(2006.7.3up/2009.09.24update)
村瀬藤城 筆跡
曩昔山陽先生之遊于濃、余従之於郡城、乃訪
齋藤招桂者於其別業梅隠亭。時其藩朝
執政謝海公亦倶焉。亭築在其負郭。沿渓流
而行数里得之於翠微處。其四囲山水清廉、栽梅
樹可五六十。余視而羨之。正襟言曰、僕且他日託棲
遅梅花。亦當如此。先生諸公哂之。越廿年後、余遂
剏梅荘于郷北峡。蓋荘広南北五百歩、東西三
百歩、其初移梅也。凡百余株随其樹之大小用力
異之、或自人家籬落。或自渓澗埜田際。訪
求捜索不遺余力、又転購求三千梅苗于浪華
種樹肆。海運経尾張而致之。然初亦莫有
他奇及今而後十年向之移栽者、與苗生者為
皆開花逮其自臘尾至春中人々望之有、氷
峡雪[土+敦]之目其中曽設一草堂、恨峡隘不足
以棲息。今茲丙午買得関邑孫六氏之旧楼
徙而築焉。与彼草堂接續結据楼頗高
敞豁大、於是乎。梅荘之事具矣。余常期日
来此聚同志以講書及其客已散静披所
枕籍琅々快誦、不知自息、往々到日昃樹影
輙覩転欄角也。平日猶然、況乃花時乎
既而独語曰、梅特以少為妙不必較多故
江南駅使贈一枝、何遜官梅上一株、其他及
詩句之所賦或云、竹外一枝斜更好、或云、雪後
園林纔半樹、斯皆梅花神来之境也。故夫
林逋所栽者三百六十樹世或疑其微成俗
趣況於吾之三千梅、無乃有渉清議歟
然亦各従其所好耳。於是乎、回思昔年悦
如一夢、今則梅隠亭廃、先生諸公亦皆下世
独余喜吾宿志之有所成、而歎乎、先生諸公
之音容漠然無見矣。唯謝海公之孫為
今執政環翠公能世其父業与余過従以
其君侯之善大書為余乞之獲、侯署百年
楼三字而見賜。古人曰、居之一年種之以穀、居
十年種以木、居百年来之以徳。今種以木然則
宜署十年。然原其初志之所興起殆乎。四
十年矣。乃今而後培養不弛守之以徳亦不
啻百年而已也。侯之意蓋亦如此然則署
曰百年其孰謂不可哉因書此言為記与
侯署併掲以子孫戒
弘化四年丁未六月九日脱藁於藤城山房中
村瀬褧
曩昔(どうせき:むかし)、山陽先生の濃に遊ぶや、余これに郡城(郡上)に従ひ、すなはち 齋藤招桂なる者をその別業(別荘)「梅隠亭」に訪ふ。
時にその藩朝の執政、謝海公(小出公純)と倶にす。
亭築はその負郭(郊外)にあり。渓流に沿ひて而して行くこと数里にして、これを翠微(緑陰美しきところ)のところに得る。
その四囲、山水清廉にして、梅樹を栽うること五六十なるべし。
余、視て而してこれを羨む。襟を正して言ひて曰く、
「僕もまさに他日、棲遅(隠遁生活)を梅花に託さんとす。またまさに此の如くなるべし。」
先生、諸公これを哂ふ。
二十年を越えて後、余、遂に梅荘を郷の北峡に剏(創:はじ)む。
けだし荘の広きこと、南北五百歩、東西三百歩。
それ初めて梅を移すや、凡そ百余株、その樹の大小に随ひ力を用ふ。
これを異とするは、或は人家籬落よりし、或は渓澗埜田の際よりし、探求、捜索、余力を遺さず、また転じて三千の梅苗を浪華の種樹肆より購求す。
海運は尾張を経て、而して之をいたす。然れども初めはまた他の奇たること有る莫し。
今に及ぶ而後十年にして、向(さき)の移栽せしもの、苗で生えしものとともに、其の臘尾より春中におよび皆開花をなす。
人々これを望む。氷峡雪[土+敦]の目あり。
その中かつて一草堂を設けるも、峡隘もって棲息に足らざるを恨む。
今茲、丙午(弘化三年)関村の孫六氏の旧楼を買ひ得て、徙(うつ)り築けり。
彼の草堂とともに接續し結据楼、頗る高敞豁大、是において(念願の)梅荘の事、具はれり。
余、常に期す。日来、此に同志を聚め、もって書を講ずるを。
その客すでに散ずるにおよび、静かに披く所は枕籍、琅々と快誦し自らやむことを知らず。
往々、日の樹影の昃(かたむ)けば、すちはち欄角に転ずるを覩るにいたるなり。平日なほ然り、況やすなはち花時をや。
既にして独語して曰く、梅は特に少なきをもって妙となす。必ずしも多き故を較べず。
「江南駅使贈一枝」※、何遜の「官梅上一株」、その他詩句の賦するところに及べば或ひは云ふ、 ※(陸凱「贈范曄」折梅逢驛使,寄與隴頭人。江南無所有,聊贈一枝春。)
「竹外一枝斜更好」(『和秦太虚梅花』蘇軾)。或は云ふ「雪後園林纔半樹」(『梅花』林逋)。それ皆な梅花の神来たる境なり。
故にそれ林逋の栽するところのものは三百六十樹、世あるひはその俗趣をなすこと微(すく)なきを疑ふ。況んや吾の三千梅においてをや。
乃ち清議に渉ること有る無からん歟。然れどもまた各々その好むところに従ふのみなり。
是においてや、昔年を回思すれば悦び一夢の如し、今すなはち梅隠亭は廃れ、先生諸公また皆、下世(死去)す。
ひとり余、吾が宿志の成るところあるを喜べども歎かんや、先生諸公の音容、漠然として見るなきを。
ただ(小出)謝海公の孫、今、執政と為り、環翠公能くその父業を世にす。余とともに過従す。その君侯の善く大書せるを以て、余これを乞ふて獲るところと為す。侯、「百年楼」の三字を署し、而して賜はる。
古人曰く、ここに居ること一年にしてこれを種うるに穀をもってし、居ること十年にして種うるに木をもってす、百年居らばここに来るに徳をもってす。
今、種うるに木をもってする。然らばすなはち宜しく十年と署すべし。然らばもとその初志の興る所ほとんど起きんか。四十年矣。
すなはち今而後、培養して弛まず、これを守るに徳をもってすれば、またただに百年のみならず。侯の意、けだしまたかくのごとくしかり。
すなはち署して曰く、百年其れ孰れか不可なりと謂はん哉、因みにこの言を書して記となし、侯の署とともに併せ掲げ、もって子孫の戒めとす。
弘化四年丁未六月九日、藤城山房中において脱藁す。
村瀬褧