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戸田睡翁 とだ すいおう(1791 寛政3年 1857 安政4年4月28日) 
『美濃大垣十万石太平記(下)』1986年 清水春一・山田美春編著 210-213p  より。

 本姓は、藤原氏。家紋は、七星。
 (その祖)、戸田五郎左衛門氏頼は、戸田氏鉄の四男。はじめ伊織助といった。母は、蒲生飛騨守氏郷の娘といい、懐妊ののち、加賀前田家の本多安房守政重の側室になり、氏頼を生んだ。氏頼は一時、政重の養子になったが実子、安房政長が誕生したため、別に分家して、 五百石が与えられ、本多刑部と称していた。そして、前田家の家臣で、武道にその名の高い、富田(とだ)越後守重康(富田流平法・剣術)の養子になったが病気になり浪人して大垣の氏鉄のもとに帰ってきた。そこで、慶安二年氏鉄から千石が与えられ、その家臣になった。
 ついで、承応元年二代氏信から三百石が加増され、三代氏西の延宝三年に隠居、五十人扶持が支給された。貞享三年に没し、円通寺に葬られる。法号は、隆性院光誉宗久大居士。
 二代、宇右衛門重治は、重春ともあり。のち、頼賢。延宝三年、家督を継ぎ千三百石。三代氏西に仕え、同四年知行組頭を勤め、同八年家老次席になった。また、天和三年には城代になり、城内の屋敷(現、丸の内一丁目)に住んだ。貞享四年に五十二才で没す。
 三代、五郎左衛門三頼は、はじめ弥三郎。頼雄、中頼といった。家督のとき、弟の郷右衛門頼忠に三百石を分知、知行千石。氏定・氏長・氏英に歴仕する。三頼は、若い時、武術を学ぶため古藤田弥兵衛俊定の屋敷(竜の口門外)まで通ったが、自宅から竜の口門(城内)までは、供侍と中間が付き添ったけれど、一旦城外に出ると稽古の槍と太刀を持って、自分一人で歩いたといい、当時としては、大身の嫡子として異例のことであったという。
 宝永七年から知行組頭。元文二年城代になり、延亨二年に隠居して二十人扶持が支給され、田恵院と号した。寛延元年、七十三才で没す。
 四代・宇右衛門儔頼は、はじめ直頼・輝頼といった。六代氏英の寛保二年、まだ部屋住であったが知行組頭を勤め、延享二年に家督、知行は千石。宝暦九年に没した。
 五代・五郎左衛門景頼は、はじめ弥三郎。宝暦九年に家督、千石。氏英と七代氏教に仕える。安永二年知行組頭。また、同年から同八年まで城代を勤めたが、何か事があって、蟄居を命ぜられ落髪し、入道文藻と号した。しかし、寛政元年再び城代役を任命されたので蔵人と改称した。同四年に隠居。 文化五年に没す。円通寺の墓は、「桃種院正誉真道大信士・文化五戊辰年正月廿二日卒・戸田文藻入道景頼墓」とある。
 六代・五郎左衛門頼章は、はじめ吉十郎・刑部。義頼・五頼といった。父が一時蟄居後の安永十年、家督を継いで千石。天明八年から城代と知行組頭を勤めた。しかし、寛政元年父が再び勤務したため、二十人扶持になったが役職は、そのままであった。
 同四年、父の隠居により、再度、家督を継ぎ千石。文化三年、氏庸が八代藩主に就任したため、小原二兵衛能令・大高笹右衛門集度とともに将軍に拝謁してお礼を言上した。文化四年に没す。法号は、霊雲院玄海a龍居士といった。

 七代の五郎左衛門頼及が有名な睡翁で ある。はじめ鶴太郎・主水。号は、厳齋・義竹・楓軒・氷壷。睡翁は、晩年の号である。寛政三年に生まれ、享和三年、氏教に召し出される。ついで、 氏庸の文化四年、家督千石。同十年から知行組頭。文政二年に城代を勤め、ついで九代の藩主氏正に仕え、天保十五年家老次席になった。
 頼及は、学問を好み、詩を善くし、天保年中藩校創立に尽力した。また、小原二兵衛忠寛(鉄心)を推挙登用させるなど藩政への貢献は大きかった。 嘉永三年に致仕。風流を楽しみ、書室を一笑茶楼と名づけている。安政四年、六十七才で没し、円通寺に葬られた。墓は、「義竹院殿真逸睡翁居士・安政四丁己四月念八日・戸田睡翁入道頼及墓」とある。

 八代目の五郎左衛門頼淳は、はじめ弥三郎・主税。嘉永三年に、千石の家督を継き、氏正・氏彬に仕えたが万延元年、三十七才の若さで没した。妻は、源。
 九代・五郎左衛門頼清は、戸田三弥寛鉄の二男。はじめ鈴之丞。万延元年に家督、十代の藩主氏彬と最後の藩主氏共に仕え、知行千石。大番頭・年寄役を勤め、慶応二年軍事奉行になった。同四年、戊辰戦争のとき、東山道先鋒大垣藩兵を率いて東北各地に連戦、会津に進軍し、若松城の攻防戦に負傷した。明治二年、戦功四百石が加増され、名を五郎と改め、同四年氏共とともに米国に留学。帰国ののち、同二十二年に四十四才で没し、東京の蓮光寺に葬られた。その墓碑は、「浄光院殿清譽雪操居士・戸田五良・明治廿二年五月二十七日」とあり。

墓碑 (大垣市円通寺) 場所は大変分かりづらいところにあります。、歴代藩主塋域の右奥から外へ抜けた先の一画、その一番奥に、上記の一族とともに埋葬されてゐる。
土葬のため、地盤変化と地震(?)によって睡翁の墓石は現在倒れてをり、文字通りの「睡臥中」。河合至楽翁墓参時に発見したので報告します(2020.6.21)。

 

「義竹院殿真逸睡翁居士・安政四丁己四月念八日・戸田睡翁入道頼及墓」

 

『美濃大垣十万石太平記』刊行当時の様子。

以下はネットオークションに木村寛齋、河合東皐の詩稿等と一緒に出品された戸田睡翁の詩稿です。
木村寛齋同様、後藤松陰の朱批が入ってゐる模様。入手できず、現在の行方は分かりません。









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