(2020.12.07 update)  Back

わに いちたろう【和仁市太郎】詩集『私の植物誌』1979






詩集『私の植物誌』


昭和54年6月25日 すみなわ詩社(高山)発行 139p 21.4×15.0cm並製オフセット印刷 頒価\1300


目次
道/埋没/生と死と/幸せ/生きる/明治の人/愛情/晩菊/孫を抱いて/柿の木/机そして本箱/秋夜抄/春愁/好日詩抄/山峡詩譜/お正月/世襲のように/生命いとしく/録音記二題/高山詩抄/冀願/予告/無題/夜の記録/慕父抄/晨の記/祭礼の夜/故郷詩譜(1)/故郷詩譜(2)/故郷哀慕/故里の歌/朝/故郷詩譜(2)/野麦峠/海を渡って/海辺で/私の植物誌(1)梨/私の植物誌(2)いち い/私の植物誌(3)這い松/私の植物誌(4)芙蓉花/私の植物誌(5)宮城野萩/私の植物誌(6)桧/私の植物誌(7)彼岸花/私の植物誌(8)紫陽花/私の植物誌(9)八つ手/私の植物誌(10)アカシヤ/私の植物誌(11)白菊/私の植物誌(12)カト レヤ/私 の植物誌 (13)花茗荷/私の植物誌(14)秋海棠/私の植物誌(15)花菫/私の植物誌(16)鬼灯/私の植物誌(17)梅擬
/巻末に



【全文画像23mb】

【詩篇抄】

 

生きているものは我が家のものばかり
先刻午前二時をうった時計の音が耳朶の底に余韻を残している
印刷機のローラーや機械を丹念に拭き潔めて屋外に出ると
もう四辺は静寂でちかくの寮もアパートの窓の明りも消されて
平安な夢路をおもいおもいにたどっているのであろう
誰しも選んだ一つの路に ひとかけらの懐疑の想いも抱かず
不信も疑問ももたず平易に半世紀も生き抜くことは稀有のことであろう
戻れるものなら 出発の日の若い二十歳の日に 立ち返れるものなら
改めて人生の振りだしの日に戻したい 返してみたい
自分なりに私を精いっぱい生かしてきたつもりであったが
人生の黄昏にたどりついたいま 越しかたを振り返ると
もっと自分を生かしきれた別の生きかたがあるように悔やまれてならない
この半端な愚直な生きかたは自分ひとりでよかったのに
血を分けたものをまた一人 後につづくものをつくってしまった
優柔な利己的な判断で不幸な道を強いるのではなかろうか
石鹸の泡でインキの汚れを丁寧に洗っていると
庭の隅のかすみ草が白い花を這うように咲かせ
そこだけが仄かに明るく夏の夜の短かい生命を咲きつづけていた。
           四三.七.二〇


 晩菊

畑の隅に手いれもしない捨て菊の茎のまのびた群生が
くる年ごと同じ位置に黙々と生きつづけている
まろく固い蕾をつけたのを見たのは九月の終りであった
すでに高い山脈の肌を厳しく初霜がおりたことを二ュースが知らせ
秋がはやばやと山の背をくだることをながい生きる智慧で体得しているわたくしは
若しかすると花の開くのをみせないでこのまま
緑の葉は黄色を帯び 茎は枯れさいなまれて
襲いくる暴力の白い圧迫に拉がれてしまうのではないか
還暦をまぢかく控えた自分の境涯に似て
人間の言葉が理解されるものならひとこと
力づけてやりたい焦躁にかられていた

仕事に没入する日々が日課のようにつづいて
畑の隅の菊のことはいつか念頭から消えていたが
十一月もなかば過ぎて今年もまた世間の人たちが
その年に励んできた業蹟を世に展示する一つの区切りの季節に──
畑に捨てられて誰も顧みない菊の傍らに寄っていった
あ そこにみたものは不思議と晩い秋の耀く日を浴びて
小粒ながら精いっぱい絢爛と咲き香っている白い菊の一群れであった。
           四四.一〇


 柿の木

ふた本の柿の樹は実を稔らせ朱を増し陽にあたりつやめいてきた
この樹を植えた人は暗い黄泉路のかなたに旅だたれもはやこの世に在らせられない
衆望を担って飛騨から初めて代議士となった政治家であった
多くの家作と山や田をもった昔からの豪家でもあった
漢詩人でもあって幾編かの詩稿を託された古い文庫のなかに見たこともあった
あとを葬う血縁のものは絶え 母屋も人手に渡ってしまい
広い庭の古りた樹木や苔むした石は往昔を語っている
この柿を植えた人は鬼籍にはいり この世には在らせられない
生きていられるとき親しく声咳に接したこともなかった
柿の花が咲くのもたわわに稔って垂れた実も味あわず
でも柿の木はなにかの意思にすくすくと伸びて弛むほど実を稔らせた
いま孫を抱いてその下に佇って或る一人の
歩いてゆき歩いて去った生涯について考えてみる。
           四四.一〇.一五


 机そして本箱

四十まえに従兄の大工が
栗の木で作ってくれた頑丈な机と本箱──
紅がらをぬり種油で磨いた民芸ふうな机と本箱を
屋根うらの自分のせまい室において眺めた
まずしかった少年の日の満ちたりた感激を
いまも昨日のことのようにおもいだす

長男に次男 それに二人の娘たちが
つぎつぎと譲り継ぎては父の手垢のついた
この机のうえで書籍を披げ知識を身につけていった
親と子どもたちが無言のうちに通いあうものがあった
予約して書店から購われた美術や文学全集など
私の手のとどかなかった垂涎の美麗な装釘の書籍が
すぐに本箱に溢れ未練気もなく子供たちは
新しい似あいそうな書棚に移していった
時の経過は素直に子どもたちを成人させてゆき
羽根をひろげて新しい生活へ巣だっていった
残された蜂のあき巣のように本箱が古色ないろあいで
もぬけの殻になった室にぽつんとおかれた
小刀の創やインキのにじんだ机とともに
あけわたされた四畳半の室にふたたび旧い主人のもとに還ってき
わずかに昔の記憶の書籍がそのなかに蔵われた──
残された生涯の余白がそこにまちもうけている。
           四六.九.一五


 春愁

硝子戸をほんのりと明るく城山の上に月が登ってきたのである
その光りをうけて春慶の書棚は妖しく底光りをし
横になり寝ている眼に金色の背文字が判読できてくる

今夜も妻が根気よく階下で
時計のぜんまいをぐうつらぐうつらと捲いていると錯覚したのは
啼きそめて呂律のおさない蛙たちの
窓の下の流れでの生への合唱であった

この頃目を覚すとしばらく寝つきがわるくて
行くすえのことなどを繰返して考えている
九歳の秋に父を失った日から不幸とともに棲み
自分の体内に空洞が徐々と拡がってきた
切開手術を施しても癒らない患部が大きいロをあけ
真紅な肉塊が深く患部を見せている

月の光りが家のなかをますます明るくし
臥床の布団の襟に顔をうずめて 春愁の夜は
蛙たちの唄声を聞いていた。
           昭和二五年作


 世襲のように

幼ない孫の男の子の立ち居や
羞らいのまじる語らいのなかに
自分の小さかった日の片鱗が
驚くほど似かよって顕れる時がある
胆っ玉が小さくて涙もろく
やっぱし自分の体内に脈うって流れる
どこか頼りなく融通のきかない
学業の科目までが不得手なものを承け継ぎ
血の繋がりの濃く幾代もつづく世襲の黒い血液
遺伝のように連綿といきづいている厳しい掟なのだろうか
私が自分の子に托した夢は大きかったのだが──
他人に一ひらの不快も与えたこともなく
煩らわしいと思われるようなことをしたこともなく
ひたすら夜昼を営々孜々として働いてきた
報われることの少ない日本の貧しい
下じもの庶民の典型である私ら三代の同胞(はらから)
不合理な世の生きかたに反撥する知恵もなくて──
           五〇.一.一二


 晨の記

養父の焚く豆がらのはぜる音と
餅を焼く香ばしい匂いが室まで襲ってきて
その煙ったさと懐しい匂いに眼を覚した
立って歩くことも困難な二階の
屋根うらの室から這って梯子を下り
少し猫背になった炉端の養父の傍らにきた
養父は除夜の埋れ火を新しく織んに燃やし
大きい鉄鍋に丸餅を焼いていた
正月三ヶ日はきまって丸餅を焼く習慣になっていた
餅が無類の大好物で一うす揚きを
雑煮でおいしく食べこむと
元旦の昼も夕食も何もたべず
旧い年の寝不足をとりかえすように
一日じゅう牛のように眠りこけていた
「一太郎(かず)よ、お前、儂のぶんも
宮様を詣ってきておくれ
そこに馬上提灯(ばしょう)があるで、火を点してな
知った人にあってもけっして
誰にも話しかけてはだちかんぞ
神さまに参るまではなァ……」

外はしんんとした雪の降る凍みた夜空で
宮詣る人たちの木履の音がきくきくと鳴っていた。
      ※だちかん:いけない(岐阜弁)
      ※一太郎:出生時に両親は口頭で「一太郎 いちたろう」と届けたところ役場で「市太郎」と記載されてゐた由。



 故郷詩譜 (二)

東西に走った町並がすぐ尽きると
嶮しい山が立ちはだかり圧してくる
故郷の町は川に沿い猫額の地に
犇めくように家が競いたって
いたるところ石垣が築かれ家をささえている
神岡という地名がどこに起因して呼び名されたのか
なだらかに起伏した丘らしい段丘はなかった
ただここだけが──城したの神岡鉱山への細い道が
幼かった日の丘への心象が残っている
そこからみる石を屋根においた町の眺めと
高原川の水かさの豊かで早かった瀬々の音
白い土蔵の流れに投影した風物が
六十有余年もたった今も網膜に焼きついている
片ことのわかりかけた幼ない日であった
父は鉱山の製錬の焙焼炉で稼いでいて
夕ぐれその道へ迎いにいった──若い母に手をひかれて
短衣(みじか)に股引き草鮭をはき、ねこだ(※むしろ)を背おい
鉱滓の匂いを染ませて帰ってくる父に
体当りに抱きついていた。



 野麦峠

 母が娘の日 船津からたった糸ひき工女の群れに 古川 国府 高山の町や村の娘たちが加わり 峠にかかる頃は 一団体だけでも一〇〇○人余りの大集団となった 日露戦役の終ったすぐ後の 資本主義社会への出発と外貨のかっとく(※獲得)に かよわい娘たちの働きが資本家を狂奔させた。

 モンペにはぜのついた黒い脚絆 または尻端おった赤いお腰に紐でしばった草履ばき 凍みついた雪は音をたてて鳴った おにぎりをけさがけにしょって隊列がつづく 雪のふりしきる峠は高い壁となって聳えている 大勢の人の力で先登の難儀のお蔭で登れるのだ 時に一時間も雪を踏み固めて立ち往生する 母は酒でも少しはいった時 娘の日の苦しかった日を語ってくれた。

 私は昭和四十四年の七月 深山鶯の声に送られ カッコウの鳴きごえに迎えられてこの峠の旧道 母の登った道を歩いた 母の歩いた同じ路でも季節はまるで事情を異にしていた。

 その母は生涯を 糸をひき 機を織り 科理屋の下働きなどして六人の子供を育てあげた 貧しい典型的な愛(かな)しい女であった 昭和四十二年の十二月三十一日の押し迫った夜の八時 枯木が倒れるように八十歳の生涯を閉じたのであった。
           五二.一二.三〇


 私の植物誌 (一) 梨

 気づいた時には三年くらい経った梨の木が畑の隅に生えていた。実生から生えたのであろう、ふた本の柔らかい嫩葉が寄りそうように春の日になびいていた。去年も今年も同じ場所に生きつづけ、幹も樹木らしく、自分の背よりも高く育ってきたが、彼等は頑固に花の咲くことを拒否して、蕾をつけることを忘れ、いっこうに花を咲かせず、実も稔らせない。

 そうだ、或る年の秋の日の午後のこと、直ぐ傍らの棗の実が琥珀色に一つぶ一つぶ変ってゆき、実りの秋を誇るように耀いている下で、妻は、この出来のわるい梨の樹を見上げて、突然、さも、癪にさわったように

「このよたな木を伐ってしまわまいかいなア、いつになったら実がなるんじゃろう、でかくだけ一人まえになって、日蔭をつくるだけじゃもの…」

と、憎くたらしい気にいう。妻のそういう気持も理解できないことはないが、

「来年の春まで伐り捨てるのを待ってやらまいか。来年はきっと花をつけるに」

と、私のとりなしで梨の命が伸び、寒い冬にはいっていった。細い毛根も太い幹も凍み氷らせる烈しい飛騨の寒い冬がいつか過ぎて、万物のうえに回春の恵みの温かい春がやってきた。黒い大地が陽炎にもえていて、いのちあるものがみんな浮きうきと穹にむかって伸びようとしている。

 畑の隅のふたもとの梨の木にも平等な春が訪ずれ、その葉蔭に白い花が三輪、処女花とも言うのか気高い花を、人の力では及びもつかない作品となって羞らうように咲かせていた。
           四五.一〇.一〇


 私の植物誌 (三) 這い松

 その人達とは短かい年月ではあったが、家族ぐるみ親戚より親しく交際してきた。心とこころ肌とはだが触れあうように、文句なく気のゆるしあえる人柄であった。俗に言う根性がよいというのか、不思議と寛い包容力に抱かれて、人見知りする悪い癖の自分にその人たちは円満な人間的なつながりで接してこられた。

 遠く北陸の新発田市の出身ときいていたが、仕事の都合で新しい任地に赴任されることになった。転居のさきは関東のK市であった。住宅の裏庭には巨きな松倉石が何個もいれられ、築山をつくり、松が植えられ、池を掘って大きい真鯉や緋鯉が何十匹となく泳いでいた。教奇をこらした庭園や新しく建てまされ、ようやく完成した住家を残しての出発は随分こころが渋るようであった。建物や宅地の売却もみんな私に委託され、出発される時、一ばん愛玩されていた一鉢の這い松を記念に贈って下さった。鉢には緑の苔がながい年月のただずまいを語っており、ちょうど厳しい山岳の這い松地帯の山容を彷彿として浮ばせているようだ。這い松は枝ぶりよく、習性のように臥龍が首をもたげて今も這いだそうと鉢の外へ斜めに伸びて、何十年の閲歴をしずかに語っているかにみえる。

 小さい鉢のなかに巍然とゆるぎなく定着して、大悟処を得た緑の葉の不安もない生きかたの正しさは、きっと人間の愛情を拒否して生きた峻嶺の、 皚々とした万年雪の下に生きつづけ人智のはかり知れない、人間の浅はかな温情など及ばない非情な雰囲気のなかに生きてきた、或は愛すればこそ千尋の急峻な谷底へつき落すという親獅子の愛の仕打にも似て、その人は憐れ容赦もない厳しさでこの一本の這い松を子のように愛し育くまれてこられたのであろう。両手で貴重な品を捧げるようにもってこられたその人は、

「暖かい処にもっていっても、この樹はだめになるでしょう、やはり飛騨においてゆくべきです。寒い極寒の飛騨においてこそ、この松は本望でしょう……。そしてあなたの傍に……。いつまでも眺めてやって下さい。」

その人の瞳には私の想い過しか温かいものが宿っていることを感じて正視できなかった。辞退しても持って帰られるわけがなかろう、言葉にならない思いが私の胸のなかを熱くかけ巡った。そうだ素直に有難く頂こう、ご好意に甘えよう、なによりの記念の心の篭った松!這い松!たいせつに育てて再び相いみる時には生長したこの松をおみせしよう。あなた達との短かい年月ではありましたが、ご交際の想い出をこの樹を通して新しく胸にたもちつづけましょう。玄関とよぶにはあまりに寂しい陋屋の古びた下駄棚の上にその鉢を据えると、にわかにあたりが深山幽谷の気配に自分をおき、折から寒い冬にはいった緑少ない土間は活気あふれたように、私を山岳の、かつて登った乗鞍岳の這い松地帯にいると錯覚をおぼえさせるのでした。

 この詩が、この一篇の物語りがここで終止符をうたれるのなら、私はこの「這い松」について何ものも記述することがなかったのである──。というのは、私はどうしてこう融通のきかない、世事にうとい、浅はかで、頓馬な自分に愛想もなにかもつきてしまった。誰にあやまり誰に詫びればよいのであろう。夕がた一本のおしきせを呑んだあと、徳利の底にわずか残しては松の鉢の根もとにそそぎ、牛乳を飲んだあとはまた少し残しては松の根かたにあけてやった。こうしたことが幾月かつづいて春が巡ってきたころ、万物の樹木の上に新しい柔らかい芽が吹きでてくるのに、這い松の縁は心なしか色に生気がなく、芽穂も立ってこない、愕然としてよく見れば衰頽は覆うべくもなく枯死寸前、気息奄々、すでに手の施しようもない枯死の間をさまよっているのであった。

 いつか私は近くの母子寮の幼ない子供たちに、強く生きるのを望んで一篇の詩編を作ったことがあった。過保護という奴は結局依頼心のつよい子供を育てて世の中に役立つものにならん、と、理屈ではわかっていたが、この這い松の場合は終局誤った浅智恵の愛情で枯死に導いてしまった。寒い零下二十度の庭の雪のなかに放り出しておけば、酒も牛乳も与えず厳しい愛の鞭でうつことによって、彼らは生き永らえる処を得たであろう。いま枯れてしまい葉の散りつくした死せる臥龍は、東の山脈の故山に向って回帰してゆく日を喚んでいる。
                四六.


 私の植物誌 (六) 桧

外に出ると、近所の人たちが集まり手伝って、
隣家の桧の樹が伐り倒され雪が降っている師走の路上に一横たえられ、
かんかんと斧で枝が払われていた。
樹勢の盛んな樹で切りロが約三十五、六糎、
人間ならどくどくと紅い血をふきだしているであろう樹液の、
青い匂いがむごたらしいまでに漂っている。
 「ありァ!惜しいことをしたな。」と咄嗟に頭の中を愛借の情が稲妻のように流れた。
すぐ傍にいながら仕事場で仕事に追われており、
この伐採の騒ぎを知らずに過ぎたうかつさが、
自責への悔みとなって胸がかきむしられるようだ。

あとから噂に聞くと、
隣家には男の子が二人いるのだが、何かと病いに弱く、
よく理由もなく寝込むことがあるので、
それは私も日ごろ知っていたが――
物知りの近所の女の人が
「家のそばに大きい絵の木があって枝を拡げ屋根を覆うように拡がっているせいかも知れんぜな、
思いきって伐ってしまいないよ。」と、すすめたとかで、
家人の意見が一致し、家主の諒解も得たということだ。
私は家屋の西北の路沿いに生えている桧は、
家へ日影も作らず、住まいの健康には変らないと思っているのだが。
迷信のように思いこまれた子供への愛情には、
口をはさむことも、すでに伐り倒されて処理された樹木に対し何の言葉もない。

ここに引越して二十七年、戦 いに敗れた年の秋、幼かった四人の子供をつれ、
疎開の土地から居を移してこの倒された桧は無言に私をカづけてくれた。
勢いのよい素直に伸びた街のなかの目じるしの桧、
そのてっぺんには鵙(もず)や黒鶫(くろつぐみ)、鶸(ひわ)や鶯や雀まで、
山王の杜からちかくかっこうの散歩道らしく、
小鳥たちは季節々々翔んできて饒舌に歌をうたってくれた。
自動車が我がもの顔に氾濫し、排気ガスを撒き散らし、傍らを通るようになっても、
桧は超然と孤高にたくましい成長をつづけた。
ある時は子供たちの成育になぞらえて夢を托し、
ある時は人生の指標と無言の励ましと勇気を与えてくれたのに。
その桧はいま一言も私に語らず反撥も加えず、しずかに横たえられている。
老齢の域に入りかけて気弱くなっている師走の、
霏々と雪のふる私の肩にこの冬は非情で、
大樹はもはや庇護の手を伸ばしてくれない。一四八。一。1五
                四八.―.一五


【拾遺】 『飛騨作家』第15号1971年2月発行より(久野治『山脈詩派の詩人(1987年鳥影社刊)』より転載)

 岩魚

ふっと想いだすことがある
あの時の親しげな岩魚の澄んだ目と、うつっていた空を
四十数年まえの十八才の六月のいち日
私たちは甚べいに下駄ばきのいでたちで
伊西峠を越して俗にいう山の村を通り山吹峠にかかったとき
ちょろちょろと水源地の溜り水と思われる浅瀬に
背鰭を半ば水面より浮ばせ何匹もの岩魚が
じっと見上げてまたたきもしなかった瞳が。




1979年07月17日着 平光善久宛ハガキ。


1979年08月16日着 平光善久宛ハガキ。


1979年08月21日着 平光善久宛ハガキ。

Back

TOP