(2007.01.16up / 2007.03.07update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集 『李太白』1944


 一 序説

 永い中国の歴史とともに、中国の文学も盛衰の姿を見せるが、その最も多彩な、最も盛んだった時期を挙げよと云はれれば、誰しも唐詩のことを云はずにはをれまい。

 また唐詩といへば、すべての人の脳裏には李白と杜甫の名が浮ぶ。この二人の文学史上の位置は、すでに唐代の人も知ってゐたのであつて、李白より六七十年の後に出て、 みづからも唐詩に光彩を添へてゐる一人たる韓退之が、その詩で「李杜文章在、光燄萬丈長」といってゐるのがこれを証明してゐる。

 李白も、自分が後世はともかく、中国詩文壇の当代に於ける正統者であり、自らの存在によって伝統を、更に豊かならしめるべき任務を帯びた者であることは、 自覚してゐたらしく、彼の「古風」の第一篇は、中国詩の歴史をのべ、この自信をもいってゐるものと解される。

大雅久不作 大雅久しく作(おこ)らず
吾衰竟誰陳 われ衰へなばつひに誰か陳(の)べなん。
王風委蔓草 王風は蔓草(マンソウ)に委(まか)し
戰國多荊榛 戦国には荊榛(ケイシン)多し。
龍虎相啖食 龍虎あひ啖食(タンショク)し
兵戈逮狂秦 兵戈(ヘイカ)狂秦に逮(およ)ぶ。
正聲何微茫 正声なんぞ微茫(ビボウ)たる
哀怨起騷人 哀怨、騒人を起せり。
揚馬激頽波 揚・馬、頽波(タイハ)を激し
開流蕩無垠 流を開きて蕩(トウ)として垠(かぎ)りなし。
廢興雖萬變 廃興、万変すといへども
憲章亦已淪 憲章もまたすでに淪(ほろ)べり。
自從建安来 建安よりこのかたは
綺麗不足珍 縞麗なれども珍とするに足らず。
聖代複元古 聖代、元古に復し
垂衣貴清眞 衣を垂れて清真を貴(たっと)ぶ。
群才屬休明 群才、休明に属し
乘運共躍鱗 運に乗じてすべて鱗を躍らす。
文質相炳煥 文質あひ炳煥(ヘイカン)して
衆星羅秋旻 衆星、秋旻(あきぞら)に羅(つら)なる。
我志在刪述 わが志は刪述(サンジュツ)にあり
垂輝映千春 輝(ひかり)を垂れて、千春を映(てら)さんとす。
希聖如有立 聖を希(ねが)うてもし立つことあらば
絶筆於獲麟 筆を獲麟(カクリン)に絶たん。

詩経の大雅のようなしらべ正しい詩はもうながく盛んにならないが
この李白が老衰したらもう誰がいえよう。
大雅のあとには王風の詩があったがこれも蔓草の中にすてられ
戦国時代になるといばらややぶばかりとなった。
この時代には龍や虎のような群雄がかみあい
戦火が焚書のきちがいじみた秦までつづいたからである。
この間ただしい詩のこえはちいさくかすかになり
ただ哀怨のあまり離騒を作った屈原を出したのみだ。
漢では揚雄や司馬相如が衰えかけた勢をもとにもどそうとし
その流派の勢は蕩々としてかぎりなかった。
かくて興りすたれてさまざまにかわったが
詩の正しい法則はもうなくなってしまった。
漢末の建安からこちらは
美しい詩だがたっとぶには不十分だ。
聖人の代たる唐ではもとのむかしにかえり
政治も衣裳を垂れる無為をもととし清貧をたっとばれた。
おおくの才子が大いに明らかな徳にむかって集まり
天運にのってみなその龍の鱗のような才能を見せた。
あやと生地(きじ)とがまじりあってあきらかにかがやきあうさまは
もろもろの星が晴れた秋空にならんでいるようだ。
僕の志は詩をえらびその傑作をあとにつたえ
これが光を放って千年もかがやくようにすることだ。
聖人孔子のまねをしてもしも一人前になれたら
同じく筆を獲麟に絶ちたいものだ。

 大雅は詩経の篇名だが、ここでは調べ正しく美しき詩をいひ、「われ衰へなばつひに誰か陳べなん」といふあたり、李白の自信をあらはす。中国の詩は詩経に於いて既に完成してゐたが、 戦国と秦代とに衰へた。ただこの間、離騒を作つた屈原があり、漢代には蜀の地より揚雄と司馬相如の二人を出して、僅かに詩の命脈を繁いだが、後漢の建安の頃よりは綺麗、 即ち美辞麗句に流れてしまった。しかし唐代になつて、はじめて復古の気運がおこり、群才が運に乗じて麟を躍らせた、とのべてゐるのである。この最も簡明な詩史が、 同時に公正でもあることは、李白・杜甫等の崇拝し、時には模倣につとめたいはゆる建安以後の詩人、謝朓(シャチョウ)、鮑照(ホウショウ)、庾信(ユシン)、 何遜(カソン)、沈約(シンシャク)等の名をも挙げないことから知られる。

 これらの詩人中、特に謝朓は李白の最も崇拝した者で、晩年そのゆかりの地に住み、つひにそこで死んだことからも、その崇拝の程が思ひやられるが、 しかも李白がこの詩で彼の名をも出さなかったことは、天公が彼をして、詩人としての位置を自然にいはしめた感が深い。唐代の群才とは陳子昂(チンスゴウ)、盧照鄰(ロショウリン)、 駱賓王(ラクヒンノウ)、沈佺期(チンセンキ)等を指すのであらうが、これとても遂に李白の詩の光輝の前には影を潜める。ただ彼と同時代の杜甫だけは彼と名を等しうして、 この二人の優劣は後世の文学史家や詩人たちの興味ある話題をなした。

 この優劣の議論が既に唐代にはじまってゐたことは、元稹(ゲンシン)、白居易(楽天)の如きが、これを論じてゐることから知られる。 但し二人はともに杜甫を勝れりとしてゐるのだが、白居易の好んだ杜詩が「新安吏」「石壕吏」「潼関吏」「留花門」等の時事詩であることから、その慷慨悲痛の詩を好んだことが知られ、 これらの言によっては、李杜の優劣を定めることはもとより不可である。

 従ってその後もこの二人を併せ論ずる者は多く、明・清にまで及んだが、この評論の中、一つの流派をなしたものに、李白には憂国の詩が少いから杜甫に劣るといふのがある。 その代表的なものとしては、かの宋代の王安石があげられよう。彼は唐宋の詩人の代表者として、李白、杜甫、韓退之、欧陽修の四人をあげながら、李白をその最下位に置いた。 その理由は、彼の詩が十中八九までは婦人と酒のことを云ってるからだったといふ(冷齋夜話)。従来の杜甫崇拝者が得々として引くこの態度が、 詩の鑑賞の態度としては誤りであることは勿論であるが、同時に李白と杜甫の生涯をもよく知らぬことから起ったものである。

 李白と杜甫とは同じく盛唐の詩人と称せられるが、李白は杜甫より十一歳年上で、従ってその詩人としての全盛期は、開元・天宝の世、上下すべて唐の国力に酔ひしれてゐた時代である。 この頃に憂国の詩を作らなかったといふのは、云ふ方が無理であると同時に、安禄山が乱を起した時、李白が勤王の軍と誤解してではあるが、 直ちに永王の軍に参加した心情をも認めてやらない苛酷さは責めねばなるまい。

 この間、美しいのは李白に対する杜甫の敬慕である。その李白を歌ふ詩は十四首に上り、名高い「飲中八仙歌」もその中の一篇であるが、就中「李白を夢む」二首の如きは、 その題がすでに杜甫の李白に対する情を思はせる。これは蛮地に流された李白をおもうての夢なのである。生きてゐれば、李杜の優劣の議論を杜甫は喜ばなかったことと思ふ。 殊に彼の詩、例へば「李十二白と同じく范十の隠居を尋ぬ」中の「李候佳句有り、往々陰鏗に似たり」の句などを引いて、杜甫は李白を劣つた詩人陰鏗(インコウ)にたぐへてゐる、 などといふ輩などに対しては、杜甫は陰鏗に対する自らの尊敬とで、よけい怒ることと思ふ。

 私自身も李詩を読むとき参考とした書中に散見する、いはゆる放治的批評には不快を感ずることが多かったから、ここではその見解を排し、 李白の生涯をくはしく述べる方に力を費したことをいっておく。

 李白の詩に対する批評の今一つの態度には、彼が道教を信じて儒教を奉じなかったことから起るものがある。道教のことも、後に詳述するが、 唐の皇室の尊崇の大であつたことから考へても、その時代に生きた李白を批評するに、かかる態度は誤りといはねばなるまい。これらの者は反対に、杜甫を儒教的として賞しようとするが、 杜甫も決して儒教一本ではなかった。悲観的なのが杜甫、楽天的なのが李白、といへば当ってゐようが、唐の最盛時の人間は、上下おしなべて悲観的でなかった。その意味で、 李白の詩は時代をあらはしてゐるとは云へ、ますます彼の詩の意義を深からしめる。

 李白と杜甫とをくらべて、もう一つ気附くことは、杜甫の生涯が比較的に判明してゐるのに対し、李白の生涯の不明なことである。現存する一千三百篇の杜甫の詩には、時事を詠ずるものが多く、 しかもそれを直裁にいってゐるので、自然と作詩の時期もわかり、閲歴を考へる資料となることが多い上に、またみづから詩に註を附して作詩の地や時をいふことがあるのに対し、 李白は時事を詠じてゐるやうな時も、時代を前代にかへ、地名をも改めたりして、その詩想は明らかにするが、生涯の方を明らかにしてくれない。胡適博士がなした如く、 李白と杜甫とを象徴汲と写実派といふ風に分類することには、私は反対であるが、かりにも象徴詩といはれるものをもととするのでは、伝記を書くにも苦心せざるを得ない。 従って年譜も杜甫よりずっと少なく、僅かに宋の薛仲[巛巴](セッチュウユウ)、清の王g(オウキ)と李調元の三人の作があるだけのやうだが、私は王gに拠り得たのみである。 しかし王gの年譜も薛の年譜の不完全なのにあきたらずして作られた由ながら、なほ完全でなく、この伝記を書くには苦しむことが多かった。

 李白の詩人としての位置はすでに明らかである。伝記としても、従来のものに一事も加へ得るとは思はぬながら、 この評伝では少しく異る点を表はしたく思ったのである。

二 生立ち


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