Back(2007.05.18up / 2021.04.27update)Top

富岡鐵齋(1837/1/25天保7年12月19日〜1924大正13年12月31日)


富岡鐵齋筆「頼山陽坐像」


 学術誌『書叢』33号(新潟大学書道研究会2021.3.31発行 25.5cm,58p)を拝受しました。
 巻頭の一文「鐵齋の書美(27) 頼山陽坐像2-7p」で紹介された富岡鐵齋の筆になる「頼山陽坐像」。
 二年前、大学で野中浩俊先生から直接見せて頂いた眼福の記憶が甦りました。

 頼山陽の肖像については、山陽が亡くなる天保3年の秋、門人である東 山義亮※(池野大雅の子,大雅堂二世)が描いたものが数点確認されてゐます。
 いづれもその上部には、遺言めいた山陽の自賛が書きつけられてゐて、鐵齋が肖像と一緒に写した画賛から、頼山陽の盟友である篠崎小竹が代筆した一幅が粉本であるやうに思はれます。
 臥病中の詩人を前にして描かれたその画(天保壬辰秋九月 門人義亮謹冩)には、
「右、山陽頼先生の自賛二首、病ひ革(あらたま)りて自から題するに及ばず。其の門人牧信矦(※牧百峰)、余をして代書せしむ。けだし其の知己為るを以てなり。 弼(※小竹の名)」
と小竹の追記があります。(『没後百五十年 頼山陽展』日本橋三越美術館1982に掲載。)
 そして鐵齋が写したのは、この自賛に引を付したものです。以下に書き下してみます。

頼襄(のぼる)、字は[子]成。自ら山陽外史と号す。
幼くして逸才有り。京師三樹坡(※京都三本木)に寓居す。
詩文、英遒にして奇気有り。尤も史学に長ず。
性、謇特(※正直敢言)にして高く自ら標し、節を下交に折る(※下賤との交際)を肯んぜず。
 (※《新唐書.王義方傳》「經術を淹(ひろ)く究め、性、謇特にして高く自ら標樹す。)
また書を善くし、画を嗜み、古人の名蹟を取るを喜ぶ。
天保壬辰年(※天保3年)に卒す。享年五十二。著書『日本外史』『日本政記』数十種世に行はる。
自賛に曰く、(※以下篠崎小竹代筆の賛辞に準ずる)


身は一室に偃仰して而して心は百世の得失に關はる
己が虀醢(せいかい:生活苦)を恤(あはれ)まずして人の家・國を憂ふ
文章は腹に滿つれども(※家族の)飢えを濟(すく)はず
尺を枉げ尋(ひろ)を直くするは則ち爲さざる所なり
 (※利益を得るために犠牲を払ふといふことが自分にはできないのである。)
噫(ああ)是れ、何物の迀拙男兒か
然りと雖も いずくんぞ此の迀拙者を念ふの時、無きを知らん哉
 (※この愚か者を思ふ時が必ず来るであらう。)
この膝は諸侯に屈せず、いささか故君(※浅野侯)の徳に答へ
この眼はこれを群籍に竭(つく)し、先人の嘱(※亡父の期待)を虚(むなし)うせず
この脚は母の輿に侍し、二たび芳山(※吉野山)に躋(のぼ)り、
三たび大湖(※琵琶湖)を踔(わた)り、四たび𣾇瀛(※淀川)を上下すれども、
いまだ曾て朱頓の門(※金持ちの家)を踵(ふ)まず
この口は殘杯冷炙を[餂](うま)しとする能はざれども、(※飲み残し酒や冷えた肴さへ満足に食べなかったが。「飴」は『山陽遺稿』では「餂」。)
この手は黔黎(民衆)の寒餓を援はんと欲するなり


【参考 安藤英男著『頼山陽』(たざわ書房1979年刊)273-275p】

 また、富岡鐵齋が、欽慕する先賢の肖像画を蒐めてゐたことについて、鐵齋の孫、正宗得三郎の著『富岡鐵齋』(平凡社1961)のなかで、「古道照顔色」画冊(偉人画像帖)の一文が掲げられ、論文中に引かれてゐますので、同じく抄出します。

余平素欽慕忠孝節義之士及隱士併風者久矣。常欲集其肖像。
拮据盡日(十二月)得數百一。今不自揣。就中先哲數十人附以略傳爲此小帖。日夕相對磨三勵心操。爲師或友冀有所得乎。
 明治二十九年十二月歲除朔                富聽愧聾 鐵齋外史

余、平素、忠孝節義の士、及び隱士、併び風者(※風流者)を欽慕すること久し。常に其の肖像を集めんと欲す。
盡日(※終日と大晦日と掛けているか)拮据して、數、百一を得。
今、自ら揣らず(※僭越にも)、就中(※その中でも)先哲數十人、附するに略傳を以て此の小帖を爲(つく)る。
日夕、相ひ對し心操を磨勵す。師、或は友と爲(な)し、得るところ有らんことを冀(こひねが)ふ。
 明治二十九年十二月歲除(大晦日)朔(※朝?)                 富聽愧聾 鐵齋外史

※部分は私の勝手な訳註です。微力ながら資料探索で協力いたしました。




またポピュラーな復刻品として「山紫水明處」の額があり、これは私も自室に掲げて毎朝仰いでをります。鐵齋自身、明治5年10月〜7年12月の間に住んでゐた由。


 


論文にも、山陽の自刻印を鐵齋が一時的に譲り受ける逸話が紹介されてゐますが、そのことを得意げに
「此の印、頼春水が書き、山陽手づから刻す。材は扶桑木、今、予が珍蔵を蔵す。鐵齋識」と書いてゐて可愛い。


おなじく復刻もので、今でも手に入り易いお気に入りの軸を数点、以下に掲げます。

富岡鐵齋 復刻書軸 (真蹟:清荒神清澄寺蔵)

「昇天龍圖」

昇天龍圖

一筆に硯の海を飛出て 雲ゐにのほるたつそあやしき 九十叟 鐵齋

132.2×32cm  大正十三年(1924)八十九歲

印章 白文「富岡百錬」(趙叔孺刻)。 朱文「案山子」(奥邨竹亭刻)

株式会社 便利堂発行


富岡鐵齋 復刻画軸 (真蹟:大和文華館蔵)

「山荘風雨圖」

山荘風雨圖

人間萬事塞翁馬 推枕軒中聽雨眠 大正九年八月 鐵齋八十又五叟

人間万事塞翁が馬。推枕軒の中、雨を聴きて眠る。 大正九年八月 鐵齋八十五叟(おきな)

昭和51年 集英社発行


富岡鐵齋 復刻書軸 (真蹟:清荒神清澄寺蔵)

「丈夫心事二行書」

丈夫心事二行書

丈夫心事 當如青天白日使人得而見之 八十又五 鐵齋外史書

丈夫の心事 まさに青天白日のごとく、人をして得て之を見しむべし。 八十五(歳) 鐵齋外史書 (大正9年 1920年)

昭和42年12月20日 株式会社大丸発行


Back

Top