづれとも断定し難い。とまれ民族が何であらうと、彼の詩が中国文学の最高峰であり、中国詩の美しさを極度にまで生かしたものであることには、 なんら問題はなく、血統の問題はともかく、藝術家としては、李白は純血の漢人だと云へる。

この問題に関しては次の人々の間に論戦がある。興昧のある方は就いて見られたい。

  陳寅格 李太白氏族之疑問(「清華学報」十巻一期)
  李懐琛 李太白国籍問題(「逸経」一期)
  王立中 李太白国籍問趣之商寉(「学風」六巻七・八期)
  幽 谷 李太白-中国人?突厥人?(「逸経」十七期)

 さて民族さへ不明な位であるから、李白が隴西の李氏の一族であるか否かは、彼の言にも拘らず、全く不明であるが、少くと隴西の李氏であると認められるか否かは、 李白自身にとっては大問題だったのである。

このことを明らかにするためには、李白の生れた時代を一応ふりかへって見なければならない。彼の活動した開元・天宝の時代は社会に色々の改革のあった時代であるが、 それまでの数百年間は大体、閥族政治の社会であったといへる。江南にあった六朝がすべてさうだったが、華北の社会もその例に漏れなかった。王朝の興亡と係はりなしに、 名門貴族はずっとその栄位を保持して来た。就中その代表的なものは隴西の李氏、太原の王氏、滎陽(ケイヨウ)の鄭氏、范陽の盧氏、清河の崔氏、博陵の崔氏、 趙郡の李氏等七姓十家で、後魏の王室、北斉・北周の王室はすべて鮮卑(センピ)(蒙古とツングースの雑種)の出であったから、これを軽蔑してたやすく結婚せず、 天下の士人もみなこれら(七姓十家)の家と婚を通ずることを光栄の至りとする有様で、家門の貴さのおかげで代々みな高位高官を占めた。

 北周のあとを受けて華北を占め、ついで南朝の陳を亡ぼして天下を一統した楊氏の隋朝も、そのあとを継いだ李氏の唐朝も、家門の点では彼等に及ぼなかった。否、 近ごろの研究によれば、この二朝はともに塞外民族たる鮮卑族の出身であることが、十中八九まで疑ひないとされてゐる(岡崎文夫博士「支那史概設」上、173-174頁)。

ただし唐の皇室は李氏を称したことから、いつの間にか隴西の李氏に系譜をつなぎ、高祖李淵は前述の李ロの七世の孫といふことにしてしまったのである。 かく皇室さへも家門を貴くするためには、家系を偽り、赤の他人の系譜に自己の系譜をつけねばならなかったのである。李白がその真偽は知らず、隴西の李氏の一族と称したがったのも、 むりはない。ただ彼は皇室の如く権力をもたず、しかも最近に塞外から来た家の出であることが知られてゐたため、これが公認されなかったのである。門閥万能の時代に生れた李白にとって、 このことは大打撃であったに相違ない。前述の李白自身による家系に関する発言も、一は時の宰相への、一は青年時代、住地の地方官への、自薦的な意味を含むものだったことが知られるので、 益々信用し難くなるのである。

素姓を明らかにしない李白は、また出生の地に関しても、二説を有する。蜀の生れといひ(李陽冰)、綿州の生れといひ(魏)、巴西の生れといひ(「唐書」)、広漢の生れといふ(苑伝正、 劉全白)のは、みな矛盾しない。といふのは蜀は四川省のことで、巴西はその綿州の郡名、広漢も同地方の旧称だからだが、ここに一つ「旧唐書」のみは次の如くいってゐるのである。

「李白、字(あざな)ハ太白、山東ノ人ナリ。・・・・父ハ任城ノ尉タリ。ヨリテココニ家ス。少(わか)クシテ魯中ノ諸生ナル孔巣父・韓準・裴政・張叔明・陶沔(ベン)等ト、 徂徠山ニ隠レ、酣歌縦酒ス。時ニ竹渓ノ六逸ト号ス。・・・・」

「旧唐書」は五代の劉昫(ク)の撰で、古くから杜撰のそしりがあり、またこの記事は拠った材料を明らかにしないから、これだけなら黙殺してもいいが、 ここに無硯できないのは、李白と親交のあった杜甫が、同じく彼を山東の李白と呼んでゐるのである(蘇端・薛復ノ筵、薛華ノ酔歌ニ簡ス)。 また中唐の詩人元稹の「杜甫碑銘」にも「山東ノ李白こといふ語が見える。唐代の山東は大行山以東を一般的に指したのであって、 必ずしも今の山東省の任城(濟寧)生れたることを云ってゐるわけではないが、かういふことで山東説も一概には捨て難い。

なほ四川生れといふ説の大弱点は、李白の家が四川に遷ったのは神龍の初年であったといふ(李陽冰・范伝正)のに、李白はその寿六十二歳(李華の墓誌)、 没年は宝応元年(李陽冰)といふことから逆算してみると、唐の中宗の長安元年の生れで、この年には既に五歳だった筈だといふことである。ここに於いて色々な憶測が唱へられてゐるが、 断論を伴はない考証にはもう倦いたから、私はここではこのことをそのままに受取って、李白の生れたのは家の四川移住の、九年前、おそらく塞外でのことであったとしておかう。 或ひはその家の数代の住地であったといふトクマク付近のキルギス式の穹盧(キビッカ)の中で生れたと考へてみるのも浪曼的で宜しからう。

母がみごもる時、太白星が懐に入った夢をみたといふ。太白星は金星である。西洋ではVenusと呼ばれ、美と恋愛との象徴なのだが、中国や中央アジアではこのことが何を意味するのか、 私は浅学にして知らない。彼の字の太白はここから来てゐるといふのである。序でであるが号には青蓮居士、酒仙翁等がある。酒仙翁は詩酒の生涯にふさはしい号であるが、青蓮居士は、 どこから来たのだらう。普通に李白の生地とされてゐるのは、四川省の彰明県青蓮郷であるが、この郷名は或ひは李白の生地であるといふことから起ったので、 李白自らは他の典拠によってこの号を付けたのではないかと思ふ。しからば青蓮とは何かといへば、これは仏典中に多く出て来る花の名であり、梵語では優鉢羅(ウバラ)花といふ由である。 印度には多いが、中国の内地には産しないやうである。高名でありながら珍らしい花であることは、李白と同時代の詩人岑参(シンシン)が、この花を実見して驚喜した様を、 次のやうに述べてゐることで知られる。

「自分は嘗て仏経をよみ、優鉢羅花といふもののあることを聞いてゐたが、見たことがなかった。天宝景申歳(十三載)大理評事・摂監察御史・領伊西北庭度支(たくし)副使の官に任ぜられ、 公務の暇が多かったので、役所内の庭に樹や薬草を植ゑ、築山や池を掘って楽しみとしてゐた。この時、交河(今のトゥルファンの近傍のヤルホト)の小吏でこの花を献ずるものがあり、 云ふには『この花は天山の南麓で見つけました。その姿が普通の草と異り、冠弁のやうにつき立って、衆革の上にぬきん出てをります上、葉に異香がム(ござ)いました』と。 そこで自分は歎じて『汝は中国に生れず、辺土に生れ、そのため牡丹や芙蓉の如く汝より劣った花をして、価高く栄誉あらしめてゐる。天地が公平で陰陽が偏ってゐないのは実に残念なことで、 僻地にもかかる花を惜気もなく咲かせるのだ。もしこの花が小吏に会はなければ、終に山谷に棄てられたままであったらうことは、 これを譬へれば才能ある士が明主に遭はずして山林に退けられてゐると等しからう』と云った。」(「岑嘉州集」巻二優鉢羅花歌の序)。

またその詩は

「白山ノ南、赤山ノ北、其間ニ花アリテ人識(し)ラズ。緑茎碧葉好顔色、葉ハ六弁、花九房。夜掩(と)ヂ朝開キ異香多シ、……」

といふのであった。かく唐代の人士に珍重された花であるから、李白がこれをその号としても、大してふしぎなことはないと思はれる。それにしても、生地といひ、 号といひいづれも西域に関係があるとすれば、金星を表はす太白といふ字にも、何となくイラン風な感覚があると思ふのは、私一人の考へであらうか。

 神龍元年には李白は五歳で、前述の如く、この年に彼の父は四川に移住した。これ以前のことは伝へられてゐないが、この年以後の生活については、 彼自身が前に引いた安州の長史の裴某にたてまつった書の中で述べてゐる。

「五歳ニシテ六甲ヲ誦シ、十歳ニシテ百家ヲ観ル。軒轅(ケンエン: 黄帝)以来、頗ル聞クヲ得タリ。」

 六甲とは悪神を避ける呪文のやうなものを云ふのだらう、道教関係の簡単な経文であることには間違ひがないやうだ。従って十歳にして読んだといふ、百家の書、 老子、荘子をはじめとする老荘の徒の著作を主とするものだったらう。

彼が詩に心を用ひだしたのは、十五歳前後のことらしい。前に引いた張鎬に贈った詩に

十五觀奇書 十五にして奇書を観

作賦凌相如概 賦(フ)を作って相如(ショウジョ)を凌(しの)ぐ

の句が見える。相如とは蜀の人で、漢の武帝の時の有名な詩人司馬相如である。彼はまたこの詩人の代表作であり、六朝の詩人が金科玉條とした「子虚ノ賦」を父から親しく教へられたことを

「余ノ小時、大人、子虚ノ賦ヲ誦セシメタレバ、私(ひそ)カニ心ニ之ヲ慕ヘリ」(秋、敬亭ニ於テ従姪ノ盧山ニ遊ブヲ送ル序

と云ってゐる。彼はまたこの頃、剣術をも習った。

「白ハ隴西ノ布衣(フイ)、楚漢ニ流落シ、十五ニシテ剣術ヲ好ミ、諸侯ニ徧(めぐ)リ干(かかは)り、三十ニシテ文章ヲ成シ、卿相ニ歴(めぐ)リ抵(いた)ル」(韓荊州ニ与フル書)

といふのがその自述である。これで見ると十五歳の頃までには既に四川を出たやうであるが、後に述べる如く、開元八年、その二十歳の時、 四川の益州の長史たる蘇頲(ソテイ)に会ったといふ記事があるから、どもらとも定め難い。

四川にゐた少年時代に関しては、やはり後述に譲るが、四川の風物を詠じた詩が多くないのは、早くここを出て、その後、晩年に夜郎に流される途中、三峡の険を過ぎるまで、四川の山河を望み見ることもなかったのであるから、当然のことと云へる。 即ちその数百編の詩の中、四川を歌ったもので、有名なのは「蜀道難」と「峨眉山ノ月歌」とがあるくらゐにすぎない。

蜀道難       蜀道難

噫吁戲 危乎高哉 ああ 危いかな 高いかな
蜀道之難 難於上青天 蜀道の難きは青天に上るより難し。
蠶叢及魚鳧 蠶叢(サンソウ)と魚鳧(ギョフ) ※1と※1ともに伝説中の蜀の王。
開國何茫然 国を開くことなんぞ茫然たる。
爾來四萬八千歳 爾来、四万八千歳
不與秦塞通人煙 秦塞(シンサイ)と人煙を通ぜず
西當太白有鳥道 西のかた太白※2に当って鳥道あり ※2山の名、陵西の郿県の東南にあり。
可以絶峨眉巓 もって峨眉の巓に横絶※3すべし。 ※3峨眉は四川の山名、太白山から鳥の通ふ道をゆけば峨眉山の頂に横わたりしてゆけるとの意。
地崩山摧壯士死 地、崩れ山摧(くだ)け、壮士※4死す ※4秦王が蜀王に五女を嫁すこととなり、蜀王は五人の壮士を遣して迎へにゆかせたが、途中で大蛇に会ひその尾を引くと地崩れ山くだけたと。
然後天梯石棧相鉤連 然る後、天梯と石棧とあひ鉤連(コウレン)※5す。 ※5引きつらなる。
上有六龍囘日之高標 上には六龍、回日の高標※6あり ※6日の御者なる羲和が六龍の曳く日車を運転してゆくが衝突して進めなくなる高峯がある。
下有衝波逆折之囘川 下には衝波、逆折の回川あり。
黄鶴之飛尚不得過 黄鶴の飛ぶもなほ過るを得ず
猿猱欲度愁攀援 猿猱(エンドウ)※7度(わた)らんと欲して攀援(ハンエン)を愁ふ。 ※7猱は手長ザル。
青泥何盤盤 青泥※ 8なんぞ盤盤(ハンハン) ※9たる ※8嶺の名、※ 9道が曲りくねってゐる様。
百歩九折縈巖巒 百歩に九折して巌巒を縈(めぐ)る。
捫參歴井仰脅息 参(サン)を捫(モン)し、井を歴(へ)て、仰いで脅息し※10 ※10おそれて肩で息する。
以手撫膺坐長嘆 手をもって膺(むね)を撫し坐して長嘆す。
問君西遊何時還 君に問ふ 西遊していづれの時か還る
畏途巉巖不可攀 畏途の巉巌(ザンガン)※11攀(よ)づべからず。 ※11けはしい道のけはしく高い巌。
但見悲鳥號古木 ただ見る 悲鳥の古木に号(さけ)び
雄飛雌從繞林間 雄は飛び雌は従って林間を繞(めぐ)るを。
又聞子規啼夜月愁空山 又聞く 子規の夜月に啼き空山に愁ふるを。
蜀道之難難於上青天 蜀道の難きは青天に上るより難し
使人聽此凋朱顏 人をしてこれを聴けば朱顏を凋(しぼ)ましむ。
連峰去天不盈尺 連峰 天を去ること尺に盈(み)たず
枯松倒挂倚絶壁 枯松 倒(さかし)まに挂(かか)って絶壁に倚(よ)る。
飛湍瀑流爭喧豗 飛湍(ヒタン)と瀑流と争うて喧豗(ケンカイ)※12 ※12さはがし
砅崖轉石萬壑雷 崖を砅(う)ち石を転(まろ)ばして万壑(バンガク)雷(かみな)る。
其險也若此 その険なるやかくのごとし
嗟爾遠道之人胡爲乎來哉 ああ なんぢ遠道の人よ なんすれぞ来るや。
劍閣崢榮而崔嵬 剣閣※13崢榮(ソウコウ)として崔嵬(サイカイ) ※14 ※13剣閣道。蜀道の最難所。※14けはしく高大な様。
一夫當關 一夫 関に当れば
萬夫莫開 万夫も開くなし
所守或匪親 守るところ 或ひは親(シン)にあらずんば
化爲狼與豺 化してならん狼と豺(サイ)。
朝避猛虎 朝(あした)に猛虎を避け
夕避長蛇 夕(ゆふべ)に長蛇を避く。
磨牙吮血 牙を磨き血を吮(す)ひ
殺人如麻 人を殺すこと麻の如し。
錦城雖云樂 錦城※15は楽しといふといへども ※15成都の異名
不如早還家 早く家に還るに如かず
蜀道之難 難於上青天  蜀道の難きは青天に上るよりも難し。
側身西望長咨嗟 身を側(そばだ)てて西望して 長く咨嗟(シサ)※16す。 ※16長いため息する

ああ危険だな高いなあ
蜀へゆく道の困難なのは青天に上るより困難だ
蜀王の先祖の蚕叢(さんそう)と魚鳧(ぎょふ)とが
開国のことはなんとはっきりしないことか。
それ以来四万八千年の間
秦の要塞とは人の交通かなかった。
西の太白(たいはく)山の方角に鳥の通う道があるが
どうして峨眉(がび)山の頂上まで横ぎって来られよう。
蜀から五人の力士が美女を迎えにゆくときに地が崩れ山がくだけて力士は死んだ
そのあと高いはしごや石のかけはしが連なりあうようになった。
上には六匹の竜が曳く日の車もひっかえしたという標識の山があり
下にはぶちあたる波がさかまきめぐり流れる川がある。
黄鶴が飛んでも渡り得ないし
猿がわたろうとしてもよじのぼれないで愁える。
青泥(せいでい)の嶺はなんとぐるぐるまわる山道か
百歩ゆく間に九度もまがり岩山をめぐる。
この道では参の星も手でさぐれ、井の星にふれて上を見ては息をのみ
手で胸をなでておもわずも長いためいきをする。
きみに問うてみる「西のかた蜀に旅していつになったら帰るのか」と
けわしい道の高い岩はよじのぼれないのだ。
ただ見るは悲しげな鳥が古木で叫び
雄は飛び雌はあとについて林の間をめぐるのを。
また聞くのは子規(ほととぎす)が夜の月に向かって鳴き
人けのない山でかなしく鳴くのを。
蜀へゆく道の困難なのは青天に上るよりも困難で
これをきくだけでも人の紅顔はやつれるのだ。
連なった峰は天から一尺もはなれていないで
枯松が絶壁にさかさに倒れかかっている。
早瀬や滝があらそってさわぎ
崖にあたり石をころがしどの谷も雷が鳴るようだ。
そのけわしいことはこのようなのに
ああ、きみ、遠くからの旅人よ、どうして来たのだ。
剣閣(けんかく)は高くけわしく石がごろごろしている
ここに一人の関所の当直がいれぱ万人でも開けない。
しかし守るものが親しくないものなら
狼や豺のような危険な物となろう。
ひとは朝には猛虎を避け
夕方には大蛇を避けねぱならぬだろう。
これらは牙をみがき血を吸い
人を殺すさまは麻を刈るようだろう。
蜀の都の錦城(きんじょう)は楽しいというが
早く家へ帰る方がまさっている。
蜀へゆく道の困難なのは青天に上るよりも困難だ
身をよこむけ西の方をながめて長いためいきをつく。

 この詩はすばらしい詩である。長安より成都に至る蜀道の困難と、古来おのづから一国を成した四川盆地の形勢とが雄渾なる句調で浮彫のやうに描き尽されてゐる。 詩中の三ケ所に繰返されてゐる「蜀道の難きは青天に上るより難し」といふ句も、非常に効果的である。私は特に「参を捫(手探り)し井を歴て仰いで脅息し」といふ句に、 空気の希薄な高地で喘ぐ旅人と、その手の届きさうなほど近くに輝いてゐる参星(オリオン星座)、井宿などの星辰を捉へ来って、蜀道の困難をこれ以上ない位、 鮮やかに写し出してゐるのに感心してゐる。後に都を失ひ、楊貴妃を失った玄宗皇帝がこの道を辿ったことなども、 この詩の背景感を与へてゐるのであらうが――李白の製作はこれに遥か先立ってゐるのだから、これは詩人の予感でなければ、 全くの偶然にすぎないのだが――この詩の暗鬱悲壮な調子は全篇を通じて漲ってゐて、一言一句もその調和を破る箇所がないのに気づく。しかし、 この詩の傑作であることとは全く別なことであるが、蜀道の困難と蜀の政治的地位の特殊性とをかくも巧みに歌ひながら、この詩は思郷の作にはなってゐないのである。 これは古楽府の題意に拘束されたせゐもあらうが、また李白が四川を必ずしも心の故郷としてゐない証拠ではないかと考へさすものである。 その他に彼が実際四川にゐた時代の作と見られるものには「戴天山ノ道士ヲ訪テ遇ハズ」「峨眉山ニ登ル」「錦城ノ散花楼ニ登ル」などがあるが、その中、峨眉山の詩を除く二首は、 第一流とはいひ得ないまでも佳作であって、李白が少年にして既に天才の実を具へてゐたことを示すものである。錦城は「蜀道難」にも見えてゐたが成都のこと、 散花楼は城中にあった高楼である。また戴天山は綿州の北五十里にあり、一名を大康山と呼ばれ、李白の読書の処といはれる。 おそらく李白はこの山中の大明寺の寺僧や道士から多くの書の訓読を授けられたのであらう。

 登錦城散花樓 錦城の散花楼に登る

日照錦城頭 日は照らす錦城の頭(ほとり)
朝光散花樓 朝光 散花楼。
金窗夾繡戸 金窗 繡戸(シュウコ)を夾(はさ)み※1黄金の窓に色うつくしい戸がはめこまれ
珠箔懸銀鉤 珠箔(シュハク) 銀鉤(ギンコウ)に懸(かか)る。※2美しいすだれが銀のかけがねにかかってゐる
飛梯拷_中 飛梯 緑雲の中 ※3高い梯を上って雲の中にまで入ってゆき
極目散我憂 極目※4 我が憂を散ず。 ※4見わたすかぎり眺めれば
暮雨向三峽 暮雨 三峽に向ひ
春江繞雙流 春江 双流を繞(めぐ)らす。※5春の大河は二すぢの流となって成都をめぐる
今來一登望 いま来って一たび登望すれば
如上九天遊 九天※6に上(のぼ)って遊ぶがごとし。 ※6天の最も高いところ

 訪戴天山道士不遇 戴天山の道士を訪ひて遇はず

犬吠水聲中 犬は水声の中に吠え
桃花帶露濃 桃花は露を帯びて濃(こまや)かなり。
樹深時見鹿 樹深くして時に鹿を見
溪午不聞鐘 渓(たに) 午(ひる)なれど鐘を聞かず。
野竹分青靄 野竹 青靄(セイアイ)を分ち
飛泉挂碧峰 飛泉 碧峯に挂(かか)る。
無人知所去 人の去る所を知るものなし
愁倚兩三松 愁へて倚る両三の松。

犬のほえごえはせせらぎの音とまじり
モモの花には露がかかって色がいっそうよい。
木立がふかいので鹿がすがたを見せることもあり
谷間なので正午になっても鐘もつかない。
野生の竹はあおいもやの中からそびえ立ち
瀧があおい峰からおちている。
だれも僕のたずねて来たひとのゆくさきなぞ知りはしない
気がふさいで二三本ある松のみきによりかかってみた。

後の詩の方は、王維の詩のやうな趣があって好いと、乾隆帝もほめてゐる。私は特に最後の行に少年李白の姿がありありと見えるやうに思へて好きである。
四川時代の作がこれだけしか知られてゐないことは、考へて見ると残念であるが、畢竟するに、李白は四川が故郷であるにしろ、ないにしろ、 真の意味の故郷といふものをもたなかった人である。もし彼にそれがあったとすれば、当時の文化の中心であり、帝王の居であった長安がそれであらう。 しかし彼はそこに到達するまでにこの後数十年を経てゐるし、そこでは忽ち極度の失望落胆を味ははねばならなかったのである。

三 遍歴時代


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