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伊藤冠峰 (いとう かんぽう)
(1717 享保2年 〜 1787 天明7年)詩
名は一元、字は吉甫、冠峰と號す、通稱も亦一元、伊勢菰野の人。 冠峰文集、緑竹園詩集あり
『緑竹園詩集』
(りょくちくえんししゅう)
冠峰先生顕彰研究会(岐阜県笠松町) 1990.11復刻
原本 1782年(天明2年刊)11月 五巻三冊 蔵版
版元 尾張 松屋善兵衛 / 皇都 山田屋卯兵衛
1-2巻 4,3,3,3,31(1-16,17-31)丁 3-4巻 24,10丁 5巻 29,2,2,1丁
27.2×17.8cm(復刻本サイズ)
【1-2巻】 4,3,3,3,31(1-16,17-31)丁
序 細井平洲(安永7年3月 1778) 1 2
3 4 5 6 7 8
緑竹園詩集叔
余少與吉甫及南宮喬卿受学淡淵先生以従事筆硯與余最相親久之余従先生東都遂留家焉吉甫如濃業醫於松水之上蓋樹杏者日相踵焉云然時時寄書云毎一相思徒病心癢
今立戊戌春飄然東来先尋余廬余聞其聲出其髪蕭蕭[齒困]然歯墜矣且笑且哭終宵如狂漸稍取嚢中之集曰離違三十年未有微業之可以酬知己然心事亦不出于此巻請以
質乎子余受讀之自中州紫海濟勝之詠及往時酬酢之作併共存亡親友姓字皆具余未及卒巻潸然涙下顧當年所把臂誰非有志之士然自喪師後雲飛雨散不急要路則淹窮途概
皆就疎索至如髪枯歯墜而不改其樂千里離隔而不棄其交則能有幾與夫吉甫之厚如此而其才亦如此假使其在朱門華屋之間金玉其相追琢其章則締致之富亦未止于斯矣抑
吉甫之志淡榮利而醇肥遯然則濃野之一邉安於王國漁歌樵吟清於雅頌宜矣不以我縕袍代彼文繍也其我之望之豈不淺哉鳴呼今夕何夕以其至之前日喬卿病故余三兒同時
罹痘而孩嬰者不蘇方寸不免有異而吉甫亦爲之自失矣以故我之待之於其千里之誼未能展中情百一鳴呼亦一時也臨別不勝悶走筆序其巻端云爾
安永七年戊戌三月
友人尾張紀徳民撰
緑竹園詩集叔
余、少(わか)クシテ吉甫(冠峰)及ビ南宮喬卿(大湫)ト、学ヲ(中西)淡淵先生ニ受ケ、以テ筆硯ニ従事シ、余ト最モ相ヒ親シク之ヲ久シウス。余、先生
ニ東都ニ従ヒ遂ニ家ヲ留ム。吉甫、濃(美濃)ニ如(ゆ)キ、医ヲ松水(木曽川)ノ上(ほとり)ニ業トス。蓋シ杏ヲ樹ウル者(謝礼する者)日ニ相ヒ踵(い
た)ルト云フ。然レドモ時時(じじ)書ヲ寄セテ云フ、
「毎(つね)ニ一ラ(もっぱら)相思シ、徒(いたづら)ニ心ヲ病マシメ癢(もだ)ユ」ト。
今茲(ことし)戊戌ノ春、飄然東来シ、先ヅ余ガ盧ヲ尋ヌ。余、其ノ声ヲ聞キ出ヅレバ其ノ髪、瀟瀟トシテ[齒困]然(こんぜん)トシテ歯墜ツ。且ツ笑ヒ且
ツ哭キ、終宵狂ズルガ如シ。漸梢ク(やうやく)嚢中ノ集ヲ取リテ曰ク
「離違(りい)スルコト三十年。未ダ微業ノ以テ知己ニ酬(むく)ユ可キコト有ラズ。然シテ心事モ亦、此ノ巻ヲ出デズ。請フ、以テ子ニ質(ただ)サン」ト。
余受ケテ之ヲ読ム。中州紫海済勝(景勝渉猟)ノ詠自リ往時ノ酬酢(応酬)ノ作ニ及ビ、併セテ其ノ存亡ノ親友ノ姓字、皆具ハル。余、未ダ巻ヲ卒ハルニ及バ
ザルニ潸然(さんぜん)トシテ涙下ル。当年把臂(はひ:親しむ)スル所ヲ顧ミルニ、誰カ有志ノ士非ザラン。然ドモ師ヲ喪ヒテ自リ後、雲飛雨散要路ニ急ナラ
ザバ即チ窮途ニ淹(とどま)リ概ネ皆疎索(よそよそしい)ニ就ク。其ノ髪枯レ歯墜チテ其ノ楽シミヲ改メズ、千里離隔シテ其ノ交リヲ棄テザルガ如キニ至リテ
ハ、則チ能ク幾(いくばく)カ有ル。夫レ吉甫ノ厚キコト此ノ如シ。而シテ其ノ才モ亦此ノ如シ。仮ニ其ヲシテ朱門華屋(富家)ノ間ニ在ラ使メ、金玉其レ相ヒ
追ヒ、其ノ章ヲ琢(みが)カバ則チ、締致(俸禄)ノ富モ亦未ダ斯(ここ)ニ止(とど)マラザラン。抑(そもそも)吉甫ノ志、栄利淡クシテ肥遯(脱俗)ニ醇
(あつ)シ。然レバ則チ濃野ノ一辺王国ニ安ンジ漁歌樵吟、雅頌(詩経)ヨリ清シ。宜ナルカナ、我ガ縕袍(おんぽう:どてら)ヲ以テ彼ノ文繍(錦の着物)ニ
代へザルヤ。其レ我ノ之ヲ望ムヤ、豈ニ浅カラザランヤ。鳴呼今夕ハ何ノ夕ゾ。其ノ至ルノ前日ヲ以テ喬卿病故ス。余ガ三児モ時ヲ同ジクシテ痘ニ罷リテ、孩嬰
(がいえい)ナル者ハ蘇ラズ。方寸異有ルヲ免ズ。而シテ吉甫モ亦、之ガ為ニ自失ス。故ヲ以テ我ノ之ヲ其ノ千里ノ誼(よしみ)ニ待ツコト、未ダ中情ノ百一モ
展ブル能ハズ。
鳴呼、亦一時ナルヤ。別レニ臨ミ悶ニ勝へズ、筆ヲ走ラセ其ノ巻端ニ序スト爾(しか)云フ。
安永七年戊戌三月
友人尾張紀徳民撰
序 南宮大湫(安永6年1月9日 1777) 1 2 3
序 釋金龍(安永8年7月 1779) 1 2 3
序 岡田新川(安永9年11月 1780) 1 2 3
【3-4巻】 24,10丁
【5巻】 29,2,2,1丁
後序 杭州 汪竹里(乾隆46年8月22日 1781) 1 2
後序 赤須眞人(安永10年 1781) 1 2
後序 廣瀬松水(天明元年冬至 1781) 1
後記
もうどの位になるのか。確か三年前の九月の事だったか。宮崎氏から分厚い郵便物が届いた。これが何と私と冠峰詩との最初の出合いであった。 伊藤冠峰の伝記を作るのでそれに載せる詩の訓釈を見てほしいとのこと。事前に電話でそんな依頼があったりはしたが、当時私は他の原稿書きに追われており、 先人の詩の解釈などは大変面倒な仕事で、浅学の及ぶ所ではなく、御地の然るべき方を探してお願いしてほしいと断わっていた所だったので聊か吃驚した。同封された詩は十八首、 それに氏の訓釈が添えられていて見てくれとのこと。見るともなく見ると氏の苦心の跡がありありと伺える。明らかな誤釈も目に付いた。こんな事で氏の熱意に動かされ、 せめても誤りの部分だけでも直してあげなければと、その日から筆を執り始めた次第である。
正直言ってそれまで私は伊藤冠峰の存在を知らなかった。ましてその詩を目にした事もなかった。送られて来た詩稿から冠峰を知り、その概ねの経歴と詩風を心得、 その詩集に「緑竹園詩集」なるものが存在する事も分った。それに筆を進めて見て行くうちに冠峰の人となりとその詩風に興味を覚え始めた。
話は変わるが私は長年名古屋に居住した。一人暮しの身となって食事に困りここ瀬戸の地に移った。入居したのは当時出来たばかりの有料老人ホームのミソノピア。 ここに入ってからは三食昼寝つき、食事や家事の心配は全く無くなった。それを幸いに老後の仕事の一つとして、土地の為に自分の才能を生かしてみよう、 先ずは漢詩文を中心に瀬戸の文学史でも書いてみようかと考えた。入居後色々と心して資料となる物を探して集めようとしたが思わしくは見当らない。やはり瀬戸は瀬戸物のまち、 現今はいざ知らず、過去の当地方は寒村で文学らしい物が残っていないと言うか無い。高名な学者や文人詩人は見当らないし、古い寺院なども有るには有るが学僧や詩僧などは出ていない様で、 がっかりした。
そんな時に冠峰の詩が舞い込んできた。この土地の為にするものが無ければ生まれ故郷の為にするのも悪くはあるまいと思い付いた。今の岐阜市が私の生まれ故郷、 二十歳過ぎまで岐阜県の恩を受けた。小学校も中学校も師範学校もみな岐阜の地で過した。笠松は岐阜市ではないが隣接の地、 ここで笠松の地に関わりを持つのも何かの縁と考える様になった。
私は長年漢詩を勉強して来た。漢詩文には中学の頃から興味を持ち、大学も漢文学を専攻とし、漢詩特に唐詩に興味を引かれ卒業後もその調べを続けて来た。 作詩も多少はする。今もまだ人様の詩を添削させられたり、漢詩の講座に出されたりもしている。 そして最近強く感ずるのは従来の漢詩や漢文がだんだんと訓めなくなるのではないかという事である。漢詩や漢文を訓点を付けていわゆる訓読出来る人がやがて居なくなるのではないかと心配される。 かつて日本文学の一翼を担って来た漢詩文が訓めなくなる。訓点の施された有名な古典はまだしも、直筆の漢詩文、軸物、額物また詩文集、碑文掛など手が付けられなくなるのではないのか。 今そんなものを出来るだけ訓める様にしておかないと貴重な過去の文化財も無に等しくなる。ここで漢文の訓める者が訓める様にしておかなければなるまい。それが訓める者、 特に私程の年頃でかつて漢文を学んだ者に課せられた義務なのではないかという聊か思い上がりの様な気持ちに駆られた。
瀬戸にはそんな対象となる漢詩人は見当らない。笠松には伊藤冠峰がいる。今その人の詩の訓みを自分は問われている。却って願っても無い事かも知れぬ。 では一肌脱いでみるかと意気込んでみた。
さて、伊藤冠峰の詩集に「線竹園詩集」のあることが知れた。一部の詩を解読するには全部の詩を読んでみる必要がある。伊藤家にその写本が所蔵されていることも知れた。 そこで宮崎氏に写本のコピーを依頼した。氏から写本三冊のコピーが送られて来た。早速訓み始めてみたのである。
この写本はどんなにして作られたものか。先代の頃に、書写専門の書生があったものか、人に依頼して作られたものらしい。コピー機のない当時のこと、 書写生は幾日か泊まりがけで日々写しに通ったことだろう。筆記具は毛筆である。写しに行ったのは内閣文庫(現在は東京都千代田区北の丸公園3-2)だという。 今から思えば大変なこと、その費用や宿泊費等かなりなものであったろう。
写本によって訓み姶めてみると訓み辛い所が出て来る。何しろ人のする事、それに本人が本当に漢文が理解出来ていて写したものかどうか、 ただ文字を辿って写した箇所も少なくはなかろうし、疲れの時もあったであろう。明らかに誤写が有ったり脱字が有ったりする。訓点の付け方にも疑問な点が出て来る。 本物の版本の方はどうなっているのか、版本で確かめる必要を痛感しだした。
原本の版本は宮崎氏の言によれば内閣文庫の他に京都大学の図書館にあるとのこと。写本には序文の部分が無かったが、その部分のコピーが既に大学から取り寄せられていた。 然し本文全部のコピーは無い。全部のコピーも依頼された様だが、本全部のコピーは本に熱が加わって本を損傷する恐れがあるとかで作られていなかった。出来るのは写真撮影によるもの。 かなりの日時を経てその写真撮影なるものが届けられた。見ると原寸より小さく写され、しかも本文を囲む上の枠巾と下の枠巾とでは三ミリメートル程上が広く下が狭い。 それに版本自体がかなり破損しているとみえて、中巻の表紙も無く、虫食いの箇所があちこちに有り、また染みや汚れも点在し、蔵書印なども押されたり墨で塗られたりしていて、 見苦しさが目立った。此れを目にして此れを訓みこなすには先ず版本を整理してみる必要があると感じその複製を思い立った。それに原本が全国に二部しかない。 一般には手が届かず、冠峰を知る上でも研究者の手に入り易くしてみなければなるまいと複製を試みることとした。
以後早速その複製の作業に掛かったわけだがこれがなかなか大仕事だった。日々幾十分幾時間、どれだけの日月をかけたことか。ホーム暮しの生活だからこそ出来たこと、 欲得勘定では到底出来ない根気仕事だった。ここに細かには説明し難い苦労をした。先ず原寸大に拡大する。本文を囲む枠の上巾と下巾の違いを切り開いたり、 上部の南外側を一ミリメートル程塗り消しその内側を一ミリメートル程塗り広げ、下部はその逆をして上下の巾を同じにする。表頁と裏頁の枠の上下や左右の長さの違いも調整する。 文字や空間の汚れも丁寧に塗り消して行かねばならない。これも大仕事。塗り消しはポスターカラーのホワイトを面相筆を使ってするのだが、 ポスターカラーは水性なのでコピーの黒が油を含んでいて塗っても弾かれてなかなかうまく一度には塗り消せない。二、三度も塗り直す。空間の汚れや文字の一点一画も汚れの部分を消さねばならない。 全くの小細工、目や肩や腰に疲れを覚える。
版本では返り点や送り仮名は一応は施されてはいるが完全ではない。一、二点でも一が抜けていたり二が抜けていたり。送り仮名も付けてあったり付け足らなかったり、 中には仮名遣いのミスもある。
これを修正する。詩題には訓点が施されていなかったがすべて返り点のみを補った。返り点の抜けや現代用法との違いの部分も修正し、送り仮名についてはそのままとし、 誤りのみを正した。句点(、)は初めの一部には付されていたがすべてに付した。用字も色々な字体が使用されたりしているが誤字は正した。 字やそれに枠や行間の線も掠(かす)れていたり切れていたりするのも黒のボールペンで補った。
こんな風でこの複製本は原本を解いてそのままコピーして仕上げたものではなく、全行全字全線空間まで殆ど手を加えない箇所は無いと言っても過言ではないほどこの三年間日々苦労した。 いわば私の老いの精魂を傾け尽した生涯の芸術作品とでも言い得よう。自分ながらよくも仕上げたものだと感心する。 とにかく目下の所二部だけしか見当らない版本をどうにか複製出来てより多くの方々のお目に掛けられる様になったのは本当に嬉しい。
詩の内容的な読解や分析は他日の事とするが、冠峰の著述が他にも有ったと言われても、それらが見当らない今日に為っては冠峰を知る上で、 この詩集は貴重なものであるのは間違いない。世の識者の研究の資ともなり多少なりとも学術的な貢献が出来れば苦労のし甲斐があったと自ら慰め喜ばざるを得ない。
付録の遺墨について付言する。
冠峰の遺墨も多くは見られない。ここに収めたものが全部であるかと思われる。その殆どが伊藤家に保存されている。 ご多分に洩れず当時の文人の筆跡と同様冠峰のも達筆で多少の書き癖を持つ。読むとなるとなかなか読み辛い。 ここに掲げた遺墨もやはり読み難い文字が出て来るが書翰を除いて他にはすべて現代用字に置き替え返り点を施してみた。勿論読み違えもあろう。何れ識者の訂正を得る事が出来れば望外の幸いである。 読み難い文字については知友にも判断して貰ったりした。何かと教示を得た諸賢に感謝する。
さて、冠峰の事績を今にして顕彰しておきたいとの念願の一つがこの詩集の複製であるが、他に詩碑を作っておこう、 それに詩吟をされる方々に吟じて貰う為に詩集から選び出した詩吟用の教本というか吟本というか、そんなものもこの際に作っておこうと考えた。
当初は版本の複製を完成させてからと考えていたが、いざ版本の複製に取り掛かってみると上記の様で一年や二年では完成出来そうもない。 そこで詩碑の方をその間に先に作っておく事とした。
初めは伊藤家の邸内に建ててはと思ったが都合で現在の場所にすることとなった。どんな詩をどんな風に彫るのか、スタイルはどんなにするのか、 色々と考案し相談し結局は現在のものの様になった。コピー技術の進んだ今日とはいえ、写本の文字を拡大し拡大し、切り張りして文字の位置も多少変えて補修し、 原寸大の碑表の図案を作るのはこれも並大抵ではなかった。碑陰も文字と字句の排列に随分と苦心した。訓読文を刻んだのは宮崎氏の希望による。 半年程苦労したが何とか立派に実現出来て満足の他ない。これも全く宮崎氏のご協力あってのこと、適切な事務処理、ご助言に心から感謝する。
除幕したのが昨年の十一月五日、日曜日、快晴だった。当日は町長さん以下多数の町当局の方々、伊藤家の方々、当地の詩吟愛好の方々、 それに私が講師をしている名古屋の毎日文化センターの漢詩教室の方々、工事関係、報道関係、当日司会の方々などおよそ百人近い人人のご臨席を得た事は私の生涯での強い感激である。 緑竹園に因んだ詩碑を囲む緑竹、秋晴の空に光りながら落葉が一枚二枚と舞う。その中に流れた吟士の方々の美声も素晴しかった。
式後伊藤家のご好意によって料亭吹原で関係者に慰労の宴を賜わったのは有り難い事で感謝の他ない。またこの日はミソノピアで平素世話になっている石原弘氏の車で瀬戸から往復し、 かつ写真撮影など氏に何かと身辺の世話になったのも有り難い事であった。碑には三百万程の費用と工事には数箇月を要した。その工事を担当された方々にも心から感謝する。
八頁に掲げた冠峰の自画像の色紙は当日の記念として出席の方々に配られたものだが六頁のものをアレンジしたものである。これも宮崎氏の尽力による。 現代のコピー技術の有り難さを知る。
吟本の作製も何れ後日に実行したい。目下は本文の訓み返し中である。だが吟本として現代感覚で一般的に吟じ得られるものを詩集から選ぶとなるとこれも簡単ではなさそうである。 何れ詩集についての見解もまとめてみたいとは思っているが、冠峰の思想や風格を表現する十分なものが出来るかどうか。吟者の方々の意見も参考にしてまとめて行かなくてはなるまい。
とにかく、冠峰の事績を現代的な立場から出来るだけ顕彰しておきたい。冠峰先生顕彰研究会も作られている。今のこれらの仕事を切っ掛けにして更にこの会の活動が発展すれば幸いである。 この冊子は二百五十部出版、印刷製本費に二百二十万円程を要した。購読して頂けた収入のすべては会の今後の活動の基金に当てて貰いたいと願っている。 有識の方々のご理解とご協力を賜わりたい。
私は所詮他郷人である。これらの完成を侯って笠松の地とは惜別せざるを得まい。事業の一層の発展を願って息まないものである。
末筆ながらここに詩集の出版、詩碑の建設に際し何かとお力添えを願った方々のお名前を記して重ねて感謝し敬意を表する。
先ず第一に宮崎惇氏。今度の仕事が出来たのも氏の存在があったからこそである。宮崎氏が当町の中央公民館の館長の職にあったこと、それに宮崎氏と私との個人的な縁があったのによる。 ここに個人的な繋がりを書くのは控えるが、書けば思い出は長い。ご両親も存じ上げており、ご令母すぎ先生にはお世話になったりした。まさに崢エ五十年前のことである。 こんな事で、冠峰詩の訓釈を依頼されても無下には断わり切れず、そのうちにミイラ取りがミイラになったのか、日々を冠峰詩の調べに過す羽目となり、 さては詩碑を建てたり詩集を複製したりの始末、縁は異なものである。
こんな経緯で氏の手になったのが41頁に紹介した著書『郷土の先哲・漢詩人 伊藤冠峰』である。冠峰を知る上で無くてはならぬ貴重なもの。 筆者も多くの便を得ている。購読をお勧めする。
次いでは伊藤玄適氏。勿論当初は一面識も無かったが宮崎氏の紹介による。度々お家にお邪魔したにも拘らず、多忙のご家業の中を心よくお相手下さり、 資料の提供等積極的にご協力を願えた事は全く有り難い事であった。ご令閏にもお世話になり厚くお礼を申す次第である。因みに氏は冠峰より八代日の後裔にあられ、 玄適(玄適の玄は冠峰の義兄だった玄沢の名によろう。)の名は二代、四代目も同様で、三代、五代は冠峰の名だった一元を名乗られている。 氏は薬剤士として藤田屋薬局(下本町人)を経営されている。
冠峰の直筆の詩文の訓み辛さで私の浅字を補って頂いた知友にも改めて、感謝の意を表する。みな漢詩同好の吟社の方々である。
ミソノピアでは朝な夕なコピー機で随分と便宜を受けた。事務所の皆さんにも心から感謝する。特に、松井国雄氏には冠峰の出生地である三重県の菰野町までお連れ願い、 町の郷土資料館、それに冠峰の号の由来する冠ケ岳(鎌ケ岳1161メートル)に案内して頂いた。冠ケ岳では老骨の私は頂上に立つ事は出来なかったが、その近くまで登り、 帰り熊笹数枚を持ち帰ったのは今も印象が強烈である。
最後に毎度の事ながら、丸善の自費出版センターの方々には何かと一方ならぬお世話になった。香村裕子女史、久野暁氏、佐藤隆氏、志村善三郎氏に敬意を表する。
序ながら、私は一九一六年十一月八日、岐阜市加納東丸町2-56に生まれた。先祖の出は同市雄総、父達美、母がく。岐阜男子師範学校の附属小学校、岐阜第二中学校、 岐阜師範の二部を卒業し、一時、女子師範学校の代用附属小学校だった加納尋常高等小学校で教鞭を執った。今も加納の地は懐しい。その後、 広島高等師範学校(教育科)を経て広島文理科大学の漢文学科に学んだ。卒業後名古屋に出、中村区五反城町1-18、雲夢庵に居住、一九八三年二月二十三日、悼亡、倭文捐庵、 一九八六年十一月二十六日、ここミソノピアに移る。居室を方外房と名付けている。
いささか漢詩文を勉強、これまで多少の出版物があるが、丸善で自費出版したのは ○唐詩絶句の声韻と修辞 ○吟草雲夢(沖縄吟草、中国吟草、雲夢吟草、倭文悼歌他) ○現代日本漢詩人集新騒 ○老いのことば、があり、この度この本が出来て五冊目、随分お世話になったが、それぞれ立派に出版出来、 それなりの成果と反響を得た事は本当に幸福至極なことである。
今後はここ瀬戸市の文学的なものをまとめたいと念願し今も努力中だがさてどんな事になるのか。目途は来年の十一月八日、私の七十五歳の誕生日である。 ご期待願えれば幸甚。
今は漢詩作りは余りしていないが、作詩の吟社に出たり、文化センターで漢詩の講師をしたり、詩吟の方々のグループともお付き合いしたり、日夕作詩の添削に追われたりしている。 拙書『老いのことば』の「芸は老いを助ける」を地で行くような有様。自分の才能を何とか人様に役立てられる間は頑張ってみたいものである。
それに今一つ画がある。私は趣味で京都四条派の流れを汲まれた名古屋熱田の日本画家故石川英鳳先生に亡くなられるまで二十年間運筆の指導を受けた。今も時折、 色紙がきしたり、草花などのスケッチをしたりしている。結構色紙を所望してくれる方や、中には教えてほしいという方もおられて、そのお相手をしたり、 楽しみながら老いの遊びに日々の生活に変化を添えられているのも有り難い事。
冠峰先生は呼びの七十一歳で亡くなった。私は今呼びの七十五歳、学は及ばないが先生より長生き出来たのは自慢にならぬ自慢とでも言おうか。感慨深いものがある。
老いの繰り言か、くだくだと思うがままに事の序に書き綴ってみた。まさに老いの遊び、お笑い下さい。
一九九〇年十一月八日 七十四歳の誕辰を記念して
ミソノピア 方外房にて
九功 村瀬一郎 記す
『緑竹園詩集訓解』
村瀬一郎著 2001年11月 冠峰先生顕彰研究会(岐阜県笠松町) 刊行 534p.22cm 上製函