(2008.11.14up / 2015.09.25update)Back

四季派の外縁を散歩する   第十四回

四季コギトの第二世代 その5 杉山平一先生のこと (承前)

 國中治様より「文藝論叢」71号(大谷大學文藝學會)、および「四季派学会会報 平成20年春号」を、お送り頂きました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 詩誌『四季』に拠った主要詩人たちの生成の原理を、今日一番に理解してをられる國中先生(以下國中さん)でありますが、『四季派学会会報』のエッセイでは、長らく四季派学会の代表理事を務められた重鎮、故鈴木亨氏の戦後の詩作を「四季派」からは遠い詩風として論ひ、

「いかに厳然といかに冷淡に詩作から阻まれようとも、それに執着し、その屈辱的な現場に身を置き続けることによって、鈴木氏は研究者としての強靭な求心力を保持しえたのではなかったか」

 とまで踏み込んで、日本近代詩史をはじめとする研究業績とは釣り合はなかった詩業を擁護し、読者に評価を委ねらてゐます(「詩作と研究──鈴木亨氏の場合」)。
 また、同時に杉山平一先生についても、このたびの論文「『四季』最後の詩人(1)」の劈頭で、

「詩誌『四季』と密接な関係を持っていること、にもかかわらず杉山がいわゆる『四季』派に属する詩人でないこと、この二点に異論を唱える向きはまずはないだろう。」

 とも語ってをられます。

 もっともこれは、詩人としての杉山平一が「四季派」のイメージする一般概念に収まらない、独自の抒情を見事に開花させたといふ意味であって、もっと云へば、この通説は、かつて戦後詩論家によって、戦争詩を書いた「戦犯詩人」の選別がなされた際、「免罪符」が付与される文脈において語られ始めたものといってもいい。すなはち、「杉山平一は花鳥風月にそっぽを向いてゐて立派だ。同人ではあったが戦争と自然とを同等に考へる連中とは別物だ」とし、彼を「戦犯詩人」の集まり=「四季派」の泥船から救ひ出すことを目論んで発せられた言葉だったのですが、結果的に、戦後詩壇の抒情詩全否定の流れに対して最初にストッパーとなった言説なのであります。

 これについて当の杉山先生は折々の席にて、「自分は伝統的抒情を描けなかっただけであり、戦争詩にしても(無名で無力な自分には)どこからも依頼がなかったから書かなかっただけである。」と謙遜され、敬愛する師友達から自分ひとり現代詩の陣営に招じ入れられて語られることを、むしろ寂しいことのやうに面映ゆがられたのでありますが、実のところは先生も、四季派と呼ばれる詩人達に憧れはあったにせよ、自身の詩想にはもちろん確固とした自負があったのであり、その上で、戦後詩壇を久しく壟断してきた評論家詩人達の善意の思惑をよそに、雑誌『四季』とそこに拠った詩人たちを擁護し続け、月日はめぐり、たうとうその名を冠した学会の初代会長に推されるに至ったといふ訳であります。

 「四季派」といふレッテルから政治的な悪意を取り去り、新たな解釈のもとに意味づけを行ってゆくこと。「学会」の立ち上がった理由はまさしくそこにありますし、その会長として存命詩人のなかから三好達治唯一の弟子である杉山先生が選ばれたのは、系譜として真っ当であるとともに、代表する立場の人間が身内褒めとはならない詩風であることが、外部に向けても最も相応しい適格者が選ばれたことを表明してゐるもののやうに思ひます。杉山平一を「『四季』最後の詩人」と表題に記した國中さんもまた、三好達治を引き合ひに、杉山詩を固定観念から自由にするために、本論の目的を次のやうに語ってをられます。

<単純は最善、シンプルイズベスト><誠実にして単純、平明にして簡素>、こうした言説はたしかに杉山詩に対する絶好の形容のように見える。しかしこれらは、ほとんど三好達治が詩に求めたものであった。同じ志向性を持つ三好と杉山の表現になぜ落差が生じたのか。それを解明しようとするアプローチを、この措置(※上記した通説のこと)は封印しかねない。一見それにふさわしい評言の鋳型に作品を嵌め込み、それ以上の探索を放棄するような怠惰な読みはやはり慎むべきだと思う。(24p) 

 かつて伊東静雄から、機知に富んだ詩ではなく「「よもぎ摘み」といふ力を抜いた詩」をすれ違ひざまにほめられたことを、寸鉄人を刺す批評として自戒とされる詩人ですが、詩を鑑賞する際にも、腑に落ちる「落ち」より胸に残る「余韻」を品格の上位に置かれたやうであります。つまり自身の得意技を最上とはしないのです。もう少し詳しく申すなら、杉山平一といふ詩人は、明晰な頭脳ゆゑの明晰さの限界の了知と、そこから望まれる未知領域への憧れとの間に揺曳する詩人であった。しかしながら決してあちら側へ踏み込んでゆくことはないところに含羞と決意とが同居する詩人であった、さう云へるのではないかと私は考へてをります。

 國中さんは、杉山平一を四季派ではないとしつつ、詩人がかつて小説家に脱皮すべく「一時期かなり意欲的に取り組んだ散文作品」において顕した、他に見ぬ特質について語ってゐます。それは安易なヒューマニズムではなく、むしろ未来派が齎したところの機械信仰による精神衛生――「人間を生かす機械」といふ視点でありました。  未来派は御存知のやうに、ファシズムにも直結する可能性ある思想ですが、

「機械ないし機械化の勝利が人間ないし人間性の敗北を意味するわけではないという点(25p)」

 を押へた上で、國中さんは詩人の人生観が開陳される「教養小説群」のなかで、主人公達のつぶやきに、杉山詩の手法同様の「人生に対するアングル」が自家解説されてゐる趣きを見逃しません。「矛盾した二面を抱へ込む微妙な段階に」ゐる主人公は、「機械」における「機械VS人間」の対立ほか、たとへば続く中編の「動かぬ星」のなかでの「経営者VS労働者」といふ図式、また以下掲げるやうな所謂“帝王学”に、(自分はさうなれぬ)といふ立場から目覚める条りにも現れてゐるやうに思ひます。

 一人の相手と話す場合と、多くの人の前に立つて話す場合と、全くちがつたものであるやうに、一人で仕事をすることと、多くの人を働かすといふことは全くちがつてゐる。実によく働く人であるのに、指導者に抜擢すると、一向に間に合はぬ人がゐるかと思ふと、少しぼうとしたやうで大して間に合はない人間が、上に立つと見ちがへるやうに、よく人をうごかすものがゐた。ひくい見地でものを見てゐる人は、見とほしがきかないために自分一人でしか仕事ができないのだ。いつでも高い見地に立つてひろく見てゐる人はその反対である。
 そして、彼は、一般に、九〇%の人が、自分だけでなら仕事をするけれども、他人をうごかして仕事をするのは苦手であるらしいのを知つた。彼もまたその一人であつた。他人を使ふことは耐らないことだと思つた。
 つまりは彼をも含めて九〇%の人は小心なのだ。小さなことをくよくよと考へ、心配してゐるのだ。自分一人なら仕事をやれるため、率先垂範などといふのであつた。これは誰でもやれると思つた。
 彼は、でつぷり太つて、大きなことばかり考へてゐる人に憧れる。ピストルを使ふ人より、大砲を使ふ人の方がいい。しかし真似をしたい一〇%の人は実際仲々見当らなかつた。
 偉人の伝記を見ると、こまかいことに気がつくとほめてあり、また大まかでぼうとしてゐるといつてほめてある(62p)。

 或はもっと直截に“宿命”を語る「暗い手」において

 そして人は勝手気ままな行勤は許されないと彼は思つてゐた。周囲によつて限定され、はじめて意志、こころといふものは湧出するのであると思つた。お百度参りの願かけのやうなものは、自らを律することによつて、自らのこころを安定させるものだと思ひ、彼は共感をいだいてゐた。水のやうに我々にはかたちはない。周囲の限定によつて流される道を得、盛られるかたちを得るといふのが、彼の持論であつた。かかる限定によつて、我々の意志は具現されてゐるのであるから、宿命といふものも考へられないではないとも彼は思つてゐた。

 と、“自由”概念の位置づけを主人公に語らせてをり、これはもう余韻の美学といふより、敗北主義を向かふに回して己が身を株守する節度として語られてゐます。

 私はこんなところから、彼が『四季』の詩人であるばかりでなく、「四季派」といふ言葉を再定義できるのなら、つまり己の心情を自然現象に仮託し、知的操作を施して表明する抒情詩人をひっくるめ、固有雑誌名から離れて「四季派」と呼ぶことが許されるのならば、杉山平一を「四季派の詩人」と呼んでもよいやうにも思ふのであります。  抑制の美学は廉恥の徳であり、謙譲をこととする述志にほかならない。それはひろくコギト派、日本浪曼派にも共有の、謂はば戦前口語抒情詩の財産ですが、「周囲の限定」を当時の社会体制にまで政治的に解釈するならば、杉山平一が単なる自由を謳歌して愧じるところのない民主主義現代詩詩人などではないことは、もう明らかな事なのであります。『全詩集』下巻のあとがきでも紹介されてゐる、伊東静雄の「別の山にのぼってバンザイしている」とか、鶴見俊輔の「これらを支えている思想は私などの思想とはちがうものです。しかし独自の場所を占めていることをみとめます。」といった評言をもち出すまでもないことです。

 もっと直接に、例へばアンソロジーの後ろ向き肖像写真を引き合ひにして、当時戦争詩人として叩かれてゐた田中克己を名指しで讚めたり(「虚像」75p)、戦中は「ローマン派」なんて邪揄の詩を書きながら、戦後は一貫して保田與重郎を論難せず、評価されてゐたのは、私が杉山先生の謦咳に接して伺った、最も嬉しかった言葉のひとつでした。 詩作品に即していふなら、さうした消息が、國中さんが次に指摘された「木ねじの美徳」といふところに収斂してゆくやうです。 この「木ねじ」が最初に現れる「感傷について」といふ詩について、國中さんは、

「社会人としての良識に反するようで、まるで幼児が玩具を弄ぶように自分本位で容赦がなくて、機知的発想の新鮮さ・面白さに耽溺している感が拭えない・・・三好達治が選評の中で<選者として大変気になるところ(詳しくは述べ難い)がある>と述べていたのは、あるいはこの点だったのではないだろうか。  倫理的に潔癖で社会常識を重んじるところのあった三好の性癖に鑑みると、そう推論したくなる。・・・(以後)<公序良俗に反する行為>が詩想の核となる作品を、 杉山は作っていない。」

 と述べ、『四季』に投稿して没にされながらも、最初期から特徴を示してゐた詩人の表象として「木ねじ」を重要なキーワードとして挙げてをられます。私自身はこの詩については、 もっと別の云い方で「モダニズムにそんなに傾倒するんぢゃない」といふ三好達治ならではのメッセージが感じられるやうに思ひます。  ここで気になるキーワードはだから「木ねじ」ぢゃなくむしろ「角砂糖」かもしれません。安西冬衛みたいな真似をするんぢゃない、モダニズムを表象する当時のアイテムたる「白い無機質」を安易に登場させて、それをオチにしたりすることに、若い詩人たちが詩壇擦れしてゆく危険を三好達治はみてゐた。後年、彼は大岡信の詩篇をやり玉に挙げてそれこそ綿密にやりこめてゐますが、このたびは新人を委縮させぬ配慮と「詩と詩論」「現実」時代の盟友安西冬衛の手前、言葉にするのを憚ったのかもしれません。  さういへば伊東静雄も溶けてゆく「岩塩」のモチーフを即物主義的な習作に書いてゐましたが、これと決別することで詩人として開眼しました。杉山平一もまた、「木ねじ」を逆回転させてモダニズムへ拡散していってをかしくない嗜好を持ちながら、師の訓へを守り精進することで、生真面目な資質にうちに矯めていったのではないでせうか。  それは一面、現実的には「会社の跡取り」てあった彼の境遇のなさしめた、必然的な行き方でもあったでせう。國中さんが「木ねじ」に着目されたのは流石です。  さうしてこれを「美徳」と表現されましたが、私は「述志」と解してゐます。それは続いて引かれた「日日」といふ詩、「木ねじ」が正回転する世界において顕著だからであります。

   日日

夏の海に仰向けに浮いて 青く遠い空を眺めてゐた
満身の力をこめて 一心に木ねじを締めつけてゐた (『夜学生』所載)

 少年は、こみあげてくる感情を怺へるために空を仰いだのといふより、むしろ空を仰いだために青春に感じ入り、悲しみのやうな感情に領されたのではないかといふ感じがするのですが、悲しみにとはどこにも書いてありません。書いてはありませんが、

「満身の力をこめて 一心に木ねじを締めつけてゐた」

 といふのは、「四季派の詩」篇のなかで立原道造が「木をゆさぶり」、塚山勇三が「木柵をゆらしてゐた」心情と一緒だと、私は直覚してゐます。 さういふ「発散させずに角を矯める」詩句が書けるか書けないか、それが「四季派」の詩人に共通する、含羞の素質を判別する試金石だとすれば、それは実際に雑誌『四季』に拠ったとか、 信州の自然に詩的故郷を設置したとかとは、本来あまり関係がないことであるはずなのです。

(未完)


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