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柴山老山(菅原琴)(しばやま ろうざん)

(1788 天明8年 〜 1852 嘉永5年)
菅原琴、字は冰清、一の字は太古、老山と号す、又海棠園主と号し、柴山司と称す。大野郡揖斐の人。山本北山塾の都講なるも、吟哦を事とせず経術を専攻す。
同塾出身の梁川星巌とともに以下の二冊を編集刊行。ひととなり温順敦厚、師の没後三年にして帰郷。下帷の後は「白鴎詩社」の一員として郷里に自適せり。


『宋三大家律詩』 (宋)范石湖、楊誠齋、陸放翁 撰;  須原屋伊八,若林清兵衛 等4肆, 文化8年刊 1冊.

宋三大家律詩 宋三大家律詩

老山の名が梁川星巌とともに最初にクレジットされた『宋三大家律詩』   別本(西岡勝彦様蔵)


『浩然齋雅談』 (宋)周密 撰 ;  英平吉 :西村源六, 片野東四郎, 泉本八兵衛, 植村藤右衛門, 文化11年刊, 1, 31丁 195×120mm  讀騒齋蔵版. 1冊.

浩然齋雅談 p1  p9

p3 p2
菅原老山 序

梁川星巌(詩禅) 跋  秦 星池(星池其馨)書
p5 p4

p6


『三野風雅』 菅原達(津阪拙脩)編,文政4年1821刊より (原文漢文。訓読および(  )内注釈は管理人による。)

序文より

三野風雅叙
民楽しむときは則ち文化興る。民苦しむときは則ち文化廃る。蓋し必然の勢ひ也。中古、室町氏覇業を墜せるの後、天下擾乱、兵革連(しき)りに起り、民みな業を失ひ、 饑えかつ寒(こごえ)て大いに苦しむ。是に於やまた各国文化廃る矣。方今承平、干戈動かざること二百余年、
賢君代々作(おこ)って而して教明、政(まつりごと)清く、民みな飽食煖衣、優游以って楽しむ。是に於やまた各国文化興る。吾が美濃、天下の中に処するを以って、 嘗て衰世の苦を受け特に惨(いたま)し。乃ち今、
盛世の楽を蒙る独り醇(あつ)し。其の楽を蒙ることの醇きや、また文化の行はるるも亦た盛にして、而して十室の邑(むら)にも必ず読書人あり。五尺の童子も亦たよく詩を賦し、文を属す。 古へより文化の行はるる未だ嘗て是の如きを聞かず。吾が友拙脩居士、伊勢の人なり。此の国の文化盛行の是の如きを聞きて来って、遊ぶこと此に三年。交游殆ど国に遍し。 近ごろは購経読史の暇を以って国内の詩を采輯し、名づけて三野風雅と曰ふ。蓋し古へ美濃は三野と称する故なり。刻すでに成り、序を余に属す。余、これを閲するに其の采、至って汎く、 其の輯、極めて密なり。彼、深く曲巻幽里の中に隠れて国人もなほ未だ其の名を聞き知るに及ばざる者に至るまで、皆よく網羅、遺すこと無し。人、凡そ二百名、詩、凡そ一千首。 美濃の詩、此に尽きると謂はんも亦た可ならんか哉。それ美濃文化の行はるるやまた是の如し。文人の衆まるやまたかつ其の詩の夥しきやまた亦た是の如し。 然りといへども今輯めて以って是を世に伝へずんば、則ち千歳の下おそらくは皆湮滅聞かざらんことを。嗚呼、其の文化、民の苦楽に由って興廃するときは、則ち幾千歳を歴るといへども、 幾波涛を隔つといへども、文化の興廃を観て、而して其の世の盛衰、其の政(まつりごと)の善否得失、以って推し知るべし推し量るのだろう)。 然らば則ち(文化の隆盛を示す)是の詩の関係する所、小ならず。あに其の湮滅を坐視すべけんや。蓋し居士の斯の集の有る所以なり。居士、吾が美濃の為に慮ることの何ぞ其れ是の如き、 深くかつ遠きや。琴(わたし)も亦たすでに其の選に与りて名を斯の集中に列ねるときは、則ち縦ひ其の属なきも、固より将に一言を題して聊か以って其の労を謝せんとす。況やその属あるをや。

文政四年辛巳秋九月初吉

              美濃老山菅原琴撰

本文記事(巻七1〜3丁)より

菅原琴、字は氷清、一の字は太古、老山と号す、又海棠園主と号し、柴山司と称す。大野郡揖斐の人。山本北山に師事し、経術を専攻す。吟哦を事とせず、故を以って載せるもの多からず。

「丁丑(文化14年1817)歳暮書懐」
“歳寒きも衣すでに成る。年歉(あきたらざる)も粟なほ積む。幸に凍と餓えと免るは。すべて是れ承平の沢。四海風波せず。天下に兵革なし。明徳日月の如く。恒に外日に以って赫たり。 賢才廟堂に満つ。稷契(しょくせつ・名臣の謂)数ゆるに百を以ってす。綱紀至って周密。毫末も遺策なし。野に知られざるの慍(いかり)なし。朝に素餐の責なし。 縦ひもし伊呂(いりょ・名臣の謂)を遺すも。何ぞ必ずしも復た徴辟(身分の低い者を召し出す)せん。四躰を勤むることあたはず。菽麥を分つことを得ず。我輩聖世に在るは。 実に是れ尾石に等し。昏愚量を知らず。なほ未だ自棄擲せず。竊かに言ふ、身は空しく朽ちるも。名を垂るるは幸に竹帛(書物)ありと。二十にして家を辞して去る。東西に席を暖めず。 江戸に先師を得る。笈を投じて即ち親炙す。五年纔かに業を受く。俄かに師の易簀(逝去)に會ふ。三年、心喪[門+癸おは]り。任を治めて窮僻に帰る。午窓常に駒を逐ひ。ただ恨む、 隙を過ぎ易きを。暁燈漸く寸を累ね。また苦しむ尺を成し難きを。周易は王痴(王弼の注に傾注の謂)に類し、春秋は杜癖(杜預の注に傾注の謂)あり。 文は学ぶ、遷固(司馬遷と固班)の法に。詩は慕ふ、陶謝(陶淵明と謝霊運)の格に。辛苦浪(みだ)りに許(かく)の如くも、至竟、亦何の益あらん。昏愚更に狂を添へ、適(まさ)に困厄を招くに足ると。 世相を挙げて笑ふにあらざるも、磨涅彌堅白(不詳)。是の心誰に向かって訴へん。彫(しぼ)むに後れる松柏(節操を持す謂)あらんことを。”

「詠老梅」
“槎牙たる老幹、花中の傑。曾て仙人長生の訣を受く。多年独立幽谷の中。飽くまで水を飲む復た飽くまで雪を嚼す。水を飲んで雪を嚼して清[く(瘠)]を甘んじ、 静を愛し喧を悪(にく)んで高孤を守る。春に向かって関せず繁華のこと。冬に値ってなんぞ識らん衰枯あるを。君見よ、凡桃と俗李を并べるを。東風三月艶美を競ふも、 一朝秋霜に圧倒せられて、枝摧(くだ)け葉落ちて倶に僵死す。”

「菊花の露」
“秋は満つ東籬の下。晶英晩更に清し。月凝って珠に彩有り。風砕いて玉に聲なし。餐し得て曾て渇を療し。摘み来って兼ねて醒を解く。驕奢漢の天子。 道(い)はず是れ金茎(露を受ける盤を支える銅柱)。”

「冬夜読書」
“多謝す、韓家の古短檠。寒窗寒夜、書を照らして明なり。百年漸積、生涯の業。四海惟(ただ)期す死後の名。楚辞を誦し罷めて心、忿を尚(加)へる。周易を読み来って意、 初めて平かなり。耿然と暁に至り眠り得難し。又是隣鶏、[ひょく]膊(ひょくはく・羽ばたき)の聲。”

「山行記事。原稿十首」
“松間竹裡の逕。行き尽くして地初めて寛し。畭田(新しい田)稲まさに熟れる。料り知る近くに村有るを。数家、村扉古り。独木、溪橋朽ち。老翁眉雪の如く。 孫を将いて南畝に[食+盍こう(田畑へ弁当をおくる)]す。”

「諸葛武侯、艸爐を出づるの年、二十有八。余もまた今年年二十八、なほ未だ一小儒を免れず。因って感あり。此詩に作る。実に文化乙亥(1815)冬、十月二十一日也。」
“幾箇の英雄、肩を息むことを得る。恩は深し二百太平の年。胸中の韜略(兵書)、竟に何の用ぞ。日暮れて閑窓、雨を聴いて眠る。”

「春閨」
“菱花を把って翠蛾(美女の眉)整はず。聞くも懶し、燕語と鶯歌と。傍人何ぞ識らん心中の事。只道(い)ふ、春来睡りを貪ること多しと。”


『三家詠物詩』  [上]:  (元)謝宗可撰 / 中:  (明)瞿佑撰 / [下]:  (清)張劭撰著    本文データベース(早稲田大学図書館)
江戸   : 須原屋源助         / 大坂 :秋田屋太右衛門 / 京 : 植村藤右衛門, 文政8年11月再校 刊 3冊
名古屋 : 梶田勘助(文光堂) / 大坂 : 秋田屋太右衛門 / 京 : 植村藤右衛門, 文政8年11月再校 刊 3冊の後版あり。

p7

p8

p9 p10

p11 p12

名古屋 : 梶田勘助(文光堂)刊行の後版


『五山堂詩話』(補遺一17〜19丁)菊池五山著,文政元年1818刊より原文漢文。訓読および(  )内注釈は管理人による。)

老山、菅(原)琴、字は氷清、一の字は太古、美濃揖斐の人。(山本)北山先生の都講と為る。先生没して後、場に居ること三年、乙亥(文化12年1815)任を治めて郷に帰る。 今歳また都に出て先生の墓に展す。因って重晤を得。余の老山に於ける、歓び一日にあらず、その隻句を収めて以って久要を存せんと欲す。其の人専ら経術文章を攻め、 韻語を以って名を博することを願はず。[門+必とざ]して出さず。余、猛(たち)まち一計を生じ謂ひて曰く、「某に「菊花の露」の一律有るを聞く。君もまた曾て此を作ると。 今なほ記すやいなや。」老山すなはち其の詩を誦して云ふ。

“秋は満つ東籬の下。晶英晩更に清し。月凝って珠に彩有り。風砕いて玉に聲なし。餐し得て曾て渇を療し。摘み来って兼ねて醒を解く。驕奢漢の天子。 道(い)はず是れ金茎(露を受ける盤を支える銅柱)。”

余、筆を援て急に書して曰く、「鈎距に中れりや(ひっかかったね)。」老山曰く「駟もまた舌に及ばざるなり。」相笑って罷む。

其の妻、卜部氏、金英、名は菊、字は女華、頗る吟詩を解し書画を能くす。「自画石榴図に題す」に云ふ。
“石榴、子を結ぶことを貪る。已に看る蝋珠の紅なるを。桃花の妬みを避けるが為に。春風宮に入れず。”

老山行く将に家を挈げて京に入らんとす。余、贈るに一絶を以ってして云ふ。
“竹笥柴車、細君に伴ふ。家を移して去って入る帝城の雲。知る雙美聲明の貴を。幾幅の丹青、幾軸の文。”

川(出)碧、字は霞生、春山と号す。高須の人。細(野)直、字は君立、竹軒と号す。揖斐の人。皆老山の授業弟子なり。 余に薦めて同じく升(のぼ)して選に入れしむ。

春山、「晩春」に云ふ。
“花時を過了して雨はじめて晴る。萬紅跡なく緑全く成る。人に替って訴へ尽す残春の恨。嘖々たり林間百舌の聲。”

「晩帰、雨に逢ふ」に云ふ。
“雲、峰巒を蝕して驀地に空し。溪頭薄暮雨濛々。斜風傘に扶して橋を過ぎて去る。已に落つ元暉水墨の中。”

竹軒「山行」に云ふ。
“溪辺行き尽して斜陽ならんと欲す。三両の人家、石墻を塁(たた)む。只道(い)ふ、山中秋寂寞と。柿黄に楓赤し萬林の霜。”

「冬暁」に云ふ。
“満地の清霜、寒、扉に満つ。窗を射る初日、力なほ微なり。凍蝿我と頑相似たり。暖を貪って爐頭肯て飛ばず。”


『濃飛文教史』(210〜213p)伊藤信著,昭和12年刊より

 本姓は菅原、名は琴、字は氷清、一字は太古、老山は其号、又別に海棠園主と号し、柴山司と称す。 揖斐の人、世々旗本岡田将監の老職たり。天明八年(1788)を以って生る。(星巌より長ずる一歳、藤城より長ずる三歳、細香より若きこと一歳)。
 弱冠(文化四年若しくは文化五年なるべし)家を辞して江戸に遊び、山本北山の門に入りて、経史詩文を研鑚すること五年、偶々北山の易簀に会ひ、やがて郷に帰りて私塾を開き、 子弟を聚めて教授す。文化十四年歳暮、賦せる所の書懐の詩は其の経歴の一端を知るべし。曰く、

“(上略) 二十にして家を辞して去る。東西に席を暖めず。江戸に先師を得る。笈を投じて即ち親炙す。五年纔かに業を受く。俄かに師の易簀(逝去)に會ふ。 三年、心喪[門+癸おは]り。任を治めて窮僻に帰る。(下略)”

と。先師は即ち北山を指せるなり。文化十二年十月賦して曰く、

「諸葛武侯、艸爐を出づるの年、二十有八。余もまた今年年二十八、なほ未だ一小儒を免れず。因って感あり。此詩に作る。実に文化乙亥(1815)冬、十月二十一日也。」
“幾箇の英雄、肩を息むことを得る。恩は深し二百太平の年。胸中の韜略(兵書)、竟に何の用ぞ。日暮れて閑窓、雨を聴いて眠る。”

と以って彼が胸中の雄志を抑へて、窮境の一寒儒に甘んじたる衷情を知るに足らん。
 文政年間、星巌藤城等と謀りて白鴎社を創設し、同社諸子と互に相往来して唱和応酬せり。特に星巌とは通家の誼あるを以って、最も深く交を訂せり。
 同六年晩秋(老山年三十六)、細香其の新居を訪ひ詩を賦して之に贈る。曰く、

“十年遊迹、江都に在り。却って緇塵を掃ふ新卜居。交態潮に似て進退を知る。世情月の如く盈虚を察る。籬辺霜菊なほ蝶棲み。竹裏寒泉魚見るべし。用ゐず、 生涯官[巾+責さく(頭巾)]を著けるを。明窓、尚友(古人を友とする)古人の書。”

 同九年秋、老山、星巌を其の梨花村草舎に訪ふ。星巌に詩あり。曰く、

“絡緯聲乾き、菊すでに衰ふ。西風[木+戚]々(さくさく・落葉の音)窓帷に入る。蹇へ予(我)無事にして将に世終らんとす。嗟爾多才時を済さんと欲す。千樹葉紅、 寒水見る。一糸髪白夕陽知る。溪琴山酒、吾家の物。笑って星徽(琴の節)を叩いて羽巵(杯)を倒す。”

以って其交態を知るべし。
 老山専ら経術を攻めて吟哦を事とせず。最も周易と春秋を愛して研覈得るところ少なからず。其の書懐の詩の一節に云ふ。

周易は王痴(王弼の注に傾注の謂)に類し、春秋は杜癖(杜預の注に傾注の謂)あり。文は学ぶ、遷固(司馬遷と固班)の法に。詩は慕ふ、陶謝(陶淵明と謝霊運)の格に。

以って其の好尚を知るべし。其の学、蓋し北山に基きて、折衷学を唱へたるべけれど、分権の徴すべきもの無きは遺憾なり。詩は固より其の楮余なれども、亦見るべきものなしとせず。 門人頗る多く、諸藩の子弟の従遊せるもの亦少なからず。其の家塾に於いては、題を課して詩を賦せしめ、以って子弟を指導誘掖せり。 故を以って門下子弟にして文雅を解し詩を能くするもの亦少なからざりき。
 嘉永五年七月十三日没す。享年六十五。揖斐町大興寺先塋の次に葬る。墓碑は同寺に在り。室卜部氏、子無し。星巌の姪、久太郎を養ひて嗣となせり。

「冬夜読書」
“多謝す、韓家の古短檠。寒窗寒夜、書を照らして明なり。百年漸積、生涯の業。四海惟(ただ)期す死後の名。楚辞を誦し罷めて心、忿を尚(加)へる。周易を読み来って意、 初めて平かなり。耿然と暁に至り眠り得難し。又是隣鶏、[ひょく]膊(ひょくはく・羽ばたき)の聲。”

「山行記事。原稿十首」
“数家、村扉古り。独木、溪橋朽ち。老翁眉雪の如く。孫を将いて南畝に[食+盍こう(田畑へ弁当をおくる)]す。”

「春閨」
“菱花を把って翠蛾(美女の眉)整はず。聞くも懶し、燕語と鶯歌と。傍人何ぞ識らん心中の事。只道(い)ふ、春来睡りを貪ること多しと。”


【記事】
別集(単行詩集)無し。『宋三大家律詩』(文化9年刊) を星巌とともに編纂。


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