(2017.04.17up / update)Back
すぎやま へいいち【杉山平一】
[帝塚山学院]短大の歩み 杉山平一
庄野貞一先生は、女子大をつくるに当って、女性を学者に養成する為に、教養を与えるべきだという意向を強く持たれたらしい。
そのため、私のようなものが呼び出されたのである。長沖一、小野十三郎というような実作者を、大学の教壇に立たせるのは、戦前、与謝野晶子の文化学院と、小説家に講義をさせた明治大学くらいしかなかった。今日では珍しくないが、
大胆な試みで、今東光や石浜恒夫も一時期出講した。
小野先生の詩論、吉村一夫先生の音楽論に並んで、私に「映画論」をやれといわれた。
映画論の講義など、どこの大学にもないもので、自分で作るより仕方がない。そこで、私が学生だったら、こんなものがききたい(実際、私は大学へ行って、そんな講義をききたいと思ったがきけなかった。そんな渇望を思い出して)、
そういうものを話してやろうと、たどたどしく講義を組立てていった。
はじめ、校舎は、まだ出来ていなくて、いまの小学校のプールのあたりにあった幼稚園の建物の二階の教室で講義をした。木像の古ぼけた建物だった。
学生は七、八人ではなかったか、と思う。先生方が、学院高校生に頼むからきてくれ、短大へ入って貰ったといった按配だったらしい。
私が、おそるおそる映画論の講義をはじめて二、三回目に、教室で一番前に陣取って、にゅうと足を組んでいばっていた学生が、講義の途中、とつぜん、
「先生!映画なら、もっとスターのはなしなんかしてくれませんか。おもしろいことあらへん」
と声をあらげてきた。
心配しながら講義をすすめていた私はギクッとして、やっぱり私の映画芸術モンタージュ論みたいなものは、女性には面白くないのか、と絶句してしまった。血の気ぐらいひいていたのかもしれない。
私が立往生していると、うしろに坐っていた色の白い学生が、
「先生、面白いですよ。そのまま続けて下さい」
と発言してきた。
前の学生は、グイッとうしろを振返ったが、だまってしまった。
私はホッとして、私の話でも面白いといってくれる人のいることに安心したものの、映画スターの話をしろといった学生も、なだめねばならぬという複雑な気持ちにとらわれた。
あとで長沖先生にこのことをいうと、うしろから発言した色の白い子は、過年度の卒業生で、花柳有恍という舞踊の名取りだと教えられた。
とにかく、はじめは少数の学生が、いきいきと、のびやかに振舞っていた。
少数なので、学生を撮影所の見学などに連れていった。たまたま黒澤明の『羅生門』の白洲の場をうつしていた。それがあんなに有名な作品になるとは、学生も私も知る由もなかったが、張りつめた空気のなかに京マチ子が凝然と腰を下ろして、サインどころではなかった。翌年、連れていったときには、藤村志保が学生にサインをしてくれた。
私はそのころ芦屋に住んでいたが、夜九時ころ、学生から電話があり、いまみんなでクラスの一人の六麓荘(芦屋と苦楽園の間)別荘へ遊びにきており、長沖先生や小野先生もおられるから、いらして下さいという。こんな夜おそくとも思ったが、山道を歩いて私はでかけた。そこで、みんなでゲームしたり飲んだり、いつの間にか夜が明けてしまい、長沖先生たちと、朝の海を見おろす野に出て、深呼吸をしたのをおぼえている。私にとっては、二度とないたのしい一夜だったが、これもそれも学生が少数だったからできたことである。
図書館も、壽岳文章先生の蔵書や戦死した『コギト』の優れた評論家中島栄次郎の蔵書を買い取ったりして漸次充実していった。その世話をされた田中克己先生も、私には『四季』の詩の先輩で、毎週一回、
講師控室で十分間お会いするのがたのしみだった。中村祐吉先生ともその十分間にお話しできた。
庄野貞一先生は開校一年目にお亡くなりになり、あとは関西学院大学の神崎驥一先生が見え、毎月、全学生に文芸家などの講演をきかせられたりしたが、高野山に先生方を連れて行かれたり、謹厳な先生だったらしい。神崎先生も、早く亡くなり、学院先輩の蒲田先生が、同志社大学から学長として赴任された。
狭山に大学が開校されることになり、長沖先生らが向うへ移られたが(このあたりから学生の質が少しかわってきたが)、増大してくる学生に対応するため、蒲田学長はテニスコートをつぶして、新館を建てるに踏み切られた。神崎学長のとき、北側の高島屋のアパートになっている土地を売りにきたのに、買わなかったのがくやまれたが、いまとなっては、それ位では追いつかないだろう。
テニスコートがなくなっても、軟式庭球は何度か優勝し、水泳にオリンピック選手浦畑さんや、短距離に吉川さんなど日本一の選手を出すはなやかさだった。開校以来、つぎつぎ代る学長の下で一切をとりしきり、短大を育てあげたのは、守本文生先生だったが、守本先生はスポーツに理解があった。
外部では学生運動がはなやかであったが、短大は穏やかではあったものの、あるときのカレッジデーには、元全学連委員長を呼んで、お嬢さん学校を脱皮せよというらしい講演をさせてハラハラした。教務部長だった私も、監察かたがた隈できいていたところ、
「そこにいる先生、どう思いますか」
などと途中で私に議論を吹きかけてきて、びっくりしたことがある。
一部の増大に対し、二部の学生が、世間の移り変わりで激減してきたので、廃止しようという話になり、学生が「夜学連」という団体の応援を頼んで反対運動を起したときも困った。全学生が五号室を埋め、蒲田学長と私が、つるし上げのかたちで、質問の矢面にたったのも忘れられない。学生たちはおどろくほど活溌だった。
二部の卒業式のとき、答辞で、二部廃止反対を訴え、卒業式中止をいい泣き出す学生がいて、中断。傍聴の父兄が仲に立って収めたこともあった。
二部をつくられたのも庄野貞一先生の勤労学生へ手を差し伸べようという意図に出たものだったが、時代と社会が変ってしまったのである。
短大の移転も新しい時代への即応の[結果]であろう。
「季」同人、矢野敏行様を通じてお示し頂きました(初出不明)2017.4.17。
Back