(2023.04.05up update)
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たなかかつみ【田中克己】散文集



『中国の自然と民俗』 研文出版1980.9 21.5cm,265p


「あとがき」

 わたしは明治四十四年(1911)辛亥の年に生れたので、今年は数え年の古稀となる。賀状にもその旨かいて、祝いをどういう形で行なおうかと考えているところへ、研文出版の山本實さんが見えて、記念論文集を出してやるとのことで、喜んで旧稿をコピーした。
 山本さんはその中から民俗関係のものを選び出し、別に「始皇帝の末裔」というのを附加された。これは先師和田清先生から「きみの書いたもので最も面白かった」とほめられたもので、わたしの父方が河内の秦氏の出であることを書いたものである。

 念のためこの論文集の活字となった場所と年とを並列する。

「端午考」 『聖心女子大学論叢』16 昭和三十六年

「端午の節供」 『成城國文学論集』2 昭和四十四年

「唐代の年中行事」 『成城文藝』30 昭和三十七年

「元明小説中の春の行事」 『成城文藝』28 昭和三十六年

「中国ノ農諺についての試論」 『傳承文化』4 昭和三十九年

「中国の諺(一を類字とする)」 『成城大学文芸学部・短期大学創立二十周年記念論文集』 昭和四十九年

「松竹梅」  『成城文藝』73 昭和五十年

「中国の草木と人間」草論 『日本常民文化紀要』2  昭和五十年

「始皇帝の末裔」 『コギト』  昭和十三〜十五年
(拙著『楊貴妃とクレオパトラ』 昭和十六年 ぐろりあ・そさえて刊に所収)


 和田先生は『楊貴妃とクレオパトラ』でお読みいただいたのである。これは歴史とも文学ともつかないエッセーを集めたもので、戦後元元社から新書版で復刻され、五千部刷ったが、いま古書店でも中々見られないものとなった。新書版であるから所有者も売らないのだとわたしは思う。

 そんなわけで民俗学の論文集となったが、中華人民共和国ではこれらの民俗が行なわれているかどうか、一向に訪中の人たちも伝えてくれない。従って「民俗学」とは出来なく「民俗史」と称するのが正しいと思う。

 思えばわたしが東大の東洋史学科へ入学したのは昭和六年、満洲事変の起る年であるが、そんな時節柄のせいか東洋史学科は四十人の志望者があり、入学試験を受けて通ったのが二十人、わたしは幸い入学して、三年生になると卒論に「鄭成功」を書こうと思い、昭和八年夏には二十日ばかり台北の図書館へ通ったが、東京の東洋文庫ほども史料がないのでがっかりして、遊覧旅行を兼ね、台南の鄭成功の廟に参り、安平のゼーランディア城の旧址を見たあと、紹介を受けたお宅にとめてもらい、翌日は日月潭のホテルに泊り、埔里まで行って台北へ帰って来た。

 二回目の訪台はわたしが文士徴用でマレー軍に派遣されて軍属となり、民族学の調査をスマトラの地で四ヶ月ほど行なったあと、台湾軍に転属(なに、軍の用に立たないので免職を前提として帰還を命じられたのである)、高雄で下船、台湾を鉄道で北上し、台北に一泊したあと、神田喜一郎先生を台北帝大にお訪ねしたら、先生は大詔奉戴日とかでゲートルを巻いてお迎えいただいた。大阪の静安学社(石浜純太郎博士主宰)の客員としてお名前を存じ上げていたのである。

 思えば加藤繁、池内宏、和田清、原田淑人の諸恩師はみなお目にかかれなくなり、石浜先生、石田幹之助先生(『大唐の春』『大世界史』の四、文芸春秋社刊に一半を割いてわたしに書かして下さった)ともに世を異にしてお目にかかれなくなった。神田喜一郎先生だけはお元気で、わたしのお見せする拙ない文に必ず懇切な御教示を賜わっている。謹んでこの古稀記念集を献上する所以である。

 「習うより慣れろ」。居は人を変える。わたしはいま柳田文庫を所蔵する成城大学に二十年つとめ、柄にもなく民俗史を講じている。ただし中国に旅行して民俗を調査する暇も金もない。中国の民俗史になったのはそのためである。

 昭和五十五年八月三十一日
                              田中克己

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