(2019.12.01up / 2019.12.02update) Back
長谷雄京二(1914-1944.10.19) 聯詩集『家』をめぐつて 錦米次郎(1914-2000.2.12)
(1)
昭和十九年三月にすぐれた詩集「家」を出版し中日戦争に従軍してそのまま帰らなかつた長谷雄京二の詩と人間を語ることは、私にとつていま大きな義務のようなものを負わせている。何故ならば、それは詩集「家」の批判をすることが、それが直ちに同時代に生きて彼よりも盲目と愚鈍でしかなかった私自身へのムチとなるものだからである。
彼は昭和十一年頃から、新愛知(後の中日)の編集記者として十九年東京総局に転任するまで、九年ぐらいの間を名古屋でくらした。詩集「家」の諸詩篇はこの期間に書かれた連詩の集成である。全体として題名がそれを示しているように、故郷を遠く離れてしかもそこの家からは、あまり出ることのできなかつた一人の若者の望郷と、それの昇化としての愛国の想いでみたされたものである。
詩集は「家」の項目が二つに別けられており、一つは昭和十三〜十五年代のもの、も一つのものは昭和十七年代の製作となつている。集中にはこのほかに巻頭詩となつた「討ちてしやまむ」や「肚の詩」等の戦争詩篇があり、その他にもう一つ、彼の青春の自我につらなるものとしての童貞篇がある。私としてはこの童貞篇の詩について書きたいのだが、然し彼の残した詩集の比重はいうまでもなく「家」にかけられており、またこの詩集の中の「家」にふれることが、あの時代をおおつた日本の青春の一途な生態を一ばんよく解き明かすことになると思われるからである。
〇
はらからとさかりて土よ
ふるさとに咲きちる花ら
みんなみにみつむる瞳
ははそはの掟に抱かれ
〇
父にささぐ祈り、護り(略、三行)
〇
晴るる眉を母にうけし(略三行)
〇
兄征く朝 道かたらず
たすきの赤 あねむすびし(略二行)
〇
弟よ祈ろう鍬を(弟、義勇軍に征く)
〇
あかき鼻緒がきれかかる
石蹴りし道、とほき屋根(妹嫁ぐ)
〇
いねし子に乳房あたうし(妹文子に)
長谷雄京二には教師の兄と二人の妹と弟とがあつた。家は寺院で寺は教師の長兄がつぐはずであつた。それで彼は中学を終ると名古屋の資本家の伯父の家の養子となる運命にあつた。中学四年で彼はその伯父の許にしばらく住んだが、足袋を履き前だれをしソロバンをはじくそこの仕事に耐えられなかつた。一つにはその伯父の工場と職工たちの労使関係に嫌気がさしたとも云つていた。彼は間もなく伯父の許を逃げだして大正大学に入つた。後に彼の替りに長兄が養子となつた。大学を出た彼は新愛知新聞に入つたのだが、長兄が家を出たので早晩彼が寺院を継ぐ約束が出来ていた。彼はその事を心から喜んでいた。
「家」詩篇(一)にみられるものは、そうした境遇にある彼の肉親たちに対する素朴なふつうどこの家庭でもみられる骨肉愛といつたものが素直に出ている。そうしてこの骨肉への愛は家郷遠く離れた両親と兄弟たちに対する感謝と思いやりの感情ではあるにしても、それが直接的であればあるほど感傷とあまり違わぬところで歌われていることに注意しなければならない。遠く故郷を離れて名古屋にあり、やがては自分が故郷の「家」の主人になるだろうという事実は既定のものではあつたにちがいないのだが、それよりも彼を強くとらえていたものは、まだおのれの思想と化した「家」というものではなく、みられるように感傷的な、あまりにも泪もろい別離の情でしかなかつたとおもわれるのである。
(2)
しかし、「家」詩篇もその(二)、昭和十七年代になると、詩人の家を把握する態度に内面の深い抽象化を経てきわめてはつきりした形をとつて現われてきている。それはその(一)にみられるような素朴な肉親愛としての「家」ではなくて、いわば「家」は日本の氏族社会における基盤であり、あるいは国家を支える支柱としての認識と論理を内蔵し、それがまた暗に伝統の国家観と戦争是認と結びついていくのである。
柱にこぞの雪おもし
はだへを洗ふ古き陽よ
母ある子らは湯を浴みて
花まつこよひ海とほし
「家」詩篇(一)にあっては、詩人の言葉は素朴な日常的直接的な言語であつた。それがその(二)では暗諭化されてきわめて滑めらかに打ち出されているという方法上の相違がある。けれども詩人がこれらの言葉を探し求めて、そこに深めていったところの血肉化した世界というものが、この詩のうらにひそんでいる。それがその言葉自体にも重い蔭を落し、詩人の世界を象ちづける一つの典型として、うつくしくも「家」をとらえ得ているのである。
ここには古代から戦中を通じてつらぬいていたところの、日本人のおおかたの国家観というものが明確に、その背景となつて意打ちされているのがよく読みとれる。詩人はまたそれを別の詩篇で、
ふるき陽の新しき風
あるいは
夜をつらぬく柱あり
とも高らかに歌い上げている。
周知のように、長谷雄京二が「家」詩篇その(二)を書いた昭和十七年という年は、太平洋戦の第二年目の年であり、光太郎の「大いなる日に」や達治の「捷報いたる」、さらに尾崎喜八の「此の糧」が詩壇の脚光を浴びていた年であり、又年代をつまびらかにしないが、長谷雄が参加していた韻律詩運動の先輩である佐藤一英にも「大和し美し」の古典色濃い名詩があつたのもこれらの前後ではなかろうか。社会的には文学報国会の辻詩、壁詩等が旺んになり、大東亜文学者会議というのもつくられた。そうした文学報国の上気している或る年に、長谷雄がその文学報国会の会員になったということを、私は当時の佐藤一英の聯リーフか何かで知つた記憶がある。
日本の無暴な侵略戦争が緒戦における勝利に幻惑され、やがて本土決戦への破滅にまで突入していくその前ぶれの情況をふまえて、長谷雄もまた国家と軍人の運命に似せて悲愴な戦争詩をいくつか書き残している。
〇
充ちたる肚さかるる時
南のたみ酒くみほし
湖みるみるくれない
みつめよ 剣のするどき(16年 「肚の詩」)
〇
火となりて沈みゆくなり
しずけくも轟けるあり
しるすなく大海原ぞ
沈みつつうちてしやまむ(17年 「珊瑚海戦」)
これらの戦争詩にみられるように、長谷雄京二の「家」の発展としてのその戦争観は当時の日本をおおつていた狂気の情勢と完全に歩調を合せながら、何んの疑いも矛盾もなく攻撃と自爆とに無垢な讃美をささげながら、彼自身もまた十九年にはその一兵卒として召集されていつたのである。
(3)
長谷雄京二は人も知るようにその召集まで中日新聞につとめ、しかも編集という重い仕様事にたずさわつていた。太平洋戦になつてからだつたが、何年かは今記憶にないがその間にも帰省してきた彼といつものように寺で会つて久々に話をしたことがある。その時の私の質問は、公式発表以外の情報の有無とその判断についてだつた。その時の彼はあいまいに笑い乍ら報導管制やその他について答えただけのように覚えている。
昭和十八年代の彼の日記をみると、例によって几帳面な書体で山本元帥の死にふれて、「自分もまた立派な日本の記者になりたい」との純な決意を書き記している。おもうにおそらく、当時の長谷雄に敗戦の予想や不安がなかつたわけではあるまい。当然そこには戦況と国際情勢に対する新聞記者の理性や地獄耳があつたにちがいない。このような記者の自由な地獄耳とその判断力を封殺し、どちらかといえば暴走ともいえるような戦争讃美の狂熱にまで一人の若い詩人を導びいていつた、その根本の「家」というものは、一体何であろうかということを私は今も深刻に考えるのである。
私など無知の者は、現地にいつて始めて戦争の惨酷さを体験したわけだが、長谷雄はすでにその教養と職業とによってよく戦争の本質を見抜けるだけの力はもつていた筈である。先にも「詩」第一号に書いたように、長谷雄はすでに大正大学時代に社会や階級を知り、学校教練批判のビラをまいたり、スペイン人民戦線への声援の歌詞をつくつたりしている。そんな彼が後年、情勢と環境の変化からとはいえ、よく戦争の本質を見抜けずに、逆に戦争讃美の詩を狂信とおもえるほどにも書き残していつたのはどう説明したらよいのだろうか。
このような例は、戦争下の日本ではさほど珍らしいことではなかつた。殆んどの日本個人はそうであつたし、さらには最も強靭であるべき前衛党の党員であった者にすら転向があり指導的な詩人にしてからが進んで壁詩や辻詩を書いたのであるから、ましてや長谷雄などのように、「家」というものに最初から憑かれており、そしてそこからしか国家と戦争を引きださざるを得なかつた者にとつては、勇気をもつて分析の眼を人民と階級関係に沈めることは大きな不安と危険がともなつたにちがいない。だからしたがつて戦争の悪についてよりも、より天皇制下の忠実な民として目をつむり、そのささやかな防人の歌詞をつくることでもつて若い青春の火をそれにひたすら燃やすより他には、その情熱の捌け口もみつけられなかつたのだ。
詩集「家」の詩人は十三年……から十九年にわたつて、家から出て「家」にいきつき、そのはてに日本の「家」のもつとも大きな集中としての天皇家を発見したにちがいない。しかしてそれを充分に調べつくすこともできないでいるうちに、その天皇の命令によって召集されていき、はては中国湖南省衝陽県において戦病死したのであつた。
詩人長谷雄京二が提出し書き遺していつている「家」の問題は、敗戦によつて潰滅したかに見えているが事実はそうではない。まだまだ人間よりも「家」が戦後日本の民主化を阻んでいる事例は甚だ多い。そしてそれを根強く温存させようとする古い意識構造が、今日どういう上部機機構の支えとなっているかをこの詩集は改めて私たちに教えてくれている(昭和33年3月 詩誌「詩文学」、昭和41年『風雪の碑(現代詩人協会刊)』再録)