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四季派の外縁を散歩する   第31回

不易流行 一戸謙三詩の変貌と抒情

弘前市立郷土文学館 2022年企画展 「追憶と郷愁の詩人 一戸謙三」 図録より

【1】 出発期 大正8年〜大正10年
【2】 疾風怒涛期 大正11年〜大正12年 「黄金の鐘」の時代
【3】 傷心期 大正13年〜昭和2年 「水松(いちい)の下に」の時代
【4】 モダニズム期 昭和2年〜昭和9年 「月日」「夜々」「索迷」「神の裳」の時代
【5】 津軽方言詩 昭和9年〜昭和11年
【6】 押韻定型詩 昭和10年〜昭和15年
【7】 戦中「身辺雑詩」 昭和16年〜20年
【8】 戦後 昭和20年〜


【1】 出発期 大正8年〜大正10年

●抒情

ものみな、みるくいろにとけこんでゆくころ、
柔い夏のたそがれの匂ひにいざなはれて、
あなたの肩のまろみを感じる手は、
あやしい髪の林にさ迷ふとしたときです。
熱にもつれふくれあがった私のことばは、
あなたのささやく別れの冷たさに凍り、
瞳はかなしくとけはじめ、ながれだし、
歩み帰るあなたのふっくりした着物のいろが、
遠い景色のなかにとけてしまったのちも、そののちも
香ぐはしいあなたの足音にくちづけしてゐた、こと!   大正9年『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)所載


●蒼き流のほとり

さみしや、われ人を恋ひぬれ、
今日もこんこんたる蒼き流れのほとりにありて
遠くはるかに思ひつかれ、
すべなくも、また帰らんとするに、
向山(むかやま)の峯のあたりにむら立つ木の梢らは、
しら雲ながるる空をさししめしながら、
しんねんと音もなく燃えのぼるぞや、
燃えのぼるぞや   『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)所載


 これは大正10年22歳の一戸謙三が、代用教員だった黒石高等小学校の印刷機を使い、ペンネーム一戸玲太郎名義で自分の年の数だけガリ版印刷した『哀しき魚はゆめみる』という詩歌集に収められている作品である。

 一戸謙三(1899-1979)は近代詩の主流が口語詩に移りゆく大正期にデビューした。文学青年の通例として短歌修行を経(へ)、当時人気のあった萩原朔太郎『月に吠える』(大正6年)『青猫』(大正12年)や室生犀星『抒情小曲集』(大正7年)の影響のもとに、このような作品を書いて詩人として出発したのである。
 憧憬の念が強く、孤独に耽る傾向のあるその抒情は、当時としては官能的と呼べるものであり、それはこのガリ版刷り冊子にみられる波打つ筆跡にもあらわれている。その用語・雰囲気には朔太郎・犀星の摸倣が認められるものの、言葉の抽斗が豊富で、オリジナルな実感が息づき、単なる摸倣表現から抜き出ている。

 詩人としての天稟を感じさせる繊細な語感は、修練を積んだ短歌の方に、より一層はっきりと見ることができる。

草色の肩掛けかけて池の辺に 鶴を見入りしひとを忘れず
雨はれて夕映え美しきもろこしの 葉陰にさびし尾をふれる馬
うす苦き珈琲をのみつしみじみと 大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり
月のした輪をなしめぐる踊り子の 足袋一様に白く動けり
鏡屋の鏡々にうつりたる 真青き冬のひるの空かな       『哀しき魚はゆめみる』(大正10年)より


 これら出発期の創作をながめると、当時の詩壇を席巻していた民衆詩派が掲げる人道主義とは異なり、芸術至上主義を掲げていることがわかる。この非政治的・非宗教的な姿勢は以後、社会情勢の変化や、たび重なる詩のスタイルの変遷にあっても変わることはなかった。謙三自身がのちに、

「わたしのこれまでの作品は、その形式に於いて幾度も変遷してゐるけれども、全作品を通じてその精神は不変であることを詩抄を選(えら)みながら今さらのやうに考へさせられた。それは、つねに抒情であり、夢の追求であつた。」
「それ(※詩作)はわたしにとつて慰安であり祈祷であった。宗教がなかつた過去の生活は詩作によつてのみ絶対の世界に活き得たのであつた。」  昭和22年「詩抄(※『追憶帖』)刊行の序」より。


 と記しているように、土着的な政治性・宗教性の強いタイプが多い「北の詩人」たちの中では珍しい、本格的な抒情詩人が誕生したと言えよう。


【2】 疾風怒涛期 大正11年〜大正12年 「黄金の鐘」の時代
【3】 傷心期 大正13年〜昭和2年 「水松(いちい)の下に」の時代


●白い月

公孫樹(いちょう)の梢に白い月が浮く午後である。
裏背戸の黍(きび)の葉蔭で盗んだキス。
紅らむ頬よ。襟足のほつれ毛よ。
野苺が影うつす小川には水すましが群れて跳んでゐた。

彼女は椹(さわら)垣に凭れ(もたれ)「おたつしやで!」と。
ああ私の馬車は動く。行手にひろがる青田よ。
涙ぐむ眼にあてた前垂(まへだれ)には桔梗の花がゆれてゐた。  「追憶の頁」『日本詩人』大正12年3月号


●崖の上で

小川は呟き、つぶやき銀色に流れ、
熊笹の上を紋白蝶がもつれて翔んでゐる。

崖の上の枯れ芝に坐るわたしの軽い疲れ。
 梨の皮を剥く君の水々しい手よ。

未だ耕されぬ田に侏儒(こびと)の森、そのなかの赤き鳥居。
白雲は雪斑(まだ)らの山脈を徐ろ(おもむろ)に翳らせてゆく……

ああ髪の香。紫の眼よ。
朗らかなこの時、君よその優しい唇を与へてよ!  「追憶の頁」『日本詩人』大正12年3月号(初出による)


 謙三の詩作、とりわけ初期の諸作品に、浪漫的な、さきに述べた官能的とも呼び得る影を落としているのは、詩人なる人種の生涯にありがちなトラウマ、すなわち若き日に深く刻まれた恋愛の傷痕であった。
 当時の彼は、学業そして就職のために上京生活と帰郷とをくりかえしていたが、その理由は進学をめぐる経済上の問題だけでなく、そのたびに女性問題を引き起こしていたからであった。故郷の女たちは津軽にあっても東京にあっても垢抜けたハンサムな文学青年の彼を、カルモチン(鎮静剤)を常用しなければならない神経衰弱に陥れるまでに苦しめた。
 後年、詩人は事情が生々しく看取されるこの時期に創作された、恋人への思慕と愛惜に満ちた作品について、ほとんど顧みることなく捨てて、自選詩集『歴年』(昭和23年)と、『自撰 一戸謙三詩集』(昭和40年)とを編んでいる。
 その結果、自ら任じた「津軽方言詩の立役者」たる世評に甘んずることになったが、詩人の没後、文芸評論家坂口昌明(1933-2011)が遺族の協力のもとに発掘し、詩史上の意義と共に再評価した当時の作品群は、若き日の活躍の実態を知らない郷里の詩人たちに清新な驚きをもって迎えられることとなる。

 この時期の謙三は、地元の同志、後藤健次、櫻庭芳露たちと青森県最初の詩の結社「パストラル詩社」を興し、弘前の詩誌(『パストラル詩集』『胎盤』など)を活動拠点とした。そして同郷の先輩詩人であり、口語詩の開拓者としてすでに中央詩壇にあった福士幸次郎(1889-1946)を仰ぎ、有益な添削を受けるとともに、彼に推薦された上記の詩篇をもって詩壇の公器『日本詩人』誌上でのデビューを飾る。
 恩恵は添削や斡旋に止まらなかった。謙三は詩筆を折った福士幸次郎が唱えだした「地方主義」の洗礼を、盟友の齋藤吉彦(1904-1930)とともに受けることになる。
 慶應義塾大学仏文の俊英で、学芸分野に幾多の可能性を秘めた齋藤吉彦は、志なかば26歳の若さで夭折してしまうが、フランス直移入の地方主義は、謙三のうちで永らく伏流したのち、彼を方言詩の世界に導く遠因となった。

 大正13年、東京生活を切り上げて結婚するとともに、謙三の疾風怒濤の時代は終わりを告げる。以後ふたたび東京に居を移そうと考えることはなかった。
 故郷で小学校の教師となった謙三は、家庭を持つ生活者として安定した人生を選ぶ一方で、心に秘めた追憶を始めとする見果てぬ「夢」を言語で遺そうと試みる。

●夜、重い鎧戸を

夜、重い鎧戸を押しひらけば、
林のかなたに窓が明るい。
ゆるやかに十時が鳴り、
河瀬の音は高まる。
ああ、わたしは死ぬばかりに淋しい!

あのひとの古い手紙の束を、
昨日わたしは水松(いちゐ)の下に埋めてしまつた。
この心を誰が知らう。
そして月日は、これから
 わたしの上に塵のやうに積みあがるばかり……    自撰詩集『歴年』(昭和23年)より。初出不明



 「水松(いちい)の下に」鎮魂を試みた謙三は、移行期を経て詩想の客観化をさらに進め、自己を観照する主知的な口語詩の創作時代へと入ってゆくのである。


【4】 モダニズム期 昭和2年〜昭和9年 「月日」「夜々」「索迷」「神の裳」の時代

●鴉

珈琲を吸(すす)らうとして皿を取りあげると、細長い鏡のなかに妻が華奢な襦袢をひらきながら立つてゐる。
何処へ行くのか。わたしは振り向いた。柱時計がとまつてゐる。「ミオ!……」目を閉ぢると仄かな声が耳もとで応へた。
屋根裏の室はもう薄暗い。高く幽かなガラス窓に枯れ枝と新月が映つてゐる。わたしは坐つた。鴉が、皺がれた声で啼きしぶつてゐる……     『座標』昭和5年6月号


●月日

鴨居に影が折れ曲つて誰かが室を出て行つた。柱暦をめくつた指は、妻よ、お前のではない。またわたしのでもない。お前は畳の上に打伏しになつて泣いてゐるのか。
わたしとお前との間から誰が出て行つたのだらう。わたしは立ちあがる。そして障子を開ける。廊下に幽かな跫音がしてゐる。それは月日を散らす、わたしから、そして、お前から。
わたしはお前を愛してゐた。秋の薄日が額を照らすやうに。今わたしはもうお前を愛さない。何事が過ぎたのだらう。古びた襖と空しい机と。それらがお前の姿を透かして傾き沈みはじめる。    『椎の木』第一年第七冊(昭和7年)


 明治末期にあらわれた口語詩は、母体となった自然主義(暴露主義)から放たれると、それまで浪漫的な文語を盛られてきた象徴詩の具となり、さらに外国からやってきた同時代の表現主義や超現実主義(シュルレアリスム)と次々に結びついて、関東大震災後に興った芸術界の一大潮流、モダニズムを推進した。
 「夢」を詩想の中心に据えていた謙三は、それら象徴主義・表現主義・超現実主義と、異なる主義が通有するような素地をすでに兼ね備えていたといえよう。
 その摂取は、多くの詩人達が影響を受けたように、『海潮音』(上田敏 明治38年)、『珊瑚集』(永井荷風 大正2年)、『月下の一群』(堀口大学 大正14年)といった訳詩集ばかりでなく、慶応学生時代に親しんだドイツ語と、地方主義思想に没頭する福士幸次郎や齋藤吉彦の影響を受けて学び始めたフランス語と、直接原語からによるところが多かった。慶応義塾には当時、シュルレアリスムを代表する詩人、西脇順三郎も教授として在籍していた。

 大正15年、そうした影響のもとで謙三がペンネームで「超現実派」なる一文を『東奥日報』に発表し、『鴉』、『星座図』などの地元詩誌において早速シュルレアリスムの試作に着手していることには驚かされる(昭和2〜4年)。
 パストラル詩社解散(大正12年)後の謙三は、疾風怒涛期から癒えるまでの間、しばらくは傷心の詩を書き綴っていたが、一方で齋藤吉彦とともに海外の新詩の訳出にもいそしみ、次々に自家薬籠中のものにしながら、地元での紹介につとめていたのである。
 人生や自己を抒情を以て観照するという、保守的なこれまでの基本スタンスに加え、時代における立ち位置を確認しながら詩のスタイルを変化・進化させてゆくという、極めて自覚的で能動的な態度は、詩人としての一戸謙三を語る際の、啓蒙的なもうひとつの側面である。
 大正中期にデビューした詩人だったにも拘らず、一戸謙三はそれゆえ後進世代の詩人たちに一歩の後れをとることなく、むしろ口語詩の刷新を先導するジャーナリスティックな詩人としても認知されるようになっていった。

 昭和5年、青森の文学青年たちを一堂に集めて、総合文芸誌『座標』が創刊する。
 新しい潮流が実を結ぶまで、北辺の地においても数年の期間を要したが、謙三はこの檜舞台において、試行錯誤の末に我が物にしたモダニズムによる、独自の詩境を披露した。
 変貌を遂げた彼の作品には、シュルレアリスムの特性に数えられる無意味性――単なる“連想の断絶”――を越えた華麗なポエジーが漂い、象徴的な抒情詩に結晶させようとした求心的な努力の痕がみられる。
 そのため、一戸謙三の詩業を概観する際、詩人の代名詞となった方言詩よりも、この時期に量産されたモダニズム詩をして、より高く評価する研究者の声も多い。


【5】 津軽方言詩 昭和9年〜昭和11年

●麗日(オデンキ)(オデンキ)

口笛(クヅブエ) 吹ェで
裏背戸(カグヂ)サ 出はれば
青空ね        
凧(タゴ)のぶンぶの音(オド)アしてる。
大屋根サ      
昼寝(シルネ)コしてる三毛猫(サンケネゴ)。 
──ああ春だじゃな! 
枝垂(スダレ)柳も青グなた。     詩集『ねぷた』1936年所載。



 期待を以て創刊された『座標』だったが、プロレタリア派・芸術派のイデオロギー内紛により、一年もたたずに分裂。齋藤吉彦が年末に亡くなると、謙三ら芸術派は脱退して明くる昭和6年、『北』を創刊した。
 これも3号で廃刊するが(発禁)、その後も地元新聞の紙上でプロレタリア派との論争を行った謙三は、一方で作品発表の場をアンデパンダンの中央詩誌『椎の木』(昭和7年創刊)へと移し、全国の新進詩人たちの間にも一目置かれる存在となっていった。
 そしてそこに登場するのが、生涯のライバルとも目される高木恭造(1903-1987)である。

 さきにモダニズムについて、実を結ぶまでに数年の期間を要したと記したが、地方主義も同様であった。
 高木恭造は故郷青森から東京そして満洲へと、職業・住所を転々としたが、青森日報社で上司だった福士幸次郎の勧めで、津軽弁による熱烈な感情のこもった詩を書いており、すでに方言詩人としてデビューしていた。
 しかし反応がないため、それらを亡妻惜別の記念として詩集『まるめろ』にまとめると(昭和6年刊)、方言詩に見切りをつけ、『椎の木』の誌上では「リトル安西(冬衛)」と呼ばれるほどの知的なモダニズム詩人に変身。同郷の謙三を始め、草飼稔、坂下徳治(十九時)、一戸呉六(洋一)、船木清、植木曜介らと、技倆を切瑳琢磨していたのである。

 反対に、『椎の木』に参加したものの、モダニズム詩に対して、個人主義が行き着いた知的な造り物ではないか、との飽き足らぬ思いが、この時期、私生活上に惹起した煩悶と同時に芽生えていたのが謙三であった。
 高木恭造や石坂洋次郎ら友人の活躍をにらみながら、謙三はドストエフスキーやショーペンハウエルの虚無主義、そして日本では柳田国男、折口信夫の古代民俗研究を耽読した。そしてのちに自ら「索迷」期と名付けた、一般の理解に苦しむような遠心的手法で綴られた作品群を『椎の木』誌上に残し、昭和9年「祝詞」という詩を書くと、それまでの詩生活に対する御祓い(清算)を宣言した。戦時中にトレンドとなる神道をも、謙三は民俗学的見地から先駆けて摂取していたことになる。
 そして、かつて福士幸次郎のもとに賛同した「地方主義の行動宣言書(大正15年)」の理念に活路を見出した謙三は、いち早くモダニズムから去ったのち、高木恭造とは逆に、彼が拓いてみせた方言詩に注目し、実作に着手した。
 すなわち郷土にあって方言詩のパンフレット詩集を続けて5冊も刷り、地元での感触を確かめながら、謂うところの「津軽エスプリ運動」を主唱。植木曜介ら仲間と集い、青森県で初めての方言詩誌『芝生(かがわら)』を創刊(昭和10年)し、昭和11年5月には、謙三最初の公刊詩集となった全篇方言詩による詩集『ねぷた』(十字堂書房)を刊行するのである。

 5冊のガリ版パンフレットは地元で予想外の好評を以て受け入れられた。また『まるめろ』に続く単行本詩集『ねぷた』は、津軽弁の存在を広く世間にアピールすることとなった。
 福士幸次郎が言挙げた地方主義に方言詩という形が与えられ、最初に実践したのが高木恭造であるなら、そのあとを理論を以て継ぎ、地元詩壇に根付かせたのが一戸謙三だといえるだろう。


【6】 押韻定型詩 昭和10年〜昭和15年

●秋風の碑

秋風の碑門とざす白菊の花
 求めなく夕をひらけ
散れる世はまた止めまじ
父のこゑ月にあらはる

 過ぎし道かすかにけぶれ
澄む顔に空はうつりぬ
砂指を去りて跡なし
すがしさを立てる碑(いしふみ)

啼ける鳥こだまに去れり
なかぞらに薄れゆく雲
慰めよ落葉は朱(あか)し
亡き父は秋風にあり

たよられて萩に声あり
旅かくてさらされし身か
たたずめば空かすかなり
珠いだきて秋に立たむ    原題「白菊の門」昭和14年『聯』9号を改稿。聯詩集『椿の宮』1959年所載。


●やらはれ その三

やすみもあらざるごふくよ (休みもあらざる業苦よ)
やまざるいかりよしづまれ (止まざる怒りよ鎮まれ)
やすらひただよふくもみよ (安らひ漂ふ雲見よ)
やらはれはたてにさらされ (遣らはれ果たてに曝され)    聯詩集『椿の宮』1959年所載。


 さて、謙三は津軽エスプリ運動が手応えを以て動き出したことを喜んだものの、方言詩が安易に工芸的に作られる惧れを早くから抱いていた。またプロレタリア陣営からは新たに「方言詩は封建的残滓による産物ではないか」との批判にもさらされた。
 再びプロ詩人たちとの論争で先頭に立った彼は、『月刊東奥』に方言詩欄ができると選者(伊豆能平)にもなったが、その一方で、謙三は詩作には情念だけでなく詩論も必要だと考えた。
 そして方言詩に効果的な法則を模索するうち出会ったのが、福士幸次郎を介して知り合っていた佐藤一英(1899-1979)である。主唱するところの韻律と音数律の理論に共鳴すると、せっかく軌道に乗り始めた方言詩の実作を謙三は中止してしまう。
 そして一英が主宰する詩誌『聯』(昭和13年創刊)に参加し、聯詩(一行12文字の韻をふむ四行詩)という文語による定型詩の制作にいそしむようになった。こののち戦争が始まるまで、謙三自身の詩作は音数律や韻律の理論の検証・具体化に充てられるのである。

 佐藤一英が提唱したのは「詩の本質は聴く詩にある」、つまり「朗読詩」こそが詩である、という立場である。
 あたかもラジオ放送による詩の朗読が始まり、昭和10年には受信契約者数が200万人を突破するという、新しいマスメディア登場の現実が背景にあった。
 一英は、聯詩は純粋詩であるとともに国民詩になるものと信じて一般社会への普及に取り組んだ。だがそれは同時に、世相の右傾化に伴い、作品のみならず詩社組織そのものも戦時体制に取り込まれてゆく危険をはらむものであった。
 一方で一戸謙三の考える「超個人主義」すなわち全体主義は、民俗学や神道に培われているものの、あくまで芸術至上主義の、全く非政治的なものである。
 「超現実主義」の視覚イメージでみだれた日本の詩学に、彼はふたたび文語詩の伝統を背景にした音韻概念によって新しい規則が打ち出せるものと信じていた。

「はじめから、このやうな詩を作るつもりで作つたのではなく、頭韻や十二音といふ型式に導かれて、かうした作品になつたといふことです。…できあがつた作品は、作者ですらも思ひがけないものになつてゆく。─それが近代詩といふ芸術なのです。」「四行詩作法その10」『甲田の裾』昭和29年9月号より

 はからずも「超個人主義」の作詩と「超現実主義」の作詩とが、謙三の中では似たような遠心的なモチベーションにおいて通底するものであったことが、この言葉からも察せられる。
 この時期の定型詩の成果は昭和15年、少部数印刷された詩集『火の諺』に収められた。


【7】 戦中「身辺雑詩」 昭和16年〜20年

●村の葬式

いぼたの垣根にそうて、
葬列は、
静かにしづかにめぐつてゆく。

花傘から、
泥道に赤く青く紙花が散り、
鉦はしきりに鳴る。

骨箱は、
小さな堂に入れられ、
その上に、
金色の鳳凰が飛び立たうとしてゐる。

白いたすきで、
骨堂を首にかけた男は、
素(す)わらぢだ。

いぼたの垣根のおわりには、
現後車(ごしょぐろま)の柱が立つてゐた。
まはしてみれば、
さびた車は
からからと、からからと
廻つてとまる。

墓所のまん中の、
喪屋(もや)をめぐつて、
村人たちは、
うなだれながら
立ちどまる。

線香の煙は、
秋ばれの空へと立ちのぼり、
和尚様の引導は、
皺かれて力がない。

いぼたの垣根にそうて、
村人たちは、だんだんに散じてゆく。
農作の話や、
隣の嫁の話や、
林檎の話をしながら。

いぼたの垣根の、
後生車をもう一度
まはしてみれば、
さびた車は、
からからと、からからと
廻つてとまる。    昭和17年2月5日 


 青森は謙三の存在により聯詩運動における最大の地方拠点となっていたが、石坂洋次郎からは呆れられ、謙三に誘われて参加した高木恭造も早々に脱退している。
 多くの詩人からは、現代詩からの退却、明治新体詩への後退と映った聯詩であった。
 そして世の中が戦争一色に染まると、その文語調は戦意高揚に適していることから、普及を図る主宰者の佐藤一英は、大東亜共栄圏の理想を信じ、聯詩社を挙げて戦争協力にのめり込んだ。
 ここに至って謙三も佐藤一英と距離を置くようになる。

「しかし私は考へるところがあり、昭和十六年三月の第四巻第三号まで作品を出しただけで中止した。…(中略)…「聯」に寄稿を中止すると共に、私は聯詩を作ることにも興味を失ひ、そして昭和十六年の八月からは身辺雑詩をつくり始めた。それは発表する当てもなく、また戦時下は発表が許されないやうな作品ばかりであった。」『甲田の裾』昭和39年2月号より

 文学者を結集する翼賛運動に汗を流す福士幸次郎に対しても、師礼は執りつつも困惑は隠せなかった。

「昭和十六年八月に中央の詩人たちは各地方の詩人たちをも会員として大日本詩人協会を結成して愛国詩を作り、翌年には日本文学報国会に合同した。
私も大日本詩人協会に入会を勧誘されたが、それを拒否したところ、来弘中(※弘前に訪問中)の福士幸次郎先生は「さう言ふもんじゃないよ」 と、入会書を自分でしたためて出してくれた。
しかし、私は戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だったので、発表するあてもなく、また発表されないやうな身辺雑詩ばかりを、この後四年間の戦争中に書いてゐたのである。」『週刊暮らしのジャーナル』昭和49年4月14日号より


 一戸謙三は戦争詩を需められるのを避けるため、「大東亜戦争」が始まる前に作品発表を絶っている。「皇国の道」なる一文を新聞に寄せたこともあるが(昭和15年)、世の中に蔓延する統制の気運を、薀蓄を傾けてたしなめたものである。それが体制内から行うことのできた、精一杯の批判であった。
 そして「超現実主義」からも「超個人主義」からも去った謙三は、再び極私的抒情詩と呼ぶべき詩境に閉じこもることで、辛うじて文学者としてのアイデンティティを保った。
 ノートに残されたそれらの求心的な詩篇は、戦後衆目の触れる所となったが、詩人の心を領していたのは、無力感が強いる含羞であり、諦念の心境だった。「私は戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だつた」といふ心持ちの中で書き続けられたことを思へば、ことさら反戦の内容ではないだけに感慨を禁じ得ない。


【8】 戦後 昭和20年〜

 長男、昇が昭和20年7月に召集されたものの「大東亜戦争」はその後ひと月で終結した。
 46歳、すでに人生の後半にさしかかった謙三だが、混乱する戦後社会ばかりでなく、初めて自分の歩みを超えるスピードで変わってゆく文学の世界に直面する。
 戦争詩こそ書かなかったが、地方にあって戦後も引き続き非政治的なスタンスを貫く彼にとって、前時代と政治的に断絶した中央詩壇は遠い存在となった。
 これまで絶えず最新の文学潮流に棹さし、詩論を携えて意識的に詩風を進化させてきた詩人だけに、戦時中の詩境から再び立ち上がって発語された作品に窺われる、戸惑い・傷心は一様でない。
 と同時に、恩師福士幸次郎の亡き(昭和21年)あと、名実ともに青森詩人の顔役となった謙三には、これまでの自分の詩歴(作品と歩み)を総括して遺す必要も覚えたようである。
 「作品」については、全12冊の選集が企画されたものの、初期詩篇を一覧する『追憶帖』と、方言詩を集めた『茨の花』が、少部数ガリ版刷りに付されただけで途絶している(昭和22年)。
 しかし翌年に自選詩集『歴年』が刊行されると、それまで方言詩詩人として認知されていた一戸謙三の全体像が、(前述したように不完全ではあるが)初めて詩集の形で世にあらわれることとなった。
 一方の「歩み」については、「不断亭雑記」という回想記が、589回にもわたって弘前新聞に連載された(昭和36〜45年)。詩壇の草創期から啓蒙的役割を果たしてきた謙三の実体験が語り尽されており、そのまま青森県の詩壇史と呼べるような内容となっている。

 謙三はその後も詩のスタイルをマイナーチェンジさせながら、世代を二つ三つも異にする若い詩人たちに伍すべく「現代詩」の在り方を意欲的に模索している。
 昭和30年代に入っても“連想の断絶”による詩作を試みており、その特徴を〇〇主義のもとに一言で片付けられぬものの、概要は最終的に世に問うた『自撰 一戸謙三詩集』(昭和40年)において一覧することができる。
 留意すべきは、戦後に書かれた口語詩も歴史的仮名遣いで発表されていること、そしてそこにも収められることの無かった初期詩篇群と、戦後も書き続けられた定型詩についてであろう。

 戦後の謙三は、聯詩の制作を再開し、文語定型詩と口語自由詩との二刀流を使いこなすようになる。定型詩の展望についても諦めず説いており、その成果は、戦前・戦後と分けてそれぞれ『椿の宮』(昭和34年)、『現身(うつしみ)』(昭和47年)の2冊の袖珍本にまとめられた。
 そして初期の詩篇群をはじめとする生前の作者自撰から弾かれた口語作品についてであるが、共通するのは、いずれも官能や苦悩、すなわち私生活上での消し去り難い過去に彩られたものばかりな事である。坂口昌明がテレビで企画された特集番組で、謙三について率直に、

「詩人として非常に高いレベルにいた人なので、理解者が少なかったということが案外大きいと思う。 そうすると人間というのは、自分はこれでいいのか、と自分を疑いだす、それで、絶えず自分の作品を創り直したり、或いはなきものにしたり と・・・。」
青森朝日放送「魂の軌跡 詩人一戸謙三」平成18年9月17日より


そう評している。

 謙三が志向したポエジーの本質が、詩を志して以来、変わることがなかったのは、初めに引いた彼自身の回想文の通りである。晩年の作品にみられる失意やニヒリズムもやはり、余生に現ずる虚無を観照したところの「抒情であり、夢の追求であつた」。

 教員生活を終えたのち、晩年と呼ぶにはあまりに長い戦後の期間を、謙三は聯詩のほか、ドイツ近代詩人の訳詩も行い、学殖・造詣豊富なインテリ詩人の技倆を披露している。また新聞・雑誌等、各種媒体の詩欄においてもベテラン選者として県内の後進指導に当り、政治や謀略を好まぬ性格が慕われて人望も厚かった。
 一戸謙三が、孤独や時に懐疑を詩作のモチベーションとし、静謐な抒情や夢の世界に飛翔できたのも、裏を返せば家族をはじめ仲間の詩人や多くの理解者に囲まれた、詩人としては穏やかで円満な生活が根底にあったからだと思われるのである。

●琴の音 その三

眠らざりし朝の霧や
つゆくさ剪る姿あらず
つれもなき想のはてし
猫啼けり花柏垣(さはらがき)あり


●仮りの身 その四

スバルよ告ぐるに事なし
かたどれば姿あらはる
すべてに別れて空あり
仮りの身ようつくしかりき


●かなしきうた その三

つきかげかがみにかへらず (月かげ鏡に返らず)
かたやせほほゑむひとなし (肩やせ頬笑むひと無し)
つきざるえにしとなくむし (尽きざる縁しと鳴く虫)
かもゐにかげをれかたらず (鴨居に影折れ語らず)   詩集『現身』 (昭和47年)所載。


●第二の夢

泥だらけな街の
ねぢれた坂をくだり、
ひとり暗い
喫茶店に坐つた。
こはれた椅子の上で
こほろぎが啼いてゐるので、
やるせない人生は
やはり第二の夢である、と
あてのない手紙に
書いた。
そのあと
壁にもたれてゐたら、
垂れ幕から、
誰かがあらはれ、あばよ、と
聞きおぼえのある声
で言つて、
ドアの鏡のなかに消えていつた。   『弘前詩会リーフレット』W(昭和35年3月)所載


p26

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