([1999.07.00]up / 2011.11.29update)

『杉山平一全詩集』1997年刊 編輯工房ノア 上巻 \7210 / 下巻 \7350 /  詩集『希望』 2011年刊


杉山平一先生のこと

夜学生 第一詩集「夜学生」と色紙

 私にとって杉山平一先生は、田中克己先生が第5次の「四季」を廃刊されたときに、新たな活動拠点として私にしめされた「季」といふ同人誌の、謂は ば精神的な支柱となってゐたひとであった。

先輩方が守ってこられた雑誌の温かい雰囲気を、まま年若い放言で壊してゐた私が、それでも気安い気持で皆さんから迎へて頂けたのは、 この二人目の雲の上の存在である先生が醸し出す気取らない雰囲気のおかげと云つてよかった。詩の先生ではあるが田中先生同様、杉山平一先生からも詩作上の直接な指導をして頂いたことはない、 しかし発表した作品についてはかいなででない、作者の眼目を指摘しては頷かれるやうな温かくも鋭い感想を合評会に参加しない者にも度々与へられ、 勘違ひをする私は僭越にも先生に理解されたといふ気持で一杯になり自惚れた返礼のお手紙など書いてゐたことである。しかし少ない機会であったが実際にお話を伺ふ中で一層はっきりと判ったことは、 良いと思はれないものは決して良いとは申されない反骨の志が杉山先生の中にあって、例へば現代詩詩人がこれまで杉山先生を四季派の範疇から善意で引き雑さうとしてきたことに対して、 反対に四季派を堂々と謳ひ擁護する団体の会長を引き受けるといふやうな行動になって現れたりした。その詩に見られる明確さと余韻といふ一見矛盾するものへの同時志向も、 映像手法の影響といふより詩人の反骨ゆゑの卓抜な平衡感覚からきてゐるもののやうに思はれるのである。

 杉山先生の詩を云々するときに、特に映像文化によって培われたセンスにのみ焦点が集まるきらひがあるけれども、その余韻、 つまり映像からだけでは十分説肌できない部分について、若々しいヒューマニズムで高らかに埋められたものよりも、苦い人生の不条理の泌み込んだ、 杉山詩にとってはむしろ傍系にあたるやつないくつかの作品に私は一入の感慨を覚える。この度の上下2巻の集成をもってあらためて杉山先生の詩業の大きさは明らかになったし、 先生の詩の真骨頂が戦前戦後を通じていささかもその本質を変へることなく持してきた明確さへの激しい希求であることは疑ふ余地がない。けれども、 明確さへの志向がたどりつく「前進、進歩」に対してさへ苦い反省を示されるところは、戦後現代詩の批評精神の出発点とは一線を劃した、 むしろさういふ当世のの詩壇にまかり通ってきた「もっともらしい正義」に対する自らも含めた「戒め」といったやうな誠実な気分が感じられ、 「傍観者」のスタンスで「世に背を向けたがる癖」をもって声高でなく示されてきたものは稀有な詩人の志操であったと私には思はれるのである。

 現実の先生が傍観者であったとは思へない。それは抒情詩の持つ宿命的な本質やあるひは辛酸をなめてこられた先生の人生とも深い関係があるのかもしれない。 もっともらしい正義とは戦前においては軍国主義であり、戦後においては無責任な批評であり、私的に解すれば父君を象徴とする杉山先生の合理的精神とその世俗における失敗の歴史、 またそんな父子に対して容赦ない風評をしたらう無情な世間といったものであったかも知れない。しかし人生における徒労といふことを、 かやうな清潔なウィットとまた時折登場される先生御自身に顕れるユーモアとともに気取らぬ自然体で表現されてきた戦後の歩みについては、 詩人自身が明確さへの希求において度々敬愛をもって言及してきた詩人竹中郁、彼が戦後に歩いてきた以上に、乾燥したヒューマニズムで迫求された独自の境地のやうに思はれるのである。

 「全部は見せないこと」「決して振りかざさぬこと」「後退しながら前進すること」といった杉山先生の詩作上での格率が、例へば伊東静雄においては「よもぎ摘み」といふ、 ことさら淡々とした作品を選んでの評価として示されたこと、以前の私にはそれが意図的な彼らしいほめ殺しの逸話とも受け取った。しかし「砲身」といふ近作や、 昔の拾遺詩篇「三浦のこと」など全詩集に満遍なく点在する作品の数々を新たに読み、戦争詩を書かなかったといはれる先生が、扇動や反戦詩とはまるでスタンスの異なる「戦争詩」を書きつづけてこられ、 かつそれが私らのやうな世代に遺産として残された意味については、やがて代表作とは別にもっと考へられてよいと思ったのである。

[1999.07.00]ホームページ開設時up  1997.09.20  「絨毯」42号(1998.8)所載


詩集『青をめざして』

2004 編輯工房ノア  \2300+税

(2004.09.03 掲示板記事より)

 本日出版社を通じて杉山平一先生より新しい詩集をお送り頂いた。このホームページでも篤く御礼を申上げます。矍鑠たる先生にお供して、 立原道造の墓のある谷中多宝院から近傍の感応寺に立ち寄り、澁江抽斎の墓碑を案内させて頂き、ついで鴎外荘まで御一緒したのが二年前の風信子忌。その後、 今年の初めに録音された、すこしお言葉が辛さうな様子の講演を収めたテープを矢野敏行兄より送って頂き、ふたりして健康を案じてゐたのだが、なに、 この度の新著なのである。詩篇には衰へのない詩人独壇場の「反転のユーモア」を見、あとがきに「自己韜晦の滲むサタイア」を見て、まったく安堵致しました。 けだし浩瀚な「全詩集」を刊行されたのが七年前のこと。一体如何なる決意在りしやと心配する向きをよそに、当時先生ご自身が(矢野兄より仄聞するところ) 「死ぬ気がしないんだよ。」と、自身を面白をかしく不思議がってをられたんださうな。さてこのたび卒寿を迎へられるにあたって、 これほどの明晰な思考の詩人が自らの生涯を振り返った際に、斯様な途方に暮れたつぶやきを拾って表題作に選んだ意図は何ぞや。

 青をめざして

ただ目の前のシグナルを
青のシグナルを見つめて
脇見をしないで
歩いた
どこへ行くのか考えたことも
なかった
青をみつめて
青だけをみつめて
わたしは歩いていった
どこが悪かったのだ
みんなどこへ消えたのだ

 「青」とは自ら殉じた純粋の色。それは抒情であり、正しさであり、決して自分を裏切る筈のないものの総体に流した涙の謂であったに違ひない。 しかしこのひとの好きな鉄道用語「シグナル」を使用することで、詩人は一抹の人為的な「当意」の存在を読者に指示してみせる。ついでこの寂寥をだ。 明晰であるが故の明晰さに対する自己嫌悪は、「手ぶらやはだかでは浮くようで取りつくしまがない」と述懐する、戦後の自由をむしろ持て余す気味の倫理的詩人にとって、 持ち歩くべき「ぴったりの重さ」の「悩みと悲しみ」(詩篇「重さ」)でもあるのだらう。昔の抒情詩人はそのやうな「ぴったりの重さ」を、持ち歩くのではなく、 むしろステッキのやうにそれに支へられて絶え絶え生きる鬱屈のポーズをとったものだったが。そんな「四季派」を徹底的に擁護する杉山先生は、自分は四季派ではない、 四季派に入れてもらへない、と御自身で吹聴されたりなんかもする。自らが四季派の可能性を新しく拓いた事に、かくまで謙遜であるのは関西人であるからである。


『杉山平一詩集』

2006思潮社 \1223

(2006.12.29 掲示板記事より)

 一瞬改訂版かと思ったら、それは1984年に出た土曜美術社版の『杉山平一詩集』でありました。 当時われらが杉山先生の詩がまとまって読むことが出来る単行本が出た嬉しさとともに、思潮社版にどうして迎へられないのか、 戦後現代詩の系譜優遇の方針に釈然としなかった若い日の自分が思ひ起こされました。あの土曜美術社版の新書版は実にかゆいところに手の届くやうな人選で、 戦前に活躍した中堅詩人達の詩業を押さへ、詩集愛好家も随分裨益を蒙りましたが(尤も戦争詩を書いた人たちは除かれましたが)、 一旦あれに収められてしまふと当時ポピュラーで権威も感じられた思潮社版の文庫で出ることは放棄、みたいな雰囲気があったのも事実です。 そして時がくだり土曜美術社版から出ることのなかった大木実、小山正孝といった詩人達が一足早くこの思潮社版に収まり、このたびは杉山先生、実力でその二文庫制覇の偉業を遂げられた、 といふ感じです。尤も裏表紙に印刷される一言コメントが示すやうにこの文庫、純正抒情詩人に対しては抒情の限界を前提に辛口の姿勢で接するのが伝統ですから、 今後、四季・コギト・モダニズム系列の抒情詩人たちが続いていかほど収められるかとなると、需要・魅力とは関係なくまだまだ難しいかもしれません。
 さても御歳92才の先生にはお慶びとともに御体の御自愛を切にお祈り申し上げるばかりであります。


『杉山平一 青をめざして』

安水稔和著 2010 編輯工房ノア  \2300+税

(2010.06.06 掲示板記事より)

 杉山平一先生より安水稔和氏の文集『杉山平一 青をめざして』をお送り頂きました。最初手にした時、以前刊行された同名詩集の再版かと思ったのですが、 これは安水氏による、先生についてこれまで語られた小文や講演録、そして途中からはなんと先生御自身との対談をそのまま収めた内容になってをり、読みながら2006年、 四季派学会が神戸松蔭女子学院大学で行はれた際に拝聴した先生の面影が髣髴してなりませんでした。このたびの一冊は実に、 この対談に於いてお二人の語り口をそのまま写しとったところ、そしてそこで取り沙汰される詩人達の名が、今ではあまり名前も上ることの少ない戦前の関西詩人達に及んでゐるところ、 そんなところに出色を感じました。これまで杉山先生の回想文に出てきた「四季」の詩人達のほか、竹中郁を軸にして、福原清、亀山勝、一柳信二といった海港詩人倶楽部の面々の話は珍しく、 また杉山先生が、鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれ、北園克衛の詩は好きだったけど断ったとの回想(129p)など、初耳にて、 もし実現してゐたら、アルクイユのクラブの詩人達との交流は、もしかしたら同じくマダムブランシュ同人だった田中克己先生の場合とは異なり、 杉山先生を敷居の高い「四季」投稿欄ではなく、アンデパンダン色の強い「椎の木」や、社会的関心を強めた「新領土」に続く道筋へと誘ったかもしれない、なんて想像を逞しうしたことです。

杉山葉書

「神戸顔って言うのか、ちょっと目が細くてね、色白でね、なんとなく神戸やなって感じの顔はあるんですね(95p)」 「天気のいい日、煙突の煙が真っすぐ上がっていく日があります。たいがい風で靡きますけどね。そんなとき、あらっ、福原清の世界だなあと思うんですね (108p)」

 などの人物観察、日本語の定型詩はソネットのやうな音的な韻ではなく、箍として語調に制約を設けた短詩形にならざる得ぬことを看破したり、抒情詩人は 「北」とか「冬」とか名前でも郷里でも北方志向で無いとカッコ良くない、うけない、なんていふことを、憚りなく云ってのけられるところ、著者の安水さんはそれを、
「杉山さんの目っていうか、ものの面白がりようっていうか、ものの本質を見るその思考過程 (76p)」

 と評してをられますが、眼光の鋭さは、最後の第4部「資料」における杉山先生の、

「中央の人はね、地方の文化育てよとか、おだてよんですわ、お世辞ばかりいうて。(227p)」とか、

「ええやつはみんな死んどる、悪いことする奴はみんな帰ってきた、という思 想がね、ぼくは一部にあるんですねん。戦争への批判ね、戦争を悪く言うものに対してね、もうひとついう気なかったなあ。(228p)」

 との、関西弁による述懐にも極まってゐます。それもその筈、このインタビューは50年前、1961年の録音を起こした大変古いものなのですが、これを読んで、 杉山先生の詩を現代詩人達が四季派と切り離して評価しようとする態度になじめない気持をずっと持ってゐた私は、詩をかじり始めた当時に立ち戻って、 25年前25歳だったいじましい青年の肩を先生自らが叩いて下さったやうな気持を味はひました。 この第4部、「七人の詩人たち」へのインタビューは以下の関西詩壇の先人たち

山村順(当時63歳)、喜志邦三(63歳) 、福原清(60歳) 、竹中郁(57歳) 、小林武雄(49歳) 、足立巻一(48歳)、杉山平一(47歳)

 に対して行はれた、既に歴史的資料に属する貴重な証言です。もし当時のテープが現存するものなら、あのやうな端折った編集稿(1961.11「蜘蛛」3号所載)でなく、 当時の肉声をそのままCDに起こして是非公開して頂きたいものです。第3部の杉山先生との対談も、けだし先生がこれまで著書で何度となく回想してきた話に時間を割かれ、 初めて話題に上るやうな「触れたい人に触れぬまま時間切れ」になってしまったやうですが、このインタビューも、「それから、時代の傾斜。戦争。神戸詩人事件。それから。 (217p「小林武雄氏へのインタビュー」)」なんて説明の一文を以て片づけてしまふのは、勿体ないといふより、申し訳ない気もしたことです。

 「四季」の流れをくむ関西の同人誌「季」の矢野敏行さんとは、連絡のたびに杉山先生の記憶力と明晰な精神についてが話題に上り、驚歎を同じくしてをります。 先生が、私の青年時代に勤めてゐた上野公園の下町風俗資料館まで、「一体どんなひとかと思ってね。」と枉駕頂いたときのことを思ひ起こすたび、それが四半世紀前のことにして、 先生には既に古希でいらしたことにも、今更ながら愕然とするばかりです。
 お身体の御自愛専一をお祈り申し上げますとともに、ここにても御礼を述べさせて頂きます。ありがたうございました。


詩集『希望』

2011 編輯工房ノア  \1800+税

(2011.10.11 掲示板記事より)

杉山平一先生より新刊詩集『希望』の御寄贈に与りました。刊行のお慶びと共に、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
「季」誌上ですでに拝見し、見覚えある詩篇はなつかしく、ことに拙掲示板(2007年 7月18日)でも紹介した「わからない 100p」といふ詩の思ひ出が深かったのですが、 今回まとめて拝見することで、あらたに「顔 14p」「ポケット 16p」「真相 22p」「反射 24p」「一軒家 26p」「天女 34p」「不合格 44p」「待つ 48p」「ぬくみ 67p」「処方 71p」 「答え 88p」「うしろ髪 106p」「忘れもの 108p」などの名篇を記し得、これらを近什に有する杉山先生九十七年の詩業に対し、真に瞠目の念を禁じ得ぬところ。 編集工房ノアの再びの詩集刊行のオファーも宜也哉と肯はれたことです。

「ポケット」      杉山平一

町のなかにポケット
たくさんある

建物の黒い影
横丁の路地裏

そこへ手を突込むと
手にふれてくる

なつかしいもの
忘れていたもの         16p

「天女」

希望

その日 ぼんやり
広場を横切っていた

そのとき とつぜん
ドサッと女の子が落ちてきた
すべり台から

女の子は恥しそうに私を見上げ
微笑んでみせた

きょうは何かよいことが
ありそうだ         34p

「ぬくみ」

冷たい言葉を投げて
席を立った 男の
椅子に ぬくみがしがみついていた 67p

「わからない」

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんは兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につゝかゝりました
お前はバカだな

妹は犬の頭をなでゝ
よしよしといゝました

犬の名はジョンといゝます  100p

前にも申し上げたことかもしれませんが、「杉山詩」にみられる、裏側からの考察・逆転の発想。その基底に横たはってゐるのが、攻撃的なあてこすり批判精神でなく、 防御姿勢をくずさぬヒューマニズムであること。――それがまた裏側からの考察・逆転の発想であり、且つ、手法は明快な機知を旨としつつ、 その思惑はいつも明快ならざる人生の「何故」に鍾まる。――「杉山詩」に接する毎に心に残るのは、つつましさや諦念といった、ロマン派が去った後のビーダーマイヤー風の表情、 微苦笑しながら決意する市井の一員のそれであります。それは戦争が始まる前から詩人の本然としてさうだった。 さらにそんな「分かった風の評言」こそ詩人が警戒した褒め殺しであってみれば、詩編の最後には、 ときに心憎いサゲの代りに個人的な意思が「強いつぶやき」として故意に付されてゐるのを看ることもある。――それが、機知に自らいい気にならぬため、 新品をちょいと汚して用ゐる、詩人一流の「含羞」の為せる仕業ではないのか、さう勘ぐったりすることもありました。 もちろんそんなところが、詩人杉山平一がモダニズムを発祥とする戦後現代詩詩人ではなく、恐竜の尻尾を隠し持つ「四季派」現役の最後の御一人者として、 日本の抒情詩人の正統に位置づけられる所以なのだと私は信じてをり、史観を同じくする若い読者の一人でも増へてくれることを庶幾して、 このホームページ上で四季・コギト派の顕彰を続けてゐる訳ですが、今回新著に冠せられた『希望』といふ表題詩編の、まるで震災に対する祈念であるかのやうないみじき結構も、 そのまま抒情詩人たちの評価がくぐってきた長いトンネルの歴史のやうに私には思はれ、感慨ふかく拝読したのでした。

「希望」       杉山平一

夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればいいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな          12p

今回の詩集のあとがきには、ふしぎなことに「四季」のことも、師である三好達治のことも触れられてゐません。ただ布野謙爾といふ、戦争前夜に夭折したマイナーポエット、 高校時代に仰いだ先輩を先行詩人としてただ一人、名指しして挙げられたのを、私は杉山平一を詩壇の耆宿としてしか認識してゐない今の詩人達に対する不意打ち的な自己紹介として、 カバーを剥した時に現れる本冊の意匠とともに大変面白く感じ、彼が自分の処女作に先だちまず世に送り出したといふその遺稿詩集を読んでみたいといふ、 ささやかな「希望」が起りました。これを著作権終了資料であることをよいことに誰でも読めるやう本文画像を公開させて頂きました。 詩も良いですが、同人だった「椎の木」に限らず、モダニズム・四季派・日本浪曼派など当年の抒情詩壇との接点が綴られる日記と書簡に興味津々、付箋をつけながら看入ってゐます。

それから時を同じくして、杉山先生を奉戴する同人詩誌「季」95号も合せて拝受しました。矢野敏行さん舟山逸子さんなど長年の仲間のなかでも、 杉本深由起といふひとが杉山平一の真正の後継者として、二番煎じではなく歴史を捨象した女性ならではの感性を以て精進を積んでをられることは特筆に値します。 散文で我を主張してゐるのをみたことがないのも奇特のことに感じてゐます。合せて御紹介。

「サヨナラ。」   杉本深由起

やっと書いた サヨナラを
みつめていたら
目の中で 水中花のようにゆれた

そのうち
 ひらひら
  ひらひら

便箋から浮かび上がってきたので
息を止めて その下に書いた
ちいさな ちいさなマルひとつ

石みたいに 重たい             「季」95号 2011.9

ここにても御礼を重ねます。ありがたうございました。

(2011.10.13up / )


杉山平一先生追悼追悼号 『朔』174号 『季』97号 『季刊びーぐる』第17号 (2011.11.29up / )


追悼号 『朔』174号 投稿日:2012年10月19日(金)

杉山平一

圓子哲雄様より「朔」174号を拝受。
 5月に長逝された杉山平一先生を追悼する文章の数々を読んでは、あらためて先生のひとがら人徳に触れ得てまことにうれしくなつかしく、 ことにも奥田和子氏の回想は同人誌「季」への参加時期が交差するやうにすれ違ってゐる私にとって、私には度々励ましのお便りを下さった小杉茂樹さんや、 小杉さん編輯に係る「東京四季」への屈折した思ひも伝はり、興味深く拝読。杉山先生が誰にも特別の思ひをおこさせる方であることをあらためて認識させる、 羨ましくも貴重な証言です。また杉山平一・村次郎の“歴史的邂逅”をセッティングされた圓子様が、「両先生」の間を汗して周旋される様子が手に取るやうにわかる御文章では、 タクシーで汽車を追ひ駆け、飛び乗る終盤の条りなど、いつもながら思ふエピソードの名手の手際に感嘆せざるを得ず、楽しく拝読しました。

 今号にはさきに追悼された坂口昌明氏の回想続編、その真打といふべき小山常子氏のエッセイも収められ、夫君とその後輩親友との関係について、 いちばん身近から御覧になっての思ふところを記されてをります。まだまだ沢山あるに相違ない今まで封印された思ひ出話を、ぜひ今後書き継いで頂きたいものです。 続く相馬明文氏の追懐も、坂口さんの向日的でおのれを枉げぬキャラクターが立ち上がってみえてくると同時に、相馬氏の「第三に同志的太宰研究者に申し訳が立たないと感じ」といふ、 気概の礼節が潔い。鈴木亨氏を回想する一文とともに今号は四季派追悼一色の感がふかいです。

 写真は平成6年8月、鳥羽貞子氏が記されてゐるところの「東京と関西の四季派をきっちり結んだ合宿」の朝に推参し、写真撮影にちゃっかり先生の隣へ飛び入り参加した一枚。

『朔』174号
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上 圓子哲雄様方

邂逅(詩):杉山平一 1
杉山平一さんのこと:村次郎 2
杉山平一の直線性:佐々木甚一 3
杉山先生と私 往復書簡:奥田和子 6
詩人・会津人・杉山平一先生を悼む:山田雅彦 10
杉山平一先生の詩の匂い:鳥羽貞子 12
杉山平一さんを偲んで:萩原康吉 14
杉山平一氏を偲んで:小笠原 眞 16
杉山平一先生とご一緒した三陸海岸:圓子哲雄 19
坂口さんを哭す:小山常子 24
坂口昌明先生のこと:相馬明文 27
奈良、再び:テッド・ファウラー 30
空の色(詩):加藤眞妙 40
カレンの歌声のような(詩):萩原康吉 42
蓮の花(詩):柳澤利夫 44
普段着の先生:小林憲子 46
実は金子光晴こそ恐るべきリアリズム詩人なのだ:小笠原 眞 48
一人旅でめぐるフランス 1:石井誠 60
編集後記 66


追悼号 『季』97号投稿日:2012年10月21日(日)

関西四季の会より「季」97号をお送り頂きました。
 97といふ、杉山先生の享年との符合、まことにふしぎでなりません。皆さまの回想みな興味深く、一人ひとりに「自分だけの先生」が生き付いてゐる、 さすが精神的支柱として詩人杉山平一を仰いできた同人雑誌だけのことはある、先生の折り目正しい温かさを偲ぶに相応しい追悼号となったことと、半ば身内の院外団(?)ながらお慶び申し上げます。

 公私を峻別されてゐた杉山先生の日常が、このたび御長女初美様の証言で初めて人の知るところとなり、三方を本で囲まれた2階の書斎の存在(やっぱりあった)もあきらかになりました。 (文中、“布野さんに関するお便り”云々は私のことかもしれません。) 天声人語を毎朝音読される条りは、なんとなく「オワリ!」ではなく「ヲハリ!」といふ語感を感じさせ、 ガラクタを棄てようとすると顔をしかめて大きく手を振る身振り、などなど、何ともいへぬ、ユーモアと申しませうか、ほぼ一世紀を生き抜いてこられた杉山先生のエピソードには、 私の世代には覚えのない筈のなつかしさを感じさせます、それを見守られる初美様の温かなまなざしに涙ぐみました。

訂正:手皮小四郎様よりお便りあり、私のサイトでの『布野謙爾詩集』公開を知った手皮様が、 荘原照子と布野謙爾をめぐる人脈について杉山先生まで直接お便りさし上げた際のことを指したものと判明、謎がとけました。 筆記不如意の杉山先生からの返信は初美様の代筆と思はれ、尚のこと手皮様のことは印象に残ってをられたのでありませう。

 さうして同人皆さまの「自分だけの先生」の回想を一覧して思ったのは、杉山先生への全幅の愛情を以て凭れかかることのできた詩人といふのは、 さきの奥田和子氏を措けば、やはり杉本深由起氏に最初の指を屈する、といふことでせうか。「季」以外の人脈を知りませんので断定しませんが、 杉山先生のモテモテの実態が今後(本日の偲ぶ会で?)明らかになったら面白いことと思ってをります。冗談はさておきその杉本氏の回想ですが、 いろいろの愉快なエピソードが初めて耳にするものばかりだったのはもとより、作品の上では杉山詩の一番弟子だと思ってゐましたが、 実生活の上でもやっぱり先生の方からも心を許してをられた詩人だったことが、もう手放しで分かる文章で、このひとならではの行文のうまさも、 このたびは感じさせないほど心をこめた内容に、御長女の一文と好一対の読後感につつまれたことでした。

 そして今回の編輯方にして長年私を詩人として見守って下さった舟山逸子氏がピックアップされたのは、一枚の杉山先生のカット。誌面には故意に載せなかった由ですが、 杉山先生の絵が「季」の表紙を飾りはじめた頃のもので、私が同人になった時の扉絵だったので殊更記憶に焼きついてゐる一葉でした。 少年なのか老人なのか不明ですが(私はなぜか『ムーミン谷の十一月』に出てくるスクルッタおじさんを想ひ起こします)、追悼詩の冒頭を少し読んだだけですぐに分かりました。 数あるカットのなかであれに目をつけられた舟山さんが嬉しかったし、終連は追悼詩の白眉でせありませう。

カット

一枚の絵から      追悼杉山平一 : 舟山逸子

水際へ消える石段
麦藁帽子の少年がつくる
波紋は 広がって
広がって 幾重ものまるい輪だ

直線と機械の世界から
やがて曲線へ

まっすぐ歩いていると
ゆるやかに まるく曲がって
いつのまにか
もとに戻っている
それがあなたの描いた
無限だった

光へと手を伸ばし続けた
その長い生涯

わたしは 手を伸ばす 水際で
深く顔を伏せて 静かに
あなたを偲ぶ
まるい波紋をつくっていく

 今回の追悼号、皆さまの文章に杉山先生の大阪弁のイントネーションもそれぞれに偲ばれ、まだまだコメントしたくなるやうな充実ぶりですが、 さぞや泉下の先生も苦笑ひされつつ、安堵もされてをられることだらうと存じます。本日の「偲ぶ会」に間に合ひ、追悼号の真打に相応しい雑誌に拙文も寄せさせて頂いたこと、 たいへん名誉に存じます。

『季』97号
発行連絡先:〒569-1022 大阪府高槻市日吉台3-4-16 舟山逸子様方

感應寺

終りよければ・一匹の蜂(遺稿):杉山平一 6
窓 追悼杉山平一(詩):矢野敏行 10
叱咤激励・色紙(詩):奥田和子12
一枚の絵から 追悼杉山平一(詩):舟山逸子 18
杉山さん、お世話になりました:高階杞一 20
宝塚の詩人:中嶋康博 24
杉山さんの「敗走」:山田俊幸 29
父と暮らせば:木股初美 34
現代詩人賞受賞詩集『希望』について(日本現代詩人会2012詩祭スピーチ):以倉紘平 39
杉山平一詩抄 42
苺のショートケーキを食べながら:杉本深由起 50
光を信じて:舟山逸子 56
質問の手をあげながら:小林重樹 60
杉山先生の思い出:紫野京子 64
杉山先生を偲ぶ:高畑敏光 66
杉山平一先生の「死生観」:奥田和子 69
詩人杉山平一のこと:矢野敏行 75
杉山平一氏と関西四季の会関連年譜 78
後記 85

写真は平成15年3月29日、風信子忌行事の途次、谷中多寶院近くの感應寺で澁江抽齋の墓碣銘を前にして。

宝塚の詩人 中嶋康博 

 私が杉山平一先生から頂いたお便りは、自ら詩人を任じてゐたころ(?)には年に数通、文字がびっしり書かれるばかりでなく、瀟洒なデザインの施された、 宝物になるやうな葉書を多く頂いた。殆どこちらからお送りした作品に対する返信であったが、わが先師田中克己とは異なり、杉山先生は全ての詩篇に目を通された上で、 幾つか具体的に論っては「好悪」の「好」のみを示された。「悪」についても書いてあるのだが、諷されるだけなので、 斯様な御返事をもらった駆け出し詩人は嬉しくなってすぐに勘違ひしてしまふ。先生御自身が、 詩集を出すたび評判のよかった作品の星取表を作って読者からの返信を楽しんでをられたといふ逸話の持主であることを知り、をかしくおもったことである。

杉山平一

 田中先生の主宰した第5次『四季』が終刊して、行き場を失った身元が引き受けられるやうに『季』に参加させて頂くことになった時、 主宰者の皆さんが精神的支柱に仰いでゐた杉山先生を頼りに私も詩を書くことにし、といふより杉山先生しか眼中になく傍若無人の有様であったから、これは一体どんな御仁かと、 心配された先生が幾分の責任も手伝って、美術館巡りの序でにわざわざ上野にあった職場までお立寄り下さった。 私は古本屋でたうとう手に入れた初版本の『夜学生』を女学生のやうに抱きしめ、胸ときめかせて「宝塚の大詩人」を待ち構へ、サインをもらったと得意であったが、 先生も私の人間が他愛もない子供であることを悟って安心されたやうである。関西に帰って何が話されたのかもとより知る由もないが、 以後、私は『季』の先輩詩人たちが守り抜いてきた四季派的気圏の下で自由に詩を書かせて頂き、我儘放題に発表させて頂いたのであった。

 だから二冊目の詩集『蒸気雲』を出してあっさり同人を抜けてしまった時には、皆さんから大層失望されたけれども、 本人はこれで方々から詩の依頼も来るかと傲岸な期待に高を括り、さっぱり反応が無いことに今度は勝手に失望して、詩人として名を成すことを諦めてしまった。 そんな私のことを、編集方の舟山さん矢野さんは、なほ「院外団」のひとりとして温かく見守り、声を掛け続けて下さったし、杉山先生もまた、 先師の詩業顕彰に軸足を移し始めた私の事を認めて下さり、四季派学会を通じて私を発表者に推薦して下さったり、田中克己の青春詩作日記を翻刻した際には、 たった百部の自費出版本のために序文を書いて下さったのであった。四季派学会においてもまた「院外団」にとどまった私に対して「懇親会には出てきなさい」などと御厚誼を賜った、 思へば帰郷して後、このあたりがインターネット前夜の詩人的な孤軍奮闘時代として懐かしく思ひだされる。

 自らの詩の中核に据えてゐた「四季派の箱庭」が壊れたのは、転職に失敗して生活が荒れ、ネパールのひとり旅に出奔したこと、 帰郷するために免許をとり車を運転するやうになったこと、そして帰郷し、上野のミューズ(弁財天)の庇護から放たれたから(笑)である。 戦前の四季派詩人と同じ視界が失はれたことの分析についてはさて措き、とまれ車に乗るやうになって、中国地方への出張の帰途、私は一度杉山先生の宝塚の御自宅に突然お電話を差し上げたことがあった。 後にも先にも先生に電話したのはこの一度しかない。杉山先生が詩人としての御自身を公に置き、最も身近な筈の『季』の同人であっても自宅には招かず、 公私をはっきり区別して人付き合ひをされる詩人であることを、仄聞してはゐたのであったが、この今を逃せば御自宅にお邪魔する機会はないと、 ふたたび劇場前で「出待ち」する少女よろしく高速道路のサービスエリアからどきどきしながら受話器をとったのである。アポなし訪問があのとき迎へ入れられなかったのは、 やはり先生の信条だったのか、単なる御用事だったからなのかは分からない、ただ以後さういふ詩人的愚挙は慎むやうになった。立原道造のことを評してをられたやうに、 杉山先生もまた御自身が出逢った誰にも一人づつにかけがへのない思ひ出を分かって下さる人徳をお持ちであって、私は初めの頃、 それに甘えるべく詩への思ひを熱く語った。その延長線上に、尊敬する詩人の家におしかけることはむしろ一種の礼儀と心得る勘違ひがあったことも否めない。 さういふ弟子筋をつくらない先生の威儀に接して深く愧じ入ったことだった。

 やがてインターネットの時代に入り、雑誌とは異なる媒体上の一国一城の主として、ささやかなホームページにこれまでの成果を載せて発信することを思ひついたが、 以後四季に関はる一項を書き継ぐたびに手紙を添へて杉山先生にコピーをお送りした。掲示板を通じて識り合った同好の士や昔の詩人の御遺族との横のつながりを得た私は、 もはや孤軍奮闘の昔の自分ではなかったが、それでも杉山先生に自分の書いたものをみて頂き、何某かのお言葉を頂くことが相変らず最高の喜びであり、 一番のモチベーションであったことは変らない。といふか、この頃すでに杉山先生は絶海に浮かぶ最後の氷山の如き存在であった。 最晩年に四季派学会の國中治さんからのオファーがあってもう一度、先生を前にして先師の戦争詩について講演をさせて頂いた。 神戸松蔭女学院大学の別棟会館での一日の思ひ出が忘れられない。

 杉山詩についてはすでに多くの論考がものされ、私があらたに書き加へるべき新機軸の発想はない。これまでホームページに上してきたものは、 その都度これが見て頂く最後のものになるかもしれぬといふ思ひを以て書いた。再び生活が流れ始めた現状において、先生を追悼する真打雑誌に相応しいことが書けぬまま、 とりあへず「院外団」の思ひ出を匆卒に記したが、2008年に書いた詩論もお送りしたまま中断してをり、不日継穂を見出して書き継げたらと念じてゐる。(8月5日)

悼詩

わが師田中克己は ハリー彗星を見ないで死ぬだらうと予言して
晩年に小さな小さな再来を天文台で確認した
杉山平一先生は300年ぶりにやってくるといふ金環日蝕を
来週どんな感慨を以て迎ふるべきか 考へてをられたにちがひない

人生は予測できない――ひとは自分が主人公だと思って生きちゃゐるが
死んでく時には みな誰かの脇役として死んでゆく
いつか命日となるその日を うかうかと過ごしてゐる私は
訃報のあとに訪れた「凶兆」の意味を探しあぐねてゐる

先生が体験した忘れられない惨事と 先生が語ったささやかな希望
新しい主人公たちに 暗喩や直喩のレンズで指し示されたクラリティは
木漏れ陽に笑まふ 地上の不思議な翳かたち

直接は見ることができないもの
みなが空を仰いでゐるときに 俯くことのできる人だけが知ってゐる
希望を語ることの 本当の意味を そよいで諷する一篇の詩          (2012年5月21日作 のち改稿)


追悼号 『季刊びーぐる』第17号 投稿日:2012年11月 3日(土)

びーぐる

舟山逸子氏より御教示頂いた「季刊びーぐる」第17号(特集杉山平一 人と作品 2012.10)を取り寄せて、 さきの回想と対をなす木股初美様の「父の最期」を始めとする、寄稿文の一つひとつを興味深く読んでゐる。
 以倉紘平氏や佐古祐二氏が、杉山平一の詩を近代詩の括りに封じ込めてしまはふとする多くの追悼文の論調に抗議する文章を書いてをられること、 むしろそれなら私達こそそのやうな「優れた近代詩にたち戻って詩を書き継がねばならないのではないか」と提起してゐることに非常な共鳴を覚えた。 戦中戦後から今に至るまで、杉山詩が古びることなく保ち続けてゐる今日的意義について、冨上芳秀氏が「進化し続けてゐる」と敢へて主体的に立言した真意は、 書き手としてのシンパシィにあったんだらうし、否、 さうではなく最初から「すごい詩」を書く詩人であって作風を些かもぶれさせることなく生涯を全うされた詩人の軌跡は「進化」などと呼ぶべきものでないと批判した國中治氏の真意もまた、 読み手としてのシンパシィを以て語ってゐる、さういふ違ひに過ぎないことのやうにも思はれた。さうして私には、戦時下の詩人について細見和之氏が記された次の一節に、 杉山平一といふ詩人の本質の一端をあらためて納得させられる鋭い指摘を感じた。

「つまり杉山は『夜学生』刊行に先立って書いていた「反戦詩」を『夜学生』出版に際しては、「親兄弟が一所懸命戦っているときに人間的に遠慮すべきだと思って」削除していながら、 昭和19年にいたってなお、「港」や「球」といった作品で窪田般弥(1926年生まれなので、当時18歳前後である)らに強い印象を与えていたのだった。しかも、 それを長らく戦後の詩集にも収めてはいなかったのである。

 これらの一連の杉山の振る舞いには、庶民的な誠実さと、同時にそれをはみ出すような知識人の揺らぎが感じられるだろう。あくまで庶民の立場を倫理としながらも、 そこに収まりきることもできず、それをしかし積極的な価値として積極的に自己主張することもしない…。その振幅のすべてを視野に収めて杉山の詩業を受けとめることは、 私たちが状況のなかで詩を書いてゆくことの意味を考えるうえで、きっと示唆的であるに違いない。」15p

 この、成った作品ではなく、詩人の側にいつもわだかまってゐたに違ひない「知識人の揺らぎ」が、収録インタビューにも見られる小野十三郎に対する物の見方の親近感と、 保田與重郎や伊東静雄に対する畏敬の念においては、心情的擁護といふ形で敗戦を境に逆転して顕れてゐることに、ことさら注意してみたらいいと思ふ。 詩人独特の判官贔屓(ヒューマニズム)の表れであり、冨上氏が「今を生きる心」と言ひ換へてをられるやうな、現在進行形の今日的意義を私達に感じさせる平衡感覚と呼んでもいい。 四元康祐氏が見事に集約してみせたところの「眼の詩人」「笑ひの詩人」「生活の詩人」といふ、出来上がった作品の側から見た詩人の特質と共に、詩人の節義ともいふべき、 「四季」の詩人の四季派詩人たる貴い所以を、私はそんなところに感じてきたのである。


戻る Back

ホームページへ戻る Top