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三宅樅臺(みやけ しょうだい)(1816 文化13年 〜 1896 明治29年7月7日)

名は守観、字は海岳、のち佐平と改む。樅臺はその号。本姓は小坂氏、村瀬藤城の門人で上有知(こうづち)のひと。加納の旧族三宅氏に入婿。


樅臺詩鈔

『樅臺詩鈔』

(しょうだいししょう)

1891年(明治24年)9月 菊花堂 上梓 22.9×15.3cm

三宅佐平 著 大野憲造 鈔 発行兼印刷者  浅野宗八(岐阜)

【第一冊】4,4,7(巻一),19(巻二)丁
【第二冊】12(巻三),16(巻四)丁
【第三冊】14(巻五),16(巻六),2,2丁

国立国会図書館所蔵 巻1 巻2 巻3


【第一冊】上

表紙 見返し

題字:天葩吐奇芬 天葩、奇芬を吐く 明治二十三年八月 孝麿(刻印「藤原孝麿」「蘆瞑)」

題詞:樹無根本水無源 無学何堪得立言 偶作小詩詞未穏 又敦三宅老人門 明治廿四年五月 大野猷題

 樹に根本無く、水に源無く
 学無ければ、何ぞ堪へん、立言を得るに
 偶作の小詩詞、未だ穏かならず
 また敦くせん、三宅老人の門に。明治二十四年五月。大野 猷 題す


題画「樅臺松校図」(大野 憲 明治辛卯[24年]暮)

題字「穆如清風」「大音希聲」(小崎利準 岐阜県第3代知事)

叙(藤陰 野村 煥)
書曰詩言志。蓋家人婦子隣里郷黨感慨樂事。皆自寫其真是之謂真詩矣。若夫嘲哂烟霞。吟咏風月花木。重畳無益唱酬。無一渉倫理治亂者。豈是詩也哉。三宅樅臺。為人敦厚朴實、絶無奔競之風。其学淵源経史渉猟百家移及詩文其詩直抒胸臆不事虚飾咀嚼有味。篇々皆如樅臺其人焉。趙宮賛云。因其詩以知其人、兼可以論其世。樅臺其庶幾乎。頃者樅臺袖其詩来曰、門人并書賈輩、為謀上梓、索子一言。余於樅臺為同門老友誼。不得辭乃書此還之。
 明治二十一年仲春  藤陰逸人煥識



書に曰く「詩は志を言ふ」と。
蓋し家人の婦子、隣里の郷黨の感慨樂事も、皆な自(おのづか)ら其の真を寫せば、是れ之れを真の詩と謂はん。
若(も)し夫れ、烟霞を嘲哂し、風月花木を吟咏し、重畳たる無益の唱酬の、倫理・治亂に一つも渉ること無くんば、豈に是れ詩なる哉。
三宅樅臺、人と為りは敦厚朴實、奔競の風は絶無にして、其の学は経史を淵源に、百家を渉猟して移して詩文に及ぶ。其の詩は直ちに胸臆を抒べ、虚飾を事とせず、咀嚼して味有り。篇々、皆な樅臺その人の如し。
趙宮賛(※趙執信1662-1744)は云ふ。「其の詩に因りて以て其の人を知らしめ、兼ぬるに以て其の世をも論ず可し」と。樅臺、其れ庶幾乎(ちかからんか)。
頃者(このごろ)樅臺、其の詩を袖にして来りて曰く、「門人并びに書賈輩(※本屋)、上梓を謀ると為す。子に一言を索む」と。
余の樅臺に於けるや同門老友の誼みを為す。辭するを得ず乃ち此を書して之に還へん。

 明治二十一年仲春(※二月)  藤陰逸人 煥 識す。

三宅佐平

【巻一】

  美濃加納町 三宅佐平 著。同國 岐阜市大野憲三 鈔。 頃者、我が樅臺先生、門生と書肆と與に其の詩の上木を乞ふを以てし、遂に其の稿本、廿餘巻を擧げて之を余に付す。余に之を鈔出せしめ得て書肆、 之を印刷発行せしむるを得ること左の如し。 門人 大野憲三 識す。

藤城村瀬先生に上す。先生名は褧(けい)、字は士錦、通称平次郎。美濃上有地(こうずち)の人。而して頼山陽先生の門生也。
村瀬太乙、岡崎樹仙と同(とも)に善応寺に遊ぶ。帰途、笹野詢侯を訪ふ。
水亭観月。
四時山水図
村瀬太乙、添川寛夫と同に神田南宮翁を訪ふ。 
塚原篁圃(※「白鴎社」同人)に寄す。 
山水小景。
樹仙に贈る。 
村瀬太乙村瀬秋水と同に笹野知常を訪ふ。 
篁圃を訪ふ。
鎌潭漁釣(同に釣りし者、秋水、太乙、篁圃の三学友なり)。
篁圃に寄す。 
詢侯の南遊を送る。
梅花村舎(藤城先生、故藩佐藤氏の別城の地一町餘りを買ひ、梅三千株を植え、茅舎を其の中に結ぶ。名づけて「梅花村舎」と曰ふ)。
春日雑詠四首。
岡崎樹仙、足立伴逸と同に喪山に観楓す。 
村瀬秋水、大書を恵む。賦して謝す。秋水、固より書を能くし、近く長崎に遊ぶ。豊筑二肥(肥前肥後)を経歴し既に帰る。而して筆力益々進む。
大風行。
秋日即事。
家の大人、東遊す。之を夢みて一絶を得る。
太乙を尾府の僑居に送る。 
梅荘の蕉花初めて開く。喜びて二絶を成す。
源三位(※源頼政)の墓(墓は山県郡上野村(※関市蓮華寺)に在り)

  門人 正木三郎 校。門人 小坂宗十郎 校。

【巻二】

東遊。
尾府、雲涯師に寄す。
宮駅を発し新畭を望む。 
途上。
王潭(潭は新城の東三里、豊川の曲りに在り)
鳳来寺に遊ぶ。
薩埵嶺、観岳。
駿府を発し吉原駅に到る。此の日午後風起き雲出づ。雨将に成らんとして一絶を得る。 
吉原を発して暴風雨に遭ふ。同行の小島萬衛、馬より堕ちて腕に傷し日午(※正午)沼津駅に宿す。 
沼津駅を発す。此の日、雨霽れ雲散ず。富士また望むべし。喜びて一絶を成す。 
三島駅に同行の萬衛と別る(萬衛既に腕を傷して伊豆温泉に浴みせんと欲す。余また将に扶け行かんとすれば萬衛これを固辞す。乃ち贈るに之を以てす)
不二山の歌。
筥根の関。
絵洲金亀山。
鎌倉詠懐。
東都客舎。
一齋佐藤先生に謁す。 
京橋の僑居
小島萬衛の家に寓す。家は坂基(※日本橋坂本町)にあり。近隣の父老、余を請いて経書を講ぜしむ。 
至日、正燈師、其の梅荘に招飲す。二首。
聖廟に高知達三と邂逅す。因りて共に酒楼に飲す。達三は曾て我が藤城先生の門に遊びし者。
東雲師、余を邀へて其の池端の林園に寓せしむ(林園は不忍池を隔て東叡山に対す。仰げば則ち宮殿玲瓏たり。俯けば則ち波光瀲艶たり。城中第一の勝概(※景勝)なり)
庚子(※天保11年)歳旦。
又。
各務文光し同に向洲の梅荘に遊ぶ。梁川白兎翁(※梁川星巌)に邂逅す。賦して呈す。 
余、長野先生(※長野豊山)の文名久しきを聞く。江門に到り及べば先生没するや已に匝年(※一年)。其の旧廬を訪ひ其の嗣子新吉と相見え、また先生の墨蹟を見る。愴然として一絶を成す。
上野東照公廟十二韻。
叔三十翁の訃を得。流涕の餘、二絶句を賦し其の子、愛吉に贈る。
戯れに梅本楼に寄題す。
林式部氏の邸に前川精一と遇ふ。精一は彦根の人。曾て我が藤城先生の門に遊びし者
池端の僑居。大蘇東坡の韻を用ゆ。
都門の古謡
幕府功臣賛二十首。余、高知達三と與に芝の坊より上野に赴き諸藩の邸宅を歴覧す。依りて此の作有り(今、其の十七を鈔す)。
  井伊侍従(諱は直政、彦根)。
  桑名少将(諱は定勝、松山)。
  奥平美作守(諱は信昌、中津)
  榊原式部大輔(諱は康政、高田)。
  本多中務大輔(諱は忠勝、岡崎)。
  小笠原兵衛大輔(諱は秀政、小倉)。
  酒井雅楽輔(諱は正親、姫路)。
  酒井左衛門尉(諱は忠次、荘内)。
  本多隼人佐(諱は忠次、膳所)
  大久保七郎衛門(諱は忠世、小田原)。
  戸田采女正(諱は一西、大垣)。
  土屋民部大輔(諱は忠直、土浦)。
  深溝松平主殿頭(諱は家忠、島原)。
  水野日向守(諱は勝成、結城)。
  鳥居彦左衛門(諱は元忠、壬生)
  内藤弥次衛門(諱は家長、延岡)。
  板倉伊賀守(諱は勝重、松山)。
書懐。
分光に寄す。
将に帰路に上らんとす。川田有興、永戸士譲(※長戸得齋)の『北道遊簿』を贈らる。
江門を発す
妙義山
小室(※小諸)途上。
上田城懐古。
小室より筑摩河に旁(よ)る。小沢・海野の諸邑を経て而して北す。山谷益々嶮しく河水は矢の如し。一聯を得る。前に対するは是なり。遂に続いて之を成す。
姥捨山。
文光と同に河中島に遊ぶ。甲府の営処を歴覧す。晩に丹羽島に宿す。
小市駅に同行の仲野重造と別る。重造は越後高田藩士なり。
又。
河中島戦場歌。
切通山に遊ぶ。山は青柳駅の東に在り。
切通山に再遊す。
松本城。
信州雑詩。
重造を懐ふ。
宮越懐古。
御岳
臨泉寺。寺は浦島仙人の栖遅の地なりと云う。
懐古濃に入る。
十三嶺

  門人 遠藤彦次郎 校。門人 棚橋恒吉郎 校。


【第二冊】中

表紙

【巻三】

藤城翁に従ひ秋水・水東・雲蟾の諸友と同に梅荘に遊ぶ。「梅花林裡人家」を分けて韻を為し「林」字を得。
梅荘の皈途、郡吏中島幸衛の要する所と為り其の家に飲む。
題画。
八幡懐古。
宗祇水。
八幡祠
粥川寺にて恠獣の図を観る、引(※藤原高光の妖怪退治伝説)。
神田南宮翁の消寒雑詠の韻に次す。
丹羽得夫の尾藩の徴に赴くを送る二首。
銷寒雑詠。南宮翁に贈る。(余、頃ろ次韻して翁に贈るも本意にあらざる也。故に此の作あり。)
独歩、梅荘に到る。梅花盛んに開き爛縵観るべし。因りて水東・蟾雲の二友に簡す。蓋し倶に遊覧せんと欲する也。時に藤城翁、尾府に出づ。末句、之に及べり。
細香女史来訪、而して藤城翁不在。因りて之を留め、梅荘に遊び、以て翁の帰るを待つ。
梅荘酔帰。
詠史十二首、山陽頼先生の韻を用ゆ。
越前の人、福井退輔の六十一歳の寿言。
徹臺の七十三の寿詞。
林典膳の七十の寿言。
相撲
藤城翁、但馬より其の行李を駅伝に託して帰る。既にして帰れども行李到らず。之を筮(うらな)ふに「節の大過」に遇ふ。書に因りて下問を見るに便ち一絶を以て判ず。蓋し翁の帰国の後、霖雨連旬、河、沢を張りて溢る。是れ小生の断じて其の致す所と為す所以なり。
偶成。
文殊菩薩の賛。
達磨大師の賛。
筍を護る。
夏山蝶隊。
又。
鎌倉楽府十闋。
饅頭を詠む。岐阜人某人の需めに応ず。
山田安碩・僧峡龍、訪らる。
病中雑詩。
己酉(※嘉永二年)歳旦、家厳(※父)の病起を賀す。
偶成、峡龍僧に似(しめ)す
癬を患(わずら)ふ。
耳を患ふ。
又。
秋水、秋巒霜晴図を写し贈らる。賦して謝す。
巌村藩文学田邉淇夫(※田邊如亭)先塋を帰展して我が春曦塾を過(よぎ)る。喜びて賦す。
淇夫に似(しめ)す。
得夫過ぎらる。余なほ臥内に在り。倉皇として衣帯して出迎ふ。得夫既に在らず因りて贈るに此の詩を以てす。
次韻、得夫に似す。
龍泰正契師、紫海苔を恵む。謝して言ふ。

  門人 遠藤儀作 校。門人 宮崎九市 校。

【巻四】

牧谿に遊ぶ
観経二十韻。龍泰正契師に似す。
太乙(※村瀬太乙)を夢みる。太乙示すに詠梅一絶を以てす。甚だ佳し。已に覚めてなほ其の三四を記す。因りて之に(※一二を)足し成して以て太乙に贈る。また一奇事なり。
華厳を読む。
三野諸藩の賛、五首。
清恭師、大法会を開く。諸寺僧徒、聚まる者百餘人。我家また金一封を施し以て設齋の資と為す。副へるに此の詩を以てす
庚戌(※嘉永三年)冬紀事。諸友の和するを請ふに贈る。
太乙を訪ふ。
(※名古屋)中村詠懐。
三河途上の口占。
観潮坂(※浜名湖)岳を望む。
猪鼻湾(※浜名湖)打魚を観る歌。
酒間、島某に賦し贈る。某は室賀(むろが)家の採地、遠州門屋の邑長なり。是の歳、濃尾飢え、而して遠駿(※遠江・駿河)は年あり(※豊作)。故に余、近隣数村の意を以て某に頼み、糶(売り米)を室賀の家に乞ふ。また此の詩を贈り以て之を促すなり。
眇跛行。山本馗鬼翁を懐ふ(状貌を将て国士を調する勿れ)。
藤城先生に従ひ小出日・村瀬秋水・其の子東作・河合鎌五と同に藍見川を下る。時に嘉永四年七月廿四日也。
墨俣駅に澤井慎夫(※澤井樵歌:「白鴎社」同人)を訪ふ。席上、筆を走らす。慎夫は有名文人なり。
磨鍼嶺。
松峰明寿院。諸宸翰および諸先哲の墨蹟冊子を観る、引。
(※近江)八幡より湖を渉り坂基(※坂本)に赴く。
舟中詠懐。
坂基(※坂本)。
叡山横川松禅院。唐人の鄭審則の将来せる書目押尾を観る。
藤城翁の韻を用ゐ同行の諸友に似(しめ)す。
京師に入る。梁川星巌翁の徙居を賀す。
藤城翁に従ひ山陽先生の墓を長楽寺に謁す。藤城翁、貫名海屋・中島棕隠・梁川星巌・牧贛齋(※牧百峰)・宮原節庵・頼三樹 等の諸賢哲と同に招かれ三樹坡水亭に開宴す。蓋し故山陽翁の宅、此に在り。故に其の旧社を招いて以て追憶の意を寓す。 余、また従ひて坐末に在り喜びを賦す/a>
藤城先生、事有りて急に帰る。余と日坡と之を追ふも及ばず、大津駅の水亭に宿す。時に八月八日なり。
角田錦江、長句を恵む。韻に因りて之に酬ゆ。
雲蟾師、詩巻を投示す。中に贈らるる作を見、韻に依りて題を賦す。
郡吏中島幸衛七十歳の寿詞。
正武寺仙巌師の上堂を賀す。
異艦の浦賀に至るを聞く。(安政元年甲寅の歳。)
願念師の蔵書、頗る多く借りて読む。謝して言ふ。
桑名に森樅堂を訪ふ。樅堂、詩有り韻に因りて之に酬ゆ。
四日市駅に山田古竹を訪ふ。古竹は濃人、余と同里閈(※郷里)の者。
白子駅の即事。
神路山。
宇治に中館主水を訪ふ。
波切の松(松は志摩堅神邑(※観音寺)に在り)。
(※宇治)山田詞。
阿濃津に(※齋藤)拙堂先生を謁す。遂に従ひて観海亭に上り眺望す
拙堂先生の観海亭に題す。
此の行、先人の墓銘を拙堂先生に請ふ也。先生許諾す。喜びを書す。
三島鬼城の僑居を訪ふ。鬼城は備中の人。
桑名を発し尾府に赴く。舟中即事。
尾府に太乙を訪ふ。
樅園。
佐藤如玉に招かれ飲む。
廣江海造の宅に秋花を観る。
朝徹堂の賞月。堂は東皐(※三宅東皐)叔(※叔父)の宅中に在り。
藩公の徙封、今に一百年。今、安政二年八月命あり闔境の士民に賜酒さる。酔飽の余、恭しく一百字を集め、以て下執事を奉賀す。
中秋、東皐叔・海造如玉と同に「思無邪亭(※詩の謂)」に会飲月を賞す。
園中草木を詠む。
峡龍僧、越前より帰る。途中過ぎらる。
宅中の弁財神祠堂の壁に題す。
献幣行(安政二年乙卯十月二日、東都の地、大いに震ふ。公邸民舎多く壊れ圧死数知れず。藩公、之を調馬場に避け患無きを得。是の冬邸宅の脩治の命あり。士民、幣を献じて役を助ける者甚だ多し。献幣行を作る。)

  門人 遠藤彦次郎 校。門人 棚橋恒吉郎 校。


【第三冊】下

表紙

【巻五】

丙辰(安政三年)歳旦。藩侯東邸に在り。新貝大夫、公に代り賀を受く。執謁の間、一絶を得。
歳首偶成
甫再甥の為に島児を哭す。
春末夏初。
論書絶句五首、瑞龍萬寧禅師に贈る。師、書を善くす。
安政三年七月、男を挙ぐ。喜びて媒の宮田翁(※宮田嘯臺の男か)に簡す。
読書雑感。
大垣人、小里妙春の六十一歳の寿言。
十三夕。
十四夜、東皐叔訪はる。
中秋無月。
十六夜。
秋日偶成

石戰行

 太平之世莫有戰。
 我濃児戯試可見。
 東曰天野西鳥羽。(※天野[粟野?]と鳥羽[鳥羽川?]:現岐阜市北部の出来事か。)
 夾溪七月飛石片。
 丙辰秋吾經其閭。
 戯罷落木鳴丘隅。
 丘下有橋秋如画。
 知是西人出此途。
 聞説是歳頗力爭。
 月十六日最狺狺。
 此日西人待昏出。
 心期東村駭逡巡。
 何圖圯下早有伏。
 狼狽被創十五六。
 時有一人名甚三。
 数槍叢腹腹若轂。
 官吏非不悲無辜。
 其奈舊染難頓除。
 例依汗俗放不問。
 寃骨年年撑丘墟。
 吾聞此言笑不誌。
 謂是塗説是巷議。
 方今四海懽[皐]極。
 豈有公然舞凶器。
 凶器殺人官不罰。
 咄咄豈有此恠事。
 為賦一篇吟溪風。
 溪風其吹到天宮。
 (此日余息天野村閭側茶店。店主為余言如此。時鳥羽邑有創未[愈]者數人云。)

 太平の世、戰ひ有ること莫かれ。
 我が濃の児戯、試みに見るべし。
 東に天野と曰ひ、西は鳥羽、
 溪を夾んで七月、石片を飛ばす。
 丙辰(安政三年)秋、吾れ其の閭を經る。
 戯は罷みて、落木、丘隅に鳴れり。
 丘下に橋有りて、秋、画くが如くも、
 知んぬ是れ、西人の出づるは此の途と。
 聞く説らく是の歳、頗る爭ひ力みて、
 月の十六日、最も狺狺(ぎんぎん:犬の吠える態)たりと。
 此の日、西人、昏れを待ちて出で、
 心に東村を駭かして逡巡せしめんことを期す。
 何ぞ圖らん、圯下、早や伏せる有り。
 狼狽、創を被るは十五六(人)。
 時に一人、甚三と名のる有りて、
 数槍、腹に叢(むらが)りて腹、轂(こしき)の若し。
 官吏、無辜を悲まざるには非ざるも、
 其れ舊染の頓(には)かに除き難きを奈(いかん)せん。
 例に依りて汗俗は放ちて問はず。
 寃骨(※無実の死者)年年、丘墟を撑(ささ)へり。
 吾れ此の言を聞きて笑って誌さず。
 是れ巷議、是れ塗説と謂はん。
 方今、四海、[皇]極(※正道)を懽ぶ。
 豈に公然と凶器を舞はすこと有らんや。
 凶器、人を殺して官は罰せず。
 咄咄(※なんたることや)豈に此の恠事有らんや。
 為に一篇を賦して溪風(※田舎の風習)を吟ず。
 溪風、其れ吹いて天宮に到れと。
 (此の日、余は天野村閭側の茶店に息む。店主、余の為に此の如く言ふ。時に鳥羽邑に創の未だ癒えざる者數人有りと云ふ。)

【鼇頭】小林(※小林華山:長平と称す。長良村の人)云ふ。余、甞てこれを聴く。土人云ふ、この事五十餘年前の当時に剏(はじ)まる。
   以為(おもへ)らく、土岐氏の視Sの為す所、至って遂に悪例と為すと。
   然りと雖も、丙辰(安政3年)以後この事、寂寥にして無しと聞けば、則ち先生云々する所を致すなりや。
   英(※不詳)云ふ。詩は此に至りて始めて世教に有益、真の詩と謂ふべし。末段深く詩人の諷刺の意を得。得難し得難し。

田家、客を待つ
細香女史・僧大夢・医順道と同に小原鉄心大夫に謁す。
大垣帰途、僧大夢に似す。大夢酔いて衲を失ひ装を成し得ず医順道の副袍を借り而して途に就く。故に之に戯るる也。
丁巳(※安政四年)歳首。
三谷洞(※三田洞)寺。弘法大師の祠堂の壁に題す。
詠懐。
偶成。
拙堂先生、大垣に来遊す。之を聞きて客舎に謁す。
拙堂先生に従ひて諸名士大夫と同に正覺寺に遊ぶ。時に安政四年九月十三日なり。
拙堂先生に陪す。関原に赴く途上。
関原古戦場の歌(安政四年九月十四日、戸田(※戸田睡翁)・小原(※小原鉄心)・野村(※野村藤陰)・井田(※井田澹泊)等の名士二十餘人と與に拙堂先生に従ひ関原に遊び、駅長小山氏に館す。 翌十五日、小山氏の嚮導を以て千人塚を観る。検首台に登り酒壇上に把る。慨然として此の作あり。 先生の子、誠軒・僧雪爪(※鴻雪爪)また従ふ)。
拙堂先生、令子誠軒を携へ来遊。喜びを記す。
拙堂先生を奉じて稲葉山に登る。従遊する者三十餘人。
稲葉山懐古。拙堂先生賜ふに一絶句を以てす。韻に依りて之に酬ゆ。拙堂先生を送り笠松駅に到る。

秋江盧雁図。

 毰毸欲就稲梁謀。
 嘹唳又思繳女J。
 月下通宵眠不穏。
 江風淅淅萩花秋。

 毰毸(はいさい:羽搏く態)就かんと欲す稲梁の謀。
 嘹唳また思ふ繳(そうしゃく:鳥を落とす矢)の憂ひ。
 月下通宵眠り穏やかならず。
 江風淅淅、萩花の秋。

 ※時経列から察して安政の大獄について歌ったもの。すなはち「稲梁」は「稲津の梁川」梁川星巌を指すと思はれる。

鉄心大夫、上州坂基駅より其の土に出だす所の花漬一筥を送る。詩を副へて到る。韻に依りて之に酬ゆ。
鉄心大夫の改革十則に題す。
霖雨。
脚気を患ふ。
山田栄門、楊梅子を恵む。謝して言ふ。
眼を患ふ。
己未(※安政六年)歳首。
雪爪師の橡栗山房に寄題す(山房は越前福井に在り)。
白鶴、藩城内の郭の樹に巣つくる。賀すに此の詩を以てす。
霖雨。
酒人、壷を傾ける図。
西京雑詩。
伏水(※伏見)詠懐。
白鶴行。慶応三年五月三日、余、罪を以て市長を免ぜらる。適(たまた)ま二白鶴の園樹の枝に降りる有り。 のちも又た数(しばし)ば来り、来れば輙ち雌雄和して鳴く。余を慰めるものの如し。四隣みな賀す。因って此の作有り。
又。
竹。
菊。
平田学友の東遊を送る。
山本学友の東遊を送る。
松竹梅画。
木蓮翠鳥図。新貝氏の嘱の為にす。

  門人 遠藤儀作 校。門人 宮崎九市 校。

【巻六】

王師(※天皇)の東都を収むるを聞く。時に明治元年四月也。
災後即事。
鍬甥の加冠を賀す。
中秋前の一日。諸教授と同に小熊野川に遊び月を賞す。
中秋。
全昌寺に遊ぶ。雪爪師の南遊して還るに遇ふ。酒間、之を贈る。
雪爪禅師の芳野観花詩に次韻す。
原田少属の羽前に赴くを送る。
梅村楓崖、既に没す。友人市原修齋、為に之を報じ詩を覓む。
長谷部知事(※長谷部南村)・鉄心太夫・小野崎、桐山両参事、雪爪師と前後して過らる。戲作一章。
明治三年九月京師に遊ぶ。廿三日頼支峰を訪ふ。支峰喜びて曰く奇遇奇遇と。蓋し是の日適(たまた)ま故山陽翁四十回忌日なりし。因りて齋飯齋膰出て供せらる。遂に従ひて丘墓に上る。帰途此の詩を得て為に贈る。
西京の詞。
島・河合・廣江・江藤田・汲田の諸教授と同に上加納山に遊ぶ。従遊の者、廿餘人。
途上、同行の諸学生に似(しめ)す。
辛未歳旦(明治四年)。
憲章館詩会。「鳥声春を発す」を以て題と為す。「春」字を得る。
鵜飼の曲。
中村氏所愛の盆石に題す。
丹羽瀬不與宇に贈る。不與宇は世々岩村侯の家令の為、巌倉公(※岩倉具視)の東征、命を受けて山道の嚮導を為せる者。
備後三郎の桜樹の図に題す。
壬申歳首(明治五年)
小学校の壁に題す。
長谷部知事過ぎらる。
甲戌七月偶成二首(明治七年)。
菅右府の画像。乙亥歳旦(明治八年)。
朝田学監の歳旦詩に次韻す。
瑞岩寺に遊ぶ。
観潮坂に岳を観んとして見ず。
十年四月事に因りて東京客舎に在り。雪爪教正酒肴を携へ来訪す。謝して言ふ。
坂基の小嶋金二を訪ふ。金二の祖、萬衛と曰ひ余の三十八年前の東遊時の主なり。 之を問ふに没して廿餘年。其の妻其の子其の孫みな没す、而して独り金二あるのみ。情話に涕泣して一絶を得る。
芝の坊に高知達三を訪ふ。
飯倉坊僑居の壁に題す。
無学師、妙心大教正と為り濟松寺に在るを聞く。即ち賀するに廿八文字を以てす。 余、素より師を識る。また曾て其の父兄と親善たり。詩中、之に及べり。
小石川、四谷に赴く即目。
鴻春倪の四谷新居を賀す。
上野観花。同行の森・田中・高田・丸尾・小川の諸友に似す。
亀居門(※亀戸)に藤花を観る。同行の森・田中・高田・小川・小坂の諸友に似す。
遠田澄菴の脚気病院委員を賀す。余、曩に此の病を患ひ、澄菴宅の北に寓して治を受く。詩中、之に及べり。
東上舟中偶成。時に十一月廿五日なり。
先妣、磨甎院の十七回忌日。
十二年七月既望。牛込の宗参寺に在り。賦して寺主に似す。
庚辰(明治十三年)歳旦、徹児に示す。
上野観花。
都門雑感。
先考の徳運院の三十七回忌日。
臂掉山(山は東深瀬村に在り、姪の林弥左の有に属す。情は詞に見る)。
瑞岩仙応師、将に往きて正眼大龍禪師を追悼せんとし、途中に過ぎらる。賦して贈る。
瑞巌快応師の病を訪ふ。
鎌溪。
野口茂武嫗の八十八寿言。
片岡嫗の七十齢寿言。
湯島詞。島は飛騨益田郡に在り。
鞆児、従ひて湯島の客舎に在り。誤りて一燕子を殺す。譲責の餘、其の燕を温泉寺に葬る
偶成。

明治十四年十二月。故主の永井公、先塋を莵路(※宇治)及び加納に謁す。 加納は旧封なり。留まること十餘日。拝謁の餘、献ずるに二絶句を以てす。


 君臣一別十經秋
 重拝温顔涙忽流
 請看當時故宮殿
 半爲麥隴半林丘


   字字皆涙可泣結末感傷欲絶(宮原節庵)


 君臣一たび別れて十、秋を經て、
 重ねて温顔を拝せば涙、忽ち流る。
 請ふ看よ、當時の故宮殿、
 半ばき麥隴と為り、半ばは林丘に。


   字字、皆な涙して泣くべし、結末の感傷絶えんと欲す。(宮原節庵)




長良の新橋。

 縣下多年困大川。
 梁成人畜共安便。
 誰圖車馬同馳路。
 横截蛟龍所伏淵。
 古法不如新法利。
 一夫能奪百夫権。
 舊来舟子毋歎息。
 女有養蠶男力田。

 縣下多年、大川に困る。
 梁成りて人畜ともに安便たり。
 誰か図らん、車馬同じく路を馳せんとは。
 横截するは蛟龍の淵に伏す所。
 古法は新法の利に如かず。
 (※橋守の)一夫、能く奪ふ(※渡し舟)百夫の権。
 舊来の舟子、歎息することなかれ
 女は養蠶有り、男は田に力(つと)めよ。

瑞龍敬冲師の西京東福禪寺に転住するを送る。
高山客舎、諸友人に似す。
高山偶成。
国分寺の小鳥刀。
宿禰の祠。
野原某の画像に題す。某、五子あり皆な克く其の家を持つ。詩中、之に及べり。
森孫作、芭蕉翁の文台を其の師より受けるを賀す。
森孫一、鹿児島洲より美酒一壷を恵投す。謝して言ふ。
西覚寺観楓。
諸友と同に篠谷観音寺に遊び観花す。
太乙先生既に没するの七年。明治廿年、桜井・青木等の諸子、書画会を乾山徳授寺に開く。以て薦事を脩め、詩を請はる。

  門人 遠藤彦次郎 校。門人 棚橋恒吉郎 校。


『樅臺詩鈔』後序

樅臺義塾三宅先生。本姓小坂。幼名観。字海岳。称復輔。後改左平。美濃國武儀郡上有知邑之人。而村瀬藤城之門人也。藤城没而従齋藤拙堂。拙堂没而従宮原節庵。又東遊東都。見佐藤一齋。一齋以先生之曩在藤城之塾既識。内君及婿川田有興。待以親子弟容。直入講幃。居歳餘。有勧出仕者。先生以問有興。有興云。當時諸大家各有儒臣。以世其職故不辟士。辟士者在小家。即所謂禄仕耳。句讀仕耳。君其選焉。先生聞之惘然而帰。會同窓加納三宅氏嗣絶。先生入継之後。應地頭永井公辟。為藩之文學教授。及遂廃藩。建義塾於宅中。教舊藩士及隣里。頃者門生大野憲造。古請上木其詩。不聴。門生乃与縣下書賈。固請之。先生遂諾之。於是請序於友人野村藤陰。徴後序於予。即擧其履歴以為後序。如詩章之巧拙。才識之高下。以待四方君子之高評。予敢何言。

 明治廿二年五月 門人 森孫一郎 謹識。

『樅臺詩鈔』後序

樅臺義塾の三宅先生。本姓は小坂。幼名は観。字は海岳。復輔と称し、後に左平と改む。美濃國武儀郡上有知(※こうずち)邑の人。而して村瀬藤城の門人なり。
藤城没し、而して齋藤拙堂に従ふ。拙堂没し、而して宮原節庵に従ふ。又た東都を東遊して佐藤一齋に見(まみ)ゆ。一齋、先生の曩に藤城の塾に在るを以て既に識れり。内君(※一齋の妻)及び婿の川田有興(※河田迪齋1806-1859)、待(もてな)すに親子弟を以て容(ゆる)す。直ちに講幃に入る。
居ること歳餘、出仕を勧むる者有り。先生以て有興に問ふ。有興の云ふに、當時の諸大家、各(おのお)の儒臣有り、世(よよ)其の職を以てす。故に士を辟(め)さず。士を辟すは小家に在り。即ち所謂(いはゆる)禄仕(※月給取り)のみ。句讀を仕つるのみ。君、其れ選べと。先生之を聞きて惘然として帰る。
會(たまた)ま同窓の加納三宅氏の嗣絶えり。先生入りて之の後を継ぐ。地頭(※藩主)永井公の辟に應じ、藩の文學教授と為る。遂に廃藩に及びては義塾を宅中に建て、舊藩士及び隣里を教ふ。
頃者、門生の大野憲造、古(※始)め其の詩を上木することを請ふも、聴(ゆる)さず。門生、乃ち縣下の書賈と与(とも)に固く之を請ひ、先生遂に之を諾す。是に於て序を友人野村藤陰に請ひ、後序を予に徴す。即ち其の履歴を擧げて以て後序と為す。詩章の巧拙、才識の高下の如きは、以て四方君子の高評を待つ。予、敢へて何をか言はん。

 明治廿二年五月 門人 森孫一郎 謹識。




大野氏之鈔此編。予亦受命校其魯魚。有一友人。見之曰。足下近来非欲學泰西之文學。而主張英佛之學術耶。而今却校無用之漢詩。正不急之漢音。非我所知也。予即把所校詩巻。出都門雑感篇。示之曰。子第為予誦之。友人即朗誦一過。忽然正襟謂予曰。我過矣。我過矣。我過以為東人不若西人。東學不若西學。及今見先生之詩。初知。東學之所以不若西學者法。禁抑制之所致。而不在於人。非人不若也。嗚呼先生大嘆一發。何愉快也哉。非復文人墨客答咏月露誦嘯風雲者之比也。是必讀之編也。何待上梓。即袖其稿而去。及剞?告成。遂書其言。以為跋文云。

 明治二十二年十月 門人 棚橋恒 謹識。



大野氏、之れ此の編を鈔し、予また命を受けて其の魯魚を校す。一友人有り、之を見て曰く、
「足下、近来泰西の文學を學ばんと欲するにあらざるも、而して英佛の學術を主張す。而今、却って無用の漢詩を校し、不急の漢音を正すは、我の知る所に非ざる也」と。
予、即ち校する所の詩巻を把り、「都門雑感」の篇を出し、之を示して曰く、「子、第(ただ)予の為に之を誦せ」と。
友人、即ち朗誦一過、忽然として襟を正して予に謂ひて曰く、
「我れ過(あやま)てり。我れ過てり。我れ過つに以て、東人の西人に若かざる、東學の西學に若かざると為す。今、先生の詩を見るに及び、東學の西學に若かざる所以(ゆえん)は、抑制を禁ずる法の致す所と初めて知る。而(すなは)ち人には在らず、人の若かざるには非ざる也」と。
嗚呼、先生の大嘆一發。何ぞ愉快なる哉。復た文人墨客の答咏月露・誦嘯風雲の者の比に非ざる也。
是れ必讀の編なり。何ぞ上梓を待たん。即ち其の稿を袖して去る。剞?成るを告げるに及びて、遂に其の言を書して、以て跋文と為すと云ふ。

 明治二十二年十月 門人 棚橋恒 謹識す。


奥付


山陽詩鈔集解

『山陽詩鈔集解』

1881年(明治14年)7月 京都 : 佐々木惣四郎 上梓

小原鉄心 序 / 森春濤 跋

【第一冊】30丁、【第二冊】22丁、【第三冊】23丁、【第四冊】33+3丁 25.5×18.0cm

p3 p2

p5 p4

山陽詩鈔集解 序

山陽翁英傑之士也。雖身在草莽、心則常存于
王室。観其書可以覩高。嗚呼、使翁得運維新之
今日、則其文章作用果如何哉。特恨其生之不晩耳。
非獨此為翁一人、而為家国天下也。至如詩則唾餘
耳。而唾餘亦出憂国之餘憤。而同一心血之所注。故其
詩老蒼豪佚非如尋常詩人争奇於片辞事
韵者也。雖然翁固 非欲以此傳世者、況於其注細乎。然
則三宅子之挙非耶。曰不然。篠小竹序翁詩集曰、有
陳拾遺而李杜出有元遺山而楊虞興。夫有此翁
会豈果無翩興者哉。子今為其好興者注解以使通暁
作者之旨。則謂子為善誘之師亦不誣也。蓋翁之
於詩有奕世之詩風盛衰之気運、而況憂国心血
之所存。豈可不称述哉。於是乎序。

明治二年陽復月 大垣鉄心小原寛

先人不能手謄而逝矣。因承其意以書噫不肖迪



山陽詩鈔集解 序 (小原鉄心)

山陽翁は英傑の士なり。身は草莽に在りと雖も、心は則ち常に王室に存す。
其の書の以て覩るべきを観るに、高鳴、翁をして維新の今日を運ぶこと得ましむ。
今日則ち其の文辛じて作用果たして如何哉。特に其の生れるの晩からざるを恨むのみ。
ひとり此れ翁一人の為に非ず、而して家国天下の為なり。詩の如きに至っては則ち唾餘のみ。
而して唾餘も亦た憂国の餘憤に出で、而して心血の注ぐ所と同一なり。
故に其の詩は老蒼豪佚、尋常詩人の奇を片辞事韵に争ふ者の如きには非る也。
然りと雖も翁は固より此を以て傳世を欲する者には非ず、況や其の注細に於てをや。
然らば則ち三宅子の挙は非か。曰く然らず。篠小竹(篠崎小竹)、翁の詩集(『山陽詩鈔』)に序して曰く、
「陳拾遺(陳子昂)有りて李杜(李白・杜甫)出で、元遺山有りて楊虞(楊載・虞集:元詩四大家)興る」と。
夫れ此の翁の会有らば豈に果して興を翩す者無からんや。
子は今それを為し将に興さんとする者にして、注解以て作者の旨を通暁せしめんとす。
則ち子を善誘の師と為すと謂ふも亦た誣ひざる也。
蓋し翁の詩に於ける、世の詩風盛衰の気運に関する有り。
而して況んや憂国心血の存する所、豈に称述せざるべけんや。是に於いてか序す。

明治二年陽復月(※11月) 大垣鉄心小原寛

先人(亡き父)手づから謄す能はずして逝けり。因りて其の意を承り、書して以て噫(なげ)く 不肖 迪(鉄心長男)

p7 p6

後叙

余稟先生之命校山陽詩鈔集解。
以西京書肆某乞上梓也。客謂
余曰、方今欧学盛行以理化諸
学為有用。詩奇為無用。莫有学
者而子乃校詩之注疏以附之梓
無乃属無用乎。余応之曰。然矣。雖
然寧知不無用之為有用有用之為楚
用哉。今夫世亦謂、詩人之詩徒争巧
文字間者謂之無用。亦可如山陽翁
之作。則不然寓忠孝於花月託是
非於鳥蟲使読者戚之焉以不能忘至
懐古諸篇及南山湊川等作忼慨憤
惋有使読者入忠勇節烈之誠。而不
自知者是先生之所以為此著。子則
以為無用耶。曩者四海之勤王開
端於横議之処士焉知不其間有起
志於此以玉奏切者哉。此之欧洲
有用之学利用有餘、而忠厚不足動
輙弃其君如佛人者其得失果不昺
判也。如何之不祖述焉。客聞之黙然
而玄。因用筆其言巻尾以供読者之一笑云

明治七年五月 門人 森春撰并書



後叙 (森春濤)

 余、先生の命を稟けて山陽詩鈔集解を校す。以て、西京書肆某、上梓を乞ふ也。
 客、余に謂ひて曰く、
「方今の欧学の盛行、理・化諸学を以て有用と為し、詩の奇しきは無用と為す。
 学者有りて、子の乃ち詩の注疏を校し、以て之を梓に附す。乃ち無用に属する無からんか。」と。
 余、之に応じて曰く。
「然り矣。然りと雖ども、寧ぞ知らん、無用の有用と為す無くんば、有用の楚用と為らざるかな。
 今夫れ世は亦た謂ふ、詩人の詩は徒らに巧を文字間に争ふものと。之を無用と謂ふは亦た可なるも、山陽翁の作の如きは則ち然らず。
 忠孝を寓して花月に託す。是れ非於鳥蟲使読者戚之、焉以懐古諸篇に至り南山・湊川(後醍醐天皇・楠木正成)等の作に及ぶを忘る能はず。
忼慨憤惋有りて読者をして忠勇節烈之誠を入ら使む。而して自ら知らざるは、是れ先生の此著を為す所以なるも、子は則ち以て無用と為すか。」 と。
 曩者、四海の勤王、端を横議の処士に於て開く、焉んぞ知不其れ間有起志於此以玉奏切者哉。此れは之れ、欧洲有用の学利用有餘。
而忠厚不足、動(やや)もすれば輙ち、其の君を捨てる佛人の如き者は、其の得失、果して判ずること昺(あきら)かならざる也。
如何に之れ焉(これ)を祖述せざらん。客之れ黙然と聞く、而して玄。因りて其の言を巻尾に筆して、以て読者の一笑に供すと云ふ。

明治七年五月 門人 森春撰并書

p9 p8

p11 p10


三宅樅臺翁碑銘
翁諱守觀、字海岳、稱復輔、後改稱左平、三宅氏、樅臺其號也。美濃國稲葉郡加納町人。武儀郡上有知村小坂宗十郎君第三子也。安政二年六月、年三十九入螟於 三宅左兵衛君常家因冒其氏。三宅氏爲加納舊族。九世祖三宅孫六郎家重住厚見郡沓井。慶長之初、徳川家康公用家重之言、築城於沓井改稱加納。三宅氏之居適當 其地乃徙住市街。由是免地子及助役。子孫蝉聯占其地云。翁幼好学、從村瀬藤城受業、後執贅於幕府儒員佐藤一齋、於津藩文學齋藤拙堂。明治之初、補本藩出 仕、爲文学ヘ授。藩主永井公屡召諮詢國事、六年十月、以ヘ授心得、爲遷喬義校ヘ授。七年辞職。八年請官開樅臺私塾、下帷ヘ授。初翁之來嗣三宅氏也、攜授業 生徒ヘ、至是遠近子弟來學者滋多。翁誨人諄諄不倦。其講説不泥訓詁。指授大義使人思而自得。翁爲人朴實寡言、於世澹然無所求。如飲食衣服、一任家人所供、 或珎膳盈案、所職不過一菜羹。蓋非不強食之、將食而如忘之者、家居無事兀坐一室、潜心耽讀。有客在傍、不曽知之、久之始覺之、驚起作禮、談笑盡歓、雖祁寒 暑雨、終日徹宵、研精不休、嘗冬夜讀書、霜気透膚、所擁手爐火燼、灰冷亦不覺之。聞厨碑起汲井、始知天明。冬中如此者、數矣。其刻苦可知焉。 平居讀書、随 讀随抄。所手抄數十帙、大日本史、日本外史等、皆所親謄冩。明治廿九年七月七日、罹病没、享年八十一。葬於加納町欣浄寺之先塋。配三宅氏擧四男四女、長曰 太郎吉、承家、次月歌之助、別爲家、次曰福三郎、輔兄整理家政、次曰巴亦別居、長女適羽島郡正木村野口嘉左衛門、二女夭。三女適大垣町小山常次郎、四女適 加茂郡今村村上吉尚。翁學該和漢、又研覃刑律、餘暇好詩賦、最長古詩。晩年繙貝葉、頗如有所得。又好爲山水之遊、毎花晨月夕、擁門人四五輩徜徉行遊、以爲 楽、所著有山陽詩抄集解。樅臺詩抄。今茲門人丸尾錦村、持翁之行歴、來屬余碑文。余曰余之不文不足以不朽翁、辭之一再。錦村曰君與翁爲同門。 亦翁遺嘱也。 敢請。余不復辭、乃爲之銘曰。

 貌朴言訥、爛漫天眞、雅量容物、淳風孰倫。君子人耶、君子人也。

 明治三十一年五月 大垣野村煥識 恵那丹羽金吾書

三宅樅台翁の碑銘

碑銘

 翁、諦は守観、字は海岳、復輔と称し後改めて左平と称す。三宅氏。樅台はその号なり。美濃の国稲葉郡加納町の人にして武儀郡上有知村、小坂宗十郎君の第三子なり。 安政二年六月、年三十九にして三宅左兵衛君常家に入螟(ニュウメイ:養子)し、よって其の氏を冒(おか)す。
 三宅氏は加納の旧族たり、九世の祖三宅孫六郎家重、厚見郡沓井に住む。慶長の初、徳川家康公、家重の言を用いて城を沓井に築き、改めて加納と称す。三宅氏の居、 適(たまたま)その地に当たる。乃ち徙(うつ)りて市街に住む。是に由りて地子(地代)及び助役を免る。子孫蝉聯(ゼンレン:連なり)としてその地を占むと云ふ。
 翁、幼にして学を好み、村瀬藤城に従いて業を受け、後、贅を幕府の儒員佐藤一斉に、津藩の文学(学官)斎藤拙堂に執る(入門する)。明治の初め、本藩出仕に補せられ文学教授となる。 藩主永井公しばしば召して国事を諮詢(シジュン:はかる)す。
 六年十月、教授心得を以て遷喬(栄転)、義校の教授となる。七年職を辞し、入年官に請うて樅台私塾を開き帷下(開塾)して教授す。初め翁の来りて三宅氏を嗣ぐや、 授業(弟子)の生徒を携へ来り教ふ。是に至って遠近の子弟来り学ぶ者滋(ますます)多し。
 翁、人に教ふるや諄諄として倦まず、其の講説は訓詁に泥(なず)まず、大義を指授し、人をして思はせ自得せしむ。翁、人となり、朴実にして寡言、世におけるや淡然として求むる所なし。 飲食衣服の如きは家人の供する所に一任し、或いは珍膳案に満つるも、食ふ所は一菜一羹(あつもの)に過ぎざるが、けだし強いて之を食せざるには非ず、終に食はんとして之を忘るる者の如し。 家居無事なれば一室に兀坐(コツザ:正座)し、心を潜めて耽読す。客の傍に在るあるもかつて之を知らず、之を久しうして始めて之を覚り、驚き起ちて礼を為し、談笑歓を尽くす。 祁寒(キカン:激しい寒さ)暑雨といへども終日徹宵研精して休まず。かつて冬夜書を読むに、霜気膚に透り、擁する所の手爐(火鉢)の火燼(おき)、灰冷するもまた之を覚えず、 厨碑の起きて井を汲むを聞きて始めて天明を知る。冬中此の如き者しばしばなり。其の刻苦や、知るべきなり。平居書を読むや、随って読み随って抄す(抜書きした)。手抄する所は数十帙、 大日本史・日本外史等、皆親しく謄写するところなり。
 明治29年7月7日、病に罹り没す、享年八十一。加納町欣浄寺の先塋に葬る。
 配(妻)は三宅氏、四男四女を挙ぐ。長は太郎吉といひ家を承く。次は歌之助と日ひ別に家を為す。次は福三郎と曰ひ兄を輔けて家政を整理す。 次は巴と曰ひまた別居す。 長女は羽島郡正木村野口嘉左衛門に適(ゆ)き、二女は夭(折)す。三女は大垣町小山常次郎に適く、四女は加茂郡今村村上青尚に適く。
 翁は学、和漢を該(か)ね、又刑律を研覃(ふかく研究)し、余暇には詩賦を好み、最も古詩に長ず。晩年貝葉(貝多羅葉の略、経文)を播き、 頗る得る所有るが如し。又好んで山水の遊をなし、 花晨月夕ごとに門人四五輩を擁して逍遥行遊、以て楽しみとなす。著す所、山陽詩抄集解、樅台詩抄有り。今茲(ことし)門人丸尾錦村、翁の行歴を持ち、来りて余に碑文を属す。 余曰く、余の不文は以て翁を不朽ならしむるに足らずと、之を辞すること一再なり。錦村曰く、君と翁とは同門たり、また翁の遺嘱なり、敢へて請ふと。余また辞すること能はず、 乃ち之が銘を為(つく)る。

 貌は朴、言は訥、爛漫、天真、雅量、物を容る、淳風たれか倫(たぐひ)せん。君子人か、君子人なり。

 明治31年5月 大垣の野村煥識す 恵那の丹羽金吾書す

(岐阜市加納西丸町加納小学校内)

『碑文をたずねて 一 岐阜県下碑文漢文の部』(1994岐阜県歴史資料館刊行)に拠った。


落款

三宅樅臺

 名は守観、字は海岳、復輔と称し、後左平と改む。樅臺はその号。
本姓は小坂氏、武儀郡上有知村小坂宗十郎(名は實信、北嵩と号す。嘉永五年没す。年七十七。詩文集若干あり。)の第三子なり。
文化十三年を以て生る。安政二年六月、年三十九、三宅樅園(佐兵衛守常)の家に入螟し、因て其氏を冒す。
三宅氏は加納の旧族たり。九世の祖、孫六郎家重、厚見郡沓井に住す。慶長の初め徳川家康、家重の言を用ひ、(※岐阜城廃城に伴ふ新しい)城を沓井に築き加納と改称す。 三宅氏の居、適々その地に当る。乃ち市街に移住す。由て地子及び助役(税及び賦役)を免れ、子孫蝉聯その地を占むと云ふ。養父樅園、その父牛洞、並びに文学あり。
 樅臺幼にして学を好み、村瀬藤城に従つて業を受く。天保十年東遊し、幕府の儒員佐藤一齋に贄を執り、 後また津藩の文学齋藤拙堂および宮原節庵に師事し、郷に帰りて私塾「春曦塾」を開き徒に授く。
安政二年、三宅氏を嗣ぐや、授業の生徒を携へ来りて教授す。明治の初め加納藩に出仕し、文学教授となる。藩主永井侯、屡々召して国事を諮詢す。明治六年十月「遷喬義校(後の岐阜中)」教授となる。明治七年職を辞す。
明治八年官に請うて樅臺私塾を開き、帷を下して教授す。遠近の子弟来り学ぶ者多し。其の人を誨ふるや、諄々として倦まず、其の講説は訓詁に泥まず、大義を指授し、人をして思うて自得せしむ。
 樅臺人と爲り朴実寡言、澹然、世に求むる所なし。飲食衣服の如き、家人の供する所に一任す。或は珍膳の案に盈つるも、食ふ所一菜一羹に過ぎず。
家居して無事なれば一室に兀座し潜心耽読、客の傍に在るあるも曾て之を知らず、久しうして始めて之を覚り、驚起して礼を作し、談笑歓を尽す。
祁寒暑雨と雖も、終日徹宵研精休まず。甞て冬夜書を読む。霜気膚に透り、擁する所の手爐の火燼するも之を覚らず。厨碑起きて井を汲むを聞き、 始めて天明を知る。此の如きもの度々なり。其刻苦知るべし。
平居、書を読むや、読むに随つて抄す。手抄する所数十帙、大日本史、日本外史等、皆な親(みづか)ら謄写する所たり。
明治二十九年七月七日歿す。享年八十一。加納欣淨寺に葬る。配三宅氏、四男四女を挙ぐ。長子太郎吉、家を継ぐ。
 樅臺の学、経史に淵源し、博く百家に渉り、又刑律を研覈し、余暇詩賦を好み、最も古詩に長ず。共の詩は胸臆を直抒し虚飾を事とせず、咀嚼して味あり、篇々皆な樅臺その人の如し。
晩年貝葉(仏教)を繙き、頗る得る所あり。又好んで山水の遊をなし、花晨月夕、門人四五輩を携へ、徜徉行遊以て楽となす。
著す所『山陽詩抄集解』・『樅臺詩鈔』あり。丸尾錦村、森桂園等その門に出づ。

伊藤信著『濃飛文教史』(1936博文堂書店[岐阜市]刊行) 342-344pより。

     

 
岐阜市加納欣淨寺の墓碑(2021.01.08捜索 / 2021.01.12展墓)

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