Back

すぎやま へいいち【杉山平一】


その神の黒板を前にして ―― 杉山平一私論    矢野 敏行

    黒板

  自分は目を閉ぢる まっ暗なその神の黒板を前にして 自分は熱心な生徒でありたい 何ごとも識り分けること尠く 生きることに対し またも自分は質問の手をあげる

 杉山平一の第一詩集『夜学生』(一九四三年刊)に収められている、この詩の、いかにも初々しい、青年というよりも少年のような、真摯な生きる姿勢の表現はどうだろう。 高見順が、その『昭和文学盛衰史』の中で、『夜学生』からこの詩をわざわざ引用し、詩人への賛辞を述べているのも、この詩に流れる純粋=\―ピュア≠ネ心性に、 心動かされたからに違いない。また、横光利一が、「この詩集(『夜学生』)に流れている哀愁は清らかで、羽根が透明――」(横光利一の杉山平一宛書簡 昭和十八年二月十五日消印)と評した、 その透明な羽根≠ヨの共感も、同じことであろう。そして、このピュア≠ネ心性は、その後の詩人の様々な実人生における格闘の中においても、一貫して今に至るまで、 変わることなく、作品の中に流れつづけている。この変わることなく≠ニいうことが、この詩人の一つの特質であるかと思われる。 この世に短い生をしか送ることができなかった、例えば立原道造や津村信夫や、また野村英夫といった、『四季』の夭折の詩人達においてさえ、その生涯の詩作の初期と晩年の作品の間には、 それなりの変化が見えている。しかし、杉山平一の場合、その変化は一見、無いかのようにさえ見える。

    星

  濃紺の空には
  風にみがかれて
  星がピカピカひかっている

  星のひかりでピアノは鳴るだろうか
  星のひかりで岩はくぼむだろうか
  しかし
  星のひかりで僕の心は鳴る

            『木の間がくれ』

 このような詩を、『夜学生』よりも遙かに後年に、詩人は書いている。「詩は判りやすいものでなければ。」という詩論が根底にあるとしても、このようにピュアな心性を、 単純明快に表わした詩を、普通、人は書きつづけることはできないものである。
  変わることなく、この心性を持ちつづけている故に、詩人は、その神の黒板を前にして、またも質問の手をあげる。――
  そして、実は、ここに出てくる、この「神」という言葉こそ、詩人杉山平一の資質に深く関わる、重要なキーワードである。

    建築

  神の前で手を組み合わせるやうに
  木と木を固く組み合わせ
  千年
  その建築は祈ってゐた
  その声は深く神にとゞいてゐた

            『夜学生』

    風鈴

  かすかな風に
  風鈴が鳴ってゐる

  目をつむると
  神様 あなたが
  汗した人のために
  氷の浮かんだコップの
  匙をうごかしてをられるのが
  きこえます

            『声を限りに』

    失敗

  失敗すると
  頭に手をやる
  あれはわかる
  武器をすてたという
  挙手であるからである
  しかし
  失敗すると
  ペロリと舌を出す
  あれは何であろう
  改札で定期を見せる
  あの仕草であろうか

  無事に通過させてください
  神さま

            『ぜぴゅろす』

 ここに試みに、杉山平一の主要な三詩集のそれぞれから、「神」という言葉が出てくる詩を、一編ずつ抜き出してみたが、この他にも、神は様々な形で、作品の中に現われてくる。
 神――といえば、例えば第二次『四季』において追悼号の出ている、辻野久憲や、中原中也、野村英夫といった詩人達(辻野など、背景に『創造』の吉満吉彦や、小林珍雄などの名が浮かび、 本格の信仰論が問題となる。)と、カトリシズムとの関係や、また田中克己の晩年の受洗なども気になるところだが、杉山平一の場合、そのような特定の信仰が背景にある、 ということでは、もとよりない。
  杉山平一の詩の中に散見される神という言葉は、つまり、詩人が、この世界を成り立たせている原理、根元ということを、常に意識し、そのことに関心を持ちつづけている、 ということの、反映なのである。

    万有引力

 私の身体も荷物も強くひっぱってやまない地球の引力こそ 神とよばれ イデアと呼ばれるものではないか。 この実体なくすがたなきものに ひたすらひかれあこがれ 我々は統一されるのだ。  大建築において、幾千万の石が、そこにひかれて組み合い均衡安定するように。

            『木の間がくれ』 

 見えざる神――根元を、常に意識しつづけている故に、その生涯の途上で、いく度も質問の手をあげる。見えざる神のもと、この世に生き、苦闘し、右往左往するピュアな心性の主は、 質問の手をあげずには、おれないのである。神に声をかけ(「風鈴」)、神に懇願せずにはおれない(「失敗」)のである。
  そして、この根元≠ニいうことを第一の関心事とする故に、戦争の時代にあっても、杉山平一は、戦争という皮相の事象を通り過ぎ、 桑島玄二の言うように「太平洋戦争を素通りできた。」(「天秤」25 昭和43年7月)ということにもなるのであろう。
  さらに、また、この心性は、自分と同じく、その神のもと、この世に生きる、他の人々に対しての寄り添う気持となり、共感ともなって、様々の作品を書くことになる。

    窓

 いつの頃からか、その古ぼけた侘しいアパートの一つの窓が、私の往来する道の目じるしになってゐた。 その窓には沢山の子供が見られるのだった。  おそらく六畳もあるまいと思はれる部屋に、幼い四五人の子供のある家族が生活をしていた。 父親がゐたかどうか、私は一度ならず、まだうら若くしてやつれた母親らしい人を見た。  開けられた窓には道具も見えず、紐にかかるお襁褓が見え、一枚の屏風に色褪せた絵や写真の貼られてゐるのが見えた。 姉は赤児の守をし、弟は棒切れをもち、強く育ってゐるやうだった。  冬、閉ざされた窓の中には灯がともり、乏しい夕餉の膳ででもあったらう、はしゃぐ笑声と姉の歌う小学唱歌が通りすがりの私の耳にきこえてくるのだった。  「はげしき雨風、天地暗く……」まこと、愛に充ちた彼ら貧窮の生活をして、つつがなく強く強く育たしめよ。 祈る私の切なるまなざしのうちに、その窓はあるときは灯り、 あるときは暗く消えてゐた。

            『声を限りに』

 この共感は、時に聖者のごとき悲しみ、哀れみの情であったり、時に、人間味あふれるペーソスであったりもする。また、右往左往する人間への、おかしみであったりもする。
  窪田般弥が、杉山平一について述べている「諧謔と哀愁」(『ユリイカ』一九七八年三月)ということも、実は、この、おかしみとペーソスのことなのであり、すでに、 横光利一が述べている哀愁≠フことでも、あるのであろう。この、他の人々に寄り添う気持というのは、例えば千家元麿などの詩を思わせる。
  人間というものを、かく在らしめている根元に、詩人は、いつも、我れ知らず関心を向けている。
  ピュアな心性は、まっ暗なその神の黒板を、いつも意識せずにはおられない。意識せずにはおられないからこそ、「強く強く育たしめよ」と、詩人は、祈りの言葉を発している。
  しかし、くり返すが、これは、特定の信仰に関わる神ではない。

    桜

  毎日の仕事の疲れや悲しみから
  救はれるやう
  日曜日みんなはお花見に行く
  やさしい風は汽車のやうにやってきて
  みんなの疲れた心を運んでは過ぎる
  みんなが心に握ってゐる桃色の三等切符を
  神様はしづかにお切りになる
  ごらん はらはらと花びらが散る

            『夜学生』

 はらはらと花びらが散る――。はらはらと舞い散るものの向こうに、神さまはおいでになる。
 詩人が、多くの作品の中で、星を仰ぎ、山を望み、窓を見上げているのは、神さまのおいでになる、その遙かな高みを見ようとしているのだ。詩人は、空の高みを憧れ、磁石のように、 顔を、常に上に向けずにはおれない。(窓の場合は、その内側に住む、人間への共感もあるのだが。)
  そして、上を憧れながら、自らは下にいる、という在り方を、様々な形で詩に歌っている。

    花火

  オスカーワイルドは書いていた
  高く 高く 空高くあがって
  赤、青、黄色に爆発する筈の花火が
  どぶに沈められているのを
  自分のことが書かれているのだと思って
  それを読んで僕は泣いた

            『声をかぎりに』

 また、次のような詩も、その在り方の、実はバリエーションである。

    詩人

  黒部の奥の奥に
  誰も見たことはないが
  声だけきこえる滝がある
  天から降りてきて
  湛えに湛えたものが
  せきを切って
  鳴りひゞいている

            『ぜぴゅろす』

 他にも、多くの詩が、このバリエーションの中から生まれている。今に声をあげる=A今に燃える=A今に爆発する=\―しかし、今は、地に伏している。

    燐寸

  燐寸が発明された時
  ベンサムは感動して詩をつくった

  赤いレッテルの小さな函

  燃えるものを尚ぎっしり詰めて
  いまだわが手中にあり

            『声をかぎりに』 

 そして、杉山平一の著作の『低く翔べ』(エッセイ集)、『わが敗走』(エッセイ集)、『木の間がくれ』(詩集)といった、いわば地上の低きに身を処すような題の選び方は、 その空の高みを意識しているからこその対置概念であり、その上と下のバランスによって、全体が保たれている、ということになるだろう。そういえば、詩人の名そのものの中にも、 天を目指し屹立する杉と山に対して、地上に低く平と一とが横たわっている。(「平」のタテ棒と二個の点は、天を指差す磁石の針であろうか。)

   飛翔

  六千米の高さをとぶコンドルは
  急降下して地上に餌物をつかむと
  ふたたび急上昇してゆくという
  一九七六年一○月四日
  マナスル登山隊は
  七千米上空をとぶ一群の鳥を見ている
  彼ら高きに住む生ものたちは
  なぜか私を涙ぐませる

            『木の間がくれ』 

 そして、このピュアな心性は、地上に生を送るうち、当然のことながら、現実の汚れに遭わねばならない。その事を歌った詩も、また多い。

   卒業に

  もう私は書かねばならなかった
  けふまで私は少年であった
  しづかに あのいっぱいの夢を
  銅貨のやうにぎりしめて
  いつまでも いつまでも
  ゆっくり ナイフを研ぎ
  心こめて 鉛筆を削ってゐたかったものを
  新しい雑記帳よ よごれないでおくれ
  とがった芯よ 折れないでおくれ

             『夜学生』

 この『夜学生』に収められいてる詩は、そこから始まる詩人の人生をも重ね合わせ、目頭の熱くなるような、初々しさがある。(私事になるが、筆者は十代の頃、この詩によって、 初めて杉山平一という名の詩人を知った。)

   潔白

  ズボンのハンカチーフ
  わがうちなる唯一の潔白
  昨日洗ったばかり
  けさアイロンをかけたばかり
  もうこの皺
  この汚点

             『声をかぎりに』

   純粋

  世の中は
  くらく 濁って
  (それはそれでよいのだが)
  僕の前の卓子の上
  コップに水は澄み透っている
  それを身体に入れて
  もう一ぺん 僕は立ち上がる

             『ぜぴゅろす』

 清と濁の対置が、巧みなウィットとともに、様々な形となり、ここに作品化されている。
  さらに、この、いわば清と濁との混沌の現実へと踏み迷った存り様を、このように詩人は『夜学生』の中で書いている。

   硝子

 何が 私を追ひつめるのだらう 自分の仕業をにくみ 恥じ 責め すべてのものから謙遜し 逃避し 自分をかき消してしまひたい 自殺のいざなひでもなく  深い山に隠棲する孤高でもない 黒衣の人が夜の闇へ溶け込んでいくやうに この白日の中へ溶け込んでしまひたい それは 小さな水溜りを残して消えて行く氷のあの感傷でもない  しづかに拭ふうちに見えなくなってしまふあの質のいゝ硝子のやうに消えたい 粗忽な人はうつかり手をさしのべて コツンと固く 少しばかり冷たく  はじめてその存在に気付くだらう あゝ 何かゞ私を追ひつめる 私は拭く 微塵に砕ける誘ひに耐へて私は磨く しかもなほその底から曇つてくるこの霧のごとき憂鬱は何か

             『夜学生』

 そして、それから遙かに三十四年の歳月を経た後に上梓された詩集『ぜぴゅろす』(一九七七年刊)の中で、この“霧のごとき憂鬱”に対して、詩人は、文字通りの解決を、作品の中で与えている。

   解決

 古ぼけて煤けた駅であった その窓硝子も煤けていた よく駅夫が熱心に拭っていたがすぐもとにもどっていた ある夜のこと その一枚が  戸外の闇までつやつや見える位美しくすき透っているのを見た 近づくと硝子は割れてはずれていたのだった 煤けた彼が 何年かねがい 努め 悩んだものが  そのように解決されていた 戸外の闇から凍った冬の夜風が吹きこんでいた

             『ぜぴゅろす』

 この“解決”は、きわめて宗教的である。この世の根元を常に意識する詩人にとって、この解決の宗教性は、自ずからなる帰結だ、ともいえるかもしれない。 単なるウイットの詩ではない、それこそ、つやつやとした、深い精神性を、この詩は漂わせている。
  菱山修三が、「詩に就いての助言」の中で、『夜学生』の詩を、「甚だしく複雑なものを単純に把握する健全な智慧に支へられてゐる。」と評しているが、その智慧の主が、手をあげ、 質問を重ねるうちに辿りついた、これは宗教性だと言えるだろう。

   ピラミッド

 入りまじった星座のなかでも ペガサスの大四辺形や 白鳥の北十字星のやうな整然とした明快のかたちに自分は感動する 巨大なピラミッドの正三角形が  エジプト芸術五千年をつらぬける壮大の一本を以て今尚混雑せる山河や歴史の中に在るのは何と見事なものであらう 曖昧なる模糊なる精神の家並の間に豁然として一本の水平線を見出すがごとくである 

             『夜学生』

 ところで、この「複雑なものを単純に把握する」という在り方が、常に皮相の向うにある原理を、把握しようとする在り方の事であり、詩人の哲学好きの性向も、 明確な直線を愛するという性向(若い頃の)も、ここに源を有している。一本の水平線を、常に詩人は求めずにはおれないのである。
 しかし、ピュアな心性は、ピュアな故に、この一本の水平線を求めつつ、この世の不思議の中で、佇ち迷う。そのような、存在の不思議に触れた詩も、また多い。

   生

  ものをとりに部屋へ入って
  何をとりにきたか忘れて
  もどることがある
  もどる途中でハタと
  思い出すことがあるが
  そのときはすばらしい
  身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
  その用事は何であったか
  いつの日か思い当るときのある人は
  幸福である
  思い出せぬまゝ
  僕はすごすごあの世へもどる

            『ぜぴゅろす』

 そして詩人は、「閉ざされた部屋」という詩の中では、「遂に考へは錯覚でありなぐさめであり/どうにもできず  われらはこの部屋に閉ざされてゐる/どうにもならぬことを思って私はただもだえる//おお出口のない人生――戸をあけてください」と、時に、悲痛な叫びをあげるのである。
  中公文庫版『日本の詩歌』の中の一冊、<近代詩集>の解説で、伊藤信吉は、「杉山平一は、わかり過ぎることにおいて、生の深暗部に入って行った詩人の一人である。」と書いているが、 その“深暗部”が、今の、存在の不思議、不条理、不安ということになるであろう。この、存在への感覚、感受性は、非常に現代的なものである。中公文庫版『日本の詩歌』は、 他に<現代詩集>の一冊もあるのだが、この詩人の感覚の現代性は、<現代詩集>の方に収録されていた方が、より相応しいものであったろうと思われる。

   電話

  だれも居ない部屋
  しきりに電話が鳴ってゐる
  あゝ このむなしい日日に
  また何かゞあせってゐる

            『夜学生』

 存在の不思議といえば、難解と抽象の言辞を連ねて表現される、吉岡実の作品や、いわば身体論的な具体を通して、宇宙の神秘に触れ、つながっている、 といった谷川俊太郎の作品などを考えてみる時、杉山平一の作品は、日常的、人生的であり、詩人自身の、この世に生きる姿が、そのままに現れてきている。
  詩人は、一貫して、変ることなく、手をあげ質問を続ける。文字通り(夜)学生でありつづける。ピュアな心性を、この生き難い人生の中で、保ちつづける。そして、 そのピュアから由来する、人柄のシャイや、隠れた反骨も、生涯を通じて消えることはない。
以上、「神」というキーワードを中心にして、杉山平一という詩人の、今まであまり語られることのなかった、重要な一側面を述べてきた。
  杉山平一については、詩人としての一面の他に、実は、映画評論家としての一面があり、詩作と映画評論の活動は、ちょうど車の両輪のように、存在している。そして、 映画を観る“眼”の根底にも、やはりピュアな心性があるのであり、そのこと(在りのままに映像を映す、鏡のような眼のこと)についても、述べたいと思っていたが、紙幅が尽きてきた。 二十世紀の初めに生を受けた詩人が、その世紀の新しい芸術形式としての映画に惹かれていくことの必然性は、その資質の中に、すでに用意されていた、ともいえるのである。
  最後に、この世に生きる詩人の、一つの理想が語られていると思われる、「黒板」と同じ形式の、散文詩の佳品を一篇と、その人生の真摯な在り方の象徴としての、一つの“星”をめぐる、 これも散文詩を引用して、私論を畢ることにしたい。

   孤高

私はいつもその建物の上の一枚の窓硝子を見ては過ぎていた 朝いちはやく 夜明けを予感して しののめをうつしているのは彼であった そして日が傾き  町が夕闇にしづむとき 最後まで明るく残光を支えているのも彼であった やがて遂に 夜がすべての光をうばったとき うちに温かい灯を抱いているのも彼であった 

            『ぜぴゅろす』

   星

 芦屋の父の家も土地も、私の家も、負債のために人手に渡した。年少のころ、沖を行く外国汽船を、ゆらめく幻のように望遠鏡の中にとらえた、あのサンルームも、 その下に籐椅子をおいて真白な「わがひとに与ふる哀歌」を読んだあの亭々とそびえていた庭の松の樹も、もう私のものではなくなった。
 私は、海の見えない宝塚の山の下の路地のなかに小さな居宅を見つけて移り住んだ。
  宝塚の空気は、水のように冷たく澄んで、一切をなくした私にはすがすがしかった。星がよく見えた。星を見る気持の余裕が私に甦った。一月二十六日夜十時、家路へくだる道で、 何気なくオリオンの下へ下へ目をやると、地平に近く、あざやかにカノープスを見つけたのだった。私は眼を疑った。灯ではないか。ちがう、星だ。
  華麗な南半球の星空のなかでも最大のカノープスは、一月の終りから二月のはじめへかけて、わずかに北半球の地平から、かすめるように顔をのぞかせて過ぎるのである。 田中克己が「老人星ヲ見キヤ」と歌ったあの星である。その日は、朝から風が吹いて、地平がとくに澄んでいたのであった。
 二十五年前、私は亡くした長男が、病院で重体になったとき、毎夜、会社の帰りに芦屋の裏山の天神のやしろに平癒祈願に詣でていた。その一夜、燈火管制下の暗い芦屋の海の上に、 はじめてカノープスを見つけたのだった。それから以後、芦屋の空もにごり、私の身も心も生活ににごって、絶えて見ることはなかった。見ることのできなかったものであった。
  いま、それは見事に、キラキラといきづいていた。私は声をあげたいほどの感動にいつまでもひたっていた。私のこれからの人生において、あの輝く星を、 いつの日か再び見ることはあるであろうか。

            『ぜぴゅろす』「星を見る日」より

                                      了

※本稿は二〇〇一年十二月一日に、大阪教育大学で行われた四季派学会秋季大会での発表を慫慂により文章化したものである。

※HP管理者付記 本稿は「四季派学会論集 第十集」(2002.6.30 四季派学会発行)に掲載されたものの、誤植が広範にわたって文意の疎通に支障を来すものであったため、著者と胥図り、四季派学会東京事務局の協力を得て、茲に「誤植訂正版」を掲げることにしたものである。(2003.2.10up / 2003.2.18update)


矢野敏行(やの としゆき)詩人。「季」同人。


Back