Back (2015.11.22 up / update)

村瀬藤城先生頌徳碑

p1 p2

                                      碑陰                                                        藤城の残る勲は今宵も冴へて五十余村を照らす月 戦前の絵葉書より


『村瀬藤城の生涯』 終章「追彰」94-96pより

p3

 村瀬藤城伝成る

 大正六年、時の美濃町長安田公平は郷土の偉人村瀬藤城が一般の人に忘れられ、その伝記も詳かでないのを遺憾として、業績調査と略伝執筆を、 伊藤信(当時・大垣中学校長・漢学者)に委嘱した。さらに藤城遺稿などの資料の撰を、 藤城分家の桜樹園村瀬家の当主村瀬一二三に頼んだ。一二三は藤城の文業継いだ村瀬雪峡の孫(養子)で、当時藤城遺稿のほとんどは桜樹園にあったのである。
 伊藤信はこの関係資料を基として、各方面を調査研究し、遂に村瀬藤城略伝を書きあげたのである。この村瀬藤城伝は後述する藤城への位階追贈のための功績調査書となった。
 昭和十二年、伊藤信は「濃飛文教史」を著作刊行した。この著は、江戸時代初期より、明治維新前後に至るまでの美濃、飛騨二国の文教振興に尽くした幾百の学者文人の業績を集大成した名著である。 この中の村瀬藤城に関する記述は前記の藤城伝そのままであり、約二十頁にわたり、その業績の偉大さを物語っているといえる。

 位階追贈

 昭和三年、昭和天皇即位に際し、諸国の功績者に位階が贈られることとなり、功績調査が通達された。美濃町長は先年、伊藤信による村瀬藤城略伝を功績調査として申請した。
 昭和三年十一月十日、藤城に対し、従五位が追贈された。その位記を受領したのは、村瀬平太郎の子、準一(当時郡上八幡町住)であった。

 藤城類徳碑建設

 昭和四年、位階追贈を記念し、藤城の業績をさらに広く顕彰するために、頌徳碑建設の議が市民間にあがり、これに応じて、町会議員、町内有力者が中心となり、 実現のため「村瀬藤城先生頒徳碑建設趣意書」が全戸に配布され市民多数の協賛を得た。
 昭和五年十月、碑面に伊藤信の藤城功績をたたえた撰文が刻され、小倉公園上段の一角に頒徳の巨碑が建設され、その偉徳が永く仰ぎ伝えられることとなった。
 翌昭和六年、円通寺墓地の藤城墓碑に並べて、「贈徒五位浄巖院藤城宗一居士」の大きな墓碑が市民の協力により建でられた。碑陰に清泰寺住職乾嶺和尚(高林玄宝)撰、 筆の墓碑銘が刻されている。
 さらに、昭和二十一年、乾嶺和尚の努力により、藤城百年忌と遺墨展が円通寺において盛大に行なわれた。


村瀬藤城先生彰功碑

藤城之山巍巍畳翠、藍川之水溶溶拖藍秀霊之気所鍾自生偉人、藤城村瀬先生即其人也、先生即其字士錦称平次郎源姓村瀬氏、世為濃州上有知邑著族、考敬忠為郷 正有徳行、批堀部氏生三子、伯則先生、仲立斎季秋水、先生幼頴敏既長従学善応寺主禅智、後入頼山陽門又請益佐藤一斎、文政之初下帷於藤城山下授徒三十余年 諄諄不倦、時出講書於群城乾山両藩黌、濃中文教蔚然興者先生之力居多、先生襲父職為郷正、平心率民毎有争訟辨析、暁喩衆皆悦服、有陳文範之風、天保中郷民 与鄰邑争渠水起訟、及挺身赴江戸陳辨於幕廷遂得平、嘉永中歳荐荒餞民相率行劫、先生懇諭解散、請発倉賑恤、官嘉賞焉、嘉永六年秋偶罹疾、坐湯但州城崎、九 月三日竟歿於客舎、享年六十四帰葬円通寺、先生学渕源経史、博渉百家、兼善詩文、書法卓成一家夙以頼門高足見推、著有藤城詩文集、二家対策、宋詩合璧等、 性剛毅仁慈、郷党服其徳、敬之如父、 今上登極追褒其遣功、贈従五位、頃郷人胥謀欲建碑、以紀恩、嘱文於余、余嘗為先生立伝、不以不文辤繋以銘曰

学邃経史 才兼経倫 畎畝伝道 振興斯文 以身率衆 闔郷帰仁 茲然遣績 矜式後人 君子之徳 蕩然如春 
従六位伊藤信撰 維時昭和五年庚午十月

藤城の山は巍巍として翠を畳(かさ)ね、藍川の水は溶溶として藍を拖(ひ)く。秀霊の気鍾る所、自ら偉人生る。藤城村瀬先生は即ち其の人也。
先生即ち其の字(あざな)士錦、平次郎と称す。源姓村瀬氏、世(よよ)濃州上有知(こうずち)邑の著族と為す。考(亡き父)は敬忠、郷正を為し徳行有り。妣(亡き母)は堀部氏、三子を生み、 伯(長男)は則ち先生、仲(次男)は立斎、季(三男)は秋水なり。
先生幼くして頴敏、既にして(その後)長じて善応寺主禅智に従学し、後に頼山陽門に入り、又た佐藤一斎に請益す。

文政の初め、帷を藤城山下に下ろし徒に授くること三十余年、諄諄として倦まず、時に群城・乾山両藩黌へ書を講じに出づ、濃中の文教、蔚然として興るは先生の居って力があるの多し。 先生、父職を襲って郷正と為る。平心にて民を率ゐ、争訟有る毎に辨析し、衆を暁喩すれば皆な悦服す。陳文範の風有り。
天保中、郷民と鄰邑と渠水を争ひて起訟す。及ち挺身、江戸へ赴き幕廷に陳辨し遂に平を得る、
嘉永中の歳、荐りに荒れ(饑饉になり)、餞民相ひ率いて行劫(掠奪)す。先生、懇諭して解散せしめ、倉を発(ひら)くことを請ひ賑恤す。官これを嘉賞す。
嘉永六年秋、偶ま疾に罹り、但州城崎に坐湯、九月三日竟に客舎に歿す。享年六十四、円通寺に帰葬す。
先生の学、渕源は経史、百家を博渉し、兼ぬるに詩文を善くす。書法卓れて一家を成し、夙に頼門の高足を以て推さる。著に『藤城詩文集』『二家対策』『宋詩合璧』等有り。
性は剛毅にして仁慈、郷党その徳に服し、之を敬すること父の如し。 今上登極(天皇)その遣功に追褒し、従五位を贈らる。頃(このごろ)郷人胥(あひ)謀り、 碑を建てて以て恩を紀んと欲し、余に嘱文す。余、嘗て先生の立伝を為す。不文を以て辞とせず、繋するに銘を以てす。曰く、

学は経史に邃く、才は経倫を兼ぬ。
畎畝に道を伝へ、斯文を振興す。
身を以て衆を率ゐ、闔郷仁に帰す。
茲に遣績然たり、後人を矜式(きょうしょく)さす。
君子の徳、蕩然として春の如し。

従六位 伊藤信撰す。 維れ時に昭和五年庚午十月。


そのほかの小倉公園内石碑

小倉公園内石碑

年々試筆紀開春
捜索与干字亦新
本命今朝如逢蕾
東風六十一回人
 庚戌元旦  邨聚藤城

年々の試筆、開春を紀し。
捜索す、干字また新らた。
本命今朝、蕾に逢ふが如し。
東風六十一回の人。
 庚戌(嘉永三年)元旦  邨聚藤城

別れの詩碑

頼山陽・村瀬藤城 別れの詩碑

頼山陽
解纜離舟帯酔乗 急難忽過石千層 
酷ェ送我人如豆 挙笠招招呼互応

村瀬藤城 
津頭悵別暁風寒 柔櫓声残岸樹間 
篷窓依約藤城雪 送到藍渓第一湾

頼山陽
解纜して舟離れるに酔ひを帯びて乗る。 急難忽ち過ぐ石千層。 
酷ェ我を送る 人、豆の如し。 笠を挙げて招招と呼び互ひに応ふ。

村瀬藤城 
津頭に悵別するに暁風寒し。 柔かき櫓声残す岸樹の間。 
篷窓、依約(隠微)たり藤城(藤城山)の雪。 送り到る藍渓(長良川)の第一湾。


Back

Top