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角田錦江(1803享和3年 〜 1884 明治17年)
名は炳、字は文虎、通称春策、錦江と号す。美濃笠松の儒者。郷塾「喬木塾」を経営。著書に『國史千字文』『詠史絶句』および遺稿集『錦江遺稿』未刊の詩稿『東遊詩草』そのほかがある。
掛軸 (2006年6月購入 村瀬太乙と合作) 角田錦江展(2007 年3月1日 〜 3月30日 於笠松町歴史民俗資料館)
『錦江遺稿』
(きんこういこう)
昭和15年9月19日 不破義信(名古屋)刊行
23.7cm×114.6cm 2冊 和綴じ帙 \非売
第一冊(上巻) 表紙
扉 1 2
序 1 2
肖像
詩碑・墨蹟
墓碣銘 1 2
錦江角田先生墓碣銘
従三位勲三等小崎利準題額 正六位依田百川撰
余嚮著譚海載奇人逸士事蹟以爲隠君子修道篤學者世不必無其人不少概見何也頃遊京師与諸名士交必問之至岐阜県令小崎君余舊友也亦問之令曰吾角田錦江蓋其人也
因爲余言錦江名炳字文虎称春策錦江其号美濃笠松人父道立業医兼以儒術教授子弟翁爲人孝謹質愨幼以善事父母聞又好學不倦年十五代父講読屹如老成人異之十九喪
父而母亦盲未幾歿翁奉養哀毀並盡其禮兄貧而多子家計屡乏翁竭力周給隣里莫不稱其コ者天保年間美濃郡代野田某状之幕府賞賜白金三枚蓋異数也翁既以コ行學問著
名遠邇弟子従遊者数百人城主成瀬君欲聘爲文學翁辭不出固請乃月一次入館講書旋辭罷中興時君亦薦之尾張藩翁亦辭不出謂人曰吾身多病且野人不嫻禮節何以仕爲鳴
呼当時朝廷列藩急於用人士少解文字者奔赴恐後或以迂闊見斥或以輕譟得罪至甚有身負時名以貪墨敗者然則翁之不出過人一等矣令在官十数年爲部民所信然未嘗妄許
可人基言如此可以知翁爲人也翁以享和三年十一月二十八日生明治十七年十二月廿九日歿得年八十二翁温厚長者嘗謂人曰身在僻陬不得良師世謬稱先生吾亦漫應之諺
所謂無鳥島蝙蝠耳 非農非商妄窃儒名飽食煖衣實聖世恩澤也其謙遜類此配竹中氏生三男二女長節嗣叔律出嗣斎木氏季操出嗣加藤氏長女適原氏次適広間氏節葬翁邑
之盛泉寺先塋之次乙酉六月遣人至岐阜客舎求余文余適嗣稿譚海聞翁事大喜將著于篇况於有請乃次第其行状及所聞爲之銘曰
立乎亂離之間者不免篤行流爲郷愿節義變爲客氣嗟呼先生不縻於官不繋於餼晦跡韜名爲世所貴コ崇而操貞令譽不墍嗟予後生何辭乎費
明治三十二年六月建 正七位勲六等半澤忠雄書 根木市蔵刻
錦江角田先生墓碣銘
従三位勲三等小崎利準題額 正六位依田百川撰
余、さきに『譚海』を著し、奇人逸士の事蹟を載せ、おもへらく、隠君子にして道を修め学の篤き者は、世に必ずしもその人なしとせざるに、少なくして概見せざるは何ぞやと。
このごろ京師に遊び、諸名士と交はるに必ずこれを問ひ、岐阜に至る。県令小崎(利準)君は余の旧友なり。また之を問へば令の曰く、「吾が角
田錦江はけだしその人なり。」 因りて余の為に言ふ、
錦江、名を炳。字(あざな)を文虎、春策と称す。錦江はその号、美濃笠松の人なり。父、道立は医を業とし、兼ねるに儒術を以てし子弟を教授す。翁、人となり孝謹、
質愨(シッカク:かざりけなくまこと)、幼くして善く父母につかふるを以て聞こえ、また学を好んで倦まず。年十五にして父に代りて講読し、屹 (キッ:いかめしい)として老成したる如し、
人これを異とす。十九にして父を喪ひ、しかうして母また盲ひ、未だ幾ばくならずして歿す。翁の奉養、哀毀(ア イキ:痩せるほど悲しみ)並びにその礼を尽くす。兄、貧しく、
しかうして子多く、家計しばしば乏し。翁、力を竭(つく)してあまねく給し、隣里もその徳を 称せざる者なし。
天保年間、美濃郡代の野田某(第22代郡代野田斧吉)、これを幕府へ(書)状にし、白金三枚(銀30両)を賞賜す、けだし異数のことな り。
翁、既にして(やがて)徳行学問を以て名を遠邇(エンジ:遠近)に著す。弟子の従遊する者、数百人なり。邑主成瀬君(犬山藩主)、聘して文学となさんと欲せしが翁、
辞して出でず固請(しきりに請ふ)す。すなはち月一次、入館して講書す。旋(やが)て辞して罷(や)む。中興(明治維新)の時、君(犬山藩主)またこれを尾張藩 に薦むるに、
翁また辞して出でず。人に謂ひて曰く、「吾が身、多病かつ野人にして礼節に嫻(なら)はず。何を以て仕ふるをなさんと。」
ああ、当時の朝廷 列藩、人士を用ふるにおいて急にして、少しく文字を解する者は奔り赴き、後(おく)るることを恐る。或ひは迂闊を以て斥(しりぞ)けられ、或ひは軽譟(うるさい)を以て罪を得る。
甚しきに至りては、身は時名を負ひ以て墨敗(ボッパイ:収賄)を貪る者あり。然らば則ち翁の出でざるは人に過ぐること一等なり。令官に在ること十数年、部民の信ずる所となる。
然れども未だかつて妄りに人を許可せず、言に基づくこと此の如し。以て翁のひととなりを知るべきなり。翁、享和三年十一月二十八日を以て生れ、明治十七年十二月廿九日歿す。得年、八十二なり。
翁、温厚の長者にしてかつて人に謂ひて曰く、「身は僻陬(ヘキスウ:田舎)に在り良師 を得ず、世、謬まって先生と称す。吾また漫りにこれに応ず。諺にいはゆる“鳥なき島の蝙蝠”のみと。
農にあらず商にあらず妄りに儒名を窃み、飽食煖衣、実 に聖世の恩沢なり」と。その謙遜、此の類ひなり。
配(妻)竹中氏は三男二女を生む。長(男)は節は嗣(つ)ぎ。叔(次男)は律、出でて斎木氏を嗣ぐ。季(すえ:三 男)の操は出でて加藤氏を嗣ぐ。長女は原氏に適(ゆ)き、次は広間氏に適く。
節、翁を邑(むら)の盛泉寺の先塋(センエイ:先祖の墓地)の次(となり)に 葬る。乙酉(明治18年)六月、人を遣り岐阜客舎に至らしめ、余に文を求む。余、適(たまた)ま稿を『譚海』に嗣ぐ。
翁の事を聞き大いに喜び、まさに篇を著(あらは)さんとす、况んや請ふあるにおいてをや。 乃ちその行状及び聞く所を次第(順序だてを)し、これが銘をつくりて曰く、
乱離の間に立つ者、篤行流れて郷愿(キョウゲン:世渡りのうまい村の偽善者)となり、節義変じて客気となるを免れず。ああ先生、官に縻(つなが)れず、 餼(キ:扶持米)に繋がれず、跡を晦(くら)まし名を韜(つつ)み世の貴ぶ所となる。徳崇(たか)く、しこうして操は貞(ただ)しく、令誉(レイヨ:ほまれ)墍(ぬ)られず。 ああ予、後生、何の辞か費やさん。
明治三十二年六月建 正七位勲六等半澤忠雄書 根木市蔵刻
碑は現在笠松中央公民館南庭の南端に移動され現存。353cm×215cm(下端)
目次 1 2
序(村瀬太乙)
詠史絶句 自序 1 2 3・・・跋1
2
國史千字文 序 自序 1 2 3・・・
終
東游詩草 1 2 3・・・ 奥付
第二冊(下巻 86,4,2,5丁) 表紙
序(加藤一)
錦江先生七絶初集 1 2 3・・・ 終
梧齋小稿 1 2 3・・・ 終
梅花百絶稿 1 2 3・・・ 終
続楽国雑詞五十首 1 2 3・・・ 終
碑文其他 1 2 3・・・ 終
角田錦江先生略歴 1 2 3
年譜 1 2 3
回顧録(山田貞索) 1 2
思出の記(服部正夫) 1 2
編輯後記 1 2 3 4 5
邸内配置図
奥付
『詠詩絶句』
(えいしぜっく)
明治13年7月序 百架堂刊行
2, 2, 17, 30丁. 22.5cm× 15.5cm 2冊 和綴
第一冊(上巻) 見返し
題(一六居士 : 巖谷一六) 1 2 3
4
春・華・秋・實 明治庚辰二月錦江翁大雅属 一六居士修題
錦江詞兄作和漢詠詩二百餘首 請余評 余何當之然知己之請不得辭也 因可吾上者可不可吾上者爲不可 余不欲喋々妄稱譽之也 若夫公評則市有定價竢後日也
庚辰春正月 太乙七十七翁
詠史絶句自序
余平時好讀史傳觀治亂興亡邪正忠奸之事跡 毎有感於心乃欲有所論著 而資性謭劣殊乏於文藻 遂不能措一辭 僅賦二十八字韻語 以遣懐漸積得和漢各一百首
昔胡曽作詠史絶句百五十首 其詩率以懐古體栽 而不根議論多於言外發意其流傳玉今日蓋有可觀者矣 然後人往々指摘其短夫曽●人也猶不能免云々之議 况余之拙惡
豈敢曰有奇抜警策哉 但其苦心之久 不忍遽投之祝融氏 故手繕冩付之家塾以供鯫生讀史之資 余素讀書不博 且家貧不能多蔵名家之集 句意造語
或有雷同者非敢故剽竊焉也 門人山口保ヘ讀之 而喜与児節謀請梓行之 余不欲以雕蟲衒名斥之再四 而猶懇請不已 感其篤志也許可之 併附録若干首而与之
明治十三年庚辰七月 七十八翁 錦江角田炳文虎撰 男齋木棟隆書
本文 1 2 3・・・ (管理人蔵は題簽欠の上巻のみ)
『國史千字文』
(こくしせんじもん)
明治6年10月 成美堂 獺祭堂刊行
13,13丁(巻上・下合本)25cm 和綴