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宇野南村 うの なんそん ([1812文化9年]〜1866 慶応2年)
宇野笙山 うの しょうざん
宇野南村 『南村遺稿』
宇野笙山 『笙山集』
(なんそんいこう・しょうざんしゅう)
1881 明治14年 全3冊
『南村遺稿』【上】
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テキスト2 雲情
テキスト3 氷性 明治十一年春三自題 研堂共
テキスト4 老
テキスト5 氣横
テキスト6 秋 梧兼譲題
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序
亡友南邨宇野翁遺稿、将上梓、数
年未成。去年丙子四月、余帰展之
次、過大垣。邂逅其嗣達次、責其因
循曰、若決之、則撰定校刊。余亦
将任之。若於因循、則不能与謀焉。
序
亡友、南邨宇野翁の遺稿、将に上梓せんとして、数年未だ成らず。去年丙子(明治9年)四月、余、帰展(墓参)の次に大垣を過ぐ。其の嗣、達次と邂逅して其の因循を責めて曰く、
「若し之を決するなれば則ち撰定校刊のことは、余、亦た将に之を任ぜん。若し因循に於ければ、則ち与(とも)に謀る能はず」と。
達次唯々而別。尓後往復二三、猶
無所決也。今茲丁丑七月、其弟時三、
寄書云、家兄達次、病而没矣。病
中深憂先父遺稿未刻。嘱弟以速
竣功。且言、序言必当托湖山先生。
今日父執之存、独先生耳。余読
之不覚哀慟。吁余性急躁、不能
優柔了事。以歿達次病中之
憂慮、噬臍何及。乃書其所以悔之
与所以哀之、以代序言。時三、幸
能勉強速竣功。則達次可以瞑
矣。南翁之霊亦可以慰矣。若
達次、唯々として別る。尓後、往復すること二三なるに、猶ほ決する所なき也。今茲丁丑(明治10年)七月、其の弟、時三、書を寄して云ふ、家兄達次、病みて没す。 病中深く先父遺稿の未刻を憂へ、弟に以て速(すみや)かなる竣功を嘱す。且つ言ふ、序言は必ず当に湖山先生に托すべし。今日父執(父の友人)の存するは、独り先生のみ。 余、之を読みて覚えず哀慟す。ああ、余が性の急躁にして優柔に了る能はざる事。歿するを以て達次の病中の憂慮に、噬臍(悔い)何ぞ及ばん。 乃ち其の之を悔ゆる所以と与に之を哀しむ所以を書して、以て序言に代ふ。 時三、幸にして能く勉強して速かに竣功す。則ち達次以て瞑すべし。南翁の霊亦た以て慰むべし。若し-
夫翁之為人与其詩之妙処
諸家評尽之矣。余不改贅。
明治十年大暑前
湖山長愿序
-夫れ翁の為人(ひととなり)と其の詩の妙処とは、諸家の評、之を尽す。余は改めて贅せず。
明治十年大暑前
(小野)湖山 長愿 序
拝啓新禧奉賀
候扨久闊之到瀧
四郎上京御近作拝
閲面白き事ニ御坐候
拝啓、新禧奉賀候。扨て久闊の到、瀧四郎(川瀬老峰)上京、御近作拝閲、面白き事ニ御坐候。
老拙も西帰以後老
懶相加り候得共精
神は十倍加り詩も一
千五百首余り作り
等身之書を読候
乍然不遠而老山藤
城等之跡を追地下ニ
趣可申候御一咲
老拙も西帰以後、老懶相加り候得共、精神は十倍加り詩も一千五百首余り作り、
等身の書を読候。然り乍ら、遠からずして(柴山)老山(村瀬)藤城等之跡を追ひ、地下ニ趣き申すべく候。御一咲(一笑)-
可被下候『戊集』上木致候ニ付
奉入電嘱候御叱政
奉希候近況ハ瀧四郎より
御聞可被下候草々
頓首
正月五日 孟緯
宇野士方老契
梧右
-下さるべく候。『戊集』上木致し候に付き、電嘱入り奉り候。御叱政希ひ奉り候。近況は瀧四郎より御聞下さるべく候。草々
頓首
正月五日 孟緯
宇野士方老契
梧右
再白山妻も宜敷申上
候御上京奉待候以上
先人之於星巌先生、恩誼甚厚
矣。而此集無一評語。及之故置
書簡於巻首、以代序文云。
己卯季秋 宇野質識
三百毛詩尽性
情、豈惟風月綴
辞。精読看一
巻南村集、忠
再白、山妻も宜敷申上候。御上京待ち奉り候。以上
先人の星巌先生に於ける、恩誼甚だ厚し。而して此集、一の評語も無し。之の故に及びて書簡を巻首に置きて、以て序文に代ふと云ふ。
己卯(明治12年)季秋 宇野質識
三百の毛詩(詩経)、性情を尽す、豈に惟に風月の辞を綴るのみならんや。精読、一巻南村集の忠孝を看るに、
孝兼全身後
名。
南村遺稿刻成因
題
七十四嫗紅蘭
東巌写意
全て身後の名を兼ねり。
南村遺稿刻成、因りて題す
七十四嫗紅蘭
東巌写意
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『南村遺稿』【下】
宇南村之於詩也、以盛唐
為體、以晩唐為衣。百錬千
磨格律整正。而博渉経
史寓典故於幽致遠韵之間
未嘗要約奇競新以眩惑
人心目。故人読之或有以為
宇南村の詩に於るや、盛唐を以て體と為し、晩唐を以て衣と為す。百錬千磨、格律整正。而して経史を博渉、典故を幽致遠韵の間に於て寓し、
未だ嘗て奇を約して新を競ひ、以て人の心目を眩惑するを要せず。故に人、之を読みて或は以て
澹泊無味者。必也能至其域
者而始知其有滋味也。余雖
不専詞章、毎有所感于懐、
輙賦詩述志、句々真率、不拘
声律。比之南邨之詩句磨
字練者氷炭相反矣。然余与
南邨為文字交殊厚曳笻
山野会客弊屋莫不與倶
焉。今南邨抄録其詩将納我
教堂、督学高岡西溝請余
序余欣然諾之以謂其詩必
多当時応酬之作、可吟誦以
追懐往事。及取閲之則無一
詩係応酬者於是茫然自
澹泊無味と為す者有らん。必ずや能く其の域に至る者にして始めて其の滋味有るを知らんや。余、詞章を専らにせざると雖も、毎(つね)に懐に感ずる所有れば、輙ち詩を賦し、 志を述べて、句々真率、声律には拘はらず。之を南邨の、詩句を磨し、字を練る者に比べれば、氷炭相反せり。 然れども余と南邨と、文字の交はりを為すこと殊に厚し。笻(つゑ)を山野に曳いて、客を弊屋に会し、 与倶(とも)にせざる莫し。今、南邨、其詩を抄録して将に我が教堂納めんとし、督学高岡西溝(高岡夢堂)、余に序を請ふ。 余、欣然として之を諾して以謂(おもへ)らく、 其詩は必ず当時の応酬の作、吟誦して以て往事を追懐すべきもの多からん。(しかるに)取りて之を閲するに及べば、則ち一詩の応酬に係る者無し。 是に於いて茫然自失、-
失。再四熟思猶未得其解也。
因使人問其所以則曰、大夫
在要洛、僕則微者、応酬之作
或係遊戯或渉議論恐生
嫌疑故不録也。余咲曰何重
之挟乎。苟有所憚於外人視
聴不如不作也。是則所以有好
尚氷炭之異而[竟]余不相投
也。然而交誼殊厚者何哉。以
謹慎敦厚如此、而技倆有所
長之故也。不知南邨果肯此
説否也。姑書以為序
己未秋八月 銕心小原寛撰
再四熟思するも猶ほ未だ其の解を得ざる也。因りて人をして其の所以を問はしむれば則ち曰く、大夫は要路(重職)に在り。僕は則ち微者なり。
応酬の作は或ひは遊戯に係り、或ひは議論に渉り、恐らくは嫌疑を生ずるが故に録せざる也と。
余咲(笑)って曰く、何ぞ重きを挟むや。苟くも外人の視聴に憚る所有らば、作らざるに如かざる也。
是れ則ち好尚は氷炭の異ある所以にして、而して竟に余は相ひ投ぜざる也。然るに而して交誼の殊に厚きは何ぞや。
謹慎敦厚、此の如く、而して技倆は之に長ずる所有るを以っての故なり。知らず、南邨果して此の説を肯んずや否や。姑らく書して以って序と為す。
己未秋八月 銕心小原寛撰
鐵心君此序、往年先考納詩稿
於舊藩学校時之文也。今閲之略
足以具先考之為人矣。因置
此於巻首云。
宇野質識
鐵心君の此の序、往年の先考、詩稿を旧藩学校に納むる時の文なり。今之を閲すれば略ぼ以て先考の為人(ひととなり)を具するに足る。因りて此を巻首に置くと云ふ。
宇野質識
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跋
黄山谷評高子勉之詩
謂以杜子美為標準用一
事如軍中之令。置一字
如関門之鍵。南村翁之於
詩亦猶此。枕藉盛唐養
跋
黄山谷、高子勉の詩を評して謂く「杜子美(杜甫)を以て標準と為し、一事に用ふ、軍中の令の如きと。一字、関門の鍵の如きを置く」と。
南村翁の詩に於けるや亦た猶ほ此のごとし。盛唐を枕藉し、
気象字練句磨絶無尖
巧軽薄之習、而詠史尤所
長也。議論平実中正判
千古英雄得失犂然如劃
眉。但以其平実而不置楼客
於空中、人或有為澹泊
無味者是不知詩其也。
東坡評韋(応物)柳(宗元)二家發繊
穠於簡古寄至味於澹泊
近世詩人嘲花弄月沾々自
喜者此之翁之詩孰得孰
失、吾寧取此而不取波。今茲嗣
気象を養ひ、字練句磨して、尖巧軽薄の習は絶無なり。而して詠史、尤も長ずる所なり。
議論は平実中正、千古英雄の得失を判じ、犂然(りゅうぜん:=慄然)眉を劃るが如し。
但だ其の平実を以って而して楼客を空中に置かず、人、或ひは澹泊無味の者と為す有り。是れ詩なる者を知らざるなり。
東坡、韋(応物)柳(宗元)の二家を評して「繊穠を簡古に發し、味は澹泊に寄るに至る」と。
近世の詩人、嘲花弄月して沾々自ら喜ぶ者は、此の翁の詩、孰れか得、孰れか失ふ、吾れ寧ろ此を取り而して波を取らず。
子二行与門人謀抄録遺稿。
将公之于世乞余一言乃書此
以置末関云
明治十年初夏 野村煥(藤陰)識
跋
宇野南村翁吾旧詩友也。甞共
学詩於梁川星巌、句格極秀尤長
七律、自結總角之好書楼近接月
夕花朝必於其酌而唱和及年相老
交情倍深。一朝忽然而逝矣。不能無
今茲、嗣子二行と門人、謀りて遺稿を抄録し、将に之を世に公にせんとし、余に一言を乞ふ。乃ち此を書して以て末関に置くと云ふ。
明治十年初夏 野村煥(藤陰)識
跋
宇野南村翁は吾が旧詩友なり。嘗て共に詩を梁川星巌に学び、句格極めて秀いで、尤も七律に長ず。総角[あげまき]を結ぶよりの好(よしみ)にして、書楼も近接、
月の夕べ花の朝には必ず其れ酌みて唱和し、年及び相老いて、交情、倍(ますます)深し。一朝忽然として逝けり。
鳳折鸞離鳳雛之歎男南塘亦能読書
適袖遺稿来話及刊刻之企挙余
太嘉之曰、恢先緒、嗚呼有是父而
有是子之謂乎。
明治十二年季秋
中浣 金粟老人江馬桂識
鳳折鸞離の歎の無かる能はず。男、南塘また能く読書す。適ま遺稿を袖して来り話し、刊刻之企挙に及ぶ。余、太だ之を嘉して曰く、先緒を恢(ひら)くこと、嗚呼、
是の父有りて是の子有りとは、之を謂ふか。
明治十二年季秋
中浣 金粟老人江馬桂識
附録『笙山集』 宇野忠三郎(南村)の子達次郎(号:笙山)遺稿集
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一日宇野子行携一冊子来授余曰、此亡
兄笙山之稿、即二十年来精神之
所寓也。不忍置之簏底以飽蠧魚之
腹矣。頃者刻先人遺稿、固即以為附
録、而謀不朽、幸乞校正高年受而閲之
掩巻而歎曰、噫人之於死生寿夭雖
曰素天定而多出於意料之外矣。曩
笙山欲刻乃翁之遺稿、拮据校訂有
一日、宇野子行、一冊子を携へ来り、余に授けて曰く、此れ亡兄笙山の稿、即ち二十年来の精神の所寓なり。之を簏底に置きて以て蠧魚の腹を飽かしむるに忍びず、と。 頃者、先人の遺稿を刻す、固より即ち以て附録と為す、而して不朽を謀る、幸に乞校正高年受而して之を閲して巻を掩ひて歎じて曰く、噫、人の於死生寿夭雖曰く、 素より天定りて而して意料の外に多く出づる。曩(さき)に笙山、乃翁の遺稿を刻さんと欲す、
年於茲一朝為二豎所祟、未及竣功遂
至不起矣。哀哉、嗚呼余歳已過半、百
顔鬢顕白理不久存平生所作詩文
欲托後進以機刻孰謂老者却校正後
進之遺稿乎。校訂已牽涕書一語
於其後云
明治十一年四月 藤陰逸人煥
平野鳴鶴者先考之門人也。客春語
余長兄笙山曰、故先生之遺稿徒蔵
筐笥而飽蠧魚之腹可惜矣。頃与社
中数子謀共捐資上梓、欲以慰先生
之霊。子寄兄弟蓋協心勠力乎長兄
大喜曰諾哉。余亦在坐謂鳴鶴曰是
固所企望雖然家貧窶而未能為
此挙今也。得子之壮大誘譬之若
校訂に拮据して、年有り。茲に於いて一朝、二豎(病魔)の祟る所と為り、未だ竣功遂ぐるに及ばざるに起たざるに至る。哀しき哉、嗚呼、余歳は已に半ばを過ぐ、百顔鬢顕白理、
久しくは存ぜず。平生作る所の詩文、後進に托し以て機刻せんと欲す。孰れか老者却って後進の遺稿を校正すると謂ふか。校訂已牽攪涕、一語を其の後に書すと云ふ。
明治十一年四月 藤陰逸人煥
平野鳴鶴なる者は先考の門人也。客春、余が長兄笙山に語って曰く、故先生の遺稿、徒らに筐笥に蔵して蠧魚の腹を飽かしむるは惜しむべき。頃ろ、社中数子と謀り、 共に資を捐てて上梓し、以て先生の霊を慰めんと欲す。子寄兄弟蓋協心勠力乎。長兄大いに喜びて曰く、諾哉。余また坐に在りて鳴鶴に謂ひて曰く、是れ固より企望する所、 然りと雖も家は貧窶、而して未だ此挙を為す能はず。今や子の壮大なる誘ひを得て、之を譬ふるに
枯苗得時雨勃然起之矣。尓来日夜
孜孜校訂将卒業。余長兄病而後吁
耳勝韭歎哉、雖然幸次兄奉塘受
其遺嘱終得竣功焉。次兄又謀于余
曰乗是機以亡兄之遺稿附巻末以上梓
奈何余拍掌曰、善哉可謂先獲我
心矣。於是乎拮据校正併以付剞劂氏云
明治十一年四月 男宇野義存識
枯苗、時雨を得て勃然として之を起すが若し。尓来、日夜孜孜校訂して将に業を卒らんとす。余が長兄、病みて後、吁(ああ)、耳勝韭の歎きに哉。然りと雖も、 幸ひに次兄奉塘受、其の遺嘱終(つひ)に竣功を得。次兄また余に謀りて曰く、是の機に乗じて以て亡兄の遺稿を巻末に附し以て上梓しては奈何。余、拍掌して曰く、善き哉。 先に我が心を獲ると謂ふべし。是に於いてか校正に拮据して併せて以て剞劂氏[印刷者]に付すと云ふ。
明治十一年四月 男 宇野義存識