Back(2004.08.22 / 2009.10.26update)
村瀬藤城先生展墓の記
念願の村瀬藤城、立齋、秋水、太乙ら、所謂「村瀬一族」の墓参を敢行(2004年8月)。
円通寺(臨済宗妙心寺派境内 美濃市俵町)。左奥より丘陵を拓いた墓地へ登る
上り端すぐ右手に、「櫻樹園墓地」として、立齋、および秋水一族の墓石群がかたまってゐる。
もう少し上った右手、丁度本堂裏にあたるところに、藤城(高い石塔の隣)と太乙(手前より二つ目)が眠ってゐる。墓所が離れてゐる理由は、秋水が分家だからだらうか。
また最初に亡くなった立齋と藤城が離れてゐるのも、立齋には名古屋光勝院に墓があるからこちらは後に建立されたものかもしれない。なほ犬山で亡くなった太乙にも、
別に門人が建立した立派な「太乙村瀬先生之墓」が犬山にある(臨済宗徳授寺)。
村瀬藤城(長男)(1791 寛政3年 〜 1853 嘉永6年9月3日 63歳)
「藤城宗一居士」 五代目村瀬平次郎
反対からみたところ。石塔は昭和に建てられたもの。
村瀬立齋(次男)(1792 寛政4年 〜 1851 嘉永4年11月18日 60歳)
「即佛心軒知止道泰居士」
村瀬秋水(三男)(1794 寛政6年 〜 1876 明治9年7月29日 83歳)
「鋤雲軒秋水宗漁居士」
村瀬雪峡(秋水の長男)(1830 天保元年 〜 1879 明治12年8月5日 53歳)
「雪峡宗賢居士(命日等記載なし) 緝典明煕大姉(明治四年十一月二十七日乾山神云昌吾之女)」
村瀬藍水(雪峡の長男)(1861 文久元年12月18日 〜 1892 明治25年2月7日 32歳)
「呉雲軒藍水宗緒居士」
右側面碑文に曰く「君 姓村瀬 名緒 字彤于 號藍水 通称岸太郎 以文久元年十二月十八日 生濃州上有知 雪峽男 秋水孫也 継箕裘
修儒學畫法 游于佐藤牧山根本通明之門 弱冠航清國 就蘇州鴻儒戴楊栢 學四年 業成而歸 名聲日徧 欲下帷於東京 而未果 明治二十五年二月七日罹病
而逝 亨年三十二 嗚呼哀哉 族弟村瀬皓白石撰 南巖中川衡憲書」
また墓石の礎に曰く「村瀬氏世々以詩文書畫名聲聞于四方 藍水君有大志不事家政 明治十三年三月以後家政委于村瀬立齋林五郎西部金兵衞鈴木市郎兵衞篠田
祐治郎西部栄治郎之六氏 君以翰墨漫游于東都 于時明治廿四年仲秋 偶伏枕未果所欲五閲月而没 姉妹一弟皆夭故無承後者 因親戚相議而名府村瀬立齋氏之妹
田鶴子之孫使章君継後系 西部鈴木之両氏爲後見 亦篠田祐治郎西部栄治郎氏輔之 君家已無絶六氏相議而興亡拾[廃]事甚盡其功偉大也 君乑之得此人委此事
者爲乎 村瀬家之不得[謁]幸福予感美之餘 聊記一言君家使後裔輩知此事爾云 凌雲山樵[香]勤撰並書」
村瀬太乙(藤城の伯母の孫)(1804 文化元年 〜 1881 明治14年7月3日 79歳)
「獨尊院直指無心居士 安室智泰大姉(明治25年6月25日80歳)」
境内見取図(数字をクリックして下さい。)
【おまけその1】
上有知(こうずち)湊
かつての美濃の玄関口。山陽を迎へ別れたのもここ。常夜燈の銘は文政十一年。
湊より下流を望む。
湊ばたに建つ、山陽・藤城の賡酬七絶を刻んだ詩碑。
【おまけその2】
村瀬藤城生家(屋号:十一屋)跡(美濃市常磐町)
哀れ、生家は慶応四年(明治元年)の大火災以来何ものも留めず。両隣は明治期に再建したのかな。
南を俯瞰
北を俯瞰。藤城山(奥)を望む(別名、鉈尾山、古城山)。