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【江戸後期詩人たちの周辺】 北條霞亭
旧林崎文庫
当文庫は外宮の豊宮崎文庫と共にわが国調査研究図書館の先駆をなすものであり、貞享3年(1686)宇治会合所の大年寄等が山田奉行岡部勝重(駿河守)に請ひ、
幕府の下賜金150両を得て翌年丸山に内宮文庫を建設したのに創まる。
然るにこの地湿潤の故に元禄3年(1690)北隣の林崎に移し林崎文庫と改称する。
天明2年(1782)荒木田尚賢等同志が書庫・講堂・塾舎を改修・増築する。この際、柴野栗山より「林崎文庫記」が、本居宣長より「林崎ふみくらの詞」が寄せられ、
碑文となって文庫の庭に今も残されてゐる。講堂裏には沢田東江書の孝教の碑も立った。
文政4年(1821)後方の高地に再建して石階を築き同6年(1823)茲に移転し今日に至る。
講堂で書を講じた大学頭、林信篤(講堂の額を書す)、伊藤東涯・竹内式部・大塩平八郎をはじめ、或ひは水戸光圀・村井敬義等の諸侯・学者は著述や蔵書をを寄進し、
その蔵書は11,978冊に及んだ。北條霞亭が「林崎書院長」を勤めたのは、
文化6年(1809)から3年間の間当文庫に身を寄せていた時代のことである。
明治6年(1873)土地・建物・図書一切を神宮に納める。同39年(1906)神宮文庫の開設により全蔵書を同文庫に移管する。
昭和29年(1954)国史跡に指定される。
見学については、春4/24-4/30 秋 9/18-9/24 のそれぞれ10:00-15:00に開放されてゐる由。
以上、立て看板ほかより中嶋が編輯した。
志摩的矢 北條霞亭墓
集落の背後、小高い丘の上のすこし分り辛いところにあります。
隣は父道有(適斎先生 延享四年〜文政七年)、その隣は母堂の墓。