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(2007.02.08up / 2015.07.20update
)
伊藤聴秋(いとうちょうしゅう)([1822文政5年]〜1895明治28年)
名は起雲、字は士龍、通称介一、黙成子のち聴秋と号す。 淡
路島洲本市のひと。 梁川星巌門下の三秀、四天王とも称された勤皇派。 享年74。
詩集に『聴秋書閣集』(明治24年, 2冊)のほか、慶応元年に刊行された『甑山小隠稿』がある由(『星巌全集』第4巻433p記載、未確認)。
掛軸その一(2007.2入手)
【付記】
田中克己先生の詩に、
柳田国男先生
田中克己
先生にお目にかかったのはその
御老年になってからで
いつも散歩にお越しになる場所でのことだった
会ふといつも同じ質問をなさった
「どなたでしたかね」
「おくにはどこでしたかね」
あとの御質問に「淡路です」と答へると
またきまって「淡路には伊藤といふ漢学者がゐたがご存じかね」
とおたづねになった
わたしはいつも「存じません」と答へた
先生が亡くなられてからわたしは発見した
わたしの母の姉の嫁ぎ先の舅で
百歳まで生きたのがその人だといふことを
碑文は平沼麒一郎の筆で洲本に建ってゐる
柳田先生の御学問の百分の一は本になったが、
伊藤聴秋は著書をもたないので
その学問はつひに知られずじまひである
(昭和43年1月「果樹園」
144号)
といふのがあり「伊藤といふ漢学者」が伊藤聴秋を指すのは間違ひないと思はれるが、それが先生の母これんの姉じょうの嫁ぎ先の舅の伊藤重義(淡路紡績社長)でないこ
とは明らかであ
る。
昭和19年百歳の長寿を全うした伊藤重義氏が天保七年の生
れとすれば「そ
の人だといふことを」は「そ
の人の息子だといふことを」に訂正すれば辻
褄はあふ。
果たして伊藤重義の父が伊藤聴秋、田中克己の義理の伯父の祖父にあたる人なのであった。
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