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四季派の外縁を散歩する   第八回

四季コギトの第二世代 その2 詩人小山正孝


2004.8.15up/2004.8.30update

小山正孝氏一周忌に
『感泣旅行覚え書』2004.6/潮流社

 このたび詩人小山正孝の詩文集『感泣旅行覚え書』が刊行された。三周忌までに出版したいという夫人の強い思ひと(忌日は2002.11.13)、研究者であり最大の理解者でもあった坂口昌明氏の尽力で完成にこぎ着けた由を先頃御遺族より伺った。小山正孝といへば、立原道造が遺していった抒情気圏グ ループの雄として、後期『四季』の同人にもなり、また『四季』の弟分のやうな存在であった詩誌『山の樹』に参加した所謂“四季派第二世代”と呼ばれる詩人のひとりである。とはいへイロニーを身に纏った異色のみちゆきを戦後にとってゆく詩人は、謂ふところの漢詩文の造詣や盆景を統べる空間感覚を背景に、ひたすらに韜晦しつつ 女性の面影を慕って佇む趣きである。わたしには戦後詩を語る感性がないが、詩を書くことと対象として詩人を語ることは別の話だらう。本書について云へば、少年時代の東京原宿近辺や学生時代の 弘前の映像、そして詩人の出発当時に周りにゐた仲間たちの回顧は、手放しになつかしげであり、ひとりの現代詩詩人が“四季派第二世代”と呼ばれることを承知で、惜しみ なく若き日を回顧してゐるのだと、これは詩人の出発の背景を明らかにする初期小説群をそのまま掲げてゐることからいっても正しいと思ふ。なぜならこれが既に生前に企画されてゐたものであっ たからである。遺作集としての性格を強くもってゐるこの文集、ことさらに詩人時代の自己の創作に踏み入った回想だけは避けながら、結局青春時代の自分を活き活きと浮かび上がらせることに成功した構成は(もし著者の当初の意図通りふたつを混交させる構成をとってゐたら一層だが)、 四季派ならではの詩人の含羞をまた強く感ずる。

 巻頭の初期小説群四篇はいづれも、著者が旧制高等学校生活を送った東北弘前における、北方の晩夏から秋にかけての空気に触れるやうな好小品である。殊にも「臨海学校」「遅花(紙漉町のはなし)」の二編は、 立原道造の書簡(全集所載1939,11,11付書簡No.568)との関係において、研究者にとって必読の文献であったにも拘らずこれまで稀覯であったもの。立原道造の性をめぐっては、この書簡中にはしなくも吐露された暗いカオスなんぞについて考へるべきなのであらうが、小山正孝はその部分を健康者としてひきづってゆく運命を詩人として 担ったのだとも云へよう。小説家としての素質を存分にもちながら彼が結局詩作を選んだこと、それには立原道造の呪縛がどのやうに与ったのか、さきにも記したやうにここには彼自身の創作に対する自己説明がないのでわからないのだが、 渇望に崩れ行く感触のなかに抒情の純粋を却って危うげに認め得る彼の初期の詩作群の魅力は、これらの散文作品においても見ることが出来、むしろ可能性として潰えた散文創作の、デカタンの翳りのない才能には、正に小春日和の陽だまりの現場を見る思ひがするのである。

 さうして次に纏められるところの後年の回想録、「感泣旅行覚え書」の前篇は、そんな小説の舞台となった楽屋内の紹介から始めて、本書の中では最も屈託無く詩人の青年時代少年時代が回顧された部分といっていいだらう。時系列は一様でない。編者が「原典それぞれの独立性を尊重」した通 り作意を排して連載順になってゐるのであらうか。弘前での初めての下宿のことを、鴎外の「渋江抽斎」のなかに発見する件りがあるが、文中のYとは矢川写真館(「渋江抽斎」その九十三)のことである。尤も弘前に限らず、 喪われた風景のなかでとつおいつする詩人の後に就いて、わたしたちは地名など仮に実名が用いられやうとも、今では信じられない夢物語のやうな過去の風景の中で、ひとの情念だけがリアリティをもってもどかしく語られるのを見るにすぎない。それを承知で著者は語る。再確認は現実ではなく彼の中の想ひ出の地図の上で行 はれる。「人の生き死にも、すぎてしまえば、ふりかえってみて、なつかしいような混沌である。」と詩人は呟く。

 後篇に移ると今度は、詩の世界に限って、そんなすぎてしまったふりかへるべきなつかしい仲間について筆が移されるといふ訳だが、留意したいのはここに挙げられた人々が、戦前戦後を通じて抒情の純粋に、どちらかといふとまっしぐらに殉じていったひとたち、自身もまたどっぷり四季派の美意識のなかに浸かって ゐた頃に、それを是として交歓した同世代の詩人達(村次郎、小山弘一郎、牧章造、塚山勇三、村中測太郎、矢山哲治)であり、その消息であるといふことだ。さらにこれら俎板に上った人々は、戦後の四季派否定の風潮の中でなにかしら不遇の印象が翳となって纏わりついてゐる人々であるといってよい。 さうした詩人ばかりを集めて回顧してゐることがまた、貴重な回想資料であることと同時に何だかやるせない「なつかしいような混沌」の気持を起こさせる。『山の樹』の中心人物達、つまり執筆当時は存命中であった鈴木亨、西垣脩、中村真一郎や、大親友であったといふ松田一谷といった人々を一項に立てず、世間からは忘れられてしまった 詩人達を哀惜する心情は、

「村中測太郎詩集」を持ちたいという僕の願いは、「村中測太郎詩集」「木村宙平詩集」「能美九末夫詩集」「広田真一詩集」「小沢豊吉詩集」「薬師寺衛詩集」「小口光三詩集」など、 「四季」会員として投稿していた諸氏の数々の詩集を持ちたいということにつらなる(246p)

 との追慕の一文に極まってゐる。唯一当時生きてゐる人で挙げられた村次郎などへも、隠遁へのもどかしさを論ふも筆鋒は優しく、それを甘えではないのかとは一言も言はない。さて今回の文集に続いて批評集として『詩人薄命』といふ一冊が別に用意されてゐるとも聞く。批評の対象として眼光の鋭いこの詩人によって剔抉されるべき対 象とは如何なるものであったらうか。個人的には、詩人には生き証人の立場から、その後、さきの盟友西垣脩をはじめとして、交流のあった先輩詩人達、ことにもわが師田中克己との確執などに至る までも、詩人ならではのひっかかりのある筆遣ひを感じる文章であけすけに書いて頂きたかった。望蜀之嘆である。

 最後に。この本は第四次『四季』を発行してゐた潮流社から刊行された(因みに発行日6/29は詩人の誕生日である)。装釘をさきに刊行された詩人を論じた坂口昌明氏の研究書『一詩人の追求』(1987假山荘)に倣ひ、また潮流社刊行の詩集に特有の表紙(きらびき古染)を 「雪つぶて(再版)」「山居乱信」に続いて使用してゐるのは、本書を編輯された坂口氏ならびに別刷りで付された『感泣亭通信』でも唯一人書き下ろしの回想をものされてゐる潮流社会長八木憲爾氏の、詩人に対する好誼の 程に思ひ致すべきであらう。『感泣亭通信』には第1号と振られてゐる。2号を鶴首したい。


2005.8.30up/update

(つづき)
『詩人薄命』2004.12/潮流社
『未刊ソネット集』2005.7/潮流社

詩人小山正孝が亡くなってまもなく三年になる。昨年『感泣旅行覚え書』の書評をものしてから一年の間に、散文集『詩人薄命』(2004.12)ならびに、詩集『未刊ソネット集』(2005.7)の上梓をみた。ともに東京潮流社の肝煎り編輯に係り、今後『稚児ケ淵』の名で小説集も刊行される由だが、フランス 装の本冊を華奢な純白の函でくるみこんだ装釘は、その際にも踏襲されるだらう。三たび寄贈にあづかりながら、御礼もそこそこに紹介の続きが書けずじまひでゐた。その続きである。

 当初、遺稿詩文集として『感泣旅行覚え書』の一巻本が出たとき、私は既刊詩集を中心とした全集・選集が企図されないことに、この詩人の斜に構へたところのある筆致に似つかはしい肩透かしの気持ちを味はったのであるが、それが過小評価であったことは、その後順次公刊された、 「四季」の中心人物たちを内部から回想した散文集『詩人薄命』と、既刊詩集の舞台裏として筐底に秘められてあった『未刊ソネット集』との、質・量をみたことで明らかになった。坂口昌明氏の解説はもはや独壇場の感がある。ソネットの成立・受容史から本書の意義を説き起こさうとする氏の比較文学的薀蓄には此度も圧倒されるばかりだ が、「小山正孝」と聞いて本を手に取る詩の愛好者が最も知りたがるであらう関心についても、編者の気配りは、「堀辰雄」「立原道造」といった目次立てにとどまることなく、前回の『詩人薄命』では杉浦明平氏國中治氏の論文を、そして今回の『未刊ソネット集』においては、むしろ不適切かもしれない寺田透氏の四季派論を丸々再録 するといった成心において示されてゐる。この「付録 論評・さまざまな観点から」に収められた寺田論文、冒頭には確かに、小山正孝の詩が「その後の四季派」の特徴を示すために見本として三つも引 かれてゐるのだが、文章の最後は「立原道造の作曲術(ソネット)の模倣者に対する無効」を宣言した謂はば「切捨て論」で、つまり冒頭の引用はダシに、もっと云へば晒しものにされてゐる格好である。 それを承知で、詩人自身「こん畜生という感じだなあ」と苦々しく呟かせた論文をわざわざ収録するところがすでに挑発的である。何に対してか。もちろん寺田氏への論駁を一から始めるつもりがあってのお膳立てには違ひないのだが、初出の作品集にそれらを併録してみせることで、挑発はもっとはっきり 読者に向けられてゐるのだといっていい。さらに1963年当時のこととて、これ以降の詩人の創作活動にこの論文自体が影響を与へたかもしれない可能性をも示唆してゐるところ、泉下より詩人の苦笑 ひも聞こえるやうである。信頼関係のゆらがない坂口氏の悪戯心は、“熟さない”タイトルを付した申し開きの際にも表れて愉快だが、持論の「叩き台」として寺田透氏の文章を選んだのは、少し臭みが過ぎたかもしれないと、私などは思ふ。

ともかく編者は四季派を解明する鍵として、戦後再出発しなくてはならなかった四季派第二世代の詩人たちの変容に注目する。ことにも小山正孝といふ、詩の核に「恋愛」を堂々と据えて憚らなかった詩人について解説を試みること、そのためには四季派と決別したマチネポエティクの理論派押韻グループや、 宗教に昇華する純愛に殉じた野村英夫の四季派直系の含羞の様相との差異について論じられなくてはならないが、さきに「読者への挑発」と述べた編者の成心については、結局のところ本尊との関係に於いて、読者に再考を促すべく、次のやうな言葉で抗議してゐるのをみる。

「つまり小山に立原を求めるという誤りが不満や不安をかきたて、彼をエピゴーネンのレッテルで一括して済ますように仕向けた」

のではなかったか、と。  果たして、小山正孝が立原道造のエピゴーネンであったかなかったかに拘らず、栞『感泣亭通信』第3号では、発行者の八木憲爾氏が、

「巻頭の「水の上」がいい、と江口さんに言った。ついで「倒さの草」を褒めるのは、あまり好ましくない、と加えた。」(「小山さんの詩」)

と、『雪つぶて』を手に取った当時の思ひ出話を書いてをられる。以前にも記したが、私には<況や『雪つぶて』以降をや>の気持があって、詩人の語り口は現代詩風に韜晦しなくとも、例へば杜甫の心に寄せて語ることで充分に成功してゐるのぢゃないか、と云ひたげなこれまた成心がある。たしかに 生前の既刊詩集は、詩人自身がその都度に達した現代詩詩壇に対する回答なのであらうが、詩の生命など大凡百年の間隔で殉ずべきところに安んじたらいいと、私なんかは思ふ。このたびの二冊の散文集は、 さうした現代詩的韜晦が、詩人気質としてイロニーの仕業であったかもしれないことを、散文のポーズが図らずも語ってゐるし、また公刊を予期しなかった未刊ソネットでは反対に、舞台裏が赤裸々に曝け出され、説明を要しない。それが坂口氏同様、私には嬉しい。さうして本来小説家的資質があったにも拘らず、立原道造との出会ひによっ て運命的に詩作にひきづりこまれたこの詩人の、断念した可能性に言及するのが次の小説集、といふことになるのかもしれない。一部分は初期習作群として既に『感泣旅行覚え書』に収められてゐるので御覧頂 きたい。

詩集


2015.2.12up/update

(つづき)
『小山正孝全詩集』2015.1/潮流社

 小山正見様より御先考の詩業集成『小山正孝全詩集』の御恵投に与りました。御上梓のお慶びを申し上げますと共に、ここにても篤く御礼を申し上げます。
 これまで御遺族のバックアップのもと、小山正孝研究の第一人者を自他共に任ぜられた故・坂口昌明氏によって刊行されてきた潮流社の一連の著作集(『感泣旅行覚え書き』2004年、 『詩人薄命』2004年、『未刊ソネット集』2005年、『小説集 稚兒ヶ淵』2005年)。その体裁をそっくり襲ひ、このたびは気鋭の評論家渡邊啓史氏の協力を得て全詩集に相応しい解題を具へるに至ったこと。 さぞ泉下の詩人夫妻が無念の坂口氏を慰めながら感涙に咽んでをられるだらうと、偲ばれもすれば、これが文学出版から遠のいた潮流社から刊行される最新の詩書であることを思ふと、 感慨もまた格別なものがあります。

小山正孝全詩集

 さても早速解題を拝読しながら、私の大好きな『雪つぶて』時代の詩篇たちに対して、渡邊氏が下された的確な評価には快哉を叫ばずには居られません。
巻頭詩篇「水の上」に対して

「それらは内面の感情を投影した心象風景というよりも、むしろ内面そのものの象徴的表現として作られた風景のように見える。310p」
「(詩篇中の「叛逆」について)恐らくはその裏に悲哀の感情を含む、虚勢に近いものである。311p」

 この「作られた風景」は実作体験から申すなら「捨象された風景」のことで、四季派詩人ならではの表現の搾り出し方を指してゐるのでありませう。 「虚勢」もまた四季派詩人に特有な含羞に満ちた「身振り」の謂であり、タイトル詩篇「雪つぶて」に歌はれてゐる心情について、

「ここに歌はれている心情は、ある時期の詩人自身の切実な思い319p」

 であると、世の東西ロマン派詩人の出立期に烙印されるべき波瀾時代の痕跡であることを指摘し、

「ただ一人、詩篇「雪つぶて」の「僕」だけが、自身を閉じ込めていた殻を自らの手で破り、開かれた外の世界に走り去る。 その意味で詩篇「雪つぶて」は叶わぬ愛に決別して新たな一歩を踏み出そうとする「僕」の、出発の歌でもあるだろう。318p」

 と、四季派の詩人たちが自足する精神世界の箱庭を脱すべく、殻を破って企投しようともがく契機について触れ、戦後詩の世界を先取りした実存吐露の抒情が「草叢の恋人たちの主題」に結実し、 「後年の詩篇にも、さまざまに変奏されて繰り返し現れる。」と、はしなくも喝破されたこと。かうした分析を下し得る渡邊氏の読解には、 詩人の後期詩篇に対しても充分に信を置くことができるやうに思はれました。

「風景が単なる背景でなく、孤独な「僕」の内面の象徴的表現であるならば、詩篇「水の上」に於て一篇の構図は、風景を見る人物を風景の片隅に描き込む古代中国の山水画にも似て、 「僕」の内面を象徴する風景の中を「僕」自身が蒸気船で下ることになる。詩人後期の詩篇には、自己の二重化、多重化の主題が繰り返し現れる。 それらはある時期に突如現れたものでなく、此処に見るような詩人初期の傾向の発展に外ならない。311p」

「第二詩集に小山前期の詩的世界の確立を、また第三詩集にその「ソネット」形式の完成を見ることも出来る。そのことに小山は満足しただろうか。恐らく、そうではない。326p」

 時に露悪も厭はず韜晦をこととした愛の、或は盆景的な戦後詩篇を昧読するに当たって、かうした道標を私のやうな現代詩に迂遠な読者に対し示してくれたことに、 まずは感謝したい気持で一杯であるのです。

『小山正孝全詩集』TU全2冊 2015.1 潮流社刊 (T:6,318p U:6,379p) 19.3cm 並製 函入 7000円

【付記】
蛇足ながら望蜀を申し述べるならば、折角のこの機会に、若き日の詩人や常子夫人の俤、 交友関係を示すやうな写真の何葉かを、各巻の巻頭に掲げて頂けたらよかったといふ一点であります。拙サイト「田中克己文学館」と同様、 感泣亭ホームページ上での資料集の充実を庶幾申し上げます。


【付録】
     おもひで   (「朔」No.151小山正孝追悼号2003.5.16より)

 もう十五年も昔のことになる。当時本の上だけで名前を知ってゐた詩人の諸先輩方に自分の存在を知って頂かうと、そして何でもいいからお言葉を直接かけて頂きたくって、初めての詩集を編んだ。それに一枚表手描きイラストを付して送ったのである。概ね戦前からの詩歴のある「四季」「コギト」にゆかりのある方達ばかりだったが、 長短の受信状が返って来たことに感激した。何度となく言ふことながら、これが私の生涯一番の宝物であると思ってゐる。今ではすでに大半が不帰の人々であるが、詩集を献じた田中克己先生夫妻をはじめ、さういふ世代かはりの節目の時代に、尊敬する詩人たちの目に触れる形で詩集を上梓し得たことは幸ひであった。 忽卒に編んだ作物は装釘ともにまことに貧相なものであったが、御手紙のなかには心に残るものが何通もあって、たとへば芳賀檀さんから頂いた懇切な長文の激励に、舞ひ上がる自分を抑へることができなかったものである。また逆に一言文面ながら心に触れるもの書きをする人があって、 小山正孝さんから頂いた端書などはまっすぐに私のなかにとびこんできた(ともに未見の先生方ではあるので畏れ多くも今回“さん”付けで呼ばせて頂く)。

「夏帽子」ありがたくいただきました。清純な魔性のやうなもの。ひとつひとつ実に興味をそそられました。すばらしい詩集を送って下さって、その前にかうした詩集をつくって下さって・・・。造本も似つかはしい。(1989/1/7)

 穴があったら入りたくなるやうな御言葉であるが、なにより左隅に小さく「折あればお茶でものんで雑談したいですね」と記されてあって、この“伊東静雄風”の一言に私はひどく感激したのである。 それはとりもなほさず「一度遊びにいらっしゃい」といふサインだったに違ひない。端書は田中先生にも見せたらうか、忘れてしまった。次の詩集をお送りした時にも

・・・ルドンにあひに行きたいが、そんな頃にお目にかかれるかな、などと考へてゐます。(1993/10/20)

 と、今度はもう時節を定めてのお誘ひであった。しかるに私は詩人との面晤の機会をみすみす見送ってしまった。訳があったのである。
 さきの芳賀檀さんからの手紙をもって喜び勇んで田中先生にお伝へした時のことである。「そんなとこいかんでもいいよ」と、思惑に反して先生が露骨な嫌悪感を示されたことに私は驚愕した。 そして御二人が戦後、同じ職場であった大学の内紛から釁端を啓き、遂に絶交に至った事情を知ったのだった。芳賀邸訪問を断念して悄気こんでしまった後では、小山さんにも、そしてまたこれも温かい自重要請の文面が心に染みた大木実さんにも、休日に遊びにゆける距離であったに拘らず、訪問の意を伝へることができなくなってし まった。なに今から考へると黙って会ひに行ったらよかったのだが、律儀といふのか私も大層純情だったのだ。結局私が警咳に接し得たのは、先生の性格を知り抜いて、距離を置きつつ敬し続けた杉山平一先生と、九州から上京されるとて私が阿佐ヶ谷宅まで同道することになった、先生とは初対面の高森文夫さんだけだった。
 おそらく同人勧誘に当って話の進め方が強引だったのだらう、当時田中先生が主宰してをられた第五次の「四季」といふのは、「四季」といふよりむしろ「コギト」の後継誌「果樹園」の同窓会的性格をもって、旧同人の賛助を殆ど得るところ無く三年余で終刊してしまった雑誌であったが、 さしづめ小山さんなども同人参加については杉山先生同様打診を受けたには相違無い。そこでなんかかかあつたのだ。これはまた田中先生の日記を私が復刻した時に頂いた返書であるが、当時の事情を偲ぶ。

 「夜行雲」お送りいただきありがたく存じます。なつかしい思ひで拝読。さまざまな思ひが去来いたします。なつかしく、阿佐ヶ谷での田中さんや奥さまとの日々。感涙といふものか。晩年はうまくいかなかっただけにひとしほです。・・・(後略1995/10/9)

 この時田中先生既にゐまさず、会ひにゆかうと思へば晴れて小山“先生”の許に御挨拶に伺へた訳である。といふか、今回需めに応じてこんな追悼文を引きうける位なら、つい昨年までいつでもいいから思ひきって逢ひに行ったらよかったのだ。潮流社の八木憲爾社長とも詩人は懇意だったから、これまでの御無沙汰を詫びれば拘り なんぞなく温かく迎へて下さったに違ひない。私もまた田中先生が亡くなると間もなくみまかってしまった夫人に代って、聞き損ねた確執の原因やら交友にあたってこれまで見聞された名物エピソードの数々 など、お伺ひしたいことは山ほどあった。ただ次第に私の方にも、そんな話を聞きに御邪魔するのは如何なものかと、気兼ねの分別心も生じてきたのが実のところである。

 詩人から頂いた端書は、いつも真申にシールが貼ってあって、その下半分にコメントが片寄せられてゐた。配置を意識して満洒なものだったが、シールは詩人を論じた唯一の研究書「一詩人の追究」(坂口昌明著1987暇山荘)に使用された版画挿絵(フランス・マゼレール)をコピーしたものであっ た。してみると詩人は、自らを肴にユニークかつペダンティックに論じまくった唯一の書が刊行されたことについて些かの感慨を抱かれたものか。果たして御子息正見様に問ひ合はせたところ、 著者坂口氏とは執筆に当って“肯定もしなければ否定もしないスタンス”をもって見守られ、ただその挿画に関する相談にはのってゐたやうだったといふ。これは例へば自作詩が分析された研究書に対して不満の意を漏らされた丸山薫とは聊か違った反応である。ところが“現代詩不感症”の私には、その本に懇切に 解析されてゐる詩人小山正孝の戦後の道行きが、今一つ判らない。つまり著者坂口氏謂ふところの「詩の形式をとった存在論の一様態」といふ、シュールレアリスティックな盆景世界に探求される実存の様相 が、理解できないのでゐたのである。西垣傾を筆頭に「四季・コギトの第二世代」と呼ばれる方々の戦後の抒情変節については、私自身同時代を生きてゐないための理解不足も手伝ひ、恥かしいことだが積年の不明を露呈したまま歇んでゐる。山をもって盆景になぞらへるといふのは確かに方向として逆であらうが、さういふ風景に対して行はれ る呪縛的な意識操作に、知的モダニズムが多分に必要とされる位のことは私にも了解される。しかしルドンを観にいきたいとは終ぞ思ったことがないのであった。

 仄聞するところによると、詩人は「四季」をしのぶ会合に参加された折にも、例へば若い人達から立原道造との関係をしつこく尋ねられるのに閉口して、「いったいぼくを訊問する気かい?」と、 早々に退席されてしまはれることもあったやうに伺ふ。現在の詩人の詩境についての理解と位置付けが訪問する側にもきちんとできてゐないとお会ひしても少なからず失礼な儀に及ぶことになるやもしれない。 私は「雪つぶて」から一直線に立原道造へ遡るのでなく、むしろ「山居乱信」においてふたたび清澄な内的世界を取り戻すに至った事情について、それを漢詩の和訳にかかる問題として先行詩人からもひとつ別の影響を受けることはなかったのか、具体的に云へば、同じ東洋文学畑で共訳書もあった、 晩年には疎通を失った五年先輩に過ぎない田中克己との関係なんかも知りたいと思ってゐた。たとへば「手負ひ」と「孤鹿」において三好達治の影響を共に分かち合ったところの。
 あるひは田中克己が「巨」や「オルフエエ」といった詩において示した時間空間について。

 小山詩を面と向かって論ふのではなくとも、若い日にお好きだった詩の数々についてお会ひできたらいろいろ伺ってみたいことはあったのである。
 もちろん気楽な思ひ出話半分、お伺ひできればそれで充分であったのだが、そのやうな料簡をもってお会ひすることに、私は次第に物怖じを感ずるやうになってしまったやうである。 まことに果敢ないこととなってしまった分別に対する後悔の想ひを今、ささやかな唱和をもって責めふさぎたい (2003.4.7)。

仙境

              

小山正孝氏に捧ぐ

里山は やがてひと雨ごとに和菓子のやうに彩られ
甘みのない 抹茶の色にくろずんでゆく
日向のあちこちでみづたまりがさわぎだし
それはそのまま 巨大な春の食欲には違ひない
盆石のやうな山頂からめざましい緑をながす一峰に登ると
僕は地形図の余白に 蟻の行列のやうな詩を書いた
現代の山水画に賛をするつもりで

雪つぶて

左:潮流社 再版(函)1984 右:赤坂書房 初版1946


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