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わに いちたろう【和仁市太郎】詩集『禁漁区にて』1958






詩集『禁漁区にて』



昭和33年4月20日 発行所:詩宴社(岐阜)・山脈詩派社(高山)の連名(印刷者:平光 善久)発行

108p 19.0×13.5cm 上製・活版印刷 270部 頒価¥250



目次
私の詩/不惑の冒葉/童話/古い沼/四十年/演技/白木蓮/黄蜂/柿の樹の下で/雑草の根/秋の日に/夜景/千鳥/孤独の座/春の日に/惜春譜/薄暮抄/夜の想い/夜学/伝承/春雨感興/五月の詩/禁猟区にて/立春大吉/高山詩抄/薄暮幻想/古都詩情/山麓詩信/山峡詩篇/山峡詩譜/乗駿の見える丘にて/乗鞍岳/秋夜/回想/白萩の章/峠/腕豆/人生/夕景感興/控/巻末に


【全文画像17mb】

【詩篇抄】

【短評】
「昭和十四年春より約二十年近い間に亘って新聞雑誌に発表した二百篇の中からこの詩集を編んでみた。一番脂の乗った飛躍すべき時代に於ける作品」と巻末にあるやうに、ここに漏れた拾遺詩篇に、詩集収録作に劣らぬ多くの佳品があり、詩人の創作活動の絶頂期をしめすものとして下に転載しました。


 私の詩

私の詩は米のような詩でありたい
玄米のごとく玄くても噛めば噛むほど味がでてあきることがない詩
その言葉は素朴であれ
その言葉は真実であれ

洋食もいい 中華料理も 時にパン食だっていいだろう
しかしあきることのない茶漬け御飯に潰物の味
私の詩は茶潰け御飯に代れ
私の詩は心の糧になれ

人びとの肝っ玉をぎゅっと把え暖かくその言葉を想い出させるような 暗夜の灯のように何か生活の指針でも示すような 行きくれた旅人に旅寝の筵をひろげて一夜を故郷に帰ったように安堵を与えるような 又息疲れて登る嶮しい峠の頂上で憩んだとき谿底から響く水音が心に泥みるような
私の詩はそんな詩でありたい
しかしそれははかない悲願であることか

よい言葉を創るために
よい詩心を培うために
私は私の生活を深く掘込もう
私は素直になって生きてゆこう

世の中が愈々けわしく厳しくなればなるほど
詩をつくる人間が必要になってくる
私の存在が必要になってくる
うぬぼれでなく今こそ誇りをもって
人びとの心に生きる力を与えるような
人びとの心をふるいたたせ根かぎりこの人生に闘えるような
そんな詩を私は生みだしたい。
                     20.4.1


 不惑の言葉

昔のひとは巧いことをいったものである
四十くらがり──
肉眼の視力の減退についていった比喩だろうが
わたくしには文字通り先きがまっ暗で
人生の厚い壁に突きあたった感じである

四十年の年輪は小賢しく凡俗の慣いに育ててしまった
迷っているうちは向うみずに花園の蝶などに戯れていたが
夢の覚めた現実の才能に面とむかうと
掛値のない卒直な自分の力量が
こうもまっ暗な安定を与えている

模糊として迷っていた青春の日は花であった
郷愁がいつか敗北の旗をかかげ 詩が逃げてしまった。
                     29.5


 古い沼

忽忙の一日が終焉の幕をおろして
子供たちが寝てしまったあと
ラジオが最後の番組を終えて
お休みなさいと言ってぼつんと静寂があたりを襲うころ
妻と自分は見なれた顔を突合わせる。
古い沼にぼつんと沈んだ石の十五年、
まったく平穏のうちに過ぎてしまった。
不幸は自分ばかりと 人生の初発の日に願っていたのに
妻と呼ぶものを道連れにしてしまった。
生殖だけは獣のように幾人もの血縁を作った。
係累は麻縄のように自分の肉深くガンジ搦みにしてしまった。
もはや愚痴を言い聞くことには気力も失せてしまった。
──あのまま東京にいたら少しは人に
 名の知られた仕事もできましたろうに、と、
慰め顔に言う妻の科白を
責められるように聞くが、
古い沼は底知れず沈黙して波紋も漂わせない。
東京にいようと、田舎にいようと、
遺賢は世に顕れるもの、他人は放って置くまい
壁に突きあたって返ってくる言葉は
無能なる自己に対する不信である。
                     25.7.1


 四十年

不逞の徒のように私にも一時代
自己の才を信ずる少年の時代があった。
私でなければ語れない権威ある言葉が
胸のなかにこんこんと湧きいで蔵されていると思った。
神は私にのみ恩寵ある言楽を遣わされ
素朴に私は予言者のようにほとばしる肉声を
白紙に述べた時代があった。
それが時日と共に生活の旗は破れカスが附着し
今日四十年の歳月の峠に空虚に立って
泥棒猫のようにきょろきょろと人の心をおしはかり
妻と成人しかけた子供たちの眼をかすめて
悪どいカストリ雑誌を読むまでに堕落してしまった。
夢は壊れ足もとはぐらぐらと私流の哲学は私を哄笑した。
                     25.7.1


 演技

この世の退屈に身の置き処のない人々が集ると、
羨望にこころが狂って邪な噂のなかに時間が空転される、
他人の境涯が理不尽に素晴らしく華麗に彩られる。
人びとは他人の、或は私の身辺に何か変事を待ちもうけている。
私の身の上に不吉なことが襲うのを!
私の事業が失地に塗れて脱落するのを!
私の生命が地上から消えて亡くなるのを!

百万人の視聴を集めた舞台で奇術師の演技のように、
私は時に事業に失敗し離散しようと思ってみる、
私は時に自殺だって簡易にやって見せようと思う、
齷齪と人びとは傷つけあい夢幻の楼閣を人生に築こうとし、
頼み難い薄氷の現実に足枷を搦ませる
                     30.7.10



 白木蓮

あの日は雨が いつしか髪にかわって
なますのような雪が さむざむとした山峡の
まだ芽吹かない闊葉樹の上に降りそそいでいた
空洞になった私の心の隅へも自虐するように降っていた
二条の軌道はにぶい光りで道路を横断して
峡谷高く淀をなした流れに架かった橋脚は二本
白い脚を冷え冷えと逆さに投影していた
長い旅をゆく失意の人に似たうらぶれた心で
奇蹟を求める使徒の私が渓流に沿った道をゆく時
そそり立った高い絶壁の上に
馥郁と匂っているであろう真白い木蓮の花の
一本咲いているのを見つけたのだ
この世では及びもつかない遙かなる雲表に
化身のように木蓮は楚々と荘厳に白く耀いていた
はるかそれを見上げている憧れの人も知らずに
木蓮の花は無限の智恵を撒いて髪ふるなかにほのぼのと咲いていた。
                     24.2.21


 黄蜂

二階から見る屋根の庇にぶらさがっている蜂の巣
自分たち夫婦に似て貧しく繁殖に余念のなかった黄蜂
春から夏にかけて営々と働き うむことを知らなかった蜂の家族
──幾組かの子峰は巣立っていった 花園ヘ──

ある時は窓をあけて疲れた瞳をそこに移すと
生きる日が何かせつないのであろうか 自分のごとく
巣にぶらさがってゆき惑い思案げの蜂に
元気を出せよと言って力づけたい時もあった
今日棗のつぶら果(み)が一つひとつ色づいて来て
南の窓にあまねく初秋の陽がかがよう時
引揚げてくる遥かな友の消息でも聞くように
窓をあけてそこを見あげると
既に飛立ってしまった蜂の空巣が
屈託なさそうにぶらさがっていた。
                     23.9.1


 柿の樹の下で

梅雨が霽れてわかい柿の葉の
かさなりあった縁の層を
木洩れ陽はすかしてふりそそぐ
妻は赤い洋傘と黒い洋傘を三本
安定感のある落下傘のように
小枝にぶらさげて乾すと
淡黄色の吊鐘の花舞はほろほろと
ウエーヴの髪のなかに落ちこみ
簪のように少女の昔に暫らく還らせる
この家に移り棲んで早や九年が過ぎた
想い出はいつも不安な日々を
こと足らぬ衣食に患うて齷齪と送迎したが
四人の子供はすくすくと巣立ちして
親のもとを去ろうとしている
古い感慨をこめて私達が見上げる二本の柿の樹に
年ごと吊鐘の花をともす数は増して
蝶や蜂の群を甘く誘い
結実の秋を楽しませた
その幹は太く逞しく枝々は四方にはり
葉は階層ある縁蔭をその下に作っていた。
                     29.7.10


 野鴨

おとながふたりあわてて
落葉の散り敷いた道を音たてて走ってきた
このあたりに野鴨がおりたという
一緒になって枯れたささげ畑の蔓をわけ
犬のように個いまわって探したが
遂に姿がみえなかった
おとな達は残念そうにぶつぶつ言って帰っていった。
                     23.12.8


 秋の日に

この秋初めて庭にモズが訪れ
桧の木のてっぺんでかん高く秋を挨拶した
柿の実はあわてて速く朱さを加え
柿紅業は一枚一枚葉を滑らかに耀かせ
傍らの錦木、楓が鮮やかに紅業を粧った
狭いけれども豊かな色どりの庭に
神々は今日しずかに降り給うごとく
一日饗宴の集いがその下で展げられた
ここに移り棲んで十余年 疾風のように春秋を迎え おくり
いつか老齢の座に行儀よくすわりかけた

私の肩に期待した妻や子どもたちの空しい希いは
秋風に吹かれる病葉のように散らばっていったが
私なりに僅かではあるが愛する人のなかにのうのうと生きて
ことしも柿の木の下で一日を記録する倖せに支えられている。
                     


 白蝶

晩霜が銀砂を撒いて紅薬の褪せた山々を彩った

ゆうべはどこの蔭で透きとおる翅を憩めたのか白い蝶が一つ

山を降りてくる 白いものに追われ飄々と

葉の落ちつくし棘々した棗の木の上を泳いでいった。
                     


 孤独の座

夜おそくうらぶれて外出から帰って
電燈を低くおろした炬燵に足を伸ばすと、
自分の書斎ほど心の鎮まる処はない。
子供たちはもう寝て憩いの歌はせせらぎのように楽しそうだ。
おもむろに今日一日の──
又はここ数日の自分の心の拠りどころを
反芻して生きていることを確める。
繁忙の一日のほんの数十分、
この時刻 やっと魂は安住の座に返ってきて
しばし人の世と詩とを思う時である。
ただ片鱗気にかかってくるのは、
背にした紅春慶の書棚から、
三冊ばかり貸出されて主人を忘れた書籍のことが、
暗雲を少し棚引かせるが、
それもしまいに自分の狭い量見に独り苦笑している。
こうした夜の更けた孤独の座に、
川千鳥の低く屋根を啼いて飛ぶのは、
人界を絶した境に置くのである。
                     25.2


 春の日に

縷々とひねもす骨を削るように鑢面に向っている指に
鉄筆の胼胝は閲歴の道標のごとくなつかしい
私は世にもいみじい宝玉を撫でる手つきで
指頭に固い胼胝を感じながら街に出た
胸をはると心臓はすがすがしい呼吸で息づいてくる

今年も春はふかぶかと慈愛に満ち自分たちをとりまいているのに
生活の掟へ駆りたてる酷烈な鞭は
幾年豊麗な春に背いて来たことか

夜来の雨が歇んで窪んだ路上に水が溜り
桜の花弁が吹きよせられている
今日はなぜに山脈は遠く花曇りのなかに
その肌さえ見せずにはずかしく隠れているのだろう

春祭の鶏闘楽の音が
余韻を長くひいて遥か街の上で鳴っている
                     16.4


 夜の想い

わたくしがいつも追っているものがある
わたくしが絶えず追われているものがある

暗い夜を通いなれた川ぶちを歩いていた
子供たちが水にたわむれた夏の盛り場は
今は黄泉のようにしじまの底に沈み
人びとはもう憩らいの床に明日に生きる夢をみている
闇のなかに流れる水の音が耳染を襲ってくる
残り少くなった日記帳の空白に似て
私の人生を埋めるもろもろの記録は
悔みと虚しさに満たされてゆくであろう

はずかしいものだけが私をとりまき
残してゆくものはみんな恥ずかしいものばかり
暗くじっとたちつくす体を闇のなかに隠すが
心はざくろのように底まで拡げあかく炎をもやしている。
                     32.10.20


 禁猟区にて

怪我して病める手を頸から吊って
落葉の上にうっすらと雪を白く刷毛で画いた路とも思えない山路を登っていった
筆塚や菅公廟祀がおとのう人のない静寂のなかにたっていた
歩いていることだけが私の気分を憩ませ鎮静させ
ずきんと脈搏ち痛む苦役から解かれると
誰に忿りを向けることのない
自己への愚痴を反芻しながら──
冬空から射すにぶい陽が樹脂の漂う林の中に吸われていった
牛の背に似た痩せ尖った頂上に立つと
老松に囲まれたはるか下手の開墾畑から
七、八羽の山鳥が安穏に群れ遊んでいたが跫音に愕き
つと羽搏き灰色の羽根で雪を蹴り飛立った。
                     30.2.11


 玉蜀黍

階下で子供たちが玉蜀黍に醤油をつけて焼いている
二階の仕事部屋までかぐわしい匂いが少年の郷愁を運んでくる
颱風が通り過ぎ蟋蟀の奏でる夜は唄声が生きかえり
新涼がなにか思考するものを強制する

欅の木におそくまで蜩が夕暮を呼んでいた
父は病に長く寝ていたが
母はまだ若く故里の蟻川に臨んだ家の土間で
母は玉蜀黍の皮を一枚一枚丹念にはぎコンロの上に並べた

四十年は足はやく夢幻のように距たりをつくったが
少年の日がいつも水墨画のように瞼のなかに生きている。
                     32.9.9


 高山詩抄
 三、枡形橋にて

水苔が屋根のうえで匂う古風なそんな町
石をおいた板葺きの家並がながく細く
川原町は流れに沿って続いている
往き来に慣れた通りであったが
雨が止めばやんだで情緒が纏綿と匂わしかった
ながい雨期にしっとり山脈の土塊深く水を含み
その肌と樹木の根と石ころを洗い地中に潜った雨を蒸溜し
宮川の水量を清く深く淙々とたぎらせ
このあたり瀬の音の強くなった河床を
若鮎の腹のような磨かれた小石が私語くように流れる
川岸の古い柳の枝は水面に垂れ逝く水に話しかける
南の空は広く高く拡がり紫紺に波をうたせた山脈を前景に
位山(くらいやま)の頂きが少し覗かれる
青銅の擬宝珠の欄干の冷たい触感に
しばし厳しい生活から逃避して現実の貧しい自分を見出していた。
                     30.6.4


 山麓詩信
 一、根方の峡谷にて

乗鞍の麓から流れる丹生川の水声がはるか底の方に聞えていた

蓬は太く縁に肥えて その茎は水を含んだ綿のように耀いていた
きっとその露は人の世には求められない芳醇な甘味を醗酵させているのであろう
山蟻は人煙のない叢のなかで営々と忙しげに登り下りしていた
堅雪ににぶく光る乗鞍 笠 槍ヶ嶽などの連峰が予期せぬ方向に
近くの山の間から雄姿をほの見させた

ひとり山に来て深山を恋わず
溪にきて清列な水に憧れず

足らない日々の生活が凡愚のあさましさのなかに堕し
野猿のように峡谷の襞々を歩かせた。
                     21.6.17


 二、笹魚(いわな)の精

魅せられ魂をうばわれて思惟もなく
招くものに引きずられて谿に下りていった
笹魚釣る人でもたまさか下りてくる谿谷であろう
丹生川は淙々と深く千々にくだけ清くせせらぎ流れていた

岸辺の小石は天然の工(たくみ)に滑らかに研がれ
種々の色彩と形で目を見はらせ
私はその一つを掴むと故もなく向う岸に投げつけた

人を厭うてきたのではなかったが
忘れていた精神が惻々とよみがえり
人との仲に生きることがしきりに尊く思われてきた

叢の草は一年の間に幾人の人に見られるのか知れないのに
虚飾もなくみずみずしく細密画のように生きていた

山菜は既に背負袋にずっしりと満ち
私は人肌の匂いを懐しんで里に出てきた。
                     21.6.17


 山峡詩篇
 一、桑苺

油蝉がかまびすしく鳴いて山峡の山襞をこだました
ここに移居して元気を取戻した少年たちはカバンを提げ
蝉時雨の声と溪流の音と青葉の隧道(トンネル)をかよって帰ってきた
時には桑畠があると飛込み熟れた苺で唇を赤紫色に染め
山百合などが谷あいに咲いていると採ってはにおいをかいだりした。
                     20.11.2


 二、爐端

長い秋雨のつづいた後であった
裏の益田川がひときわ水音たかくをした

風雨のはげしかったあとにはきまって停電し部落は墨一色のなかにさまよった

十数戸の山峡の部落では炉端に明るく火を焚いて
親子の者はだまってつかれた顔を火にほてらせた

石油の燃える音がジジと音をたて洋燈は細い三分芯の焔で四辺を明るくした

もののけでも襲ってくるようで子供たちは炉端に手をかざし
深まった秋を静かに父の帰りを待っていた。
                     20.11.2


 三、山の駅

盛上るように橙色に彩られた紅葉の山峡を
あちらの沢やこちらの洞(※谷のこと)を汽笛がこだまして
山の駅をふるわせ汽車が白煙を吐いてやってくる
とおるように澄んだ大気に深くせまい穹
待合室で憩んでいると、傍らに置いてある
物入袋に入っているのであろうしめじ茸の香が匂っている

私自身が茸の香漂う深い山に入っているような錯覚を起して
しばし静かにその香のなかにとけこんでいた。
                     21.1.16


 四、山柿

 山径にかかると急に樹木と土の匂いが鼻孔をくすぐってきた

橙色と紅を画布に塗りつぶしたように満山紅薬は今を盛りと燃えていた

部落の少年は独り長い竹竿で柿をおとして叢の中を這いまわっていた

急な径はしばらくのうちに山頂に高く私をたたせ
益田川の碧い流れを見降していた

冬龍りの屋根にかぶせる杉皮を背負いに山に登るのであるが
少年の時の遠足のようにこころ楽しく
生きている日を切実に
平和の還ってきた好日を思うのであった。
                     20.11


 山峡詩譜

 冷い雨であったがさすが四月の春めいた、まだ発芽しない固い櫟林の上に、乳液を撒いたように煙っていた。山肌のくぼみには雪が残っていて、雪塊はしずかに身を削って溪川にとけ込んでいるのであろう。水墨画のなかを歩いて来てしめった身体。飛騨川の支流、阿多粕谷の水かさ増した瀬音は白く速くすぐ横に聞えた。昼の日中満ちあふれる湯槽に身体をゆだねていると、こころがおもむろにくつろぎ和んで来て、しずかに目をつぶっている。私のおとのうのを知っていてわざわざ湯を焚いて待っていてくれた人達の心が、脈搏にふれて無韻のうちにそくそくと伝ってくる。榾火の煙るなかにむせび泣いておったのかも知れない、童児のように眼をこすって。病(やまい)のように、ひとびとの情けのみが今の私に生き甲斐を覚えさせる。

 やがて深い山には斧がカンカンと原始の音を響かせ、一条の林道から木炭を高く積んだトラックが車体をきしらせて降りてくるのであろう、山は緑と共に新しい生産に入ってゆく。丁度樹々がみどり増し溌剌と燃え上り新しい活動に入るように。雪が降って山や谷々の名もない草や木の根元をうずめた夜半、灯を慕って野狐が農家の大戸を覗くという。裏山の濃緑の樹間を栗鼠は軽快に跳ね廻り、溪には山女が銀鱗の斑点を泳がすという。俗情から遠い山峡の別天地。

 人々からそそがれる情けの花粉が、行き詰った私の行路にいつも打開の灯を点じる。いつでもそれには応えなければならないと自戒の鞭を自分にあてる。繁雑な省察に暇ない一日を劃然と裁断してはるか山懐のなかに身を置き、ふかぶかと石のように感情を殺して沈んでいた。
                     24.4.10


 秋夜

月はまだあがらず灰暗い橋の上であった
何か倒れこむようにバサッという音をきいて立止った
水の中で何かうごめき遠い灯に川面が揺れていた

砂くさい匂いが給を着ている肌に染み 夜が深かった

しばらくの時を行っていると
波をこざいて(※かきわけて)陸に上ってきた者があった

膜から下が濡れた夜網を打つ人であった。



 回送

わたくし達のつかれた脚を力づけてくれたのは
はるか彼方の下を流れている梓川の紺青の流れであった
いつか山吹峠をおりる時見た双六の溪に臨んで
心のふるえるのを感じたように
わたくしの胸にすがすがしいふくらみを与えてくれた

青楽のしたたる森と 小鳥たちの歌と 奥穂高の荒々しい岩肌をながめて
羊腸の路の安房峠をおりていった
あれから幾年 ひからびた回想のなかに浮かんでくる山と川と売店の娘
名も知らず 顔もはや忘れはて ただ眸の澄んだその娘は
梓川を背に橋の傍らの売店に佇っていた
ゆきずりの旅びとのように言葉少なくその娘と語り
わたくしは一組の絵棄書と一本の白樺の洋杖を記念に購った。
                     22.2.3


 白萩の章
  ――又は老母に捧げる詩──

庭の萩も蕾を持ったよと御母がのたまえば
すずろな緑の露をうけた萩の株は
きっと白萩であろうとひとり心にきめてしまった

ここを退院する頃はそのほそいうなじに白い花をつけ
私は傍らに佇むのであろう
生きる日の尊く 生きる日の寂しく すこやかな身体を一日もはやくとりもどさねばならぬ
おん母の髪は霜をふくみ いまとおく子の為に人の忌む病を看とりに遥々と来たりたもう

三十五歳の子はおん母の傍でいつも幼く
粥などをああんとふくませて貰えば
不覚にも不孝を詫びる涙が胸底に湧いてくる

今私は幼児のごとくおん母のそばで 亡くなった父の想い出話や 故里の人だちの栄枯盛衰の物語などをお国言葉できいていると
六十年の貧しいおん母の生計が不甲斐なく自分を責め
水いらずにおん母と二人 四畳半の病室にあればおん母の寝息やすかれと 扇をもちて夜蚊などを払ってやる
既にこころすませば忍びよる秋の気配そくそくと
白萩はここに集える不倖せなる人の世をも知らず明日は白々と開花するであろう
                     19.7.24


 
  ――四人の子供たちに──

蝋をひいた半透明の原紙に誤って書いた文字を切り貼って
焼き鏝をあててつくろうそれに似て
つぎつぎの瘡痍を繕ってきた四十年
冷えた鑢にこごえる指で原紙の函に
文字を一字一字埋めてゆくかなしい習慣
自分の肩にいつも五つのロが穴をあけ
よそ見も許さず鞭をふられているように
たとい過去った月日よりも険しい明日が待っているにしろ
何物かに追われても生きてゆかねばならない
今宵山岳から吹きおろす雪もよいの風は
妻の丹精に芽を出した腕豆の緑をさいなみ
移し植えてようやく根付きかけた折菜の上に
冷え冷えとむごく打ちひしぎ
明朝は潔く白雪に彩られるであろう
童児たちよ 可愛い子供たちよ
風雪のきびしい砦を父と母は護るから
たとい配給の糯米は少なくとも
世にいじけず伸びのびと育っておくれ
やすらかに夢はらむ床に訪れる
賀春の慶びにやすらかに寝ておくれ。
                     23.12



 巻末に

 昭和十四年春より約二十年近い間に亘って新聞雑誌に発表した二百篇の中からこの詩集を編んでみた。一番脂の乗った飛躍すべき時代に於ける作品だと思うと、自分ながら汗顔、羞しい気もするが、不具の児をもつ親の情にも似て、自分としては捨て難い愛著を感じるのである。この二十年は日本が敗戦へと未曽有の難局に遭遇したとともに私自身もまた言語に絶する世代のなかで過さねばならなかった。しかし、詩作するという一つの生き方は、こよなくこの人生に省察や思索を深くさせ、このために絶えず、自己流ではあるが人生観をもたせ、信念をもって生きてこられたことは望外の幸いと人知れず喜んでいる。

 この小著を起点として反省し、詩の技術や世間をみる目をより養い、与えられた爾後の人生を徹底させ、死ぬまで詩作の情熱を燃やしてゆきたいと思う。先輩知人大方の御批評と御叱正とを待つ次第である。

 長い間絶えず作詩上の御助言を下さった平光さんが、今回この詩集の印刷を引受けて下さった友情を思うと、全く済まなく、厚く感謝の意を捧げたいと思うと共に、これまた雑誌「詩宴」を通じて庇護御指導下さった殿岡先生、並に高山市九月会同人の陰に陽に詩作への情熱をかきたてて下さった友情をこの機会に記して置きたい。伺、私事ではあるが、物質的に絶えず不安や困難を抱かせている日常にかかわらず、理解ある協力を示してくれた妻や子供たちにも深く感謝しておきたい。思えばこの小著は家族の者たちの合同著作である。

   昭和三十三年一月三十日  霙ふる日に      和仁市太郎



【拾遺】 『山脈詩派』22号 昭和16年5月発行より(久野治『山脈詩派の詩人 (1987年鳥影社刊)』より転載)

 千代の松原
     ――Fの人達──

汽車は十六月夜(いざよひ)の山峡を走つてゐる
窓を開けると爽やかな夏の微風は頭髪をもてあそび
満ち足りた想ひで深々と坐席に身をやすませる
今宵初めて会つた人の面ざしなどを思ひ
談論の後の軽い疲れをいとしむ
灯が小さく黒い眠りに陥つた農家は次々と後に走り
流れの音のみが究外に冴えて聞えた

ゆるやかな流れに遠い青葉の山々が影をうつしてゐた
ときどき川鯉が水面を跳ね波が白く騒ぎ
伸びきらない木賊(とくさ)にうずくまる私達を驚かした。

暫らくの時間ではあつたが仕事をかけはなした土地がかくも静謐の感情をもたらし
私は自分の存在を確める
列車は安らかな息づきで、歩廊(プラットフォーム)についた
私達は遠い旅路より帰つた旅人のやうに一団となつて出る

振返ると乗つて来た客車の灯はいつか消えてゐた。



春を待つ 二題
   (一)

硝子の汚れがなぜ今日はこんなに目につくのだらう──
暖かく雨催う空に乗鞍も恥らんで姿を見せない
解けていつた白皚々の世界 ともすると地下の毛根も凍つて思想は盲ひとなつて半ヶ年
硝子に囲はれた温室で花達は蟄居を悲しんでゐる。

   (二)

雪が消えて街には半どしの塵芥がのさばつてゐる
片ちんばの草鞋 藁切れ 紙屑 馬糞など

私に今なんの制肘もなくでき得るのはこの位のものだらうと
朝のまだ早い路上を
私は先のきれた箒ではき潔める

やがて美しい波状の箒の跡を
車庫から出た薪炭自動車は煙をながして通つてゆく。



 悲願

今しばらくの間
我を薄幕のここに
立たしめ給へ

うつそ身の没我の神にも似て
しばし初夏の故里の川畔に
立たしめ給へ

たれひとり知る人に会はで
静かにせせらぎの水の音に
我を沈ませ給へ
夕せまる河岸に並びし
白壁の土蔵(くら)のごとく
しばし虚ろひてここに立てば
思ひ出は尽くるなし
二十年は天かける雲のごとく
漂々とゆきて還らじ

若き日の憂ひも悔いもいずこに
今は遥かなるとりでを築くや

世はかはり時はうつるも
惻々と胸へ去来す山河の姿のみ
我を少年の昔に還しぬ


【拾遺】 『山脈詩派』新生1号通算26号 昭和21年9月発行より(久野治『山脈詩派の詩人(1987年鳥影社刊)』より転載)

 朝霧

小雨が降つてゐるかと思ふほど乳色の靄がたちこめて
朝霧がかすかに音をたてて流れてゐた
玉蜀黍の林が深い海の底に生えてゐる草を想はせ
道を狭んで植えられた細い道を
その幅広い葉を分けて幾度も流れから水を汲んだ
シャツの袖と草履の足を露で濡らしながら

今日はまた昨日に増して良い天気になるであらうと溜息はするが
この朝の瞬時は貴重な時間である

この夏は詩を求めて信濃の山に行くと言つたひとの漂々とした姿を想つて
遊心がちょつぴり顔を出すが
所詮私には食ふことが切実らしい

茄子 南瓜などの野菜畑に朝と夕は
かつて隣組で鍛へたバケツ訓練に物を言はせてゐる。



 秋思

蜜柑の乾皮を蚊やり火の代用にいぶしてゐると
甘ずつぱい香ひが漂ひ涼しくなつてくるやうだ
立秋を過ぎて七日
高い玉蜀黍の穂をそよがせて風があり
鳴きそめの鈴虫とすいつちよの音を聞いてゐた
こんな姿で平和の還つてくることを待つてゐたであらうか
峠に立つてこしかたを見るやうに
一年のかはりかたを振返つてゐた。



 青春

齢を増すごとに還つてくる若い日だと思つた
烈しい夏の日は裏畑の作物の生気をうばつてしなへてゐる
終日机に向つて鉄筆でつかれた腕とペンだこをなでながら
玉蜀黍の穂の出た路を通つて川におりると此の頃の日課のやうに
私は少年のやうに美しい水にたはむれた



 魂祭

生涯のうちに夫を二人まで先に弔うた母上
業因を背負つて生れたと言つて悲しまれる母上

いま新仏の魂祭をむかへて
遠く憂愁のなかに泪にむせんでゐられるであらう母上

悲しみと喜びがいつも隣りあつて棲んでゐることをいつの時でも思つて
生れたとき既に死が約束されてゐたやうに

ふる里に帰れない今日は
子供達をつれて妻の遠い先祖のお墓に参りたいと思ふ。



 開花
    ──或る娘たちヘ──

九才の子供が私を捉まへて
お父さん花つてどうしてこんな緑の茎から紅い花を咲かすのだらうつて聞くのだ
子供には風の吹くことも月の出ることも蝶々の舞ふことも驚きのことばかりである
そこでわたしは
お前が御飯をたべて育つてゆく時
詩や童謡を作つたり絵を画いたりすることがあるだらう
草達が花をつけ実を結ぶことが
歌を唱つたり絵を画いたりすることと同じだと言つてやつたのだ

わたしはいま子供のやうにあなた達の肉体が植物のやうに暫らくの裡に輝くやうに満ち
その瞳の慧智(えいち)に澄み
思想の花が一夜のうちに開花するのを見て
これは何の力がさせるのかと
神々の配慮として不可解な神秘に驚きの眼をみはつてゐる

咲いた思想の花はきつと深い大地の底に根を拡げてゐよう
あなた達を美しく気高く粧はせた慧智の栄養は土壌に何がふくまれてゐるのか

風の日も雨の日も魂を見失ふやうな失意の日にも
厳かに実らせた肉体の成熟と
爛漫たる精神の開花を
彼岸に達する彼の日まで
若さと共にあることを花を見てゐて願つてゐる。



 絵本

兄も弟も妹も小箱のなかから取出した絵本
一枚一枚頁は離れ疲れた絵本の物語り
ばらばらと大人のやうに童話は頭も尾もない

幼ない童が青い稲穂を吹く風の室で
鑢面をきしる鉄筆の音をきいてゐて
若い父は昨日に続く昔話を物憂く語つてゐた

むかし昔あつたとさ むかし昔あつたとさ
さて次の物語りをいかに進展させねばと
思案深く父の絵本も尻切れとんぼ

児等の夢は日本の現実を知らず
日の当らない床下に芽を切つた草に似て
明るいものへ大いなる空へ手を伸ばす



 閲歴
    ――或る子だちに──

既に過去などを語るべき年齢に達したのであらうか
今さとりの稚ないこどもと対してゐる
その掌は荒れ あかぎれ 血が椿の花弁のやうににじんでゐる

生活のたどたどしい行路で大きな巌にでも突当り憶するやうに 見上げる瞳に力がなく
じつと経験あさい私の言葉を聴いてゐる

窓外には雪が粉々と降り床の間に活けられた早咲きの水仙がすでに春信の近いのを語つて香つてゐる

八才の秋 父を亡くして人生の憂ひここに始まり 悲惨な花も咲かない少年の日から十四才で学校を退いた少年が 半里距てた鉱山の給仕に通いつめたこと

そして吹雪で行倒れさうになつた極寒の往復など 意地悪い同僚に悩まされ泣いたこと
燃ゆる向学心 そして上京など

ぽつりぽつり釘でも折るやうに今も胸底に思ひ出る生々(なまなま)と甦へる印象を
いつかどこかで読んだ作品でも物語るやうに語つてゐた

ああ嘗つてこの子供の如く途方に迷つて泣きしほれた私であつたのに
坦々と今日私のロからもれる言葉は何者の仕業であらうか

不憐なものへの冷酷なよそよそしい傍観
これはその者を愛すればこその優しい鞭なのだ
子どもたちよ この鞭を撥ねかへしその上に思想の花を咲かせよ

窓外には雪が粉々と降り床の間に活けられた早咲きの水仙が既に春信の近いのを語つてゐた。



 慕父詩抄 (二)

昔馬場のあつた趾には鉱山の社宅が建てられその高台から外壕の跡へおりる坂路をなごやかな一つの提灯の光りを幾人かのものが眼(まなこ)を注いでおりていつた

虫も鳴き絶え 路旁の草ももはや黄枯れ
穂綿の吹きとんだ薄が風に揺れて闇のなかに消え
十一月の寒さが惻々と襲つてくる

血を分けた者が同じ心に通ひ 遠くおもひを承久の秋の都落ちにはせて この土地に長くゐついた血脈を不思議に思ひながら
七百年つづいた寺への路を歩いてゐる

長く病み衰へた体をすぺいん風邪がさいなみ 父は三十七才の暮秋 時雨のやうに土に還つていつた
母も弟妹も風邪に臥し 黄泉路に枢を送つたものは幾人であつたらう

九才の子の上に世の風は暴(きび)しく二十七年の歳月が流れて いまこころばかりの誦経の音を父や祖達の御霊を招んで聴かうといふのだ

この馬場で騎馬を走らせ この丘で弓を射り
いまは闇のなかにたつてゐる城班の松に諏訪城の白壁は旭光に輝いたであらう
足音を心にきいて歩いてゐると 遠い祖達の魂魄が幽鬼のやうに踊つてゐた。



 夕暮の章

隔離病舎の屋根瓦の頂きには先ほどから二羽の鶺鴒が尾を振つて夕暮を啄ばんでゐる

病み臥して二十日 重湯と野菜汁と牛乳など 両足は痩せさらばへた胴体を支へるには難しく
時折り水枕に疲れた頭を反転させると
前庭に植えられた柊のあひだから一坪ほどの穹をあかず眺めてゐる
私は見る 赤と青で示された体温表の綾線を もはやその上昇も 下降も
山脈の起伏を渡る夕霧のやうに意に留めないであらう

蜩がかまびすしく後ろの丘で啼くと
夕暮がここも孤島のやうに囲んでくる
やがて病棟の雨戸が一日の終焉を区切るやうに閉められる
黒い塀と雨戸などにしみた消毒薬の芳香
かつて生活への悲喜の情と人の世の栄枯盛衰などを教へ
私に私の存在を自信させ 心の故里に遊ばせた夕暮よ

お前はなぜ私より変貌逃避したのであらうか 今はこの病苦を誰に語るよしもなく じつと堪へてゆかねばならぬ

では夕暮よ お憩(やす)み 私も御母の糊づけして下された白い敷布に蜩の声と共に憩ふこととしよう。



 エッセー「青春について」

 もう早や何年になるであらう。昭和十年頃であつたらうか、今はもう逝かれた民謡詩人野ロ雨情さんが、高山にひょつこり来られ、城山の保寿寺で歓迎座談会を開いて、一夕民謡に関する話を聞いた。その会に私も末席をけがして、有名なる雨情さんに初めて会つたのであるが、その時意外に思つたのは「島の娘」や「紅屋の娘」「波浮の港」などの民謡で、私の想像のなかに生きてゐた雨情さんはとても若く、三十代位の人だと思つてゐたが、お会ひすると随分のおぢいさんで、端正に坐つてゐられる姿は田舎の村長さんを思はせるものがあつて、私は別人の如く、人違ひではないかとさへ思つた。

 最近、当地に来遊中の下田惟直さんを知るやうになつて、実際のところ、少女雑誌に関係されたり、又私の不勉強は僅かにそれらに発表された詩、小曲とか、昭和九年頃、約一年に亘つて執筆された『詩人時代』の「海辺詩抄」等しか読んでゐない私は、私なりに作品から受ける作者といふ者をやはり若い三十代位の──その読者である自分だつてもはや四十の声を近く聞く年齢になつてゐるのであるが──若い人のやうに思つてゐたのである。

 しかるにお会ひして驚いたのである。容貌とか年齢といふことについてでなく、芸術に携つてゐられる人達の若さについて好奇の目を思ふのである。 脇道にそれるが『飛騨文学』第四号に発表された「さまよへる老詩人のうたへる」の詩のやうに、私は目頭の熱くなるやうな気持で読ませていただき、 下田さんに対して認識を改めたのである。私達は自分といふものを全裸にして、人の前に投げだすことはむつかしいものである。

 特に詩歌人が勇を鼓して自分の持つてゐるものを、いいにしろ、悪いにしろ大衆の俎上にのせることは、人間の肉体とか、肌とか、呼吸、血液とかいふ、いはゆる個性強い作品を作るにも必要なことだと思ふ。

 さて、私はここでこれら有名なる詩人について印象記を書かうとしたのではなく、雨情さん、下田先生又は今年還暦を迎へられた福田先生等の私のお会ひした二、三人の相当年輩になられた諸先輩が、肉体は老いられても精神は常に若く絶えず詩作精進される情熱といつたものについて、記してみたいと思ふのである。

 由来日本人は早老の国である。男子等年齢より老けてみられることは、処世上確かに得をして来たのである。が、ここでは精神の若さである。特に通性として若い時代は駿秀を以て聞えた人達でも一度、故山などに引込むと、周囲の平凡な生活のなかに同化してしまふのである。詩は二十代までと言はれて、青春の文学と言はれてゐる。

 大部分の詩人は若い青春には立派な作品を多くつくり、大成を期待されるのであるが、三十の声を聞かないうちに生命の泉が涸渇してしまつて、詩精神も消耗してしまひ、その陣営から脱落して行くのである。私達と一緒に昔、詩をやつた連中も、幾人も筆を折つて平凡な一市井人になつてしまつた。 (その人達は結局人生の勝利者であるか知れないが。)

 詩が、十七、八才の青春に於て発芽して、僅々十年間位でその光芒を放つて、字宙の一角にその尊い情熱を放散してしまふことは寂しいことである。 生じつか若い日の単なる思ひつきで虚栄のためにやるのなら初めからやらねばいい。四十になつても、五十才になつても、きつと詩の材料はつきなくて、七十、八十才の自由詩の詩人がゐたつていいのではないかと思ふのである。

 このことについて昔、室生犀星さんがかういふことを言つてゐる。

「詩は日本では大抵若い人がかいてゐる。四十近くなると詩が他愛ないばかばかしいものに思はれてくる。つまり詩にも二十代の詩もあれば、三十代の詩もあり、四十代の詩もなければならないし、五十代の詩すらある。しかし四十代の詩で書く人はゐても五十になると大抵書かなく、何か詩とは別な気持に出会ひ、詩が詩の処女性を感じなくなる」

と、犀星さんはこの文章のあとか前に「詩とお別れする」といふ声明を出したりして、詩人を廃業されたと思つたら、又その後詩を発表されたりして、結局、散文にて表現できない、性に合はない特殊な味が、詩の表現形式のなかにあることを思つて、氏のために喜び詩のために万才を唱へたのであつたが、それはともかく、この酬われざる詩業に、情熱を打込んでゆくことは、他人がみたら笑止の沙汰ではないことだと思ふのである。

 特にこの生活難な時代に多くの家族を抱へて、詩をつくり雑誌を出すといふやうな、人生の敗北のやうな詩業の努力はいつたい何物の仕業であらうと思ふのである。私は、私なりに五十になれば五十才の青春もあり、又今より想像もしないやうな、五十才で始めて感得できる世界が拓けてくるのだと思ふ。

 六十になれば又それなりに閑寂な境地であるか、人生への懐疑に満ちた思想であるか、それは今わからないが、詩の材料はつきないと思ふのである。 詩で生活できなければできない程、私は上手下手を超越して取組んでゆかうと思ふのである。詩は自分を再生する文学的な表現であると思つてゐる。

 時は自分なのである。自分の生活は詩でありたいと思ふのである。若い時だけ詩を書くのは誰でもがすることで、青春の情として当然であるが、我々はそんな浮気な気持でやりかけたのではないのである。

 この仕事が生涯を貫く仕事であることを、作品と共に示さねばならない。此の頃、境遇の変化もあつたが、廻(めぐ)りくる青春といふものをみじかに感じてゐる。

 敗戦によつて、私達の時代が来つつあることを思つてゐる。新しく再出発する日本、もとより週去になかつた苦難な荊棘(いばら)の道ではあらうが、決してその将来については悲観はしてゐない。きつと素晴らしい文化国家日本が成るであらう。それには、国民の各層が真に努力せなければならないのは勿論である。

 若い人達の意気や熱情は尤も貴重であり推進力ではあるが、老人もまた肉体的には老いても精神は常に若々しく、この一つの路を進みたいと思ふのである。(なんだか下手な長談義になつたが、福田、下田両先生の御精進に対し感ずることを自戒として記した次第である。)


【拾遺】 『山脈詩派』28号 昭和22年1月発行より(久野治『山脈詩派の詩人(1987年鳥影社刊)』より転載)

 秋の山で

鳥が啄ばんで落したのだらう あけびの実が一つ落ちてゐた
大きい栗の木にからみついたあけびの蔓
この山では緑と青とが深く 年を経た木から発散する樹脂が
天地の創成された原始の感情を保つてゐて
私は悠久について考へ 小さい生命について思ひかへしてみた
手にとると割けた卵色の肉の中から黒い種が覗きこんでゐる
少年のやうにはづかしく すかつと頬ばり噛みしめては黒い種を吐出した
険しい傾斜の栗林を 家に待つ子供らの表情を思ひ 猿のやうにかけ巡らせた
今日一日私は少年に還った 少年の日にもなかつた開放された日であつた。


【拾遺】 『詩宴』12号 昭和26年4月5日(西村宏一『飛騨戦後詩史(1977すみなわ詩社)』より転載)

 

月はまだ上らないが積った雪明りの裏庭に
白色レグホンの老いた鶏を小舎から出した
ゴム靴を履いた足が意気地なくぶるぶるとふるえた
つとめて意地悪く飛び掛って来た
産卵の盛んな頃の強い喙を想像して
さも憎くて堪らないと思うことにした
鶏は暗さのなかに悪るあがきもせず
覚悟をきめた容子に
私は脚と羽根を縄で縛り
細い紐で輪を作って首をキュッと締めた
苦し気に少しじたばたしたがあっけなく
雪明りの雪の上にのびていった
暫らく虚脱の姿勢で紐を引っぱっていたが
やがてさめてゆく体温を白布のやうに柊の枝に吊した。


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