(2012.01.05up / 2015.12.07update)Back
四季派の外縁を散歩する 第十七回
詩人小山正孝再考――小山常子氏の新刊に寄せて (承前)
詩人小山正孝夫人である常子氏による、亡き夫へのオマージュとなる随筆は、これまで同人誌「朔」誌上においてほぼ連載の形で拝読してきたが、 このたび御家族の手で一冊にまとめられる事になった。
冒頭に収められてゐる、若い日の夫人が勤め先のビルの階段で詩人と初めて出会った一刹那のこと。まざまざと思ひ起こされ筆に上された一文を最初に読んだとき、 これを卒寿を迎へた人の文章と思ふことができなかった。その心の素直な若やぎに正直に面食らったのである。シニカルを身上とした詩人に嫁いだ妻といふのは、 それはもう耐へるばかりの人生と思はれがちだが、これらの文章を信ずる限り、どうして、わが先師田中克己先生の奥様とは次元の異なるラブロマンスを体験されてゐることに驚いた。 「大学は出たけれど」将来のあてもない文学青年と逢引を重ねた昭和大恐慌当時のロマンスも憂鬱には違ひないが、同じ文弱の徒であっても五年歳を距てたインテリの青春は、 戦死の覚悟と恐怖とに塗り潰されてゐた。ヒステリックな掛声に巷が沸き返ってゐた敗戦前夜のお話である。結納も済ませて嫁ぐ日を待つばかりだった良家の子女が、 戦争を呪ふ不良詩人のまんじりともせぬ眼差しにこころ射抜かれ、遂に縁談を破棄するに至ったといふ、四季派の詩人にはあるまじき?ロマンスの一齣が、 周囲の友人にどんな印象を振りまいたものか。詩人の文学的道行きもまた既にそこに萌してはゐなかったか。不思議なほど初々しい筆致で語られる常子夫人の回想と、 清書が仕事だったといふ詩編の抄出とを、私は長年外れなかった知恵の輪がわけなく解かれてゐるのを見るやうな気持で読んだ。
「あるまじき」と云ったが、さて四季派の詩人たる条件とは何か。限界とは何か。花鳥風月の伝統的抒情であり戦争に抵抗できなかったこと、 といふ批判でもってこれまで言はれ続けて来たことだが、私は、憧憬(ないものねだり)しないと身が保てない、 つまり不遇を喞つことでのみ確認と更新とが繰り返される詩人の詩人たるモチベーションにして孤独な性(さが)にあったのだと思ってゐた。サガなんだからどう仕様もない。 見果てぬ夢を追ふ穢れなき性は、同調者を魅了すると同時に、限界といふのなら、憧憬が投影される彼の精神世界が、(詩人ごとに結構は異なるものの)箱庭やプラネタリウムのやうに閉ぢられてゐるといふ、 文字通りの空間的な限界として理解したらいいのではないか。さうして(それ故に?)四季派詩人の個性とは、彼が如何にその世界から今一歩を踏み出さうとしてみたのか、 といふ姿勢において逆説的に量られるもののやうに思はれたのだった。実際に踏み出してしまってはいけなく、いや踏み出してもいいのだが、 四季派風の模倣がしばしば詩的自慰に堕するのと同様、四季派的な抒情からの卒業(脱出?)もまた、往々に詩的揺籃から未熟児のまま彼が転落することを意味するのだといふことを、 古本屋の店先で見知らぬ詩集の見聞しながら私の考へてゐたことであった。
詩人小山正孝は、雑誌『四季』およびその衛星雑誌に拠った「第二世代」と呼ばれる詩人達のうち、最重要の人物と呼んでいい。 彼らが奉戴した堀辰雄、「第一世代」の選手たる立原道造、そしてその二者に親炙した野村英夫は、四季派と呼ばれる気圏の中枢にあって直系の人物である。 この三人から人生の選択肢を奪った結核といふ共通の血統を取り除いたらどのやうな眺望が拓かれたのかは、問ふだに無意味のことではあらう。しかしその他の詩人達にとって、 何が彼らを四季派の詩人たらしめて居たのか。それをどう自身の中で意識してゐたか、ゐなかったか。戦後に生を享け、時代遅れの宿題のやうな詩を孤独裏に書き散らしてゐた私にとって、 それは自身のレーゾンデートルに即した一番の関心事であった。詩人達の多くは敗戦を境に変貌を遂げてゐた。戦争を知らない私はそれが嫌であった。 さうして詩人小山正孝のイメージといふのは、そんな自分のなかでは、戦後も四季派の擁護者であらうと、詩作の上でも拱手して悩んでゐる詩人――他の詩人ほどには割り切れてゐない気がしたのであった。 本来、彼は矢山哲治と共に四季派の直系をつぐ可能性を一番に有してゐた人であった。それは昭和二十一年といふ戦争終結のごく早期に、 処女詩集『雪つぶて』そして一冊きりに終った贅沢な雑誌『胡桃』を赤坂書店から刊行した彼のうちにも、はっきり自負されてゐた筈である。別の謂ひ方をするなら、小山正孝は、 知性が勝った詩学を優先させやがて詩人であることに見切りをつけ文壇に立って行ったマチネポエティクのインテリグループと、家産を食ひ潰しながら無垢であることに殉じようとしてゐた抒情詩人野村英夫の間にあって、 その位置を変へぬまま、矢山哲治なきあと一人で立原道造の呪縛に悩み続けた詩人である、といふ呼び方をしてもいい。しかし彼は宿痾とは無縁の青年であった。 小説家として立つことを密かに志してゐたことも、没後編まれた散文集『稚児ケ淵』によって私は知った。
戦前の詩人達が、生まれてこのかた天皇制が統べる世界観の気圧下で、知的な静謐に満ちた若年寄の詩をこつこつと書いてきたこと。実はこの、 彼らが甘んじて受けてきた大日本帝国の社会的な空気圧こそ、サナトリウムに押し込められると同様の一種の座敷牢、詩人を四季派の世界観の住人足らしめる「宿命」として働いたのではなかったか、 といふのがその後、最愛の四季派について総括した私の結論だった。四季派の世界観を維持するためには、自らを限定する何物かの「宿命」が存しなくてはならないといふこと。 野村英夫や日塔貞子など、宿痾が人生の重石になってゐた詩人といふのは、ある意味、戦争も天皇制も関係ないところで生きてきた詩人、命続く限り詩を作り続け、 死を以て純潔を全うした人達であった。さうして一方には家業といふ宿命を背負ひ、郷里につながれることで鬱々と抒情の節を守り通した人達もあり、 木下夕爾や村次郎や渡辺修三といった人たちにとって、しかし宿命とは同時に帰るべき故郷がある幸せでもあってみれば、戦後詩壇をして、地方に引っ込んだその自恃の在り様といふのは、 さぞかし批判精神の高揚に役立たない、歯痒いものに映じたに違ひなかったらう。そしてその次に思ったのである。都会で敗戦を迎へた詩人は、病気持ちでなかったらどうしたのであらう、と。
戦争を強いてきた大日本帝国の精神的なくびきと一緒に「四季派の箱庭」をも失ってしまった詩人達。ことにも若くしてデビューが見送られ、戦争協力者の汚名を免れた青年たちは、 アプレゲールとして戦後文壇を自由に通行する免罪符を得た幸運児でもあった。圧力の蓋が吹き飛び、自由といふ原光線が直射する青天井の明るみに放り出された詩人たち、 戦争で死なずに済んだ健康な都会の若者たちが、どうして己を欺瞞してまで、詩作のモチベーションの為に自らを制限する必要など感じただらう。彼等がかつて夢みたもの、 ねがつたもの、先輩立原道造が「それらはすべてここに ある と」最後に指し示した、小さな青春の陽だまりの草原は、戦争が終ると同時に、草原をとり囲む「山なみ」が書割に変じて、 もう身の周り四方に倒れてゐた。「山なみのむかふのしづかな村」の非在に、彼らは決して騙された訳ではなかったのだが、以後、焼け野原のなかで同じ口調で歌ふことはとても出来ない相談なのだった。
彼らにとっての新しい宿命は、謂ふなら「自由」そのもの、その野放図さにあった。それは相当に意識的でないと自覚できない次元の高い宿命の在り様である、 とはいへるだらう。戦後の世相に巻き込まれた詩人のうち、どれだけの者がコスモポリタリズムを早晩に約束するかのやうな、世界を席巻した思想に流されることなく対峙し得たか。
詩人小山正孝は、実人生で云へば戦争が終はる前、すでに一足早く憧憬の対象のひとつであるところ、「最愛のひと」を実力行使によって手中にしてゐた幸運児であった。 しかし二人の生活は、濃密であっても、「醜の御楯」となる覚悟を定めた人が、出征間際に嫁いできた妻とささやかに過ごした時間とは、大いに趣を異にしたと私は思ふ。 馬鹿馬鹿しい戦争と無駄死にを憎み、決意された求婚。当時としては反時代的な結婚の形であったことが、このたびの常子氏の回想の端々からよく伝はってくる。 幸せは公には韜晦することを強いられた筈である。そしてその方便を体得してゐたであらう反骨詩人は、もちろん戦争の終結を喜んだに違ひないが、続いてやってきた自由には、 詩人としてどう対処したのだらうか。私は夫人とのいきさつこそ知らなかったものの、詩集『雪つぶて』が暗示する雰囲気から、さういふ四季派世界の最も際どい外縁で個性を探った稀代の第二世代として、 小山正孝といふ詩人を、私の特別視する詩人リスト中に入れてゐたのであった。もどかしげに身をよぢり、四季派らしい静謐を今にも破らんとするモノローグの詩篇は、 敗戦前にも既に幾つかが書かれてゐて、盟友諸氏を大いに驚かしたであらう。そしてこの「愛のエゴイズム」によってこそ、彼は戦後に至っても軸足を社会性に移すことなく、 四季派の側に自覚的に立つことを得、病気によって抒情に閉じこもることを余儀なくされた野村英夫との疎通も保ったのではなかったか。 健康であると同時に育ちの良い不良――『歴程』の人達に比してはとても不良とは私には思へないけれど(笑)――の彼が、宿命として己に課さざるを得なかったのは、 「箱庭で夢見る恋愛」ではなくて「この手で成就させた恋愛」であった。臍曲がりの詩人はこの「愛」を宿命の錨として、新しい時代の詩風土に下ろすことができないか、 戦後の四季派の可能性に真正面から挑んだ。私にはさう思はれてならないのである。穿った推測は直接本人に伺って置くべきだったことであり、 一番の理解者である坂口昌明氏の御意見があれば潔く訂正もしたい。特に小説家として立つことを諦めた原因は、これだけでは説明できない。当の常子夫人が、 その詩作の秘密をめぐってどう詩人と接してこられたのか、消息を今回まとめられた舞台裏に探ったが、やはり詩人は雑踏に韜晦してゐるのであった。
小山正孝は果てしない愛の地平に詩を探った「愛の詩人」であった。さうして四季派に必要な「限定」を、形式の上ではソネット(十四行詩)に求め、 この枠に詩を流し込むことにより彫琢のすべを、すなはち詩の純粋を保たうとしたことは、遺された膨大な『未刊ソネット集』の存在が、既刊詩集に披露された「完成形」以上に証する。 もう一度云ふが、四季派詩人が選んだ「限定」としては一番困難であるに違ひない立原道造の遺産を、彼が果たせなかった「愛」の深化において担ひ、進行形として探り続けたこと。 「ソネットから抜け出すのに20年かかった」といふ述懐は、その最終的な断念を云ったものであらう。さうしてその後、「盆景」といふ箱庭の人工自然、 謂はば四季派が必要とせる世界観を、空間的限定として予め設定してかかるといふ、逆説にことよせた詩法にも辿りついた、といっていいだらうか。 盆景=晩年の趣味といふことでなく「運命的な至近距離にあった」こちらの方が、漢詩を自家籠中のものとしてゐた詩人にとっては、却って「額縁」として適した詩学ではなかったか。さう思ったこともある。
彼が詩人として四季派の「進化」に寄与し得たのかどうか、不遇を喞つ不機嫌な詩が相変はらず好きな私には、主観的な愛に没することなく惚気ずに関係を描いてゆく詩の方法について、 まだうまく鑑賞できないでゐる。詩人が韜晦しつつ表現してきたものさへ、私には眩しすぎるか難解であることが多かった。さうして常子氏の回顧は、 育ちの良さを身上とする知性によって、色褪せることもなく、人生の秋の収穫を、醸造されたワインの上澄みに、羨望の香りを聞く思ひをもって読ませて頂いた。 詩の舞台裏で寛ぐ姿をかう活写されては、韜晦もなにもあったものでなく、お会ひすることのなかった詩人の赧顔も目に浮かぶやうであった。 読書家だった田中先生の奥様にも今少し時間があったら、どんな思ひ出をお聞かせ下さったらう、文章の間に挿まれた写真の数々を眺めながら、さう思はずにはゐられなかった。
詩人はレストランへ行っても「煙草をくゆらし、水を飲みに」いったやうなものだと常子氏は詩人の面影を語る。 けだし詩人の清冽な生理を一言の印象で語りつくした回想として一番に心に残った一節であった。(2011.7.28) 「感泣亭秋報 六」2011.11 感泣亭アーカイヴズ発行 掲載。
小山常子追悼号
詩人小山正孝の御子息正見様より年刊雑誌『感泣亭秋報』9号を拝受、前後して八戸の圓子哲雄様より『朔』178号の御恵投にも与りました。 ともに今春93歳で身罷った小山正孝夫人常子氏を追悼する特集が組まれてをり、感懐を新たにしてをります。拝眉の機会なく、 お送り頂いた雑誌に対する感想をその都度これが最後になるかもしれないとの気持でお便り申し上げてきた自分には、今回あらためて寄稿する追悼文の用意がありませんでした。 同じく書翰上のやりとりを以て手厚いおくやみを捧げられた『朔』同人のお言葉を拝して恥じ入ってをります。
『感泣亭秋報』9号 (感泣亭アーカイヴズ 2014.11.13発行)
発行連絡先:〒211-002 神奈川県川崎市中原区木月3-14-12
『朔』178号 (朔社 2014.11.20発行)
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上3-5-32 圓子哲雄様方
詩作の出発時から現夫人との純愛をテーマに据えてきた「四季」の詩人小山正孝。その片方の当事者自らの筆により楽屋裏からのエピソードを提供、 それを契機にエッセイ類を陸続発表されるやうになった常子氏ですが、このたび感泣亭の会合に集はれた皆様、そして『朔』同人の方々から寄せられた回想といふのは、 亡き夫君の面影を纏ひつつも常子氏独自の人柄才幹を窺はせるエピソードが興味深く、読み応へのあるものばかりでした。
そもそも詩人当人より奥方の方が、よほど現実生活において対人的な魅力と包容力に勝ってゐるといふのは、わが先師田中克己夫妻の例を引き合ひに出すまでもなく、 詩人と呼ばれるほどの人物の家庭では、必ずやさうなのでありませう。詩人からの“呪縛”と記してをられた方もありましたが、伴侶を失った妻が驥足を伸ばし、 夫より長生きするといふのも、常子氏の場合において特筆すべきは、その“呪縛”を自らもう一度縛り直すがごとき殉情ロマンチックな性質のものであったこと。 まことに「小山正孝ワールド」において韜晦された愛の真実を証しするもののやうにも感じられます。最愛の夫を失った喪失感を埋めるために始められた執筆が、 不自由な青春を強いた戦前戦中に成った夫婦の原風景にまでさかのぼり、たちもとほる、その回想が恐ろしいほどの記憶力を伴ってゐることに、 読者のだれもが驚嘆を覚えずにはゐられなかった筈です。
斯様な消息は、(小説と銘打ってゐますが)このたび『感泣亭秋報』に遺稿として載ることになった雑誌の懸賞応募原稿「丸火鉢」にも顕著で、
これが卆寿を超えた女性の書いたものであるとは思はれない等といふ単なる話題性を超え、戦時中の日本の青春の現場が、斯様に若い女性の視点からあからさまに描かれてゐるのも稀有のことならば、
戦地へ送り出す新妻の心栄えを杓子定規な御涙頂戴の視点からしか称揚してみせることができない邦画的感傷主義に比してみれば、非社会的なあどけない主人公の心持が、
許婚に対する意図しない残酷さを伴って綴られてゐる様は新鮮でさへあり、家族に対する真面目な倫理性との混淆も計算上の叙述といふことであれば、
非凡といふほかないと自分には思はれたことです。読み進めての途中からどんどん面白くなり、未来の御主人「O氏」が全面に出てくる前に筆を擱いてゐるところなどは、
(自分に小説を語る資格などありませんが、一読者として)唸らざるを得ませんでした。
出版社も事情を飲んで一旦応募した作品の返却によくも応じてくれたものだとも思ひます。掲載に至る経緯をあとがきに読み、感慨を深くした次第です。
一方の『朔』巻頭には絶筆となった未定稿「the sun」が載せられました。
「何時までも何時までも鼓動しているのでしょうか。 私の心臓 一時は困ったことだと思っていましたが此の頃になって私の日常のラストのラストまで未知の経験と冒険の日々を作ってみようかなと思うようになりました。」5p
生(いのち)の陽だまりに対する感謝が、英語塾の先生らしいウィットを以て太陽(sun)と息子(son)に捧げられたこの短文、御子息の編集に係る『感泣亭秋報』には、 立場からすれば一寸手前味噌にも感じられてしまふ内容だっただけに、掲載されて本当に良かったと思ひました。けだし1971年に創刊した抒情詩雑誌『朔』はこの数年、 小山常子氏の純情清廉なモチベーションによる貴重な文学史的回想によって、四季派の衣鉢を継ぐ面目を保ち、新たにしたといって過言ではありませんでした。 常子氏においても自ら書くことによって亡き詩人の余光を発し続けることができることを悟り、残された自身の存在証明とも言はんばかりの創作意欲を、 迎へ入れられた「朔」誌上でみせつけてこられたのは、同じく未亡人であった堀多恵子氏以上の情熱であったといってもいいかもしれない。それ故にこそ、 訃報を受け取った圓子氏の心痛も半年以上筆を執ることができなくなったといふ体調不良にまで及んだのでありましたでせうし、常子氏が昨年文業を一冊にまとめられて区切りをつけられたことに、 私も某かの讖を感じぬでもありませんでしたが、御高齢とはいへ、明晰な思考と記憶と、そして恋愛を本分とする抒情精神をお持ちだった文章の印象が先行してゐただけに、 やはり突然の逝去は、期日と年歯をほぼ同じくした山川京子氏の訃報と共に不意打ちの感を伴ふものでありました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。(2014.12.11up)
『小山正孝全詩集』刊行記念号
小山正見様より『感泣亭秋報』十号をお送りいただきました。
柿色に毎年実る秋報もたうとうこれで10冊。小山正孝といふ所謂「四季派第2世代」のマイナーポエットとその周辺をめぐる論考だけで成り立ってゐる雑誌が、
途絶することもなく、年刊ながら号を追ふ毎にページ数が増へてゆくといふ考へられないことが起こって十年が経ちました。今回も常子未亡人を追悼した前号に劣らぬ質と量であるのは、
年始に完成をみた『小山正孝全詩集』の刊行記念号として、制作・執筆陣ともにひと区切りを意識した気合の一冊に仕上がってゐるからです。
まづは巻頭、詩人の盟友であり、四季派詩壇最高齢でもある山崎剛太郎先生が不如意の筆をおして「この全集で彼は彼の人生を多彩に語り、微細に変調する感性で、
人生の多様性に迫った」と満腔の祝辞を述べられてゐます。没後13年、泉下の詩人ならびに常子夫人、坂口正明氏をはじめ、この一文を掲げ得た刊行者、
すなはち白寿目前の翁を「山崎のおじちゃん」と幼時より慕ってこられた刊行者にして詩人の御子息である正見様の胸中も偲ばれるといふものです。
寄稿に至っては、本格的論考から、私の如き『全詩集』巻末の解説をかいなでに紹介して責をふさいだものまで、目次の通り多種多様となりました。
その『全詩集』解説を書かれた渡邊啓史氏ですが、本号においても第5詩集『山の奥』テキストに寄り添ひ、詳しい作品分析を行ってをられます。
渡邊氏の説によれば、詩人が戦後展開させた詩境のうち、所謂「愛憎の世界」では第2詩集『逃げ水』の混沌から掬はれた上澄みとして第3詩集『愛し合ふ男女』が成り、
そののち分け入った「形而上世界」においても同様に、第5詩集『山の奥』が第4詩集『散ル木ノ葉』を洗練させた主題的展開として位置づけられると云ひます。
詩風の区分と対応する詩集との相関関係は、シュールかつ愛憎が韜晦する戦後の作風になじみ難い私にとっても明快な道標となり、助けられる思ひです。
また國中治氏よりは、第2詩集『逃げ水』にみられる混沌が、ソネット(十四行詩)といふ形式のみならず「立原道造的なもの」へ志向する心情と、
そこからの脱却を図らうとする矛盾そのものの露呈として分析され、さうした葛藤こそが抒情詩を書く全ての戦後詩人に課せられてきた現代詩の身分証明だったのだと総括されてゐます。
「立原道造的なもの」すなはち四季派の本質を「理想化された西洋文化と伝統的日本文化とのアマルガムを憧憬と郷愁によって濾過・精煉した高純度の情緒」と規定されてゐますが、
成立条件にはさらに時代の制約が関係してをり、それが失はれた為に現代詩の彷徨が始まったのだともいへるでしょう。
さらに渡邊氏と同様、第4詩集から第5詩集への発展関係が指摘されるものの、「立原道造的な」自己探求のモチーフとして選ばれる「なぜ・だれ・どこへ」といった詩語・詩句の単位が、
第5詩集『山の奥』では詩行単位のレトリックに切換へられ、それが詩人独自の「形而上世界」の構成をなしてゐるのではないか、との切口は新機軸です。
つまり詩境を変じたのちにおいても詩人と立原道造との間には、ともに混沌(デモーニッシュなもの)に対する視点が「やや排他的な、
密やかな共鳴によって結ばれていたのではないだろうか」と推察されてゐるのですが、四季派詩人の生理の内奥に身の覚えもありさうな、四季派学会理事の國中氏ならでは独壇場の明察であり、感じ入りました。
そのほか胸に詰まったのは、『朔』誌上でも愛妻との離別を綴られた相馬明文氏からの一文でした。また毎号誌上で一冊づつ「小山正孝の詩世界」を解説してこられた近藤晴彦氏は、
今回最後の第8詩集『十二月感泣集』をとりあげ「感泣」の意味を問はれます。蘇東坡の故事においては喜悦感涙の意味を持つものださうですが、けだし杜甫に親しんだ詩人なれば「感泣」はやはり老残の嘆き、
ならば「秋報」も年報であると同時に「愁報」さ、などとシニカルな詩人なら答へられるかもしれません。
とまれ近藤氏が指摘された日本人のメンタリティの特色。本音と建前を使ひ分けることが江戸時代このかたこの国に近代的個人が完全に成立しなかった理由であるといふ指摘に頷かされ、
さうしていかなる建前にも臣従することなかった小山正孝について、さらに池内輝雄氏が「小山正孝の“抵抗”」と題して、大東亜戦争開戦当時の『四季』(昭和17年2月号)誌上にあたり、
実証してをられます。『四季』巻末に田中克己が記した編集後記は、
「大東亜戦争の勃発は日本人全体の心を明るくのびのびした、大らかなものにした。詩人たちも一様に従来の低い調子を棄てて元気な真剣な詩を書きだした。」
といふもの。引き較べて小山正孝は同誌上で書評の姿を借りて戦争詩の在り方を問ひ、それらが本当に「真剣な詩」だったか、
先輩詩人たちがつくったのは「感動のないたくさんの詩」のかたまりではなかったかと言ひ放ち、当時としては精一杯の抵抗を巷の熱狂に対し呈してゐるのですが、
両者がそれなら反目の関係にあるのか、戦後はそれなら袂を分かったのかといふと、さうではないところがまた興味深いところです(そもそも編集子が載せてゐる訳ですしね)。
拙稿で触れてありますが、今年公開をはじめた戦時中の「田中克己日記」にあたっていただけたらと思ひます。
さて、このたびは近藤晴彦氏と、戦後出版界再編の事情と実態を(小山正孝を含め)発行者の立場から関った詩人たちを軸にして詳細に論じてこられた`島亘氏と、 両つの大きな連載が一区切りをつけ、正見氏自身「やめるなら今がやめ時だ」と終刊も考へられたといふことですが、渡邊啓史氏が余す各論はあと3冊分あり、 若杉美智子氏による「小山=杉浦往復書簡」の紹介も、新事実を添へてまだまだ続けられる予定であってみれば、近代詩と現代詩にまたがる一詩人を通して昭和詩の命運を俯瞰してゆかうとする試みは、 来年以降も続けられることがあらためて宣言され、ひとまづ安堵されました。
気になった論考の2,3を紹介、この余は本冊に当たられたく目次を掲げます。
茲にてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。(2014.12.07up)
『感泣亭秋報』十号 目次
詩 つばめ横町雑記抄(絶筆) 小山正孝4p
特集『小山正孝全詩集』
『小山正孝全詩集』全二巻に寄せて 山崎剛太郎7p
「感泣五十年」 八木憲爾9p
小山正孝の“抵抗” 池内輝雄13p
『小山正孝全詩集』刊行に際して――「あひびき」の詩を中心に 菊田守17p
いのちのいろどり『小山正孝全詩集』に寄せて 高橋博夫20p
『山の奥』の詩法――今あらためて立原道造と小山正孝の接点を問う 國中治22p
小山正孝についての誤解 三上邦康25p
花鳥風月よりも何よりも「人」を愛したソネット詩人小山正孝 小笠原 眞26p
「灰色の抒情」 大坂宏子37p
“私わたくし”的の『小山正孝全詩集』 相馬明文38p
雪つぶてをめぐる回想 森永かず子40p
「アフガニスタンには」に触れ想念す 深澤茂樹43p
心惹かれる『山居乱信』 萩原康吉46p
『十二月感泣集』から 里中智沙47p
『小山正孝全詩集』に接して 近藤晴彦49p
『小山正孝全詩集』作者の目 藤田晴央52p
『小山正孝全詩集』刊行によせて――小山正孝と田中克己 中嶋康博54p
『山の樹』から感泣亭へ 松木文子58p
造化の当惑――詩集『山の奥』のために 渡邊啓史62p
小山正孝の詩の世界9 『十二月感泣集』 近藤晴彦92p
最後の小説「傘の話」を読んでみた 相馬明文97p
「雪つぶて」に撃たれて 山田有策102p
「雪つぶて」作曲のこと 川本研一107p
正孝氏のジャケット 坂口杜実109p
お出かけする三角 絲りつ112p
詩 薔薇 里中智沙118p
詩 机の下 小山正孝「机の上」へのオマージュ 森永かずこ120p
詩 互いの存在 大坂宏子124p
詩 第二章 絲りつ127p
小山正孝の周辺4――戦後出版と紙 `島亘128p
昭和二十年代の小山正孝6――小山=杉浦往復書簡から 若杉美智子140p
感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見144p
2015年11月13日 感泣亭アーカイヴズ発行
問合せ先(神奈川県川崎市中原区木月3-14-12) 定価1000円(〒共)