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伊藤聴秋(いとうちょうしゅう)([1822文政5年]〜1895明治28年) 

名は起雲、字は士龍、通称介一、黙成子のち聴秋と号す。 淡 路島洲本市のひと。 梁川星巌門下の三秀、四天王とも称された勤皇派。 享年74。 
詩集に『聴秋書閣集』(明治24年, 2冊)のほか、慶応元年に刊行された『甑山小隠稿』がある由(『星巌全集』第4巻433p記載、未確認)。
掛軸その一(2007.2入手)




鬖々白髪渡鳴門
驚魂白鴎波上翻
半生狂放耽

不独能忘是國恩

 庚午(明治三年)[○無噫]舟中 詩○ 聴秋酔○


鬖々たる白髪、鳴門を渡る
魂を驚かして白鴎、波上に翻る
半生の狂放、詩酒に
耽り
独り能く忘れざるは是れ國恩

鬖々:サンサン もののみだれるさま



『聴秋書閣集』(明治24年)巻之下14丁
廳召赴徳島舟中と題する三絶のひとつ

無乃(むしろ)白鴎波上翻
鬖々白髪渡鳴門
半生狂放耽詩酒
俯仰難忘是國恩

とある原作か。



掛軸その二(2007.2入手)





風雨滿山花委塵
曾過陵下涙霑巾
寧知生値中興日
一辨棒香如意輪

芳山二首之一 聴秋山叟

風雨満山、花、塵に委 (ゆだ)ぬ
かつて陵下を過 ぎて涙、 巾(きん)を霑(うるほ)す
いづくんぞ知らん、生きて興 の 日に 値(あ)はんとは
一弁の棒香、 如意輪(寺)

芳(野)山二首之一 聴秋山叟

※:明治維新を建武の中興に比した。
※:線香の 煙
※:後 醍醐天皇の勅願寺

『聴 秋書閣集』(明治24年)巻之下31丁
後醍醐天皇五百五十年御祭芳野如意輪寺洪譽上人寄書徴詩
因憶曾遊已四十二年不堪懐舊之感敬賦二十八字

後醍醐天皇五百五十年御祭(明治17年)、芳野如意輪寺の洪譽上人、書を寄 せ詩を徴せらる。
因りて曾遊すでに四十二年なるを憶ひ、懐 旧の感に堪へず敬して賦す二十八字




掛軸その三(2008.11入手)

  


更求自在又何時
鐡道汽船傳信機
吾亦振衣向東去
如今關左是王(皇)畿

聴秋山翁

更に自 在を求むる、また何ぞの時
鉄道、汽船、電信機

吾また衣を振りて東 に向ひて去 れども
如今、関左(関東)も是れ皇畿なり


『聴 秋書閣集』
(明治24年)巻之下16丁 「東上留別徳嶋一二故旧  乙亥(明治8年)」

付記

 田中克己先生の詩に、


    柳田国男先生
                     田中克己

先生にお目にかかったのはその
御老年になってからで
いつも散歩にお越しになる場所でのことだった
会ふといつも同じ質問をなさった
「どなたでしたかね」
「おくにはどこでしたかね」
あとの御質問に「淡路です」と答へると
またきまって「淡路には伊藤といふ漢学者がゐたがご存じかね」
とおたづねになった
わたしはいつも「存じません」と答へた
先生が亡くなられてからわたしは発見した
わたしの母の姉の嫁ぎ先の舅で
百歳まで生きたのがその人だといふことを
碑文は平沼麒一郎の筆で洲本に建ってゐる
柳田先生の御学問の百分の一は本になったが、
伊藤聴秋は著書をもたないので
その学問はつひに知られずじまひである
                   (昭和43年1月「果樹園」 144号)

 といふのがあり
「伊藤といふ漢学者」伊藤聴秋を指すのは間違ひないと思はれるが、それが先生の母これんの姉じょうの嫁ぎ先の舅の伊藤重義(淡路紡績社長)でないこ とは明らかであ る。
昭和19年百歳の長寿を全うした
伊藤重義氏が天保七年の生 れとすればそ の人だといふことを」は「そ の人の息子だといふことを」に訂正すれば辻 褄はあふ。
果たして伊藤重義の父が伊藤聴秋、田中克己の義理の伯父の祖父にあたる人なのであった。


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