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梁田蛻巌(やなだ ぜいがん)1672 寛文12年 〜 1757 宝暦7年
名は邦彦、のち邦美、字は景鸞。前橋藩家老職の五男として江戸に生まれる。早熟で詩才を発揮、
26才から10年間を加納藩藩儒として世子戸田光煕の教育に当たった。
岐阜に居る間、同僚の多湖栢山と親しく交はったが、田舎の任官生活を喞ち、光煕の藩主就任・松本転封を期に病と称して致仕、
俸給生活を捨てて江戸に帰り帷を下ろす生活に変ずる。
当時まだ卑しまれてゐた性霊派の詩風にいち早く馴染み、放恣な生活を送ったことから「覇儒」と称されるが、
そのため新井白石の門人となるも引き立てられず、また火事に度々遭ふなどして長らく不遇を喞った。
のち将軍交代により白石が退陣すると林鳳岡の門人となり、知遇を得た桂山彩巌の斡旋により48歳にしてやうやく明石藩に召される。
その後は年とともに自ら人格を陶冶して、今関天彭曰く「謙遜な中に相当突っ込んだ見識を養ひあげた一種の人格者」となり、
藩の人々や後進の詩人たちから仰がれるやうになる。
その地に86歳の天寿を全うした。
学は朱子学を主とするも林家・崎門を区別せず陽明学にも理解あり、童心に省みた率直の誠を旨とした。
また仏教・神道・俗文芸にも造詣が深く、詩は典故を駆使する博識を以て唐・宋・明・清の広きにわたり、性霊派から脱却した晩年は盛唐に還った。
百年後、美濃に縁ある詩歴を持つ儒者らしからぬ詩人的性情を敬慕する一人の早熟詩人が、
同じく江戸での游蕩を改悛して改名するにあたって「梁川星巌:やながわせいがん」と名乗ったのは、明らかに「やなだぜいがん」に倣ったものと思しい。
『蛻巌集』
『蛻巌先生文集』(正編)8巻8冊
巻1〜4(詩集の部★)寛保2年(1742年)6月 赤石:流芳閣/有馬屋庄橘,
巻5〜8(文集の部)延享3年(1746年)5月 赤石:流芳閣/有馬屋庄橘
『蛻巌集後編』8巻8冊
巻1〜4(詩集の部★),巻5〜4(文集の部)安永9年(1780年)12月 赤石:有馬屋庄橘/大阪:敦賀屋九兵衛
リンクは早稲田図書館所蔵本の公開データ。
拙蔵本は冒頭に版元断り書きを刷込んだ宝暦5年春(1755)の後刷。詩部★のみ6冊分を3冊に合本。
此の集、初上梓なり。亦た唯だ速成の務にして稿本を以て刻すれば、伝写の謬りまま存す。客冬再校するも魯魚炳如たり。 今また殊に新本を製して発行す。後編もまた緒と成りて鏤版(上梓)遠からざるを知るべき也。四方の諸君、䁈試(試し見ること)を賜はん。宝暦乙亥春 赤石 流芳閣 馬松湾謹識。
「戯欲寒秀山人諧歌集後 寒秀山人の諧歌集の後に戯せんと欲す」管理人所蔵の詩箋
抜去海棠栽芭蕉 海棠を抜き去って芭蕉を栽す
不将穐夕換春朝 秋夕(芭蕉)をもって春朝(海棠)に換へず
快哉惟有聖嘆識 快哉、惟だ聖嘆の識るあらん
好使山牕慰寂寥 好し山牕をして、寂寥を慰めしむ
蛻翁八十一書
宝暦2年(1752)。『諧歌集』は滝野瓢水の俳書(寛延元1748刊)。寒秀山人は別号か。
「聖嘆」は清初の俗文学に偏した批評家の金聖歎。
『蛻巌集(巻四)』では「肯将穐夕換春朝 肯へて秋色をもって春朝に換ふ」と「不」が「肯」に反転しをり詩意不詳。
明石市本立寺(日富美町)の塋域