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小原鐵心(おはら てっしん)
(1817 文化14年 〜 1872 明治5年)
左:合冊本(管理人蔵) / 右:3冊本(岐阜県図書館蔵)
『亦奇録』
(えききろく)
小原鐵心、野村藤陰、菱田海鴎、菅竹洲
上、中、下 慶應3年序, 1冊. (初刷りは3冊) [京都:福井源治郎刊]
18.0×12.1cm 和綴
松平春嶽 題言
「天地眉間に落ち一言にして俗士を驚かす 達人にして大観、往々かくの如きのみ」
扉(岐阜県図書館蔵)
承前 / 序 鴻雪爪
承前
承前
承前
刻亦奇録序
茫々たる宇宙、誰か将に知己となさんとす。鉄心大夫こそその人なり。このごろ亦奇録三巻を寄す。けだしその東役の記なり。
首(はじめ)に「天地眉間に落ち」の一語を置く。而してこれを読めば大言味なき者の如し。細かに嚼すれば則ち五味みな具はる。能く兀々の山、
滂々の海をして一々大光明を放た使む。何等の落想ぞ。吾れ徒(かち)にて常に山川を跋渉してその跡を問へば則ち雲行き水流れ一味蕭然たるのみ。
安んぞ此の若き大滋味を得んや。願はくば此の書、徒(いたづら)に之を篋底に蠹(むしば)ましむべきに非ず。因って竊(窃ひそか)に剞劂氏に授けて之を公にす。
以て方今の蓬頭突鬢の者をして此の大滋味を味は使めんと欲するなり。而して竊かに之を刻する罪、老僧甘んじて一百五十の烏藤を喫せん※のみ。 ※意味不詳
慶応丁卯(3年)季春(3月)
越山雪爪道人識
【上巻】
(前書き)
鐵心曰く。慶応二年丙寅春三月。余命を奉じて将に江戸邸に祗役せんとす。野藤また召さる。澤埜・筑間二生従ふ。菱海鴎、菅竹洲
承前
すなはち奥の松島に遊ぶ意あり。乃ち拉して偕に東す。桃壺禅師、尾の名古屋に赴くに、また同じく程を上すを約す。抑も余の江戸に赴く已に十三度、然れども未だ嘗て一たびも風流韻事に関する者有らず。
但だ此の行、一時の文友数名を拉して往く。時は多故に属すると雖も、同じく東海の山川を歴観すれば亦奇ならずや。因って諸子に語りて曰く、更番(かはるがはる)此の行を輪記して、
以て一時の奇遊を誌さん、如何と。みな曰く是れ亦奇なるかなと。仍りて此編を名づくるに「亦奇録」と曰ふ。
[鐵心] 3.26
三月廿六日。暁城門を出づ。澄晴秋の如し。桃壺禅師と与に聯歩す。逸思勃発。余、師の肩を打って曰く「天地眉間に落つ」と。師、答へて曰く「眼華(くもり)なし」と。
相ともに大笑を発す。佐渡(さわたり)に抵(いた)る。送る者陸続追ひ至る。余、慰労して之を去らしむ。洲股(すのまた)駅を経て小越(おこし)川に到る。蘇峡(木曽川)の下流と為す。平沙、奇にして白し。湛ふる流れは瑠璃碧の如し。
麗景、掬すべし。午に近く四谷に憩ふ。酒を命ずも薄醨、口に上らず。饂麺を食べて去る。
琵琶橋を上る。忽ち光彩雲外に閃く者を見る。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、先づ一奇語を著す、人をして快然たらしむなり。)
承前
云はゆる名古屋城の金鵄尾なり。城下を過ぐ。鷲津毅堂を訪ふ。歓迎して酒を置く。平野泥江、森春濤、先づ在り。丹羽、内藤、藤岡の三士および僧円桓また継いで至る。
縦(ほしいまま)に談じ觴を飛ばす。時に泥江豊原生と謀り、余の為に舟を堀川に艤(舟を雇ふ)す。毅堂曰く、「藩禁有り。舟を同じうし得ず。君しばらく留まれ」と。
余、乃ち携ふる所の巨玉巵を出し、自ら酌むこと三たび、而して之を属す。即ち辞去せんと欲す。毅堂また(杯を)満ち引いて連酌、忽ち大酔ひす。興に乗じて同(とも)に門を出づ。
蹣跚(よろよろ)として橋に到る。余、之を留めて曰く、「止めよ、止め」。毅堂大声で曰く、「朋友の誼は重し、瑣々たる禁、何ぞ意(臆)するに足らんや」と。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、毅堂の酔状画の如し。
小橋橘陰云ふ、酔語に翻って真を見る。これ乃ち毅堂の毅堂たる所以なり。謂ふなかれ狂奴を発すると。故態の語言もまた狂なり。)
春濤ひとしく要して遂に止む。纜を龍口に解く。内藤、岡の二士および泥江、春濤、円桓、同に舟に入る。饗具備はる。潮まさに落つ。舟の行くこと太だ駛し。
橋を過ぎること七つ、始めて市廛を離る。日すでに瞑し。平流空を蘸(ひた)す。E漫(びょうまん)際なし。左顧すれば紅燈満点、波上に羅列す。是れを宮駅の妓楼と為す。
恍として秦淮呉江の想ひ有り。㟁(岸)に達すれば則ち郷人数名、預て此に来りて出迎ふ。延いて城州楼へ上る。楼上盛んに酒肉を陳らね、妓十余名、粧を凝らして坐せり。
この醼(宴)頗る俗套に墜つ。然れども旅楽の余狂(興)、必ずしも問はざるなり。桃壺師また能く其の興を同じうす。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、桃壺、毅堂以下十余名、みな余の旧識の士なり。故に之を読めば恍然、その舟を同じくしその座に陪するが如し。然れども大夫の才筆に非ずんば、
また必ず此の如き委曲生動は得ざらん。敬服。敬服。)
承前
江崎、林、山田の三士、南洲、隣城二僧、来り見(まみ)ゆ。連(しきり)に書を乞ふ者あり。紙絹、堆を成す。余、酔ひに乗じて十数幅を揮灑(きさい)して之を藤陰、海鴎に付す。
二子また数紙を書す。余、既にして(やがて)倦めり。楼を下り枕に就く。楼上なほ歌舞、狂ふ如き者有り、疑ふ、竹洲、竹堂の徒かと。
(鼇頭評:また云ふ、余韻嫋嫋。)
海鴎曰く、是の日、傍嶋良仲、千秋老泉送り小越川に到る。遊思頓に生ず。陪行して横港(横浜)を観んことを願へり。大夫(鉄心)曰く「善し」と。乃ち拉して東す。亦た一の奇なり。
[藤陰] 3.27
廿七日陰(くもり)。江崎、林、山田の三士および三詩僧ら来りて飲み別る。大夫復た揮毫す。以て昨夕の責を塞がんと欲す。乞ふ者なほ多し。終に了する能はず。日、高ければ乃ち発せり。
笠寺に抵る。観音大士の啓龕(御開帳)に会す。道傍、白布を竿頭に掛くる、連亘(つらねること)十数丁。幾百匹(1疋=10銭)を費せるか知らず。けだし仏氏の云はゆる「縁縄」なり。
ああ、此の施仏の布を移して、緒(これ)を窮乏の氏に典(與?)ふれば、其の功徳と為る、如何(いかんぞ)や。
(鼇頭評:小橋橘陰云ふ、(ご大層な)経綸に満腹なり。事に触れて露出する、此の言、謔と雖も、また其の(生真面目な)本色を見る。)
晡(ひぐれ)時、岡崎駅に投ず。雨。郷人石原、子安、馬渕ら送り此に到る。大夫および諸子を隣楼に邀(むか)へ飲む。餞、頗る豊かなり。
承前
駅妓七八名来て、酒を侑(すす)む。皆な醜面、[犭冗]さるの如し。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、藤君の沈黙君子にして忽ち此の冷語を著すは何ぞや。けだし能く口は黙るも未だ筆は黙れずか、是れまた一奇と謂ふべきなり。)
鉄心曰く、尾参(尾張・三河)の間、土、沃にして田野或ひは蕪なるもの有り。余、其の由る所を考ふるに、方今、駅路の負担、酷(はなは)だ繁し。官、車運を許す。
けだし車賃は稼穡に倍せり。小民すなはち競って之に赴き、力を農に専らにせず。故に然るか。近くは吾が洲もまた将に此の弊有らんとす。勢ひこれを如何ともし難し、ああ。
(鼇頭評:小橋橘陰云ふ、横浜開港以来、関左(関東以西)諸州往々にして田圃を廃し、桑もしくは茶を植う。末を趁(追)ふの風は盛んにして本を務るの民は少なし。
一旦凶歉(きょうけん:凶荒)に遭へば比戸沮飢、識者は憂ふ。而して官は之を禁ぜず。誠に大夫をして之を覩せしめば、其の歎くところ何ぞ翅(ただ)に輿丁・担夫の一瑣事のみならんや。
小野湖山云ふ、録三郎は吾が藩の才子。此の夜、来ること遅くただ一謁を通ずのみ。未だ其の技倆を呈さず、惜しむべし。)
[海鴎] 3.28
廿八日。風雨峭冷。綿衣を御(徴?)せんと欲す。御油駅に抵る。飯。此の州は昭祖(家康公)の豊沛(劉邦[天下人]の出生地の謂)に属す。雲木を顧眄すれば、人をして粛然、敬を起こさしむ。
晩に吉田駅の逆旅(げきりょ:宿)に投ず。小野湖山、先づ在り。即ち佳餞を進む。酒は極めて冽(清冽)、丹醸(伊丹の酒)の如し。香石、杜堂、泉石ら継いで至る。湖山、
大石良雄手制(製)の杯を出して大夫に奉ず。詳らかに其の由を説き、詩を徴す。徴、吾輩にも及ぶ。皆な諾す。時に諸子、大夫の書を索めて甚だ力(つと)む。湖山曰く、
「額二、聯一のみ敢へて揮洒を乞ふ、余りはみな之を他日に付して可なり」と。大夫すなはち書す。少頃(しばらくして)藩士関根録三郎、浜松より移る。(自分の)家に入らずして(直接)
来たりて見(まみ)ゆ。医、辻村泰介また蒼黄(倉皇)として謁を執る。
承前
泰介、旧識と為す。偶(たまた)ま診(往診)に赴いて在らず、故に来ること遅きと云ふ。既に飲むこと闌(たけなは)。泰介、大夫を紅楼に招きて以て春宴を張らんことを請ふ。大夫、辞す。
泰介、百方相ひ惥(すす)む。然れども夜深きを以て赴かず。終夜雨声竹に灑(そそ)ぎ、燈火蕭然として禅の如し。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、此の夜、余、逆旅の主人に命じて一妓も出づるを容さず。けだし予て「醜面、[犭冗]さるの笑ふが如き」の有るを知ればなり。泰介は豈に能く之を知らんや、呵呵。
また云ふ、(鉄心の)末尾二句を読むに、(かつて)泰介の請ひ招きし者を忘れざるを似(しめ)す。如何?)
藤陰曰く、余は良仲、老泉らと同に雨を衝いて連行一里。豊川を過ぎて一巨刹に至る。堂宇は宏壮、傍に稲荷祠を置く。神に賽する者、相属す。我が意は謂(おも)へらく、 此の地は勝区(趣きある所)ならんと。乃ち一俗地のみ、失望甚だし。是の日冷気人を襲ふ。旗亭に憩ふ。酒を挙げること数爵、温を取りて即ち去る。風雨、滋(ますます)暴れ、村落泥濘。 澤野生、仆れるは三度。皆崎嶇として過ぐ。昏に及びて逆旅に達す。簑衣を脱すれば則ち衣袂みな湿せり。
鉄心曰く、湖山の男(息子)、亥之吉。鷲津氏の塾に在り。余、拉して東して(浜松の)二親に省せしむ。是の夜、(私の)逆旅に来て寝ぬ。余、之に謂ひて曰く、
「二親在り、汝の(ここへ)来るは何ぞや」。曰く、「僕、大夫に送られて至る。今、二親に見(まみ)ゆ、実に望外の事なり。然るに学業は未だ成らずして数(しばしば)省するは是れ二親の喜ばざる所。
僕また之を愧づ。明朝、直(ただ)ちに西せんのみ」と。
承前
余、此の言を聞きて甚だ之に感ず。時に亥之吉は年十六。他日の成業、是に於いてか見(あら)はれん。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、亥児、愚魯にして其の成立いまだ知らず。幸ひに大夫の一言を得。記して以て之を警むるのみ。
小橋橘陰云ふ、故人(わが友人)、寧馨児(神童)有り。以て遥かに想ひを慰むべし。恐らくは幼にして聡慧の者、必ずしも智ならず。幸ひに頼君の調護(養生)天下の威器と成るを得。
二親を論ずるなかれ。吾輩は一二の父執(ふしゅう:父の友達)と雖も、また深く其の恩を感ずるなり。伏して忽(ゆるが)せにする無きことを請ふ。)
[竹洲] 3.29
廿九日、質明(黎明)稍(やや)霽る。桃壺禅師に別れ発す。行くこと一理許り。道の右に一丘有り。全身みな巌。巌上、大士(岩屋観音)を安ず。二川(ふたかわ)白須賀(しらすか)二駅を過ぎ観潮阪(潮見坂)に抵る。
右顧すれば則ち水天一碧。杳として畔涯を見ず。響き有りて殷雷の如し。所謂「遠州七十五灘」是なり。路は海に随ひて転じ、新井(新居)駅と為す。関有り。伝符を投じて過ぐ。
高須某、書を乞ふ。大夫首肯して舩に入る。此の間、江山佳絶。然れども烟靄、富峰(富士山)を秘す、恨むべし。少焉(しばらくして)西風起こる。蒲帆、飛ぶが如し。茶頃、舞阪駅に達す。
是より平行三里。軟沙、鞋を没す。浜松駅に投ず。是の夕、井上侯の家士、名倉予何人(なぐらあなと)来訪。乃ち酌す。名倉氏、けだし洋学生なり。五年前支那に入り、三年前仏蘭西に游ぶ。頗る奇話多し。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、名倉氏、また一奇士。此の夜の会、実に余興に出づるは、録三郎の一封書なり。竹洲は目するに洋学生を以てするも、未だ其の人の(伎倆の)尽くさざるを似(しめ)す。惜しむべし。)
[鐵心] 3.30
晦(みそか)。早く浜松駅を発す。轎中、鼾睡。天竜川に抵りて始めて覚む。
承前
日すでに三竿(高い)。左折して捷路を取る。余、かつて此を過ぐ。水災後に会す。田野荒蕪、飢民路を填め憐を乞ふ客に吼える犬の如し。時に中泉の県令、林猪太郎と為す。読書人にして余の旧識なり。
乃ち裁書(書簡)して其の状を告げんと欲す。また再び之を思ひ遂に告げずして去る。今を距つことすでに十年許り。(今、)麦は秀で民、潤ふ。其の治、此の如し。以て旧感を消すに足る。
(鼇頭評:小橋橘陰云ふ、一目惨然、再読に忍びず。鄭侠(が描いたところの)「流民の図」、何を以てか之を過ぎん。大夫の告げずして去るも、想ふに、必ずや式微(治世衰退)の詩を誦し、
之が為に慨きを発すと。)
数駅を過ぎ、日坂嶺(にっさかとうげ)を踰(こ)ゆ。老泉、岩肩に立ちて墨斗を出し、図を作すを見る。
異にして頭を擡げるは。則ち八耳の芙蓉(富士山)。群巒、嶂を攅(あつ)める上に屹然たり。余、かつて謂へる望嶽の妙、箱根観岳坪を第一と為す。
之に次ぐものは即ち此なり。然れども此は則ち大堰洪流を隔てて之を望ず。是また彼に無き所。未だ遽(には)かには優劣を易(変)へざるなり。
(鼇頭評:小橋橘陰云ふ、確かに説は易へるべからず。余、またかつて此を論ずる有り。今、大賢の言符に与り益々の自信、それ腐言に非ずと。)
坂を下って磧を過ぎ、大堰津(大井川)に到る。水勢、常に比して稍(やや)張る。然れども歩きて渉るべきもののごとし。先輩、往々にして梁を架ける説有り。余は則ち取らざるなり。
先師齋藤拙堂曰く、「舟すべきは橋するべからず」と。信(まこと)に然り。夕陽、嶋田駅の逆旅に達す。
(鼇頭評:小野湖山云ふ、竹山翁(中井竹山の)石橋の策は迂に似たり。然れども其の説の東西警報の不便は予言の如し。今日の時事の者、大夫以為(おもへ)らく何如(どうなのか)。
(その)言、必ず先師を称す、また以て其の人品を見る。)
竹洲曰く、僕、中泉を過ぎ野口流霞を訪ふ。歓待、書画を出して鑑(定)を乞ふ。流霞、大夫の枉駕を望むこと日、久し。然れども大夫行程の期有るを以て赴かず。
承前
海鴎曰く、良仲、旗亭を見る毎に輙ち酒を命ず。是の日、飲むこと五七回に及ぶ。或は鰻鱺(うなぎ)を食ひ、或は餺飥(ほうとう)を食ひ、
或は山路最も険しき処に到って戯れに青年輩と先を争って疾駆す。而るに齢はすでに六十を超ゆ。其の健、驚くべし。
[藤陰] 4.1
[海鴎] 4.2
[竹洲] 4.3
承前
承前
[鐵心] 4.4
承前
[藤陰] 4.5
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
承前
[海鴎] 4.6
承前
承前
【付録】 [鐵心] 将発留別諸友 / 名府訪鷲津毅堂居。泥江春濤等先在
自堀川抵宮津舟中。与諸子同酌。賦謝泥江 / 途上別桃壷禅師 / 嶋田駅逆旅主人出蜀道難図一幅乞題。即執筆書其上 / 函嶺絶頂作
観海有感二首 / 横浜港 / 入都
[藤陰] 荒井 / 浜松途上望不二峰 / 宮下
又 / 自宮下抵三枚橋途上口占 / 又 / 又 / 棘鬣魚歌
横浜
[海鴎] 将東遊。謁先考墓 / 留別家兄
諸友送到佐渡遂別 / 入尾途上 / 名古屋。訪鷲津文郁 / 舟下堀川到宮津 / 桶峡
吉田駅逆旅。与横山湖山飲。関根辻村諸子亦至。偶有此詩。湖山預買美酒而待 / 途上与桃壺禅師別。即賦以呈 / 春望 / 興津駅飲海楼 / 是夜不寝
薩陀嶺下作 / 箱根山中偶感 / 嶺上作
【中巻】
鐵心曰く、余都に入る也。(藤森)弘庵(高島)秋帆既に没し。(大槻)磐溪は則ち東し。而して(横山)湖山は参(三河)に之き。
(鷲津)毅堂尾(尾張)に之く。旧社寥落、懐ふに介然たる無きかな。乃ち年少輩と十日もしくは五七日を限って
更番(かはるがはる)で日録を為す、亦聊か興を遣るのみ。其事、世の奇と為さざる所は、乃ち我の奇と為す所なり。故に復た名づくるに「亦奇録」と曰ふ。
[鐵心] 4.7 4.8 4.9 4.10 4.11
承前 4.12 4.13 4.14
承前 4.15 4.16
[藤陰] 4.18
承前 4.19 4.20 4.21
承前 4.22 4.23
承前 4.24 4.25
承前 4.26
[海鴎]
承前 4.27 4.28 5.1 5.2 5.3 5.4
承前 5.6 5.7
[竹洲] 5.8 5.9
承前 5.10 5.11 5.12
[鐵心・海鴎] 5.13
承前 5.14 5.15 5.16 5.17
承前
承前
承前 5.18
承前
[藤陰] 5.19
承前
承前
承前 5.20
承前 5.21 5.23 5.24
[海鴎] 5.25 5.26 5.27 5.28
承前 6.1 6.2
[竹洲]
承前 6.3 6.4
[鐵心] 6.5 6.6
承前 6.7 6.8 6.9
承前
承前
【付録】 [鐵心] 謁公於正寝。有特命。退後恭賦四韵二首以奉呈
題自画墨梅二首 / 読万国公法三首 / 詠白。一字到底五十韵
承前
五月二十九日。与諸旧友飲別不忍池亭。二首 / 贈高岡哲夫在軍於藝州序
承前 / 与李遂川
承前 / 死生説
承前
[藤陰] 廨舎竹 / 寄懐清客潘脩儂
望月有感 / 晤木下逸雲 / 養蚕 / 題画 / 象図
承前 / 虎説
月喩
承前 / 物価論
承前
承前 / [海鴎] 客中偶感 / 贈清客李遂川老兄。兼似蔡伯良労梅石諸子
学古楼集。贈鳥居圭陰君 / 書感示社友 / 舟中有感
大風雨中観海 / 所見 / 草書歌奉呈泥翁公(高橋泥舟)
虎説 / 月喩
承前
[竹洲] 虎説
【下巻】
鐵心曰く、我公、台命を奉る。急ぎ京に赴かんと欲す。六月十日を以て江都を発す。
野藤陰之に扈(従)す。予則ち一駅後れて発馬す。菱海鴎菅竹洲は松嶋へ遊ぶの計遂に沮まる。みな倶に西せんと欲す。然れども山水の念未だ絶てず、
是に於いて海鴎、筑間生を携へ先に発す。榛名妙義の奇を探ね、竹洲は単歩甲州に入り、而して富岳の奇を叩き、以て其の勝を記す。余と藤陰は則ち路を東海に由る。
復た山川記すべきは無く、故に余は本朝の史を摘し、藤陰は漢土の事を拾ふ。十日間、各詩論十篇を吐き、以て日録に挿む。事、腐きに出ると雖も馬上に史を論ず、亦奇とならざるを得ざる也。
仍って此の三奇を合せて下巻と為し、亦復名づくるに「亦奇録」と曰ふ。
[鐵心] 6.10
承前 6.11
承前 6.12 6.13
承前 6.14
承前 6.15
承前 6.16
承前 6.17
承前 6.18
承前 6.19
承前 6.20
[藤陰] 6.10
承前 6.11
承前 6.12 6.13
承前 6.14 6.15
承前 6.16
承前 6.17 6.18
承前 6.19
承前 6.20
[海鴎] 6.4
承前 臨別似藤陰竹洲二兄 / 客舎 / 6.5 6.6 6.7
承前 途上三首 / 所見二首
承前 金剛院 6.8 路上 6.9
承前 妙義祠 / 金洞山二首 / 岩高寺席上似看守某生 / 上大日峯二首
承前 宿岩高寺 6.10 碓氷嶺 6.11
承前 大霧有感 6.12 和田嶺 6.13 入蘇峡
承前 所見 / 鬼淵台有懐鉄心大夫 / 途中偶感 / 駅楼思郷 / 偶述示筑間生
承前 到天龍駅 6.15 奉寄懐鉄心大夫 6.16 途上
承前 与桃壺禅師対月 6.17 6.18
承前 酔後賦七律一首 6.19 6.20
頭註に小野湖山、小橋橘陰、大沼枕山、(以上上巻) / 土井聱牙、鷲津毅堂、鴻雪爪、(以上中巻) / 宮原潜叟(節庵)、南摩羽峰、小野湖山
主たる登場人物について
野村藤陰 : 拙サイト
菱田海鴎 : 徳田 武 先生
「菱田海鴎と大垣詩壇(「明治大学教養論集」)」
菅 竹洲 :名は喬。通称巣二。江馬金粟とおなじく大垣市竹島町に住み、書画文具商を営む。『大垣藩の洋医 : 江馬元齢』75pより。