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ひらおか じゅん【平岡潤 1906-1975 】『茉莉花』1942


四季派の外縁を散歩する   第十八回

詩人平岡潤――4人目の中原中也賞

 杉山平一先生が戦前に受賞した「中原中也賞」。長谷川泰子が寛大な夫である中垣竹之助氏の経済力を恃んで興した雑誌「四季」ゆかりの文学賞である。 詮衡が「四季」の編集方に委ねられ、「文藝汎論」の詩集賞と較べると、より「抒情詩に対する賞」の性格が強い。

遺稿集

第1回は昭和14年、亡くなった立原道造に、第2回は雑誌の遅刊が続いたため昭和16年に2年分として杉山平一、高森文夫の2名に。そして第3回が昭和17年、平岡潤に授与され、 以降パトロン中垣氏の事業悪化により途絶した。

 立原道造はもちろん杉山平一、高森文夫のお二方も昭和期の抒情詩史を語る上で名前の欠かせないひとであるが、平岡潤といふ詩人の知名度は如何であらうか。戦後、 地元三重県桑名市で地域文化の顕彰にあたり、市史の編纂をなしとげた偉人であるが、賞の詮衡対象とされた詩集『茉莉花(まりか)』は、刊行部数がたった120部しかなく、 古書でも目に触れることは殆どない。そして投稿の常連者であったのに、戦後、「四季」が復刊される時に彼の名前が無いのである。彼はまた、 自由美術家協会から協会賞を受けたといふ絵画界からも遠ざかってゐるが、しかし中部地区の詩人が(在住を問はず)一大集結した『中部日本詩集』(昭和27年刊)に参加せず、 巻末の三重県詩壇の歴史展望の際にも一顧だにされぬといふのは、奇異でさへある。

 これは詩集『茉莉花』が軍務の傍らに書き綴られた詩篇を中心とし、伏字を強いられた作品を含みながらも、その作品は旧帝国軍人の手になるもので、 彼は戦意高揚の詩人である、とい烙印を捺されたからなのであらう。多年の軍歴は公職追放をよび、彼は教師の地位からも追はれ、已むを得ず古書店を始めるに至ったが、 奇特なことに店を繁盛させることより地域資料の散逸をふせぐに遑なかったらしい。これだけの逸材を世間が埋もれさせる訳はなく、 中学時代の恩師から詩史編纂に協力するやう声がかかったのは、むしろ当然の成り行きだったかもしれない。

 けだし詩人が戦後、詩壇ジャーナリズムから黙殺・抹殺の憂き目に遭った事情は、岐阜県出身の戦歿詩人山川弘至と同じであり、 その後現在に至るまでの詩壇からの冷遇が能くこれを証してゐる。彼の場合は、なまじい戦争に生き残って、しかも一言も抗弁することなく、故郷に逼塞して歴史顕彰に勤しむやう、 自らをしむけなければならなかった。その心情は如何ばかりのものであったらう。南方で米軍に降伏、収容所生活にあっては、ダリの紹介記事を翻訳したり随想をしたため、 戦後の文学活動復帰に十全の備へを怠らなかった彼であった。詩才のピーク時を示す「錨」などの詩篇に顕れてゐる丸山薫の詩に対する理解の深さ、 そして授賞時の言葉を考へると、隠棲した豊橋で中部日本詩人連盟の会長に担がれた丸山薫本人から、なにがしかの再起の慫慂がなかったとも思はれ難い。なにより詩人自身に、 さうした文学への思ひや未練を記した雑文は残ってゐないものだらうか。事情を取材すべく詩人の遺稿集『桑名の文化―平岡潤遺稿刊行会 (1977年刊)』にあたってみた。

詩碑

 桑名の図書館まで足を運んだものの、文学の抱負が記された自筆稿本『無糖珈琲』は未完のまま埋もれ、遺稿集には地元の歴史文化に対する随想が収められてゐたが、 自身の詩歴をめぐる類ひのものは一切得られなかった。むしろ詩を共に語るべき師友のなかったことを、却って物語ってゐるやうな内容であった。なかに引用されてゐる新聞記事も、 彼が画家として立つことができなかったことは紹介してあったが、晴れがましい詩歴については触れられてゐなかった。 もっとも巻末には稀覯詩集『茉莉花』の全編ならびに戦前の拾遺詩篇の若干が収められてをり、詩人が眠る市内昭源寺境内には、立派な「詩碑」が建てられてゐるのを知った。 わたしは早速その足で墓参に赴いた。

 詩人は昭和50年、郷土史の講話の最中に仆れたといふ。そのため詩碑の建立は詩人の遺志であったとは云ひ難く、その人望の結果であるには違ひない。そして決して恥じることのない戦前のプロフィールも、 地元では尊敬を以て仰がれてゐたことを証するかのやうに、碑面に刻まれてゐたのは彼の郷土史研究の功績ではなく、若き日に自らの前衛絵画を以て装釘を施した、 晴れがましい中原中也賞受賞の詩集書影。そして戦後間もなく、未だ詩筆を折ることを考へてゐなかった時代に、詩的再出発の決意を宿命として表した「名誉」といふ一節が選ばれてゐたのであった。

 名譽

 詩人は生まれながらにして傷ついてゐる。傷ついた運命を癒さんために、彼は詩を創るのではなくして、詩を創ることが、傷ついた運命の主なる症状なのである。 不治であるといふことは彼の本来の名譽と心得てよい。

 昭和二十一年七月十日

 平岡潤 (未刊の自筆稿本『無糖珈琲』第25節に所載の由)

 生涯独身を貫き「郷土史研究がワイフ」とうそぶいてをられた詩人。財産を遺すべき子供の無く、代りに建てられた一対のレリーフの間を“一羽の可憐な折り鶴”が繋いでゐたのは、 その折り方を考案した地元僧侶の顕彰活動に努めたからといふより、なにかしら詩人の「本来の名誉」の鎮魂のために――、と思はれて仕方が無いことであった。(2013.4.30up)

 茲に詩集『茉莉花』の全書影と、初出雑誌の一覧、そして遺稿集の巻末に久徳高文氏がまとめられた年譜と後記を掲げます。謹んで詩人の御魂と御遺族に御報告するとともに、 塋域および御遺族情報を御案内いただきました昭源寺様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。


茉莉花

『詩集 茉莉花』

平岡潤 第一詩集
昭和17年6月25日 私家版(三重県桑名市)私刊
125p 18.5×12.9cm 函 \2.50
限定120部数 中原中也賞受賞

函  茉莉花

函 : 右は受賞後に頒布されたもの。

見返し

見返し

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  寒村宿営

土間のくらやみに牛がゐる
牛はゆつたり夜を食(は)んでゐる
隅の風呂桶から 私は覗く
豆ランプがチラチラと牛の瞳に映つてゐる
淋しい村の「昔」だな
そのまま 私は牛になりかける

  杉の芽

ずつぷりと汗に濡れ
光と風になほ濡れて
五月の森に憩ふとき
私は杉の芽をとり噛んでみる
熾烈な香気は点を摩し
渋い深みは谷となり
ゆつくり「ほまれ」に火をつける
襦袢に山蟻がのぼつてくる

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  錨

見上げるほどの
大きな錨が四つ
岸壁の切れ端に組まれてあつた
足もとには それに似つかはしい鎖が
主従のやうに取り巻いてゐた
いづれは胸痛めた落人であらう
尾羽打ち枯らした姿は
そのまま 見事な銅像であつた

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待従武官御差遺の日であつた
辺鄙な港町を潔め 崩れた町角の一つは式場に充てられ村の小学校気るやうな白い布に被はれた式壇が設けられた いまは遥るか沖合からお迎への船が 桟橋に お着きになるのを待つばかりであつた
この静かな白砂の港を抱いてゐる長い白象の鼻のやうな砂洲の向ふ方は昨日からひどく荒れてゐた 港の戎克船はみんな砂洲の奥深く群れ集ひ 帆を眠らせ休ん でゐた
兵隊たちはもう三時間も式場で待つてゐる
やがてお迎への船が帰つてきた 小さな船は外海の波濤の飛沫をかむり 護衛の船もしとど濡れてゐた
「沖合荒く本船に近寄ること能はず 侍従武官殿には舷側に立たせられ 部隊 長へ申伝へられたしと御沙汰の趣きを申渡されたり」
涼しい海風と共に 索漠たる夕闇が迫つてゐた
「…………気候風土の異なる地なれば よく身体に気をつけるやう…………」
何時か押し戴いた あの 御言葉が海の向ふ 東の天から滲みとほつてくる 兵隊たちは晴れ着の侭 沖をふりむき帰つて行つた
汽船は煙をあげて水平線に乗つた

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奥付

奥付


【参考】 中原中也賞

四季

四季

  「四季」昭和17年12月号 第3回中原中也賞発表号より

中原中也賞について

中原中也賞

第1回受賞 昭和14年 立原道造
第2回受賞 昭和16年 杉山平一・高森文夫
第3回受賞 昭和17年 平岡潤
(以降途絶)


【参考】 遺稿集『桑名の文化』(1977年刊)より

初出雑誌一覧

「現代詩」昭和11年5月号           この時代
「メツカ」昭和11年6月号            本牧の岬にて
「メツカ」昭和11年7月号            マンドリン
「藝術科」昭和11年9月号          枳殻のごとく

照源寺

「四季」第20号 昭和11年初秋号    軍隊素描 42-43
「四季」第23号 昭和12年1月号     峠 52
「四季」第24号 昭和12年2月号     深草の丘 74
「四季」第25号 昭和12年3月号     月見草 49
「藝術科」昭和12年3月号          裸婦
「四季」第26号 昭和12年5月号     雨の公園(散文詩) 59
「四季」第27号 昭和12年6月号     北風の日の言葉(散文詩) 42-43
「四季」第29号 昭和12年8月号     錨 32-33
「藝術科」昭和13年2月号          青い魔法
「四季」第64号 昭和17年4月号     砲撃・信号弾 32-33
「四季」第65号 昭和17年5月号     沖 従軍手帖から(散文詩) 30-31
「四季」第68号 昭和17年10月号    甍 36-37
「四季」第70号 昭和17年12月号    蘆と河 20-21
「四季」第70号 昭和17年12月号    受賞の言葉(感想) 66
「四季」第71号 昭和18年1月号     白鷺 40-41
「四季」第74号 昭和18年5月号     戦歴 38-39
「文藝汎論」昭和18年9月号       星 故上月大尉に捧ぐ
「四季」第80号 昭和18年冬季号    歩兵操典 38-40

  平岡潤 略年譜

明治39(1906)年
桑名町(現・桑名市)本町762番地に、医師平岡文次・すず夫妻の次男として生まれる(1月15日)。

大正8年
桑名町立第二尋常小学校(現・精義小学校)卒業(3月)。

碑

大正13年
三重県立富田中学校率業(3月)。

碑

昭和7年
明治大学商学部卒業(3月)。

昭和8年
歩兵第六聯隊幹部侯補生として入隊(2月〜11月)、歩兵軍曹となって除隊、予構役に編入。

昭和11年〜12年
歩兵少尉任官(3月)。
このころ、詩作・画作に耽る。雑誌「メツカ」・「現代詩」・「四季」・「芸術科」等に詩を投稿。また、白日会第14回展(「土筆」・「汀」)、自由美術家 協会第1回展(「習作」デカルコマニイ・「二面鏡」デカルコマニイ・「轢殺」・「習作」)に絵画入選。特に後者において協会賞を受け、会友となる。

昭和13年〜14年
歩兵第33聯隊補充隊入隊(11月〜14年8月)。
自由美術家協会展に、「構成」・「艶紙によるデッサン」・「意識的デカルコマニイ蝶蛾」(13年7月)、「蝶蛾デカルコマニイa」・「作品A」・「作品 B」・「作品フオトグラム」・「エスキース オートマチックデッサン」(14年7月)を出品。詩作を続ける。
美術雑誌「アトリエ」14年8月号誌上に、長谷川三郎が、つぎの文章を書いているが、"H君"という標題はまきしく平岡の頭文字を示すものである。

碑

「H君のこと」          長谷川三郎

 H君は昨秋召集され、少尉として軍務に服してゐる。彼は澄んだ優しい限を持ち、静かな、飽く迄謙遜な男である。而も友人達は彼の応召を後から知つた時、 異口同音に「彼はキツト、最も勇猛果敢な将校となり、彼の隊は必ず偉大な戦果を収めるに違ひない。」と云ひ合つたのであつた。そんな男である。

 彼はM大学の出身で、二年前に忽然と現れた三十四歳の立派な作家である。彼の作品は新しい精神と手法に溢れ、而も既に或る個性的な完成迄示してゐる。

 H君の事を考へると、いつも心の引きしまるのを覚える。彼が静かに続けて来た真剣な勉強、確信と周囲に対する最も厳しい批判精神とを内に秘め乍ら、 少しもひねくれず世を拗ねず着々と積み上げて来た実力、全く彼がはじめて忽然と決然と我々のグループに来投して来て呉れた時、我々は、 彼を見出し得た事丈で我々は過分に酬いられた様な気がしたのであつた。

 彼は、恐らく応召のその日迄手がけたのであらう美しい数点の作品を残して、黙つて発つて行つた。

墓

昭和15年
父文次死去(1月31日)。
動員により歩兵第38聯隊入隊(7月)。歩兵中尉昇任(8月)。外地に赴き、南支派遣軍に属して、広東地区に駐留。

昭和16年
内地帰還、召集解除(11月)。

昭和17年
詩集「茉莉花」を自費出版、自装120部限定(6月)。この詩集に対し、四季社は第3回中原中也賞を与えて高く評価。また、雑誌「四季」は記念号を特集し、 本人の「受賞の言葉」および詩「蘆と河」、並びに津村信夫・阪本越郎・丸山薫の「推薦の言葉」を掲載(12月号)。
このころ、三重県立桑名中学校(現・桑名高等学校)の嘱託教師となる。
戦友菟田俊彦著「大陸の断想」の装幀をひきうけ、献詩を寄せる(9月)。

昭和19年
臨時召集を受け、歩兵第15聯隊補充隊入隊(7月)、台湾を経て、フィリピンに向い、カラヤン島に上陸(10月)、同島警備にあたる。

昭和20年
桑名空襲、その犠牲となって母すず死去(7月)。
戦筆終結するも依然カラヤン島守備を続け、歩兵大尉に任じ(8月20日)、10月に入ってようやくアメリカ軍に投降(10月6日)。カラヤン島を去って、 ルソンアパリに上陸、同地収容所から北サンフェルナンド収容所に転じ(10月23日)、第2大隊特業中隊長となる。

昭和21年
収容所生活のなかで、文雅の業に心を遣る。
「LIFE」(昭和20年9月24日号)所載の「サルヴァドル ダリ」(ウインスロップ サーヂャント執筆)の翻訳をなし遂げ、自ら樽檬叢書第1編と名付け、 稿本「ダリ」を纏める(4月21日)。ほかに随想類を集めて「無糖珈琲」と名付け、第2編に加える(7月10日)。その後、帰国命令に接し、 北サンフェルナンド港出帆(10月19日)、名古屋港に上陸復員、焦土の桑名に還る(10月31日)。
兄平岡浩一家の疎開先三重県員弁郡石榑村(現・大安町)字石榑北506番地に仮寓。
三重県立桑名中学校嘱託教師に復任。

昭和22年
多年の軍歴が崇り、教職追放の厄に遭う(1月28日)。
古書籍商を志し、日本古書協会に加入(3月10日)。

墓

昭和23年
伊勢屋百貨店古書部(桑名市寿町476番地)を開業(5月1日)。

昭和29年
桑名市史編纂の仕事について近藤杢氏の協力者となる(10月)。このころ、古書籍商廃業か。

昭和31年
歌行燈句碑建設に尽力(6月)。

昭和32年
桑名市文化財調査会新設せられるや、その委員に任じる(10月)。

昭和34年
桑名市立図書館嘱託となる。「桑名市史本編」発刊(3月)。
伊勢湾台風(9月)によって流没・浸水・汚損した市内各地各種の文化財について、緊急調査・探索・修復に日夜辛酸を嘗めること長期に及ぶ。

昭和35年
「桑名市史補編」発刊(8月)。
この年、朝日新聞日曜版は大きくスペースを割いて故人の風貌を紹介顕揚した。

 「この人を ―― 文化財保護に力注ぐ平岡潤さん」

 “七里の渡し”で有名な桑名市を貫く国道一号線からわずかばかり横道に入ったところに鉄筋の市庁舎がある。その隣に薄暗いバラック建ての“長屋”がある。 近ごろの工事飯場にもこれほどみすぼらしいものはみられないくらい貧弱なものだ。これが桑名市の文化施設、図書館兼公民館である。戸のたてつけもおそまつなら、 本はホコリをかぶったままのオンボロ図書館に“桑名市になくてはならぬ人”平岡さんがいた。

 明治三十九年生まれだというから年は五十をまだいくらも越していない。グレーの髪、額のシワは長いひたむきな努力を物語っているかのようだ。かといって、 いわゆる郷土史家にありがちなカビくささがない。もの静かな、奥ゆかしさの中にも燃える情熟をたぎらせている。ロマンチストだ。それもそのはず、かつては洋画家で詩人だったのだから。

 絵が好きだった平岡さんは昭和七年、東京の犬学の商科を出てから洋画を志したが、自由美術家協会の第一回展に協会賞を獲得するほどの腕前で、 「一生、画家として生きる決心をした」そうだ。ところが、何度も軍隊にとられ油絵どころではなくなった。平岡さんが絵筆を郷土史編集のペンにかえたのは、戦後ふるさとの桑名に落ちついてからである。

 「桑名に郷土史のないことが不思議でした。戦後のどさくさ時代で桑名の古いころの資料もバラバラ、なんとかいまのうちにまとめないと困ると思いました。 まず手始めに、絵かき仲間のすすめもあって、古本屋を開業し、他の地方へ資料の流れ出るのをくいとめるのに努めました」という。

画

 絵と同じくらい詩の好きな平岡さんは当然のことだが、あらゆる詩集を買いそろえた。詩を中心に平岡さんが集めた蔵書は約三千冊。 これをもとに昭和二十三年にデパート式の店「伊勢屋」の一角を借り、古書部として店開きした。書ダナ数段に全部入ってしまうささやかな店だった。

 この店はあまり繁盛しなかったが、大きな任務を持っていた。郷土史資料を集める窓口になったし、資料が散らばらないようにする図書館的役割を果たした。 また当時は戦後の混乱時代、和本や美術品などいろいろな逸品が無造作に新円成金のふところにころがりこんだころで、「資本のない私ではどうすることもできませんでしたが “この人なら確実に保存して下さるに違いない”という人に買いとってもらいました」。土田麦僊の出世作「湯女」一双も中学の先輩、作家の丹羽文雄氏に打電して引きとってもらったこともその一つ。

 古本屋時代は三年つづいた。この間にこんど刊行した「桑名市史」の編者、近藤杢氏(76)も訪れた。近藤氏は中学時代の漢文の先生で、 近藤氏の助手になるキッカケもここにあった。編集ははじめは近藤氏ただ一人、平岡さんが近藤氏の手となり足となり、本腰を入れてこの仕事に加わったのは三十年のはじめ。 協力者もなく、二人きりではじめただけに毎日、苦汁をのむ難業だったという。

 桑名地方の郷土史の編集は明治時代に何度か企てられたこと秘ある。が、デルタ地帯で考古遺跡が少ないのと、桑名藩の松平氏が武蔵へ国がえになり墓や菩提寺も持っていかれたこと、 それに信長の伊勢征伐、たび重なる洪水、台風の影響で資料に乏しく、いつも筆を投げたものだ。それだけに並み大抵のことではなかった。

 「捨て石になったつもりでした。それなのに市当局は全く冷たいです。給料のことをいっては気がひけますが、月三千円と手当二千円ですからね。 市が費用としてくれるのは写真代くらいのものでした」――ひどく嘆く平岡さんだった。

 まず近藤氏の原稿を複本する仕事から始まった。鉄筆で四通ずつ書くのだ。日に十二枚がやっとだったという。細かい仕事だけにすっかり目をやられてしまった。 拓本をとったり写真撮影のため自転車で桑名地方の史跡・文化財をかけ回った。「寺を調査したときのことです。資料を見せたがらない人が多く、居留守もつかわれましてね。 仏教会に話してくれといって逃げるんです」という。

 ところが、去年の伊勢湾台風で桑名市も大被害を受け、芭蕉の句碑をはじめ貴重な史蹟も流されてしまった。もちろんこのオンボロ図書館にも浸水、 写真も資料もダメになった。「これでも一枚一枚干したんです」――水につかった資料をめくりにくそうにひろげてみせる。

 平岡さんは一昨年、近藤氏のあとをひきつぎ市教委の嘱託の地位についた。こんどは補編を一人で書きあげようとしている。 補編には文学に現われた桑名といったものを中心に書きたいそうだ。この方は八百ぺージで八月に刊行の予定という。

 一週間ほど前のことだ。移封地の埼玉県行田市から「市史をつくるために」と編集委員の九人が平岡さんのもとを訪れた。平岡さんは遊び半分の“大名旅行”に来るのだろうと思っていた。 実際はまるで逆だった。「行田市は編集委員は二十人もいるそうですよ。一生懸命聞かれるし、うらやましかった。それにひきかえこちらはわずか二人。 それでも四日市港は稲葉三右衛門が私財をなげうって築堤したのです。その石は廃墟の桑名城から運んだといわれます。港発展の礎は桑名城の石といってもよいでしょう。」と、 何事も犠牲がなければなしとげられないことを強調する。

 市に文化財調査会ができて、自分も調査委員になったが、市当局が地方の文化についてもっと関心を持ってほしいと願う。

 「まっさきに図書館の火事が心配です」、と。

 平岡さんは独身で通した。かつては絵が、いまは郷土史研究がワイフという。そして“愛児”ともいえる桑名市史は、すぐには認められないにしても、意義ある誕生だった。

                       1960.6.19 朝日新聞日曜版

昭和36年
三重県教委表彰(11月24日)郷土文化財保護、特に伊勢湾台風による被害対策に関する功労による。

昭和38年
旧桑名藩士維新戦争戦没者遺骨受領のため山形県寒河江市に赴く(4月)。
有本芳水住吉浦詩碑建設に尽力(10月)。

昭和39年
伊勢湾台風によって廃滅した松尾芭蕉の白魚句碑を中心とする浜地蔵の句碑群再建に尽力(2月)。
矢部駿河守定謙墓趾顕彰碑建設について、「天保図録」の作者松本清張氏の援助を得て尽力(9月)。
桑名市文化財調査会研修旅行記「小浜の印象」を独力で編集・ガリ切り・プリント・装幀製本して刊行――以後6集にいたる(戸隠・遠州・柏崎・白河・会津若松と行田)。 このころ、千羽鶴折り方の始祖が市内伝馬町長円寺住職魯縞庵義道であることを探り当て、その顕彰活動に熱意を傾注、晩年にいたる。

昭和40年
「桑名市史別巻」発刊(9月)。
山口誓子石採祭句碑建設に尽力(9月)。

昭和41年
千葉兎月こぼれ萩句碑建設に尽力(12月)。

昭和42年
桑名市長感謝状(4月-日)1文化財保護・郷土史研究の功績による。

昭和44年
郷土史研究団体「桑名好古会」結成を提唱(2月)。

昭和45年
兄平岡浩死去(7月24臼)。
三重県図書館協会表彰(10月26日)1図書館職員としての功労による。
桑名市立文化美術館創設せられるや、その初代館長に就任(11月1日)。

昭和50年
桑名ライオンズクラブ第400回記念集会の席上、郷土史講話のさなか心筋硬塞の発作をおこして倒れ、遂に起つことなく逝く(9月12日)。享年69歳。

曽て娶らず、反骨孤高の生涯を貫き、照源寺墓域に永く眠る。法名顕光院潤誉達玄居士。
※平岡潤遺品展――桑名市立文化美術館で開催(11月〜12月)。
※桑名市長感謝状(昭和51年7月17日)――桑名市教育文化の振興に関する遺徳による。
                          (久徳高文編)

解説

平岡潤さんの遺稿は、散文・詩・短歌・俳旬の各領域にわたっている。

 散文は、ほとんどすべて戦後の執筆に成るもので、詳しく言えぱ、昭和21年フィリピン俘虜収容所時代に丹念に浄書して綴じた稿本二冊と、 昭和二九年以降晩年に至るまでの間に各種新聞・雑誌・機関誌等に寄稿した約180篇とである。

 稿本の一は、超現実派画家ダリについての翻訳、他の一冊は随想31篇を集めた「無糖珈琲」である。みずから題して「檸檬叢書」第一編第二編と言い、 いずれの日にか出版することを秘かに夢みていた心情が窺われる。アメリカ軍支給の画用紙をマラリア予防薬アテブリン錠剤の水溶液で檸檬色に染めあげたものを表紙に用い(それゆえ檸檬叢書と名付けたのであろう)、 本文はアメリカ軍のタイプライター用箋を袋綴じにして(これまた後年の桑名市史稿本のスタイルを連想させる)、瀟洒に製本したものである。

 このあと八年程の空白を置いて、目ざましい執筆活動が始まる。桑名市史執筆の必要から触発されたものであろうが、郷土文化に関する知見が多く、 まま画家・文化人としての個性味溢れる珠玉の掌篇が光っている。

 詩は、故人唯一の単行本であり、今は稀籍に属する私家版「茉莉花」(昭和17年刊、120部限定出版)所収44篇と、詩集以前および以後の雑誌作品13篇合計57篇が活字化せられた詩のすべてである。 ほかにノートブックの散葉に書き記された詩稿(「爆撃」・「春が来る」・「寒鮒」など)10篇ほどがあるが、制作年次は判らない。

 短歌は、「短歌覚書」と題する草稿がある。原稿紙の反故を裏返しにしてホチキスで綴じたものである。

 童画かく貧しきわれに夏来る痛める蝉の飛ぶ空間重し

で始まり、

 満洲に注ぎこむ資本今日もゆく万歳の声白きあの声

で終る合計34首が遺されている。紙質や内容から推定するに、昭和五、六年の頃の作品ででもあろうか。

 俳旬は、総計10句にも満たない。

 借景に大山紅葉独占す
 頽唐の形影深き小浜哉

は、若狭小浜の旅行吟(昭和39年)である。

 筆名は、大概本名「平岡潤」を用いているが、稀に「丘潤平」・「斐羅丘潤平」・「英善朱手印」を用いた。前二者は本名の、後者はロシアの映画監督の名のモジリである。 ほかに「茉耶紅児」――蕗谷虹児に私淑して――もある由(令妹平岡とし女史談)。

 右に述べた各種各様の作品について、つぎの方針に従ってこの遺稿集の中に編み込むことにした。

〔イ〕散文……稿本「檸檬叢書」二柵は割愛する。残るもののうち、郷土文化にかかわる資料として香高いもので、桑名市史(正・補・別)の補完的意味を持つ作品を主軸として選ぶ。 そして、排列方法は必ずしも執筆年次にこだわらず、主題の系統別に分類し、便宜上「ふるさと風物誌」・「閑想つれづれ」の二部立てとする。

〔ロ〕詩………詩集「茉莉花」全詩を複刻し、さらに活字化されたもので詩集未収録の作品を「詩拾遺」として発表年次順に並べる。

〔ハ〕短歌・俳旬……割愛する。

 移しい分量の作品を限られた枠の中に嵌め込むにあたっては、捨てるに忍びないものの多くあるのは当然である。私なりに心労を重ねたつもりであるが、 潔癖だった平岡さん、無類の凝り性だった平岡さんは、こんな粗雑な編集ぶりを泉下に在って苦い顔して見て居られるに違いない。それを思うと恥かしい。

 「……一本にまとめる位の原稿はどっさりあるんだが、まとめる気になれぬのが残念千万」――これは故人晩年の述懐である。 桑名好古会会報第八号に寄稿するため執筆した「とりとめもないこと」と題する文章の末尾である。昭和50年1月10日という擱筆の日次が記されてある。 同号は残念ながら未刊のままなので、従って、この文章も活字にはなっていない。ご本人は「一本にまとめる位の原稿」と言っているけれども、どうして一本どころか二本、 三本と言って差支えは無い。ご本人白身の編集物となれば一味も二味も違った出来栄えとなったであろうに、「まとめる気になれぬ」まで追い詰めていた身辺の多忙さを惜しむのみである。

 かつて30年以前に檸檬叢書出版の秘かな願いのあったことは、前に述べた通りであるが、こうして最晩年にも似たような心底の一端がたまたま吐露されていることを知って、 感慨は量り知れない。

 「かなづかい」については、新しい準則の出た昭和21年11月を境として、それ以前は旧式、以降のものは新式によって統一できるよう手を入れた。また、 文中、固有名詞を挙げてあらわに鋭く批判の加えてあるあたりは、その表現をやわらかく改めるよう努めた。引用文は、できるだけ原典に照らして正確さを期した。 かような修訂および魯魚の誤の責任は、すべて編集担当者が負うべきものである。(中略)

 資料の収集については令妹平岡とし女史・八田勝則氏・桑名商工会議所事務局長伊藤三郎氏・水谷新左衛門氏・西羽晃氏、原稿の浄書については丹羽智子夫人の労を煩わした。

 表紙題字は水谷苔径氏、表紙絵は八田明代夫人(故人令姪・武蔵野美術大学出身)に染筆願った。また、装幀については、山口幸平氏からいろいろ助言を賜わった。 お三人とも、故人には縁の深い方々である。
 出版基金の面では平岡とし女史の多大のご配慮を得た。

 刊行に関する庶務は前記水谷・西羽両氏のほか安藤隆二・古川興秀両氏にご努カを願った。

 以上の各位に対し深甚の謝意を捧げる。

 この貧しい編集に成る一本が、平岡さんの秀れた個性の側面をわずかながらも伝え、かつは芳霊慰籍のささやかな料ともなり、合わせて郷土文化に寄与できれば、望外の幸である。

51.10.5  編集担当 久徳高文

平岡潤氏遺稿刊行趣意書

 平岡潤氏が桑名市立文化美術館長として現職のまま不帰の客となられて以来、早くも一年の日子が流れました。ご高承の通り、 同氏は黙々として倦まず弛まず郷土史資料の研究・調査・保全に精魂を傾け、桑名地区の文化水準高揚のために生涯を捧げた逸材であります。 桑名市史本編・補編・別巻三部作は近藤杢氏との共同編集ではありますが、平岡氏の涙ぐましいまでの努力無しには到底できあがらなかった輝やかしい金字塔であります。

 この市史編集の過程において同氏の眼に触れた彩しい史実・文献の中から、掘りおこされた知見が200篇近い文章となって美事に結晶しております。 同氏の研究は、単なる骨董趣味に堕するのではなく、一定の文化史観によって裏付けられている所が貴重だと思われます。このことは、かつて青年時代に絵を描き、詩を作り、 自由美術家協会賞や中原中也賞を獲得したみずみずしい素質が、後年に至っても少しも衰えることなく脈打っていたことの証左です。

 ここに、私ども有志相寄り、同氏の数多い遺稿を整理編集して一冊の本に組め、秀でた業績を広く世に顕彰すると共に、 郷土文化の向上に寄与する目的のもとに「平岡潤遺稿刊行会」を作りました。

 何とぞご協力賜わりますよう、お願いします。

 昭和51年11月

平岡潤遺稿刊行会
〒511桑名市京町 桑名市立文化美術館内

平岡潤

『桑名の文化』(1977年刊)より


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